2017年3月29日水曜日

忍熊王の謀反〔017〕

忍熊王の謀反


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
「吉備国」に二度も出掛けてすっかりお気に入りになったら今度はもう少し、いやトンデモなくか、遠い「高志国」に出掛けたくなった。ここは北陸、そう言えば何年か前に能登の輪島で一泊、ぐるりと回った旅行を、往復約800km、とても印象深いものでした。「遠飛鳥」からだと約2,000km、気が遠くなりそうな距離に感じるが・・・。

古事記が記述した諸国の中で、神話の世界は別として、一番遠い所かもしれない。いつかは行ってみたい、いよいよその日がやってきた。暇が取り柄と雖も体力の問題を抱えて、老いぼれの老いぼれた愛車をスタートします。皆さん、宜しければご同乗下さい。その前にナビゲーターの「建」さんをご紹介。

「神功皇后」が朝鮮で活躍(一説には里帰り?)して気分よく帰還なされる時の出来事。たくさん子作りに励むから跡目相続争いが尽きない。まぁ、天皇とそれ以外は天地の差ですから必死である。神懸かりな皇后、なんか怪しい気配を察知して「忍熊王」のクーデターに対処、あの「建・内宿禰(タケノウチスクネ)」の登場です。

古事記原文(武田祐吉訳)

忍熊王、以難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲將軍、太子御方者、以丸邇臣之祖・難波根子建振熊命爲將軍。故追退到山代之時、還立、各不退相戰。爾建振熊命、權而令云「息長帶日賣命者既崩。故、無可更戰。」卽絶弓絃、欺陽歸服。於是、其將軍既信詐、弭弓藏兵。爾自頂髮中、採出設弦一名云宇佐由豆留、更張追擊。故、逃退逢坂、對立亦戰。爾追迫敗於沙沙那美、悉斬其軍。於是、其忍熊王與伊佐比宿禰、共被追迫、乘船浮海歌曰、

伊奢阿藝 布流玖麻賀 伊多弖淤波受波 邇本杼理能 阿布美能宇美邇 迦豆岐勢那和

卽入海共死也。[この時オシクマの王は、難波の吉師部の祖先のイサヒの宿禰を將軍とし、太子の方では丸邇の臣の祖先の難波のネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立って雙方退かないで戰いました。そこでタケフルクマの命は謀って、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦を絶って詐って降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏しまいました。その時に頭髮の中から豫備の弓弦を取り出して、更に張って追い撃ちました。かくて逢坂(おおさか)に逃げ退いて、向かい立ってまた戰いましたが、遂に追い迫せまり敗って近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫せめられて、湖上に浮んで歌いました歌、

さあ君きみよ、フルクマのために負傷ふしようするよりは、カイツブリのいる琵琶の湖水に潛り入ろうものを。

と歌って海にはいって死にました]

「神功皇后」達が朝鮮から船で帰国、「倭(後の遠飛鳥)」に向かうのであるから間違いなく遠賀川河口から南下、彦山川を遡っている時に「忍熊王」の第一波攻撃に出合った。勿論手筈の通り仕立てた「喪船」を浮かべて死んだふりをする。「神功皇后」と「建内宿禰」の連携、お見事と、記述される。

戦闘場所を地図で示すと…<追記>



「忍熊王」の第一波攻撃を「斗賀野」、両岸まで山裾が迫った場所の呼び名であろう、で受けたがすぐに攻勢をかけて山代まで後退させた。がしかし雌雄を決するまでに至らず、「建内宿禰」の策略が発揮される。汚い手を使って欺き、一気に攻勢に。「忍熊王」余儀なく「逢坂(オオサカ)」まで後退した。

「逢坂」=「会う(アフ)サカ」=「オウサカ」と解釈ではな「逢坂」=「大(オオ)きい坂」=「大坂」である。武田氏のルビは真っ当である。「山代」、「逢坂」共に前記で比定した場所である。「山背(浦)の大坂」は古事記を紐解く上において欠かせない場所である。ランドマークである。

激しいバトルの結果、止めを刺される場所が「沙沙那美」である。通訳は比定不詳で琵琶湖の「さざなみ」と解釈する。原文の示すところは最終戦闘場所であり、湖上ではない。命を懸けて戦った戦士の最後の場所、鎮魂を込めて探し出すのが後の世の務め、怠っては…「さざなみ」では浮かばれない。

地図で示した場所現在「みやこ町犀川大坂笹原」という地名になっている。「沙沙那美」=「笹並(波)」=「笹原」であろう。追い詰められた戦士達の無念の場所である。合掌。「忍熊王」と将軍の一人「伊佐比宿禰」が犀川伝いに「淡海」へ逃げる。が、時すでに遅し、抵抗を諦めて海に沈んだ。

通説も「沙沙那美」などを除けば、比定された地名を辿って琵琶湖に向かうことができる。がしかし「難波」出身の将軍たちが何故山城を背にして立ち向かったのか、また、退却方向の選択はいくらでもあったように思う。不自然なところが多々あるが、今は先に話を進めよう。

神懸かりの「神功皇后」と戦闘能力抜群の「建内宿禰」が揃えば天下無敵、いや虚空無敵である。でも「禊祓」は欠かせない。太子(後の応神天皇)を引率して「高志前之角鹿」に向かう。いよいよ出発です。

古事記原文(武田祐吉訳)

建內宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也。亦其入鹿魚之鼻血臰、故號其浦謂血浦*、今謂都奴賀也。[かくタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊をしようとして近江また若狹の國を經た時に、越前の敦賀に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀(やぶ)れたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食(みけ)つ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦と言いましたが、今では敦賀と言います]

「忍熊王」達が沈んだ「淡海」から「若狭国」を経て「高志前之角鹿」行った。なんとも簡単な記述である。片道1,000kmもあるところとはとても考えられない場所である。「淡海」は海路として目立った陸地は「若狭国」だけ? 簡単記述だからこそ、ここだという決め手が見つからない、というのが現状であろう。

高志前之角鹿


何の補足説明もない「若狭国」よりグダグダと書き連ねる「高志前之角鹿」から紐解きに入ろう。スタートは「難波津」である。そこから「北」に向かった(「建」さんが後程教えてくれる様子)。そうすると陸地に接近するのは現在の「企救半島」になる。この島のどこかに、即ち、企救半島東側の沿岸部に「高志前」があると思われる。「建」さんは何も告げずに船が波を蹴って…。

「高志前」の特徴が記載されていると見なす「御食津大神(ミケツオオミカミ)」それとなんとも生臭い説話、なんでこんな話を…例のごとく…意味がある筈なんです。企救半島東側中央部、現在の北九州市門司区に「猿喰(サルハミ)」、北九州港に隣接する地名がある。また同じ門司区畑に「鹿喰(カジキ)」峠がある。由来も文字通りのようであるが、極めて珍しい、難読の地名である。

繋がりました、「建」さんの口元が少し緩んだように見えたのだが「食」がキーワードであった。「喰」のついた地名を中心とした地域、それが「高志前」=「越前」であったと推定される。

現在は埋立てが盛んにおこなわれて往時の場所を見極めるのは困難であるが、「角鹿」=「敦賀」は湾の奥にあったのではなかろうか。企救半島の背骨の山塊を越えれば響灘に浮かぶ「淡路島」等々遠く朝鮮半島を「遥望」できるのである。参考までに地図を示す。

「淡海」を北に進路を取って始めて陸地に接近するのが現在の鳶ヶ巣山、それを進行方向左にみながら進むと前方に入江が目に入る。それが「若狭国」であろう。「若狭国」=「新しく出来た小さな国」受け取れるが、根拠はない。

「難波津」を出て北方へ向かう、とした理由はこれであった。南方では「針間国」「毛国」などを「經歷」することになる。古事記の記述は、経由地だから適当に、ではない。今回も実感することができた。「建」さんが頷いたような気がするが、違うかも…。

現在の行橋市(市庁)辺りから「淡海」に出て直線距離で約20kmの海上走行である。「禊祓」に行くことが出来る距離ではなかろうか。陸上になるが同じところから山背川(犀川)ルートで香春町まで約20kmである。空間的に自然な解釈結果と思われる。

補足的になる「志」=「死者の追善供養」という意味がある。「禊祓」の場所として選ばれたのかもしれない。「建」さんとはこれでお別れ、またお会いするかも…。

「高志=越」の国の在処が見えてきた、がしかし通説とは全く異なる結果であった。また「九州王朝」などの説を唱えられる方々の推定結果とも異なるように思う。暫くはこんな結果に従って古事記を紐解いてみよう。

「気比大神」の由来、こんな気味悪いものである。食っちまったから祀ろうなんて明快(冥界?)過ぎる。大らかと言えば、それも良し、である(香椎宮の方が美しかったかな?)

古事記原文はその後色々と詠って終わるが、仲哀天皇「河內惠賀之長江」、神功皇后は「狹城楯列陵」に夫々埋葬されたとある。「河內惠賀之長江」は「允恭天皇」前記〔XV〕で記載したように「豊前(京都)平野の行橋市長木辺り」であろう。「狹城楯列陵」は少々情報少ないが、御所ヶ岳山塊の東の先端にある「みやこ町彦徳高崎」辺りではなかろうか。

…と、まぁ、こんな具合で先に・・・。



<追記>

2017.06.29


戦闘場所地図の修正。詳細は「古事記新釈」仲哀天皇・神功皇后を参照願う。



2018.04.05

血浦*

角鹿に「血浦」はあるのか?…「血原」「血沼」と同様な地形の場所を求めることになる。

探すと容易に上図に示したところが見出せる。砕石によって際どい状態であるが「血」の地形を残している。図中の青く見えるところは現在の海抜10m以下で大半が海面下にあったところと推測される。

ここが「血浦」であろう。麓にある貴布祢神社辺りが氣比大神の居場所であったと推定される。この地が伊奢沙別命を主祭神とする氣比神宮の本来の場所であることを告げているのである。「血」の地形象形の確からしさに感嘆である。詳細はこちらを参照。