2019年3月29日金曜日

高志前之角鹿:都奴賀 〔332〕

高志前之角鹿:都奴賀


息長帶日賣命(神功皇后)が新羅から帰国した後、継子の香坂王・忍熊王が謀反を起こすという件がある。出雲国(北部)の中心の地に居た大中津比賣の御子達である。何と言っても新羅まで遠征する皇后に歯向かって勝てるわけもなく、淡海で敢無く最後を遂げることになったと伝えている。

勝利した皇后側は、建内宿禰が御子を伴って、例によって、禊祓の儀式に向かうのであるが、それが「高志前之角鹿」と記述される。禊祓の記述には「裏」がある…と勝手に勘ぐっているわけだが、なかなか簡単には読取らせてはくれないようである。憶測を逞しくして読んだところを仲哀天皇紀、応神天皇紀に述べたので、そちらを参照願う。


<行程図>
さて、本題は「高志之角鹿」を、例によって「今謂都奴賀也」と記しているが、何故言い換えたか?…である。やはり「都奴賀」の文字の紐解きを怠ってはいけないようである。

因みに通説は福井県敦賀市、そこには立派な気比神宮が鎮座されている。「越前」の国譲り、立派に行われていることが伺える。
 
古事記原文[武田祐吉訳]…、

建內宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也。亦其入鹿魚之鼻血臰、故號其浦謂血浦、今謂都奴賀也。
[かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊をしようとして近江また若狹の國を經た時に、越前の敦賀に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀(やぶ)れたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食(みけ)つ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦と言いましたが、今では敦賀と言います]

何とも血生臭い説話であるが、登場する「其地伊奢沙和氣大神之命」の名前に潜められた意味…この大神は「高木」に出自を持つ、と読み解いた。「高木」を「言向和」するための第三国における和平交渉なのである。現在のA国とK国…なかなか「言向和」できないようだが・・・。

「血浦」は、神倭伊波禮毘古命が兄宇迦斯・弟宇迦斯と遭遇した宇陀之血原などで解釈した通り、「血」=「複数の山稜が突き出た山腹」として紐解けるが、残念ながら現在の敦賀には国譲りされていないようである。ちょっと血生臭さ過ぎた命名だったかも、である。この地こそ氣比大神が祀られている場所なのだが・・・。

探すと容易に左図に示したところが見出せる。砕石によって際どい状態であるが「血」の形を残している。下図<血浦・都奴賀>中の二つの角に挟まれたところは、現在の海抜10m以下で大半が海面下にあったところと推測される。「血浦」は図に示したところ、麓にある現在の貴布祢神社辺りが氣比大神の居場所であったと推定される。

そして伊奢沙別命を主祭神とする気比神宮の本来の場所であることを告げているのである。天皇家と高木との和解の地、過去に血生臭い経緯を含んでいるのかもしれない。

今謂都奴賀也」の「都奴賀」は何と紐解けるであろうか?…「角鹿」は地形を見たままの表記であって、殊更付け加える必要があるのか?…むしろ意味不明の文字列になり下がっていると思いたくなる。だが、これこそ古事記の真髄、その場所の地形を、丁寧に表しているのである。

「奴」の文字は、速須佐之男命の御子、八嶋士奴美神などに含まれていた。「奴」=「女+又」と分解して「嫋やかに寄り集まる様」を表していると紐解いた。それを用いて「嫋やかに曲がる山稜が寄り集まるところ」と読んでも全く問題ないようであるが()、更に読み込むと…、
 
都(集まる)|奴([女]・[又]の地形)|賀(谷間に積重なる田)

…「[女]と[又]の形を集めた地の谷間に積重なる田があるところ」と紐解ける。二つの「角」がそれぞれ「女」と「又(手)」の地形を表していると見做したのである。
 
<血浦・都奴賀>
正に「女」と「又(手)」の地形が寄り集まった地形であることが解る。図中に甲骨文字の字形を示した。


これは何としても「都奴賀」と表記したかったのであろう。幾度も登場する「今謂○○○也」の用法には真に感心させられる。

読み手にしっかりと伝えようとする。がしかし、簡単に読めては困る、そんな状況の中で記述されたのが古事記であろう。

日本の地名、その由来は不詳か、例えあったとしても怪しげな答えが返って来る場合に遭遇することが多い。

また、漢字表記と実際の発音の関連に全く根拠が見出せない場合も見受けられる。古事記の序に記載された「日下(クサカ)」などが代表的な例であろう。

地名は時の施政者の恣意的な変更など、容易に変化するものである。古事記の時代に地名などあろう筈もなく、安萬侶くん達が考案した方法(地形象形)は、実に素晴らしいものであったと思われる。その素晴らしさは、後の施政者によって無残にもなし崩しになってしまったのである。

そして、一旦崩された本来の地名は、元に戻されることもなく、国譲りされ、全く関係のない地名を表すことになった。唯一残存するところは宗像の辺津宮の場所のみである。中津宮も奥津宮も、もちろん出雲、筑紫も全てが遠慮会釈なくあらぬところに移されてしまったのである。上記の「都奴賀」の示す地形は現在の敦賀に見出すことは不可能である。

「万世一系」と叫んだ来た国、それは「万世多系」の国であったことの裏返しであろう。極東の端に、それぞれのDNAを持って寄り集まって来た人々が作り上げた国、それが日本国であって、多種混在の裏返しの思想が現在に引き継がれていることを強く感じる今日此の頃である。


2019年3月24日日曜日

淤能碁呂嶋 〔331〕

淤能碁呂嶋


伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの段の冒頭に記述される「淤能碁呂嶋」については、既に何度か言及して来た。この島でいよいよ作業開始となるのあるが、「天之御柱・八尋殿」など、付帯設備も整えたとされ、その場所も突止めることができた。詳細はこちらを参照願う。

がしかし、何故か「淤能碁呂嶋」の文字列が何を意味しているのかは、紐解いていなかった。欠落部の補填である。正に、下記の原文に記載されているように「自其矛末垂落之鹽累積」でできた島らしい表記であった。

古事記原文[武田祐吉訳]…、


<天浮橋・淤能碁呂嶋・淡嶋>
於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・伊邪那美命二柱神「修理固成是多陀用幣流之國。」賜天沼矛而言依賜也。故、二柱神、立天浮橋而指下其沼矛以畫者、鹽許々袁々呂々邇畫鳴而引上時、自其矛末垂落之鹽累積、成嶋、是淤能碁呂嶋。
 [そこで天の神樣方の仰せで、イザナギの命・イザナミの命御二方に、「この漂っている國を整えてしっかりと作り固めよ」とて、りっぱな矛をお授けになって仰せつけられました。それでこの御二方の神樣は天からの階段にお立ちになって、その矛をさしおろして下の世界をかき廻され、海水を音を立ててかきして引きあげられた時に、矛の先から滴たる海水が、積って島となりました。これがオノゴロ島です]

「淤能碁呂嶋」の比定場所を再確認すると、現在の下関市彦島西山町とした。大正時代の地図を参照するとこの島が大きく変化して今日の地形となったことが伺える。溶岩台地の大部分は海面下にかったようである。海進と沖積によって海面水位が大きく変化した今日につながっているのである(詳細はこちらを参照)。

伊邪那岐・伊邪那美が国(島)生みを行った時は、およそ現在の海深で5m前後と推定したが、そのと時は、むしろ現在の地形に近い状態であったと推測される(埋立て地を除く)。いずれにしても大陸・海洋プレートの鬩ぎ合いの場所に日本列島がある限り、マグマの吹き出口が必要だったと思われる。そんな溶岩台地の島が「淤能碁呂嶋」であると導かれる。勿論「伊伎嶋」も同様な経緯で誕生したのであろう。

では早速、「淤能碁呂嶋」の文字解きを行ってみよう・・・、
 
淤(泥が固まった)|能(熊:隅)|碁([箕]の形)|呂(積み重なる)|嶋

…「泥が固まったようなところの隅が[箕]の形で積重なった島」と解釈される。

<淤能碁呂嶋・天之御柱・八尋殿>
天沼矛から垂落ちた鹽が累積してできた島であることは、上記の通りであるが、「能」=「熊:隅」が「箕」の形であることを示していたのである。

古事記中に幾度も登場する「箕:碁、其、三野」の地形、最も重要な地形象形の一つとして挙げられるであろう。

現在の地形には後代の手が加えられているようであるが、基本の形を読取ることは可能と思われる。

重要なことは、隅に「囗」な台地が形成されていることであり、そこに伊邪那岐・伊邪那美の拠点が置かれたと述べていることである。

この地形を捉えて「八尋殿」、「天之御柱」という表現を行ったことに苦笑を禁じ得ない有様である。そして重要な「火山」があることをちゃんと伝えているのである。既報で述べたが、再掲して置く。

――――✯――――✯――――✯――――

天之御柱・八尋殿

国(島)生みの場所である。通訳は「大きな柱、大きな御殿」である。特に問題はなさそうで、さらりと読み飛ばされてしまうところであろう。後に登場する八尋矛なら素直に受け止められそうだが、御殿となると、何か他の意味?…を込めているのかもしれない。

「天」=「阿麻(擦り潰された台地)」及び「柱」は後に登場する伊伎嶋の別名「天比登都柱」の「柱」=「木+主」=「燃える火がある山」と同じとして…、

天之(擦り潰された台地の)|御(束ねる)|柱(燃える火がある山)

「擦り潰された台地で燃える火がある山を束ねたところ」と紐解ける。「柱」の周辺、麓の意味と読み取れる。「御」=「御する、束ねる、臨む(面する)」と解釈する。図に示した現在の彦島西山町の最高峰(標高31m)の麓を示していると思われる。

「尋」=「奥深く入り込む」が原義(藤堂説)とある。すると…「八尋殿」は…、

八(谷の)|尋(奥深く入ったところ)|殿(大きくて立派な建物)

…と解釈される。御柱の麓にあることを表わしているのである。これら二つのものを「見立」=「見て立つ」と記している。頻出の安萬侶コード「八(谷)」である。

――――✯――――✯――――✯――――

「淤能碁呂嶋(オノゴロシマ)」という語感を示しながら、島の形状を伝える、やはり見事と言う以外になすすべが見つからないようである。



2019年3月20日水曜日

筑紫國之伊斗村・御裳之石・淡道之屯家 〔330〕

筑紫國之伊斗村・御裳之石・淡道之屯家


仲哀天皇紀の訂正と追加の解釈である。やはり丁寧に読み解くことが大切なことを思い知らされたようである。それなりに重要な文字が散りばめられていた。神功皇后が新羅国などから”凱旋帰国”した時と通説では言われる箇所である。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

故其政未竟之間、其懷妊臨。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。
[かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになって裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになってからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになった石は筑紫の國のイトの村にあります]

「其御子生地謂宇美」とされる「宇美」=「山麓に広がる谷間」として紐解いた(下図参照)。その地についてはほぼ修正ないようである。現在の北九州市小倉北区富野辺りと推定した。見直しは「筑紫国之伊斗村」の場所及び「御裳之石」が示す地形である。
 
伊斗村・御裳之石

余りにも有名な「鎮懐石」の説話、その場所が「筑紫國之伊斗村」である。文字そのものの解釈として、「伊斗」は…、
 
伊(小ぶりな)|斗(柄杓の形)

…小ぶりで辛うじて柄杓の形をしたところと読み解けるが、これでは場所の特定が難しい。初見では「宇美」の近隣と考えて、その谷間の出口辺りと推定した(「斗」の形として些か不十分さは否めなかったのであるが…)。

ところが、よく見ると「石」の説明がなされているのである。「御裳之石」がこの「伊斗村」にあると述べている。「取石以纒御裳之腰」に惑わされていた…と言うことであろう。例によって地形象形の表記と重ねていたと気付かされた。


ならば「御裳之石」は、地形として何と読み解くか?・・・「袁」=「山稜の端のゆったりとした三角州(衣)」と紐解いた(「遠」の例:高志之八俣遠呂智)。文字形として、それに類似する「裳」は「衣」の上部が谷間を象っていると思われる(図の古文字参照)。

「裳」=「谷間にある山稜の端のゆったりとした三角州」と紐解ける。「石」=「山麓の小高いところ」として、「御裳之石」は…、
 
御(臨む)|裳(ゆったりした三角州)|之|石(山麓の小高いところ)

<伊斗村・御裳之石・宇美>
「谷間にある山稜の端のゆったりした三角州を臨む山麓の小高いところ」と紐解ける。


垂仁天皇紀に登場した許呂母三川之衣の解釈と同様に「衣」=「山稜の端の三角州」の解釈が適用できる。


地図上現在の川の状態は決して明瞭ではないが、山腹の谷筋も併せて推定すると図のような三角州があったと思われる。


また地図上の青色がかったところは当時は海面下であったと推測される。ゆったりとは言え、決して広い州ではなっかたようである。


ここまで求められてると「斗」の場所、そして「石」の場所は容易に見出すことができる。現地名北九州市小倉北区山門町辺りと思われる。「斗」の現在は広大な墓地となっているようである。

「御裳之石」=「ゆったりとした衣の石」(武田氏訳:その裳につけておいでになった石)と表記して身重の身体の情景を思い浮かばせながら、実はその在処の地形を表わす。所纒其」=「鎮懐石を纏めたところ」と実にきめ細やかに記されている。応神天皇は、何事も神懸かりである。真に巧みな記述と唸らせられる段であろう。

出雲国の大斗淡道の由良能斗そして筑紫の「伊斗」全てが柄杓の地形象形である。この「斗」を用いて無名の地の在処を記述したと解釈される。実に巧みな手法を編み出したものである。が、それが読めなかったのだから草場の影で安萬侶くんも苦笑い、ってところであろうか。

尚、「裳」の文字は、後の応神天皇陵名、川内惠賀之裳伏岡でも登場する。勿論同じ解釈となる。「ゆりかごから墓場まで」…「裳」で繋がった天皇だった?…かもである。


淡道之屯家
 
<淡道之屯家>
「此之御世、定淡道之屯家也」と簡潔に記されている。おそらく「淡道之屯家」は安寧天皇の孫、和知都美命が坐した淡道之御井宮辺り、現在の山口県下関市彦島向井町であろうか・・・。

景行天皇紀の倭屯家と全く同様にして文字解釈できる。地形に文字を当てる、真に自在な使用である。

「家」=「宀(山麓)+豕」と分解できる。「豕」=「口の出ている猪」の象形とすると、「山稜が突き出ているところ」と紐解ける。

神倭伊波禮毘古命の御子、神八井耳命が祖となった筑紫三家連の解釈と同様である。「ミヤケ」の表記は多様である。

「和知都美」の「都」=「集まる」と「屯」=「一ヶ所に集まる」、類似の意味を有する文字が使われ、それぞれの文字の他意を表す…正に漢字の多様性を駆使、であろうか・・・。

交通の主要拠点として淡海に望む地を直轄領地とすることが目的であったろう。この段に続くところで「將擊熊曾國之時」と記述される。敵対するこの国を監視するためにも不可欠な場所であったと思われる。いや、熊曾国との緊張関係を告げる為に記されたものと推測される。


2019年3月18日月曜日

山代國之相樂・懸木・弟國 〔329〕

山代國之相樂・懸木・弟國


伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の娶りに関連するところの説話である。どうも天皇は「醜女」がお気にめさないようで・・・邇邇芸命にもそんな話があって、天皇に寿命ができた、と言う件が記載されている・・・何かと事件が発生する。

読み解きに苦労はさせられるのであるが、実は重要な意味を示している。いずれにしても未読のところを述べてみよう。争乱の後、后(沙本毘賣)の言に従って、旦波に后を求める時である。尚前後の読み解きはこちらを参照願う。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

又隨其后之白、喚上美知能宇斯王之女等、比婆須比賣命・次弟比賣命・次歌凝比賣命・次圓野比賣命、幷四柱。然、留比婆須比賣命・弟比賣命二柱而、其弟王二柱者、因甚凶醜、返送本土。於是、圓野比賣慚言「同兄弟之中、以姿醜被還之事、聞於隣里、是甚慚。」而、到山代國之相樂時、取懸樹枝而欲死、故號其地謂懸木、今云相樂。又到弟國之時、遂墮峻淵而死、故號其地謂墮國、今云弟國也。
[天皇はまたその皇后サホ姫の申し上げたままに、ミチノウシの王の娘たちのヒバス姫の命・弟姫の命・ウタコリ姫の命・マトノ姫の命の四人をお召しになりました。しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二方はお留めになりましたが、妹のお二方は醜かったので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻じて、「同じ姉妹の中で顏が醜いによって返されることは、近所に聞えても耻かしい」と言って、山城の國の相樂に行きました時に木の枝に懸かって死のうとなさいました。そこで其處の名を懸木(さがりき)と言いましたのを今は相樂と言うのです。また弟國に行きました時に遂に峻しい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮國と言いましたが、今では弟國と言うのです]

要するに旦波国の比賣を娶った時の裏話、という感じなのだが、何とも悲しい出来事なのである。何故こんな説話を…天皇は冷たい、美醜で決めるとはなんと理不尽な…色々お説が出てきそうな場面である。四人の比賣の内二人を不合格にしてしまったのである。

しかしどうやらこれは地名のヒントであったようである。「相樂」「懸木」「墮國」「弟國」など地名及びご登場の不合格となった比賣の居場所を求めよう。

余談ぽくなるが、この「弟比賣」は、次女の眞砥野比賣命(沼羽田之入毘賣命とも記される)のことで、三女は、まだ適齢に達してなかったのではなかろうか…後に三女も娶ることになる。

武田氏は「圓野(マトノ)比賣」と訳しているが、おそらく、異なるのであろう。「美知能宇斯王之女等」と記述されるが、後者の二人は登場していない。やや不祥なところが見えるようである。

<山代之相樂/懸木>
そんな背景で、その内の一人の比賣が悲嘆にくれて死を選んだ行程が事細かに記述されている。こんな時は場所を示そうと、安萬侶くんが努めていると思うべし、である。

師木玉垣宮から山代国方面に帰る道には、幾度か登場した現在の山浦大祖神社の近隣を通るルートがある。

現在でも村らしい村はこの神社を中心とした地域しかないが、「相樂」を紐解いてみよう。「相(佐:助ける)・樂(農作物の出来が良い、豊か)」となる。

鳥取之河上宮に坐した印色入日子命(長女の御子)が耕作地(茨田)に開拓した場所に一致する。文字の印象からするとそうであるが、地形象形をしている筈である。

「相」=「木+目」と分解して「山稜の隙間」と紐解いた。大毘古命が息子の建沼河別命と高志で再会した場所、相津があった。また垂仁天皇紀の説話に登場する尾張之相津の記述も同様に読み解いた。

見慣れないのが「樂」であるが「樂」=「糸+糸+白+木」にバラバラに分解してみると、意外や地形絡みの文字が並ぶことになる。「糸」=「山稜」、「白」=「団栗の様な小高いところ」(青雲之白肩津参照)、「木(山稜)」とすると、図に示したように「相」の両側を山稜が走っている様を、更にその「相」の中に小高いところが点在している地形を表していると紐解ける。

全体を文字に訳しても意味が通じかねるような長い解釈となる。図に示した通りの地形を「相樂」で表記したと解る。いや、実に見事なものである。そして現在も地図に記載されている道は、些か異なるではあろうが、古代から通じていた道であることが伺える。正に古代が息づく土地と言えるであろう。

「相樂(サガラ)」⇄「懸木(サガリキ)」は全くの駄洒落であろう。いや、遊び心は大切である、と思う・・・「懸」=「木+目+糸+心」と分解すると、「懸木」は「木+目+糸+心+木」となって、何と!…「相樂」と同じに・・・その地の中心の場所を表している。
 
<弟國・墮國>

その場所では目的を果たせず「堕國」に向かう。大祖神社傍の道を通り抜けると、そこは「淵」山代大国之淵が居するところに近付く。

そしてその淵から堕ちて亡くなったのである。駄洒落の流れで「弟國」とが付く。

「弟」は何と解釈するか?…兄弟姉妹の記述の中で用いられていない場合は、何らかの地形象形を行っていると考える。

図に示した山稜の端に「弟」の甲骨文字が当て嵌めることができそうである。

登場する機会は少ないが後の応神天皇の御子、若野毛二俣王が百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命を娶る記述がある。亦名を見ると、一見ではサラリと読み飛ばしてしまいそうなのだが、前半の「弟日賣」の部分が「弟」が示す地形象形表記と気付かされた。山稜の端にある細かく分かれた稜線を示していると解釈できる。

現在の犀川(今川)は治水された後であり、当時はより広い川幅を有していたと推測される。そしてこの辺りは大きな淵を形成したいたのではなかろうか。それを示すように「山代大国之淵」と命名された人物を登場させるのである。

二人の比賣の悲しい出来事のお陰で山代の南(西)部の詳細が見えて来る。そうするために挿入された説話、と思っておこう。ここも駄洒落で落が付く。少しあやかって・・・「落別」を「弟國」に隣接する地と読み解いた。共に「淵」を共有するところである。
 
<歌凝比賣命・圓野比賣命>
現在の福岡県京都郡みやこ町犀川柳瀬辺りと思われる(<(弟)苅羽田刀辨の御子>参照)。

古事記の一文字を読み解くには一体幾つの文字を読み解かねばならないか…と憤懣さえ感じながら益々多くの文字解きが必要になるのである。

さて、悲運な比賣二人は何処に坐していたか?…と求めようとするが、これがまた難題である。

比婆須比賣命・弟比賣命の出自は記されているが、この比賣達は不詳。美知能宇斯王の比賣であったと記されていることから、一応、旦波国内として、探すことにする。

また、地形がかなり「麻」な状態であって判別も容易ではない。言い訳はそれくらいにして、図に示したように「歌凝比賣命」の「歌」=「可+可+欠」と分解し、「凝」=「一つに集まる」様を象った文字として…、
 
二つの谷間の出口が広がり一つに集まったところ

…と紐解ける。「訶」=「谷間の耕地」の谷間に相当する。「欠」=「口を広げた」様である。何とか収まったようである。また「圓野比賣命」の「圓」=「丸い、つぶらな」と解釈して、上図の場所を推定した。ご冥福を祈る次第である。

2019年3月16日土曜日

石衝別王・石衝毘賣命(布多遲能伊理毘賣命) 〔328〕

石衝別王・石衝毘賣命(布多遲能伊理毘賣命) 


師木玉垣宮に坐した伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)、賢帝の雰囲気を醸す天皇(その根拠は然程あるわけではないが…)、師木に侵出した二代目の天皇としては、真に相応しい役割を果たされたようである。幾多の説話もあるが、詳細はこちらを参照願う。

いずれにしても、有能な人材渇望の時期を迎えて、天皇自らも後裔の広がりに努められたと伝える。娶りの最後の段に記された山代の比賣及びその御子について、既報での不足のところを補ってみようかと思う。

<(弟)苅羽田刀辨の御子>

古事記原文…、

又娶其大國之淵之女・弟苅羽田刀辨、生御子、石衝別王、次石衝毘賣命・亦名布多遲能伊理毘賣命。二柱。凡此天皇之御子等、十六王。男王十三、女王三。

山代大國之淵の二人の比賣を娶って誕生した御子を纏めた図を再掲する。詳細は垂仁天皇【后・子】を参照願う。

もう一人比賣が居たのだが、娶らず、それを悲観した比賣が自ら命を絶った場所が「落別王」のところだとか・・・このあからさまな記述も古事記の特色、かも?・・・

早々に横道に逸れそうなので、元に戻して・・・「石衝別王、次石衝毘賣命・亦名布多遲能伊理毘賣命」について述べてみよう。

姉の苅羽田刀辨に加えて妹もとなると、山代大國之淵は堪ったものではない、誕生する御子の世話をさせられるから…それだけ豊かであり天皇家との姻戚に希望が溢れていたのかもしれない。

とは言え、上図に示す通り、現在から見れば山間の、激流(かなり穏やかになっているようだが…)の川の畔にあるところ、自ずと食料調達には限りがあったと思われる。そんな場所に子孫を残し、繁栄への道を切り開いた、それが古事記の伝える古代なのであろう。

山代国、また早期の天皇家が娶った旦波国、これらは渡来人達が住まう先進の場所であり、その地以外には娶りの対象が少なかったと推測される。大坂山~御所ヶ岳山塊の急斜面の南麓、やはり葛城と同じく、様々な工夫を施して開拓していったのであろう。
 
<石衝別王・石衝毘賣命>
そのためにも池及びそれに基づく治水の技術を国造りの基盤とした戦略を採用する上には上記の山代、旦波の二ヶ国の人材が不可欠だったと思われる。

なだらかな谷間及び扇状地を活用する「茨田」の技術からより急峻な地形を開拓していくことが必要であったと考えられるのである。

誕生した御子は二名「石衝別王、次石衝毘賣命・亦名布多遲能伊理毘賣命」と記載される。

上図<(弟)苅羽田刀辨の御子>にも記載したが、拡大した図を示す。二人の名前にある「石」が居場所の特徴を表しているのであろう。
 
石衝別王・石衝毘賣命

「石」=「山麓の小高いところ」とすると…石衝」は…、
 
山麓の小高いところが衝立のようになっている地

…と解釈できる。川の岸に山稜の端が迫っているところであろうか・・・上図に示した現地名京都郡みやこ町犀川崎山辺りと推定される。

「石」=「厂+囗」と分解され、通常は崖下の囗(石の象形と解説されるが、地形象形としては「山麓の小高いところ」と紐解く。かなりの頻度で登場する文字である。そのものずばりの宣化天皇の比賣二人、石比賣命(訓石如石)、下效此、次小石比賣命の例を挙げておく。

妹の子らしく端っこに居た兄妹、かもである。兄は「羽咋君、三尾君之祖」とある。後代に后を輩出するところの祖となる。
 
羽咋・三尾

唐突の地名である。地形象形であること、二つはかなり近いところ、そして山城国から遠くないところと考えて探索する。「三尾」は三つに分かれた山稜の麓であろうし、「羽咋」は喰われた羽の形状で・・・。


<石衝別王・石衝毘賣命>
「羽」の象形は、羽先の凹凸の状態であろう。大きな山稜ではなく丘に近い、小さな谷に刻まれた…京都郡みやこ町豊津の二月谷があるところ、犀川に接している。

「三尾」も地形的には現在の同町光富辺りであろう。山稜の端が三つに分かれた地形を示している。光富は「ミツオ」と読めるが残存地名…かも知れない。

この地は開化天皇紀に登場の旦波之大縣主由碁理の居住していたところである。

三つの山稜の端ではなく「碁=箕」と表現し、当時は総ての山稜の端を支配していたのであろう。御子を派遣し、その内の三つを分割支配させたと推察される。

隣接する二つに分かれたところは後に「俣尾」と呼ばれ、多遲麻国に属する。天之日矛が絡む地名である。「言向和」戦略による大縣主の解体であろうか…実際にはバトルもあったかも?・・・。
 
<三尾君・羽咋君・布多遲能伊理毘賣命>
後世において「三尾」は深く皇統に絡むことになるが、旦波之由碁理から始まるその地については、全く読み取れて来なかったのが現状である。

妹の「石衝毘賣命」は別名を持ち、「布多遲能伊理毘賣命」は倭建命の后となると述べられている。

布多遲能伊理毘賣命

「布多遲」とは?…「布」は崇神天皇紀に記された大毘古命が謀反人建波爾安王一族を征伐した波布理曾能に含まれていた。

同じ解釈として…安萬侶コードで一気に紐解くと…、

布(布のような)|多(山稜の端の三角州)|遲(治水された)

…「布を敷いたように治水されている山稜の端の三角州」と解釈できる。現地名に京都郡みやこ町上原布引というところがある。まさか、ではあるが・・・。「能」=「熊(隅)」が付加され、山稜の端から突き出た小高いところ、岩崎八幡神社辺りを表しているのではなかろうか。「伊理毘賣」と記される。「田植え」をした毘賣であろう。

「布を敷き詰めたように」現在なら「絨毯を敷いたように」の表現かも。水田に水が張っている状態を上手く表現しているものと思われる。兄と離れ、更にはあの倭建命に娶られた。そして帶中津日子命(仲哀天皇)を生むことになるのである。

2019年3月14日木曜日

忍坂大室と土形 〔327〕

忍坂大室と土形


神倭伊波禮毘古命は宇陀で兄宇迦斯と遭遇し、事なきを得た後休む暇なく忍坂で「生尾土雲」と相対することになる。既にその場所は求められているのであるが、文字と地図が示す地形との詳細な合致は未達であった。

後に登場する応神天皇の御子、大山守命が祖となったと伝える「土形」と併せて述べてみることにする。その作業の過程で「忍坂大室」で出現する「八十建」の表記が何を伝えたかったのかも読み解けた。相変わらずの見事な命名を行っていることが解るのである。
 
忍坂大室

古事記原文[武田祐吉訳]…、

自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲訓云具毛八十建、在其室待伊那流。此三字以音。故爾、天神御子之命以、饗賜八十建、於是宛八十建、設八十膳夫、毎人佩刀、誨其膳夫等曰「聞歌之者、一時共斬。」故、明將打其土雲之歌曰、
[次に、忍坂の大室においでになった時に、尾のある穴居の人八十人の武士がその室にあって威張っております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩かして、その料理人どもに「歌を聞いたならば一緒に立って武士を斬れ」とお教えなさいました。その穴居の人を撃とうとすることを示した歌は]
意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良
[忍坂の大きな土室に大勢の人が入り込んだ。 よしや大勢の人がはいっていても威勢のよい久米の人々が 瘤大刀こぶたちの石大刀でもってやっつけてしまうぞ。 威勢のよい久米の人々が瘤大刀の石大刀でもって そら今撃つがよいぞ]
如此歌而、拔刀一時打殺也。
[かように歌って、刀を拔いて一時に打ち殺してしまいました]

既に記したところではあるが、場所の詳細が判るので引用してみると・・・、

いよいよ「宇陀」を発ち「金辺峠」を越えて行く。この峠越えの登りは急である。かつての鉄道列車は呼野駅でスウィッチバックして登っていたとか。なんとも地形的には厳しい環境である。現在は列車の性能等の向上をみた後であり、当時を偲ぶすべもないようである。近世では弓月街道などと呼ばれ、主要な幹線道路であった。小倉から九州北部の内陸への最短コースである。

「忍坂大室」はこの峠を越えたところと思われる。「忍坂」=「一見坂には見えない、目立たない坂」特に現在の「採銅所一」まで標高差はあるが長い坂が続き、勾配は決して大きくはない地形である。

後にこの地は「長谷」と呼ばれたと紐解くことになる。雄略天皇の宮・長谷朝倉宮があった谷とした。忍坂大室の「大室」=「大きな山腹の岩屋」ぐらいが通常の訳なのであろうが、「忍坂」と併せても場所の特定には及ばないようである。

・・・直前までの行程からは、間違いなくこの地域であることが推定できるが…と言ったところであろうか、残念ながら詰め切れていなかったのである。


<忍坂大室>
例によって一文字一文字を紐解いてみよう。勿論安萬侶コードを用いて・・・。

「大」=「平らな頂の山稜」、「室」=「宀+至」=「山麓が尽きるところ(谷間)」とすると…「忍坂大室」は…、
 
目立たない坂にある平らな頂の山稜の谷間

…と紐解ける。すると見事なまでに平らな頂の山稜が見出せる。

図に示した通り、頂が平らなだけでなく、そこから麓に伸びる枝稜線が並んで深い谷間を形成していることが判る。

「大」は「大きい」を示すために用いられていない。大斗大坂山しかり、下記の「大山守命」にも含まれている重要な地形象形の表記であって、これを見逃すと読み解けないのである。

更にその場所を表す文字が記されていた・・・「生尾土雲八十建」の出現である。「八十建」(八十人の武士)、「八十膳夫」(八十人の料理人)と訳されている。「建」が八十人?・・・後者の料理人が八十人とは?・・・首領を謀殺するのが得意な筋書きの筈、何故?・・・「八十」は…、
 
八(谷)|十(十字に交わったところ)


…と解釈される。伊邪那岐の禊祓から誕生した八十禍津日神と同じ解釈である。後の允恭天皇紀ににも味白檮之言八十禍津日前として登場する。「八十」は谷が交差する地形を示して、その場所が特定されるのである。

図に示したように現地名にある香春町採銅所の谷口は、谷が交差した場所であることが判る。南北の長い谷を流れる金辺川を挟んで相対する位置に東西に二つの谷がある地形となっている。これを「八十」と表記したと思われる。その地の「建」であり「膳夫」を表していると解釈される。

「生尾土雲」は、谷が交差する地に住まっていたと告げている。後の「倭建命」「熊曾建」「出雲建」と同じく「地名+建」の命名を行っていると読み解ける。「建」の名前を誰も貰わなかった…名前交換の「言向和」ではなく、その地を奪い取ったからであろうか・・・。

「大室の雲」とは何を意味するのであろうか?…武田氏は「土雲」に悩まれたのであろう。他の史書では「土蜘蛛」などと表現される。だが、この「雲」こそ神倭伊波禮毘古命が遠征してきた最終地点の前にある重要な、彼らにとって最も必要なものを生み出す場所を示しているのである。

「銅の精錬時に発生する煙」である。古事記、日本書紀の現代文訳のサイトを提供されている上田恣さん、いつもお世話になっております、貴方の「個人的カラム」に記述された「製鉄」の際に出る雲、敬意を表して記載させて頂きました

「忍坂大室の雲」で神武東征のルートは氷解したのである。そして古事記が描く古代の日本の姿をあからさまにした、と言える。「雲」解釈に賛同者が一人でもおられたことに感謝申し上げる。安萬侶くんの表現の正確さにも、あらためて感謝する。
 
土形

応神天皇の御子、大山守命について「是大山守命者、土形君、弊岐君、榛原君等之祖」と記述される。「土形」には既に様々な解釈がなされて、むしろ混迷の状態であるが、単純に考えると、銅の鋳型のような見方が成り立つであろう。これも意味しているのではあるが、やはり地形象形が施されている筈である。

「形」=「幵(木で組合せた枠)+彡(模様)」と解説されている。「木(山稜)」とする地形象形では…、
 
土形=土(大地)|形(山稜で作る型)
 
…と解釈できるであろう。安萬侶くん達の地形観察力には頭が下がる思いである。下図を参照。香春町採銅所の谷口辺りにある。初見では鍛冶屋敷辺りかと思われたが、地名のみに依存する解釈は危険であることを再確認する有り様であった。

大山守命は皇位継承に際して謀反を起こして敢無くこの世を去ることになる。銅の産地を治める立場にあった。またその任を果たしていたからこそ己が皇位を引継ぐものと思い込んでいたのかもしれない。

開化天皇紀の沙本毘古王は「日下部連」の祖となったと記される。垂仁天皇に背いて策略を試みるがこれも敢無く命を落とす。「忍坂大室」の地を支配できると、天下を支配したくなったのであろう。「八十」の谷間に渦巻く陰謀?…言い過ぎかも・・・。

ついでと言ってはなんだが、大山守命が祖となった近隣の地も紐解いておく。「弊岐」は…「弊」=「尽きる」の意味とし、「岐」=「山+支(二つに分かれた)」と分解すると…、
 
弊(尽きる)|岐(山の谷間)
 
…と紐解ける。谷が山を分かれさせたと見做した表現であろう。峠でそれが尽きると読み取れる。上記の採銅所がある「長谷」の谷間を行くと金辺峠である。
 
<大山守命(祖)>
谷間の尽きるところ、それを「弊岐」と呼んだのであろう。
住所表示は変わらず同町採銅所(谷口)の北側と思われる。

最後の「榛原」も一般的な名前であり、「原」の地形を持つとして同町採銅所(道原)辺りではなかろうか。

「榛」=「木+秦」としてみると…、
 
 木(山稜)|秦([秦]の地形)
 
…と紐解ける。延びた山稜が横に幾つも枝稜線を持つ地形を示したものと思われる。道原はその麓にあることが判る。

こうしてみると大山守命は銅産出の山に深く関わっていたことを示している。また、かなり近接する地を別けていることが、当時多くの人々が住まっていたことを示していると推察される。

少々余談だが・・・弊岐(ヘキ)」と読むと「日置(ヘキ)」と繋がって来る。他の史書では日置氏は大山守命の末裔とされているが、ここが本貫の地ではなかろうか。

2019年3月11日月曜日

大八嶋国:淡道之穗之狹別嶋 〔326〕

大八嶋国:淡道之穗之狹別嶋


何と言っても大八嶋国の最初の島の名前である。漢字の示す意味からその在処は、ほぼ確実に比定されるのであるが、よくよく見てみると漢字一文字一文字の紐解きは未達であった。あらためて文字の示すところを読み解いてみよう。

古事記原文…、

如此言竟而御合生子、淡道之穗之狹別嶋。訓別、云和氣。下效此。次生伊豫之二名嶋、此嶋者、身一而有面四、毎面有名、故、伊豫國謂愛上比賣此三字以音、下效此也、讚岐國謂飯依比古、粟國謂大宜都比賣此四字以音、土左國謂建依別。次生隱伎之三子嶋、亦名天之忍許呂別。許呂二字以音。
[かように言い終って結婚をなさって御子の淡路のホノサワケの島をお生みになりました。次に伊豫の二名の島(四國)をお生みになりました。この島は身一つに顏が四つあります。その顏ごとに名があります。伊豫の國をエ姫といい、讚岐の國をイヒヨリ彦といい、阿波の國をオホケツ姫といい、土佐の國をタケヨリワケといいます。次に隱岐の三子の島をお生みなさいました。この島はまたの名をアメノオシコロワケといいます]

る第一回目の巡回と名付けたところを抜き出してみた。淡道之穗之狹別嶋→伊豫之二名嶋→隱伎之三子嶋と、先ずは軽く響灘を回るルートである。
 
<淡道之穗之狹別嶋>
「淡道之穗之狹別嶋」=「彦島」上記の二町を除く下関市彦島・・町であると思われる。仁徳天皇紀の淡道嶋である。いよいよ、島作りのスタートである。

島の所在地は求められたが、この長い名称は何と解釈できるであろうか?…安萬侶コードと名付けたコードで紐解けるか、試みてみよう。

「淡」=「氵+炎」=「水が[炎]のように飛び散る様」、「道」=「辶+首」=「[首]のように凹んだ地」と分解できる。

「穂」=「[穂]のように山稜が細かく分れる様」とする。これらを用いて、一気に・・・。

「淡道之穗之狹別嶋」は…、


水が[炎]のように飛び散る[首]のように凹んだ地で
[穂]のような山稜が狭く別れた島

…と紐解ける。地形を稲穂に見立てて、その穂先が少し途切れたように見える様子を表わしたと読み解ける。上図に示した通りの地形を表している。1,300年前、当時との海面水位の違い、若干の宅地開発による変形があったとしても十分に読取ることができる地形と解る。

「道」は通常の意味である道を示すのではなく、「首」を意味する。現地名の彦島田の首町は残存地名と思われる。既に「道」=「辶+首」の解釈の有効性はかなりの場面で確認された。前記の「山邉道」もその内の一例である。即ち「淡路」の表記とは全く無縁の表記であることが確認されたと思われる。

「穂」は、仁徳天皇紀の那爾波能佐岐に含まれる「爾」の解釈に通じる。「淡」は決して「淡い水」を示しているのではない。「淡海」=「水の飛び散る海」のことである。後代になってこの「首」を臨む地に淡道之御井宮が建てられる。現在の下関市彦島向井町も、間違いなく残存地名と思われる。

どうやら長たらしい名前の由縁が解ったようである・・・。



2019年3月9日土曜日

古事記の『山邉』 〔325〕

古事記の『山邉』


古事記中に「山邉」の文字が登場するのは、崇神天皇紀の御陵の場所が最初である。古事記・日本書紀・万葉集ゆかりの地に多数出会える「山の辺の道」として有名な道として知られる。崇神天皇及び景行天皇の両御陵は、現在の国道169号線沿いにあるとされている。

奈良盆地を囲む東側の山稜の麓を南北に繋がる道とされているようである。詳しいところはこちらのサイトで知ることができる。とにかく古代の香りに満ち溢れた場所として知り置いたところである。勿論本ブログ主も、それを信じて、実際に幾度か出向いたこともある。「山の辺の道」は懐かしいところなのである。

1. 山邊道勾之岡上陵・山邉之道上陵

さて本題に入ろう。崇神天皇陵として記載される。御眞木入日子印惠命は師木に侵出、初国の天皇として記録されている。その和風諡号が指し示すところは、現在の田川郡香春町中津原辺りと紐解いた。「御眞木」、「印惠」が示すところは一に特定するのに十分な情報を有していたのである。

「山邉」は如何なる地形を示しているのであろうか?…「邊」の文字は、伊邪那岐の禊祓の段(邊津、邊疎)などに類似する解釈「邊」=「端が広がった様」とすると、「山邊」は…、
 
山の端が広がったところ

…と読み解ける。「山麓が延びて広がったところ」である。ただ、この地形象形表記では特定することは難しい。「道」=「辶+首(凹(窪)んだところ)」を合せて該当する場所を探索することになる。
 
<山邊道勾之岡上陵>
山の裾に[首]の地形を求めると、現在の田川郡中津原の湯無田の[首]と[勾]の地形を併せ持つところが見出せる。

更にその山稜に神武天皇が滞在した筑紫岡田宮の[岡]=「山稜に囲まれた中に山稜があるところ」を示す場所が見つかる。

その岡の上を示していると推定される。漠然とした表記かと思えば、いつものことながら極めて精緻なものであることが解った。

後に景行天皇陵が「山邊之道上」と記される。上図に併せて示した。また垂仁天皇の御子、大中津日子命が山邉之別の祖となったとも記述される。

急斜面であり、かつ御祓川との間隔も少なく、現在でも開発が進んでいない場所のようである。現地名の「湯」は、伊余湯のように山から流れる川の様相を表しているのではなかろうか。

倭国が大国への道を歩み始めた時の二人の天皇は、ほんの少し離れたところに眠っておられることになる。ほぼそれらしき場所なのであるが、「山邉」をこの地に決定付けるもう一人の人物が登場する。

2. 山邊之大鶙

垂仁天皇と沙本毘賣との間に誕生した御子、本牟智和氣命が何故か言葉を発せず、近習達が何かと世話する時に「鵠」の鳴き声を聞いて「阿藝」と言ったことから、この「山邉之大鶙」の出番となる。彼は「鵠」を求めて諸国を巡る役を担ったと記述される。

登場する諸国の順序、国から国へと向かう時の記述は、真に正鵠を得ていて、諸国の配置が決定されるのである。詳細はこちらを参照願うが、これも従来の解釈は到底納得できるようなものではなく、古事記の主舞台は奈良大和ではないと言える。

それはともかくも大変な苦労をした「山邊之大鶙」は何処に住まっていたのか?…どうでも良いこと?…ではなかろう。
<山邉之大鶙>

天皇であろうがなかろうが、名前はその現住所を物語っている、というのが古事記の「ルール」の筈である。

結果は図に示したように、真に見事な地形象形であった。「鶙」=「帝+鳥」として、「帝」の甲骨文字の形で山稜の図柄を表したものと解る。

柿本(現地名柿下)の「」更には大坂山の「」と並び、この地の名称は、山稜の図柄に依存して名付けられたと思われる。

やはり、解いてみるものである。大坂山~愛宕山山系の南麓が如何に早期に開け、人々が住まった地であるかが、これらの名付けからも伺える。

名前に「鳥」が含まれるから(?)御呼びが掛かり、苦労させられ、挙句には効果は見られない。何とも悲哀なことではあったのだが、「山邉」の場所を確定するには、不可欠な登場人物と言える。重ね重ね、労を労わねばならないようである。

万葉の時代を代表する「柿本人麻呂」の名前は「山邊之大鶙」の近隣に出自を持つことが判る。「山邉道」は彼とは切っても切り離せないところであったのではなかろうか。

2019年3月7日木曜日

御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇):葛城掖上宮 〔324〕

御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇):葛城掖上宮


第五代孝昭天皇(御眞津日子訶惠志泥命)は再び葛城の地に戻って来た。その真意を明かされることはないが、行きつ戻りつしながら、だが、着実に領地を拡げて行ったことは確かであろう。坐した場所は、ほぼ間違いなく求められるのであるが、一文字一文字に込められた意味を詳細に読み解いてみよう。
 
<葛城掖上宮>
この天皇の在処は「葛城掖上宮」から紐解く。「掖」=「脇(腋)」として、山を胴体と見做し、谷の部分を「脇(腋)」と表現したと解釈した。
 
掖上=脇(腋)を上がったところ

…の宮と解釈する。葛城の地で、それらしいところは田川郡福智町上野にある福智中宮神社辺りと推定する。

現在も山頂に達する登山道がある。谷間に入って暫くしたところに登山口が設けられているようである。正に脇から登るところであろう。

福智山のトレッキングレポートは多いが、香春岳は少ない。当然の結果かもしれない…「飛鳥」の山は消滅してしまっているのだから・・・。

脇道に入ると遭難しそうなので本道に戻って、宮の在処を求めてみよう。「御眞津日子訶惠志泥命」を紐解くことになる。
 
<御眞津日子訶惠志泥命>
図を参照願うと現在の上野峡は大きくは三つの谷川が合流、更に夫々が分岐した多くの谷川が合流した地形を示し、真に渓谷に相応しいものと思われる。

既出の文字解釈を適用すると・・・。

「御」=「統べる、束ねる、臨む」、「眞」=「一杯に満ちた」、「津」=「川の合流するところ」として…「御眞津」は…、
 
御(束ねる)|眞(一杯に満ちた)|津(川が合流する地点)

…「川の合流点が一杯に満ちたところを束ねる」と紐解ける。

深い谷にある数多くの津、中でも三つ列なった「津」を束ねて一つの川になったところを象形した表記と読み解ける。山腹の谷の状態から判断して現在の地図上には未記載の川を想定する。

「眞」は天之眞名井などで登場した文字である。宮の名前と併せて決定的に地形象形した記述であった。後の師木に坐した崇神天皇の諡号に含まれる御眞木は「山稜の端が一杯あるところを束ねる」と解釈する。山稜と河川では束ね方に違いこそあれ、「御」、「眞」の解釈は同様である。
 
<訶惠志泥:goo Map
訶惠志泥」は何と読み解けるのであろうか?…、
 
訶惠志(返し)|泥(否:ない)
=元には戻さない

…解釈できるようである。

葛城に帰ったが先代と同じことを繰り返さない、違うことをしよう、そんな心根を表しているように思われる。確かに娶りは変わり、御子の派遣も師木に近付くようだが・・・。

こんな読み解きも行ってみたが、やはり一文字一文字の地形象形であろう。「訶惠志泥」は…、
 
訶(谷間の耕地)|惠(山稜に囲まれた小高いところ)
志(之:蛇行する川)|泥(尼:近付く)

…「谷間の山稜に囲まれた小高いところで蛇行する二つの川が近付き傍らに耕地がある」という地形を示していると紐解ける。「惠」は人名に使われるのは、これが最初である。後の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)、また惠賀の表記でも登場する。全て上記の解釈を行って読み解ける。

「泥」=「氵+尼」と分解される。更に「尼」=「尸+匕」と分解され、「左、右を向いて尻を突き合せた形を象ったもの」と解説される。「近付く」と訳されるが、象形のイメージは「一旦近付いて離れる」状態を表していると思われる。上図に示したように二つの蛇行する川の様相を表現していると思われる。

これらの結果より、「葛城掖上宮」の在処は谷の入口にある小高いところであったことが導かれる。一見では現在の福智中宮神社辺りかと比定しそうだが、古事記は異なることを告げているようである。

古事記原文「天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也」と記される。「博多山」は何処であろうか・・・ほぼ間違いなく現在の福智山となるのだが、聞き馴染んだ「博多」とは?・・・。
 
<掖上博多山>
博(遍く広がる)|多(山稜の端の三角州)

…山頂から延びる山稜の端に遍く三角州が広がる様を表したと思われる。頻出の「」の解釈に拠る。

多くの山稜と谷間が織り成す自然の造形美であろう。それを捉えた巧みな表現である。

福智山山塊中の最高峰でかつ山頂が広く幾つかの峰が集まった形状をしている。御陵は「鈴ヶ岩屋」辺りかもしれない。