2019年10月12日土曜日

伊須氣余理比賣命之家:狭井河之上 〔376〕

伊須氣余理比賣命之家:狭井河之上


久方ぶりに古事記に戻った。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が娶った大物主大神の比賣である伊須氣余理比賣」の文字解釈の見直しである。挿入歌も含めて再掲してみた。

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伊須氣余理比賣」の居場所を突き止めてみよう。そうする意思がない限り、きっと見逃されてしまっていたことであろう。極めて重要な内容であることが判った。

後、其伊須氣余理比賣、參入宮之時、天皇御歌曰、
阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯
然而阿禮坐之御子名、日子八井命、次神八井耳命、次神沼河耳命、三柱。
[後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、
アシ原のアシの繁つた小屋にスゲの蓆(むしろ)を清らかに敷いて、二人で寢たことだつたね。
かくしてお生まれになつた御子は、ヒコヤヰの命・カムヤヰミミの命・カムヌナカハミミの命のお三方です]

従来の解釈は上記の武田氏の訳であろう。軽く読んで…少々引っかるのが「袁夜=小屋」「伊夜佐夜斯岐弖=清らかに敷いて」和賀布多理泥斯=二人で寢たことだつたね」であるが、細かいところを見なければ、受け入れられるものであろう。事実そうされて来たようである。

だが当たり前のことを当たり前に歌う時は要注意である。「阿斯波良能=葦原の」より以下の文字列を通説に囚われずに診てみよう。安萬侶コードに従う。

❶志祁志岐袁夜邇
 「志」=「之:蛇行した川」、「祁」=「寄り集まる台地、高台」、「岐」=「二つに分ける
 「袁」=「ゆったりした衣(山稜の端の三角州)」、「夜」=「谷」、「邇」=「近く」

→川が蛇行する寄り集まった台地で蛇行する川が山稜の端のゆったりとした三角州の谷の近くを二つに分けるところ

❷須賀多多美
 「須」=「州」、「賀」=「が」、「多多美」=「畳む:閉じる、終わる」

→州が閉じて

❸伊夜佐夜斯岐弖
 「伊」=「小ぶりな」、「佐」=「促す、助くる」、「斯」=「切り分ける」、「弖」=「蛇行する」

→小ぶりな谷が谷を切り分けて分岐し蛇行するのを促して

❹和賀布多理泥斯
 「和」=「しなやかに曲がる」、「賀」=「が」、「布」=「布を敷いたように」
「多」=「山稜の端の三角州」、「理」=「区分けされた田」、「泥」=「近接する」、「斯」=「切り分ける」

→しなやかに曲がるところが布を敷いたような近接する山稜の端の三角州の区分けされた田を切り分ける

これを纏めてみると…「葦原」は葦原中国(山稜に囲まれた平らな地)と同様に解釈して…、

・・・山稜に囲まれた野原で 川が蛇行する寄り集まった台地で蛇行する川が山稜の端のゆったりとした三角州の谷の近くを二つに分けるところ 州が閉じて 小ぶりな谷が谷を切り分けて分岐し蛇行するのを促して しなやかに曲がるところが布を敷いたような近接する山稜の端の三角州の区分けされた田を切り分ける・・・

…と解釈できる。間違いなく「伊須氣余理比賣」が住まう場所の地形そして水田の開発の実情を述べているものと推察される。これに続く文言が…「然而阿禮坐之御子名、日子八井命、次神八井耳命、次神沼河耳命、三柱」である。「然」=「しかり、その通りに」であろうが、「阿禮坐」の文字が付される。これを調べると、古事記中には二度出現する。上記外のところは…、

故其政未竟之間、其懷妊臨。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。
[かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります

神功皇后が朝鮮半島から帰って応神天皇を産み落とす場面である。「其御子者阿禮坐」通訳は「生まれる」と訳される。「生む」だから「宇美」と繋げられてきたわけである。またそう解釈させようとした記述でもあるが、もっと伝えることが付加されている。
 
宇美=宇(山麓)|美(谷間に広がる)

…生地は「谷間に広がる山麓」地形を持つところと告げているのである(仲哀天皇・神功皇后参照)。そう解釈して現在の北九州市小倉北区富野(行政区分は細分化されているが)と比定した。すると「阿禮坐」は…、
 
<狭井河之上>
阿(台地)|禮(段になった高台)|坐(坐する)
 
…「段になった高台がある台地に坐する」と解釈して矛盾のない結果となる。

既に紐解いた孝霊天皇紀に登場する意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の「阿禮」と同じ解釈である。

要するに・・・寄り合う山稜の端が邪魔をして豊かな水田が広がらないところだから、生まれた御子達はその場所を離れ、台地に坐して居るんだよね・・・と詠っていることになる。

冒頭の図に示した通り、彼らは母親の故郷「茨田=松田」の地に居た。二人の御子に「神=稲妻」が付く。

山稜が示す「稲妻の形」である。その麓に坐した命名であり、そして自らの「神倭」の謂れと同じ、と述べているのである。


<伊須氣余理比賣>
これで全てが繋がった。「伊須氣余理比賣」が坐した場所は図に示すように「輪になった地形」の傍らにあったと推定される。現地名京都郡みやこ町犀川山鹿*である。

歌の中の文字列を地形に当て嵌めたのが上図である。犀川が流れる大きな谷とちょっと小ぶりな大坂川が流れる谷がある。

犀川によって二分される州が閉じたように狭くなるところを「多多美」と表現したのであろう。

正に山稜の端が寄り集まった隙間を川が流れている様を表し、それによって豊かな水田が分断されている状態を歌にしているのである。

「伊須氣余理比賣」の意味が漸く紐解ける。上記で「勢い余って区分けされた」と訳したが、古事記はそんな記述をしない筈…、
 
伊(小ぶりな)|須(州)|氣([湯気]のような)|余(余る)|理(区切る)

…「州が[湯気]のように延びて余ったところが区切られている小ぶりな地」と紐解ける。「輪」が見えて初めて辿り着ける解釈であろうか…。一応の決着を得た感じである。

勿論当時の地形との相違は否めないが、十分に推定できるものかと思われる。更に推論が許されるなら、この時代では大河の中流域の開拓は困難を極めていたであろう。川の蛇行を抑えた治水事業ができるようになるのは、古事記の最終章になって漸く成し遂げられるようになったと思われる。

後の多藝志美美命の事件に係ることになるこの比賣の立ち位置として申し分のないところであろう。狭井河が古代に果たした役割は真に大きなものがあったと告げている。この川を不詳としては古事記の世界を伺い知ることは全くできないと断じられるであろう。

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「氣」、「余」及び「理」の三文字の解釈が確定したようである。久々に安萬侶コードを修正しておこう・・・それにしても魏志倭人伝の地形象形は判り易い。間違いなく、複雑な地形を対象にしていることもあろうが、古事記はより捻くれた表記を採用している。いや、そうせざるを得なかった事情が存在したのであろう。

倭人達が行った漢字による地形象形と言う”文化”は、日本書紀によって”抹殺”された。千数百年間誰も気付かなかった?…ではなくて気付いた記憶・記録がないだけであろう。そんな感じがしてならない・・・。