石衝別王・石衝毘賣命(布多遲能伊理毘賣命)
師木玉垣宮に坐した伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)、賢帝の雰囲気を醸す天皇(その根拠は然程あるわけではないが…)、師木に侵出した二代目の天皇としては、真に相応しい役割を果たされたようである。幾多の説話もあるが、詳細はこちらを参照願う。
いずれにしても、有能な人材渇望の時期を迎えて、天皇自らも後裔の広がりに努められたと伝える。娶りの最後の段に記された山代の比賣及びその御子について、既報での不足のところを補ってみようかと思う。
<(弟)苅羽田刀辨の御子> |
又娶其大國之淵之女・弟苅羽田刀辨、生御子、石衝別王、次石衝毘賣命・亦名布多遲能伊理毘賣命。二柱。凡此天皇之御子等、十六王。男王十三、女王三。
山代大國之淵の二人の比賣を娶って誕生した御子を纏めた図を再掲する。詳細は垂仁天皇【后・子】を参照願う。
もう一人比賣が居たのだが、娶らず、それを悲観した比賣が自ら命を絶った場所が「落別王」のところだとか・・・このあからさまな記述も古事記の特色、かも?・・・。
早々に横道に逸れそうなので、元に戻して・・・「石衝別王、次石衝毘賣命・亦名布多遲能伊理毘賣命」について述べてみよう。
姉の苅羽田刀辨に加えて妹もとなると、山代大國之淵は堪ったものではない、誕生する御子の世話をさせられるから…それだけ豊かであり天皇家との姻戚に希望が溢れていたのかもしれない。
とは言え、上図に示す通り、現在から見れば山間の、激流(かなり穏やかになっているようだが…)の川の畔にあるところ、自ずと食料調達には限りがあったと思われる。そんな場所に子孫を残し、繁栄への道を切り開いた、それが古事記の伝える古代なのであろう。
山代国、また早期の天皇家が娶った旦波国、これらは渡来人達が住まう先進の場所であり、その地以外には娶りの対象が少なかったと推測される。大坂山~御所ヶ岳山塊の急斜面の南麓、やはり葛城と同じく、様々な工夫を施して開拓していったのであろう。
<石衝別王・石衝毘賣命> |
なだらかな谷間及び扇状地を活用する「茨田」の技術からより急峻な地形を開拓していくことが必要であったと考えられるのである。
誕生した御子は二名「石衝別王、次石衝毘賣命・亦名布多遲能伊理毘賣命」と記載される。
上図<(弟)苅羽田刀辨の御子>にも記載したが、拡大した図を示す。二人の名前にある「石」が居場所の特徴を表しているのであろう。
石衝別王・石衝毘賣命
「石」=「山麓の小高いところ」とすると…「石衝」は…、
山麓の小高いところが衝立のようになっている地
…と解釈できる。川の岸に山稜の端が迫っているところであろうか・・・上図に示した現地名京都郡みやこ町犀川崎山辺りと推定される。
「石」=「厂+囗」と分解され、通常は崖下の囗(石の象形と解説されるが、地形象形としては「山麓の小高いところ」と紐解く。かなりの頻度で登場する文字である。そのものずばりの宣化天皇の比賣二人、石比賣命(訓石如石)、下效此、次小石比賣命の例を挙げておく。
妹の子らしく端っこに居た兄妹、かもである。兄は「羽咋君、三尾君之祖」とある。後代に后を輩出するところの祖となる。
羽咋・三尾
<石衝別王・石衝毘賣命> |
「三尾」も地形的には現在の同町光富辺りであろう。山稜の端が三つに分かれた地形を示している。光富は「ミツオ」と読めるが残存地名…かも知れない。
この地は開化天皇紀に登場の旦波之大縣主由碁理の居住していたところである。
三つの山稜の端ではなく「碁=箕」と表現し、当時は総ての山稜の端を支配していたのであろう。御子を派遣し、その内の三つを分割支配させたと推察される。
隣接する二つに分かれたところは後に「俣尾」と呼ばれ、多遲麻国に属する。天之日矛が絡む地名である。「言向和」戦略による大縣主の解体であろうか…実際にはバトルもあったかも?・・・。
<三尾君・羽咋君・布多遲能伊理毘賣命> |
妹の「石衝毘賣命」は別名を持ち、「布多遲能伊理毘賣命」は倭建命の后となると述べられている。
布多遲能伊理毘賣命
布(布のような)|多(山稜の端の三角州)|遲(治水された)
…「布を敷いたように治水されている山稜の端の三角州」と解釈できる。現地名に京都郡みやこ町上原布引というところがある。まさか、ではあるが・・・。「能」=「熊(隅)」が付加され、山稜の端から突き出た小高いところ、岩崎八幡神社辺りを表しているのではなかろうか。「伊理毘賣」と記される。「田植え」をした毘賣であろう。
「布を敷き詰めたように」現在なら「絨毯を敷いたように」の表現かも。水田に水が張っている状態を上手く表現しているものと思われる。兄と離れ、更にはあの倭建命に娶られた。そして帶中津日子命(仲哀天皇)を生むことになるのである。