2019年10月18日金曜日

『古事記』で読み解く『隋書俀國伝』(Ⅰ) 〔378〕

『古事記』で読み解く『隋書俀國伝』(Ⅰ)


中国の史書、『魏志倭人伝』に登場する倭国の国名及び卑弥呼や壹輿などの人名も『古事記』の文字解釈、即ち地形象形の表記をしていることが解って来た。中国における史書にはいくつかの、時代毎に存在するようであるが、詳細には後に読み解くことにして、その内の一書、『隋書俀国伝』に記された内容が興味深い。

その史書の全体については後として、下記の一文を読み解いてみようかと思う。隋書の記載内容そのものは、それまでとはかなり異なり、登場人名も感じが違っているようである。

隋書原文…、

明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀 俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都

…日本の古代史では超有名な「日出處天子致書日没處天子無恙云云」の文書を差し出した後日談となる。「帝覧之不悦」だったが、倭国との国交断絶するわけでもなく、「裴世清」の派遣に繋がって行く(帝に憚って「世」の字を省略?)。元気そうな輩がいるようだから、ちょっと見て来い、かもしれない。

さて、「裴世清」が倭に向かう行程が魏志とは大きく異なる。「狗邪韓國」は登場しない。「百濟」~「竹島」(聃羅國を望む)~(都斯麻國を経る)~「一支國」~「竹斯國」~「秦王國」~(十餘國を経る)~「海岸」に到着すると記載されている。

「都斯麻國」、「一支國」は現在の対馬、壱岐島に該当するであろう。また「百濟」は良く知られた場所であり(現在の全羅北道辺り)、「聃羅國」は「耽羅國」であって現在の済州島として間違いのないところと思われる。『古事記』で百濟=古波陀と読み解いたところである。先ずは「一支國」までの行程を再現してみた。
 
<百濟國→一支國>
「百濟」は広大であって寄港した場所として現在の格浦港辺りを想定してみたが、根拠は希薄である。

次の「竹島」については、やはり興味深い場所なのであろうか、幾人かの方が推定されている。

珍島、莞島などが挙げられているが、特定するには至ってないようである。

そこで「聃羅國を望む」を頼りにその北方の島を当たってみることにした。

多数の島が並ぶ中で、おそらく火山性の山が島となったと推定されるが、外輪山のように窪んだ中心を持つ島が見出せる。甫吉島と名付けられているようだが、その地形を象った命名ではなかろうか。

即ち竹のように中が空洞になっている様子を示していると思われる。その南西麓にボジュッ山があり、まるで天然の灯台のような形をしていることが解る。その麓に寄港したと推定される。
 
<竹島>
それにしても「狗邪韓國」から対馬に渡る時に比して、航海距離が大幅に増えることになる。

航海、造船技術が著しく進歩したのであろう。勿論、大型化による食料などの備蓄も格段に増えたことが推測される。この島のほぼ真南に耽羅国があると記述している。

ところで「聃(耽)羅國」は、Wikipediaによると…、

耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓神話がある。それによると、高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(『高麗史』では日本)

から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国したことが伝えられている。歴史的な記録としては3世紀の中国の史書『三国志』魏志東夷伝に見える州胡が初見であり(「三姓神話」)、朝鮮人とは言語系統を異なるものとするのが通説である(これには異説もある)。

…と記されている。「耽羅」の由来は如何なものなのであろうか?・・・。
 
<聃(耽)羅國>
済州島は中央の漢拏山の噴火でできた島の様相をしており、均整のとれた美しい島となっている。

また、その山麓に無数の小さな噴火口の跡が残っているのが伺える。地形的には特異な形状を示しているようである。

その無数の噴火口を拡大してみると「耳朶(タブ)」の形をしていることが解る。「聃(耽)」=「大きな耳朶」の意味を表す文字である。聃(耽)羅國=大きな耳朶が連なったところと読み解ける。

この地も、おそらく倭人達が一時は占有したのであろう。上記の「竹」、「聃(耽)」の文字を使って地形象形したのではなかろうか。

先に進もう・・・上記で寄港地間が延びたと推論したように「都斯麻國」に立寄ることはなかった。加えて、南北にはそれなりの間隔が空いているが、東西には「都斯麻國」と「一支國」との距離は少ない(半分強)。従って、直行することになる。

これまでの表記と異なり、何故「都斯麻國」としたのか?…この文字列も読み解ける。「都」=「集ま(め)る」、「斯」=「其+斤」=「切り分ける」、「麻」=「細かく、細く、狭く」となる。『古事記』で頻出の文字が並んでいる。都斯麻國=細かく切り分けられた地を集めたところと読み解ける(地図はこちら)「麻」には「擦り潰された」(ex. 阿麻)に加えて「夜麻登」=「狭い谷間を挟む山稜が二つに分かれるところにある高台」の用法がある。

魏志倭人伝の「對海國」、古事記の「津嶋」はこの島の中央部の入組んだ入江を象形した表記であった。これに対して上記は現在の対馬の全体を表す表現となっている。原文には「都斯麻國逈在大海中」と記されている。正にある距離を置いて、遠くから眺めた表現なのである。対馬はスルーである。

この記述に関して、対馬から壱岐島は南(東南)なのに、やはり中国史書の方角記述は怪しい・・・何かと史書の原文(写本)を疑うように解釈する。魏志倭人伝の方角を恣意的に変更し得る根拠にもなっているようである。「南→東」は十分に考えられる間違い、であると・・・怪しいの読み手であろう。

次は、いよいよ九州本土に上陸である。「竹斯國」と記載される。間違いなく「筑紫(國)」とされているようである。そして博多湾岸となる・・・が、果たしてその解釈で良いのであろうか?・・・。
 
<竹斯國>
「斯」の文字が使われている。意味があるから「筑紫」とはしなかったのである。

上記したように「斯」=「切り分ける」である。「紫」にその意味はない。

この「竹斯」は「竺紫」を示すことが解る。『古事記』で「竺」=「竹+二」と分解すると、「幾つかの横切るところがある山稜」と読み解いた。

伊邪那岐が禊祓をした竺紫日向之橘小門之阿波岐原そして天孫邇邇芸命が降臨した竺紫日向之高千穗之久士布流多氣に登場する地である。

『古事記』では「竺紫日向」であって「筑紫日向」は出現しない。「竺紫」と「筑紫」をごちゃまぜにしたのが日本書紀である。更に博多(湾岸)は「筑紫」ではなく、「筑前」である。この錯綜とした有様を保持するならば、「竹斯國」が示すところは永遠に読み解けることはないであろう。

ここからが「隋書」が伝える真骨頂の記述に入る。彼らは現在の波津港辺りに着岸した後、響灘の外海を通過せずに遠賀郡岡垣町にあった汽水湖に進入したと予測される。『古事記』の「日向國」、その港は「橘小門」だったと伝えているのである。伊邪那岐が生んだ衝立船戸神が守る船着き場であったと推定される。
 
<秦王國>
内海に入ったら、そのまま古遠賀湾を突き進むことになる。おそらく山稜の端が低くなった谷間を縫うように進んだのであろう。

当時は既に確立されたルートがあったと思われるが、今は知る由もない。

船は、時には陸地を引き摺られて丘を越えたのかもしれない。常套手段であろう。上図に示したところは全て現在の標高でおよそ10m以下の場所である(二か所の谷間)。

伊邪那岐命の禊祓で誕生したと記載される三柱の綿津見神及び墨江之三前大神(三柱の筒之男命)の居た入江を突き進んだと推定される。古遠賀湾を進むと、広大な山稜にぶち当たることになる。だが、そこは既に開拓された船路があったのである。

邇邇芸命の御子、火遠理命(山佐知毘古、後の天津日高日子穗穗手見命)が豐玉毘賣命に出会う前に通った味御路である。詳細はこちらを参照。

細い谷間の水路を抜けると洞海(湾)に入る。その少し手前に「秦王國」があったと推定した。『古事記』に登場しない「秦」=「舂+禾」と分解される。「禾(穀物)を臼でつく」様を表す文字と解説される。日本では応神天皇紀に帰化した漢民族の子孫に付けられた姓と言われる。その意も含めて地形象形した表記であろう。

図中に古文字を示した。「禾」と二つの手で脱穀している様を表している。「手」=「延びた山稜」と解釈して、「秦」の文字形をそのまま当て嵌めたと読み解ける。「王」=「大きく広い」様を意味し、秦王=[秦]の形に稲穂が大きく広がったようなところと紐解ける。現地名は北九州市八幡西区大字陣原・則松辺りと思われる。その地の人は「華夏(中国)」と同じ、と述べている。
 
<十餘國・海岸>
「王」の解釈は、上記で矛盾はないのだが、文字形そのものから「横切る谷間がある」と読めるかもしれない。


現在は道路・宅地開発などで不鮮明ではあるが、「味御路」に類似する地形を表しているようである。

実は『古事記』ではこの場所は登場しない。すぐ隣は淡海之久多綿之蚊屋野と表記され、雄略天皇が市邊之忍齒王を惨殺する場所である。

狩りをする場所として記載されている。空白地帯ではなく天神族との関わりがなかっただけ、なのかもしれない。原文は「又經十餘國達於海岸」とのみ記され、方角が付加されていない。

何故か?…書き忘れたのではなかろう…洞海(湾)を進むからである。従来の一説に瀬戸内海を進むという解釈がある。東西に広がる内海を進む故に方角を省略したとする。奈良大和にあった国を登場させるには格好の記述とされているようである。

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「秦王國」の場所は、『古事記』に登場しない地名故に今一つ検証するには至らないのであるが、「其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」と記述されていることを頼りに「秦(人)」に関わる地名などが残存しているかどうかをネットで検索することにした。どう言う訳かなかなかそれらしきサイトが見出せなかったのであるが、実に興味深い記述があることが解った。
 
<秦氏>
油獏氏のブログの「鷹」の神祇。八幡の鷹見神社群と題する投稿がある。

「鷹」が示す秦氏の住地、その中心となった場所が北九州市八幡西区の帆柱山・権現山(鷹見神社奥宮)の麓であったと述べられている(図参照)。

この地から九州東北部へ侵出し、「田川、英彦山、香春、宇佐へと繋がっている」と記されている。

香春岳の銅山の開発は秦氏が行ったとも言われるそうで、すると神倭伊波禮毘古命が忍坂大室(田川郡香春町採銅所と比定)で出会った生尾土雲八十建は、先住の秦氏なのかもしれない。吉備における「鉄」の取得は、やはり「銅」に優ったということであろうか。

紀元前二百年頃に消滅した「秦國」から逃げ延びた人々の行く末の一つが古遠賀湾~洞海(湾)であったことを示している。「倭人」が同じく逃亡の憂き目に合う以前の出来事であろう。中国大陸における抗争が引き起こす民族移動の歴史を伺わせていると思われる。いずれにせよ「倭人」が保有する水田稲作の威力は絶大であり、九州から本州へと一気に広がりつつ、その稲作技術を進化させていったと推測される。

地形とそこに住まう人々の出自が上手く合致した表記であることが解った。だからこそ竹斯國以降は「秦王國」の記載のみで残りはその他の表記としたのであろう。正に当時のランドマーク的存在の地域だったと推測される。

東隣は『古事記』で出現する「八坂」(八幡東区祇園辺り)の地である。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に八坂之入日子命が登場する。唐突な記述に感じられたが、おそらくこの地を開拓したのは「秦人」なのであろう。そして天神達と姻戚関係を結んで洞海(湾)沿岸を豊かな水田に変貌させた、と思われる。(2019.12.29)

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さて、裴世清らが乗った船の最終目的地を「海岸」と記述する。こんな一般名詞では何も分からない…確かにそうであろうが、「海岸」という固有の地名があり、洞海(湾)という「洞」のような海を進む故に方角は不要としたのである。『古事記』には、この一般名詞のような地名が登場する。
 
<海岸>
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命が玉依毘賣命を娶って四人の御子が誕生する。

五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命」と記述される。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の誕生である。その四人兄弟の二番目、稻氷命について下記ように記されている。

爲妣國而入坐海原也」は、妣国を治め、「海原」に侵入して坐したことを表している。

後の帶中津日子命(仲哀天皇)の后、息長帶比賣命(神功皇后)が朝鮮から帰国して、品陀和氣命(応神天皇)を生んだ場所を宇美と呼んでいる。

これで前進したようである。海岸=海(宇美)の岸と読み解ける。当時は図中の青っぽく見えるところは海であったと推定した。現在の小倉の中心街は海面下にあった。そして筑紫之岡田宮(筑紫訶志比宮)を中心とする筑紫國があった場所であり、裴世清が歓迎を受け、この地を倭の都があるところと教えられたのである。

通説では「宇美」は現地名の福岡県糟屋郡宇美町に比定されている。筑前・筑後の地名は全て後代に名付けられたものであろう。現存する地名で推論する手法から脱却しない限り古代は見えて来ない、と断じる。また「海岸」は、九州の何処かの東岸や大阪難波にある何処かの海岸と推定されている。現地レポした裴世清に対して真に失礼な解釈である。

残念ながら「十餘國」は定かではない。八幡東区にはもう少し細かく分かれた国があったのかもしれない。『古事記』では「八坂」だけである。また現在の戸畑区は全く出現しない。

ところで、「海岸」に裴世清が到着した記述の後に「自竹斯國以東皆附庸於俀と付加される。「俀=倭」と置換えて読むと、何とも違和感のある表記である。俀國伝に登場する地名でも都斯麻以後「俀=倭」の筈であろう・・・隋書解釈の議論がかつて盛んに行われていた時に話題となった一文ではあるが、決め手に欠ける結末のようである。


<竺紫日向>
竹斯國=竺紫日向(現地名遠賀郡岡垣町)から東、それこそ『古事記』に登場する「天神族」が治めた地である。

伊邪那岐命が黄泉国から脱出して禊祓をした場所、また邇邇芸命が降臨した竺紫日向の東方の地に彼らは拡散して行ったと読み解いた(図を再掲)。

この地より神倭伊波禮毘古命が東方にある筑紫之岡田宮(上図<海岸>参照)へ向かった。「竺紫=筑紫=竹斯」と読んでは、混迷に陥るだけであろう。

たった十一文字の文こそ、それが読み解けてこそ『中国史書』と『古事記』との繋がりが明らかになって来ると思われる。

「日出處天子致書日没處天子無恙云云」と宣ったのは、間違いなく『古事記』に登場する「天神族」である。そして正史・日本書紀に繋がり現在に至るのである。

『古事記』の舞台が中国史書に登場した。「邪馬壹國」の舞台と置き換わったのである。と同時に歴史の時が急激にその速さを増す時代に突入したことを告げているようである。