河內惠賀之長江陵・狹城楯列陵
古事記の仲哀天皇紀(神功皇后関連を含む)の見直しが漸く終わりに近付いた。筑紫国の詳細が語られた神功皇后の「凱旋」帰国は多くの情報を提供してくれたのだが、見直しが豊か…と言うことは、それだけ読めていなかった…であった。
古事記の言う筑紫国は現在の小倉である。博多湾岸では決してない、そこは後の世の筑前であった。「筑紫の前」ではなく、筑前と名付けられた地名である。「筑紫」という実体はないのである。古事記の記述は「高志」があり、その前に「高志前」があるとする。勿論「高志後」はない。混同しやすい…そうさせるのが目的なのだが…表記に惑わされている。
「末羅縣」の表現、それは「筑紫之末多」の表裏である。出雲の端っこは筑紫にあると述べている。この位置関係を矛盾なく理解できる解釈でなければならないことを告げているのである。古事記は矛盾だらけの書、それは読み手の頭の中が矛盾しているだけ、更にその矛盾を止揚し、本意に近付こうとすることを放棄した結果に過ぎない。
今回の見直しで些か勇気付けられて、最後の段に移ろう。陵墓の記述、決して簡単ではない。何処かでも記したが、墓のあり場所は極秘であろう。それを明瞭に記した史書の編纂者は間抜け、と決め付けられる筈である。仲哀天皇は「河內惠賀之長江」、神功皇后は「狹城楯列陵」に夫々埋葬されたとある。
河內惠賀之長江陵
「河內惠賀之長江」は何処であろうか?・・・「恵」の草書体を調べると容易に推測できるようである。「恵」=「ゑ」である。画像を持ち出してもよいが「え」の旧字コードが登録されているので借用した。ひらがなの成立時期、由来とは無関係に「ゑ」=「之」の象形的類似性は明らかであろう。より複雑な河の蛇行及び天皇に捧げる命名として用いられたものと推察される。
成務天皇の志賀之高穴穂宮で推察したように「志賀」=「之江」であり、現在の豊前(京都)平野の一部である。
更に「恵賀」の表現が加わることになったものと思われる。上記したように縄文海進の退行、沖積の進行を合わせると川の蛇行は一層進んだものと思われる。
「長江=枝」とすると、現在の地名、行橋市長木辺りを示しているのではなかろうか。
中国江南の「之江」=「志賀」の推論の傍証となる記述と思われる。図に示したように当時は白点線辺りまでが海岸線であったと推定される。細長く入り込んだ入江を形成し、現在の広宣寺辺りが「長江」の中心地であったのではなかろうか。
無数と言っていいくらいの川が流れていて、殆どが名称不詳である。がしかし、当時は現在の長峡川は、この辺りの下流域になると海に注いでおり(上図参照)、「長江」に注ぐ川などが「惠賀」を形成する本流だったのかもしれない。推定した海岸線はより内陸部に入り込んでいたようであるが、これ以上の推論は返って論拠を危うくしそうである。
山と川の名称が変わらずに残っていたならばもっと比定も楽であったろう。それが解っているから変えたのか・・・「犀川」は地名に残るが今は「今川」となっている。「大坂山」は辛うじて残っているが、これも消えるかもしれない。愚痴っていても致し方ないので先に進もう。
この陵墓の名前が持つ重要な意味の一つは難波の入江に「長江」と称されたところがあったと告げていることであろう。後の仁徳天皇紀に入江が大きく開拓されることになる。御子達の名前の多くに「江」が関連する。後日に述べることにする(お急ぎの方はこちらを参照願う)。
また、これも後の允恭天皇が「河內之惠賀長枝」に眠ると記される。上記と同じ場所を示していると思われるが、共に一に特定することは不可である。
「狹城楯列陵」は…、更に「恵賀」の表現が加わることになったものと思われる。上記したように縄文海進の退行、沖積の進行を合わせると川の蛇行は一層進んだものと思われる。
「長江=枝」とすると、現在の地名、行橋市長木辺りを示しているのではなかろうか。
中国江南の「之江」=「志賀」の推論の傍証となる記述と思われる。図に示したように当時は白点線辺りまでが海岸線であったと推定される。細長く入り込んだ入江を形成し、現在の広宣寺辺りが「長江」の中心地であったのではなかろうか。
無数と言っていいくらいの川が流れていて、殆どが名称不詳である。がしかし、当時は現在の長峡川は、この辺りの下流域になると海に注いでおり(上図参照)、「長江」に注ぐ川などが「惠賀」を形成する本流だったのかもしれない。推定した海岸線はより内陸部に入り込んでいたようであるが、これ以上の推論は返って論拠を危うくしそうである。
山と川の名称が変わらずに残っていたならばもっと比定も楽であったろう。それが解っているから変えたのか・・・「犀川」は地名に残るが今は「今川」となっている。「大坂山」は辛うじて残っているが、これも消えるかもしれない。愚痴っていても致し方ないので先に進もう。
この陵墓の名前が持つ重要な意味の一つは難波の入江に「長江」と称されたところがあったと告げていることであろう。後の仁徳天皇紀に入江が大きく開拓されることになる。御子達の名前の多くに「江」が関連する。後日に述べることにする(お急ぎの方はこちらを参照願う)。
また、これも後の允恭天皇が「河內之惠賀長枝」に眠ると記される。上記と同じ場所を示していると思われるが、共に一に特定することは不可である。
狹城楯列陵
狹(狭い)|城(整地された高台)|楯列(楯を連ねる)
<狹城楯列陵> |
陵墓の場所は異なるとしても谷間に田が重ねられてる場所の表記として全く類似するものと思われる。
「鸇」=「亶+鳥」として「亶」=「物が多く集積され分厚くなる様」を示している解説されている。「楯列」の表現であろう。
現在の縮小表示されて図からでも見事な棚田の様相が伺える。当時を偲ぶことができるかと思われる。
更にもう一つの墓所名「沙紀之多他那美陵」(成務天皇陵)がある。読みが同じである。がしかし、漢字表記が異なる以上違う場所であろう。「沙」=「川縁」、「紀」=「糸+己」=「撚り糸のように畝る地形(己)」として…、
多(田)|他(長く畝る)|那(大きな)|美(谷間に広がる地)
この二つを併せ持つ地形は現在の幸ノ山と観音山との間にある大きく長い谷間から流れる川縁であったと推定される。御陵の特定は難しいが幸ノ山の麓辺りではなかろうか。河内(川内)とくれば陵墓の勢いである。河内、近淡海国全体としても、下流域の開拓はずっと後の世に任されることになる。
いずれにしても河川の中流域~下流域の開拓が大きな課題となりつつあったと推測される。氾濫を抑え四季を通じて安定した水源を確保することができるようになるのは古事記の時代のずっと後になろう。いや、現代でさえ川に潜在する脅威と向かい合っているのである。