2019年10月7日月曜日

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅴ) 〔375〕

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅴ) 


魏志倭人伝に登場する国名及び卑弥呼や壹輿などの人名も古事記における文字解釈が通用しそうな感じになって来た。邪馬壹國とその連合国の配置も、それなりに古代の国々の様相を示しているようである。

それにしても「伊都國」の解釈は重要であることが解った。通説が殆ど異論なく比定されていることへの反旗を翻すことになった。当然のこととして、従来では古事記の天石屋に坐す伊都之尾羽張神の示す意味が読み取れていない以上、当然の帰結であろう。

大陸プレートの東の端、複数のプレートが鬩ぎ合う場所は火山のだらけの地になるのである。これを記述していないとは、逆にあり得ないことである。地形的な表記が関連すれば、尚更のことと思われる。古事記と比較して、判り易く、原文が短いからか無数の推論がサイトに載せられている。地名(現在のものも含めて)、人名の類似性(殆ど無理矢理だが)から、自信満々に御説を述べられている、ようである。

現代の邪馬壹國研究の第一人者が九州の地名と奈良大和の地名の類似性から「邪馬台国東遷」説なるものが提唱されている。またそれに集う人々もいる。「邪馬台国よ、永遠に~!!」を目的とするのであろう。

さて、今回は更なる登場人物も紐解いてみようかと思う。多くは、帯方郡の官吏が付けた名前と解釈されているようだが、前記と同様、倭人(中国江南からの渡来人としておこう)が名付けたものと推測される。

1. 三名の大夫

倭人伝原文(抜粋)…、

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 拊 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

…と記されている。女王の使いは大夫と自称している。その三名の人名らしきものである。「景初二年」に関する古田武彦氏の論考に甚く感動した記憶が蘇った。「景初三年」の間違いとして片付けれていた、その当時(今も変わらない?)の通説を見事に論破している。その中で日本書紀の雑駁な引用も露わにされていた。大御所の説に逆らうことができない、忖度(媚び諂いであろう)構造の社会である。
 
難升米

ともあれ、一人づつ紐解いてみよう。「難」は古事記でも重要な文字の一つである。「難波」の文字列である。これが通説では固有名詞化しており、疑いもなく現在の大阪難波と繋がっている。古事記を隅々まで読めば、この「難波」は幾度か登場し、前後関係から大阪難波に繋がる筈もない場所(人名)なのである。

大雀命(仁徳天皇)が坐した難波之高津宮は、正に大阪難波に関連付けられて来た表記である。勿論全く異なるのだが、詳細不明ながら世界遺産となった通称の仁徳天皇稜などが、あたかも史実のような取扱いになっている。他の出現例は袁祁命(顕宗天皇)が娶った難波王などがある。これらの例から「難波」=「難しい波」の通りの使われかたをしていると読み解いた。

「難」=「革+火+隹(鳥)」と分解される。「鳥の革を火で炙った時の様子」から水分が蒸発して縮こまり「大きく曲がった様」を示していると解説される。即ちスムーズな状態ではなく、ギクシャクした状態であり、上記「難波」は波(流れも)の状態を表していると解釈される。それを踏まえて「難波王」は福岡県田川郡添田町を流れる犀川(現今川)が甚だしく大きく曲がるところに坐していた比賣と読み解いた。


<難升米・伊聲耆・掖邪狗>
「升」は前記の彌馬升で登場した。「升」=「斗+一」であって柄杓の形に「一」を加えた文字である。

「米」=「米の形」とすると、難升米=甚だしく曲がる[升]の地にある[米]粒の形をしたところと紐解ける。「彌馬升」の少し南側の山麓の地を示していると推定される。
 
伊聲耆

古事記で多用される「伊」=「小ぶり、僅か」と解釈する。他の解釈もあるが、それは続く文字列に依存すると考える。

「聲」、「耆」は共に出現しない。「聲」は通常使われる「声」の旧字体であり、「真っ直ぐに通る」と言う「声」の性質をその表していると解説される。それを地形に当て嵌めることにする。

「耆」=「老+日」と分解すると「老」が示す地形が浮かんでくる。海老のように「大きく曲がった様」を表すと読み解く。

伊聲耆=大きく曲がった傍らで僅かに真っ直ぐになったところと紐解ける。谷間及びそこに流れる川の様相を示していると推察される。
 
掖邪狗

「邪」と「狗」は頻出。その通りに解釈できるであろう。「掖」の文字は古事記に登場する。第五代天皇、御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の宮があった場所を葛城掖上宮と名付けられている。「掖」=「腋」であって、人体の胴体と両腕の隙間を表す文字である。そこを「谷間」と見做して表記したと解釈される。

掖邪狗=[牙]の地と平らな頂の山稜が[く]に曲がっている地との谷間と紐解ける。三大夫は「邪馬」の頭部にズラリと配置されていることが解る。「邪馬壹國」は卑弥呼、壹與を初めとして、「官」(伊⽀⾺・彌⾺升・彌⾺獲⽀・奴佳鞮)の四人と「大夫」(難升米・伊聲耆掖邪狗)の三人の名前が挙げられ、それぞれが住まう(出自)の地形に基いた命名をされていたことが解る。

それにしても「升」の地は重要なところであったことが伺える。古事記の「斗」の地形も多くの人材を生んだ。古代における柄杓の地は、人々を豊かにする地形だったのであろう。魏志倭人伝と古事記の文字使いの類似性、それは文化も共通することを示すものであろう。「倭人」と言う一つの根っこから広がって行った日本の古代を曝しているのではなかろうか・・・。

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『後漢書倭伝』に「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」(安帝の永初元年[107年]、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた)と記述されている。魏志倭人伝が記述された時から二百年弱以前の出来事である。ここに登場する人物にも「升」が付く。前記の「彌馬升」、「難升米」と合せて三名である。

「帥」=「𠂤+巾」と分解される。「旗の下で集団を率いる」意味を示す文字と解説される。「升」を率いるならば、何となくその中央の山稜の端辺りをイメージできそうである。「巾」を90度回転すると、「升」の原字に類似する。「𠂤」=「土を積み重ねる様」を象ったと解釈すると、「帥」=「[升]の地形の中央で段々に積重なった山稜の麓」と紐解ける。

「難升米」の少し北側辺りではなかろうか。いずれにしても「升」の地形の中央、初期の倭国王の居場所として申し分なし、のように思われる。「升」の地は、正に奔流の地だったことが解る。「卑弥呼」が登場する「其國本亦以男⼦為王 住七⼋⼗年 倭國亂相攻伐歴年 乃共⽴⼀⼥⼦為王 名⽇卑弥呼 事⻤道能惑衆 年已⻑⼤ 無夫婿 有男弟 佐治國」の記述に繋がるようである。

尚、古事記では「師」が登場する。「師木」に含まれていたが、「𠂤」の解釈は積み上げるのではなく、「横に連なる」と読み解いた。「山稜の端で小高いところが[師](諸々)と連なっているところ」である。「巾」と「帀」の違い、とする紐解きである。


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都市牛利

ところで上記原文では大夫難升米等と記されるが、この朝貢(古田氏によれば戦中遣使)に甚く感動されて大そうな下賜品を頂戴することになったと記載されている。この制詔文の中に大夫難升米に「都市牛利」が随行していたことが記されている。この人物も「邪馬壹國」の住人であろう。さて、何と紐解くか?…後半の「牛利」から始めることにする。
 
<都市牛利>
「牛利」の「牛」は、「邪馬」と同じく「牛」の姿を表していると思われる。

前記の「邪馬壹國」の官名に「奴佳鞮」があった。これに含まれる「鞮」が示すところが「牛」の地形をしていた。

「利」も前記の「巴利國」で紐解いたように「鋤取ったように切り離された様」と解釈する。

図に示したようにこの牛は見事に切り離されていることが解る。

だが、二つの谷間で切り離されているわけで、どちらなのであろうか?…それには「都市」の意味を読み解く必要がある。現在で用いられる意味では毛頭ない・・・。

やはり「都」は「伊都」で用いられて意味、即ち「燃える台地」と解釈する。「市」=「集まる」とすると都市=燃える台地が集まったところと読み解ける。


これで「都市牛利」の居場所を推定することが可能となった。図に示した現地名は多久市多久町、多久聖廟がある近隣となる。この地も火山性の山が点在するところと推定される。山稜の末端部でありながら、小高くなったところが寄り集まった、その谷間に居たと思われる。難升米は率善中郎将、都市牛利は率善校尉となったそうである。

2. 狗奴國との不和

前記で「狗奴國」は女王に属さないと記述されていた。「邪馬壹國」及びその連合国は戦乱の時代に突入したと述べている。

倭人伝原文(抜粋)…、

其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯烏越等詣郡 相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

…卑弥呼の「冢」は何処にあるのでしょうか?…古事記は陵墓名(場所)を記しているが、他国の史料には載せられないかな?…さて、苦戦の状況を訴えたのである。

載斯烏越

特に職位がないので、臨時に戦況を伝えさせたのであろう。古事記に出現するが「載」=「載せる」の意味を示す。この場合は「荷物」と解釈する。「車」は二輪車を象ったものである。車輪と荷台を表している。

既出の「斯」=「其+斤」(切り分ける)と解釈する。すると前半の「載斯」=「荷台に載せた荷物のようなところが切り分けられた」となる。地形象形的には載斯=小高くなった台地が切り分けられたところと読み解ける。

<載斯烏越>
「烏」は前出の「烏奴國」に関連するところであろう。烏越=烏が越えて行く(遠ざかる)ところと読み解ける。

纏めると載斯烏越=小高くなった台地が切り分けられて烏が遠ざかるところと紐解ける。

実に直截的な表記となっている。前出の烏奴國及び奴國があったところ、当時は古有明海に突出た島状の地形であったと推定される場所である。

その南北に延びる島が途中で切り分けられたような形になっているところ表したものと思われる。その北部を飛び去ろうとする「烏」の姿に模した。

「載斯烏越」は二名の名前のように訳されている場合も見受けられるが、文字解釈は単独である、と結論される。そして過不足なくその人物の居場所を表しているようである。

この地から敵である「狗奴國」まで約6km(海上)、正に最前線に居た人物であろう。その激戦の生々しい戦況を報告させたと記載されている。所謂、古鹿島湾海戦、だったのかもしれない。どうも、隣国とは反りが合わないようである・・・。

3. 卑彌呼以死大作冢
<卑彌呼冢>

「倭國」は争いが絶えない地であったと伝える。卑彌呼が亡くなるとまた争乱の時代になる。

そして同じかつてと同じように宗女壹與を立てたと伝えている。亡くなった卑彌呼の埋葬に関して「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。狥葬者奴婢百餘人」と記されている。

Wikipediaによると…、

邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。四国説では徳島市国府町にある八倉比売神社を、九州説では平原遺跡の王墓(弥生墳丘墓)や九州最大・最古級の石塚山古墳、福岡県久留米市の祇園山古墳(弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。 

…とされている。邪馬壹國、卑彌呼が”坐した”場所が不確かなら、墓も同様の有様である。墓が見つかれば不確かさが解消すると信じられているようである。「徑百餘步」の情報のみからでは特定に至らないが、敢えて試みると、少し谷を登った中腹辺りにそれらしきところが見出せる。

現地名は多久市南多久町下多久牟田辺となっているが、示したところはその中心の場所である。かつては桐野と呼ばれていたらしいが詳らかではない。「卑彌呼・邪馬台国ロマン」を維持するならば、発掘作業などは控えた方が良いのかもしれない・・・。

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魏志倭人伝の舞台も古事記の舞台も、そこに登場する「倭人」は同じ根っこの人達であることが、ほぼ明確になったと思われる。対馬、壱岐島を経て九州島及びその周辺に広がった「倭人」は九州島を東西に分断する山地を挟んで、見事に棲み分けたものと推察される。

中国本土に対して九州西部の「倭人」達は付かず離れず、東部はより積極的に離れようとした人達であったと思われる。古有明海を中心とする、その沿岸地帯は実に豊かな地であったと推察される。その地を手放すことは、あり得なかったであろうし、何とかその状態を保ちたい気持ちが強く働いたのであろう。

一方、東部は悲惨な状態で、まともな耕地は極めて少なく、彼ら自らが何世代にも渡って開墾しなければならない状況だったのである。頼みとする出雲(豐葦原水穂國)は同族間争いで惨めな状態が延々と続き、結局は彼らの発展に寄与することは殆どなかった。がしかし、それを乗越えた東部の連中は、大きな飛躍を成遂げることになる。それが古事記の記述の中心だと思われる。

日本の古代、少しづつの全容を垣間見せてくれているようである。前進、あるのみで・・・。