2019年10月31日木曜日

古事記序文:飛鳥淸原大宮御大八洲天皇 〔380〕

古事記序文:飛鳥淸原大宮御大八洲天皇


古事記には序文がある。古事記の最終章と同様に登場人物名が伏されるのであるが、当然大海人王子(後の天武天皇)は出現しない。そこで常套手段であるが宮の名称を使って表されている。紐解く回数が減って好ましいような、それだけ情報が少なくなるってことである。

古事記本文ではないので、地形象形されていない?…と見る向きもあろうが、構わず試みるのが、本ブログの真骨頂、である。尚、序文の全文については、こちらを参照願う。

「飛鳥淸原大宮御大八洲天皇」、勿論「天武天皇」を示す。更に勿論、古事記本文には、ご登場なさらない天皇なので宮の場所など紐解いてはいない・・・が、何かを告げようとしているのかもしれない。「飛鳥」は本文で、かなりの文字数を使って読み解いた場所、現在の田川郡香春町にある香春一ノ岳山麓である。奈良大和の明日香か?…なんてことは本ブログでは述べない。

御大八洲」の「大八洲」は、国(島)生みの「大八嶋(國)」と読める。確かにいつも引用させて貰っている武田祐吉氏はそれに基づいて「天下を治める」と訳している。ただ単に「大八嶋國」としていないところは、巧者たる所以であろう。

何故「嶋」を使わずに「洲」を用いたのであろうか?…これをそのまま「州」と解釈すると、他の文字も含めて、「御大八洲」は…、
 
平らな頂の山稜の谷間にある州を束ねるところ

…と読み解ける。

<飛鳥淸原大宮>
「淸原」は「清らかに貴い原」と読めるが、地形象形的には、「淸原」は…、
 
水辺で野原に成りかけのところ

…であろう。「靑海」(海に成りかけ:忍海とも)、「靑沼」(沼に成りかけ:忍沼は出現?)など幾つか例示されるが、引用は控えることにする(「淸」の地形象形としての解釈はこちら参照)。

「飛鳥」の近隣で地形を探索すると・・・五徳川にある「洲」を束ねて金辺川に合流する地点が平坦な野原になりつつある場所と紐解ける。おそらく現在の須佐神社辺りではなかろうか。現地名は田川郡香春町大字香春の長畑である。

多くの天皇達が宮を構えた「飛鳥」近傍ではあるが、直近では池邉宮岡本宮など、この地に該当しなかった。垂仁天皇の御子、大中津日子命が許呂母之別の祖となったところ、勿論早くから開けた地ではあったと推測されるが・・・。

何せ情報が少ないので、ネットを散策すると、面白いものが見つかった。奈良県のサイトのはじめての万葉集に関連する歌が記載されている。

大伴御行(おおとものみゆき) 「巻十九 四二六〇番歌」
大君(おほきみ)は 神にし坐(ま)せば 赤駒(あかこま)の 匍匐(はらば)ふ田居(たゐ)を 都(みやこ)となしつ
【訳】天皇は神でいらっしゃるので、赤駒が腹ばう田を都としてしまわれた。尚、原文は…、
【原文】皇者 神尓之座者 赤駒之腹婆布田為乎 京師跡奈之都

また、このサイトには記載されていないが、続く「十九 四二六一番歌」(作者不詳)がある。

大君は 神にしませば 水鳥(みづとり)の すだく水沼を 都と成しつ
【訳】大君は神でいらっしゃるので、水鳥が群がり集まる水沼を、都としてお造りになった。
【原文】大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通

この地は石上神宮、石上之穴穂宮、石上廣高宮に登場した石上(イソカミ)=磯の上の地である。金辺川、五徳川、御禊川が合流して、当時は大きな沼の状態であったと推定した。その沼の磯の上にあるところと解釈した。「水沼」の「水」=「川」であり、川が寄り集まる沼を表している。

古事記本文に頻度高く登場する「石上」の地は、当時は極めて特徴的なところであったと推測される。古くは天照大御神と速須佐之男命との宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった倭淹知造、正に水浸しになっていたところと記されている。だからこそ歌に詠まれたのであろう。

上記の奈良県のサイトに記述されているが、推定される明日香村岡辺りに、田も水沼も確たる痕跡を見出せていないとのことである。それでは歌にならない、のではなかろうか。


<赤駒>
赤駒之腹婆布田為乎」は何と読み解けるであろうか?・・・図に示したように宮の背後にある小高い山稜の地形が「赤駒」(赤毛馬)の姿をしていると解る。

とある寺の縁起物の写真を載せたが、首を高く伸ばした形を示す。万葉集に幾度か登場するそうである。首を長くして待つ、かもしれない。

また、「赤」は「赤」=「大+火」と分解される。すると、赤=平らな頂の山稜の谷間にある[炎]のような地形を示す。

雄略天皇紀に登場した引田部赤猪子の解釈に通じる。それが「[駒]のような小高いところ」と読み解ける。

腹婆布=腹這う田為=田居(田のあるところ)とすれば、腹這っている赤駒の姿として上記の解釈となろう。がしかし「為→居」と記されていないことが些か別解釈があることを匂わせる。

「腹・婆(端)・布(布のような)・田・為(為す)」と区切ると、腹婆布田為=腹の端で布のように広がる田と為すと読み解ける。大きな解釈の変化は見られないが、より鮮明な地形が浮かんで来ることが解る。即ち駒の腹から田が大きく広がっている様を表していることになる。かつ「赤駒」の姿もより鮮やかになって来る。

天武天皇の諱は「大海人」と言われる。この「海」=「氵+屮(草)+母」と分解され、海=水辺にある小高いところが両腕で抱えるような形になっているところと紐解いた。駒の脚と腹で作られるところを示しているのではなかろうか。

「飛鳥淸原大宮御大八洲天皇(大海人王子、後の天武天皇)」は、間違いなく田川郡香春に坐していた。そして奈良(?)藤原京を造営し坐そうとした。空白の日本の歴史、果たして埋まるのであろうか?・・・。





2019年10月24日木曜日

『古事記』で読み解く『隋書俀國伝』(Ⅱ) 〔379〕

『古事記』で読み解く『隋書俀國伝』(Ⅱ)


ところで「日出處天子致書日没處天子無恙云云」を述べたのは誰か?…様々に推論されているのだが、今一歩確からしさに欠ける有様のようである。推古天皇とすると男王の記述と合わず、ならば聖徳太子か?…「王」ではないが、聖徳太子のことを「王」と記したものがある、などなど・・・。

いずれにしても苦肉の解釈であろう。ならば隋書に登場した人物名を紐解いてみよう。ひょっとしたら『古事記』に登場した天皇他に当て嵌まるかもしれない。


多利思北孤は、??天皇

「王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」と記されている。姓が「阿毎」、字が「多利̪思北孤」、號が「阿輩雞彌」である。『古事記』に頻出の「阿」=「台地」とする。「毎」は、それなりの頻度で登場するが、ほぼ「~ごとに、つねに」の意味を表しているようである。地形象形的に用いられていないことから、あらためて紐解いてみる。
 
<阿毎多利思北孤>
「毎」=「母+屮」と分解される。「母」=「両腕で子を抱える様」、「屮」=「草に関連する部首」とされているが、文字形からすると山稜から延びる枝稜線の象ったと解釈できそうである。

すると「毎」=「両腕を伸ばしたような稜線で囲まれたところ」と読み解ける。阿毎=両腕を伸ばしたような稜線で囲まれた台地となる。

「阿毎(アマ)」=「天」と置換えると、天=大=一様に平らな頂の山稜と読める。これらが示す地形の麓に居た王であると思われる。

この地形に当て嵌まる『古事記』の天皇は、誰であろうか?…最終章の天皇、欽明天皇から推古天皇までの和風諡号、即ち彼らの出自の場所の地形を見直してみた。

すると、「阿毎」に合致する天皇はただ一人、橘豐日命(用明天皇)であることが解った。明らかに古事記の名称とは異なるが、「多利思北孤號阿輩雞彌」も同じく地形象形表記と思われる。
 
<多利思北孤阿輩雞彌・阿輩臺>

字の「多利̪思北孤」に含まれる古事記頻出の「多」=「山稜の端の三角州」である。

前記の「都市牛利」で紐解いたように「利」=「切り離す」と解釈する。

図に示したように山稜の端の三角州が他の山稜と切り離された地形となっていることが解る。

「思」は古事記の思金神と類似して「頭蓋の泉門」を示すとすると、「思」=「囟+心」=「凹んだ地の中心」となる。

「北」=「左右、又は上下に分れた様」、「孤」=「子+瓜」=「生え出た丸く小高いところ」と読み解くと、その中心の地が周囲の山稜から分かれて丸く小高くなっていると述べている。

多利思北孤=山稜の端の三角州が切り離されて細分された中心の地が孤立した丸くこだかいところと紐解ける。「北」→「比」(ヒコとなる)の誤りとするのが通説だとか…一文字も変更することはあり得ない。この文字列で明確な意味を表しているのである。現在の國埼八幡神社辺りと推定される。

古事記の橘之豐日命は「橘」(上流に向かって無数に枝分かれした谷間[川])の地にある「豐」(多くの段差がある高台)で「日」(山稜の末端が[炎]のように突き出ているところ)に坐していた命と紐解いた。「橘」と「豐」でほぼ特定されるが、「多利思北孤」はより鮮明になっていることが解る。中国史書に現れた倭の地・人名は直截的と述べたが、正にその通りの結果と思われる。

「號阿輩雞彌」の「輩」=「非+車」と分解される。『古事記』に登場する「非」=「狭い谷間」である。「車」=「ずるずると連なる様」から、「阿輩」=「狭い谷間からずるずると連なったところ」と読み解ける。「雞」=「奚+隹」であって「繋がれた鳥」を意味する。その文字通りの地形を象った表記であろう。纏めると阿輩雞彌=狭い谷間からずるずると連なった地で繋がれた「隹」のような形が広がったところと読み解ける。全く矛盾のない表現であろう。


『新唐書東夷伝』に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」と記載されている。「北」→「比」としていることから、些か誤字脱字の懸念が浮かぶが(列記された漢風諡号の例では、海達、雄古など。参照Wikipedia)・・・。阿毎多利思北孤=用明天皇とする上記の結果と矛盾はないようである。

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余談だが「隹」は古事記のキーワードの一つである。例を挙げれば大雀命(仁徳天皇)など、山麓の地形を「鳥」の形に見立てた表記が数多く出現する。「嶋(山+鳥)」も含めて古事記読み解きに欠かせない解釈であろうかと思われる。人為的な開発(採石・宅地)、昨今のような豪雨による山腹の変貌に耐えて今日までその地形が残されていることに畏敬する。


尚、「比」は「北」の誤りである。「比」は「くっ付いて並ぶ」の意味を示す。字形は極めてよく似ているが、故に書き換えたのであろうが、「北」は「離れている様」を示す。

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后の「雞彌」は何とも優雅な広々とした地を占有していたのであろうか。天皇、ご寵愛か・・・先に太子を読み解いてみよう。
 
<利歌彌多弗利・哥多毗>
利歌彌多弗利」と記される。「利」、「彌」、「多」は上記と同じとして「歌」は何と解釈するか?…『古事記』に登場する文字なのである。

いえいえ、挿入歌ではない。垂仁天皇紀に天皇に見捨てられた二人の比賣の中の一人、歌凝比賣命である。

「歌」=「可+可+欠」と分解されて、「二つの谷間が並ぶ大きく開いた出口」のことを意味している。

「弗」=「弓+ハ」と分解される。「広がり分れる、飛び出る様」を象った文字と解説される。「沸」で表される水の様である。その特徴が見事に当て嵌まる地形が見出せる。「多利思北孤」の直ぐ北側に当たるところである。


利歌彌多弗利=切り離された広がる二つの谷間の出口で飛び出た山稜の端の三角州が切り離されているところと読み解ける。通説では「利」→「和」の誤り…万葉仮名の用法から、と言われているとのことだが、太子の名前は万葉仮名ではない。「多利思」→「帶(タラシ)」の聞き間違い?…だとか。命懸けで著述している時代のことを暢気な現代人があれやこれやと読んでるわけである。

さて、この地は『古事記』では何と表記されていたか?…橘豐日命(用明天皇)が宗賀の稻目宿禰大臣之女・意富藝多志比賣を娶って誕生した多米王(山稜の端の三角州が[米]粒の形をしているところ)の出自の場所と解る。「多弗利」の表記に合致すると思われる。

実は「多米王」の名前は二度登場する。山稜の端の三角州の北側の部分は「足取王」が居た場所でもある。おそらく時が経って「利歌彌多弗利」が両方を統治したのではなかろうか。后の「雞彌」=「意富藝多志比賣」となる。宗賀(蘇我)の権勢、正に飛ぶ鳥を落とす勢いと言えるのであろう。

「日出處天子致書日没處天子無恙云云」と言わしめた背景には、上記のような過大に膨らむ野望・野心が働いていたのかもしれない。そしての勢いは、決して尋常ではなかったようである。

使者に「阿輩臺 」が登場する。多分國崎八幡神社の南西側の小高いところ、それを「臺」で表したのであろう(上図<多利思北孤阿輩雞彌・阿輩臺>参照)。もう一人の使者「哥多毗」は、おそらく「利歌彌多弗利」の近隣の「哥」(二つ並んだ谷間)の地形で「毗」のところであろう。

毗」は「毘」の異字体である。『古事記』に頻出する文字、「田を並べる」(毘古など)の解釈に加えて「臍」(那毘など)とする場合があった。山稜が延びたところで凹になった地形を表している。上図<利歌彌多弗利・哥多毗>に示した場所ではなかろうか。彼らの出自は不詳だが、宗賀(蘇我)一族が要職を占めていたことが解る。

また「阿蘇山」が記載されている。前記で侏儒と読み解いた山である。「阿蘇」の由来を調べると、これがまた何とも頼りないものばかり…「阿(台形の地)|蘇(種々集まる)」…根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳の五峰を阿蘇五岳(あそごがく)と呼ぶそうである。広大なカルデラ火山、やはり見逃す筈がなかった、のである。

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隋書が記す「俀國」の前歴は「邪馬壹國」である。そして連綿と続く同一の国として扱われている。間違いなく隋書に現れた「俀國」は『古事記』が記述する天神族の国であることが解った。中国の使者は「邪馬壹國」を引継いだように聞かされたのであろう。「邪馬壹國」は、企救半島の南西麓、筑紫國に悠久の昔からあったと・・・あたかも奈良大和に万世一系に存在して、のように。

「俀」=「人+妥」と分解される。更に「妥」=「爪+女」である。「爪」=「下向きの手の形」とすれば、「[女]を手なずける様」と解釈される。それから「落ち着く」などの意味を表す文字となる。更に「下向きの手」で「まとめる」など意味も生じることになると解説される。

裴世清は、確かに古文書に記された「倭國」だが、決して同じではないと感じたであろう。それを「俀」の文字で表記したと推測される。「倭」に含まれる[女]、倭国の象徴である。「俀國」は、その[女]を「爪(まとめる)」た国を表している。「邪馬壹国」(倭國)の領域が漠然とした解釈しかできず、また『古事記』が記す天神族の舞台も全く読み取れずのままである日本の古代史では、到底理解できない記述であろう。

大陸から遁走する一族は、東へ東へと一族の居場所を求めて移住した。落ち着いた場所に、恰も古から棲みついていたかのように・・・西から佐賀県多久市・福岡県田川市(郡)・奈良県橿原市(→京都市→東京都)、かつてのアジア大陸の最果ての地に落ち着いたと言うことであろう。

昨日のTVは、第百二十六代天皇即位一色であった。その眩いばかりの美しい映像に他国の賓客もきっと目を見張ったであろう。現存する『古事記』、『日本書紀』、各『風土記』及び『万葉集』など、流浪の民がそのアイデンティティを記すために残した、世界に類をみない書物であろう。悠久の時の流れが輝いていると感じられた。(2019.10.23)

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2019年10月18日金曜日

『古事記』で読み解く『隋書俀國伝』(Ⅰ) 〔378〕

『古事記』で読み解く『隋書俀國伝』(Ⅰ)


中国の史書、『魏志倭人伝』に登場する倭国の国名及び卑弥呼や壹輿などの人名も『古事記』の文字解釈、即ち地形象形の表記をしていることが解って来た。中国における史書にはいくつかの、時代毎に存在するようであるが、詳細には後に読み解くことにして、その内の一書、『隋書俀国伝』に記された内容が興味深い。

その史書の全体については後として、下記の一文を読み解いてみようかと思う。隋書の記載内容そのものは、それまでとはかなり異なり、登場人名も感じが違っているようである。

隋書原文…、

明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀 俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都

…日本の古代史では超有名な「日出處天子致書日没處天子無恙云云」の文書を差し出した後日談となる。「帝覧之不悦」だったが、倭国との国交断絶するわけでもなく、「裴世清」の派遣に繋がって行く(帝に憚って「世」の字を省略?)。元気そうな輩がいるようだから、ちょっと見て来い、かもしれない。

さて、「裴世清」が倭に向かう行程が魏志とは大きく異なる。「狗邪韓國」は登場しない。「百濟」~「竹島」(聃羅國を望む)~(都斯麻國を経る)~「一支國」~「竹斯國」~「秦王國」~(十餘國を経る)~「海岸」に到着すると記載されている。

「都斯麻國」、「一支國」は現在の対馬、壱岐島に該当するであろう。また「百濟」は良く知られた場所であり(現在の全羅北道辺り)、「聃羅國」は「耽羅國」であって現在の済州島として間違いのないところと思われる。『古事記』で百濟=古波陀と読み解いたところである。先ずは「一支國」までの行程を再現してみた。
 
<百濟國→一支國>
「百濟」は広大であって寄港した場所として現在の格浦港辺りを想定してみたが、根拠は希薄である。

次の「竹島」については、やはり興味深い場所なのであろうか、幾人かの方が推定されている。

珍島、莞島などが挙げられているが、特定するには至ってないようである。

そこで「聃羅國を望む」を頼りにその北方の島を当たってみることにした。

多数の島が並ぶ中で、おそらく火山性の山が島となったと推定されるが、外輪山のように窪んだ中心を持つ島が見出せる。甫吉島と名付けられているようだが、その地形を象った命名ではなかろうか。

即ち竹のように中が空洞になっている様子を示していると思われる。その南西麓にボジュッ山があり、まるで天然の灯台のような形をしていることが解る。その麓に寄港したと推定される。
 
<竹島>
それにしても「狗邪韓國」から対馬に渡る時に比して、航海距離が大幅に増えることになる。

航海、造船技術が著しく進歩したのであろう。勿論、大型化による食料などの備蓄も格段に増えたことが推測される。この島のほぼ真南に耽羅国があると記述している。

ところで「聃(耽)羅國」は、Wikipediaによると…、

耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓神話がある。それによると、高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(『高麗史』では日本)

から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国したことが伝えられている。歴史的な記録としては3世紀の中国の史書『三国志』魏志東夷伝に見える州胡が初見であり(「三姓神話」)、朝鮮人とは言語系統を異なるものとするのが通説である(これには異説もある)。

…と記されている。「耽羅」の由来は如何なものなのであろうか?・・・。
 
<聃(耽)羅國>
済州島は中央の漢拏山の噴火でできた島の様相をしており、均整のとれた美しい島となっている。

また、その山麓に無数の小さな噴火口の跡が残っているのが伺える。地形的には特異な形状を示しているようである。

その無数の噴火口を拡大してみると「耳朶(タブ)」の形をしていることが解る。「聃(耽)」=「大きな耳朶」の意味を表す文字である。聃(耽)羅國=大きな耳朶が連なったところと読み解ける。

この地も、おそらく倭人達が一時は占有したのであろう。上記の「竹」、「聃(耽)」の文字を使って地形象形したのではなかろうか。

先に進もう・・・上記で寄港地間が延びたと推論したように「都斯麻國」に立寄ることはなかった。加えて、南北にはそれなりの間隔が空いているが、東西には「都斯麻國」と「一支國」との距離は少ない(半分強)。従って、直行することになる。

これまでの表記と異なり、何故「都斯麻國」としたのか?…この文字列も読み解ける。「都」=「集ま(め)る」、「斯」=「其+斤」=「切り分ける」、「麻」=「細かく、細く、狭く」となる。『古事記』で頻出の文字が並んでいる。都斯麻國=細かく切り分けられた地を集めたところと読み解ける(地図はこちら)「麻」には「擦り潰された」(ex. 阿麻)に加えて「夜麻登」=「狭い谷間を挟む山稜が二つに分かれるところにある高台」の用法がある。

魏志倭人伝の「對海國」、古事記の「津嶋」はこの島の中央部の入組んだ入江を象形した表記であった。これに対して上記は現在の対馬の全体を表す表現となっている。原文には「都斯麻國逈在大海中」と記されている。正にある距離を置いて、遠くから眺めた表現なのである。対馬はスルーである。

この記述に関して、対馬から壱岐島は南(東南)なのに、やはり中国史書の方角記述は怪しい・・・何かと史書の原文(写本)を疑うように解釈する。魏志倭人伝の方角を恣意的に変更し得る根拠にもなっているようである。「南→東」は十分に考えられる間違い、であると・・・怪しいの読み手であろう。

次は、いよいよ九州本土に上陸である。「竹斯國」と記載される。間違いなく「筑紫(國)」とされているようである。そして博多湾岸となる・・・が、果たしてその解釈で良いのであろうか?・・・。
 
<竹斯國>
「斯」の文字が使われている。意味があるから「筑紫」とはしなかったのである。

上記したように「斯」=「切り分ける」である。「紫」にその意味はない。

この「竹斯」は「竺紫」を示すことが解る。『古事記』で「竺」=「竹+二」と分解すると、「幾つかの横切るところがある山稜」と読み解いた。

伊邪那岐が禊祓をした竺紫日向之橘小門之阿波岐原そして天孫邇邇芸命が降臨した竺紫日向之高千穗之久士布流多氣に登場する地である。

『古事記』では「竺紫日向」であって「筑紫日向」は出現しない。「竺紫」と「筑紫」をごちゃまぜにしたのが日本書紀である。更に博多(湾岸)は「筑紫」ではなく、「筑前」である。この錯綜とした有様を保持するならば、「竹斯國」が示すところは永遠に読み解けることはないであろう。

ここからが「隋書」が伝える真骨頂の記述に入る。彼らは現在の波津港辺りに着岸した後、響灘の外海を通過せずに遠賀郡岡垣町にあった汽水湖に進入したと予測される。『古事記』の「日向國」、その港は「橘小門」だったと伝えているのである。伊邪那岐が生んだ衝立船戸神が守る船着き場であったと推定される。
 
<秦王國>
内海に入ったら、そのまま古遠賀湾を突き進むことになる。おそらく山稜の端が低くなった谷間を縫うように進んだのであろう。

当時は既に確立されたルートがあったと思われるが、今は知る由もない。

船は、時には陸地を引き摺られて丘を越えたのかもしれない。常套手段であろう。上図に示したところは全て現在の標高でおよそ10m以下の場所である(二か所の谷間)。

伊邪那岐命の禊祓で誕生したと記載される三柱の綿津見神及び墨江之三前大神(三柱の筒之男命)の居た入江を突き進んだと推定される。古遠賀湾を進むと、広大な山稜にぶち当たることになる。だが、そこは既に開拓された船路があったのである。

邇邇芸命の御子、火遠理命(山佐知毘古、後の天津日高日子穗穗手見命)が豐玉毘賣命に出会う前に通った味御路である。詳細はこちらを参照。

細い谷間の水路を抜けると洞海(湾)に入る。その少し手前に「秦王國」があったと推定した。『古事記』に登場しない「秦」=「舂+禾」と分解される。「禾(穀物)を臼でつく」様を表す文字と解説される。日本では応神天皇紀に帰化した漢民族の子孫に付けられた姓と言われる。その意も含めて地形象形した表記であろう。

図中に古文字を示した。「禾」と二つの手で脱穀している様を表している。「手」=「延びた山稜」と解釈して、「秦」の文字形をそのまま当て嵌めたと読み解ける。「王」=「大きく広い」様を意味し、秦王=[秦]の形に稲穂が大きく広がったようなところと紐解ける。現地名は北九州市八幡西区大字陣原・則松辺りと思われる。その地の人は「華夏(中国)」と同じ、と述べている。
 
<十餘國・海岸>
「王」の解釈は、上記で矛盾はないのだが、文字形そのものから「横切る谷間がある」と読めるかもしれない。


現在は道路・宅地開発などで不鮮明ではあるが、「味御路」に類似する地形を表しているようである。

実は『古事記』ではこの場所は登場しない。すぐ隣は淡海之久多綿之蚊屋野と表記され、雄略天皇が市邊之忍齒王を惨殺する場所である。

狩りをする場所として記載されている。空白地帯ではなく天神族との関わりがなかっただけ、なのかもしれない。原文は「又經十餘國達於海岸」とのみ記され、方角が付加されていない。

何故か?…書き忘れたのではなかろう…洞海(湾)を進むからである。従来の一説に瀬戸内海を進むという解釈がある。東西に広がる内海を進む故に方角を省略したとする。奈良大和にあった国を登場させるには格好の記述とされているようである。

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「秦王國」の場所は、『古事記』に登場しない地名故に今一つ検証するには至らないのであるが、「其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」と記述されていることを頼りに「秦(人)」に関わる地名などが残存しているかどうかをネットで検索することにした。どう言う訳かなかなかそれらしきサイトが見出せなかったのであるが、実に興味深い記述があることが解った。
 
<秦氏>
油獏氏のブログの「鷹」の神祇。八幡の鷹見神社群と題する投稿がある。

「鷹」が示す秦氏の住地、その中心となった場所が北九州市八幡西区の帆柱山・権現山(鷹見神社奥宮)の麓であったと述べられている(図参照)。

この地から九州東北部へ侵出し、「田川、英彦山、香春、宇佐へと繋がっている」と記されている。

香春岳の銅山の開発は秦氏が行ったとも言われるそうで、すると神倭伊波禮毘古命が忍坂大室(田川郡香春町採銅所と比定)で出会った生尾土雲八十建は、先住の秦氏なのかもしれない。吉備における「鉄」の取得は、やはり「銅」に優ったということであろうか。

紀元前二百年頃に消滅した「秦國」から逃げ延びた人々の行く末の一つが古遠賀湾~洞海(湾)であったことを示している。「倭人」が同じく逃亡の憂き目に合う以前の出来事であろう。中国大陸における抗争が引き起こす民族移動の歴史を伺わせていると思われる。いずれにせよ「倭人」が保有する水田稲作の威力は絶大であり、九州から本州へと一気に広がりつつ、その稲作技術を進化させていったと推測される。

地形とそこに住まう人々の出自が上手く合致した表記であることが解った。だからこそ竹斯國以降は「秦王國」の記載のみで残りはその他の表記としたのであろう。正に当時のランドマーク的存在の地域だったと推測される。

東隣は『古事記』で出現する「八坂」(八幡東区祇園辺り)の地である。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に八坂之入日子命が登場する。唐突な記述に感じられたが、おそらくこの地を開拓したのは「秦人」なのであろう。そして天神達と姻戚関係を結んで洞海(湾)沿岸を豊かな水田に変貌させた、と思われる。(2019.12.29)

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さて、裴世清らが乗った船の最終目的地を「海岸」と記述する。こんな一般名詞では何も分からない…確かにそうであろうが、「海岸」という固有の地名があり、洞海(湾)という「洞」のような海を進む故に方角は不要としたのである。『古事記』には、この一般名詞のような地名が登場する。
 
<海岸>
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命が玉依毘賣命を娶って四人の御子が誕生する。

五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命」と記述される。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の誕生である。その四人兄弟の二番目、稻氷命について下記ように記されている。

爲妣國而入坐海原也」は、妣国を治め、「海原」に侵入して坐したことを表している。

後の帶中津日子命(仲哀天皇)の后、息長帶比賣命(神功皇后)が朝鮮から帰国して、品陀和氣命(応神天皇)を生んだ場所を宇美と呼んでいる。

これで前進したようである。海岸=海(宇美)の岸と読み解ける。当時は図中の青っぽく見えるところは海であったと推定した。現在の小倉の中心街は海面下にあった。そして筑紫之岡田宮(筑紫訶志比宮)を中心とする筑紫國があった場所であり、裴世清が歓迎を受け、この地を倭の都があるところと教えられたのである。

通説では「宇美」は現地名の福岡県糟屋郡宇美町に比定されている。筑前・筑後の地名は全て後代に名付けられたものであろう。現存する地名で推論する手法から脱却しない限り古代は見えて来ない、と断じる。また「海岸」は、九州の何処かの東岸や大阪難波にある何処かの海岸と推定されている。現地レポした裴世清に対して真に失礼な解釈である。

残念ながら「十餘國」は定かではない。八幡東区にはもう少し細かく分かれた国があったのかもしれない。『古事記』では「八坂」だけである。また現在の戸畑区は全く出現しない。

ところで、「海岸」に裴世清が到着した記述の後に「自竹斯國以東皆附庸於俀と付加される。「俀=倭」と置換えて読むと、何とも違和感のある表記である。俀國伝に登場する地名でも都斯麻以後「俀=倭」の筈であろう・・・隋書解釈の議論がかつて盛んに行われていた時に話題となった一文ではあるが、決め手に欠ける結末のようである。


<竺紫日向>
竹斯國=竺紫日向(現地名遠賀郡岡垣町)から東、それこそ『古事記』に登場する「天神族」が治めた地である。

伊邪那岐命が黄泉国から脱出して禊祓をした場所、また邇邇芸命が降臨した竺紫日向の東方の地に彼らは拡散して行ったと読み解いた(図を再掲)。

この地より神倭伊波禮毘古命が東方にある筑紫之岡田宮(上図<海岸>参照)へ向かった。「竺紫=筑紫=竹斯」と読んでは、混迷に陥るだけであろう。

たった十一文字の文こそ、それが読み解けてこそ『中国史書』と『古事記』との繋がりが明らかになって来ると思われる。

「日出處天子致書日没處天子無恙云云」と宣ったのは、間違いなく『古事記』に登場する「天神族」である。そして正史・日本書紀に繋がり現在に至るのである。

『古事記』の舞台が中国史書に登場した。「邪馬壹國」の舞台と置き換わったのである。と同時に歴史の時が急激にその速さを増す時代に突入したことを告げているようである。
 

2019年10月17日木曜日

大長谷若建命と葛城之一言主大神(再) 〔377〕

大長谷若建命と葛城之一言主大神(再)


大長谷若建命(雄略天皇)が一言主大神が葛城の山で遭遇したという説話である。この説話も殆ど意味不明な説話となっていて、古事記の文字を、単に、現代文に置換えただけのようになっている。勿論「一言」=「ひとこと」としている。

既にこの説話が示すところは読み解いて来たのだが、葛城のどの場所に想定されているかは、些か不祥であった。今一度、その詳細を突止めてみようかと思う。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

又一時、天皇登幸葛城之山上。爾大猪出、卽天皇以鳴鏑射其猪之時、其猪怒而、宇多岐依來。宇多岐三字以音。故、天皇畏其宇多岐、登坐榛上、爾歌曰、
夜須美斯志 和賀意富岐美能 阿蘇婆志斯 志斯能夜美斯志能 宇多岐加斯古美 和賀爾宜能煩理斯 阿理袁能 波理能紀能延陀
又一時、天皇登幸葛城山之時、百官人等、悉給著紅紐之青摺衣服。彼時有其自所向之山尾、登山上人。既等天皇之鹵簿、亦其裝束之狀、及人衆、相似不傾。爾天皇望、令問曰「於茲倭國、除吾亦無王、今誰人如此而行。」卽答曰之狀、亦如天皇之命。於是、天皇大忿而矢刺、百官人等悉矢刺。爾其人等亦皆矢刺。故、天皇亦問曰「然告其名。爾各告名而彈矢。」
於是答曰「吾先見問、故吾先爲名告。吾者、雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主大神者也。」天皇於是惶畏而白「恐我大神、有宇都志意美者自宇下五字以音不覺。」白而、大御刀及弓矢始而、脱百官人等所服衣服、以拜獻。爾其一言主大神、手打受其捧物。故、天皇之還幸時、其大神滿山末、於長谷山口送奉。故是一言主之大神者、彼時所顯也
[また或る時、天皇が葛城山の上にお登りになりました。ところが大きい猪が出ました。天皇が鏑矢をもってその猪をお射になります時に、猪が怒って大きな口をあけて寄つて來ます(宇多岐:四段連用形。アタキという交替形があり、敵対するの意か。唸るの意ともされる)。天皇は、そのくいつきそうなのを畏れて、ハンの木の上にお登りになりました。そこでお歌いになりました御歌、
天下を知ろしめす天皇のお射になりました猪の手負い猪のくいつくのを恐れて
わたしの逃げ登つた岡の上のハンの木の枝よ。
また或る時、天皇が葛城山に登っておいでになる時に、百官の人々は悉く紅い紐をつけた青摺の衣を給わって著ておりました。その時に向うの山の尾根づたいに登る人があります。ちようど天皇の御行列のようであり、その裝束の樣もまた人たちもよく似てわけられません。そこで天皇が御覽遊ばされてお尋ねになるには、「この日本の國に、わたしを除いては君主はないのであるが、かような形で行くのは誰であるか」と問わしめられましたから、答え申す状もまた天皇の仰せの通りでありました。そこで天皇が非常にお怒りになって弓に矢を番え、百官の人々も悉く矢を番えましたから、向うの人たちも皆矢を番えました。そこで天皇がまたお尋ねになるには、「それなら名を名のれ。おのおの名を名のつて矢を放とう」と仰せられました。
そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主の大神だ」と仰せられました。そこで天皇が畏まつて仰せられますには、「畏れ多い事です。わが大神よ。かように現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打ってその贈物を受けられました。かくて天皇のお還りになる時に、その大神は山の末に集まって、長谷の山口までお送り申し上げました。この一言主の大神はその時に御出現になったのです]

「葛城山」が舞台となる。葛城は現地名田川郡福智町であり、福智山山系の西麓に当たる。「葛城山=福智山」と解釈される。手負いの猪の登場、まだまだ葛城には支配の届かない場所、その地に住まう人々が居たことを譬えているのであろうか…。福智山山系に関する記述は極めて少ない。倭建命が命を縮めた伊服岐能山(貫山山系)と同様、神の住まう場所としての位置付けであろう。


<宇都志意美>
「葛城之一言主大神」も同じ背景を示していると思われる。互いに畏敬の念を示して融和な関係であったと伝えている。

互いに尾根を登って行くとなると限られた道となり、現在の福智町葛原からの道及び常福から岩屋に向かう道をそれぞれが歩いていたのではなかろうか。

「恐我大神、有宇都志意美者自宇下五字以音不覺。」=「畏れ多い事です。わが大神よ。かように現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と武田氏は訳している。

「宇都志」は既出であって速須佐之男命が大国主命に宇都志國玉神となれと励ます段で出現した。山麓が寄り集まって蛇行する川が流れる地を示していると読み解いた。

間違いなく「宇都志意美」の「宇都志」も類似の地形を表しているのであろう。

とするならば「宇都志意美」は…、
 
宇(山麓)|都(集まる)|志(蛇行する川)|意(閉じ込められた)|美(谷間が広がるところ)

…「山麓が集まる地に蛇行する川があって閉じ込められたような谷間が広がるところ」と紐解ける。弁城川沿いの長い谷間が開拓されたことを伝えているのであろう。その谷間から葛城山(現福智山)へと尾根伝いに上って行く姿が目に止まった。図に示したような状況を記していると思われる。

概ね武田氏の訳のように解釈されて来ているようである。しかし、いつものことながら「ひとこと」で善悪を言い分けるという内容と天皇が畏れ入ることが、決して違和感なく繋がっているわけでもない。言葉の意味は通じるが、一体何を伝えたいのかと考えると奇妙な文章である。

「一言主大神」が現実の姿を持っていることに恐れ入った、と読める内容であるとし、「一言」の意味は考慮に入っていないのである。どうやら「言」=「辛+口」として「大地を耕地(田畑)にする」と紐解いた安萬侶コードの出番のようである。「一」=「総ての」として…「一言主大神」は…、
 
総ての耕地を作ることを司る神

…と紐解ける。

では「雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神」は如何に解釈できるであろうか?…「事」=「祭事(まつりごと)」、これは大国主命の御子、八重事代主神の解釈で登場した。また「離」=「区分けする」とすると…、
 
悪しき祭り事でも総ての耕地(口)を作り
良き祭り事でも総ての耕地(口)を作り
その耕地(口)を区分けする神

…と読み解ける。

だからそんな大変な神が現実に目の前に現れたから畏敬したのである。祭り事に関係なく一言主大神が居れば田は見事に稲穂を揺らすようになると言っている。安心せよ!…とも受け取れるし、もっと祭祀せよ!…と言っているとも・・・。いずれにしろ葛城が豊かな大地へと変貌したことを告げているのである。

「言」について関連する名前(月讀命、比古布都押之信命など)は、全て「大地を切り開いて耕地にする」の解釈である。大地を「口」に切り取って耕地にする象形と紐解ける。

身内同士の争いは徹底的に破壊的であるが、外向きにはそうではないと記述される。真偽のほどは判断できないが、「言向和」のモットーを貫いているかのようである。

2019年10月12日土曜日

伊須氣余理比賣命之家:狭井河之上 〔376〕

伊須氣余理比賣命之家:狭井河之上


久方ぶりに古事記に戻った。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が娶った大物主大神の比賣である伊須氣余理比賣」の文字解釈の見直しである。挿入歌も含めて再掲してみた。

――――✯――――✯――――✯――――

伊須氣余理比賣」の居場所を突き止めてみよう。そうする意思がない限り、きっと見逃されてしまっていたことであろう。極めて重要な内容であることが判った。

後、其伊須氣余理比賣、參入宮之時、天皇御歌曰、
阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯
然而阿禮坐之御子名、日子八井命、次神八井耳命、次神沼河耳命、三柱。
[後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、
アシ原のアシの繁つた小屋にスゲの蓆(むしろ)を清らかに敷いて、二人で寢たことだつたね。
かくしてお生まれになつた御子は、ヒコヤヰの命・カムヤヰミミの命・カムヌナカハミミの命のお三方です]

従来の解釈は上記の武田氏の訳であろう。軽く読んで…少々引っかるのが「袁夜=小屋」「伊夜佐夜斯岐弖=清らかに敷いて」和賀布多理泥斯=二人で寢たことだつたね」であるが、細かいところを見なければ、受け入れられるものであろう。事実そうされて来たようである。

だが当たり前のことを当たり前に歌う時は要注意である。「阿斯波良能=葦原の」より以下の文字列を通説に囚われずに診てみよう。安萬侶コードに従う。

❶志祁志岐袁夜邇
 「志」=「之:蛇行した川」、「祁」=「寄り集まる台地、高台」、「岐」=「二つに分ける
 「袁」=「ゆったりした衣(山稜の端の三角州)」、「夜」=「谷」、「邇」=「近く」

→川が蛇行する寄り集まった台地で蛇行する川が山稜の端のゆったりとした三角州の谷の近くを二つに分けるところ

❷須賀多多美
 「須」=「州」、「賀」=「が」、「多多美」=「畳む:閉じる、終わる」

→州が閉じて

❸伊夜佐夜斯岐弖
 「伊」=「小ぶりな」、「佐」=「促す、助くる」、「斯」=「切り分ける」、「弖」=「蛇行する」

→小ぶりな谷が谷を切り分けて分岐し蛇行するのを促して

❹和賀布多理泥斯
 「和」=「しなやかに曲がる」、「賀」=「が」、「布」=「布を敷いたように」
「多」=「山稜の端の三角州」、「理」=「区分けされた田」、「泥」=「近接する」、「斯」=「切り分ける」

→しなやかに曲がるところが布を敷いたような近接する山稜の端の三角州の区分けされた田を切り分ける

これを纏めてみると…「葦原」は葦原中国(山稜に囲まれた平らな地)と同様に解釈して…、

・・・山稜に囲まれた野原で 川が蛇行する寄り集まった台地で蛇行する川が山稜の端のゆったりとした三角州の谷の近くを二つに分けるところ 州が閉じて 小ぶりな谷が谷を切り分けて分岐し蛇行するのを促して しなやかに曲がるところが布を敷いたような近接する山稜の端の三角州の区分けされた田を切り分ける・・・

…と解釈できる。間違いなく「伊須氣余理比賣」が住まう場所の地形そして水田の開発の実情を述べているものと推察される。これに続く文言が…「然而阿禮坐之御子名、日子八井命、次神八井耳命、次神沼河耳命、三柱」である。「然」=「しかり、その通りに」であろうが、「阿禮坐」の文字が付される。これを調べると、古事記中には二度出現する。上記外のところは…、

故其政未竟之間、其懷妊臨。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。
[かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります

神功皇后が朝鮮半島から帰って応神天皇を産み落とす場面である。「其御子者阿禮坐」通訳は「生まれる」と訳される。「生む」だから「宇美」と繋げられてきたわけである。またそう解釈させようとした記述でもあるが、もっと伝えることが付加されている。
 
宇美=宇(山麓)|美(谷間に広がる)

…生地は「谷間に広がる山麓」地形を持つところと告げているのである(仲哀天皇・神功皇后参照)。そう解釈して現在の北九州市小倉北区富野(行政区分は細分化されているが)と比定した。すると「阿禮坐」は…、
 
<狭井河之上>
阿(台地)|禮(段になった高台)|坐(坐する)
 
…「段になった高台がある台地に坐する」と解釈して矛盾のない結果となる。

既に紐解いた孝霊天皇紀に登場する意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の「阿禮」と同じ解釈である。

要するに・・・寄り合う山稜の端が邪魔をして豊かな水田が広がらないところだから、生まれた御子達はその場所を離れ、台地に坐して居るんだよね・・・と詠っていることになる。

冒頭の図に示した通り、彼らは母親の故郷「茨田=松田」の地に居た。二人の御子に「神=稲妻」が付く。

山稜が示す「稲妻の形」である。その麓に坐した命名であり、そして自らの「神倭」の謂れと同じ、と述べているのである。


<伊須氣余理比賣>
これで全てが繋がった。「伊須氣余理比賣」が坐した場所は図に示すように「輪になった地形」の傍らにあったと推定される。現地名京都郡みやこ町犀川山鹿*である。

歌の中の文字列を地形に当て嵌めたのが上図である。犀川が流れる大きな谷とちょっと小ぶりな大坂川が流れる谷がある。

犀川によって二分される州が閉じたように狭くなるところを「多多美」と表現したのであろう。

正に山稜の端が寄り集まった隙間を川が流れている様を表し、それによって豊かな水田が分断されている状態を歌にしているのである。

「伊須氣余理比賣」の意味が漸く紐解ける。上記で「勢い余って区分けされた」と訳したが、古事記はそんな記述をしない筈…、
 
伊(小ぶりな)|須(州)|氣([湯気]のような)|余(余る)|理(区切る)

…「州が[湯気]のように延びて余ったところが区切られている小ぶりな地」と紐解ける。「輪」が見えて初めて辿り着ける解釈であろうか…。一応の決着を得た感じである。

勿論当時の地形との相違は否めないが、十分に推定できるものかと思われる。更に推論が許されるなら、この時代では大河の中流域の開拓は困難を極めていたであろう。川の蛇行を抑えた治水事業ができるようになるのは、古事記の最終章になって漸く成し遂げられるようになったと思われる。

後の多藝志美美命の事件に係ることになるこの比賣の立ち位置として申し分のないところであろう。狭井河が古代に果たした役割は真に大きなものがあったと告げている。この川を不詳としては古事記の世界を伺い知ることは全くできないと断じられるであろう。

――――✯――――✯――――✯――――

 
「氣」、「余」及び「理」の三文字の解釈が確定したようである。久々に安萬侶コードを修正しておこう・・・それにしても魏志倭人伝の地形象形は判り易い。間違いなく、複雑な地形を対象にしていることもあろうが、古事記はより捻くれた表記を採用している。いや、そうせざるを得なかった事情が存在したのであろう。

倭人達が行った漢字による地形象形と言う”文化”は、日本書紀によって”抹殺”された。千数百年間誰も気付かなかった?…ではなくて気付いた記憶・記録がないだけであろう。そんな感じがしてならない・・・。

2019年10月7日月曜日

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅴ) 〔375〕

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅴ) 


魏志倭人伝に登場する国名及び卑弥呼や壹輿などの人名も古事記における文字解釈が通用しそうな感じになって来た。邪馬壹國とその連合国の配置も、それなりに古代の国々の様相を示しているようである。

それにしても「伊都國」の解釈は重要であることが解った。通説が殆ど異論なく比定されていることへの反旗を翻すことになった。当然のこととして、従来では古事記の天石屋に坐す伊都之尾羽張神の示す意味が読み取れていない以上、当然の帰結であろう。

大陸プレートの東の端、複数のプレートが鬩ぎ合う場所は火山のだらけの地になるのである。これを記述していないとは、逆にあり得ないことである。地形的な表記が関連すれば、尚更のことと思われる。古事記と比較して、判り易く、原文が短いからか無数の推論がサイトに載せられている。地名(現在のものも含めて)、人名の類似性(殆ど無理矢理だが)から、自信満々に御説を述べられている、ようである。

現代の邪馬壹國研究の第一人者が九州の地名と奈良大和の地名の類似性から「邪馬台国東遷」説なるものが提唱されている。またそれに集う人々もいる。「邪馬台国よ、永遠に~!!」を目的とするのであろう。

さて、今回は更なる登場人物も紐解いてみようかと思う。多くは、帯方郡の官吏が付けた名前と解釈されているようだが、前記と同様、倭人(中国江南からの渡来人としておこう)が名付けたものと推測される。

1. 三名の大夫

倭人伝原文(抜粋)…、

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 拊 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

…と記されている。女王の使いは大夫と自称している。その三名の人名らしきものである。「景初二年」に関する古田武彦氏の論考に甚く感動した記憶が蘇った。「景初三年」の間違いとして片付けれていた、その当時(今も変わらない?)の通説を見事に論破している。その中で日本書紀の雑駁な引用も露わにされていた。大御所の説に逆らうことができない、忖度(媚び諂いであろう)構造の社会である。
 
難升米

ともあれ、一人づつ紐解いてみよう。「難」は古事記でも重要な文字の一つである。「難波」の文字列である。これが通説では固有名詞化しており、疑いもなく現在の大阪難波と繋がっている。古事記を隅々まで読めば、この「難波」は幾度か登場し、前後関係から大阪難波に繋がる筈もない場所(人名)なのである。

大雀命(仁徳天皇)が坐した難波之高津宮は、正に大阪難波に関連付けられて来た表記である。勿論全く異なるのだが、詳細不明ながら世界遺産となった通称の仁徳天皇稜などが、あたかも史実のような取扱いになっている。他の出現例は袁祁命(顕宗天皇)が娶った難波王などがある。これらの例から「難波」=「難しい波」の通りの使われかたをしていると読み解いた。

「難」=「革+火+隹(鳥)」と分解される。「鳥の革を火で炙った時の様子」から水分が蒸発して縮こまり「大きく曲がった様」を示していると解説される。即ちスムーズな状態ではなく、ギクシャクした状態であり、上記「難波」は波(流れも)の状態を表していると解釈される。それを踏まえて「難波王」は福岡県田川郡添田町を流れる犀川(現今川)が甚だしく大きく曲がるところに坐していた比賣と読み解いた。


<難升米・伊聲耆・掖邪狗>
「升」は前記の彌馬升で登場した。「升」=「斗+一」であって柄杓の形に「一」を加えた文字である。

「米」=「米の形」とすると、難升米=甚だしく曲がる[升]の地にある[米]粒の形をしたところと紐解ける。「彌馬升」の少し南側の山麓の地を示していると推定される。
 
伊聲耆

古事記で多用される「伊」=「小ぶり、僅か」と解釈する。他の解釈もあるが、それは続く文字列に依存すると考える。

「聲」、「耆」は共に出現しない。「聲」は通常使われる「声」の旧字体であり、「真っ直ぐに通る」と言う「声」の性質をその表していると解説される。それを地形に当て嵌めることにする。

「耆」=「老+日」と分解すると「老」が示す地形が浮かんでくる。海老のように「大きく曲がった様」を表すと読み解く。

伊聲耆=大きく曲がった傍らで僅かに真っ直ぐになったところと紐解ける。谷間及びそこに流れる川の様相を示していると推察される。
 
掖邪狗

「邪」と「狗」は頻出。その通りに解釈できるであろう。「掖」の文字は古事記に登場する。第五代天皇、御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の宮があった場所を葛城掖上宮と名付けられている。「掖」=「腋」であって、人体の胴体と両腕の隙間を表す文字である。そこを「谷間」と見做して表記したと解釈される。

掖邪狗=[牙]の地と平らな頂の山稜が[く]に曲がっている地との谷間と紐解ける。三大夫は「邪馬」の頭部にズラリと配置されていることが解る。「邪馬壹國」は卑弥呼、壹與を初めとして、「官」(伊⽀⾺・彌⾺升・彌⾺獲⽀・奴佳鞮)の四人と「大夫」(難升米・伊聲耆掖邪狗)の三人の名前が挙げられ、それぞれが住まう(出自)の地形に基いた命名をされていたことが解る。

それにしても「升」の地は重要なところであったことが伺える。古事記の「斗」の地形も多くの人材を生んだ。古代における柄杓の地は、人々を豊かにする地形だったのであろう。魏志倭人伝と古事記の文字使いの類似性、それは文化も共通することを示すものであろう。「倭人」と言う一つの根っこから広がって行った日本の古代を曝しているのではなかろうか・・・。

――――✯――――✯――――✯――――

『後漢書倭伝』に「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」(安帝の永初元年[107年]、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた)と記述されている。魏志倭人伝が記述された時から二百年弱以前の出来事である。ここに登場する人物にも「升」が付く。前記の「彌馬升」、「難升米」と合せて三名である。

「帥」=「𠂤+巾」と分解される。「旗の下で集団を率いる」意味を示す文字と解説される。「升」を率いるならば、何となくその中央の山稜の端辺りをイメージできそうである。「巾」を90度回転すると、「升」の原字に類似する。「𠂤」=「土を積み重ねる様」を象ったと解釈すると、「帥」=「[升]の地形の中央で段々に積重なった山稜の麓」と紐解ける。

「難升米」の少し北側辺りではなかろうか。いずれにしても「升」の地形の中央、初期の倭国王の居場所として申し分なし、のように思われる。「升」の地は、正に奔流の地だったことが解る。「卑弥呼」が登場する「其國本亦以男⼦為王 住七⼋⼗年 倭國亂相攻伐歴年 乃共⽴⼀⼥⼦為王 名⽇卑弥呼 事⻤道能惑衆 年已⻑⼤ 無夫婿 有男弟 佐治國」の記述に繋がるようである。

尚、古事記では「師」が登場する。「師木」に含まれていたが、「𠂤」の解釈は積み上げるのではなく、「横に連なる」と読み解いた。「山稜の端で小高いところが[師](諸々)と連なっているところ」である。「巾」と「帀」の違い、とする紐解きである。


――――✯――――✯――――✯――――


都市牛利

ところで上記原文では大夫難升米等と記されるが、この朝貢(古田氏によれば戦中遣使)に甚く感動されて大そうな下賜品を頂戴することになったと記載されている。この制詔文の中に大夫難升米に「都市牛利」が随行していたことが記されている。この人物も「邪馬壹國」の住人であろう。さて、何と紐解くか?…後半の「牛利」から始めることにする。
 
<都市牛利>
「牛利」の「牛」は、「邪馬」と同じく「牛」の姿を表していると思われる。

前記の「邪馬壹國」の官名に「奴佳鞮」があった。これに含まれる「鞮」が示すところが「牛」の地形をしていた。

「利」も前記の「巴利國」で紐解いたように「鋤取ったように切り離された様」と解釈する。

図に示したようにこの牛は見事に切り離されていることが解る。

だが、二つの谷間で切り離されているわけで、どちらなのであろうか?…それには「都市」の意味を読み解く必要がある。現在で用いられる意味では毛頭ない・・・。

やはり「都」は「伊都」で用いられて意味、即ち「燃える台地」と解釈する。「市」=「集まる」とすると都市=燃える台地が集まったところと読み解ける。


これで「都市牛利」の居場所を推定することが可能となった。図に示した現地名は多久市多久町、多久聖廟がある近隣となる。この地も火山性の山が点在するところと推定される。山稜の末端部でありながら、小高くなったところが寄り集まった、その谷間に居たと思われる。難升米は率善中郎将、都市牛利は率善校尉となったそうである。

2. 狗奴國との不和

前記で「狗奴國」は女王に属さないと記述されていた。「邪馬壹國」及びその連合国は戦乱の時代に突入したと述べている。

倭人伝原文(抜粋)…、

其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯烏越等詣郡 相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

…卑弥呼の「冢」は何処にあるのでしょうか?…古事記は陵墓名(場所)を記しているが、他国の史料には載せられないかな?…さて、苦戦の状況を訴えたのである。

載斯烏越

特に職位がないので、臨時に戦況を伝えさせたのであろう。古事記に出現するが「載」=「載せる」の意味を示す。この場合は「荷物」と解釈する。「車」は二輪車を象ったものである。車輪と荷台を表している。

既出の「斯」=「其+斤」(切り分ける)と解釈する。すると前半の「載斯」=「荷台に載せた荷物のようなところが切り分けられた」となる。地形象形的には載斯=小高くなった台地が切り分けられたところと読み解ける。

<載斯烏越>
「烏」は前出の「烏奴國」に関連するところであろう。烏越=烏が越えて行く(遠ざかる)ところと読み解ける。

纏めると載斯烏越=小高くなった台地が切り分けられて烏が遠ざかるところと紐解ける。

実に直截的な表記となっている。前出の烏奴國及び奴國があったところ、当時は古有明海に突出た島状の地形であったと推定される場所である。

その南北に延びる島が途中で切り分けられたような形になっているところ表したものと思われる。その北部を飛び去ろうとする「烏」の姿に模した。

「載斯烏越」は二名の名前のように訳されている場合も見受けられるが、文字解釈は単独である、と結論される。そして過不足なくその人物の居場所を表しているようである。

この地から敵である「狗奴國」まで約6km(海上)、正に最前線に居た人物であろう。その激戦の生々しい戦況を報告させたと記載されている。所謂、古鹿島湾海戦、だったのかもしれない。どうも、隣国とは反りが合わないようである・・・。

3. 卑彌呼以死大作冢
<卑彌呼冢>

「倭國」は争いが絶えない地であったと伝える。卑彌呼が亡くなるとまた争乱の時代になる。

そして同じかつてと同じように宗女壹與を立てたと伝えている。亡くなった卑彌呼の埋葬に関して「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。狥葬者奴婢百餘人」と記されている。

Wikipediaによると…、

邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。四国説では徳島市国府町にある八倉比売神社を、九州説では平原遺跡の王墓(弥生墳丘墓)や九州最大・最古級の石塚山古墳、福岡県久留米市の祇園山古墳(弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。 

…とされている。邪馬壹國、卑彌呼が”坐した”場所が不確かなら、墓も同様の有様である。墓が見つかれば不確かさが解消すると信じられているようである。「徑百餘步」の情報のみからでは特定に至らないが、敢えて試みると、少し谷を登った中腹辺りにそれらしきところが見出せる。

現地名は多久市南多久町下多久牟田辺となっているが、示したところはその中心の場所である。かつては桐野と呼ばれていたらしいが詳らかではない。「卑彌呼・邪馬台国ロマン」を維持するならば、発掘作業などは控えた方が良いのかもしれない・・・。

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魏志倭人伝の舞台も古事記の舞台も、そこに登場する「倭人」は同じ根っこの人達であることが、ほぼ明確になったと思われる。対馬、壱岐島を経て九州島及びその周辺に広がった「倭人」は九州島を東西に分断する山地を挟んで、見事に棲み分けたものと推察される。

中国本土に対して九州西部の「倭人」達は付かず離れず、東部はより積極的に離れようとした人達であったと思われる。古有明海を中心とする、その沿岸地帯は実に豊かな地であったと推察される。その地を手放すことは、あり得なかったであろうし、何とかその状態を保ちたい気持ちが強く働いたのであろう。

一方、東部は悲惨な状態で、まともな耕地は極めて少なく、彼ら自らが何世代にも渡って開墾しなければならない状況だったのである。頼みとする出雲(豐葦原水穂國)は同族間争いで惨めな状態が延々と続き、結局は彼らの発展に寄与することは殆どなかった。がしかし、それを乗越えた東部の連中は、大きな飛躍を成遂げることになる。それが古事記の記述の中心だと思われる。

日本の古代、少しづつの全容を垣間見せてくれているようである。前進、あるのみで・・・。






2019年10月1日火曜日

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅳ) 〔374〕

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅳ)


前記(Ⅱ)にて、以下のように記述した…、

冒頭に「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」と記述される。具体的な国名は後に記述される。「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

詳細は後日に譲るとして・・・、
 
<旁國>

・・・と推定される。例えば「巳百支國」は、吉野ケ里遺跡のあるところなど、古有明海に臨む緩やかな傾斜地、そこに多くの人々集まり住まっていたことを伝えている。その中心の地にあったのが「邪馬壹國」であったことが示されている。

…流石にこれらの地名の比定は学術論文にはし難いようで、現在の類似地名で当てて行くと言う手法しか見出せていない以上、サイトの検索では幾つか見出せる程度である。

さて、これらの旁國の地名を『古事記』で読み解くのであるが、大半がそこに出現した文字であることが判る。勿論漢字の持つ多様性に準じて些か解釈が異なる場合もあろうが、漢字の原義を違えていることはあり得ないであろう。いや、それが違っているなら、『古事記』では読み解けない、と言える。
 
斯馬國・都支國・伊邪國・好古都國

地図上の東側から①斯馬國、④都支國、③伊邪國、⑥好古都國の場所を求めた結果である。現地名では佐賀県の鳥栖市~三養基郡に跨って広がる古有明海の東北部に位置する。

「斯馬國」の「斯」=「其+斤」と分解され、「(斧で)切り(箕で)分ける」と解釈する。古事記で頻出の文字である。別天神の一人、宇摩志阿斯訶備比古遲神、また大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の和風諡号などに含まれる。「馬」は、それぞれが馬の背のように二山になっていると見做したと思われる。斯馬國=馬を切り分けたところと解釈される。現地名は鳥栖市村田町辺りである。

「邪馬壹國」、また奴國の官名「兕⾺觚」などは平面的に捉え、「投馬國」また對海國の別表記「對馬國」などは垂直面的に捉えていると思われる。いずれにしても地形象形する「馬」の登場の頻度は高い。身近な、そしてその身体の特徴が地形、とりわけ山稜を表すことに都合が良いのであろう。それは現在に通じるようである。現天皇陛下の最も好まれる山の一つ、甲斐駒ヶ岳にも含まれている。
 
<斯馬國・都支國・伊邪國・好古都國>
「都支國」は頻度高い文字の組合せであって、都支國=山稜の端を集めたところと読み解ける。

ありふれた地形で、特定し辛いかと思えば、意外に特徴的な場所が見出せる。現地名は三養基郡白壁辺りと思われる。

続く「伊邪國」の「伊邪」は、そのものズバリが古事記で用いられている。

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が坐した伊邪河宮である。伊邪國=僅かに曲りくねるところと読める。

現地名は三養基郡東尾辺りであろうが、おそらくその中心は南部であって、「都支國」の西側に当たるところではなかろうか。

好古都國」の「好」=「女+子」と分解される。「好」そのものは古事記に登場しないが(地形象形外で1回のみ)、分解すれば頻出の文字となる。「子」=「生まれる」の意味だが、地形象形的には「生え出る」と訳す。「好」=「嫋やかに曲がる(山稜)から生え出たところ」と読み解ける。

「古」は古事記頻出であるが、二通りの解釈がある。一つは「古」の原義「頭蓋骨」の象形から「丸く小高い地形」と読む。二つ目は「古」=「固」として「固める、定める」の意味を表すとする場合である。「都」=「集まる」とする。

ここでは前者が適するであろう。好古都國=嫋やかに曲がる(山稜)から生え出た丸く小高い地が集まるところと読み解ける。現地名は三養基郡原古賀辺りである。「古」は残存地名かもしれない。ところで「好古都國」=「コウコツコク」とでも読むのであろうか・・・。

この地には四つの大河が流れる。東から沼河、通瀬川、寒水川、切通川である。なだらかな斜面を流れて古有明海に注ぐ。これらの川沿いに広大な耕地が作られていたのであろう。内海に注ぐ川、豊かさが手に取るように判る地形である。

古事記の舞台、九州東北部は急斜面の山麓が直ちに海、川に届く地形である。唯一の内海は洞海(湾)だが、これも急峻な谷で囲まれた地形であった。この地形差から生じる人々の生き様の違いが日本の古代の原風景であろう。いつの日かそんな目で眺めてみようかと思う・・・。
 
彌奴國・巳百支國・不呼國

上記の四つの国が納まってくれると「旁國」の比定は否応なしに加速する。⑤彌奴國、②巳百支國、⑦不呼國を紐解いてみよう。

「彌奴國」は倭人伝で頻出となる文字列、そのまま彌奴國=広がり渡る山稜が腕(手)にように延びたところと読み解ける。その通りの地形が「好古都國」の対岸に見出せる。その中央を流れる井柳川の両岸かどうかは定かでないが、実になだらかで広大な地であることには変わりはないようである。

田手川を挟んで「巳百支國」があったと推定する。「巳」=「蛇のようにくねる」と読める。次の「百」は何と解釈するか?…古事記の「百」=「一+白」と分解して「一様に並ぶ丸く小高いところ」と紐解いた。

いくつか例示すると大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)紀に登場する五百木之入日子命の「五百木」に含まれる。この地は伊豫国に当たる。また神代紀の八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠の「五百津」にも含まれる。

ちょっと違ったところでは品陀和氣命(応神天皇)の御子、若野毛二俣王が娶った百師木伊呂辨にも含まれている。全て上記の解釈と思われる。頻度高く使用されることから、汎用的に使われるのではなかろうか。それが倭人伝に通じるか?・・・。
 
<彌奴國・巳百支國・不呼國>
図を拡大すると、巳百支國=蛇のようにくねって延びる山稜の端が一様に小高いところが連なっていることが解る。

その先端部に、世間ではここが邪馬台国、いや、伊都国などといわれる吉野ヶ里遺跡がある。現地名は神埼郡吉野ヶ里町である。

魏志倭人伝の表記も地形象形していると、ほぼ確信に至ったようである。

「不呼國」は頻出の文字の組合せであろう。不呼國=花の胚のような形が曲がりながら延びる山稜の端にあるところと読み解ける。図に示した通りの場所と思われる。現地名は神埼市神埼町とある。

吉野ヶ里遺跡は、邪馬壹國であったり、伊都國であったり様々に比定されている。奈良大和の遺跡も含めて、それが発見・発掘されるたび比定地として騒がれる。そしてなんら課題解決には至らない。古代は浪漫、それはいつまで経っても不詳であることを意味するようである。
 
姐奴國・呼邑國

次は⑧姐奴國、⑪呼邑國である。「姐奴國」の「姐」の文字は古事記に登場しない。「姐」=「女+且」と分解すると関連する文字となって来る。「且」は「段々になっている様」を象形した文字と解釈する。古事記では伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの粟國、その別名大宜都比賣の「宜」に含まれる。図に示したように山稜の端が段になって並んでいる様を模した表記と思われる。

姐奴國=嫋やかに曲がる腕(手)のような山稜が段になって並んでいるところと読み解ける。現地名は佐賀市金立町辺りと思われる(図拡大)。
 
<姐奴國・呼邑國>
「呼邑國」は嘉瀬川を挟んで西側にある場所と推定した。「邑」=「囗+巴」と分解できる。

「囗」は「ある区切られた地」を示し、「小高いところ」と訳すことにする。

「巴」は後にも登場するが、「蛇が這っている様」で「巳」と比べるとより蛇行した様を示すと思われる。

呼邑國=曲がりながら延びる山稜の端で小高いところが大きく畝って連なるところと読み解ける。この地には古墳もあり、山と海の恵みが豊かなところであったと推察される。

現地名は佐賀市大和町辺り、北西部に当たる場所である。嘉瀬川は背振山地の西部の台地を貫き、有明海に注ぐ大河である。この地も人が住まうのに実に恵まれた自然環境を有していたようである。
 
華奴蘇奴國・蘇奴國・對蘇國

⑫華奴蘇奴國、⑪蘇奴國、⑨對蘇國に共通する文字は「蘇」である。古事記の中でも重要な文字の一つである。登場するのは建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰に含まれる。後の宗賀一族(一般的には蘇我一族)の礎となった地の名前である。「蘇」=「艹+魚+禾」と何ともごちゃまぜの文字構成である。

「蘇」は古代の乳製品を表すと言われる。乳固形分と水とが入り混じったものである。「蘇生」は生と死が混在するところか「よみがえる」の意味を表す。実に奥深い意味を示す文字なのである。これを地形象形に用いた。即ち「(いろんなものが)寄り集まったところ」としたのが古事記である。「蘇賀」=「山稜が寄り集まった谷間にある田の地」と解釈できる。

その他にも神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった「阿蘇」、阿蘇山ではない。「山稜が寄り集まった台地」であり、古事記でよく知られる「阿多」(隼人の出自に関る)の別名となる。
 
<華奴蘇奴國・蘇奴國・對蘇國>
前置きが長くなったが、図に示した通り、尾根が大きく湾曲する山麓の様相を表していると思われる。

尾根が曲がると稜線が寄り集まるように山麓に延びる、これは自然の造形であろう。それを「蘇」と表記した。

古事記を含めた古代人の地形認識であろう。真に悔やまれるのが、この認識をくちゃぐちゃにしたのが日本書紀なのである。

華奴=花のような大きく腕(手)が曲がりながら延びたところであり、對蘇=ギサギサの先端の様々な山稜が向き合っているところと読み解ける。そして素直な「蘇奴國」となっている。


「蘇」と表現される地形は長く延びて大きく湾曲した尾根の麓に発生することが解る。『古事記』が記した「蘇賀」の地形、倭人達に共通する地形表記であろう。また、これら三国が揃っていること自体が推定場所の確からしさを物語っているように思われる。現地名は小城市小城町である。
 
鬼國・為吾國・鬼奴國

⑬鬼國、⑭為吾國、⑮鬼奴國、さて「鬼」の登場である。この文字そのものは古事記に出現しないが、関連する文字が使われる。速須佐之男命が神大市比賣を娶って誕生した宇迦之御魂神の「魂」に含まれる。「大きく丸い頭に手足が付いている」様を象った文字と解説される。現在の北九州市門司区にある桃山を含めた「三つの桃」形の山を表すと推定した。
 
<鬼・一大>
それを頼りに「邪馬壹國」の周辺を探すと、唐津市にある「作礼山」の頂上が池を丸く取り囲むような山容であることが解った。

また明瞭な稜線が長く延びていて、「鬼」の文字形を示していることも伺える。

調べるとこの山は霊場として、英彦山系列の修験道の場所として名高いことも判った。

現在は頂上付近にまで車道が通じている(かつてはキャンプ場があったとか)ようだが、地形的にはなかなか急峻な斜面と思われる。

地質的には、かなり古い時代の火山(背振山西側)であって、現在の池のところが火口部なのかもしれない。更にほぼ同程度の標高で奥作礼山があり、周囲を遮る山もなく、なかなか優れた山容をしているように見受けられる。

ここを鬼の頭として挙げられた国は当て嵌まるのであろうか?…山麓辺りの地形を眺めながら探すと、極めて興味深い文字使いがなされていることが解った。
 
<鬼國・為吾國・鬼奴國>
「鬼國」は直下の場所、現地名では唐津市厳木町平之辺りであろう。かなりの標高(400m前後)であるが、集落らしきところが見出せる。

加えて傾斜地にも関わらず、その面積は広く開かれているように伺える。背振山地の南麓の様相とは全く異なる地形に人々が住まっていたのであろう。

「為吾國」は何と紐解くか?…「吾」は古事記に登場する。天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した、天神族奔流の正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命に含まれている。

「吾」=「五+囗」と分解され、「五」の古文字は「X」の字形(図参照)であると知られる。山稜が作る形で交差するようなところを示していると解釈する。

「鬼國」の直下に岩詰・詰ノ本と言う地名がある。山稜がくっ付くように寄り合い、細い谷間を「為」(形成している)場所である。

これを「為吾」と表記したのではなかろうか。複数の山稜が寄り集まって形成される特異な地形、谷間であることが解る。「五」=「X」やはり古事記と全く同様の表記がなされているようである。

「鬼奴國」は更に麓に近付いた谷間を表していると思われる。現地名は厳木町浦川内である。鬼怒川なんて言う聞き慣れた川があるが、案外上記のような由来なのかもしれない。勿論そうは伝えられてはいないが・・・。
 
一大率

ところで作礼山の西南麓に「伊都國」が配置されると読み解いた。それで思い出させられるのが、この国に「一大率」が置かれていたと記述される。原文は…、

自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

…である。この文字列の解釈も依然スッキリとはしていない状況のようである。

「一大國」は壱岐島であると、ほぼ異論なく認知されている。ただ、それは対馬からの行程からして間違いない、と言うことであって、「一大」の意味は不詳であろう。前記で「一大」=「一+大」=「天」と読み解き、一大=一様に平らな頂の山稜(麓)と解釈した。天(阿麻)=擦り潰された台地の表記に繋がることが解った。

すると「一大率」の「一大」も同じであろう・・・「平らな頂の山稜(麓)」、作礼山(~奥作礼山)の頂を示していると紐解ける。上図に、薄く色付けした場所を示す。一大率=平らな山の統率者(かしら、おさ)と読み解ける。即ち、鬼國のかしら、おさを意味することになる。だから「諸國畏憚之」したと述べているのである。

もう少し、憶測が許されるなら、鬼=鉄と置換えられるかもしれない。天石屋に坐していた伊都之尾羽張神刀工であり、天照大御神天石屋に隠れる。鉄は国家なり、なのである。鉄の支配が国を治めることであった時代、いや、近代まで続く普遍の事柄である。更に厳木町岩屋(JR岩屋駅)もある。全て揃っている?…かもしれない。

「伊都」と「一大」と「鬼」、これらのキーワードは邪馬壹國連合の超機密事項に関連する。些か曖昧に、かつ最低限の記述を倭人伝著者が行ったと受け取るべきであろう。定説化している「伊都」=「糸、怡土」では、全く見えて来なかった古代の姿である。
 
邪馬國・巴利國・支惟國

⑯邪馬國、⑱巴利國、⑲支惟國に進む。「邪馬國」はあまり深く考えることなく「邪馬壹國」の裏側、馬の背の部分であろう。この地は古有明海の深く入り込む入江の口に当たる場所であって、細かく分かれた稜線の合間(谷間)が豊かな地である。

流石に斜度が大きく、現在も池が多く作られている。正にこんな地形が古事記の舞台なのである。古事記ならもう少し凝った名前にしたのかもしれない・・・。現地名は杵島郡大町町辺りである。
 
<邪馬國・巴利國・支惟國>
「巴利國」の「巴」上記で紐解いた。山稜が大きく枝分かれしている様を表したと思われる。

「利」=「稲を刃物(鋤など)で刈取る」様を表していると解説される。

筋目がくっきりと見える山腹を示している。

巴利國=大きく曲がって畝る山稜の間が鋤取られたようになっているところと読み解ける。現地名は武雄市北方町辺りである。

「支惟國」について、これも文字は違えど、古事記風である。「惟」=「心+隹」と分解される。「中心にある小鳥」と解釈される。

「支」=「延びた山稜」であるが、図に示した構図では「小鳥を支えている」ようにも見受けられる。これで支惟國=中心にある小鳥を支えるところと読み解いておこう。現地名は北方町と朝日町に跨るようである。
 
<躬臣國>
躬臣國

⑰「躬臣國」の「躬」=「身+弓」と分解される。

「身」=「身籠る」とすると「躬」は「弓の地形が身籠ったようなところ」と読み解ける。

臣」=「目の地形」とすれば、臣國=弓の地形が身籠ったようなところの傍らにある目の地形と紐解ける。

そのままの表現で現地名の武雄市武雄町に見出すことができる。「」は古事記に登場しないが、分解するとそれらしき地形象形表記になると思われる。

一方「臣」は頻出する。「臣」は尊称の一つとされる。がしかし、「臣」=「谷間の入口」を示し、そこに坐していたことを表す文字と紐解いた。多くの神、命が住まうには適した土地だったと思われる。
 
<烏奴國・奴國>
烏奴國・奴國

⑳烏奴國、㉑奴國で最後である。「烏奴國」は烏の形を模しているのであろう。武雄市と杵島郡に跨る山稜がある。

その山稜の形、特に北側の部分を烏に見立てたと推測される。この山稜、現在は東西共に陸に囲まれているが、当時は海に面していたと思われる。

更に東側は殆ど平野部がなく、山稜の麓は直に海となっていたと推測される。

それを根拠に「烏奴國」は西側、現在の武雄市橘町辺りと推定した。この島の周辺が広々とした水田になるにはかなりの時間を要したのではなかろうか。

「奴國」、再びの「奴國」同じ or 異なる、と諸説があるようだが、女王國の尽きるところと記載される以上、同一ではあり得ない。そんなことを思い浮かべながら、探すと、何とも奇妙なところが見つかった。現地名の杵島郡白石町、この山稜から突き出たところ。この突き出たところの上部でのみ住まうことができたように思われる。

海産物が豊かな場所だったのかもしれない。いずれにしても特異な地形である。それを示したかった?…そうかもしれない・・・。地図では省略されているが、この国の直ぐ南は「狗奴國」に近接する場所である。

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あらためて冒頭の全地図を眺めると、有明海の北~北西沿岸にずらりと並んだ国々を示していることが解る。「邪馬壹國」、古田武彦氏の本を手にしてから、早五十年の歳月が流れた。色々と疑問なところも感じながら、原本(写本)に忠実に解釈する姿勢に、そして読み替えることなく解釈できるということに、日本の古代史は解釈不能に陥ると誤写だとする学問と知らされた。

その後四十五年間、とんとご無沙汰している間に、全くの様変わりをしていたことに驚きを隠せなかった。いや、その変貌ぶりが、現在あらためて古代の日本を見つめてみようと言う作業を後押ししているような感覚である。古文書を解釈する手法に何らの工夫もなく、現地名との類似性が頼りの読み解きに埋没している。

漢字学にしても、相変わらず白川漢字学(学とは言い難いが…)が持て囃されているようである。古事記にも魏志倭人伝にも「奴」が多用される。所詮は中華思想による卑字と片付ける前に、何故「奴」を?…と問う記述が見当たらない。嶋だらけの日本には、多様な「奴」の地形がわんさとある。

古事記と魏志倭人伝、何とか自分なりに納得できる解釈を行えたように思われるが、まだ他にもある。知力・体力の続く限りに追及してみようかと思う。