2019年9月24日火曜日

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅱ) 〔372〕

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅱ) 


前記で「邪馬壹國」は、現在の佐賀県多久市にあったと推定した。古事記の地形象形手法と類似して「邪馬」=「牙のある馬」の地形を表していると読み解いた。また「壹」=「吉(蓋+囗)+壺」と分解され、その「馬」が「壺のような谷間の出口で蓋をするように横たわっている」地を示していることが解った。

「壹」と「臺」の論争の中で、仮に「壹」とすれば、一体何を意味しているのかは、全く解き明かされて来なかったようである。いやむしろ「臺」の方が意味としては捉えやすく感じられたであろう。「壹」を主張するならば、そらが示す意味をあからさまにする必要があったのである。

魏志倭人伝は「邪馬壹國」のみに拘ることなく、「倭地」の全体を記述している。中国の皇帝に報告する上において肝心なところでもある。実地検分したかどうかを巧みに暈しながらの記述、使者の文章をじっくり味わって、読み解くことになる。
 
狗奴國

「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里」

「邪馬壹國」の南方に「狗奴國」があるのだが、そこは女王には属していないと告げている。後の大騒動もこの地が絡む。では何処にあったと推定できるか?…前記と同様にして「狗奴」の文字を紐解くころにする。
 
<狗奴國>
「狗」=「犭(犬)+句」と分解される。「犭(犬)」は古事記の猨田毘古大神・猨女君に含まれている。「平らな頂の山稜(麓)」と読み解ける。

邇邇芸命の降臨に際して登場する道案内役、猨女君は天宇受賣命が授かった別名である。

地形的には山稜の末端近く平坦になったところを示すと思われる。それが「句」=「勹+口(大地)」で「[く]の字に曲がった大地」を表している。

「奴」は頻出の「奴國」と同様に解釈できるであろう。この二つの地形が寄り集まったところを示していると思われる。現地名は佐賀県鹿島市である。

「狗奴國」の全体を知ることはできないが、「狗奴」の地を中心に長い谷間を利用して人々が住まうことができたのであろう。「邪馬壹國」と変わらない広さのように伺える。

「倭地」の詳細が語られた後に次の一文が続く・・・、

「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至」

・・・解釈は、正に百花繚乱の有様で、取り分け「邪馬壹國」(女王國)の東側が海に面してない説は苦戦の様相である。暫し「陸行」してから「渡海」するとか、「渡海」には海辺を歩くことも含む、九州北部の東岸まで…勿論奈良大和説では紀伊半島東部まで…支配していた、など・・・東に海がない場所は女王國ではない、とバッサリ切り捨てることであろう(例えば博多湾岸から朝倉市辺りに比定した説などなど)。

では、先に求めた現地名多久市の「邪馬壹國」は如何であろうか?…東はJR佐賀駅がある?…前記で南方が開いていると記したが、当然東も海に面していたと推測する。古有明海の状態は決して単純ではないが、遠賀川流域と同様に現在の標高10m前後まで「忍海」(古事記:海と川が混じり合うところ)と思われる。(地質の海成層調査から古代の有明海の海水準を見積もられた詳細な報告がある。こちらを参照)
 
<倭地・侏儒國・裸國黑歯國>
当時の海岸線が何処にあったかは推定の域を脱せないが、間違いないことは多久市の「邪馬壹國」の東側は海であったと思われる。

勿論JR佐賀駅の場所は海面下ということになる。この古有明海の様相こそが極めて重要な「倭地」の姿である。

登場する国名、距離・方角、行程期間などを読み解いてみよう。
 
侏儒國

渡海千里余りで倭種の国に届く。「倭地」である(詳細は下記)。

その南方にあるのが「侏儒國」と呼ばれる地だと述べている。

「小人国」と解釈される。記載された身長もそれを示していて、この解釈で疑いの目を向けられることはないようである。

女王國を去って四千里の距離と告げられる。女王國から東方の倭地までの距離を千里とすると、現在の熊本市辺りが該当することになる。勿論ここは倭種が住まうところではないことも告げている。

「侏儒」は「小人」で良いのであろうか?…登場する国名は地形象形しているのではなかろうか?…「侏」=「人+朱」と分解される。「木を斧で切る」の意味を示し、「切り株」を表す文字である。それから「短い、小さい」へと意味が展開すると解説される。小人に繋がる文字である。
 
<侏儒國>
ところが「朱」=「赤い(朱色)」の意味もあり、切り口の木の色から発生したとも解説される。
「朱砂」に含まれる。

「儒」=「人+雨+而」と分解される。儒教の「儒」で特殊な文字なのだが、強いて訳せば「柔らかい、穏やかな人」となろう。

「柔らかい」という意味は「而」から発生していて、これは「長く垂れた髭」の象形である。

「人」=「細長い谷間」を象ったと解釈される。古事記に頻度高く登場する地形象形である。

例えば大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が伊那毘能若郎女を娶って誕生した御子に日子人之大兄王が居た。吉備國の細長い谷間とその奥の地に坐した御子と読み解いた。

さて、これだけの要素から地形象形的には何を表しているのであろうか?…細長い谷間の傍らに赤いものが雨のように降って山腹を伝って流れて(垂れて)来たところと紐解ける。阿蘇山の噴火による流れ出る溶岩の地を表していると解る。「倭人」に「伊都(燚)」の認識があるならば、阿蘇山は欠かせないものであろう。それを「侏儒」と表記したのである。

もう一度「侏」の文字解釈に立ち戻ると、「侏」=「人+需」であり、「朱」=「断ち切られた様」と組合わせれば、侏=谷間が途中で断ち切られたような様と読み解ける。阿蘇の麓にある金峰山・立田山(おそらく噴火口)で谷間が途切れている(急に狭くなっている)様子が伺える。この地形を表していると思われる。幾重にも重ねた表記であろうが、巧みな文字使いであることには違いないようである。

「侏儒」=「小人」に拘るならば・・・確かに熊本に居た。がしかし追いやられ種子島に移住した(ホントに小人?)・・・何の痕跡も残さずに・・・のではなかろうか?・・・。
 

裸國黒齒國

その「侏儒國」から東南の方角に「裸國黑齒國」があったと言う。熊本市から東南方は宮崎市がピッタリと当て嵌まる。「裸で歯を黒くしている人々」が住まう地?…ではなかろう。上図に示したように「裸」=「衣を脱いで果物の(つるりとした)ような」様を表記する。地形的には山稜が途絶え、凹凸の少ない平野の有様と読み解ける。

「裸」に含まれる「衣」は、古事記に登場する重要な文字である。例示すると伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に登場した三川之衣がある。衣=山稜の端の三角州と読み解いた。「首と襟が作る形」を模していると解釈した。現在の北九州市にある足立山南西麓の地とした。勿論、豐國に含まれる。この地はすっかりと国譲りされて、現在の豊田市(かつては挙母の地名)辺りとなっているのだが・・・即ち、裸國=山稜の端の三角州が凹凸の少ない平野となっているところと読み解ける。

「黑」=「囗+米+土+灬(炎)」と分解される。前記で引用した古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が坐した黑田廬戸宮に含まれる。炎のように突き出た山稜の端の傍らを田にしたところと読み解ける。それが歯のように並んでいる様を表しているのである。地図からでは「裸」の国は現在の西都市辺り、それに加えて「黑齒」の地形は現在の宮崎市周辺となろう。実に的確な表記と思われる。

「侏儒國」から東南、直線距離は、せいぜい三千里?…「船行一年」と記述される。あり得ない距離と読んでしまうところである。がしかし、これは重要な意味を有している。「○千里」の表現とは異なる。類似の表現は不彌國から投馬國への「水行二十日」である。即ち「不彌~投馬國の距離」=「水行二十日」である。正確な距離は求め辛いが、多久市から宮崎市への船行距離は、概ね十数倍、およそ一年かかることになる(現在の宇土半島、当時は島として記載)

間違いなく実際に訪問した記述ではなく、伝聞であり、倭地の概略を詳らかにする試みであろう。「投馬國」は「邪馬壹國」からでも目視できた。あれが倭地の南限と教えられ、そこへの所要日数を確かなものとして、絵に描いた「裸國黑齒國」への行程を割り出したのではなかろうか。報告書としての整合性、それが第一だったのである。

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少々余談になるが・・・上記が示すことは、南北に走る九州山地の横断は不可能だったことである。魏志倭人伝、古事記が記す時代、九州は東西に分断された世界であったことが解る。更に憶測すれば、そのように見せ掛けたとも言える。日本の古代を理解する上において極めて重要な事柄に属する。

それぞれの伝・記が語る舞台は、表向きには、相互に関わることなく存続したのであろう。古田武彦氏の「失われた九州王朝」、王朝には些か引っ掛かるが、勿論博多湾岸は蚊帳の外でもあるが、その歴史認識は的を得た表現であろう。

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<倭地>
「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」と記述される。「倭地」の全体像である。

女王國から東へ「渡海渡海千餘里」を基準にして右回りで「倭種」の国、「投馬國」、「狗奴國」をぐるりと廻った距離は凡そ「五千里」であることが解る。

「倭地」は、古有明海を取り囲む地であると述べているのである。古代は、山稜で分断され、海で繋がる世界であったと歴史が教えている。

地中海しかり、日本海も、そして古事記では古遠賀湾・洞海(湾)がその役割を果たしている。「倭地」の中心を島(陸)と考えているようでは、全く古代は見えて来ないであろう。

中国からの使者は、九州西部を伺わさせられたのであろう。北東部は絶対に開示できない場所なのだから。遁走し「天」を本拠地とした倭人達は、もっともっと東へ向かう必要を感じたであろう。西からの脅威を回避するために・・・。

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女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」と記されたところについては『後漢書倭伝』では具体的に、「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」と国名及び女王には属さないと記されている。
 
<拘奴國>
上記の福岡県筑後市、八女市で良いのか、「拘奴國」を紐解いてみよう。この文字は古事記には登場しない。

「拘」=「手+句」と分解され、字源を調べると「句」=「鉤型に区切る」ところに「手で押込める」イメージから「拘束する」意味を表すようになったとのことである。

図に示したように、嫋やかに曲がる山稜の[手]のような端が[く]の字形に取り囲んでいるところである。

杞憂することなく八女市(郡)・筑後市(築後市は、おそらく当時は海面下)と比定し得る。

通説では「狗奴國」の誤りだとか、むしろ倭人伝の方が間違えているとか(南・東の方位も含めて)、何かと誤謬説が蔓延っているようである。また『魏志倭人伝』と『後漢書倭伝』で「里」の長さ異なり、後者では「千餘里」が「五~六餘里」に該当するとして解釈されている場合もある。「水行」、「陸行」共に現在からすると極めて曖昧な記述と思われる。貴重な情報を単に誤写とせずに解釈することが重要であろう。

上図<倭地>を眺めると、この両国は有明海を東西で挟んだ国であって、女王國に属さなかったことが解る。即ち「邪馬壹國」及びその旁國は古有明海の北部一帯を占有していたことが解る。現在の河川名で言えば、東は宝満川・筑後川の北西岸及び西は塩田川・鹿島川の北岸に挟まれた地域となる。当時は、各々の川は巨大な入江を形成していたと推察される。

『後漢書倭伝』では『魏志倭人伝』に記述された「邪馬壹國」に至るまでの国々及びその南方にある国々については省略されている。記すまでもなく自明となっていたのであろう。その中で「倭種」とだけ記されて国名がなかったところを追記したと推測される。「拘」と「狗」を「似たような字」と読んでいるようでは古史書を解読できない、と思われる。

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「水行」、「渡海」の距離について、未だ不確かだが、考えたところを述べてみる。「狗邪韓國」~「對海國」~「一大國」~「末盧國」の三回の渡海は、全て「千里」と記載される。現実の距離とは全く相違することになる。勿論これについては既に多数の方が論じておられて、古代の渡海の距離は「陸行」とは異なり、極めてアバウトなものであったと推論されている。

そんな背景で、「侏儒國」までの距離「四千餘里」及び「倭地周旋」の距離「五千餘里」をイメージするには「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」の距離を基準にしたのが上記の結果である。

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冒頭に「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」と記述される。具体的な国名は後に記述される。「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

詳細は後日に譲るとして・・・、
 
<旁國>

・・・と推定される。例えば「巳百支國」は、吉野ケ里遺跡のあるところなど、古有明海に臨む緩やかな傾斜地、そこに多くの人々集まり住まっていたことを伝えている。その中心の地にあったのが「邪馬壹國」であったことが示されている。

古事記で使用される文字が大半であるが、目新しいのは、「好、姐、對、呼、華、躬、惟」などである。しかしそれらも要素に分解すると、ほぼ全ての文字解釈が可能であった。多くの、天神達を含め様々な「倭人」が日本列島に渡来し、漢字を用いて国(地)名を付けたのだろう。地名も、ましてや番地もない、白紙の状態で行う、それは自然の成り行きであったと推察される。