『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅳ)
前記(Ⅱ)にて、以下のように記述した…、
冒頭に「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」と記述される。具体的な国名は後に記述される。「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」
詳細は後日に譲るとして・・・、
・・・と推定される。例えば「巳百支國」は、吉野ケ里遺跡のあるところなど、古有明海に臨む緩やかな傾斜地、そこに多くの人々集まり住まっていたことを伝えている。その中心の地にあったのが「邪馬壹國」であったことが示されている。
…流石にこれらの地名の比定は学術論文にはし難いようで、現在の類似地名で当てて行くと言う手法しか見出せていない以上、サイトの検索では幾つか見出せる程度である。
さて、これらの旁國の地名を『古事記』で読み解くのであるが、大半がそこに出現した文字であることが判る。勿論漢字の持つ多様性に準じて些か解釈が異なる場合もあろうが、漢字の原義を違えていることはあり得ないであろう。いや、それが違っているなら、『古事記』では読み解けない、と言える。
地図上の東側から①斯馬國、④都支國、③伊邪國、⑥好古都國の場所を求めた結果である。現地名では佐賀県の鳥栖市~三養基郡に跨って広がる古有明海の東北部に位置する。
「斯馬國」の「斯」=「其+斤」と分解され、「(斧で)切り(箕で)分ける」と解釈する。古事記で頻出の文字である。別天神の一人、宇摩志阿斯訶備比古遲神、また大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の和風諡号などに含まれる。「馬」は、それぞれが馬の背のように二山になっていると見做したと思われる。斯馬國=馬を切り分けたところと解釈される。現地名は鳥栖市村田町辺りである。
「邪馬壹國」、また奴國の官名「兕⾺觚」などは平面的に捉え、「投馬國」また對海國の別表記「對馬國」などは垂直面的に捉えていると思われる。いずれにしても地形象形する「馬」の登場の頻度は高い。身近な、そしてその身体の特徴が地形、とりわけ山稜を表すことに都合が良いのであろう。それは現在に通じるようである。現天皇陛下の最も好まれる山の一つ、甲斐駒ヶ岳にも含まれている。
「都支國」は頻度高い文字の組合せであって、都支國=山稜の端を集めたところと読み解ける。
ありふれた地形で、特定し辛いかと思えば、意外に特徴的な場所が見出せる。現地名は三養基郡白壁辺りと思われる。
続く「伊邪國」の「伊邪」は、そのものズバリが古事記で用いられている。
若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が坐した伊邪河宮である。伊邪國=僅かに曲りくねるところと読める。
現地名は三養基郡東尾辺りであろうが、おそらくその中心は南部であって、「都支國」の西側に当たるところではなかろうか。
「好古都國」の「好」=「女+子」と分解される。「好」そのものは古事記に登場しないが(地形象形外で1回のみ)、分解すれば頻出の文字となる。「子」=「生まれる」の意味だが、地形象形的には「生え出る」と訳す。「好」=「嫋やかに曲がる(山稜)から生え出たところ」と読み解ける。
「古」は古事記頻出であるが、二通りの解釈がある。一つは「古」の原義「頭蓋骨」の象形から「丸く小高い地形」と読む。二つ目は「古」=「固」として「固める、定める」の意味を表すとする場合である。「都」=「集まる」とする。
ここでは前者が適するであろう。好古都國=嫋やかに曲がる(山稜)から生え出た丸く小高い地が集まるところと読み解ける。現地名は三養基郡原古賀辺りである。「古」は残存地名かもしれない。ところで「好古都國」=「コウコツコク」とでも読むのであろうか・・・。
この地には四つの大河が流れる。東から沼河、通瀬川、寒水川、切通川である。なだらかな斜面を流れて古有明海に注ぐ。これらの川沿いに広大な耕地が作られていたのであろう。内海に注ぐ川、豊かさが手に取るように判る地形である。
古事記の舞台、九州東北部は急斜面の山麓が直ちに海、川に届く地形である。唯一の内海は洞海(湾)だが、これも急峻な谷で囲まれた地形であった。この地形差から生じる人々の生き様の違いが日本の古代の原風景であろう。いつの日かそんな目で眺めてみようかと思う・・・。
上記の四つの国が納まってくれると「旁國」の比定は否応なしに加速する。⑤彌奴國、②巳百支國、⑦不呼國を紐解いてみよう。
「彌奴國」は倭人伝で頻出となる文字列、そのまま彌奴國=広がり渡る山稜が腕(手)にように延びたところと読み解ける。その通りの地形が「好古都國」の対岸に見出せる。その中央を流れる井柳川の両岸かどうかは定かでないが、実になだらかで広大な地であることには変わりはないようである。
田手川を挟んで「巳百支國」があったと推定する。「巳」=「蛇のようにくねる」と読める。次の「百」は何と解釈するか?…古事記の「百」=「一+白」と分解して「一様に並ぶ丸く小高いところ」と紐解いた。
いくつか例示すると大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)紀に登場する五百木之入日子命の「五百木」に含まれる。この地は伊豫国に当たる。また神代紀の八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠の「五百津」にも含まれる。
ちょっと違ったところでは品陀和氣命(応神天皇)の御子、若野毛二俣王が娶った百師木伊呂辨にも含まれている。全て上記の解釈と思われる。頻度高く使用されることから、汎用的に使われるのではなかろうか。それが倭人伝に通じるか?・・・。
図を拡大すると、巳百支國=蛇のようにくねって延びる山稜の端が一様に小高いところが連なっていることが解る。
その先端部に、世間ではここが邪馬台国、いや、伊都国などといわれる吉野ヶ里遺跡がある。現地名は神埼郡吉野ヶ里町である。
魏志倭人伝の表記も地形象形していると、ほぼ確信に至ったようである。
「不呼國」は頻出の文字の組合せであろう。不呼國=花の胚のような形が曲がりながら延びる山稜の端にあるところと読み解ける。図に示した通りの場所と思われる。現地名は神埼市神埼町とある。
吉野ヶ里遺跡は、邪馬壹國であったり、伊都國であったり様々に比定されている。奈良大和の遺跡も含めて、それが発見・発掘されるたび比定地として騒がれる。そしてなんら課題解決には至らない。古代は浪漫、それはいつまで経っても不詳であることを意味するようである。
次は⑧姐奴國、⑪呼邑國である。「姐奴國」の「姐」の文字は古事記に登場しない。「姐」=「女+且」と分解すると関連する文字となって来る。「且」は「段々になっている様」を象形した文字と解釈する。古事記では伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの粟國、その別名大宜都比賣の「宜」に含まれる。図に示したように山稜の端が段になって並んでいる様を模した表記と思われる。
姐奴國=嫋やかに曲がる腕(手)のような山稜が段になって並んでいるところと読み解ける。現地名は佐賀市金立町辺りと思われる(図拡大)。
「呼邑國」は嘉瀬川を挟んで西側にある場所と推定した。「邑」=「囗+巴」と分解できる。
「囗」は「ある区切られた地」を示し、「小高いところ」と訳すことにする。
「巴」は後にも登場するが、「蛇が這っている様」で「巳」と比べるとより蛇行した様を示すと思われる。
呼邑國=曲がりながら延びる山稜の端で小高いところが大きく畝って連なるところと読み解ける。この地には古墳もあり、山と海の恵みが豊かなところであったと推察される。
現地名は佐賀市大和町辺り、北西部に当たる場所である。嘉瀬川は背振山地の西部の台地を貫き、有明海に注ぐ大河である。この地も人が住まうのに実に恵まれた自然環境を有していたようである。
⑫華奴蘇奴國、⑪蘇奴國、⑨對蘇國に共通する文字は「蘇」である。古事記の中でも重要な文字の一つである。登場するのは建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰に含まれる。後の宗賀一族(一般的には蘇我一族)の礎となった地の名前である。「蘇」=「艹+魚+禾」と何ともごちゃまぜの文字構成である。
「蘇」は古代の乳製品を表すと言われる。乳固形分と水とが入り混じったものである。「蘇生」は生と死が混在するところか「よみがえる」の意味を表す。実に奥深い意味を示す文字なのである。これを地形象形に用いた。即ち「(いろんなものが)寄り集まったところ」としたのが古事記である。「蘇賀」=「山稜が寄り集まった谷間にある田の地」と解釈できる。
その他にも神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった「阿蘇」、阿蘇山ではない。「山稜が寄り集まった台地」であり、古事記でよく知られる「阿多」(隼人の出自に関る)の別名となる。
前置きが長くなったが、図に示した通り、尾根が大きく湾曲する山麓の様相を表していると思われる。
尾根が曲がると稜線が寄り集まるように山麓に延びる、これは自然の造形であろう。それを「蘇」と表記した。
古事記を含めた古代人の地形認識であろう。真に悔やまれるのが、この認識をくちゃぐちゃにしたのが日本書紀なのである。
華奴=花のような大きく腕(手)が曲がりながら延びたところであり、對蘇=ギサギサの先端の様々な山稜が向き合っているところと読み解ける。そして素直な「蘇奴國」となっている。
「蘇」と表現される地形は長く延びて大きく湾曲した尾根の麓に発生することが解る。『古事記』が記した「蘇賀」の地形、倭人達に共通する地形表記であろう。また、これら三国が揃っていること自体が推定場所の確からしさを物語っているように思われる。現地名は小城市小城町である。
⑬鬼國、⑭為吾國、⑮鬼奴國、さて「鬼」の登場である。この文字そのものは古事記に出現しないが、関連する文字が使われる。速須佐之男命が神大市比賣を娶って誕生した宇迦之御魂神の「魂」に含まれる。「大きく丸い頭に手足が付いている」様を象った文字と解説される。現在の北九州市門司区にある桃山を含めた「三つの桃」形の山を表すと推定した。
それを頼りに「邪馬壹國」の周辺を探すと、唐津市にある「作礼山」の頂上が池を丸く取り囲むような山容であることが解った。
また明瞭な稜線が長く延びていて、「鬼」の文字形を示していることも伺える。
調べるとこの山は霊場として、英彦山系列の修験道の場所として名高いことも判った。
現在は頂上付近にまで車道が通じている(かつてはキャンプ場があったとか)ようだが、地形的にはなかなか急峻な斜面と思われる。
地質的には、かなり古い時代の火山帯(背振山西側)であって、現在の池のところが火口部なのかもしれない。更にほぼ同程度の標高で奥作礼山があり、周囲を遮る山もなく、なかなか優れた山容をしているように見受けられる。
ここを鬼の頭として挙げられた国は当て嵌まるのであろうか?…山麓辺りの地形を眺めながら探すと、極めて興味深い文字使いがなされていることが解った。
「鬼國」は直下の場所、現地名では唐津市厳木町平之辺りであろう。かなりの標高(400m前後)であるが、集落らしきところが見出せる。
加えて傾斜地にも関わらず、その面積は広く開かれているように伺える。背振山地の南麓の様相とは全く異なる地形に人々が住まっていたのであろう。
「為吾國」は何と紐解くか?…「吾」は古事記に登場する。天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した、天神族奔流の正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命に含まれている。
「吾」=「五+囗」と分解され、「五」の古文字は「X」の字形(図参照)であると知られる。山稜が作る形で交差するようなところを示していると解釈する。
「鬼國」の直下に岩詰・詰ノ本と言う地名がある。山稜がくっ付くように寄り合い、細い谷間を「為」(形成している)場所である。
これを「為吾」と表記したのではなかろうか。複数の山稜が寄り集まって形成される特異な地形、谷間であることが解る。「五」=「X」やはり古事記と全く同様の表記がなされているようである。
「鬼奴國」は更に麓に近付いた谷間を表していると思われる。現地名は厳木町浦川内である。鬼怒川なんて言う聞き慣れた川があるが、案外上記のような由来なのかもしれない。勿論そうは伝えられてはいないが・・・。
ところで作礼山の西南麓に「伊都國」が配置されると読み解いた。それで思い出させられるのが、この国に「一大率」が置かれていたと記述される。原文は…、
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
…である。この文字列の解釈も依然スッキリとはしていない状況のようである。
「一大國」は壱岐島であると、ほぼ異論なく認知されている。ただ、それは対馬からの行程からして間違いない、と言うことであって、「一大」の意味は不詳であろう。前記で「一大」=「一+大」=「天」と読み解き、一大=一様に平らな頂の山稜(麓)と解釈した。天(阿麻)=擦り潰された台地の表記に繋がることが解った。
すると「一大率」の「一大」も同じであろう・・・「平らな頂の山稜(麓)」、作礼山(~奥作礼山)の頂を示していると紐解ける。上図に、薄く色付けした場所を示す。一大率=平らな山の統率者(かしら、おさ)と読み解ける。即ち、鬼國のかしら、おさを意味することになる。だから「諸國畏憚之」したと述べているのである。
もう少し、憶測が許されるなら、鬼=鉄と置換えられるかもしれない。天石屋に坐していた伊都之尾羽張神は刀工であり、天照大御神は天石屋に隠れる。鉄は国家なり、なのである。鉄の支配が国を治めることであった時代、いや、近代まで続く普遍の事柄である。更に厳木町岩屋(JR岩屋駅)もある。全て揃っている?…かもしれない。
「伊都」と「一大」と「鬼」、これらのキーワードは邪馬壹國連合の超機密事項に関連する。些か曖昧に、かつ最低限の記述を倭人伝著者が行ったと受け取るべきであろう。定説化している「伊都」=「糸、怡土」では、全く見えて来なかった古代の姿である。
⑯邪馬國、⑱巴利國、⑲支惟國に進む。「邪馬國」はあまり深く考えることなく「邪馬壹國」の裏側、馬の背の部分であろう。この地は古有明海の深く入り込む入江の口に当たる場所であって、細かく分かれた稜線の合間(谷間)が豊かな地である。
流石に斜度が大きく、現在も池が多く作られている。正にこんな地形が古事記の舞台なのである。古事記ならもう少し凝った名前にしたのかもしれない・・・。現地名は杵島郡大町町辺りである。
「巴利國」の「巴」上記で紐解いた。山稜が大きく枝分かれしている様を表したと思われる。
「利」=「稲を刃物(鋤など)で刈取る」様を表していると解説される。
筋目がくっきりと見える山腹を示している。
巴利國=大きく曲がって畝る山稜の間が鋤取られたようになっているところと読み解ける。現地名は武雄市北方町辺りである。
「支惟國」について、これも文字は違えど、古事記風である。「惟」=「心+隹」と分解される。「中心にある小鳥」と解釈される。
「支」=「延びた山稜」であるが、図に示した構図では「小鳥を支えている」ようにも見受けられる。これで支惟國=中心にある小鳥を支えるところと読み解いておこう。現地名は北方町と朝日町に跨るようである。
⑰「躬臣國」の「躬」=「身+弓」と分解される。
「身」=「身籠る」とすると「躬」は「弓の地形が身籠ったようなところ」と読み解ける。
「臣」=「目の地形」とすれば、躬臣國=弓の地形が身籠ったようなところの傍らにある目の地形と紐解ける。
そのままの表現で現地名の武雄市武雄町に見出すことができる。「躬」は古事記に登場しないが、分解するとそれらしき地形象形表記になると思われる。
一方「臣」は頻出する。「臣」は尊称の一つとされる。がしかし、「臣」=「谷間の入口」を示し、そこに坐していたことを表す文字と紐解いた。多くの神、命が住まうには適した土地だったと思われる。
⑳烏奴國、㉑奴國で最後である。「烏奴國」は烏の形を模しているのであろう。武雄市と杵島郡に跨る山稜がある。
その山稜の形、特に北側の部分を烏に見立てたと推測される。この山稜、現在は東西共に陸に囲まれているが、当時は海に面していたと思われる。
更に東側は殆ど平野部がなく、山稜の麓は直に海となっていたと推測される。
それを根拠に「烏奴國」は西側、現在の武雄市橘町辺りと推定した。この島の周辺が広々とした水田になるにはかなりの時間を要したのではなかろうか。
「奴國」、再びの「奴國」同じ or 異なる、と諸説があるようだが、女王國の尽きるところと記載される以上、同一ではあり得ない。そんなことを思い浮かべながら、探すと、何とも奇妙なところが見つかった。現地名の杵島郡白石町、この山稜から突き出たところ。この突き出たところの上部でのみ住まうことができたように思われる。
海産物が豊かな場所だったのかもしれない。いずれにしても特異な地形である。それを示したかった?…そうかもしれない・・・。地図では省略されているが、この国の直ぐ南は「狗奴國」に近接する場所である。
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あらためて冒頭の全地図を眺めると、有明海の北~北西沿岸にずらりと並んだ国々を示していることが解る。「邪馬壹國」、古田武彦氏の本を手にしてから、早五十年の歳月が流れた。色々と疑問なところも感じながら、原本(写本)に忠実に解釈する姿勢に、そして読み替えることなく解釈できるということに、日本の古代史は解釈不能に陥ると誤写だとする学問と知らされた。
その後四十五年間、とんとご無沙汰している間に、全くの様変わりをしていたことに驚きを隠せなかった。いや、その変貌ぶりが、現在あらためて古代の日本を見つめてみようと言う作業を後押ししているような感覚である。古文書を解釈する手法に何らの工夫もなく、現地名との類似性が頼りの読み解きに埋没している。
漢字学にしても、相変わらず白川漢字学(学とは言い難いが…)が持て囃されているようである。古事記にも魏志倭人伝にも「奴」が多用される。所詮は中華思想による卑字と片付ける前に、何故「奴」を?…と問う記述が見当たらない。嶋だらけの日本には、多様な「奴」の地形がわんさとある。
古事記と魏志倭人伝、何とか自分なりに納得できる解釈を行えたように思われるが、まだ他にもある。知力・体力の続く限りに追及してみようかと思う。
<旁國> |
・・・と推定される。例えば「巳百支國」は、吉野ケ里遺跡のあるところなど、古有明海に臨む緩やかな傾斜地、そこに多くの人々集まり住まっていたことを伝えている。その中心の地にあったのが「邪馬壹國」であったことが示されている。
…流石にこれらの地名の比定は学術論文にはし難いようで、現在の類似地名で当てて行くと言う手法しか見出せていない以上、サイトの検索では幾つか見出せる程度である。
さて、これらの旁國の地名を『古事記』で読み解くのであるが、大半がそこに出現した文字であることが判る。勿論漢字の持つ多様性に準じて些か解釈が異なる場合もあろうが、漢字の原義を違えていることはあり得ないであろう。いや、それが違っているなら、『古事記』では読み解けない、と言える。
斯馬國・都支國・伊邪國・好古都國
地図上の東側から①斯馬國、④都支國、③伊邪國、⑥好古都國の場所を求めた結果である。現地名では佐賀県の鳥栖市~三養基郡に跨って広がる古有明海の東北部に位置する。
「斯馬國」の「斯」=「其+斤」と分解され、「(斧で)切り(箕で)分ける」と解釈する。古事記で頻出の文字である。別天神の一人、宇摩志阿斯訶備比古遲神、また大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の和風諡号などに含まれる。「馬」は、それぞれが馬の背のように二山になっていると見做したと思われる。斯馬國=馬を切り分けたところと解釈される。現地名は鳥栖市村田町辺りである。
「邪馬壹國」、また奴國の官名「兕⾺觚」などは平面的に捉え、「投馬國」また對海國の別表記「對馬國」などは垂直面的に捉えていると思われる。いずれにしても地形象形する「馬」の登場の頻度は高い。身近な、そしてその身体の特徴が地形、とりわけ山稜を表すことに都合が良いのであろう。それは現在に通じるようである。現天皇陛下の最も好まれる山の一つ、甲斐駒ヶ岳にも含まれている。
<斯馬國・都支國・伊邪國・好古都國> |
ありふれた地形で、特定し辛いかと思えば、意外に特徴的な場所が見出せる。現地名は三養基郡白壁辺りと思われる。
続く「伊邪國」の「伊邪」は、そのものズバリが古事記で用いられている。
若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が坐した伊邪河宮である。伊邪國=僅かに曲りくねるところと読める。
現地名は三養基郡東尾辺りであろうが、おそらくその中心は南部であって、「都支國」の西側に当たるところではなかろうか。
「好古都國」の「好」=「女+子」と分解される。「好」そのものは古事記に登場しないが(地形象形外で1回のみ)、分解すれば頻出の文字となる。「子」=「生まれる」の意味だが、地形象形的には「生え出る」と訳す。「好」=「嫋やかに曲がる(山稜)から生え出たところ」と読み解ける。
「古」は古事記頻出であるが、二通りの解釈がある。一つは「古」の原義「頭蓋骨」の象形から「丸く小高い地形」と読む。二つ目は「古」=「固」として「固める、定める」の意味を表すとする場合である。「都」=「集まる」とする。
ここでは前者が適するであろう。好古都國=嫋やかに曲がる(山稜)から生え出た丸く小高い地が集まるところと読み解ける。現地名は三養基郡原古賀辺りである。「古」は残存地名かもしれない。ところで「好古都國」=「コウコツコク」とでも読むのであろうか・・・。
この地には四つの大河が流れる。東から沼河、通瀬川、寒水川、切通川である。なだらかな斜面を流れて古有明海に注ぐ。これらの川沿いに広大な耕地が作られていたのであろう。内海に注ぐ川、豊かさが手に取るように判る地形である。
古事記の舞台、九州東北部は急斜面の山麓が直ちに海、川に届く地形である。唯一の内海は洞海(湾)だが、これも急峻な谷で囲まれた地形であった。この地形差から生じる人々の生き様の違いが日本の古代の原風景であろう。いつの日かそんな目で眺めてみようかと思う・・・。
彌奴國・巳百支國・不呼國
上記の四つの国が納まってくれると「旁國」の比定は否応なしに加速する。⑤彌奴國、②巳百支國、⑦不呼國を紐解いてみよう。
「彌奴國」は倭人伝で頻出となる文字列、そのまま彌奴國=広がり渡る山稜が腕(手)にように延びたところと読み解ける。その通りの地形が「好古都國」の対岸に見出せる。その中央を流れる井柳川の両岸かどうかは定かでないが、実になだらかで広大な地であることには変わりはないようである。
田手川を挟んで「巳百支國」があったと推定する。「巳」=「蛇のようにくねる」と読める。次の「百」は何と解釈するか?…古事記の「百」=「一+白」と分解して「一様に並ぶ丸く小高いところ」と紐解いた。
いくつか例示すると大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)紀に登場する五百木之入日子命の「五百木」に含まれる。この地は伊豫国に当たる。また神代紀の八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠の「五百津」にも含まれる。
ちょっと違ったところでは品陀和氣命(応神天皇)の御子、若野毛二俣王が娶った百師木伊呂辨にも含まれている。全て上記の解釈と思われる。頻度高く使用されることから、汎用的に使われるのではなかろうか。それが倭人伝に通じるか?・・・。
<彌奴國・巳百支國・不呼國> |
その先端部に、世間ではここが邪馬台国、いや、伊都国などといわれる吉野ヶ里遺跡がある。現地名は神埼郡吉野ヶ里町である。
魏志倭人伝の表記も地形象形していると、ほぼ確信に至ったようである。
「不呼國」は頻出の文字の組合せであろう。不呼國=花の胚のような形が曲がりながら延びる山稜の端にあるところと読み解ける。図に示した通りの場所と思われる。現地名は神埼市神埼町とある。
吉野ヶ里遺跡は、邪馬壹國であったり、伊都國であったり様々に比定されている。奈良大和の遺跡も含めて、それが発見・発掘されるたび比定地として騒がれる。そしてなんら課題解決には至らない。古代は浪漫、それはいつまで経っても不詳であることを意味するようである。
姐奴國・呼邑國
次は⑧姐奴國、⑪呼邑國である。「姐奴國」の「姐」の文字は古事記に登場しない。「姐」=「女+且」と分解すると関連する文字となって来る。「且」は「段々になっている様」を象形した文字と解釈する。古事記では伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの粟國、その別名大宜都比賣の「宜」に含まれる。図に示したように山稜の端が段になって並んでいる様を模した表記と思われる。
姐奴國=嫋やかに曲がる腕(手)のような山稜が段になって並んでいるところと読み解ける。現地名は佐賀市金立町辺りと思われる(図拡大)。
<姐奴國・呼邑國> |
「囗」は「ある区切られた地」を示し、「小高いところ」と訳すことにする。
「巴」は後にも登場するが、「蛇が這っている様」で「巳」と比べるとより蛇行した様を示すと思われる。
呼邑國=曲がりながら延びる山稜の端で小高いところが大きく畝って連なるところと読み解ける。この地には古墳もあり、山と海の恵みが豊かなところであったと推察される。
現地名は佐賀市大和町辺り、北西部に当たる場所である。嘉瀬川は背振山地の西部の台地を貫き、有明海に注ぐ大河である。この地も人が住まうのに実に恵まれた自然環境を有していたようである。
華奴蘇奴國・蘇奴國・對蘇國
⑫華奴蘇奴國、⑪蘇奴國、⑨對蘇國に共通する文字は「蘇」である。古事記の中でも重要な文字の一つである。登場するのは建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰に含まれる。後の宗賀一族(一般的には蘇我一族)の礎となった地の名前である。「蘇」=「艹+魚+禾」と何ともごちゃまぜの文字構成である。
「蘇」は古代の乳製品を表すと言われる。乳固形分と水とが入り混じったものである。「蘇生」は生と死が混在するところか「よみがえる」の意味を表す。実に奥深い意味を示す文字なのである。これを地形象形に用いた。即ち「(いろんなものが)寄り集まったところ」としたのが古事記である。「蘇賀」=「山稜が寄り集まった谷間にある田の地」と解釈できる。
その他にも神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった「阿蘇」、阿蘇山ではない。「山稜が寄り集まった台地」であり、古事記でよく知られる「阿多」(隼人の出自に関る)の別名となる。
<華奴蘇奴國・蘇奴國・對蘇國> |
尾根が曲がると稜線が寄り集まるように山麓に延びる、これは自然の造形であろう。それを「蘇」と表記した。
古事記を含めた古代人の地形認識であろう。真に悔やまれるのが、この認識をくちゃぐちゃにしたのが日本書紀なのである。
華奴=花のような大きく腕(手)が曲がりながら延びたところであり、對蘇=ギサギサの先端の様々な山稜が向き合っているところと読み解ける。そして素直な「蘇奴國」となっている。
「蘇」と表現される地形は長く延びて大きく湾曲した尾根の麓に発生することが解る。『古事記』が記した「蘇賀」の地形、倭人達に共通する地形表記であろう。また、これら三国が揃っていること自体が推定場所の確からしさを物語っているように思われる。現地名は小城市小城町である。
鬼國・為吾國・鬼奴國
⑬鬼國、⑭為吾國、⑮鬼奴國、さて「鬼」の登場である。この文字そのものは古事記に出現しないが、関連する文字が使われる。速須佐之男命が神大市比賣を娶って誕生した宇迦之御魂神の「魂」に含まれる。「大きく丸い頭に手足が付いている」様を象った文字と解説される。現在の北九州市門司区にある桃山を含めた「三つの桃」形の山を表すと推定した。
<鬼・一大> |
また明瞭な稜線が長く延びていて、「鬼」の文字形を示していることも伺える。
調べるとこの山は霊場として、英彦山系列の修験道の場所として名高いことも判った。
現在は頂上付近にまで車道が通じている(かつてはキャンプ場があったとか)ようだが、地形的にはなかなか急峻な斜面と思われる。
地質的には、かなり古い時代の火山帯(背振山西側)であって、現在の池のところが火口部なのかもしれない。更にほぼ同程度の標高で奥作礼山があり、周囲を遮る山もなく、なかなか優れた山容をしているように見受けられる。
ここを鬼の頭として挙げられた国は当て嵌まるのであろうか?…山麓辺りの地形を眺めながら探すと、極めて興味深い文字使いがなされていることが解った。
<鬼國・為吾國・鬼奴國> |
加えて傾斜地にも関わらず、その面積は広く開かれているように伺える。背振山地の南麓の様相とは全く異なる地形に人々が住まっていたのであろう。
「為吾國」は何と紐解くか?…「吾」は古事記に登場する。天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した、天神族奔流の正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命に含まれている。
「吾」=「五+囗」と分解され、「五」の古文字は「X」の字形(図参照)であると知られる。山稜が作る形で交差するようなところを示していると解釈する。
「鬼國」の直下に岩詰・詰ノ本と言う地名がある。山稜がくっ付くように寄り合い、細い谷間を「為」(形成している)場所である。
これを「為吾」と表記したのではなかろうか。複数の山稜が寄り集まって形成される特異な地形、谷間であることが解る。「五」=「X」やはり古事記と全く同様の表記がなされているようである。
「鬼奴國」は更に麓に近付いた谷間を表していると思われる。現地名は厳木町浦川内である。鬼怒川なんて言う聞き慣れた川があるが、案外上記のような由来なのかもしれない。勿論そうは伝えられてはいないが・・・。
一大率
ところで作礼山の西南麓に「伊都國」が配置されると読み解いた。それで思い出させられるのが、この国に「一大率」が置かれていたと記述される。原文は…、
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
…である。この文字列の解釈も依然スッキリとはしていない状況のようである。
「一大國」は壱岐島であると、ほぼ異論なく認知されている。ただ、それは対馬からの行程からして間違いない、と言うことであって、「一大」の意味は不詳であろう。前記で「一大」=「一+大」=「天」と読み解き、一大=一様に平らな頂の山稜(麓)と解釈した。天(阿麻)=擦り潰された台地の表記に繋がることが解った。
すると「一大率」の「一大」も同じであろう・・・「平らな頂の山稜(麓)」、作礼山(~奥作礼山)の頂を示していると紐解ける。上図に、薄く色付けした場所を示す。一大率=平らな山の統率者(かしら、おさ)と読み解ける。即ち、鬼國のかしら、おさを意味することになる。だから「諸國畏憚之」したと述べているのである。
もう少し、憶測が許されるなら、鬼=鉄と置換えられるかもしれない。天石屋に坐していた伊都之尾羽張神は刀工であり、天照大御神は天石屋に隠れる。鉄は国家なり、なのである。鉄の支配が国を治めることであった時代、いや、近代まで続く普遍の事柄である。更に厳木町岩屋(JR岩屋駅)もある。全て揃っている?…かもしれない。
「伊都」と「一大」と「鬼」、これらのキーワードは邪馬壹國連合の超機密事項に関連する。些か曖昧に、かつ最低限の記述を倭人伝著者が行ったと受け取るべきであろう。定説化している「伊都」=「糸、怡土」では、全く見えて来なかった古代の姿である。
邪馬國・巴利國・支惟國
⑯邪馬國、⑱巴利國、⑲支惟國に進む。「邪馬國」はあまり深く考えることなく「邪馬壹國」の裏側、馬の背の部分であろう。この地は古有明海の深く入り込む入江の口に当たる場所であって、細かく分かれた稜線の合間(谷間)が豊かな地である。
流石に斜度が大きく、現在も池が多く作られている。正にこんな地形が古事記の舞台なのである。古事記ならもう少し凝った名前にしたのかもしれない・・・。現地名は杵島郡大町町辺りである。
<邪馬國・巴利國・支惟國> |
「利」=「稲を刃物(鋤など)で刈取る」様を表していると解説される。
筋目がくっきりと見える山腹を示している。
巴利國=大きく曲がって畝る山稜の間が鋤取られたようになっているところと読み解ける。現地名は武雄市北方町辺りである。
「支惟國」について、これも文字は違えど、古事記風である。「惟」=「心+隹」と分解される。「中心にある小鳥」と解釈される。
「支」=「延びた山稜」であるが、図に示した構図では「小鳥を支えている」ようにも見受けられる。これで支惟國=中心にある小鳥を支えるところと読み解いておこう。現地名は北方町と朝日町に跨るようである。
<躬臣國> |
躬臣國
⑰「躬臣國」の「躬」=「身+弓」と分解される。
「身」=「身籠る」とすると「躬」は「弓の地形が身籠ったようなところ」と読み解ける。
「臣」=「目の地形」とすれば、躬臣國=弓の地形が身籠ったようなところの傍らにある目の地形と紐解ける。
そのままの表現で現地名の武雄市武雄町に見出すことができる。「躬」は古事記に登場しないが、分解するとそれらしき地形象形表記になると思われる。
一方「臣」は頻出する。「臣」は尊称の一つとされる。がしかし、「臣」=「谷間の入口」を示し、そこに坐していたことを表す文字と紐解いた。多くの神、命が住まうには適した土地だったと思われる。
<烏奴國・奴國> |
烏奴國・奴國
⑳烏奴國、㉑奴國で最後である。「烏奴國」は烏の形を模しているのであろう。武雄市と杵島郡に跨る山稜がある。
その山稜の形、特に北側の部分を烏に見立てたと推測される。この山稜、現在は東西共に陸に囲まれているが、当時は海に面していたと思われる。
更に東側は殆ど平野部がなく、山稜の麓は直に海となっていたと推測される。
それを根拠に「烏奴國」は西側、現在の武雄市橘町辺りと推定した。この島の周辺が広々とした水田になるにはかなりの時間を要したのではなかろうか。
「奴國」、再びの「奴國」同じ or 異なる、と諸説があるようだが、女王國の尽きるところと記載される以上、同一ではあり得ない。そんなことを思い浮かべながら、探すと、何とも奇妙なところが見つかった。現地名の杵島郡白石町、この山稜から突き出たところ。この突き出たところの上部でのみ住まうことができたように思われる。
海産物が豊かな場所だったのかもしれない。いずれにしても特異な地形である。それを示したかった?…そうかもしれない・・・。地図では省略されているが、この国の直ぐ南は「狗奴國」に近接する場所である。
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あらためて冒頭の全地図を眺めると、有明海の北~北西沿岸にずらりと並んだ国々を示していることが解る。「邪馬壹國」、古田武彦氏の本を手にしてから、早五十年の歳月が流れた。色々と疑問なところも感じながら、原本(写本)に忠実に解釈する姿勢に、そして読み替えることなく解釈できるということに、日本の古代史は解釈不能に陥ると誤写だとする学問と知らされた。
その後四十五年間、とんとご無沙汰している間に、全くの様変わりをしていたことに驚きを隠せなかった。いや、その変貌ぶりが、現在あらためて古代の日本を見つめてみようと言う作業を後押ししているような感覚である。古文書を解釈する手法に何らの工夫もなく、現地名との類似性が頼りの読み解きに埋没している。
漢字学にしても、相変わらず白川漢字学(学とは言い難いが…)が持て囃されているようである。古事記にも魏志倭人伝にも「奴」が多用される。所詮は中華思想による卑字と片付ける前に、何故「奴」を?…と問う記述が見当たらない。嶋だらけの日本には、多様な「奴」の地形がわんさとある。
古事記と魏志倭人伝、何とか自分なりに納得できる解釈を行えたように思われるが、まだ他にもある。知力・体力の続く限りに追及してみようかと思う。