忍熊王終焉の地
息長帶比賣(神功皇后)が身重でありながら新羅に向かい、筑紫に戻って御子を「宇美」で生む。生まれた御子は次期天皇を約束されたもののようで、古事記はひたすら御子が天下人であることを告げる。都合の良い時は、神憑りで・・・。
そう言う時には必ず謀反人が登場、敢無く処分されるという筋書きである。ただ、今回の謀反人は少し重みが違ったようで、それなりに丁寧に扱われているように感じられる。一つには「出雲」の関わりの終焉を示すようであり、天皇が通う比賣の坐した場所にその地が記されなくなって行くのである。
忍熊王の兄、香坂王の出自も併せて振り返ってみようかと思う。
大江王之女・大中津比賣命
<倭健命:出雲系譜>(拡大) |
左側の若建王は倭建命と弟橘比賣の御子、杙俣長日子王は孫に当たる。錯綜とはしているが…大帶日子天皇などもご登場なされるが…この狭い出雲北部での娶りが成立しているのである。
そしてこの相関図のアウトプットが香坂王と忍熊王と言うことが判る。出雲北部の血統を色濃く引き継いだ御子達であった。
ちょっと補足だが、「須賣伊呂」は重要なキーワードである。通説は「スメイロド」と読んで「天皇の兄弟」のような意味不明の解釈となる。全くの誤解釈である。「杼(ド)」は付いていない。
須(州)|賣(孕む)|伊(僅かな)|呂(高台)
<大中津比賣命> |
大江王及び大中津比賣の居場所を拡大した図を示す。当時の海岸線を推定すると現在よりも大きく陸側に後退しており、いくつかの入江を形成していたことが判る。
既に何度か言及したことではあるが、齟齬のない表示である。倭健命の系譜では「大中比賣命」であり、「津」が付加された命名となっている(前記倭健命を参照)。
「大中日子王」の近隣と推定したが、そもそも大江王の居場所と近接するところである。幼少次期は「大中」に居て、その後父親の「大江」の津に近いところに移ったとも考えられる。
<香坂王・忍熊王> |
彼らも地名由来の命名として紐解いてみると…、
香(祭祀する山)|坂
…「祭祀する山(戸ノ上山)へ向かう坂」と読み解く。
忍(目立たない)|熊(隅)
…山稜の端が目立たないところだが隅になっているところと解釈する。図に示した場所と推定される。母親の住まったところに近く、やはり出雲の北部中央に当たるところである。
その地の祖先を持つ彼らが久々に歴史の表舞台に登場する機会があった。だが、その機会は敢無く霧散する。息長の血統を濃く引き継ぐ彼らではあるが、所謂骨肉の諍いの部類に入るのであろうか、身内の争いは凄惨である。
さて、騒動の最後の場面の記述を示すと、古事記原文[武田祐吉訳]…、
さて、騒動の最後の場面の記述を示すと、古事記原文[武田祐吉訳]…、
此時忍熊王、以難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲將軍、太子御方者、以丸邇臣之祖・難波根子建振熊命爲將軍。故追退到山代之時、還立、各不退相戰。爾建振熊命、權而令云「息長帶日賣命者既崩。故、無可更戰。」卽絶弓絃、欺陽歸服。於是、其將軍既信詐、弭弓藏兵。爾自頂髮中、採出設弦一名云宇佐由豆留、更張追擊。故、逃退逢坂、對立亦戰。爾追迫敗於沙沙那美、悉斬其軍。於是、其忍熊王與伊佐比宿禰、共被追迫、乘船浮海歌曰、
卽入海共死也。
[この時にオシクマの王は、難波の吉師部の祖先のイサヒの宿禰を將軍とし、太子の方では丸邇の臣の祖先の難波のネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立って雙方退かないで戰いました。そこでタケフルクマの命は謀って、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦を絶って詐って降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏しまいました。その時に頭髮の中から豫備の弓弦を取り出して、更に張って追い撃ちました。かくて逢坂(おおさか)に逃げ退いて、向かい立ってまた戰いましたが、遂に追い迫せまり敗って近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫せめられて、湖上に浮んで歌いました歌、
さあ君よ、フルクマのために負傷ふしようするよりは、カイツブリのいる琵琶の湖水に潛り入ろうものを。
と歌って海にはいって死にました]
話しの流れは難しいことではないので読み飛ばしてしまいそうになるが、登場人物名、地名などは決して通説のような解釈では合致しないようである。今一度整理をしてみよう。概略の戦闘場所を地図で示すと、以下のようである。
忍熊王の第一波攻撃を「斗賀野」で受けたが、すぐに攻勢をかけて「山代」まで後退させた。がしかし雌雄を決するまでに至らず、建内宿禰の策略が発揮される。汚い手を使って欺き、一気に攻勢に。忍熊王は余儀なく「逢坂(オオサカ)」まで後退した。
「逢坂」=「会う(アフ)サカ」⇒「オウサカ」ではなく「逢坂」=「大(オオ)きい坂」=「大坂」である。現在の京都郡みやこ町犀川大坂辺り。武田氏のルビは真っ当である。「山代(背、浦)の大坂」は古事記を紐解く上において欠かせない場所である。ランドマークである。
激しいバトルの結果、止めを刺される場所が「沙沙那美」である。決して琵琶湖の「さざなみ」ではない。原文の示すところは最終戦闘場所であり、湖上ではない。命を懸けて戦った戦士の最後の場所、鎮魂を込めて探し出すのが後の世の務め、怠っては…「さざなみ」では浮かばれない。
この地は応神天皇紀の「蟹の歌」にも登場する。高志から向かって来るので逆行であるが、陸地への上陸地点としての定まったところであったと思われる。ここからは船で川を下り海に向かう場所であったと思われる。
この地は応神天皇紀の「蟹の歌」にも登場する。高志から向かって来るので逆行であるが、陸地への上陸地点としての定まったところであったと思われる。ここからは船で川を下り海に向かう場所であったと思われる。
地図で示した場所は現在、京都郡みやこ町犀川大坂(笹原)という地名になっている。追い詰められた戦士達の無念の場所である。忍熊王と将軍の一人伊佐比宿禰が犀川(現今川)伝いに「阿布美能宇美」へ逃げる。が、時すでに遅し、抵抗を諦めて海に沈んだ。
「阿布美能宇美」は簡単に「淡海の海」としてしまいそうであるが、何やら海が重なって違和感がある。通説は「淡水の湖」であろうか…「淡水」の概念は古代にあり得ない、であろう。当初の読み解きではそれで過ごしたが、やはり今一歩踏み込んでみよう。
阿(台地)|布(平らな)|美(谷間に広がる地)
…河口付近の台地、現在の行橋市泉辺りを示すのではなかろうか。「布」=「布を敷いたように平らな」で「布多遲」(布を敷いたように平らな治水された田)のような表記で出現する。前記崇神天皇紀の和訶羅河での戦闘でその南側が登場したところである。
<阿布美能宇美> |
これより薄い緑の地は干潟を作っていたものと推測される。一方で「淡の海」とも読める。例によって重なる表現である。が、単なる「淡の海」ではないことも確かなことなのである。
更に、二人の王子の夢も「泡」となってしまったことであろう。三つの意味が重ねられた表現と思われる。近淡海国の入江で事件は幕を閉じたと告げている。
「淡水」に拘っていては古事記の伝えることが読めないのである。塩分濃度が高い、低いなどはこの緊迫した場面での関心事ではなかろう。上図、これを見ることによって登場人物の位置付けが見えて来たのである。後述する。
二人の王子の子孫については古事記は語らない。出雲の血が途絶えたことを伝えたかったのどうか、後の記述に依るが、少なくとも出雲が歴史の表舞台から去って行ったことを告げているように思われる。大物主大神も現れないのであろう・・・。
ところで、この戦いにはそれぞれの将軍の名前が記載される。「此時忍熊王、以難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲將軍、太子御方者、以丸邇臣之祖・難波根子建振熊命爲將軍」…忍熊王の方は難波吉師部ゆかりの「伊佐比宿禰」であり、一方太子の方は丸邇臣ゆかりの「難波根子建振熊命」である。
共に「難波」が冠されるのであるが、果たして「難波」は唯一の場所であろうか?…これも「難波」の問題に絡んで興味深いところである。
<伊佐比宿禰> |
「吉」=「士(蓋)+口(区切られた空間)」と分解される。「区切られた空間に一杯物が詰めて蓋をした様」を表す文字と解説される。
地形象形的には「囗(大地)に○○が一杯詰まった、満ちた地形」と解釈される。「師」=「凹凸のある様」とすると、「吉師部」は…、
凹凸に満ちたところ
…と簡略に読み解ける。「師」は既出の「師木」で使われるように丘陵地帯の凹凸のある地形である。
それに難波と付記される。山稜の端で高低差の少ない丘陵が広がった入江であったと思われる。それを「吉師」と表記としたのではなかろうか。即ち上図の「阿布美」を示していると思われる。「伊佐比」は…、
伊(小ぶりな)|佐(支える)|比(並ぶ)
<難波根子建振熊命>(拡大) |
…「小ぶりな並んでいるところを支える」宿禰と紐解ける。王と共に我が住まうところの近隣で、無念ながら生涯を閉じた、と述べている。
勝利した「難波根子建振熊命」は如何に紐解けるか?…「難波」は同じではなかろう・・・後の顕宗天皇紀と敏達天皇紀に「難波王」が二度登場する。
犀川が大きく曲がるところ二箇所に相当する。この命は下流の戸城山南麓と思われる。
「難波根子」=「難波の中心に坐す子」と読み解けば…、
振(整える)|熊(隅)|命
…「隅の地を整える命」と紐解ける。「建」が付くので「思う存分に…」という意味合いかも、である。姑息な、いや失礼、見事な策略で一気に忍熊王達を後退させた場所、地の利もあったであろうか、そこが彼の住まう場所だったのである。
香坂王、忍熊王の出雲と倭国を繋ぐのは周防灘を経由する海路であろう。難波伊佐比宿禰を頼ったのは過去の経緯があったからかもしれない。しかし、今にときめく丸邇一族の将軍相手では所詮叶わなかったのである。山代でのバトルが全てで、その後は敗走を繰り返すばかりと述べている。
何れにせよ、出雲北部、速須佐之男から大国主命へ、その子孫達へと繋がった地は古事記の表舞台から遠ざかることになる。手付かずの出雲南部、それは天皇家に関わらぬ地になりつつある、ようだが・・・。