2019年9月28日土曜日

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅲ) 〔373〕

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅲ) 


前記までで「邪馬壹國」及びその「旁國」の全体像が見えて来たように思われる。今回は、更に各国の詳細を眺めてみようかと思う。と言っても原文は極めて簡略な記述であり、手掛かりは登場する「官」の名前であろう。おそらく、いやきっと名付けられた名前は地形に基づくものと思われる。古事記に類似するならば・・・。

①對海國、其⼤官曰卑狗、副曰卑奴⺟離
②⼀⼤國、官亦曰卑狗副曰卑奴⺟離
③伊都、官曰爾⽀、副曰泄謨觚柄渠觚
④奴國、官曰兕⾺觚、副曰卑奴⺟離
⑤不彌國、官曰多模、副曰卑奴⺟離
⑥投⾺國官曰彌彌、副曰彌彌那利
⑦邪⾺壹國、女王(卑彌呼)之所都、官有伊⽀⾺、次曰彌⾺升、次曰彌⾺獲⽀、次奴佳鞮
⑧狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗
⑨狗奴國、男王卑彌弓呼素
卑弥呼宗女壹與

古事記に頻出する文字もあれば見慣れぬものも見受けられる。さて、どうなるか、中心の国、「邪馬壹國」から北方に向かい、後に他の国を紐解いてみよう。
 
邪馬壹國

「牙のある馬が蓋をするような」姿をした国と紐解いたが、さすが女王の住まう地で「官」の数が最も多い。の宗女「壹輿」も含めて配置してみたのが下図である。女王「卑彌呼」は何と読み解けるか?…超有名な女王について、様々に語られて来ているが、天照大御神と同一人物にまで発展しているとか・・・。

現在からすればとても名前に用いられている文字列ではない。それは古事記も全く同様であり、間違いなく地形象形した表記であることを伺わせる。
 
<邪馬壹國>
「卑」の文字は天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生したとされる天之菩卑能命に含まれている。

「卑」は通常「卑しい」の意味で使用されるが、低く平らな、薄く扁平なが原義と解説される文字である。

山稜の端で低く平らな地形を示していると解釈される。既出の彌=広がり渡るである。

「呼」の文字は古事記に登場しない文字であり、「呼」=「口+乎」と分解される。「乎」=「∴(小さなもの)+丂」と分解される。

これから「呼」=「口から何か小さなものが曲りくねりながら出る」様を表す文字、即ち「呼ぶ」になったと知られる。地形象形的には「曲りくねる山稜の谷間から生え出た地形」を示していると解釈される。纏めると、卑彌呼=低く平らに広がる台地が曲がって延びる山稜の谷間から生え出たところと解読される。

これらの地形要素を満たすところを求めた結果が上図に示した場所、現在の多久市南多久町の牟田辺と推定した。現在も延々と続く「邪馬台国論争」そして何と500ヶ所以上もある候補地、だが卑彌呼の居場所までは突止められてはいない?…ようだが・・・。

四人の官名が記される。「伊」=「僅かに」、「支」=「分ける」とすると伊支馬=僅かに「馬」を分けるところと紐解ける。古事記の壱岐島の国名「伊伎國」=「僅かに分かれた国」と読み解いた。東西に流れる川によって南北が分断されているように見える島なのである。「伊支馬」は、現在の天ヶ瀬ダムがある深い谷間、その下流の地に居たと推定される。現地名は多久市南多久町大字長尾辺りである。

「彌馬」=「広がり渡る[馬]」として「邪馬壹國」を表すとする。「升」=「斗+一」と分解される。古事記に頻出の斗=柄杓の地形と読み解いたが、それに「一」が加わる(図中の古文字参照)。見事に合致する地形が見出せる。彌馬升=広がり渡る[馬]の地で[升]の形のところと紐解ける。現地名は多久市東多久町大字納所辺りである。

「彌馬」が続く。「獲」=「犬+蒦」と分解される。「蒦」=「枠で囲む」の意味を持つとされる。通常は「犬」=「犭(獣)」の代表しているが、「犬」=「平らな頂の山稜(麓)+小高いところ」、は「大」の変形と見做している。「獲」=「平らな頂の山麓の枠で囲まれたようなところ」と読み解ける。

纏めると彌馬獲支=広がり渡る[馬]の地で平らな頂の山麓が延びた山稜で囲まれたところと紐解ける。最後の「支」=「山稜が延びたところ」である。現在の天満宮のある延びた山稜で囲われた地となっている。実にきめ細やかな表記であろう。現地名は多久市東多久町大字別府である。

既出の「奴」=「腕(手)のように曲がって延びる山稜」として、古事記には全く出現しなかった文字列に進む。「佳」は何と読めるか?…通常は「美しい、優れている」などの意味を示すのだが、地形象形的ではない。そもそも「佳」=「人+圭」と分解され、更に「圭」=「土+土」となる文字から何故「美しい」の意味が生じたのであろうか?…そこに解がありそうである。

「土+土」はピラミッド状に積み重ねた様を表すそうで、奇麗に整った情景を示すと解説される。角がスッキリして、「∟」、「∠」の形である。即ち「佳」=「角、隅」を表していると読み解ける。「鞮」=「革+是」である。「革」は動物の革を展ばした図形を示し、「廿」は頭、その以下は胴体、手足を模していると解説される。

「是」=「匙」であって、スプーンの形を示す。すると「鞮」=「大きな頭の[匙]のような形」を示している。地形象形的には「山稜の端が動物の大きな頭のようなところ」と読み解ける。全て纏めると奴佳鞮=角にある曲がって延びる山稜の端が動物の大きな頭のようなところと解釈される。現地名は多久市多久町である。

「邪馬壹國」の中に奇麗に女王と「官」が納まったように見受けられる。また「官」は中央の女王の場所を挟むように、「馬」の頭、脚の先に鎮座していたことも解った。流石の布陣であろう。卑彌呼の宗女「壹輿」も同じく地形を示していると思われる。

輿=牙とされる。何とも理解し辛いことなのだが、「牙」が噛み合っている様から「物のやり取り」を表し「与える」と言う意味に用いられるようになったと解説される。これで解けた。正に「壹」=「谷間に蓋をする」ような「牙」の位置を表していると解釈される。従来では「臺輿(台与)」とされる場合がある。がしかし、これでは本来の居場所は伝わって来ない。「壹」と「臺」の問題もどうやら決着したようである。
 
不彌國

満開の花のような国、である。複数の山稜が並ぶ国に「多模」と副の「卑奴⺟離」の「官」が居たと伝える。「多」は古事記に頻出の文字である(339回;「王」386回)。「山稜の端の三角州」と読み解いた。果たしてそれが通じるのか?…これが適用されるとなると、ほぼ間違いなく「魏志倭人伝」中に用いられた倭の地名・人名は地形象形表記と確信されるのだが・・・。
 
<不彌國>
「模」=「木(山稜)+莫」と分解される。「莫」=「隠れて見えない」様を表す文字と解説される。

「墓」(土で隠れて見えない)に含まれる。ならば「模」=「山稜で隠れて見えない」と読み解ける。

言うまでもなく「木(山稜)」は古事記に頻出、かつ最も重要な文字である。

狭い谷間から僅かに見える三角州の山稜の端の地形が見出せる。現地名は多久市北多久町である。

「不彌國」では花が咲き誇って、谷間が狭いようであるが、最も狭いところと推定した。逆に満開の花の地にこそ生じる地形なのであろう。

そして日本列島に定着した倭人達は、白紙の地に漢字を用いて地名及びその地を出自に持つ人名としたことが解る。古事記は、その伝統・文化を忠実に踏襲したと推察される。蛇足だが、日本書紀はそれに該当しない。

「卑奴母離」は幾度か登場する。当然解釈は同じでなければならない。「卑」、「奴」は上記と同様。「母」は古事記にもそれなりの頻度で登場する。代表的な例を…大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が和知都美命の比賣、蠅伊呂泥(意富夜麻登玖邇阿禮比賣命)を娶って夜麻登登母母曾毘賣命が誕生する。また黄泉國に居た豫母都志許賣にも「母」が含まれていた。

「母」=「女+・+・」と分解される。女性が乳飲子を逞しい、いや頼もしい両腕で抱える様を象形した文字と解説される。地形象形的には、その両腕が強調されたものと読み解いた。「離」は腕が閉じているところが開いた状態を示すのであろう。
 
<奴國>
卑奴母離=低く平らな山稜の端で母の両腕で抱え込まれたような地が開いたところと紐解ける。

多久市東多久町に見出せるその地は、古有明海に面する港の機能を持っていたのであろう。

そこに「副官」が居たことも併せて重要な意味を示しているように伺える。
 
奴國

「官」に「兕⾺觚」、副に「卑奴⺟離」が居たと記されている。「兕(ジ)」=「一角獣」なのだそうである。それを頼りにして見ると、「馬」の地形(若干ゴルフ場となって曖昧さはあるが…)とその頭部が見出せる。

觚」=「角+瓜」とすれば、「角が瓜の形」と読める。その通りの地形を表していることが解る。現地名は多久市多久町とある。「卑奴⺟離」を探すと図に示したところではなかろうか。現地名は多久市西多久町である。

兕⾺觚=瓜の形をした角がある[馬]のような地形と紐解ける。兕⾺」は「一角がある馬」を示す。「邪馬」は「牙がある馬」、また上記の「彌馬」は「広がり渡る馬」と解釈された。「〇馬」は「〇形をした馬の地形」を表しているのである。それが倭人伝の表記法である。「邪馬(ヤマ)」→「山」などの置換えは、全くの誤りである。
 
伊都國

「伊都國」は、Wikipediaによると…、

伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』にみえる倭国内の国の一つである。『魏志倭人伝』によれば、末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)付近に比定している研究者が多い。 

…と記載されている。「邪馬壹國」の所在を九州内に求めようが、はたまた奈良大和に持って来ようが、この地までは大きな違いがないと、通説化しているようである。
 
<伊都國>
既に述べたように「伊都(イツ):燚」と読む。古事記の「伊都之尾羽張神」に登場する表記と推定した。

「伊都」は火山の集まったところであり、極めて特徴的な地形表現なのである。アジア大陸の辺境にあって、プレートがひしめき合うところでマグマが地表付近に迫る場所なのである。

大陸の住人がこれを文字にしない、筈がない・・・妄想はこれくらいにして・・・。

さて、「官」が「爾⽀」、「副」が「泄謨觚柄渠觚」と記述される。

「爾」=「近い」の意味を示す。類似では邇邇藝命に含まれる「邇」が古事記に頻出する。

「支」=「分れる、枝稜線」の両方で同じ地形を表現できる。爾支=接近して分れる・枝稜線が接近するところである。現地名は唐津市厳木町(きゅうらぎまち)本山である。

副官の「泄謨觚柄渠觚」は何と読み解けるであろうか?…「泄」=「洩れる、漏らす」、「謨」=「言+莫」だから上記の「模」と同様に解釈すると「[言]で隠れて見えない」となる。古事記で頻出の「言」=「刃物で耕地にする」と読み解いた。「謨」=「耕地で隠れて見えないところ」を表す文字と紐解ける。

觚」も上記で登場、「角が瓜」である。山稜を何らかの動物の角に見立てて、それが「瓜」の形をしていると表現していると思われる。すると泄謨觚=辛うじて見える耕地で隠された「瓜」の形をしたところと読み解ける。現地名は厳木町岩屋とある。

「柄」=「木(山稜)+丙」と分解される。「丙」=「囲われた地で二つに分かれる」様を象った文字と解説される。「渠」=「溝」の意味である。柄渠觚=囲われた地で二つに分かれる溝の傍らにある「瓜」の形をしたところと読み解ける。上図に示した場所の地形をくどいくらいに説明している文字列と思われる。

実にきめ細かい表記と感じられるのは、上記の「模」は山稜に挟まれた狭い谷間であったが、この地は同様に狭い谷間なのだが、その出口は水田地帯となっている。現在地図から当時を偲ぶには些か時間が経っているが、同様の状態であったように思われる。古事記に比べて直截的に感じられるが、古事記編集者の趣向に拠るものか?・・・使者が倭人の言葉を素直に取ったとすれば、何となく理解できそうな気分である。

末盧国には「官」がいない。伊都國が兼ねていたのかもしれない。ところで厳木町(きゅうらぎまち)と読むそうなのだが、「厳」は「イツ」とも読める。唐津市のサイトに…、

唐津市厳木町厳木(きゅうらぎまちきゅうらぎ)2010年現在

「厳木」という文字はどうしてあてられたのでしょうか。「松浦記集成」によれば、松浦川の西厳木に開闢(かいびゃく)以来という大楠があり、切り倒した時に川を越えて東に渡り今の厳木に及んだといいます。人間の尊厳さ同様の厳(いつ)かしさがあったので、清らかなる木、「きよら木」が語源だとされています。

…と書かれている。本ブログ主は、「燚」と叫んでいる様子である。
 
<一大國>
一大國

「一大」=「一+大」=「天」の文字遊びは、実にお気に入りである。従来よりこの地は壱岐島としか考えられないとして、記述された文字の示す意味を解読された例が見当たらないようである。

官は「卑狗」、副は「卑奴母離」と記される。「狗」は「狗奴國」と同様に「平らな頂の山稜が[く]の字に曲がったところ」と読める。

簡単そうなのだが、地形的に見合う場所を壱岐島全体から見出すことは、かなり困難を伴う。

むしろ「卑奴母離」の地形がそれを助けてくれたようである。この地形は容易に見出せて、現在の勝本町本宮西触にある火箭の辻の北麓を示していると解る。

それが見出せると「卑狗」は、その北側の本宮山の麓が浮かんで来た。気付けば、低山ばかりだが、平らな頂となっている場所は極めて希少であった。

ところでこの地は大国主命の後裔達が住まっていた場所と読み解いた。新羅国を彷徨った系譜は、最後に「天」に舞い戻り、終焉を迎える。
 
<大国主命の娶りと御子④:天>
布忍富鳥鳴海神(新羅の王子)は若盡女神(本宮山)を娶って天日腹大科度美神(火箭の辻北麓)を誕生させる。

その御子が遠津待根神を娶って遠津山岬多良斯神(タンス浦北側)を誕生させて系譜は閉じることになる(当時の壱岐の主たる港は勝本港ではなくタンス浦では?)。

即ち古事記はこの地が天神一族の末裔が住まっていたところと告げているのである。少々憶測の域になるが、使者を導いたのは天神一族と考えられる。

中国本土から遁走した彼らがすべきことは、中央の山地で分断された九州東部を案内するのではなく、西部に誘導した、と考えられる。

不彌國から投馬國まで「水行二十日」、裸國黑歯國まで「船行一年」の記述は、天神達の策略を物語るものではなかろうか。魏志倭人伝と古事記、行間にある深い繋がりを伝えているようであるが、後日の課題としよう。
 
對海國

記述は簡略である。ギザギザの山稜の端が突き出た海では、入江となってはいるが、陸に平地がなく、とても旅の途中で休息できる環境ではなかったであろう。古事記で求めた津嶋縣直は現在の阿須浦にあったと推定した。津を抜けてすぐの入江である。
 
<對海國>
官は「卑狗」、副は「卑奴母離」と一大國と全く同じである。

この狭い地で求めた場所は図に示した通りである。数少ない山稜の端の地形が、幸運にもこれらの文字列の地形を示してくれている。

現地名は対馬市厳原町(いづはらまち)である。

天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天之菩卑能命の息子、建比良鳥命が祖となった地として記載されている。

天神達の息のかかった場所としているのである。官、副は使者から見た表現なのであろう。

再び倭国に戻って「邪馬壹國」から南の国について述べてみよう。女王國に属さない「大乱」を惹き起す国「狗奴國」である。
 
狗奴國

⑧狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗
⑨狗奴國、男王卑彌弓呼素

と二度にわたって記載されている。⑧の王名は記されていないが、官名が記される。いずれにしても「王」が居たわけで「邪馬壹國」の女王と対峙する形式であろう。何だか同じような名前・・・住まうところの地形が類似するからである。
 
<狗奴國>
官名「狗古智卑狗」に含まれる「古」は古事記で「丸く小高いところ」を意味する。頭蓋骨の象形とされている。

興味深いのが「智」である。古事記では「智」=「矢+口+日(炎)」と分解し、「矢+口」=「矢の口」=「鏃」と紐解いた。

狗古=[く]の形に曲がった平らな丸く小高いところであり、智卑狗=[鏃]の形の低く平らな[く]の形に曲がったところと読み解ける。

どうやら「日(炎)」は省略気味のようであるが、この二つの地形が寄り合うところを表していると解釈される。

卑彌弓呼素」は何と紐解けるであろうか?…「弓」は別として登場していないのは「素」の文字で、これは「稲羽之素菟」に用いられた文字である。「白」ではなく「素(モト)」の意味と解釈した。「素」の文字解釈は決して単純ではないようで、「素」=「垂+糸」で生糸の作成に関わる文字とのことである。即ち糸を垂らして乾燥させているところを象形するとされる。

それから「白」、「素(モト)」などの意味を派生して来ていると解説される。図を見ると、実に単刀直入に生糸を垂らしている様を示していることが解る。谷間の両脇にある曲がる(奴)山稜を糸に見立てた表記である。

卑彌弓呼素=低く広がる台地が弓なりに糸を垂らすように山稜が谷間から生え出たところと読み解ける。確かに「卑彌呼」に対して更に地形表現が付加された名前となっている。がしかし、谷間の先にある小高く平らな地形、それが「王」が住まう場所であることを伝えているのである。
 
<投馬國>
投馬國

さて、最後に「投馬國」にも官名が記載されている。官は「彌彌」、副は「彌彌那利」とある。

この地は雲仙岳の噴火によって流れ出た溶岩が大地を作り、それが浸食されて形成された地表面を示していると思われる。

実に広々とした平坦な地形であり、それを実に簡明に「彌」と表現したのであろう。二つあるように見受けられる地形を「彌彌」と表し、それを官名に用いた。

やや地形的特徴が大規模過ぎて個々の官及び副官の居場所を求めるには不向きなのであるが、それらしきところ図に示した。

一見難解に見えた文字列も、古事記の記述に準じて地形象形表記として読み解けたように思われるる。そしてそれぞれの国の詳細に入り込めたことにより、魏志倭人伝が記す内容と古事記の記述が、実は見事に繋がっていることも伺い知れた。勿論、推測の域に入ることになるが、これら二書に記載された内容を同じルールで解読されたことは(一部未読だが…)、間違いなく日本の古代を知る上において重要な役割を果たすのではないかと、心密かに自負している次第である。