安康天皇
悲恋の物語が終わって穴穂命が即位した。悲しい出来事は決して終息することはなく、天皇家の拡大発展のシナリオから逸脱していくことになる。栄枯盛衰が歴史の、人の世の常とは言え、ある意味呆気ないほどの変転振りである。
古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、
御子、穴穗御子、坐石上之穴穗宮、治天下也。天皇、爲伊呂弟大長谷王子而、坂本臣等之祖・根臣、遣大日下王之許、令詔者「汝命之妹・若日下王、欲婚大長谷王子。故可貢。」爾大日下王、四拜白之「若疑有如此大命。故不出外、以置也。是恐、隨大命奉進。」然、言以白事、其思无禮、卽爲其妹之禮物、令持押木之玉縵而、貢獻。
根臣、卽盜取其禮物之玉縵、讒大日下王曰「大日下王者、不受勅命曰『己妹乎、爲等族之下席』而、取横刀之手上而怒歟。」故、天皇大怒、殺大日下王而、取持來其王之嫡妻・長田大郎女、爲皇后。
[御子のアナホの御子、石の上の穴穗の宮においでになって天下をお治めなさいました。天皇は、弟のオホハツセの王子のために、坂本の臣たちの祖先のネの臣を、オホクサカの王のもとに遣わして、仰せられましたことは「あなたの妹のワカクサカの王を、オホハツセの王と結婚させようと思うからさしあげるように」と仰せられました。そこでオホクサカの王は、四度拜禮して「おそらくはこのような御命令もあろうかと思いまして、それで外にも出さないでおきました。まことに恐れ多いことです。御命令の通りさしあげましよう」と申しました。しかし言葉で申すのは無禮だと思って、その妹の贈物として、大きな木の玉の飾りを持たせて獻りました。ネの臣はその贈物の玉の飾りを盜み取って、オホクサカの王を讒言していうには、「オホクサカの王は御命令を受けないで、自分の妹は同じほどの一族の敷物になろうかと言って、大刀の柄をにぎって怒りました」と申しました。それで天皇は非常にお怒りになって、オホクサカの王を殺して、その王の正妻のナガタの大郎女を取って皇后になさいました]
歴代の天皇のように「后・御子」の記述が欠ける。殺害した臣下の王の妻を取って后としたと記される…と言う訳で原文に従って読み解いてみよう。
[御子のアナホの御子、石の上の穴穗の宮においでになって天下をお治めなさいました。天皇は、弟のオホハツセの王子のために、坂本の臣たちの祖先のネの臣を、オホクサカの王のもとに遣わして、仰せられましたことは「あなたの妹のワカクサカの王を、オホハツセの王と結婚させようと思うからさしあげるように」と仰せられました。そこでオホクサカの王は、四度拜禮して「おそらくはこのような御命令もあろうかと思いまして、それで外にも出さないでおきました。まことに恐れ多いことです。御命令の通りさしあげましよう」と申しました。しかし言葉で申すのは無禮だと思って、その妹の贈物として、大きな木の玉の飾りを持たせて獻りました。ネの臣はその贈物の玉の飾りを盜み取って、オホクサカの王を讒言していうには、「オホクサカの王は御命令を受けないで、自分の妹は同じほどの一族の敷物になろうかと言って、大刀の柄をにぎって怒りました」と申しました。それで天皇は非常にお怒りになって、オホクサカの王を殺して、その王の正妻のナガタの大郎女を取って皇后になさいました]
歴代の天皇のように「后・御子」の記述が欠ける。殺害した臣下の王の妻を取って后としたと記される…と言う訳で原文に従って読み解いてみよう。
<石上之穴穗宮> |
成務天皇の「志賀之高穴穂宮」で紐解いた「穴穂」=「洞窟が穂のように多く寄集っている」ところであろう。
場所が異なって「石上」である。国土地理院地図に記載されている鍾乳洞の在処がその場所を示すと思われる。
石上之穴穗宮があった場所は現在の田川市夏吉にある須佐神社辺りと推定される。幾度か述べたように倭国は鍾乳洞に囲まれた地にあり、石灰岩の山がもたらす自然の恵みにどっぷりと浸かった古代であったろう。
<石上> |
その土地の「上」と理解して概ね間違いないところではあるが、今一歩踏み込んでみよう。
山塊の麓を流れる金辺川は呉川、御禊川、五徳川などを集め大河となって流れて行く。
当時の姿は現在よりももっと広く大きな流れを作っていたと推測される。
そして福知山・英彦山山塊の稜線が接近する狭い谷間を抜けて彦山川に合流する。あたかも曲がりくねる沼(湖)の様相を示していただろう(白破線)。
その沼に無数の山稜の端が接するならば、水辺の岩場の景観であったと思われる。即ち「磯」である。「石」は「磯」の略字を示していたと解る。
石上=磯の上(イソノカミ)
<倭淹知造> |
通説の解釈は「布留(振)」の枕詞とされる・・・意味は不明ということであろう。
奈良大和に「磯城」の地名がある(古事記の師木)。こちらの「磯(シ)」を国譲りしたのかも・・・。
天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となったところ「倭淹知」=「畝って続く水に浸された鏃の地形」と紐解いた(知=矢+口=鏃)。
上図に再掲したが、川が接するのではなく、沼に浸されたような光景を示していたのである。古事記記述の、恐るべき布石、解けて全てが繋がった表記であることが判る。そして「石上(イソノカミ)」の由縁も確信に至った、ようである。
大日下王
仁徳天皇が父親の応神天皇から譲り受けた日向之諸縣君牛諸の子、髮長比賣を娶って生まれた波多毘能大郎子、その別名が大日下王であった。百済出身で仁徳さんが切にと望んで拝領した比賣で歓喜したと読み解いた。現在の北九州市門司区城山町の東南の隅辺りと求めた。
その妹、若日下王を大長谷命に娶らせようと安康天皇が画策したところから説話が始まる。記述された通りにそのまま読めば、悪い奴を使いに出したもので全くの誤解で大日下王は命を落とす羽目になる。裏読みは様々あるが、葛城系の兄弟相続が続いたのは、やはり何らかの歪…皇位継承を主張する諸兄が増える…を生じていたのではなかろうか・・・兎も角も古事記は語らない。
安萬侶くんの論調からすると「言向和」が欠けているのが気に掛かる。実行する前に一言、だったのでは?…これも時代の変化であろうか・・・ここで安康天皇の姉「長田大郎女」が登場する。同母の姉を后にした…彼ら兄弟姉妹、何かおかしい?…ではないであろう。
前記允恭天皇紀で長田大郎女の居場所は恵賀之長枝の近隣、現在の京都郡みやこ町勝山黒田小長田辺りと推定した。安康天皇が后にしたのは大日下王亡き後の地を与えたことを意味すると思われる。即ち彼女の本来の地の「長田」に加えて新たな本拠地を「波多毘」にしたのである。これが悲しい出来事の伏線である。
その妹、若日下王を大長谷命に娶らせようと安康天皇が画策したところから説話が始まる。記述された通りにそのまま読めば、悪い奴を使いに出したもので全くの誤解で大日下王は命を落とす羽目になる。裏読みは様々あるが、葛城系の兄弟相続が続いたのは、やはり何らかの歪…皇位継承を主張する諸兄が増える…を生じていたのではなかろうか・・・兎も角も古事記は語らない。
安萬侶くんの論調からすると「言向和」が欠けているのが気に掛かる。実行する前に一言、だったのでは?…これも時代の変化であろうか・・・ここで安康天皇の姉「長田大郎女」が登場する。同母の姉を后にした…彼ら兄弟姉妹、何かおかしい?…ではないであろう。
前記允恭天皇紀で長田大郎女の居場所は恵賀之長枝の近隣、現在の京都郡みやこ町勝山黒田小長田辺りと推定した。安康天皇が后にしたのは大日下王亡き後の地を与えたことを意味すると思われる。即ち彼女の本来の地の「長田」に加えて新たな本拠地を「波多毘」にしたのである。これが悲しい出来事の伏線である。
全く不埒な輩なのだが、この人物に冠される「坂本臣」に着目する。建内宿禰の子、木角宿禰が祖となった木臣・都奴臣に加えて坂本臣が記載されていた。現地名では、築上郡椎田及び豊前市に跨る地域に蔓延った一族と推定した。
即ち、ここで記載されている坂本臣は、木角宿禰を祖とするのではなく「根臣」と言う訳だから、類似の地形なのだが、全く異なる場所であることを示している。
調べると、河内國(後に和泉國に分割した地域)を出自とする一族だったことが分かった。坂本=山麓に延びた山稜が途切れているところ、根=根のように細かく山稜が岐れ広がっているところと紐解くと、図に示した場所が彼等の居処と推定される。現地名は、京都郡みやこ町勝山黒田・箕田・上田の端境である。
「根臣」は、讒言に加えて”玉縵”を盗み、古事記では記述されないが、後に発覚して処罰されることになったようである。一族根絶やしにされたのではなく、生き延びた連中が後に「坂本臣」と名乗ったのだが、「根臣」を名乗る勇気はなかったのであろう。通説では、木角宿禰が祖となった「坂本臣」と解釈されている。混迷の窮まりであろう。
目弱王
自此以後、天皇坐神牀而晝寢。爾語其后曰「汝有所思乎。」答曰「被天皇之敦澤、何有所思。」於是、其大后先子・目弱王、是年七歲、是王當于其時而遊其殿下。爾天皇、不知其少王遊殿下、以詔「吾恒有所思。何者、汝之子目弱王、成人之時、知吾殺其父王者、還爲有邪心乎。」於是、所遊其殿下目弱王、聞取此言、便竊伺天皇之御寢、取其傍大刀、乃打斬其天皇之頸、逃入都夫良意富美之家也。天皇御年、伍拾陸歲。御陵在菅原之伏見岡也。
[それから後に、天皇が神を祭って晝お寢みになりました。ここにその皇后に物語をして「あなたは思うことがありますか」と仰せられましたので、「陛下のあついお惠みをいただきまして何の思うことがございましよう」とお答えなさいました。ここにその皇后樣の先の御子のマヨワの王が今年七歳でしたが、この王が、その時にその御殿の下で遊んでおりました。そこで天皇は、その子が御殿の下で遊んでいることを御承知なさらないで、皇后樣に仰せられるには「わたしはいつも思うことがある。それは何かというと、あなたの子のマヨワの王が成長した時に、わたしがその父の王を殺したことを知ったら、わるい心を起すだろう」と仰せられました。そこでその御殿の下で遊んでいたマヨワの王が、このお言葉を聞き取って、ひそかに天皇のお寢みになっているのを伺って、そばにあった大刀を取って、天皇のお頸をお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります]
后とその子、目弱王は「波多毘」に住んでいた。天皇はその王が勝手知ったる「神牀」で余計な心配事を口にしたと説話は述べる。そして事件が発生し、天皇は命を落とす羽目になる。それどころか身内の連続殺戮事件が勃発するのである。皇位継承者数の激減となる。
[それから後に、天皇が神を祭って晝お寢みになりました。ここにその皇后に物語をして「あなたは思うことがありますか」と仰せられましたので、「陛下のあついお惠みをいただきまして何の思うことがございましよう」とお答えなさいました。ここにその皇后樣の先の御子のマヨワの王が今年七歳でしたが、この王が、その時にその御殿の下で遊んでおりました。そこで天皇は、その子が御殿の下で遊んでいることを御承知なさらないで、皇后樣に仰せられるには「わたしはいつも思うことがある。それは何かというと、あなたの子のマヨワの王が成長した時に、わたしがその父の王を殺したことを知ったら、わるい心を起すだろう」と仰せられました。そこでその御殿の下で遊んでいたマヨワの王が、このお言葉を聞き取って、ひそかに天皇のお寢みになっているのを伺って、そばにあった大刀を取って、天皇のお頸をお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります]
后とその子、目弱王は「波多毘」に住んでいた。天皇はその王が勝手知ったる「神牀」で余計な心配事を口にしたと説話は述べる。そして事件が発生し、天皇は命を落とす羽目になる。それどころか身内の連続殺戮事件が勃発するのである。皇位継承者数の激減となる。
父の仇を討った目弱王は、例によって、重臣の家に逃げ込むことになる。「都夫良意富美」が登場する。反正天皇が丸邇之許碁登の比賣を娶って生まれた比賣に「都夫良郎女」がいた。前記は簡略に記したがここで紐解きしてみよう。「都夫良」は…、
螺羅(ツブラ)=小さな巻貝が連なった様
この地形に酷似した場所が「波多毘」現在の門司区城山町から今津に抜ける途中にある「鹿喰峠」にある。
採石場に隣接し、地形の変化が大きいが、当時を想起させるには十分である。
余談になるが、東名高速道路「都夫良野トンネル」が横たわる山の上が「都夫良野」という地名である。丹沢山系大野山から南に延びる稜線を横切る「峠」にある公園からの展望良く、足柄が丸見えである。
巻貝のような小高く盛り上がった地形の象形であろう。ということで、「都夫良野トンネル」の由来は「つぶら(な瞳)のトンネル」とされるのが宜しかろうかと・・・。
長々と「つぶら」に拘って読み解いたが、そもそも「都夫良」は何と紐解けるか?…、
…「合流しながら流れる川を集めるなだらかな地」と紐解ける。図に示したように「つぶらな峠」の谷間を北西に下ったところがなだらかな傾斜地となって複数の川が寄り集まっているところが見出せる。
現在は大規模な団地に造成されているが(大里桜ヶ丘)、「都夫良」はこの地形を象った表記と思われる。勿論上記の「螺羅」と重ねたものであろう。両地形併せて統治していたと告げているようである。「意富美」は…、
…と紐解ける。「意(その地の中心にある田)」、「富(峠に向かう境の坂)」、「美(谷間が広がる地)」の安萬侶コードを使っての解釈である。鹿喰峠に向かう坂に面したところと思われる。「都夫良」が示す場所と矛盾しない。
「意富美」は、応神天皇紀に丸邇之比布禮能意富美で出現したが、共に「臣」と記さずに居場所を示す表記としている。古事記ではこの二人だけである。
「都夫良意富美」の素性は語られない。ネットで検索すると葛城長江曾都毘古の子孫と言われているようである。建内宿禰の長男が「波多八代宿禰」で葛城長江曾都毘古の長兄に当たる。既に紐解いたようにこの長男の居場所は出雲の北部、現在の北九州市門司区を流れる大川の流域近隣と比定した。「波多毘」「都夫良」に関連するなら同じ葛城系でも「都夫良意富美」は「波多八代宿禰」に関わるのかもしれない。
前後するが「目弱王」は何処に住んでいたのであろうか?…「目」=「隙間」で、山麓の谷筋を表すと紐解いた。応神天皇の比賣、高目郎女などの例がある。「弱」は何を示しているのであろうか?…字形から「二つ並んで曲りくねる」様を象形したのではなかろうか…「目弱」は…、
…と解釈される。鹿喰峠に向かうところにある戸ノ上山の山麓に急勾配の谷が並んぶ、その間に坐していたと推定される。上図<都夫良意富美・目弱王>に示した通り、現在は大規模な団地に開発されているところであろう。七歳の子供が逃げ込んだ先との位置関係は、真に現実的なものと思われる。
天皇は「菅原之伏見岡」に葬られたとのことであるが、後に述べることとしてこの事件を聞きつけた大長谷王子が凄まじい行動を起こしたと記述される。
巻貝のような小高く盛り上がった地形の象形であろう。ということで、「都夫良野トンネル」の由来は「つぶら(な瞳)のトンネル」とされるのが宜しかろうかと・・・。
長々と「つぶら」に拘って読み解いたが、そもそも「都夫良」は何と紐解けるか?…、
都(集まる)|夫(川が合流する様)|良(なだらかな地)
現在は大規模な団地に造成されているが(大里桜ヶ丘)、「都夫良」はこの地形を象った表記と思われる。勿論上記の「螺羅」と重ねたものであろう。両地形併せて統治していたと告げているようである。「意富美」は…、
谷間が広がる地の中心にある田と山麓の坂からなる地
…と紐解ける。「意(その地の中心にある田)」、「富(峠に向かう境の坂)」、「美(谷間が広がる地)」の安萬侶コードを使っての解釈である。鹿喰峠に向かう坂に面したところと思われる。「都夫良」が示す場所と矛盾しない。
「意富美」は、応神天皇紀に丸邇之比布禮能意富美で出現したが、共に「臣」と記さずに居場所を示す表記としている。古事記ではこの二人だけである。
「都夫良意富美」の素性は語られない。ネットで検索すると葛城長江曾都毘古の子孫と言われているようである。建内宿禰の長男が「波多八代宿禰」で葛城長江曾都毘古の長兄に当たる。既に紐解いたようにこの長男の居場所は出雲の北部、現在の北九州市門司区を流れる大川の流域近隣と比定した。「波多毘」「都夫良」に関連するなら同じ葛城系でも「都夫良意富美」は「波多八代宿禰」に関わるのかもしれない。
前後するが「目弱王」は何処に住んでいたのであろうか?…「目」=「隙間」で、山麓の谷筋を表すと紐解いた。応神天皇の比賣、高目郎女などの例がある。「弱」は何を示しているのであろうか?…字形から「二つ並んで曲りくねる」様を象形したのではなかろうか…「目弱」は…、
曲りくねる山麓の谷間が二つ並んでいるところ
…と解釈される。鹿喰峠に向かうところにある戸ノ上山の山麓に急勾配の谷が並んぶ、その間に坐していたと推定される。上図<都夫良意富美・目弱王>に示した通り、現在は大規模な団地に開発されているところであろう。七歳の子供が逃げ込んだ先との位置関係は、真に現実的なものと思われる。
天皇は「菅原之伏見岡」に葬られたとのことであるが、後に述べることとしてこの事件を聞きつけた大長谷王子が凄まじい行動を起こしたと記述される。
2. 大長谷王子(雄略天皇)
後の雄略天皇、大長谷王子の活躍と言うかバッタバッタと邪魔者を始末する記述が安康天皇が亡くなった後に続く。大国になった倭国、その発展と繁栄を伝えるのではなく、まるでその国内における権力抗争のような有様である。栄枯盛衰を示すかのように倭国は変転期に向かうことになる。
2-1. 黑日子王と白日子王
爾大長谷王子、當時童男、卽聞此事、以慷愾忿怒、乃到其兄黑日子王之許曰「人取天皇、爲那何。」然、其黑日子王、不驚而有怠緩之心。於是、大長谷王詈其兄言「一爲天皇、一爲兄弟、何無恃心。聞殺其兄、不驚而怠乎。」卽握其衿控出、拔刀打殺。亦到其兄白日子王而、告狀如前、緩亦如黑日子王。卽握其衿以引率來、到小治田、掘穴而隨立埋者、至埋腰時、兩目走拔而死。
[ここにオホハツセの王は、その時少年でおいでになりましたが、この事をお聞きになって、腹を立ててお怒りになって、その兄のクロヒコの王のもとに行って、「人が天皇を殺しました。どうしましよう」と言いました。しかしそのクロヒコの王は驚かないで、なおざりに思っていました。そこでオホハツセの王が、その兄を罵って「一方では天皇でおいでになり、一方では兄弟でおいでになるのに、どうしてたのもしい心もなくその兄の殺されたことを聞きながら驚きもしないでぼんやりしていらっしやる」と言つて、着物の襟をつかんで引き出して刀を拔いて殺してしまいました。またその兄のシロヒコの王のところに行つて、樣子をお話なさいましたが、前のようになおざりにお思いになっておりましたから、クロヒコの王のように、その着物の襟をつかんで、引きつれて小治田に來て穴を掘って立ったままに埋めましたから、腰を埋める時になって、兩眼が飛び出して死んでしまいました]
<小治田> |
かなり乱暴なシナリオであるが、更に続く…今度は四男のところ、現在の京都郡苅田町葛川辺りに行っても同じ応対を受けて、益々怒り心頭になってその四男を生き埋めにしたら、その前に死んでしまったと記述される。
「童」が大人を殺害すると言う説話が続くのである。長子相続に逆らうように結果的には末子が皇位継承者になる。長い間の慣習に馴染めなかった天皇家を示しているのであろうか・・・。
四男が生き埋めにされた場所が「小治田」と記載される。蘇賀石河宿禰が祖となった小治田臣の地であろう。現地名の苅田町葛川の南側周辺と思われる。古事記最後の推古天皇(小治田宮)が坐した場所近隣でもある。
・・・いよいよ下手人を攻めることになる。
亦興軍、圍都夫良意美之家、爾興軍待戰、射出之矢、如葦來散。於是、大長谷王、以矛爲杖、臨其內詔「我所相言之孃子者、若有此家乎。」爾都夫良意美、聞此詔命、自參出、解所佩兵而、八度拜白者「先日所問賜之女子・訶良比賣者侍、亦副五處之屯宅以獻。所謂五村屯宅者、今葛城之五村苑人也。然、其正身、所以不參向者、自往古至今時、聞臣連隱於王宮、未聞王子隱於臣家。是以思、賤奴・意富美者、雖竭力戰、更無可勝。然、恃己入坐于隨家之王子者、死而不棄。」
如此白而、亦取其兵、還入以戰。爾力窮矢盡、白其王子「僕者手悉傷、矢亦盡、今不得戰。如何。」其王子答詔「然者更無可爲。今殺吾。」故以刀刺殺其王子、乃切己頸以死也。[また軍を起してツブラオホミの家をお圍みになりました。そこで軍を起して待ち戰って、射出した矢が葦のように飛んで來ました。ここにオホハツセの王は、矛を杖として、その内をのぞいて仰せられますには「わたしが話をした孃子は、もしやこの家にいるか」と仰せられました。そこでツブラオホミが、この仰せを聞いて、自分で出て來て、帶びていた武器を解いて、八度も禮拜して申しましたことは「先にお尋ねにあずかりました女のカラ姫はさしあげましよう。また五か處のお倉をつけて獻りましよう。しかしわたくし自身の參りませんわけは、昔から今まで、臣下が王の御殿に隱れたことは聞きますけれども、王子が臣下の家にお隱れになったことは、まだ聞いたことがありません。そこで思いますに、わたくしオホミは、力を盡して戰っても、決してお勝ち申すことはできますまい。しかしわたくしを頼んで、いやしい家におはいりになった王子は、死んでもお棄て申しません」と、このように申して、またその武器を取って、還りはいって戰いました。そうして力窮まり矢も盡きましたので、その王子に申しますには「わたくしは負傷いたしました。矢も無くなりました。もう戰うことができません。どうしましよう」と申しましたから、その王子が、お答えになって、「それならもう致し方がない。わたしを殺してください」と仰せられました。そこで刀で王子をさし殺して、自分の頸を切って死にました]
大長谷王が言向けても和することはできなかった。自分を頼ってくれた王子を見捨てなかった重臣の物語になっている。献上するものの中に葛城之五村苑人が登場する。葛城との繋がりがあることを示すのである。が、王子を献上しなくては治まらず結果として大長谷王に屈することになる。
<訶良比賣=韓比賣> |
「訶良比賣」は、親切にも、次の雄略天皇紀に「韓比賣」と記述される。決して韓國のお方ではない。既にのべたように「韓」=「井桁」を示す文字である。
大年神の後裔、韓神で紐解いた「谷の水源(池)」を示し、その傍らに住まっていたことを表している。
「都夫良」の西側にある池、当時のものかは確証はないが、その近隣であろう。勿論「訶良」=「穏やかな谷間の耕地」である。
「都夫良意富美」の出自は他書に依ると葛城曾都毘古の後裔とある(葦田宿禰ではなく玉田宿禰の御子)。「處」=「虍+几+足」と分解すると「[几]形の谷間に縞状の山稜があるところ」と紐解ける。
<五處之屯宅> |
五(五つの)|處([几]形の谷間にある縞状の山稜)
「屯宅」は「ミヤケ」と読み下されるが、他では「三宅」、「三家」などと記される。「三」ではなく「五」である。
「屯」=「集め束ねる」と解釈すると、実に合理的な表記となろう。山稜の端の根のように延びたところが五か所が集め束ねられている。
玉田宿禰が存在していたとするなら、葦田が北部、玉田が南部ということになるのかもしれないが・・・。
葛城に土地を持つなら、都夫良意富美の出自は波多八代宿禰に絡むのではないようである。何代かに亘って葛城の一族が拡散したのであろう。古事記読み解きから逸脱するので、これまでで…。
長田大郎女は夫を亡くし、次いで息子も失ってしまうという悲劇に見舞われるが、あからさまにはされないようである。力を得た大長谷王は更に粛清の対象を求めて行くことになる。止まらない、であろうか・・・。
2-2. 市邊之忍齒王
自茲以後、淡海之佐佐紀山君之祖、名韓帒白「淡海之久多此二字以音綿之蚊屋野、多在猪鹿。其立足者、如荻原、指擧角者、如枯樹。」此時、相率市邊之忍齒王、幸行淡海、到其野者、各異作假宮而宿。爾明旦、未日出之時、忍齒王、以平心隨乘御馬、到立大長谷王假宮之傍而、詔其大長谷王子之御伴人「未寤坐。早可白也、夜既曙訖、可幸獦庭。」乃進馬出行。爾侍其大長谷王之御所人等白「宇多弖物云王子。宇多弖三字以音。故、應愼、亦宜堅御身。」卽衣中服甲、取佩弓矢、乘馬出行、倐忽之間、自馬往雙、拔矢射落其忍齒王、乃亦切其身、入於馬樎、與土等埋。
於是、市邊王之王子等、意祁王・袁祁王二柱聞此亂而逃去。故到山代苅羽井、食御粮之時、面黥老人來、奪其粮。爾其二王言「不惜粮。然汝者誰人。」答曰「我者山代之猪甘也。」故逃渡玖須婆之河、至針間國、入其國人・名志自牟之家、隱身、伇於馬甘牛甘也。
[それから後に、近江の佐々紀の山の君の祖先のカラフクロが申しますには、「近江のクタワタのカヤ野に鹿が澤山おります。その立っている足は薄原のようであり、頂いている角は枯松のようでございます」と申しました。この時にイチノベノオシハの王を伴なって近江においでになり、その野においでになったので、それぞれ別に假宮を作って、お宿りになりました。翌朝まだ日も出ない時に、オシハの王が何心なくお馬にお乘りになって、オホハツセの王の假宮の傍にお立ちになって、オホハツセの王のお伴の人に仰せられますには、「まだお目寤めになりませんか。早く申し上げるがよい。夜はもう明けました。獵場においでなさいませ」と仰せられて、馬を進めておいでになりました。そこでそのオホハツセの王のお側の人たちが、「變つた事をいう御子ですから、お氣をつけ遊ばせ。御身をもお堅めになるがよいでしよう」と申しました。それでお召物の中に甲をおつけになり、弓矢をお佩びになって、馬に乘っておいでになって、たちまちの間に馬上でお竝びになって、矢を拔いてそのオシハの王を射殺して、またその身を切って、馬の桶に入れて土と共に埋めました。それでそのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騷ぎをお聞きになって逃げておいでになりました。かくて山城のカリハヰにおいでになって、乾飯をおあがりになる時に、顏に黥をした老人が來てその乾飯を奪い取りました。その時にお二人の王子が、「乾飯は惜しくもないが、お前は誰だ」と仰せになると、「わたしは山城の豚飼です」と申しました。かくてクスバの河を逃げ渡って、播磨の國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになつて、身を隱して馬飼牛飼として使われておいでになりました]
履中天皇が葛城之曾都毘古の孫の黑比賣命を娶って誕生したのが市邊之忍齒王である。世が世であれば皇位を引継いでも不思議ではない位置に居た王子ではあるが、叔父達が引継いで皇位については全く無関係な扱いを受けたのであろう。その彼が歴史の表舞台に引き摺り出されるのである。その直後に呆気なく大長谷王の餌食となったと伝える。
この説話の段に多くの地名が出現する。先ずはそれを紐解いてみよう。
「近淡海」と比べて「淡海」の領域は広いが、現地名田川郡福智町市場辺りに居たと推定した市邊之忍齒王を誘って行くとなると彦山川~遠賀川河口の淡海に抜けるルート上が有力な候補と考えられ、福智山山系に含まれる山を指すと推測される。現在に残る地名を探すと麓を「笹尾川」が流れ、周辺を「笹田」とある「金剛山」が浮かび上がって来る。
…と紐解ける。現在は平坦にされた高台のようになっているが、当時は、なだらかな山稜が広がり延びていたと推測される。一見、地形象形表記とは思えないようだが、立派に居処の地形を表していることが読み解けたと思われる。
「久多綿」は、同じ「淡海」でも程度が凄まじいことを示しているのではなかろうか。「久多綿」の「綿」=「海」として、「久多(くた)」=「雑多な様、乱れた様」などを意味すると解説される。「くちゃ」が変化したものとも言われる。すると「久多綿」は…、
…と解釈される。淡海中の淡海、であろうか・・・そこに接する…「蚊屋野」の近淡海蚊野の「蚊」=「交差した」として…、
…「交差したところがある山稜が尽きる野原」と読み解ける。
現在の福岡県遠賀郡水巻町吉田東及び北九州市八幡西区松寿山である。蚊屋野があった場所は広大な団地となっている。
火遠理命が鹽椎神に教えられて通った味御路で山稜が尽きると見做したところであろう。
古遠賀湾の広さは想像を遥かに越えるものであったことが伺える。現在の水巻町の大半は海面下であったと推測される。
当然のこととして日本書紀は「淡海=近江」とするが、上記の武田氏の訳も「久多綿」の解釈はスルーである。「綿=海」であろう。「久多」は…、
…「[く]形に曲がる山稜の端の三角州の傍らにある海」と読める。図に示した通り、この山稜は古遠賀湾と金山川に挟まれた「州」である。「久多(くた)」は地形的な表記も重ねられていることが解る。
この地で市邊之忍齒王は、いとも簡単に命を落とすことになる。そして大長谷王子の周りに彼を脅かすような勢力は消滅したことを伝えているのである。
しかしそれは皇位の継承者の数が激減したことを伺わせる。大長谷王子の直系血族が途絶える不運の布石の記述となる。
現在の北九州市八幡西区及び遠賀郡東部は広大な平野を持ち北九州の主要産業の発祥の地でもあり、現在も多くの人々が住まう地域となっている。しかし、古事記の時代では遠賀川流域の古遠賀湾、洞海(湾)など響灘に含まれる「淡海」の真っ只中にあったことが読取れる。人が棲みつく環境としてはあまりにも過酷なところであったと推察される。
天から渡来した彼らはその地を避け島の急斜面を切り開き徐々に河口付近の湿地を耕作地に変え、また蛇行する川と入江の港湾を整備しながら繁栄を築いてきたことが判る。上記の八幡西区、遠賀郡東部は彼らが支配するところではあるが、決して「国」が出来上がる場所ではなかったと伝えていると思われる。
神倭伊波禮毘古が日向から倭国に侵出するのはこの地理的環境の克服であった。大倭豊秋津嶋を何が何でも手に入れ、そこに永住の地を求めない限り彼らの将来はなかった、と思い詰めた結果であろう。それがほぼ達成される時期にまで漸く辿り着いた、雄略天皇の時代が幕を開けようとしているのである。
3-3. 意祁王・袁祁王
殺害された市邊之忍齒王の二人の御子である。突然襲った不幸に逃げ惑い、逃避する行程が記される。それはまた倭国南部の地域の詳細な説明でもある。
「意祁王・袁祁王」が何処にいたのか?…母親は不詳である。「意」は意富の解釈に従って、実に簡単な名前であるが…、
…と紐解ける。父親に隣接するところと推定される。現地名は田川郡福智町市場石松辺りである。
…その近隣に広く長い台地が広がるところがある。同町市場市津辺りと思われる。父親の災難の情報を逸早く知り得た場所であろう。現地名福智町市場からの逃避行を再現することになる。
先ずは初見で解釈した例を示すと…、
第一通過点は「苅羽井(カリハヰ)」である。「苅羽井」=「カワイ」=「河(川)合」と読めば「河合」の由来は「河が合流しているところ」、それも単なる合流ではなく複数の河が集まってるような特徴のある場所に由来するとある。「山代の河合」を示している。
現在の京都郡みやこ町犀川生立辺りと推定できる。南から犢牛岳、蔵持山から流れる「喜多良川」「高屋川」、北から御所ヶ岳山塊から流れる「松坂川」が「犀川(山代川)」に合流する。平成筑豊田川線犀川駅近隣である。神功皇后が立寄ったという伝説のある生立八幡神社がある
…であった。また、山代大國之淵之女・苅羽田刀辨が居た場所の近隣と解釈することもできる。
最後の「苅羽田」との関連に気付くことによって古事記は「苅羽+?」という文字区切りをしていると判った。「苅+羽田」ではなく「苅羽+田」となる。同じく「苅羽+井」である。文字解釈の根本からの見直しである。では「苅羽」とは?…、
「羽の形をした地の一部を刈り(切り)取った」ところを意味すると紐解ける。現在の犀川大村及び谷口が含まれる丘陵地帯を「羽のような地形」と表現したものと思われる。「苅羽田」は羽の端に当たる現在の犀川谷口辺りと推定される。既に比定した場所そのものに大きな狂いはない。
とすると、「苅羽井」は何と紐解けるであろうか?…、
…「羽の形をした地の端を切り取った池(沼)」と解釈される。現在の犀川谷口大無田の近隣にある池を示していると思われる。
「苅+羽田」=「草を刈取った埴田」埴田は草を刈取ってあるのは当然で、何とも釈然としない解釈と思われる。
古事記はこのような無意味な修飾語を使わない。より明確に場所を示していたと漸くにして気付かされた。
またこの第一通過点までの逃亡ルートも変更を余儀なくされるが、後に述べよう。
第二通過点「玖須婆(クスバ)之河」これも初見の解釈例を先に示すと…、
「霊妙な力あるところの端」と紐解ける。その川が「玖須婆之河」、現在の祓川である。日本三大彦山、修験者の山「英彦山」を源流に持つ「祓川」の謂れに直結する。「玖須婆之河」=「祓川」である。多くの修験者が登った霊験あらたかな山、古代から人々の生き様を見届けてきた山である。
尤もらしく関連付けられるのであるが、この川は崇神天皇紀の大毘古命が建波邇安王の謀反を鎮圧し、壊滅させた場所「久須婆之度」…、
…で登場した川である。解釈はそれぞれだが、同じ川を示しているようである。二人が渡ったところはずっと上流であるが…。
何れにせよ、[く]の字の州が絶え間なく続き、その端(傍ら)の川と名付けられているようである。両意に重ねられていると思われるが、曲がってくねって流れる大河を示していると受け取れる。
「犀川」を渡り、現在の京都カントリークラブ山荘近くの間道を抜けると「祓川」にぶつかり、渡渉して暫く行くと、もう「針間国」は間近である。途中で追剥に遭いながらもその国の志自牟の家に身を隠したと記述される。
…「蛇行する川の端にあるが[牛]の地形のところ」と紐解ける。
この地も当時は大半が海面下であったと推定されるが、そこに何本かの山稜の端が延びた地形が見出せる。
現在の地図からは高低差が少なく、その形状など些か不確かなようであるが、入江に突出た岬の地形であったと思われる。
図に示したように「牛」の地形が読み取れる。「志自牟之家」の特定は叶わないが、現地名は築上郡築上町椎田辺りである。
二人の王子はここ針間国で馬飼牛飼として生き永らえたと伝えている。勿論これは後日の物語の布石である。皇位継承の乱れがなければ彼らが歴史の表舞台に躍り出ることはなかったであろう。
だが、皇位は一旦途切れることになる。彼らを登場させても元のような状態には戻らなかったのであろう。詳細は次期天皇の段以降になる。
3. 陵墓
「天皇御年、伍拾陸歲。御陵在菅原之伏見岡也」と記される。「菅原」の「菅」=「菅の穂の地形」、応神天皇紀に登場した菅竈由良度美の解釈に類似すると思われる。「伏見」は特徴あり。「伏見」=「伏(流)水(フシミズ)」の転化と言われているが、それをそのまま引用して「菅原之伏見」=「鍾乳洞穴前の菅の穂の形をした野原」と解釈できる。
[それから後に、近江の佐々紀の山の君の祖先のカラフクロが申しますには、「近江のクタワタのカヤ野に鹿が澤山おります。その立っている足は薄原のようであり、頂いている角は枯松のようでございます」と申しました。この時にイチノベノオシハの王を伴なって近江においでになり、その野においでになったので、それぞれ別に假宮を作って、お宿りになりました。翌朝まだ日も出ない時に、オシハの王が何心なくお馬にお乘りになって、オホハツセの王の假宮の傍にお立ちになって、オホハツセの王のお伴の人に仰せられますには、「まだお目寤めになりませんか。早く申し上げるがよい。夜はもう明けました。獵場においでなさいませ」と仰せられて、馬を進めておいでになりました。そこでそのオホハツセの王のお側の人たちが、「變つた事をいう御子ですから、お氣をつけ遊ばせ。御身をもお堅めになるがよいでしよう」と申しました。それでお召物の中に甲をおつけになり、弓矢をお佩びになって、馬に乘っておいでになって、たちまちの間に馬上でお竝びになって、矢を拔いてそのオシハの王を射殺して、またその身を切って、馬の桶に入れて土と共に埋めました。それでそのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騷ぎをお聞きになって逃げておいでになりました。かくて山城のカリハヰにおいでになって、乾飯をおあがりになる時に、顏に黥をした老人が來てその乾飯を奪い取りました。その時にお二人の王子が、「乾飯は惜しくもないが、お前は誰だ」と仰せになると、「わたしは山城の豚飼です」と申しました。かくてクスバの河を逃げ渡って、播磨の國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになつて、身を隱して馬飼牛飼として使われておいでになりました]
履中天皇が葛城之曾都毘古の孫の黑比賣命を娶って誕生したのが市邊之忍齒王である。世が世であれば皇位を引継いでも不思議ではない位置に居た王子ではあるが、叔父達が引継いで皇位については全く無関係な扱いを受けたのであろう。その彼が歴史の表舞台に引き摺り出されるのである。その直後に呆気なく大長谷王の餌食となったと伝える。
この説話の段に多くの地名が出現する。先ずはそれを紐解いてみよう。
淡海之佐佐紀山
「近淡海」と比べて「淡海」の領域は広いが、現地名田川郡福智町市場辺りに居たと推定した市邊之忍齒王を誘って行くとなると彦山川~遠賀川河口の淡海に抜けるルート上が有力な候補と考えられ、福智山山系に含まれる山を指すと推測される。現在に残る地名を探すと麓を「笹尾川」が流れ、周辺を「笹田」とある「金剛山」が浮かび上がって来る。
佐佐紀山=金剛山
この辺り、既に「淡海」である。古遠賀湾の奥深くに面したところであったと思われる。
この地は開化天皇の御子、日子坐王が山代之荏名津比賣(苅幡戸辨)を娶って誕生した志夫美宿禰王が祖となった「佐佐君」の近隣であろう。佐佐紀山の西麓と推定したところである。
状況証拠的には申し分なしである。がしかし、類似地名からだけの比定では、何とも心許ない有り様であろう。地図を立体表示すると、この金剛山が実に特徴的な山容をしていることが判る。その山容を、嫋やかに曲がる笹の姿を写し、山陵はその葉が幾つも延びる形を表していると見たのではなかろうか。
「紀」は尾根が畝る様を示している。「佐佐紀山」は淡海の古遠賀湾における貴重なランドマークであったことを伝えているのと思われる。
淡海之佐佐紀山君之祖である「韓帒」は金剛山の南麓(笹尾川の上流、現在も複数の池がある)に当たる場所に住んでいたのではなかろうか。渡来人の一人のようでもあるが、不詳である。その彼が狩りのできる場所を教えたと言う。「韓」=「𠦝+韋」=「山稜に取り囲まれた様」、「帒」=「代(人+弋)+巾」=「谷間にある杙のような山稜が広がっている様」と解釈すると、「韓帒」は…、
この地は開化天皇の御子、日子坐王が山代之荏名津比賣(苅幡戸辨)を娶って誕生した志夫美宿禰王が祖となった「佐佐君」の近隣であろう。佐佐紀山の西麓と推定したところである。
状況証拠的には申し分なしである。がしかし、類似地名からだけの比定では、何とも心許ない有り様であろう。地図を立体表示すると、この金剛山が実に特徴的な山容をしていることが判る。その山容を、嫋やかに曲がる笹の姿を写し、山陵はその葉が幾つも延びる形を表していると見たのではなかろうか。
「紀」は尾根が畝る様を示している。「佐佐紀山」は淡海の古遠賀湾における貴重なランドマークであったことを伝えているのと思われる。
淡海之佐佐紀山君之祖である「韓帒」は金剛山の南麓(笹尾川の上流、現在も複数の池がある)に当たる場所に住んでいたのではなかろうか。渡来人の一人のようでもあるが、不詳である。その彼が狩りのできる場所を教えたと言う。「韓」=「𠦝+韋」=「山稜に取り囲まれた様」、「帒」=「代(人+弋)+巾」=「谷間にある杙のような山稜が広がっている様」と解釈すると、「韓帒」は…、
山稜に取り囲まれた地に杙のような山稜が広がっているところ
淡海之久多綿之蚊屋野
「久多綿」は、同じ「淡海」でも程度が凄まじいことを示しているのではなかろうか。「久多綿」の「綿」=「海」として、「久多(くた)」=「雑多な様、乱れた様」などを意味すると解説される。「くちゃ」が変化したものとも言われる。すると「久多綿」は…、
くちゃくちゃ(秩序のない乱れた様)の海
…と解釈される。淡海中の淡海、であろうか・・・そこに接する…「蚊屋野」の近淡海蚊野の「蚊」=「交差した」として…、
蚊(交差した)|屋(山稜が尽きる)|野
<淡海之久多綿之蚊屋野> |
現在の福岡県遠賀郡水巻町吉田東及び北九州市八幡西区松寿山である。蚊屋野があった場所は広大な団地となっている。
火遠理命が鹽椎神に教えられて通った味御路で山稜が尽きると見做したところであろう。
久多綿=水巻
当然のこととして日本書紀は「淡海=近江」とするが、上記の武田氏の訳も「久多綿」の解釈はスルーである。「綿=海」であろう。「久多」は…、
久([く]の形)|多(山稜の端の三角州)|綿(海)
…「[く]形に曲がる山稜の端の三角州の傍らにある海」と読める。図に示した通り、この山稜は古遠賀湾と金山川に挟まれた「州」である。「久多(くた)」は地形的な表記も重ねられていることが解る。
この地で市邊之忍齒王は、いとも簡単に命を落とすことになる。そして大長谷王子の周りに彼を脅かすような勢力は消滅したことを伝えているのである。
しかしそれは皇位の継承者の数が激減したことを伺わせる。大長谷王子の直系血族が途絶える不運の布石の記述となる。
――――✯――――✯――――✯――――
現在の北九州市八幡西区及び遠賀郡東部は広大な平野を持ち北九州の主要産業の発祥の地でもあり、現在も多くの人々が住まう地域となっている。しかし、古事記の時代では遠賀川流域の古遠賀湾、洞海(湾)など響灘に含まれる「淡海」の真っ只中にあったことが読取れる。人が棲みつく環境としてはあまりにも過酷なところであったと推察される。
天から渡来した彼らはその地を避け島の急斜面を切り開き徐々に河口付近の湿地を耕作地に変え、また蛇行する川と入江の港湾を整備しながら繁栄を築いてきたことが判る。上記の八幡西区、遠賀郡東部は彼らが支配するところではあるが、決して「国」が出来上がる場所ではなかったと伝えていると思われる。
神倭伊波禮毘古が日向から倭国に侵出するのはこの地理的環境の克服であった。大倭豊秋津嶋を何が何でも手に入れ、そこに永住の地を求めない限り彼らの将来はなかった、と思い詰めた結果であろう。それがほぼ達成される時期にまで漸く辿り着いた、雄略天皇の時代が幕を開けようとしているのである。
――――✯――――✯――――✯――――
3-3. 意祁王・袁祁王
殺害された市邊之忍齒王の二人の御子である。突然襲った不幸に逃げ惑い、逃避する行程が記される。それはまた倭国南部の地域の詳細な説明でもある。
<意祁命・袁祁命> |
意(閉じ込められた耕地)|祁(高台が集まる地)
袁(ゆったりとした)|祁(高台が集まる地)
…その近隣に広く長い台地が広がるところがある。同町市場市津辺りと思われる。父親の災難の情報を逸早く知り得た場所であろう。現地名福智町市場からの逃避行を再現することになる。
苅羽井
先ずは初見で解釈した例を示すと…、
第一通過点は「苅羽井(カリハヰ)」である。「苅羽井」=「カワイ」=「河(川)合」と読めば「河合」の由来は「河が合流しているところ」、それも単なる合流ではなく複数の河が集まってるような特徴のある場所に由来するとある。「山代の河合」を示している。
現在の京都郡みやこ町犀川生立辺りと推定できる。南から犢牛岳、蔵持山から流れる「喜多良川」「高屋川」、北から御所ヶ岳山塊から流れる「松坂川」が「犀川(山代川)」に合流する。平成筑豊田川線犀川駅近隣である。神功皇后が立寄ったという伝説のある生立八幡神社がある
…であった。また、山代大國之淵之女・苅羽田刀辨が居た場所の近隣と解釈することもできる。
最後の「苅羽田」との関連に気付くことによって古事記は「苅羽+?」という文字区切りをしていると判った。「苅+羽田」ではなく「苅羽+田」となる。同じく「苅羽+井」である。文字解釈の根本からの見直しである。では「苅羽」とは?…、
苅羽=苅(刈取る)|羽(羽の形状)
「羽の形をした地の一部を刈り(切り)取った」ところを意味すると紐解ける。現在の犀川大村及び谷口が含まれる丘陵地帯を「羽のような地形」と表現したものと思われる。「苅羽田」は羽の端に当たる現在の犀川谷口辺りと推定される。既に比定した場所そのものに大きな狂いはない。
とすると、「苅羽井」は何と紐解けるであろうか?…、
苅(刈取る)|羽(羽の形状)|井(池)
…「羽の形をした地の端を切り取った池(沼)」と解釈される。現在の犀川谷口大無田の近隣にある池を示していると思われる。
<苅羽井> |
古事記はこのような無意味な修飾語を使わない。より明確に場所を示していたと漸くにして気付かされた。
またこの第一通過点までの逃亡ルートも変更を余儀なくされるが、後に述べよう。
玖須婆之河
第二通過点「玖須婆(クスバ)之河」これも初見の解釈例を先に示すと…、
玖須(奇し:霊妙な力がある)|婆(端)
「霊妙な力あるところの端」と紐解ける。その川が「玖須婆之河」、現在の祓川である。日本三大彦山、修験者の山「英彦山」を源流に持つ「祓川」の謂れに直結する。「玖須婆之河」=「祓川」である。多くの修験者が登った霊験あらたかな山、古代から人々の生き様を見届けてきた山である。
<意祁王・袁祁王の逃亡> |
[く]の字に曲がった州の端にある川の渡
…で登場した川である。解釈はそれぞれだが、同じ川を示しているようである。二人が渡ったところはずっと上流であるが…。
何れにせよ、[く]の字の州が絶え間なく続き、その端(傍ら)の川と名付けられているようである。両意に重ねられていると思われるが、曲がってくねって流れる大河を示していると受け取れる。
「犀川」を渡り、現在の京都カントリークラブ山荘近くの間道を抜けると「祓川」にぶつかり、渡渉して暫く行くと、もう「針間国」は間近である。途中で追剥に遭いながらもその国の志自牟の家に身を隠したと記述される。
志自牟
志(蛇行する川)|自(鼻:端)|牟([牛]の地形)
<志自牟> |
この地も当時は大半が海面下であったと推定されるが、そこに何本かの山稜の端が延びた地形が見出せる。
現在の地図からは高低差が少なく、その形状など些か不確かなようであるが、入江に突出た岬の地形であったと思われる。
図に示したように「牛」の地形が読み取れる。「志自牟之家」の特定は叶わないが、現地名は築上郡築上町椎田辺りである。
二人の王子はここ針間国で馬飼牛飼として生き永らえたと伝えている。勿論これは後日の物語の布石である。皇位継承の乱れがなければ彼らが歴史の表舞台に躍り出ることはなかったであろう。
だが、皇位は一旦途切れることになる。彼らを登場させても元のような状態には戻らなかったのであろう。詳細は次期天皇の段以降になる。
3. 陵墓
「天皇御年、伍拾陸歲。御陵在菅原之伏見岡也」と記される。「菅原」の「菅」=「菅の穂の地形」、応神天皇紀に登場した菅竈由良度美の解釈に類似すると思われる。「伏見」は特徴あり。「伏見」=「伏(流)水(フシミズ)」の転化と言われているが、それをそのまま引用して「菅原之伏見」=「鍾乳洞穴前の菅の穂の形をした野原」と解釈できる。
一文字一文字を紐解いてみよう。「菅」=「艸+官」と分解される。「官」は「管」でも用いられているように「円筒」の形態を表し、それを草の表記に展開した文字と知られている。地形象形表記としては「菅」=「筒のように延びた地が並んでいる様」と解釈される。
図に示したように長く延びた山稜が並んでいる場所を表し、「菅原」は…、
筒のように長く延びた山稜の上にある野原
…と紐解ける。次いで「伏」=「人+犬」と分解される。地形象形としては「伏」=「谷間にある平たい山稜」と解釈される。「見」=「目+儿」と分解される。「見」=「谷間から山稜が延び出ている様」と解釈される。「伏見岡」は…、
谷間から延び出た山稜が岡になっているところ
…と紐解ける。御陵は図に示した谷間の出口辺りと推定される。伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の菅原野御立野中陵の北西に地である。後に多くの人々が住まう場所となるが、まだまだ未開の地だったのであろう。
いずれにしても頂点を迎えつつある国に早崩壊の兆候、古事記は語らないが渡来人を祖に持つ豪族達の動向が見え隠れする。邇邇芸命一派の国はこれらの豪族なくして成立しないものであり、当然起こるべき事柄であったろう。