2019年10月24日木曜日

『古事記』で読み解く『隋書俀國伝』(Ⅱ) 〔379〕

『古事記』で読み解く『隋書俀國伝』(Ⅱ)


ところで「日出處天子致書日没處天子無恙云云」を述べたのは誰か?…様々に推論されているのだが、今一歩確からしさに欠ける有様のようである。推古天皇とすると男王の記述と合わず、ならば聖徳太子か?…「王」ではないが、聖徳太子のことを「王」と記したものがある、などなど・・・。

いずれにしても苦肉の解釈であろう。ならば隋書に登場した人物名を紐解いてみよう。ひょっとしたら『古事記』に登場した天皇他に当て嵌まるかもしれない。


多利思北孤は、??天皇

「王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」と記されている。姓が「阿毎」、字が「多利̪思北孤」、號が「阿輩雞彌」である。『古事記』に頻出の「阿」=「台地」とする。「毎」は、それなりの頻度で登場するが、ほぼ「~ごとに、つねに」の意味を表しているようである。地形象形的に用いられていないことから、あらためて紐解いてみる。
 
<阿毎多利思北孤>
「毎」=「母+屮」と分解される。「母」=「両腕で子を抱える様」、「屮」=「草に関連する部首」とされているが、文字形からすると山稜から延びる枝稜線の象ったと解釈できそうである。

すると「毎」=「両腕を伸ばしたような稜線で囲まれたところ」と読み解ける。阿毎=両腕を伸ばしたような稜線で囲まれた台地となる。

「阿毎(アマ)」=「天」と置換えると、天=大=一様に平らな頂の山稜と読める。これらが示す地形の麓に居た王であると思われる。

この地形に当て嵌まる『古事記』の天皇は、誰であろうか?…最終章の天皇、欽明天皇から推古天皇までの和風諡号、即ち彼らの出自の場所の地形を見直してみた。

すると、「阿毎」に合致する天皇はただ一人、橘豐日命(用明天皇)であることが解った。明らかに古事記の名称とは異なるが、「多利思北孤號阿輩雞彌」も同じく地形象形表記と思われる。
 
<多利思北孤阿輩雞彌・阿輩臺>

字の「多利̪思北孤」に含まれる古事記頻出の「多」=「山稜の端の三角州」である。

前記の「都市牛利」で紐解いたように「利」=「切り離す」と解釈する。

図に示したように山稜の端の三角州が他の山稜と切り離された地形となっていることが解る。

「思」は古事記の思金神と類似して「頭蓋の泉門」を示すとすると、「思」=「囟+心」=「凹んだ地の中心」となる。

「北」=「左右、又は上下に分れた様」、「孤」=「子+瓜」=「生え出た丸く小高いところ」と読み解くと、その中心の地が周囲の山稜から分かれて丸く小高くなっていると述べている。

多利思北孤=山稜の端の三角州が切り離されて細分された中心の地が孤立した丸くこだかいところと紐解ける。「北」→「比」(ヒコとなる)の誤りとするのが通説だとか…一文字も変更することはあり得ない。この文字列で明確な意味を表しているのである。現在の國埼八幡神社辺りと推定される。

古事記の橘之豐日命は「橘」(上流に向かって無数に枝分かれした谷間[川])の地にある「豐」(多くの段差がある高台)で「日」(山稜の末端が[炎]のように突き出ているところ)に坐していた命と紐解いた。「橘」と「豐」でほぼ特定されるが、「多利思北孤」はより鮮明になっていることが解る。中国史書に現れた倭の地・人名は直截的と述べたが、正にその通りの結果と思われる。

「號阿輩雞彌」の「輩」=「非+車」と分解される。『古事記』に登場する「非」=「狭い谷間」である。「車」=「ずるずると連なる様」から、「阿輩」=「狭い谷間からずるずると連なったところ」と読み解ける。「雞」=「奚+隹」であって「繋がれた鳥」を意味する。その文字通りの地形を象った表記であろう。纏めると阿輩雞彌=狭い谷間からずるずると連なった地で繋がれた「隹」のような形が広がったところと読み解ける。全く矛盾のない表現であろう。


『新唐書東夷伝』に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」と記載されている。「北」→「比」としていることから、些か誤字脱字の懸念が浮かぶが(列記された漢風諡号の例では、海達、雄古など。参照Wikipedia)・・・。阿毎多利思北孤=用明天皇とする上記の結果と矛盾はないようである。

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余談だが「隹」は古事記のキーワードの一つである。例を挙げれば大雀命(仁徳天皇)など、山麓の地形を「鳥」の形に見立てた表記が数多く出現する。「嶋(山+鳥)」も含めて古事記読み解きに欠かせない解釈であろうかと思われる。人為的な開発(採石・宅地)、昨今のような豪雨による山腹の変貌に耐えて今日までその地形が残されていることに畏敬する。


尚、「比」は「北」の誤りである。「比」は「くっ付いて並ぶ」の意味を示す。字形は極めてよく似ているが、故に書き換えたのであろうが、「北」は「離れている様」を示す。

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后の「雞彌」は何とも優雅な広々とした地を占有していたのであろうか。天皇、ご寵愛か・・・先に太子を読み解いてみよう。
 
<利歌彌多弗利・哥多毗>
利歌彌多弗利」と記される。「利」、「彌」、「多」は上記と同じとして「歌」は何と解釈するか?…『古事記』に登場する文字なのである。

いえいえ、挿入歌ではない。垂仁天皇紀に天皇に見捨てられた二人の比賣の中の一人、歌凝比賣命である。

「歌」=「可+可+欠」と分解されて、「二つの谷間が並ぶ大きく開いた出口」のことを意味している。

「弗」=「弓+ハ」と分解される。「広がり分れる、飛び出る様」を象った文字と解説される。「沸」で表される水の様である。その特徴が見事に当て嵌まる地形が見出せる。「多利思北孤」の直ぐ北側に当たるところである。


利歌彌多弗利=切り離された広がる二つの谷間の出口で飛び出た山稜の端の三角州が切り離されているところと読み解ける。通説では「利」→「和」の誤り…万葉仮名の用法から、と言われているとのことだが、太子の名前は万葉仮名ではない。「多利思」→「帶(タラシ)」の聞き間違い?…だとか。命懸けで著述している時代のことを暢気な現代人があれやこれやと読んでるわけである。

さて、この地は『古事記』では何と表記されていたか?…橘豐日命(用明天皇)が宗賀の稻目宿禰大臣之女・意富藝多志比賣を娶って誕生した多米王(山稜の端の三角州が[米]粒の形をしているところ)の出自の場所と解る。「多弗利」の表記に合致すると思われる。

実は「多米王」の名前は二度登場する。山稜の端の三角州の北側の部分は「足取王」が居た場所でもある。おそらく時が経って「利歌彌多弗利」が両方を統治したのではなかろうか。后の「雞彌」=「意富藝多志比賣」となる。宗賀(蘇我)の権勢、正に飛ぶ鳥を落とす勢いと言えるのであろう。

「日出處天子致書日没處天子無恙云云」と言わしめた背景には、上記のような過大に膨らむ野望・野心が働いていたのかもしれない。そしての勢いは、決して尋常ではなかったようである。

使者に「阿輩臺 」が登場する。多分國崎八幡神社の南西側の小高いところ、それを「臺」で表したのであろう(上図<多利思北孤阿輩雞彌・阿輩臺>参照)。もう一人の使者「哥多毗」は、おそらく「利歌彌多弗利」の近隣の「哥」(二つ並んだ谷間)の地形で「毗」のところであろう。

毗」は「毘」の異字体である。『古事記』に頻出する文字、「田を並べる」(毘古など)の解釈に加えて「臍」(那毘など)とする場合があった。山稜が延びたところで凹になった地形を表している。上図<利歌彌多弗利・哥多毗>に示した場所ではなかろうか。彼らの出自は不詳だが、宗賀(蘇我)一族が要職を占めていたことが解る。

また「阿蘇山」が記載されている。前記で侏儒と読み解いた山である。「阿蘇」の由来を調べると、これがまた何とも頼りないものばかり…「阿(台形の地)|蘇(種々集まる)」…根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳の五峰を阿蘇五岳(あそごがく)と呼ぶそうである。広大なカルデラ火山、やはり見逃す筈がなかった、のである。

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隋書が記す「俀國」の前歴は「邪馬壹國」である。そして連綿と続く同一の国として扱われている。間違いなく隋書に現れた「俀國」は『古事記』が記述する天神族の国であることが解った。中国の使者は「邪馬壹國」を引継いだように聞かされたのであろう。「邪馬壹國」は、企救半島の南西麓、筑紫國に悠久の昔からあったと・・・あたかも奈良大和に万世一系に存在して、のように。

「俀」=「人+妥」と分解される。更に「妥」=「爪+女」である。「爪」=「下向きの手の形」とすれば、「[女]を手なずける様」と解釈される。それから「落ち着く」などの意味を表す文字となる。更に「下向きの手」で「まとめる」など意味も生じることになると解説される。

裴世清は、確かに古文書に記された「倭國」だが、決して同じではないと感じたであろう。それを「俀」の文字で表記したと推測される。「倭」に含まれる[女]、倭国の象徴である。「俀國」は、その[女]を「爪(まとめる)」た国を表している。「邪馬壹国」(倭國)の領域が漠然とした解釈しかできず、また『古事記』が記す天神族の舞台も全く読み取れずのままである日本の古代史では、到底理解できない記述であろう。

大陸から遁走する一族は、東へ東へと一族の居場所を求めて移住した。落ち着いた場所に、恰も古から棲みついていたかのように・・・西から佐賀県多久市・福岡県田川市(郡)・奈良県橿原市(→京都市→東京都)、かつてのアジア大陸の最果ての地に落ち着いたと言うことであろう。

昨日のTVは、第百二十六代天皇即位一色であった。その眩いばかりの美しい映像に他国の賓客もきっと目を見張ったであろう。現存する『古事記』、『日本書紀』、各『風土記』及び『万葉集』など、流浪の民がそのアイデンティティを記すために残した、世界に類をみない書物であろう。悠久の時の流れが輝いていると感じられた。(2019.10.23)

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