2017年3月30日木曜日

鵠を求めて〔018〕

鵠を求めて

前記で「高志前」=「越前」を訪問した。なんとも不思議なところであったが、だからこそ古の名前が残っていたのでは、と思う。いや、その土地に住む人々の思いがあってのことではなかろうか。現在も残る「大字」今回調べてみて、その土地の変遷を伺い知れたことは大きな収穫であった。小さな「国譲り」の物語、なのであろう。

そんなわけで「古の国」を求めての旅にちょっとしたツールが増えたので纏めて、やっちゃいます・・・、第十一代垂仁天皇の時のお話、国名が一杯出てくるので、ネットの観光名所に挙げられてるところも一杯、「国譲り」一杯、である。

例によって古事記原文(武田祐吉訳)…、

率遊其御子之狀者、在於尾張之相津、二俣榲作二俣小舟而持上來、以浮倭之市師池・輕池、率遊其御子。然、是御子、八拳鬚至于心前、眞事登波受。此三字以音。故、今聞高往鵠之音、始爲阿藝登比。自阿下四字以音。爾遣山邊之大鶙此者人名令取其鳥。故是人追尋其鵠、自木國到針間國、亦追越稻羽國、卽到旦波國、多遲麻國、追廻東方、到近淡海國、乃越三野國、自尾張國傳以追科野國、遂追到高志國而、於和那美之水門張網、取其鳥而持上獻。故、號其水門謂和那美之水門也。亦見其鳥者、於思物言而、如思爾勿言事。[かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあった二俣の杉をもって二俣の小舟を作って、持ち上って來て、大和の市師の池、輕の池に浮べて遊びました。この御子は、長い鬢が胸の前に至るまでも物をしかと仰せられません。ただ大空を鶴が鳴き渡ったのをお聞きになって始めて「あぎ」と言われました。そこで山邊のオホタカという人を遣って、その鳥を取らせましたここにその人が鳥を追い尋ねて紀の國から播磨の國に至り、追って因幡の國に越えて行き、丹波の國・但馬の國に行き、東の方に追いつて近江の國に至り、美濃の國に越え、尾張の國から傳わって信濃の國に追い、遂に越の國に行って、ワナミの水門(みなと)で罠を張ってその鳥を取って持って來て獻りました。そこでその水門をワナミの水門とはいうのです。さてその鳥を御覽になって、物を言おうとお思いになるが、思い通りに言われることはありませんでした]

なん10ヶ国名…近畿、山陽の一部、山陰、近江を経由して北陸まで「大鶙」さん、無口な御子に「阿藝(あぎ)」と言って頂くために大変な旅をなされたのこと。通訳に従うと、こんな非常識なことはない、何か裏がある、無いとすると古事記は所詮こんなもの…まぁ、色々と諸説?出て来るわけである。

この拙いブログをお読み頂いてる方々には、おわかりの通り「高志国」は「企救半島東側中部」であるから、そんな無茶な話ではないのでは?、とお思いの筈である。焦らず一つ一つ当て嵌めてみよう。

既知の国は、「木国」「針間国」懐かしの「近淡海国」ホヤホヤの「高志国」の計4ヶ国。スタートとゴールが見えてるから、力ずくです。なんとかなるでしょう…古事記原文「吉備国」が抜けている、「針間国」に行ったのに?

高志国


今回唯一情報があるのが最後の「高志国」前記は「食(喰)」がキーワードで解釈した。「水門」が今回のそれであろう。もう一つ「和那美」がある。前記の「沙沙那美」に関係する。「水門(ミナト)」=「港、湊」と解釈されている。これから紐解いてみよう。

「水門」Wikipediaによると古くは「港湾(ミナト)」、日本書紀、古事記に記載がある…全体が拡大解釈ならパーツも拡大? そんなわけはない古くから「水門」=「樋門(ヒモン)」として治水事業にはなくてはならないものとして開発されて来ている。「唐樋門」などがあるという。

これでネット検索、簡単に出て来る「猿喰新田の唐樋門」、いやいや、またまた「猿喰」である。現存するものは18世紀頃に設置されたとのことであるが、この地は「樋門」がなくてはならないものなのである。川が少なく、それに伴う扇状地の発達が少なく止むを得ず海面ぎりぎりで水田を確保する必要性があったところなのである(猿喰新田潮抜き穴)。

少ない川の水を貯め、そして海からの塩水の逆流を防ぐ、知恵です。ダムと堰と水門の違い、ご存知ですか? ちゃんと使い分けられてるんだそうである。なかなか面白い。ダムは別として堰と水門、区別してみよう…。話を戻すと…この「水門」の情報から「高志国」の在処、確定したと思われる。

「和那美」とは?…前記の「沙沙那美」から類推すると「那美」=「豊かで美しい」と文字通りの解釈できる。また「物が一面奇麗に揃って波打つ状態」を表す修飾語と理解できる。「和那美」=「穏やかな波が奇麗に揃った水面」と解釈できる。水門で堰き止められた水面の状態を表すものであろう。 

求める「鵠(コウノトリ)が好むところは、ここである。だから捕獲することができたと安萬侶君は述べておられる。「猿喰」の近隣、「畑」「吉志」「吉田」「伊川」等々渡来人達に由来すると思われている地名が殆どを占める。当然、先進技術国であったろう。山の向こう(西側)は「大里」出雲?

科野國


「高志国」の手前である。「科」=「段差」と読む。よく知られた蕎麦屋さんの屋号「更科」は信州の「蕎麦」が有名なことからその地形を表したものと言われる。「更」「科」の同じ意味を示し、それが「段差」である。地形が急峻で段差をつけて人々が住んだところである(国土地理院報告書)

さて、そんなところがあるか? あります。企救半島南端の「足立山の南麓」に広がる場所である。現在の地名は、北九州市小倉南区葛原、湯川(葛原・湯川台地)、沼、吉田などであろうか。

尾張国・三野国


「三野国」を越えて「尾張国」に向かう。その先が「科野国」であると言う。どうやら「三野国」は探し求める「鵠」の居そうなところがなかったようである。上記と同様にその国の地形に即した命名ではなかろうか。「尾張」=「尾(山稜が長く)(延びて広がった)」であろう。「三野」=「三つの野(台地)」と解釈される

「尾張国」は現在の北九州市小倉南区堀越、横代、石田辺り、「三野国」は同じく長野、貫、朽網辺りではなかろうか。現在「竹馬川」が流れる平野は大きな入江であり、大半は海面下、「大鶙」さん達の乗った船は大きく西に迂回し、これらの二つの国を伝って「科野国」に向かったと述べている。「竹馬川」=「千曲川」は河川名の「国譲り」である。

「近淡海国」=「豊前(京都)平野」としたところ、動かせません。7ヶ国を手中に収めました。今のところ、それなりに納得です、さて、残り3ヶ国、これを「近淡海国」と「針間国」の間に納めるわけである。なんとかなるでしょう。

旦波國・多遲麻國・稻羽國


ちょっと趣を変えて南の国から「稻羽國」を越えるから「三野国」と同様に「鵠」の居場所が少ないところなのであろう。現在の福岡県築上郡築上町辺り、台地形状である。近隣に航空自衛隊築城基地がある。

そう言えば「二人の幼子の逃亡」で「針間国」に向かう時すぐ近くを通過したところである。記述がないのは第十一代垂仁天皇と第二十二代清寧天皇の時代差であろう。古事記中稻羽國」の出現はこれが最後、というかこれっきりである。2、3世紀の間には「国譲り」があったのである。まさか「鳥取県」に譲るとは・・・。まさか、まさか、この説話が「鳥取」の由来

「多遲麻國」は現在の行橋市松原辺りではなかろうか。大部分は上記の基地に含まれる。最後の「旦波國」は現在の行橋市稲童辺りであろう。覗山山頂から眺める朝日(旦)は絶景であろう。そしてその覗山を避けて、ほぼ真東から近淡海の草野津(現在の行橋市草野)に向かうと記述されている。

10ヶ国、なんとかなりました。地図を参考に、あらためて大鶙」さんの足取りを追ってみよう…


超が付く概算で行路100km弱、お疲れさんでした。でも「鵠」がゲットできて目出度し、目出度しである。

旦波國」「多遲麻國」は「稻羽國」と同じく古事記中の出現はこれっきりである。歴史の表舞台から、古事記史の中から、消えてしまう。その後、些か趣を変えるが、その名前が歴史に残ることになる。目出度しである。

「高志国」は前記で「高志前」=「越前」とした。該当する場所は同じ「猿喰」、「稲羽国」で述べたように時代の流れに伴って変化、この場合は「高志国」が分割された。

「越前」「越中」「越後」のように。また「若狭国」の記述があった。垂仁天皇の時代には、「国」として出来上がってなかったのであろう。古事記の記載の中にその変遷の有様を拾ってみよう…。

最後「吉備国」が抜けてること、決定的であろう。通説は、入口みたいな「針間国」に隣接している国であるが、一切今回の捜索に顔を出さない、真に不自然である。

暇が取り柄の老いぼれの「吉備国」は「高志国」更に北にある。その手前で「鵠」を入手できたのだから記述がなくて当然である。

「近淡海国」を求めてから今回までで、その周辺に存在した国々を顕在化することができた。古事記が示す古地図をツールにして話を進めてみようかと思う…。