物部とは?
古代氏族の中で最も有名なものの一つであるが、古事記が語るところが少なくその発祥の地などを詳らかにできていなかった。既に幾度か引用した「邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也」の記述と竺紫之石井君に関連する段で「物部荒甲之大連」として登場するのみである。
とは言え、何とかこれを見出さなければ落ち着かないのも事実、他の二つ「穂積」「采女(婇)」の紐解きを振り返りながら試みてみようかと思う。
宇摩志麻遲命
邇藝速日命が哮ヶ峰(香春三ノ岳)に降臨した後、鳥見之白庭山(戸城山)に移り住むと知られていることは既に述べて、それぞれの場所を求めた(括弧内)。速須佐之男命、天菩比神など幾人かを降臨させたが結局は思いの通りにことが運ばなかった。その降臨者の内の一人と理解した。更に邇邇藝命の兄、天火明命そのものが邇藝速日命(別名櫛玉命)であるとも判った。
他書に記される邇藝速日命のフルネーム「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」の「天照」は真に天照大御神の一族であることを示しているのである。と言うか、本来は奔流の立場にあったと思われる命名であろう。その彼が地元に比賣、登美夜毘賣を娶って誕生したのが「宇摩志麻遅命」である。
登美能那賀須泥毘古の名前に刻まれた地名は、大きく豊かな谷間がありその出口は州となり、当時としては最適な水田稲作地帯であったことを示していると解釈した。
真に安住の地を得たかのような気分に陥ったのだろう。それが天神達には気に食わなかったと読み解いた。
誕生した「宇摩志麻遅命」は戸城山周辺を開拓し始める。山稜を越えたところ、戸城山の東南麓に居を構えたと、その名前から紐解いた。
図に示したように決して広くもなく、急峻な上に蛇行する川もある地ではあるが、子孫繁栄の基盤を作り上げたのであろう。この地を起点に「祖」となって行ったと記述される。
…「山稜の先端が集め重ねられた」ところと解釈された。大坂山と戸城山の山稜が交差する複雑、ユニークな山稜配置となっている場所である。
これを捉えた表記と推察した。交差する山稜の端が、自然に重なり合うように集まる場所である。この地で誕生した比賣が皇統に深く関係し、また「丸邇」一族が派生して来ることになる。
丸邇一族は雄略天皇の立国宣言に極めて大きな功績があった一族となる。言わば同根の一族で作り上げた国だったわけである。なのに古事記は邇藝速日命の取扱いが粗末である。同根ゆえのことかもしれないが・・・。
図をあらためて見てみると鳥見之白庭山(戸城山)を中心に無数にある山稜の谷間を開拓して行ったことが伺える。既に詳細を述べた通りこれらの谷間の大半に比(毘)古、比(毘)賣が坐していたと推定した。
葛城、山代ほどではないにしても未開の地への侵出、それを伴いながら原・住人と融和して行ったと思われる。ただ宇摩志麻遅命の時代ではそこまでの浸透は果たせず、開化天皇がこの地に侵出したてから本格化したと思われる。
これも天神達のお気に召さないことの一つで、現地に溶け込んでしまい、安住しては困るのである。
「采女」は「宮廷で仕える女人」の呼称もあり、また古事記に地名として判断できるような記述はこの「婇臣」のみである。そんな手懸りの状態であったが、倭建命が瀕死の状態で通過した三重村の場所が見出だせたことから一挙にその場所が浮上して来たのである。
伊服岐能山で神様に傷めつけられての帰途、尾張から倭に向かう途中で、身体が三重になったと告げるところである。
…ところと紐解いた。福智山山塊の端に辺り、この地も複雑に山稜が重なる場所である。
ここもユニークな地形で一に特定できる。それが目的で記載されるわけだから、全体の地形を如何に熟知していたかを表している。
不可能ではないが、その膨大な作業に驚嘆する思いである。だが、古事記編者達は実行した、である。
その隣に「采女」があった。地形的には三つ寄り集まる前の隙間である。これを「采女」と表記した。宇摩志麻遅命が祖となったと言うからには子孫がいた筈であるが、全く語られない。雄略天皇紀に登場する「三重婇」は、それこそ「婇」地と宮仕えの女人とを重ねた表記なのかもしれないが、はっきりとはしない。
当時のことを思うと、紫川から程よい距離を保てる場所が適していたのであろう。三重村は川に近接するところである。宇摩志麻遅命が侵出したのは采女であって、三重村ではなく、そこは采女から開拓されて来た地であったと推測される。重要な交通の拠点ではあるが、人材の供給場所ではなかった様子である。
以上がこれまでに求めてきた概略に相当する部分である。若干の補足も含めて記載したが、邇藝速日命から始まる系譜、登場人物が坐した場所を見ると、最後の「物部」の地は倭国の南北センターライン上の何処か、ということになりそうである。それを念頭に置いて探索する。
勿論、「物部」が地名?…「武士」の由来で勇猛な武将を示す名前では?…従来の主な解釈であろうが・・・。そう読んでも全く問題なしであろうが、それだけならば「建」で十分、異なる表現を使う以上、地名を表していると考えるのである。更に、他の二つ「穂積」「采女」共に地形象形であったこと。律儀な安萬侶くんは、外さないと思う、のである。
「物」の解釈は決して簡単ではなかったことを思い出す。大物主大神の場合は「物」→「物故」、「穀物」などに連想して大年神一族の後裔(出雲八十神の子孫)を代表する名前と紐解いた。彼の居場所は「美和」と記され「物」は場所を表す表記と受け取る必要がなかったからでもある。
しかし、この度は異なって「物」そのものが地名と見做すことが必要である。そこで、常套手段「物」=「牛+勿」と分解する。牛の甲骨文字を示した。牛の象形である。「勿」は何とするか?…これ以上分解することもできず・・・致し方なくこの字形そのものに合致する地形を求めることにする。
上記したように雄略天皇の長谷(香春町採銅所)を抜け、峠(金辺峠)を越えて宇陀(小倉南区呼野)へと向かう場所を散策すると、出て来ました目論見の通りの地形を示す場所が見出だせる。現地名北九州市小倉南区井手浦である。
カルスト台地平尾台の西側、宇陀の北側にある崖下に複数の山稜が延びる地形である。図に示した通り、「勿」の字が当て嵌まる。更に詳細に見ると、平尾台西端の山稜が描く地形を横から眺めると「牛」の角二つが揃っていることが判る。塔ヶ峯と大平山である。
古事記に記載の地名に重なる表現はなく、初めての登場となるところである。
麓を更に下ると倭建命の能煩野(母原)に到達する位置でもある。
この地が後の物部氏の本貫の地と思われる。
…と紐解ける。
後の継体天皇紀に竺紫之君石井が無礼をした件で将軍を派遣し…、
遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也。
…と記述される。「物部荒甲之大連」が登場する。「大連」へと昇格である。
「荒甲」は…、
邇藝速日命から采女臣までを纏めると図のようになる。彼らは東西に足を運ぶのではなく南北に行き来したことを表しているようである。
ところで神倭伊波禮毘古命が吉野を経て「宇陀之穿」(吹上峠)を通り抜け、向かった「宇陀」の地で兄・弟宇迦斯と戦闘する説話がある。
弟の密告で兄の謀略を知り、久米の将軍などオールキャストで退治する話しなのであるが、「物部」はその近隣である。
「宇陀之穿」(平尾台西端の山稜を越え抜けるところ)をわざわざ記述したことも考え合わせると、この兄弟は物部一族所縁の者ではなかろうか。
少なくとも宇摩志麻遅命に関わる者達であったことは疑えないと思われる。登美能那賀須泥毘古を失脚させる戦いの前哨戦であったと推察される。
神倭伊波禮毘古命が那賀須泥毘古との初戦「日下之蓼津」と言われたと記される。「日下(クサカ)=櫛玉命の加護がある場所」と読み解いたが、この倭国南北センターラインは強力に邇藝速日命が支配する地域だったと告げていたのである。これは雄略天皇紀の美和河赤猪子の説話に繋がり、古事記の舞台設定がしっかりと据えられていることがあらためて理解できたと思われる。
密告者弟宇迦斯は「宇陀水取之祖」となったと記される。現在の井手浦浄水場が目に入る。調べると1972年完成の北九州市基幹浄水場で「豊かな自然環境の中で良質な水を利用して、わさびの栽培とヤマメの飼育などを行う「やまめの里」があり、自然学習や水源地交流などに取組んでいます」とのことである・・・古事記記述と繋がると訳もなく楽しいものである・・・やっぱり「物部」かぁ~?…。
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ちょっと欠落部が・・・。
「宇迦斯」は…、
…「水源の縁にある手の地形」と読み解ける。
「水取」を地形と掛けているとは…やられました。
これは・・・「井手浦」ではなかろうか!・・・。
弟宇迦斯が「物部」の地を引き継いだのである。
他書に記される邇藝速日命のフルネーム「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」の「天照」は真に天照大御神の一族であることを示しているのである。と言うか、本来は奔流の立場にあったと思われる命名であろう。その彼が地元に比賣、登美夜毘賣を娶って誕生したのが「宇摩志麻遅命」である。
<登美>(拡大) |
真に安住の地を得たかのような気分に陥ったのだろう。それが天神達には気に食わなかったと読み解いた。
誕生した「宇摩志麻遅命」は戸城山周辺を開拓し始める。山稜を越えたところ、戸城山の東南麓に居を構えたと、その名前から紐解いた。
図に示したように決して広くもなく、急峻な上に蛇行する川もある地ではあるが、子孫繁栄の基盤を作り上げたのであろう。この地を起点に「祖」となって行ったと記述される。
<穂積> |
穂積
穗(山稜の先端)|積(集め重ねる)
…「山稜の先端が集め重ねられた」ところと解釈された。大坂山と戸城山の山稜が交差する複雑、ユニークな山稜配置となっている場所である。
これを捉えた表記と推察した。交差する山稜の端が、自然に重なり合うように集まる場所である。この地で誕生した比賣が皇統に深く関係し、また「丸邇」一族が派生して来ることになる。
丸邇一族は雄略天皇の立国宣言に極めて大きな功績があった一族となる。言わば同根の一族で作り上げた国だったわけである。なのに古事記は邇藝速日命の取扱いが粗末である。同根ゆえのことかもしれないが・・・。
図をあらためて見てみると鳥見之白庭山(戸城山)を中心に無数にある山稜の谷間を開拓して行ったことが伺える。既に詳細を述べた通りこれらの谷間の大半に比(毘)古、比(毘)賣が坐していたと推定した。
葛城、山代ほどではないにしても未開の地への侵出、それを伴いながら原・住人と融和して行ったと思われる。ただ宇摩志麻遅命の時代ではそこまでの浸透は果たせず、開化天皇がこの地に侵出したてから本格化したと思われる。
これも天神達のお気に召さないことの一つで、現地に溶け込んでしまい、安住しては困るのである。
采女(婇)
「采女」は「宮廷で仕える女人」の呼称もあり、また古事記に地名として判断できるような記述はこの「婇臣」のみである。そんな手懸りの状態であったが、倭建命が瀕死の状態で通過した三重村の場所が見出だせたことから一挙にその場所が浮上して来たのである。
<三重村> |
三重=山稜の端が三つ重なる
…ところと紐解いた。福智山山塊の端に辺り、この地も複雑に山稜が重なる場所である。
ここもユニークな地形で一に特定できる。それが目的で記載されるわけだから、全体の地形を如何に熟知していたかを表している。
不可能ではないが、その膨大な作業に驚嘆する思いである。だが、古事記編者達は実行した、である。
その隣に「采女」があった。地形的には三つ寄り集まる前の隙間である。これを「采女」と表記した。宇摩志麻遅命が祖となったと言うからには子孫がいた筈であるが、全く語られない。雄略天皇紀に登場する「三重婇」は、それこそ「婇」地と宮仕えの女人とを重ねた表記なのかもしれないが、はっきりとはしない。
当時のことを思うと、紫川から程よい距離を保てる場所が適していたのであろう。三重村は川に近接するところである。宇摩志麻遅命が侵出したのは采女であって、三重村ではなく、そこは采女から開拓されて来た地であったと推測される。重要な交通の拠点ではあるが、人材の供給場所ではなかった様子である。
以上がこれまでに求めてきた概略に相当する部分である。若干の補足も含めて記載したが、邇藝速日命から始まる系譜、登場人物が坐した場所を見ると、最後の「物部」の地は倭国の南北センターライン上の何処か、ということになりそうである。それを念頭に置いて探索する。
勿論、「物部」が地名?…「武士」の由来で勇猛な武将を示す名前では?…従来の主な解釈であろうが・・・。そう読んでも全く問題なしであろうが、それだけならば「建」で十分、異なる表現を使う以上、地名を表していると考えるのである。更に、他の二つ「穂積」「采女」共に地形象形であったこと。律儀な安萬侶くんは、外さないと思う、のである。
物部
<牛> |
しかし、この度は異なって「物」そのものが地名と見做すことが必要である。そこで、常套手段「物」=「牛+勿」と分解する。牛の甲骨文字を示した。牛の象形である。「勿」は何とするか?…これ以上分解することもできず・・・致し方なくこの字形そのものに合致する地形を求めることにする。
上記したように雄略天皇の長谷(香春町採銅所)を抜け、峠(金辺峠)を越えて宇陀(小倉南区呼野)へと向かう場所を散策すると、出て来ました目論見の通りの地形を示す場所が見出だせる。現地名北九州市小倉南区井手浦である。
カルスト台地平尾台の西側、宇陀の北側にある崖下に複数の山稜が延びる地形である。図に示した通り、「勿」の字が当て嵌まる。更に詳細に見ると、平尾台西端の山稜が描く地形を横から眺めると「牛」の角二つが揃っていることが判る。塔ヶ峯と大平山である。
<物部・宇陀水取> |
麓を更に下ると倭建命の能煩野(母原)に到達する位置でもある。
この地が後の物部氏の本貫の地と思われる。
物(角のような山がある[勿]の字の地形)|部(地)
…と紐解ける。
後の継体天皇紀に竺紫之君石井が無礼をした件で将軍を派遣し…、
遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也。
…と記述される。「物部荒甲之大連」が登場する。「大連」へと昇格である。
<宇摩志麻遅命(祖)>(拡大) |
「荒甲」は…、
荒(荒々しい)|甲(山)
…塔ヶ峯は決して高山ではないがその斜面はかなりの勾配を有している。かつ、カルスト台地の石灰岩の岩山であることが知られている。それを表していると推察される。
名は体を示す…石井征伐の功績は益々その地位を高めたのではなかろうか。
邇藝速日命から采女臣までを纏めると図のようになる。彼らは東西に足を運ぶのではなく南北に行き来したことを表しているようである。
ところで神倭伊波禮毘古命が吉野を経て「宇陀之穿」(吹上峠)を通り抜け、向かった「宇陀」の地で兄・弟宇迦斯と戦闘する説話がある。
弟の密告で兄の謀略を知り、久米の将軍などオールキャストで退治する話しなのであるが、「物部」はその近隣である。
「宇陀之穿」(平尾台西端の山稜を越え抜けるところ)をわざわざ記述したことも考え合わせると、この兄弟は物部一族所縁の者ではなかろうか。
少なくとも宇摩志麻遅命に関わる者達であったことは疑えないと思われる。登美能那賀須泥毘古を失脚させる戦いの前哨戦であったと推察される。
神倭伊波禮毘古命が那賀須泥毘古との初戦「日下之蓼津」と言われたと記される。「日下(クサカ)=櫛玉命の加護がある場所」と読み解いたが、この倭国南北センターラインは強力に邇藝速日命が支配する地域だったと告げていたのである。これは雄略天皇紀の美和河赤猪子の説話に繋がり、古事記の舞台設定がしっかりと据えられていることがあらためて理解できたと思われる。
密告者弟宇迦斯は「宇陀水取之祖」となったと記される。現在の井手浦浄水場が目に入る。調べると1972年完成の北九州市基幹浄水場で「豊かな自然環境の中で良質な水を利用して、わさびの栽培とヤマメの飼育などを行う「やまめの里」があり、自然学習や水源地交流などに取組んでいます」とのことである・・・古事記記述と繋がると訳もなく楽しいものである・・・やっぱり「物部」かぁ~?…。
――――✯――――✯――――✯――――
ちょっと欠落部が・・・。
「宇迦斯」は…、
宇(山麓)|迦(出会う)|斯(之:蛇行する川)
…「山麓で蛇行する川が出会うところ」であるが、宇陀の地は無数に川があり一に特定は不可であった。が、広大な貫山山塊からの蛇行する二つの川が出会う場所であった。更に「水取」は…安萬侶コード「取」=「耳(縁)+手」で紐解くと…、
水(水源)|取(縁の手)
…「水源の縁にある手の地形」と読み解ける。
「水取」を地形と掛けているとは…やられました。
これは・・・「井手浦」ではなかろうか!・・・。
弟宇迦斯が「物部」の地を引き継いだのである。