2017年3月30日木曜日

鵠を求めて〔018〕

鵠を求めて

前記で「高志前」=「越前」を訪問した。なんとも不思議なところであったが、だからこそ古の名前が残っていたのでは、と思う。いや、その土地に住む人々の思いがあってのことではなかろうか。現在も残る「大字」今回調べてみて、その土地の変遷を伺い知れたことは大きな収穫であった。小さな「国譲り」の物語、なのであろう。

そんなわけで「古の国」を求めての旅にちょっとしたツールが増えたので纏めて、やっちゃいます・・・、第十一代垂仁天皇の時のお話、国名が一杯出てくるので、ネットの観光名所に挙げられてるところも一杯、「国譲り」一杯、である。

例によって古事記原文(武田祐吉訳)…、

率遊其御子之狀者、在於尾張之相津、二俣榲作二俣小舟而持上來、以浮倭之市師池・輕池、率遊其御子。然、是御子、八拳鬚至于心前、眞事登波受。此三字以音。故、今聞高往鵠之音、始爲阿藝登比。自阿下四字以音。爾遣山邊之大鶙此者人名令取其鳥。故是人追尋其鵠、自木國到針間國、亦追越稻羽國、卽到旦波國、多遲麻國、追廻東方、到近淡海國、乃越三野國、自尾張國傳以追科野國、遂追到高志國而、於和那美之水門張網、取其鳥而持上獻。故、號其水門謂和那美之水門也。亦見其鳥者、於思物言而、如思爾勿言事。[かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあった二俣の杉をもって二俣の小舟を作って、持ち上って來て、大和の市師の池、輕の池に浮べて遊びました。この御子は、長い鬢が胸の前に至るまでも物をしかと仰せられません。ただ大空を鶴が鳴き渡ったのをお聞きになって始めて「あぎ」と言われました。そこで山邊のオホタカという人を遣って、その鳥を取らせましたここにその人が鳥を追い尋ねて紀の國から播磨の國に至り、追って因幡の國に越えて行き、丹波の國・但馬の國に行き、東の方に追いつて近江の國に至り、美濃の國に越え、尾張の國から傳わって信濃の國に追い、遂に越の國に行って、ワナミの水門(みなと)で罠を張ってその鳥を取って持って來て獻りました。そこでその水門をワナミの水門とはいうのです。さてその鳥を御覽になって、物を言おうとお思いになるが、思い通りに言われることはありませんでした]

なん10ヶ国名…近畿、山陽の一部、山陰、近江を経由して北陸まで「大鶙」さん、無口な御子に「阿藝(あぎ)」と言って頂くために大変な旅をなされたのこと。通訳に従うと、こんな非常識なことはない、何か裏がある、無いとすると古事記は所詮こんなもの…まぁ、色々と諸説?出て来るわけである。

この拙いブログをお読み頂いてる方々には、おわかりの通り「高志国」は「企救半島東側中部」であるから、そんな無茶な話ではないのでは?、とお思いの筈である。焦らず一つ一つ当て嵌めてみよう。

既知の国は、「木国」「針間国」懐かしの「近淡海国」ホヤホヤの「高志国」の計4ヶ国。スタートとゴールが見えてるから、力ずくです。なんとかなるでしょう…古事記原文「吉備国」が抜けている、「針間国」に行ったのに?

高志国


今回唯一情報があるのが最後の「高志国」前記は「食(喰)」がキーワードで解釈した。「水門」が今回のそれであろう。もう一つ「和那美」がある。前記の「沙沙那美」に関係する。「水門(ミナト)」=「港、湊」と解釈されている。これから紐解いてみよう。

「水門」Wikipediaによると古くは「港湾(ミナト)」、日本書紀、古事記に記載がある…全体が拡大解釈ならパーツも拡大? そんなわけはない古くから「水門」=「樋門(ヒモン)」として治水事業にはなくてはならないものとして開発されて来ている。「唐樋門」などがあるという。

これでネット検索、簡単に出て来る「猿喰新田の唐樋門」、いやいや、またまた「猿喰」である。現存するものは18世紀頃に設置されたとのことであるが、この地は「樋門」がなくてはならないものなのである。川が少なく、それに伴う扇状地の発達が少なく止むを得ず海面ぎりぎりで水田を確保する必要性があったところなのである(猿喰新田潮抜き穴)。

少ない川の水を貯め、そして海からの塩水の逆流を防ぐ、知恵です。ダムと堰と水門の違い、ご存知ですか? ちゃんと使い分けられてるんだそうである。なかなか面白い。ダムは別として堰と水門、区別してみよう…。話を戻すと…この「水門」の情報から「高志国」の在処、確定したと思われる。

「和那美」とは?…前記の「沙沙那美」から類推すると「那美」=「豊かで美しい」と文字通りの解釈できる。また「物が一面奇麗に揃って波打つ状態」を表す修飾語と理解できる。「和那美」=「穏やかな波が奇麗に揃った水面」と解釈できる。水門で堰き止められた水面の状態を表すものであろう。 

求める「鵠(コウノトリ)が好むところは、ここである。だから捕獲することができたと安萬侶君は述べておられる。「猿喰」の近隣、「畑」「吉志」「吉田」「伊川」等々渡来人達に由来すると思われている地名が殆どを占める。当然、先進技術国であったろう。山の向こう(西側)は「大里」出雲?

科野國


「高志国」の手前である。「科」=「段差」と読む。よく知られた蕎麦屋さんの屋号「更科」は信州の「蕎麦」が有名なことからその地形を表したものと言われる。「更」「科」の同じ意味を示し、それが「段差」である。地形が急峻で段差をつけて人々が住んだところである(国土地理院報告書)

さて、そんなところがあるか? あります。企救半島南端の「足立山の南麓」に広がる場所である。現在の地名は、北九州市小倉南区葛原、湯川(葛原・湯川台地)、沼、吉田などであろうか。

尾張国・三野国


「三野国」を越えて「尾張国」に向かう。その先が「科野国」であると言う。どうやら「三野国」は探し求める「鵠」の居そうなところがなかったようである。上記と同様にその国の地形に即した命名ではなかろうか。「尾張」=「尾(山稜が長く)(延びて広がった)」であろう。「三野」=「三つの野(台地)」と解釈される

「尾張国」は現在の北九州市小倉南区堀越、横代、石田辺り、「三野国」は同じく長野、貫、朽網辺りではなかろうか。現在「竹馬川」が流れる平野は大きな入江であり、大半は海面下、「大鶙」さん達の乗った船は大きく西に迂回し、これらの二つの国を伝って「科野国」に向かったと述べている。「竹馬川」=「千曲川」は河川名の「国譲り」である。

「近淡海国」=「豊前(京都)平野」としたところ、動かせません。7ヶ国を手中に収めました。今のところ、それなりに納得です、さて、残り3ヶ国、これを「近淡海国」と「針間国」の間に納めるわけである。なんとかなるでしょう。

旦波國・多遲麻國・稻羽國


ちょっと趣を変えて南の国から「稻羽國」を越えるから「三野国」と同様に「鵠」の居場所が少ないところなのであろう。現在の福岡県築上郡築上町辺り、台地形状である。近隣に航空自衛隊築城基地がある。

そう言えば「二人の幼子の逃亡」で「針間国」に向かう時すぐ近くを通過したところである。記述がないのは第十一代垂仁天皇と第二十二代清寧天皇の時代差であろう。古事記中稻羽國」の出現はこれが最後、というかこれっきりである。2、3世紀の間には「国譲り」があったのである。まさか「鳥取県」に譲るとは・・・。まさか、まさか、この説話が「鳥取」の由来

「多遲麻國」は現在の行橋市松原辺りではなかろうか。大部分は上記の基地に含まれる。最後の「旦波國」は現在の行橋市稲童辺りであろう。覗山山頂から眺める朝日(旦)は絶景であろう。そしてその覗山を避けて、ほぼ真東から近淡海の草野津(現在の行橋市草野)に向かうと記述されている。

10ヶ国、なんとかなりました。地図を参考に、あらためて大鶙」さんの足取りを追ってみよう…


超が付く概算で行路100km弱、お疲れさんでした。でも「鵠」がゲットできて目出度し、目出度しである。

旦波國」「多遲麻國」は「稻羽國」と同じく古事記中の出現はこれっきりである。歴史の表舞台から、古事記史の中から、消えてしまう。その後、些か趣を変えるが、その名前が歴史に残ることになる。目出度しである。

「高志国」は前記で「高志前」=「越前」とした。該当する場所は同じ「猿喰」、「稲羽国」で述べたように時代の流れに伴って変化、この場合は「高志国」が分割された。

「越前」「越中」「越後」のように。また「若狭国」の記述があった。垂仁天皇の時代には、「国」として出来上がってなかったのであろう。古事記の記載の中にその変遷の有様を拾ってみよう…。

最後「吉備国」が抜けてること、決定的であろう。通説は、入口みたいな「針間国」に隣接している国であるが、一切今回の捜索に顔を出さない、真に不自然である。

暇が取り柄の老いぼれの「吉備国」は「高志国」更に北にある。その手前で「鵠」を入手できたのだから記述がなくて当然である。

「近淡海国」を求めてから今回までで、その周辺に存在した国々を顕在化することができた。古事記が示す古地図をツールにして話を進めてみようかと思う…。



2017年3月29日水曜日

忍熊王の謀反〔017〕

忍熊王の謀反


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
「吉備国」に二度も出掛けてすっかりお気に入りになったら今度はもう少し、いやトンデモなくか、遠い「高志国」に出掛けたくなった。ここは北陸、そう言えば何年か前に能登の輪島で一泊、ぐるりと回った旅行を、往復約800km、とても印象深いものでした。「遠飛鳥」からだと約2,000km、気が遠くなりそうな距離に感じるが・・・。

古事記が記述した諸国の中で、神話の世界は別として、一番遠い所かもしれない。いつかは行ってみたい、いよいよその日がやってきた。暇が取り柄と雖も体力の問題を抱えて、老いぼれの老いぼれた愛車をスタートします。皆さん、宜しければご同乗下さい。その前にナビゲーターの「建」さんをご紹介。

「神功皇后」が朝鮮で活躍(一説には里帰り?)して気分よく帰還なされる時の出来事。たくさん子作りに励むから跡目相続争いが尽きない。まぁ、天皇とそれ以外は天地の差ですから必死である。神懸かりな皇后、なんか怪しい気配を察知して「忍熊王」のクーデターに対処、あの「建・内宿禰(タケノウチスクネ)」の登場です。

古事記原文(武田祐吉訳)

忍熊王、以難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲將軍、太子御方者、以丸邇臣之祖・難波根子建振熊命爲將軍。故追退到山代之時、還立、各不退相戰。爾建振熊命、權而令云「息長帶日賣命者既崩。故、無可更戰。」卽絶弓絃、欺陽歸服。於是、其將軍既信詐、弭弓藏兵。爾自頂髮中、採出設弦一名云宇佐由豆留、更張追擊。故、逃退逢坂、對立亦戰。爾追迫敗於沙沙那美、悉斬其軍。於是、其忍熊王與伊佐比宿禰、共被追迫、乘船浮海歌曰、

伊奢阿藝 布流玖麻賀 伊多弖淤波受波 邇本杼理能 阿布美能宇美邇 迦豆岐勢那和

卽入海共死也。[この時オシクマの王は、難波の吉師部の祖先のイサヒの宿禰を將軍とし、太子の方では丸邇の臣の祖先の難波のネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立って雙方退かないで戰いました。そこでタケフルクマの命は謀って、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦を絶って詐って降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏しまいました。その時に頭髮の中から豫備の弓弦を取り出して、更に張って追い撃ちました。かくて逢坂(おおさか)に逃げ退いて、向かい立ってまた戰いましたが、遂に追い迫せまり敗って近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫せめられて、湖上に浮んで歌いました歌、

さあ君きみよ、フルクマのために負傷ふしようするよりは、カイツブリのいる琵琶の湖水に潛り入ろうものを。

と歌って海にはいって死にました]

「神功皇后」達が朝鮮から船で帰国、「倭(後の遠飛鳥)」に向かうのであるから間違いなく遠賀川河口から南下、彦山川を遡っている時に「忍熊王」の第一波攻撃に出合った。勿論手筈の通り仕立てた「喪船」を浮かべて死んだふりをする。「神功皇后」と「建内宿禰」の連携、お見事と、記述される。

戦闘場所を地図で示すと…<追記>



「忍熊王」の第一波攻撃を「斗賀野」、両岸まで山裾が迫った場所の呼び名であろう、で受けたがすぐに攻勢をかけて山代まで後退させた。がしかし雌雄を決するまでに至らず、「建内宿禰」の策略が発揮される。汚い手を使って欺き、一気に攻勢に。「忍熊王」余儀なく「逢坂(オオサカ)」まで後退した。

「逢坂」=「会う(アフ)サカ」=「オウサカ」と解釈ではな「逢坂」=「大(オオ)きい坂」=「大坂」である。武田氏のルビは真っ当である。「山代」、「逢坂」共に前記で比定した場所である。「山背(浦)の大坂」は古事記を紐解く上において欠かせない場所である。ランドマークである。

激しいバトルの結果、止めを刺される場所が「沙沙那美」である。通訳は比定不詳で琵琶湖の「さざなみ」と解釈する。原文の示すところは最終戦闘場所であり、湖上ではない。命を懸けて戦った戦士の最後の場所、鎮魂を込めて探し出すのが後の世の務め、怠っては…「さざなみ」では浮かばれない。

地図で示した場所現在「みやこ町犀川大坂笹原」という地名になっている。「沙沙那美」=「笹並(波)」=「笹原」であろう。追い詰められた戦士達の無念の場所である。合掌。「忍熊王」と将軍の一人「伊佐比宿禰」が犀川伝いに「淡海」へ逃げる。が、時すでに遅し、抵抗を諦めて海に沈んだ。

通説も「沙沙那美」などを除けば、比定された地名を辿って琵琶湖に向かうことができる。がしかし「難波」出身の将軍たちが何故山城を背にして立ち向かったのか、また、退却方向の選択はいくらでもあったように思う。不自然なところが多々あるが、今は先に話を進めよう。

神懸かりの「神功皇后」と戦闘能力抜群の「建内宿禰」が揃えば天下無敵、いや虚空無敵である。でも「禊祓」は欠かせない。太子(後の応神天皇)を引率して「高志前之角鹿」に向かう。いよいよ出発です。

古事記原文(武田祐吉訳)

建內宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也。亦其入鹿魚之鼻血臰、故號其浦謂血浦*、今謂都奴賀也。[かくタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊をしようとして近江また若狹の國を經た時に、越前の敦賀に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀(やぶ)れたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食(みけ)つ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦と言いましたが、今では敦賀と言います]

「忍熊王」達が沈んだ「淡海」から「若狭国」を経て「高志前之角鹿」行った。なんとも簡単な記述である。片道1,000kmもあるところとはとても考えられない場所である。「淡海」は海路として目立った陸地は「若狭国」だけ? 簡単記述だからこそ、ここだという決め手が見つからない、というのが現状であろう。

高志前之角鹿


何の補足説明もない「若狭国」よりグダグダと書き連ねる「高志前之角鹿」から紐解きに入ろう。スタートは「難波津」である。そこから「北」に向かった(「建」さんが後程教えてくれる様子)。そうすると陸地に接近するのは現在の「企救半島」になる。この島のどこかに、即ち、企救半島東側の沿岸部に「高志前」があると思われる。「建」さんは何も告げずに船が波を蹴って…。

「高志前」の特徴が記載されていると見なす「御食津大神(ミケツオオミカミ)」それとなんとも生臭い説話、なんでこんな話を…例のごとく…意味がある筈なんです。企救半島東側中央部、現在の北九州市門司区に「猿喰(サルハミ)」、北九州港に隣接する地名がある。また同じ門司区畑に「鹿喰(カジキ)」峠がある。由来も文字通りのようであるが、極めて珍しい、難読の地名である。

繋がりました、「建」さんの口元が少し緩んだように見えたのだが「食」がキーワードであった。「喰」のついた地名を中心とした地域、それが「高志前」=「越前」であったと推定される。

現在は埋立てが盛んにおこなわれて往時の場所を見極めるのは困難であるが、「角鹿」=「敦賀」は湾の奥にあったのではなかろうか。企救半島の背骨の山塊を越えれば響灘に浮かぶ「淡路島」等々遠く朝鮮半島を「遥望」できるのである。参考までに地図を示す。

「淡海」を北に進路を取って始めて陸地に接近するのが現在の鳶ヶ巣山、それを進行方向左にみながら進むと前方に入江が目に入る。それが「若狭国」であろう。「若狭国」=「新しく出来た小さな国」受け取れるが、根拠はない。

「難波津」を出て北方へ向かう、とした理由はこれであった。南方では「針間国」「毛国」などを「經歷」することになる。古事記の記述は、経由地だから適当に、ではない。今回も実感することができた。「建」さんが頷いたような気がするが、違うかも…。

現在の行橋市(市庁)辺りから「淡海」に出て直線距離で約20kmの海上走行である。「禊祓」に行くことが出来る距離ではなかろうか。陸上になるが同じところから山背川(犀川)ルートで香春町まで約20kmである。空間的に自然な解釈結果と思われる。

補足的になる「志」=「死者の追善供養」という意味がある。「禊祓」の場所として選ばれたのかもしれない。「建」さんとはこれでお別れ、またお会いするかも…。

「高志=越」の国の在処が見えてきた、がしかし通説とは全く異なる結果であった。また「九州王朝」などの説を唱えられる方々の推定結果とも異なるように思う。暫くはこんな結果に従って古事記を紐解いてみよう。

「気比大神」の由来、こんな気味悪いものである。食っちまったから祀ろうなんて明快(冥界?)過ぎる。大らかと言えば、それも良し、である(香椎宮の方が美しかったかな?)

古事記原文はその後色々と詠って終わるが、仲哀天皇「河內惠賀之長江」、神功皇后は「狹城楯列陵」に夫々埋葬されたとある。「河內惠賀之長江」は「允恭天皇」前記〔XV〕で記載したように「豊前(京都)平野の行橋市長木辺り」であろう。「狹城楯列陵」は少々情報少ないが、御所ヶ岳山塊の東の先端にある「みやこ町彦徳高崎」辺りではなかろうか。

…と、まぁ、こんな具合で先に・・・。


2017年3月28日火曜日

吉備国と針間〔016〕

吉備国と針間

仁徳天皇の黒日売騒ぎで思わず吉備国まで赴いたが、なかなか良いところであった。鬼ヶ城まで登りたかったが暇が取り柄の老いぼれには少々キツイ、と思いながらその地を後にしたが…その後に針間国に幼子を追っかけてしまった。些か疲れてGoogle Mapなどを見ていると、吉備と播磨、お隣では? 通説はそうなってる、トンデモナイところを指し示してしまったかも? そんなわけで「針間」を検索してみた。

古事記原文に9件ヒットする。内1件は前回に追跡したもので残り8件である。7件が国名、人名表示で前後の繋がりなく解釈不可、ということで最後の1件を試みた。

該当部の古事記原文(武田祐吉訳)

大倭根子日子國玖琉命者、治天下也。大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口、以言向和吉備國也。故、此大吉備津日子命者、吉備上道臣之祖也。次若日子建吉備津日子命者、吉備下道臣、笠臣祖。[そこオホヤマトネコ彦クニクルの命は天下をお治めなさいました。オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨の氷の河の埼に忌瓮を据えて神を祭り、播磨からはいつて吉備の國を平定されました。このオホキビツ彦の命は、吉備の上の道の臣の祖先です。次にワカヒコタケキビツ彦の命は、吉備の下の道の臣・笠の臣の祖先です]

大倭根子日子國玖琉命(第八代孝元天皇)の世に「吉備国」を「平定」した、という逸話である。「平定」=「敵や賊を討ち平らげること」と「言向和」=「言を向けて和する」=「言葉をかけて争わず協力し合う」とは大きな差異がある。通常の訳文などは「平定」であり「言向和」を使わない。「記紀の通訳」は怪しいのである。

と、まぁ、本題に戻って…「大吉備津日子命」と「若建吉備津日子命」の異母兄弟(彼らの母親は吉備国出)が実行する。第十六代の仁徳天皇より八代前の時代に吉備国、すなわち「鉄」の入手に取り掛かかり、仁徳さんはその事業を拡張進展させたということであろう。

「針間」が登場する。「針間国」ではない。どうやら「吉備国」に向かう道に「針間」口というところを設けたとのことである。「針間」=「針のように細い隙間」である。前回の「椎田」の比定に用いた形象表現に従う。「国」が付かないのだから、「針間口」=「針のように細い隙間の入口」と解釈できる。

地図を参照願う…


記述がないので仁徳さんと同様に吉備国に向かったとして、初めは省略して「佐氣都志摩(現在の六連島)」から下関市安岡本町にある港まで船で行き、そこから陸上を北に向かう。ここは河川が運んできた土でできたところではなく台地形状、決して平坦な道ではなかったようであるが、それだけにいくつもの河川を渡渉することもなく進める。

「氷河」=「ひょうが」ではない。古事記の中でこれ一か所の記述であり、なんとも、である「氷河」=「氷のように冷たい川の水」程度に解釈すると、山から流れる水の体感温度が低いのではなかろうか。入口手前にある川、残念ながら河川名は不明(川の少ないところ、「之江」とはエライ違い)

「ふく予報官」説明によると対馬暖流が流れるこの地方は、夏場は高温多湿型気候であるが、冬場は北西から大陸の寒気が直接降りて来るところであり、山岳の気温は低く雪が積もりやすいとのこと。いずれにして標高差による温度差はかなり大きいものであろう。<追記>

忌瓮(神に供えるための忌み清め容器)を用いて神に祈る、これは常套手段である。交渉事には縁起が付き物、しっかり祈ることが必勝の秘訣である、ちょっと古いかな? 古い話ですから…。

針間爲道口


そうして上記の図のごとく「針間口」に到達、くぐり抜けて「吉備国」の中心部に到達する。通説「針間」=「播磨国(兵庫県西部)」、「吉備国」=「吉備国(岡山県東部)」として問題なく比定されているようであるが、「針間爲道口」は全く説明できなく、不自然である。「針間道」ぐらいならわかるが…。武田氏訳は無視。

「吉見」の地名には「吉見上」と「吉見下」がある。二人の命がそれぞれ担当したのこと。何故、そんな細かいことを? いえいえ「吉見上」=「採鉱・製鉄」、「吉見下」=「鍛冶」であろう。分業が進んでいたのである。「銅」に関する記述はもっと古いため無いのであろうが、この技術力格差が国力に直結する時代であったろう。


「鉄」の輸送にしても、六連島からの直行よりこの安岡本町経由が合理的なように感じる。船による大量輸送はリスクを伴う、特に響灘のようなところでは。この区間の海上輸送は直行ルートの約70%である。「針間口」まで直線距離約4km、凹凸はあるが渡渉のない陸上輸送は安全であろう。この説話の裏、極めて興味深いが(日本書紀には記述無し)…。

暇が取り柄の老いぼれ「針間国」は「飛鳥」の東南、「吉備国」は北、並ぶことはない状況であるが、それを否定するようなできごとではなかった。むしろ「吉備国」の比定の精度があがったようである。読んでみるものである。

と、まぁ、こんな調子で・・・。

<追記>

2017.09.12
「氷」=「二つに割れる、分かれる」の意味がある。上記図から山から流れ出た川が一度分岐して、再度下流で合流している様子が伺える。氷羽州比賣の解釈と同様であろう。




2017年3月26日日曜日

幼い皇子の逃避行〔015〕

幼い皇子の逃避行

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
「履中天皇」、「反正天皇」の「二つの飛鳥」事件の前「仁徳天皇」を追っかけてみた。すると古事記序文に記載の通「遠飛鳥」を中心(首都)とし、東にある「近淡海」の「難波津」を交易(鉄鋼、木材等)の拠点とした「国家」としての体制基盤が作り上げられたことがわかる。

一方、西には「葛城」一族からの新鮮な朝鮮情報、とりわけ進んだ技術情報は国を豊かにするためには欠かせないものであったろう。インフラ整備の一環としての「之江」の治水事業は食料生産の安定もさることながら港湾の機能も大きく向上させたものであったろう。

治水技術は簡単なものではない。古事記は簡単に、かつ明瞭に記述するが、中国江南の銭塘江の凄まじい「之江」の治水技術、それを駆使して多くの人々が関わってできた「堀江」であろう。まさに柿本人麻呂が言う「丸雪降」である。ドラマチックな国家の成立過程を、むしろ淡々と、時には饒舌に述べている貴重な貴重な書物である。

さて、国家の形が出来上がってきたところで、その後は如何? 前記で「和珥」「葛城」外戚の抗争なんていうキナ臭い記述がみられたが・・・。

允恭天皇の墓


皆さん、在位が短い。業績あげる間もなくお亡くなりになっている感じだが、やたら墓所の地名が目立つ。この天皇、「遠飛鳥宮」(田川郡香春町)におられたのだが、その墓所は

御陵在河內之惠賀長枝也…

とある。「河內之惠賀」の「惠賀(エガ)」である。ネット情報、これに関してはスルーである。「〇賀」とくれば暇が取り柄の老いぼれの出番である。誰もお呼びではないが、シャシャリでます。

「恵」の草書体を調べると容易に推測できるようである。「恵」=「ゑ」である。ひらがなの成立時期、由来を考慮して「ゑ」=「之」の象形的類似性は明らかであろう。より複雑な河の蛇行と天皇に捧げる命名として用いられたものと思われる。

「恵賀」=「之賀」=「志賀」=「豊前(京都)平野」である。では「長枝」とは? これは地図上簡単に検索可能である。現在の地名「行橋市長木」辺りを示しているようである。行橋市の古墳情報、そもそもこの平野にはたくさんの古墳が見出されていて、平野全体古墳、少し言い過ぎでしょうが、のようなところであるが、その中でも集中している場所である。

上記したように中国江南の「之江」=「志賀」=「豊前(京都)平野」の推論の傍証となる記述と思われる。と、自画自賛して次に進めることに・・・本題の「幼い皇子の逃避行」。

幼い皇子の逃避行


サラッと古事記を読んでいると「行程」記述が見つかった。その上に未だ見ぬ「針間国」などという記載がある。これは早々に行ってみなくては、と思い立ったのであるが…。

前後はまたまた饒舌な部分、少し端折って該当部を示すと(原文[武田祐吉訳])…、

於是、市邊王之王子等意祁王・袁祁王二柱聞此亂而逃去。故山代苅羽井、食御粮之時、面黥老人來、奪其粮。爾其二王言「不惜粮。然汝者誰人。」答曰「我者山代之猪甘也。」故逃渡玖須婆之河、至針間國、入其國人・名志自牟之家、隱身、伇於馬甘牛甘也。[それでそのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騷ぎをお聞きになって逃げておいでになりました。かくて山城のカリハヰにおいでになって、乾飯をおあがりになる時に、顏に黥をした老人が來てその乾飯を奪い取りました。その時にお二人の王子が、「乾飯は惜しくもないが、お前は誰だ」と仰せになると、「わたしは山城の豚飼です」と申しました。かくてクスバの河を逃げ渡って、播磨の國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになって、身を隱して馬飼牛飼として使われておいでになりました]

外戚間の権力抗争、どうやら「葛城氏」が凋落の憂き目に曝される切っ掛けの事件が起きた模様。雄略天皇に二人の幼子の父親が殺害されという記述に繋がるところである。暇が取り柄の老いぼれのような「逃避行」に興味がなければ、なんとも意味不明な、なんでこんな話を載せるか、例によって、だから古事記は当てにならないという論旨に行くところである。

それはそれとして、短い文であるが訳者武田氏も困ったありさまが伺える。「苅羽井」、「玖須婆之河」この二つの重要な通過点の読み下しが不明である。「針間國」=「播磨国」でなんとか落とし込めるといった感じであるが…。

「意祁王・袁祁王」が何処にいたのか? 父親は「市邊王」=「市辺忍歯王子」「履中天皇」(磐余稚(若)桜宮)の御子である。この「若桜宮」に在していたとする。が、場所は? 困った時はネットである。福永氏、コペルニクスさん等々がちゃんと比定してくれている。有難いことである。どっちにするかなんて気楽なもので、頂きます、「若咲神社」である。根拠は? 秘密です。

第一通過点は「苅羽井(カリハヰ)」である。「苅羽井」=「カワイ」=「河(川)合」と読む。「河合」の由来は「河が合流しているところ」、それも単なる合流ではなく複数の河が集まってるような特徴のある場所に由来するとある。姓の由来は重要である、突然良い()名前を付けろ、なんて言い出す奴がいるから困ったもんだ、である。

同じ「河合」でも「山代の河合」である。「若咲神社」(現在の田川市川宮)を出て「山代」に向かう、この神社は「奈良」にあるから「山口」も何も告げず通過して「犀川(山代川)」に向かうことになる。前記「石之日売命」が望郷の念で諳んじたルートの一部を遡行することになる。

暫く川沿いに進むと、そこが第一通過点「苅羽井」である。南から犢牛岳、蔵持山から流れ「喜多良川」「高屋川」、北から御所ヶ岳山塊から流れる「松坂川」が「犀川(山代川)」に合流する。平成筑豊田川線犀川駅近隣である。神功皇后が立寄ったという生立八幡神社がある。尚、川沿いルートか山浦大祖神社ルートかは不明。

第二通過「玖須婆(クスバ)之河」困ったのであろう、一説には「樟葉(大阪枚方市)」とあるが、前記「石之日売」の遁走の通説解釈に従うなら、渡るのは「淀川」=「山代川」となってしまい「山代苅羽井」と矛盾する。混乱してて同じところ行ったり来たり、単なる言い訳である。そう言う時は、記憶にございません、と答える、のかもである。

「玖須婆」=「奇・婆」=「神妙で頭を垂下げた姿」と解釈できる。日本三大彦山、修験者の山「英彦山」を源流に持つ「祓川」の謂れに直結する。「玖須婆之河」=「祓川」である。多くの修験者が登った霊験あらたかな山、古代から人々の生き様を見届けてきた山である。

「犀川」の「河合」から現在の京都カントリークラブ山荘近くの間道を抜けると「祓川」にぶつかり、渡渉して暫く行くと、もう目的の「針間国」は間近である。「針間国」=「播磨国」(兵庫県姫路市辺り)ではない。



針間国


「針間」=「針の間」針を並べた時のその間のような場所と解釈できる。山の尾根が何本も、海辺に直交するように向かっている、極めて特徴的な地形に由来する。そんな場所「椎田」にある。現在の地名は築上郡築上町椎田である。「椎」=「背骨」である。人の背中からの様子と同じと言っている。

「国譲り」の雲間が、また、一つ見えてきたようである。特徴がある地形の「国譲り」は不可能である。がしかし、1300年持ち堪えたことに敬意を表そう。

例によって参考までに地図を…


この説話の真意、暇に任せて紐解いてみよう…



2017年3月24日金曜日

仁徳天皇:絹と染色〔014〕

仁徳天皇:絹と染色

 『紅』と『藍』


「鉄」を確保した仁徳さん、今度は何をゲットしようと企んだのか? 力を示すには身の回りのものが大切、特に衣服の威圧は崇める人達には印象深い。あろうことか「絹」の話題に飛ぶようである。

口子臣という家来が仁徳さんの命令を受けて、遁走した「后」に会いに行ったところ、なかなか会ってくれない。大雨の中で地べたにひれ服している時の様子である。古事記原文(通訳:武田祐吉)

故、是口子臣、白此御歌之時、大雨。爾不避其雨、參伏前殿戸者、違出後戸、參伏後殿戸者、違出前戸。爾匍匐進赴、跪于庭中時、水潦至腰。其臣服著紅紐青摺衣、故、水潦拂紅紐、青皆變紅色。爾口子臣之妹・口日賣、仕奉大后、故是口日賣歌曰、

夜麻志呂能 都都紀能美夜邇 母能麻袁須 阿賀勢能岐美波 那美多具麻志母

爾太后問其所由之時、答白「僕之兄、口子臣也
[このクチコの臣がこの御歌を申すおりしも雨が非常に降っておりました。しかるにその雨をも避けず、御殿の前の方に參り伏せば入れ違って後の方においでになり、御殿の後の方に參り伏せば入れ違って前の方においでになりました。それで匐て庭の中に跪いている時に、雨水がたまつて腰につきました。その臣は紅い紐をつけた藍染の衣を著ておりましたから、水潦(みずたまり)が赤い紐に觸れて青が皆赤くなりました。そのクチコの臣の妹のクチ姫は皇后樣にお仕えしておりましたので、このクチ姫が歌いました歌は、

山城の筒木の宮で申し上げている兄上を見ると、涙ぐまれて參ります。

そこで皇后樣がそのわけをお尋ねになる時に「あれはわたくしの兄のクチコの臣でございます」と申し上げました]

石之日売命は「那良山口」で故郷を望む歌を詠って、引き返して「夜麻志呂能 都都紀能美夜邇」
実家に逃げ帰って泣き言を述べる、そんな気弱な皇后さんではない。しっかりお仕事をなさるのである。

「夜麻志呂」=「山代」=「山背」=「山裏」=「山浦」である。地名として残ってるところを調べると「那良山口」の東方、現在の平成筑豊田川線「油須原駅」の近くの地名は「浦山」である。「戸城(トノシロ)山」の南麓である。

この山の東北に「山浦大祖神社」(神功皇后腰掛石)があり、古事記の「山代」はこの辺りを示している。「筒木宮」は「山代川(犀川)」を下に眺める高台にあった。「トノシロ」=「トキ」と読み替えれば「戸城(トキ)」=「筒木(トウキ)」と繋がるのではなかろうか。<追記>

歌の前文、短いものだが意味深長である。「服著紅紐青摺衣」茜染と藍染が既に行われていたことがわかる。魏志倭人伝に記述された倭人のイメージからすると大きな変化である(およそ200年か?)。この短い記事からで推測するのは冒険ではあるが、少し試みたい。

水溜りに浸かった「赤い紐」から茜色が着衣に移ったようである。草木からの抽出で造られる日本茜(プルプリン:多価フェノール誘導体)とすると、かなり染色しやすく脱色しづらいもののように思えるが(タンパク質系繊維:絹、羊毛等)、まだ媒染技術レベルが低かったのであろう。5世紀を思えば当然かも、である。

ただ、単に茜が藍の着衣に移っただけでは着衣が赤くはならず混色によって紫色に変化するように考えられる。茜が脱色する条件ならば、より染色しづらく脱色しやすい藍は既に抜け落ちていることが予想される。茜の色そのものになったと解釈すれば、抜け落ちと同時に変色(薄黄色)の状態になっていたのではなかろうか。

(インディゴ)は容易に還元されて無色(薄黄色)の化合物に変化する。茜は上記したように多価フェノールで化合物としての変化はなく、抜け落ちるだけである。「水溜り」の水は還元性を有している。おそらく硫黄系の亜硫酸塩を含んでいたのであろう。

いずれにしても自然が色彩豊かであるように人々はそれを求めて工夫をした。1500年以上の過去にも色彩豊かな日常を楽しんでいたことを確認できる。また、あらためて古事記の記述の正確さに驚かされる。

「藍染」は現在もその特異な染色技術を必要とすることが知られている。色味、風合い共に飽きることのないものである。その技術の巧みさ、「漆工」も含め、伝承と解明が望まれる。さて、話を古事記に戻すと…

奴理能美の『蚕』


三人が計って仁徳さんを誘き寄せようと、あの好奇心旺盛なお方だからきっとこの話には乗ってくるんじゃない? ついでに「后」を弁護しよう、と…

於是口子臣、亦其妹口比賣、及奴理能美、三人議而令奏天皇云「大后幸行所以者、奴理能美之所養虫、一度爲匐虫、一度爲鼓、一度爲飛鳥、有變三色之奇虫。看行此虫而入坐耳、更無異心。」如此奏時、天皇詔「然者吾思奇異、故欲見行。」自大宮上幸行、入坐奴理能美之家時、其奴理能美、己所養之三種虫、獻於大后。爾天皇、御立其大后所坐殿戸、歌曰、

都藝泥布 夜麻斯呂賣能 許久波母知 宇知斯意富泥 佐和佐和爾 那賀伊幣勢許曾 宇知和多須 夜賀波延那須 岐伊理麻韋久禮

此天皇與大后所歌之六歌者、志都歌之歌返也。[そこでクチコの臣、その妹のクチ姫、またヌリノミが三人して相談して天皇に申し上げましたことは、「皇后樣のおいで遊ばされたわけは、ヌリノミの飼っている蟲が、一度は這はう蟲になり、一度は殼からになり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に變るめずらしい蟲があります。この蟲を御覽になるためにおはいりなされたのでございます。別に變ったお心はございません」とかように申しました時に、天皇は「それではわたしも不思議に思うから見に行こう」と仰せられて、大宮から上っておいでになって、ヌリノミの家におはいりになった時に、ヌリノミが自分の飼っている三色に變る蟲を皇后樣に獻りました。そこで天皇がその皇后樣のおいでになる御殿の戸にお立ちになって、お歌い遊ばされた御歌、

山また山の山城の女が木の柄のついた鍬で掘った大根、そのようにざわざわとあなたが云うので、 見渡される樹の茂みのように賑にぎやかにやって來たのです。

この天皇と皇后樣とお歌いになた六首の歌は、靜歌の歌い返しでございます]

仁徳さん、早々にお出ましになり、「三種虫」=「蚕」、「夜賀波延」=「八桑枝(大きな桑の枝)」をゲットなされたようである。詳細は略すが、「淤呂須波多」=「織機」が後に登場し、「紡糸」、「紡績」の事実を伝える。「絹糸及び織物」の「生産技術/設備」が確保できたことを示している。

相変わらず他愛ない物語を記述しているように見えるが、言ってることは極めて重要である。中国の史書に5世紀以前に筑紫の倭国で絹織物が作られていたことが記載されているが、古事記が裏付ける。「絹」のきの字も発掘されない近畿「大和」は古事記の舞台ではない…と言っておられた方が居た。

邇邇芸命一派の物語は神武天皇に始まり、「近淡海」と「遠飛鳥」を手中に入れ、仁徳天皇でその基盤を確立したと述べている。仁徳紀が長く、種々雑多の説話を記述したのはその実態を示すことが目的であった。朝鮮半島からすると未開の地であり、そこからの渡来人達が作った多元的国家の時代に、追い付け追い越せの国造りに勤しんだ天皇の物語と思われる。

天皇と豪族


仁徳紀の最終章は「丸邇氏」と「葛城氏」との外戚争いであろう。また、気が向いたらブログ化するかも、である。感想のみ記載すれば…

仁徳天皇の父親、応神天皇の時代に深く関わった「丸邇氏」系(宮主矢河枝比売の子:菟道稚郎子皇子、八田若郎女、女鳥王)と「葛城氏」系「石之日売命」(仁徳の后)、「后」が強いのも最新の朝鮮半島情報を携えた実家の力を背景にしたのであろう。勢力を張る「丸邇」一族にとっては許しがたき相手であった。

仁徳さん、そこは上手く立ち回って、和珥系の八田若郎女も丁重に扱い、石之日売命もコケにすることなく、である。何事も政治はバランスと心得ていらっしゃったようである。「建内宿禰」まで持ち出して褒められる。やり過ぎでは? とは言うものの、ひょっとしたら事実かもしれない。

最後に引っ掛かったこと…「丸邇」の「邇(ニ)」=「丹(ニ)」とすれば、「丸邇氏」は「朱」に関わるのではなかろうか。「朱砂」は「銅鏡」造りに不可欠の研磨剤であり、香春岳に産する「銅」と切っても切り離せないものである。田川郡香春町の南に「赤村」がある。調査不十分でなんともであるが「赤」の由来かもしれない。

更に、「丸邇」一族の分派に「柿本」姓がある。「大坂山」の西南山麓、「柿下」という地名があり、一説には「柿本人麻呂」の出自に関連するとある。いろいろ関連してきて、“困ったもの”である。

では、本日はこれくらいで…。

<追記>

(古事記新釈:仁徳天皇【説話】参照)

2017.09.12
「山代国之大筒木」その後の検討で、現地名福岡県京都郡みやこ町犀川木山辺りと特定した。招提寺、宝樹寺が集まるところが中心地、宮があったところと思われる。地図を参考までに。






2017年3月22日水曜日

仁徳天皇:吉備国〔013〕

仁徳天皇:吉備国

奥方の実家遁走を招いた仁徳さんの怪しい「吉備国」行き、バレバレの口実をしてまで行かねばならかった場所とは?「黒日売」との逢瀬だけが目的ではないような気もするが、先ずは何処に行ったか、調べてみたい。

通説の訳文によると概略以下の通りである…

・海部直(アマベノアタイ)の娘「黒日売」、髪が黒くて容姿端麗、を召された。
・ところが奥方「石之日売命」の嫉妬が怖くて実家に帰った(これも実家の登場)
・嘆いた仁徳さん、「淡道島」を視察に行くなんて嘘をついてさっさと出掛けた。
・淡島にて歌を一句:淡島、オノゴロ島、アジマサの島、さけつ島が見える。
・島伝いに「吉備国」へ。
・「黒日売」が出迎え、「(アオナ=青菜)」の煮物を献上しようと摘んでる時に一句。
 一緒に摘むと楽しいなぁ…ご気楽です。
・「黒日売」に嘆きの歌まで詠わせておきながら、ササッと仁徳さんご帰還。

と言う、なんとも奥方に嘘までついて出掛けた割には呆気ない幕切れである。「黒日売」の登場はこれきり、まさに何のためにわざわざこの逸話を挿入したか、さらりと読み流せば作者の意図が疑われるところである。

これまでも繰り返したようにこれは大変な重要な、意味のあることを述べていると解釈すべきである。

・「黒日売」とは?
・「吉備国」への行程及びその場所は?
・「菘」とは?
・「石之日売命」と「黒日売」とは?
・「仁徳紀」の本題は?

さて、「吉備国」への行程から考察してみよう。出発は、記載はないが難波津であろう。「淡道=淡路島」まで特段の記載事項がないのは寄る所もなくスンナリと到着するからであろう。前記に従って豊前難波津からスタートする。

挙げられた島々、伊邪那岐と伊邪那美による国生み神話に登場するが、この国生みの解釈自体が混迷の渦中にある。近畿大和が記紀の話題とするなら現在の本州を含めるのが必然である。しかしながら生み出された島々の多くが北九州沿岸部にあることは異論のないところであり、朝鮮半島の視点で記述されている。暇が取り柄の老いぼれとしては、本州不含説を採る。

北九州に限っても決して島々の比定は容易ではなく、諸説乱立している。ネットで検索してもその乱立状態で止まっているようである。なかでもほぼ意見の一致をみるところを採用しその比定された場所を前提に話を進めることとする。

「大倭豐秋津島」は通説では「本州」であるが、「大倭豐秋津島」=「企救半島」とする。前記の古事記の序文に「秋津島を経て」と記載され、目的地の「倭」ではなかったことによる。現在九州本島と陸続きであるが、古代においては当時の水位(海面の高さ)、また陸からの土砂の堆積が進んでないことから推定されている(⇒2017.5.9 訂正と補足)

考古学上の遺物もさることながら過去の地形そのものを追及する検討は極めて重要である。演算処理能力世界で一番という大型コンピューターによるシミュレーション、駆使できない?って勝手に思うこの頃…地震予測に使えるのでは?・・・。

肝心なことは古代人の地形認識である。彼らのそれは地図という優れたツールを持つ現在から見ると確かにずれ()があるが、根本的なことに間違いがないと思われる。「島」は島()であって、「半島」ではない。距離数がアバウトであっても方位に狂いはない、と推測する。

古事記原文(通訳:武田祐吉)は…

故、大后聞是之御歌、大忿、遣人於大浦、追下而、自步追去。於是天皇、戀其黑日賣、欺大后曰「欲見淡道嶋。」而、幸行之時、坐淡道嶋、遙望歌曰、

淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由

乃自其嶋傳而、幸行吉備國。

[ここに天皇は黒姫をお慕い遊ばされて、皇后樣に欺つて、淡路島を御覽になると言われて、淡路島においでになつて遙にお眺めになつてお歌いになつた御歌、

海の照り輝く難波の埼から立ち出でて國々を見やれば、 アハ島やオノゴロ島アヂマサの島も見える。サケツ島も見える。

そこでその島から傳つて吉備の國においでになりました]

豊前難波津を出航し、北西に進路を取り、秋津洲の南端、難波の御崎である。現在の足立山北麓の高台に到着する。この地より遥かに遠い「吉備国」方を眺めて詠った歌である。各島の比定は以下の通りである。

●「阿波志摩」=「彦島(福浦)
「淡海」の出入口

●「淤能碁呂志摩」=「彦島(西山)
血液が凝固する時のように島の凸状態を表す。

●「阿遲摩佐能志麻」=「馬島」
 「阿遲」=「小型の鴨」渡り鳥の一種。福岡県の渡り鳥中継地の報告書あり。
「摩佐」=「増す(繁殖)

●「佐氣都志摩」=「六連島」
 「佐氣都」=「裂ける」国の天然記念物:雲母玄武岩がある。雲母の劈開性を表現したか、もしくは「氣都」=「穴」この島は溶岩台地であり、溶岩の凝結時に海水の水蒸気爆発による多孔状の外観から採った、又はその両者かである。

いずれにしても島の命名については当時の言伝えから現地の形状、その場所の特徴を捉えて行われたものであろう。これら四つの島については現在わかる範囲での情報からでも納得できるもののようである。

大阪難波津を出航して淡路島(北端)に立って、4060km先の男鹿島他~小豆島、四国を見ることになる。見えるという表現よりも「遙望」であろう。通説は上記四島について「淡路島」以外は不詳である。古事記の記述をあるがままに解釈するなら仁徳天皇の立った場所は「淡路島」ではない。

吉備国への行程<追記>


準備が整ったところで仁徳さんと共に豊前難波津を出航することにする。下図を参照願いたいが、古事記に記載の順番に従って、島伝いに「吉備国」を目指す予定である。

 
難所の「淡海」を横断する。「彦島(福浦→塩浜町)」を経て「彦島(西山)」に到着する。響灘を漕ぎ抜け「馬島」に至り、少々鳥達と戯れて「六連島」に達する。

これからは島伝いとはいかず、しっかりと休養して一気に「福江」を目指して舟を進める。

「吉備国」=「吉見」現在の「福江」辺りまでの領域を示すと思われる。

後は「黒日売」との楽しい逢瀬…では、ない。何故「黒」なのか? 髪が黒くて容姿端麗…髪ではなく「金」である。

「黒金」=「鉄」を意味する。

仁徳さん、「鉄」に逃げられては困るのである。いや、何が何でも「鉄」が要るのである。

「鉄は国家なり」ビスマルクより何百年も前に仁徳さんが申しておりました。「鉄」が手に入るなら嘘の一つや二つ、朝飯前。


吉備国での逢瀬


「吉備国」での出来事、他愛ない、なんて思わずに読み下しましょう。

之菘菜時、天皇到坐其孃子之採菘處、歌曰、

夜麻賀多邇 麻祁流阿袁那母 岐備比登登 等母邇斯都米婆 多怒斯久母阿流迦

[採む處においでになつて、お歌いになりました歌は、

山の畑に蒔いた青菜も吉備の人と一緒に摘むと樂しいことだな]

「菘」=「青菜」青い野菜、だそうですが、寓意は? 直訳すれば「夜麻賀多邇」=「山方」。「鉄」に関係する「山方」。「菘」=「若い人達(労働力)」精銅の経験者も含めて、仁徳さんは提供したのである。吉備の人と一緒に「青菜を摘む」のではなく「人を積む(増す)」ことを楽し気に話したのである。

武力による制圧・奪取ではなく共同事業を行ったと言っている。現在で言えばTOBを仕掛けるのではなく、資金(人力)提供によるアライアンスを仕組んだのである。武力制圧の方が手っ取り早いのに何故そうしなかったかは憶測になるが、殺伐たる時代の発想として、極めて興味深い。

天皇上幸之時、黑日賣獻御歌曰、

夜麻登幣邇 爾斯布岐阿宜弖 玖毛婆那禮 曾岐袁理登母 和禮和須禮米夜

又歌曰、

夜麻登幣邇 由玖波多賀都麻 許母理豆能 志多用波閇都都 由久波多賀都麻

[そこでその島から傳つて吉備の國においでになりました。そこで黒姫がその國の山の御園に御案内申し上げて、御食物を獻りました。そこで羮を獻ろうとして青菜を採つんでいる時に、天皇がその孃子の青菜を天皇が京に上つておいでになります時に、黒姫の獻つた歌は、

大和の方へ西風が吹き上げて雲が離れるように離れていても忘れは致しません。

また、

大和の方へ行くのは誰方樣でしよう。地の下の水のように、心の底で物思いをして行くのは誰方樣でしよう]

仁徳さんの男性的魅力に「黒日売」ぞっこん…それもあったのでしょうが、もう少し違う形で読み取れそうである。大和に西風吹いて雲がはなれる…西の方で「鉄」の供給の目途が立っても…であろう。この業務提携の素晴らしさを「黒日売」に歌わさせているのであろう。

吉備国の『鉄』


「吉備国」に「鉄」はあったのか? ネットを検索すればスンナリと出現する。表立った資料には殆ど記載されてないようだが、遺跡も含めて鉄鉱石を原料とした製鉄炉跡が確認されている。生産規模が小さく後年になってからの目で見ると消えてしまいそうな感じであるが、歴史的には重要な事実として捉えなければならないものであろう。

「吉見」の東北に「鬼ヶ城」という山がある。鬼は製鉄作業に関わる人々に対する表現である。日本のお祭りに登場する多くの鬼は決して悪者ではなく、むしろ畏敬の念をもって扱われる、と知る。彼らが国を支えていたことを十分に理解した行為である。現在の岡山「吉備国」に纏わる伝説も、ここ下関「吉見」周辺を舞台としたものではなかろうか…。

  
奥方の「石之日売命」は「石」を拝命している。単独で取りに行ったのが「毛()」である。神武天皇が奪取した「銅」は支配する領域、香春岳に潤沢にある。重要な武器としての「鉄」はない。これがなければ戦は出来ぬ。国家が成り立たない。何が何でも、である。古い石器時代のような「石之日売命」、決して粗末に扱うことはないが時代が流れているのである。嫉妬に狂いながらも、彼女の行動は、何故か健気に感じられる…安万侶君の思惑通り、である。

邇邇芸命一派、すなわち天照大神系統、に不足する「鉄」調達成功物語は、記紀を通じての最大の関心事である。もう一つの系統、月読神系統は九州西部の支配及び朝鮮半島支配による「鉄」の調達に目途がある。邇邇芸命一派の最大の弱点でもあった。換言すれば月読神系統は朝鮮半島の情勢に大きく依存することになる。室伏志畔氏の幻想史学に期待するところである。

仁徳天皇紀は更に続いている。どうやら更なる獲物をゲットすることに成功したようであるが、今回はここまで…。



<追記>

(古事記新釈:仁徳天皇【説話】参照)


<2017.5.9 訂正と補足>
「企救半島」=「筑紫嶋」及び「古代海面について補足資料」
「大倭豊秋津嶋」=「貫山及び福智山山塊」

2017.11.15
仁徳天皇が詠った場所及び眺めた島々について再考。「淡嶋と淡道嶋」で記述。淡道嶋で立寄った場所は現在の下関市塩浜町にある岬と推定された。

2017年3月19日日曜日

仁徳天皇:難波高津宮〔012〕

仁徳天皇:難波高津宮

判り易いようでなかなか正体を見せないこの宮「難波高津宮」、それでも何とか迫りたい、そんなところである。やはり古事記仁徳紀を丁寧に読み解すことからであろう。

古事記を開くとなかなかの分量で、きっと手掛かりが、なんて錯覚しそうだが、通訳を見ると情けなくなるような記述。仁徳さんが若い女の子に手を出すものだから古女房が嫉妬の塊、挙句の果てに実家に遁ずらしてしまうような話を延々と、である。解説文など、なんでこんな話を入れるか、理解に苦しむ、とか、例によってどこかから引っ張ってきた逸話、など惨めなものである。

そうかも、と思いながら、丁寧に、あの安万侶君の気持ちを忖度しながら読み始めることに。どうやら大きく分けると、「三年免税」の話に続いて、吉備姫との密会 ②怒りの后遁走 ③懲りない仁徳 ④あっぱれ仁徳 のような感じである。

いやいや、仁徳天皇こそ国造りに必要なことを「身を挺して」成し上げた偉大な天皇と歌い上げてる、と解釈される。国を作った偉人をその女好きを比喩にして書き上げる、こんな「歴史書」あるのだろうか…暇が取り柄の老いぼれのごとき浅学には知り得ない“感動の物語”である。

それでやはり「難波高津宮」が本題なので、から解き解してみようかと思う。「后石之日売命」の実家への遁走記である。

吉備の「黒日売」との密会が終わったかと思うと、自分がいない間に、なんと宮に女を連れ込んで日夜…なんてヒドイひと、許せません、あんたのお仕事のためにわざわざ出掛けて取って来たのに…大事なものをかなぐり捨てて、実家へ・・・その行程記述が始まる。

古事記原文[通訳(武田祐吉)は…

於是大后大恨怒、載其御船之御綱柏者、悉投棄於海、故號其地謂御津前也。卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。此時歌曰、
[そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏かしわの葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津の埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上っておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、]

行程の第一歩、大切です。どっちに向かったのか?「二つの飛鳥」です。「引避其御船」=「船を曲げて」と解釈されている。「引避」=「後ろに向かって避ける」であろう。Uターンしたのである。しかも「皇居」はかなり近いところにある。見えるところと言ってもいいかもしれない、そんな状況である。通訳が「曲げる」としたこと、これは極めて重要な意味を持つ。

「堀江」茨田堤の堀江が近接である。河川の蛇行が激しく、氾濫を繰り返した場所である。複数の河川による「之江」の場所である。

都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 迦波能煩理 和賀能煩禮婆 迦波能倍邇 淤斐陀弖流 佐斯夫袁 佐斯夫能紀 斯賀斯多邇 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 斯賀波那能 弖理伊麻斯 芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母
[山また山の山城川を上流へとわたしが溯れば、河のほとりに生い立つているサシブの木、 そのサシブの木のその下に生い立つている葉の廣い椿の大樹、その椿の花のように輝いており その椿の葉のように廣らかにおいでになるわが陛下です]

夜麻志呂賀波」=「山城川」=「淀川()」としているが、「夜麻志呂賀波」=「山背川」=「山の背(うしろ)を流れる川」とすると行程の第一段階が見えてくる。

詳細に入る前に「難波津は豊前平野にあった(豊前難波津)」と最初に唱えられた大芝英雄氏に敬意を表し、氏が2001年に九州古代史の会で報告された内容の一部がこれから記述するものに該当する。氏の根拠は書物等で確認頂きたいが、重要なのは、「后」がどの方向から帰って来たのか、「御綱柏」の入手先は何処であったかは大芝氏、福永晋三氏などの記述([]の国[現豊前市辺り])に従うものである。

結果的には大阪難波津と同じく、船旅で「南方」から帰途する際に起った事件である。通説は「南」から難波津で東北方向に「曲がった」と言う。淀川沿いに進めばその通りである。「車線変更」であり、「右折」でもない。ましてや「山城」に向かうなら「Uターン」して何処に行く、である。

「山城」が経由地だから致し方ないのであろう、「葛城」が目的地なら、「Uターン」ならずとも「右折」が最短距離であろう。この「山城」経由は致命的である。この短い行程記事の通説解釈が根底から揺らぐのである。

「后」の船は難波津(())で左方向「Uターン」し、「山背川」の堀江に入った。そして前方に見える「御所宮」を見て詠った。紛うことなく「山背川」=「犀川(今川[])」である。今川から御所ヶ谷神籠石跡及びその麓まで、最短だと直線距離で23kmである。「避」けるようにすり抜けて、御所ヶ岳山塊の「背後を流れる川」を遡ったのである。

古事記は「山城」という地名を記述しない。「山背川」という「川」である。では、何故「山城川」としなければならなかったのか? 「山城」を読み手に植え付けようとしたのか?

理由は簡単である、後ほど詳細に述べるように、「大和川」などを遡っては、駄目なのである。それでは、先に葛城に着いてしまうからである。西から大阪難波津→葛城→倭(後の遠飛鳥)である。大きく北からの迂回ルートを描く必要があったのである。先に進もう。

卽自山代廻、到坐那良山口歌曰、
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理
[それから山城から廻って、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、
山また山の山城川を御殿の方へとわたしが溯れば、うるわしの奈良山を過ぎ 青山の圍んでいる大和を過ぎわたしの見たいと思う處は、葛城の高臺の御殿、 故郷の家のあたりです]

出ました「山口」=「那良山口」=「平山口」である。彦山川と中元寺川に挟まれる「平原」である。現在の赤村辺りで犀川が大きく曲がる所で下船したのであろう。続くは、枕詞「あおによし」、現在の「田川市奈良」を素通りし、枕詞「小楯」=「青山の囲んでいる」そうでしょう…「倭」=「田川市香春町周辺」を横目で見て、特に「山口」もなく進めば「我が故郷」、と詠っておられる。


葛城高台御殿


それらしき所は「葛城高台御殿」=「筑豊緑地()」近くには「鹿毛馬神籠石跡」もある。「我が故郷」はこの辺りと思われる。彼女の父親「葛城襲津彦」武内宿禰の子、朝鮮外交の伝説あり。古事記の作者は「葛城」の場所を教えたかったのである。「后」の追跡調査は古代歴史の雲間を見せてくれたようである。

大芝氏は「山城」に拘った。古事記解釈の通説に引き摺られ、「山城川」の先、行程の最後まで至らなかったようである。

論旨の整理を含めて図示すると(参考:通訳ルート)



履中天皇の逃亡劇から「難波高津宮」の所在地は豊前の御所ヶ岳山塊の北側、その山麓であるとした。今回の「后」の行程解釈も矛盾しないことがわかった。通説、大阪難波高津宮とした時、前回と同様に地理的関係が矛盾する、「難波高津宮」と「飛鳥」の位置が東西逆転していることに拠ると思われる。

「国譲り」の際、古代では「地図」という有効な手段がなく、また現在のように地図を描きながら位置情報を処理するまでに至っていなかったことを示している。「禊祓」を完結するには至らなかった、しかし1300年間、持ち堪えたこと自体を深く考え直すことであろう。

何と言っても現実の日本が存在する。最も大切なことは、これからである。これからどうすべきかを考えるためにこそ真実が求められていると思うのである。



<追記>

(古事記新釈:仁徳天皇【后・子】【説話】参照)

2017.07.04
その後、「葛城」「筒木」の場所を求めた。改訂した地図である。


本ブログ〔042〕(葛城)〔046〕(筒木)を参照願う。

2017.08.24
その後のその後に「葛城長江曾都毘古」が祖となる葛城の地名「玉手」が特定できた。高宮の位置は少々東に移動である。現地名は福岡県田川郡福智町上野常福、そこにある岡の上とする。






2017年3月16日木曜日

柿本人麻呂の『吾跡川楊』〔011〕

柿本人麻呂*の『吾跡川楊』


ブログを整理していると、やはり人麻呂君の歌に引っ掛かってしまった。歌の奥の深さをあらためて思い知らされた。少々被るが今一度纏めてみる。何と言っても下記の歌である。

・柿本人麻呂(7-1293)
丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅亦生云 余跡川楊
(霰降り 遠つ淡海の吾跡川楊 刈れどもまたも生ふといふ 吾跡川楊)

丸・雪降 遠江 吾・跡・川楊 雖苅・亦・生云 余・跡・川楊

と区切って…

のように遠江 した川楊 雖苅 亦 生云 るよした川楊

歌意を以下のように訳した…

人が空から舞い落ちて来るように集まる遠江に私が残した川楊は刈れどもまたも生ふという、ならば余るほどに川楊を残していこう

「川楊」=「人麻呂の詠った歌」として・・・

…多くの人々が雪の降るように集まってきた遠江、日々時代が移り変わる中で詠ってきた歌、その変化の速さに消えてしまいそうだが、余りある程に詠っていこう…

人麻呂の「遠江」の解釈に彼の身近なところとして豊前(京都)平野の周防灘開口部(入江)を中心に考えたが、その後の考察で以下のことがわかった。

・「淡海」=「玄界灘、響灘」、「近淡海」=「周防灘」を示す。
・「志賀之高穴穂宮」=「平尾台東南麓」(福岡県行橋市)、「志賀」=「之江」
・日本書紀(仁徳天皇紀) 「遠江国」=「福岡県宗像市周辺」(遠賀川左岸~古賀市)

豊前(京都)平野は「近」であり、「志賀」であって「遠江」及び「遠賀」共に合致しないことを示している。日本書紀の記載を信じれば、人麻呂の「遠江」は上記の「遠江国」周辺と解釈するのが適切と思われる。とすると、一歩踏み込んだ解釈が真実味を帯びてくるようである。

…私が詠った歌の中の「丸」、現れては消え、また現れる、まるで雪のよう、そんな激しい時代の流れに私の「川楊のような歌」の中だけでも「丸」を「跡」していこう…

と、そんな人麻呂の気持ちが伝わってくる。「遠江」に「天」から多くの渡来があった。その度に「国譲り」「禊祓」が繰り返された。非情な時の流れを暗示しているのかもしれない。繋がらないのはその大和朝廷成立前である。

「遠江国」その領域を確定することは不可であるが、間違いなく博多湾岸に注ぐ那珂川、御笠川と遠賀川に挟まれた「淡海」に面する土地は多くの渡来人を受け入れ、内陸に拡がりながら古代の国を作り、大和朝廷に繋がった、と理解できる。

願わくは、未来のボケた頭の日本人にもわかるように詠って欲しかった、人麻呂君。君の立場も命懸けで抵抗したことも、わかっているつもりですが・・・。また、君の「川楊」読ませて貰うが、教えて下さい。