東アジア激動の中の息長帶比賣命
よく知られているように後漢の滅亡(西暦220年)以降、東アジアは群雄割拠の激動の時代を迎えることになる。息長帶比賣命の御子、応神天皇が語る歌から古事記の時代背景を読み取ることができた(詳細はこちら)。古事記の応神天皇紀はおよそ西暦300年前後の東アジアの激変を反映していると読み解いた。
ならばその一世代前の時代にも少なからず反映されていると思われる。それが息長帶比賣の故郷凱旋の記述であろう。国が滅びると「ヒト・モノ・カネ」が漂い始める。その波動が極東の、ヨチヨチ歩きの国へ届く時になったのであろう。
既述したように仲哀天皇は国家戦略の転換期に遭遇した。彼はそれまでの方針「言向和」を基盤とした倭国内の統一「倭国連邦言向和国」の確立に向かい、残る「熊曾国」に目を付けようとする。だが取り巻き達(百官?)はそれとは異なる東アジアに目を向けようとしたのである。三国(魏呉蜀)が活発に動き、漢の支配から解き放たれた朝鮮半島の各国が覇権を争う時代である。
そんな時に倭国の中心は何処にあったのか、その位置を示す羅針盤である伊邪那岐・伊邪那美が生んだ筑紫嶋、その場所が最も重要となって来るのである。中でもその一面である「筑紫国」が示す場所こそ東アジアの、極東の発展途上国の有り様を浮かび上がらせることになろう。
些か余談ではあるが・・・魏の史書に記載された「倭」の既述とは無縁の話しなのである。筑紫嶋を現在の九州全体と見做す解釈では戸惑いしかないであろうが、魏の使者が見た、見せられた場所とは全く異なるのである。更に見た国の状態は、使者にとっては都合が良かっただけのことである。
脅威にならない蛮夷の未開国であった。古事記が記す倭国は、谷間を棚田に変え、苗代・田植えの水田稲作を行い、丹を使って女性は眉を引き、絹を紡ぎ、染色する国であった。勿論武器も…古事記は語らないが・・・。極論的ではあるが、他国の史書の信頼性に捕らわれて、それだけで当時の「日本」を論じる事自体が的外れと言える。未開の地もあれば邇邇藝命が降臨した地もある多様なところだった、のである。
・・・さてさて、話がドンドンとずれそうなので元に戻して…前記で「筑紫訶志比宮」の場所を「筑紫岡田宮」も併せて求めて来たが、「筑紫国」全体に関わる配置をあらためて描いてみようかと思う。それは激動の中故郷に凱旋して帰国した息長帶比賣命の物語の中に埋め込まれている。
息長帶比賣命
この大后の系譜について少し整理してみると、父親は息長宿禰王、日子坐王の子孫でその母親、祖母が丹波系である。一方母親の葛城之高額比賣は天之日矛を遠祖に持つ多遲麻国の出身である。詳細は応神天皇紀で記述の予定であるが、何故多遲麻系が葛城に飛ぶのか不思議であるが、実は彼女の母親、由良度美が「當麻」に居たと推定される。
<息長帶比賣命系譜>(拡大) |
更に「高額」は當麻の間近に位置するところと推定した(現在の直方市永満寺の「鷹取山」比賣はその西麓にある福智山山ろく花公園辺り)。
このように丹波、多遲麻、當麻そして葛城、山代と盛んな交流がなされていたことが推測される。
この背景の中で生まれたのが「息長帶比賣命」であり、倭国が大国への道を歩み始めた時の状況を示している。
図に息長帶比賣に関連する系譜を示した(天之日矛関連は応神天皇【説話】に記載)。この系譜のインプットは穂積臣を遠祖の持つ開化天皇と新羅の王子、天之日矛となる。
それに多遲摩、當摩そして旦波の息長一族が絡んだ系図となっている。いや、実に壮大、と言うか壮観な交流図である。もっとも拡大解釈されている通説からするとちっぽけな話しなのであろうが・・・。
何れにせよ新羅及び息長の血統を強く引き継ぐ比賣であったことは間違いのないところであろう。息長一族が何処から来て丹波に住み着いたのかは不詳であるが、彼らもまた渡来して来た一族であっただろう。
本題の筑紫の話題へと移ろう。新羅、百済と回ってご帰還されるのであるが、ご懐妊の身、「大鞆和氣命・亦名品陀和氣命」(後の応神天皇)の出生は端から思惑ありげな記述がなされている。それはそうとして・・・既に投稿済みの部分もあるが、加筆・修正を加えながら述べることにする。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
故其政未竟之間、其懷妊臨產。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、御食其河邊之時、當四月之上旬。爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、以飯粒爲餌、釣其河之年魚。其河名謂小河、亦其礒名謂勝門比賣也。故、四月上旬之時、女人拔裳糸、以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。
[かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになって裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになってからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになった石は筑紫の國のイトの村にあります。 また筑紫の松浦縣の玉島の里においでになって、その河の邊で食物をおあがりになった時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取って飯粒を餌にしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小河といい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません]
筑紫末羅縣之玉嶋里
一読のごとく地名の羅列である。一つ一つ紐解いてみよう。「筑紫末羅縣之玉嶋里」に含まれる「末羅」とは何を意味するのであろうか。通説はほぼ全て「末羅」=「松浦」とする。読みの類似からだが、「末」の意味とは掛離れている。地形象形としての「末羅」の解釈は…、
…となろう。「淡海」に面したところ、それは現在の北九州市小倉北区赤坂辺りと推定される。
古より九州の玄関口であり、赤間関(現下関市)への渡し場となっていた。だからこそ数多くの事件を歴史に残している場所でもある。何故ここまでこの地に集中してきたのか、それはこの地の東方は山と海によって隔絶されているからである。
垂仁天皇が山代大國之淵之女・苅羽田刀辨を娶って誕生した落別王が祖となった「小月之山君」が居た山を「手向山」に比定した(これも別れの意味を含むかな?)。「小が尽きる処」である。赤坂を過ぎると尾根の稜線が海に届き、ドン詰まりの状態、そこから先は…出雲国になる。この狭間の地は幾度となく登場する。現在の交通機関は問題なく行き来できるようになっているが、古は全く状況が異なったのである。
末羅縣=連なっている最後の縣
…となろう。「淡海」に面したところ、それは現在の北九州市小倉北区赤坂辺りと推定される。
古より九州の玄関口であり、赤間関(現下関市)への渡し場となっていた。だからこそ数多くの事件を歴史に残している場所でもある。何故ここまでこの地に集中してきたのか、それはこの地の東方は山と海によって隔絶されているからである。
小河
垂仁天皇が山代大國之淵之女・苅羽田刀辨を娶って誕生した落別王が祖となった「小月之山君」が居た山を「手向山」に比定した(これも別れの意味を含むかな?)。「小が尽きる処」である。赤坂を過ぎると尾根の稜線が海に届き、ドン詰まりの状態、そこから先は…出雲国になる。この狭間の地は幾度となく登場する。現在の交通機関は問題なく行き来できるようになっているが、古は全く状況が異なったのである。
「小(河)」=「小(倉)」に繋がり、更には「小(文字)」に繋がる「小倉」の地名の古に繋がるものと思われる。確かに「小」と深い関係にあった、そして現在も続いていることはわかるのであるが、何故「小」なのかは不詳である。「小」の文字を地形象形として紐解いてみよう。「小」=「ハ+亅」に分解すると、「山稜と川が流れる谷間」の象形が浮かんでくる。
<小河・伊斗村>(拡大) |
図に示したように比婆之山と延命寺川が流れる谷間が作る地形を「小」と表したのではなかろうか。
この山稜のそれぞれの端にある丸く飛び出ている地形が「小」の両脇の「点」を表していると読み解ける。
これこそが「小」の由来と思われる。小文字山の「小文字焼き」の動画、ご参考。
下図をも併せて眺めると、近世に至るまで本州と九州を繋ぐ、真に主要な場所であったことが伺える。
古事記の時代に既にそうであったことを伝えているのである。「小倉」=「小の谷」となるが、比婆之山の谷が由来なのかもしれない。そしてこの谷を登れば黄泉国に辿り着く、かもしれない・・・今は自衛隊の駐屯所か・・・。
伊斗村
余りにも有名な「鎮懐石」の説話、その場所が「筑紫國之伊斗村」である。
伊(小ぶりな)|斗(柄杓の形)
(拡大) |
現地名は北九州市小倉北区常盤町辺りである。「常盤」=「常(トコ)磐(イワ)」=「トキワ」である。鎮懐石とは関係ないようだが・・・。
出雲国の「大斗」淡道の「由良能斗」そして筑紫の「伊斗」全てが柄杓の地形象形である。
この「斗」を用いて無名の地の在処を記述したと解釈される。実に巧みな手法を編み出したものである。
が、それが読めなかったのだから草場の影で安萬侶くんも苦笑い、ってところであろうか。
御子を産んだ地名「宇美」駄洒落か…いえ、ちゃんと地形が刷り込まれている…、
宇(山麓)|美(谷間に広がる)
…「谷間に広がる山麓」と読み解ける。上図に示したように足立山から北に延びた稜線の麓を示す。「美」の解釈に一工夫を要する。「美」=「羊+大」であり、「大きな羊」から常用される美しい、見事な、美味いなどへと転化して行ったと解説される。確かに通常の意味で通じないわけでもなかろう。しかし、もう一歩踏み込んだ解釈があるのではなかろうか・・・。
<羊> |
図に「羊」の甲骨文字を示した。この文字の上部を二つ並んだ山稜に見立ててることができるのではなかろうか。その下部は谷間から広がるところ、山麓を表し、それが「大」と読み取れる。
上図から判るように比婆之山(並んだ端の山)の谷間、正に黄泉国から続く谷間の先に広がる山稜の端を示している。真に「美」な地形象形ではなかろうか・・・。
漸く多数出現する「美」の文字の真っ当な紐解きに行き着いた感じである。「貝」の文字解釈に甲骨文字を使ったが、連想不足であった(関連箇所は修正済み…の筈)。
この地は足立山山塊の北西麓を占める現地名の「富野」(安萬侶コードで紐解けば「山麓の坂にある野となる)に当たる。古代において、そして後代の交通機関の未熟な時代まではこの地が如何に重要な機能を有していたかを歴史に刻んでいると思われる。
<筑紫国>(拡大) |
足立山西麓及び北に延びた二つの山系(比婆之山)の麓が中心の地であったことも理解できる。その地こそ「筑紫国」であったと導くことができるのである。
「小」はその「比婆之山」が作る谷間に由来を持つ。中心の場所は異なれど「小倉」に秘められた「筑紫国」が今、浮かび上がって来たように思われる。
既に述べたが博多湾岸は律令制後の「筑前」であって「筑紫」ではない。古事記の言う「筑紫」は「豊前」とされたのである。
邇邇藝命の降臨場所しかり、また冒頭の魏の史書の解釈しかり、全て律令制後の国譲りに振り回されたものであろう。胸形(現在の宗像)以外の全てを日本列島に拡散させた国譲りである。
息長帶比賣命の働きで次期の応神天皇紀には多くの渡来を促すことができたと伝える。衣食住に関わる人々、おまけに論語まで先生付きで迎えることができたと言う。「言向和」は影を潜め、内なる高まりへと進んで行ったと述べる。邇藝速日命が叫んだ「虚空見」の国から仁徳天皇の「蘇良美都」の国へと変わる時であった。