2017年3月24日金曜日

仁徳天皇:絹と染色〔014〕

仁徳天皇:絹と染色

 『紅』と『藍』


「鉄」を確保した仁徳さん、今度は何をゲットしようと企んだのか? 力を示すには身の回りのものが大切、特に衣服の威圧は崇める人達には印象深い。あろうことか「絹」の話題に飛ぶようである。

口子臣という家来が仁徳さんの命令を受けて、遁走した「后」に会いに行ったところ、なかなか会ってくれない。大雨の中で地べたにひれ服している時の様子である。古事記原文(通訳:武田祐吉)

故、是口子臣、白此御歌之時、大雨。爾不避其雨、參伏前殿戸者、違出後戸、參伏後殿戸者、違出前戸。爾匍匐進赴、跪于庭中時、水潦至腰。其臣服著紅紐青摺衣、故、水潦拂紅紐、青皆變紅色。爾口子臣之妹・口日賣、仕奉大后、故是口日賣歌曰、

夜麻志呂能 都都紀能美夜邇 母能麻袁須 阿賀勢能岐美波 那美多具麻志母

爾太后問其所由之時、答白「僕之兄、口子臣也
[このクチコの臣がこの御歌を申すおりしも雨が非常に降っておりました。しかるにその雨をも避けず、御殿の前の方に參り伏せば入れ違って後の方においでになり、御殿の後の方に參り伏せば入れ違って前の方においでになりました。それで匐て庭の中に跪いている時に、雨水がたまつて腰につきました。その臣は紅い紐をつけた藍染の衣を著ておりましたから、水潦(みずたまり)が赤い紐に觸れて青が皆赤くなりました。そのクチコの臣の妹のクチ姫は皇后樣にお仕えしておりましたので、このクチ姫が歌いました歌は、

山城の筒木の宮で申し上げている兄上を見ると、涙ぐまれて參ります。

そこで皇后樣がそのわけをお尋ねになる時に「あれはわたくしの兄のクチコの臣でございます」と申し上げました]

石之日売命は「那良山口」で故郷を望む歌を詠って、引き返して「夜麻志呂能 都都紀能美夜邇」
実家に逃げ帰って泣き言を述べる、そんな気弱な皇后さんではない。しっかりお仕事をなさるのである。

「夜麻志呂」=「山代」=「山背」=「山裏」=「山浦」である。地名として残ってるところを調べると「那良山口」の東方、現在の平成筑豊田川線「油須原駅」の近くの地名は「浦山」である。「戸城(トノシロ)山」の南麓である。

この山の東北に「山浦大祖神社」(神功皇后腰掛石)があり、古事記の「山代」はこの辺りを示している。「筒木宮」は「山代川(犀川)」を下に眺める高台にあった。「トノシロ」=「トキ」と読み替えれば「戸城(トキ)」=「筒木(トウキ)」と繋がるのではなかろうか。<追記>

歌の前文、短いものだが意味深長である。「服著紅紐青摺衣」茜染と藍染が既に行われていたことがわかる。魏志倭人伝に記述された倭人のイメージからすると大きな変化である(およそ200年か?)。この短い記事からで推測するのは冒険ではあるが、少し試みたい。

水溜りに浸かった「赤い紐」から茜色が着衣に移ったようである。草木からの抽出で造られる日本茜(プルプリン:多価フェノール誘導体)とすると、かなり染色しやすく脱色しづらいもののように思えるが(タンパク質系繊維:絹、羊毛等)、まだ媒染技術レベルが低かったのであろう。5世紀を思えば当然かも、である。

ただ、単に茜が藍の着衣に移っただけでは着衣が赤くはならず混色によって紫色に変化するように考えられる。茜が脱色する条件ならば、より染色しづらく脱色しやすい藍は既に抜け落ちていることが予想される。茜の色そのものになったと解釈すれば、抜け落ちと同時に変色(薄黄色)の状態になっていたのではなかろうか。

(インディゴ)は容易に還元されて無色(薄黄色)の化合物に変化する。茜は上記したように多価フェノールで化合物としての変化はなく、抜け落ちるだけである。「水溜り」の水は還元性を有している。おそらく硫黄系の亜硫酸塩を含んでいたのであろう。

いずれにしても自然が色彩豊かであるように人々はそれを求めて工夫をした。1500年以上の過去にも色彩豊かな日常を楽しんでいたことを確認できる。また、あらためて古事記の記述の正確さに驚かされる。

「藍染」は現在もその特異な染色技術を必要とすることが知られている。色味、風合い共に飽きることのないものである。その技術の巧みさ、「漆工」も含め、伝承と解明が望まれる。さて、話を古事記に戻すと…

奴理能美の『蚕』


三人が計って仁徳さんを誘き寄せようと、あの好奇心旺盛なお方だからきっとこの話には乗ってくるんじゃない? ついでに「后」を弁護しよう、と…

於是口子臣、亦其妹口比賣、及奴理能美、三人議而令奏天皇云「大后幸行所以者、奴理能美之所養虫、一度爲匐虫、一度爲鼓、一度爲飛鳥、有變三色之奇虫。看行此虫而入坐耳、更無異心。」如此奏時、天皇詔「然者吾思奇異、故欲見行。」自大宮上幸行、入坐奴理能美之家時、其奴理能美、己所養之三種虫、獻於大后。爾天皇、御立其大后所坐殿戸、歌曰、

都藝泥布 夜麻斯呂賣能 許久波母知 宇知斯意富泥 佐和佐和爾 那賀伊幣勢許曾 宇知和多須 夜賀波延那須 岐伊理麻韋久禮

此天皇與大后所歌之六歌者、志都歌之歌返也。[そこでクチコの臣、その妹のクチ姫、またヌリノミが三人して相談して天皇に申し上げましたことは、「皇后樣のおいで遊ばされたわけは、ヌリノミの飼っている蟲が、一度は這はう蟲になり、一度は殼からになり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に變るめずらしい蟲があります。この蟲を御覽になるためにおはいりなされたのでございます。別に變ったお心はございません」とかように申しました時に、天皇は「それではわたしも不思議に思うから見に行こう」と仰せられて、大宮から上っておいでになって、ヌリノミの家におはいりになった時に、ヌリノミが自分の飼っている三色に變る蟲を皇后樣に獻りました。そこで天皇がその皇后樣のおいでになる御殿の戸にお立ちになって、お歌い遊ばされた御歌、

山また山の山城の女が木の柄のついた鍬で掘った大根、そのようにざわざわとあなたが云うので、 見渡される樹の茂みのように賑にぎやかにやって來たのです。

この天皇と皇后樣とお歌いになた六首の歌は、靜歌の歌い返しでございます]

仁徳さん、早々にお出ましになり、「三種虫」=「蚕」、「夜賀波延」=「八桑枝(大きな桑の枝)」をゲットなされたようである。詳細は略すが、「淤呂須波多」=「織機」が後に登場し、「紡糸」、「紡績」の事実を伝える。「絹糸及び織物」の「生産技術/設備」が確保できたことを示している。

相変わらず他愛ない物語を記述しているように見えるが、言ってることは極めて重要である。中国の史書に5世紀以前に筑紫の倭国で絹織物が作られていたことが記載されているが、古事記が裏付ける。「絹」のきの字も発掘されない近畿「大和」は古事記の舞台ではない…と言っておられた方が居た。

邇邇芸命一派の物語は神武天皇に始まり、「近淡海」と「遠飛鳥」を手中に入れ、仁徳天皇でその基盤を確立したと述べている。仁徳紀が長く、種々雑多の説話を記述したのはその実態を示すことが目的であった。朝鮮半島からすると未開の地であり、そこからの渡来人達が作った多元的国家の時代に、追い付け追い越せの国造りに勤しんだ天皇の物語と思われる。

天皇と豪族


仁徳紀の最終章は「丸邇氏」と「葛城氏」との外戚争いであろう。また、気が向いたらブログ化するかも、である。感想のみ記載すれば…

仁徳天皇の父親、応神天皇の時代に深く関わった「丸邇氏」系(宮主矢河枝比売の子:菟道稚郎子皇子、八田若郎女、女鳥王)と「葛城氏」系「石之日売命」(仁徳の后)、「后」が強いのも最新の朝鮮半島情報を携えた実家の力を背景にしたのであろう。勢力を張る「丸邇」一族にとっては許しがたき相手であった。

仁徳さん、そこは上手く立ち回って、和珥系の八田若郎女も丁重に扱い、石之日売命もコケにすることなく、である。何事も政治はバランスと心得ていらっしゃったようである。「建内宿禰」まで持ち出して褒められる。やり過ぎでは? とは言うものの、ひょっとしたら事実かもしれない。

最後に引っ掛かったこと…「丸邇」の「邇(ニ)」=「丹(ニ)」とすれば、「丸邇氏」は「朱」に関わるのではなかろうか。「朱砂」は「銅鏡」造りに不可欠の研磨剤であり、香春岳に産する「銅」と切っても切り離せないものである。田川郡香春町の南に「赤村」がある。調査不十分でなんともであるが「赤」の由来かもしれない。

更に、「丸邇」一族の分派に「柿本」姓がある。「大坂山」の西南山麓、「柿下」という地名があり、一説には「柿本人麻呂」の出自に関連するとある。いろいろ関連してきて、“困ったもの”である。

では、本日はこれくらいで…。

<追記>

(古事記新釈:仁徳天皇【説話】参照)

2017.09.12
「山代国之大筒木」その後の検討で、現地名福岡県京都郡みやこ町犀川木山辺りと特定した。招提寺、宝樹寺が集まるところが中心地、宮があったところと思われる。地図を参考までに。