2019年3月14日木曜日

忍坂大室と土形 〔327〕

忍坂大室と土形


神倭伊波禮毘古命は宇陀で兄宇迦斯と遭遇し、事なきを得た後休む暇なく忍坂で「生尾土雲」と相対することになる。既にその場所は求められているのであるが、文字と地図が示す地形との詳細な合致は未達であった。

後に登場する応神天皇の御子、大山守命が祖となったと伝える「土形」と併せて述べてみることにする。その作業の過程で「忍坂大室」で出現する「八十建」の表記が何を伝えたかったのかも読み解けた。相変わらずの見事な命名を行っていることが解るのである。
 
忍坂大室

古事記原文[武田祐吉訳]…、

自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲訓云具毛八十建、在其室待伊那流。此三字以音。故爾、天神御子之命以、饗賜八十建、於是宛八十建、設八十膳夫、毎人佩刀、誨其膳夫等曰「聞歌之者、一時共斬。」故、明將打其土雲之歌曰、
[次に、忍坂の大室においでになった時に、尾のある穴居の人八十人の武士がその室にあって威張っております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩かして、その料理人どもに「歌を聞いたならば一緒に立って武士を斬れ」とお教えなさいました。その穴居の人を撃とうとすることを示した歌は]
意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良
[忍坂の大きな土室に大勢の人が入り込んだ。 よしや大勢の人がはいっていても威勢のよい久米の人々が 瘤大刀こぶたちの石大刀でもってやっつけてしまうぞ。 威勢のよい久米の人々が瘤大刀の石大刀でもって そら今撃つがよいぞ]
如此歌而、拔刀一時打殺也。
[かように歌って、刀を拔いて一時に打ち殺してしまいました]

既に記したところではあるが、場所の詳細が判るので引用してみると・・・、

いよいよ「宇陀」を発ち「金辺峠」を越えて行く。この峠越えの登りは急である。かつての鉄道列車は呼野駅でスウィッチバックして登っていたとか。なんとも地形的には厳しい環境である。現在は列車の性能等の向上をみた後であり、当時を偲ぶすべもないようである。近世では弓月街道などと呼ばれ、主要な幹線道路であった。小倉から九州北部の内陸への最短コースである。

「忍坂大室」はこの峠を越えたところと思われる。「忍坂」=「一見坂には見えない、目立たない坂」特に現在の「採銅所一」まで標高差はあるが長い坂が続き、勾配は決して大きくはない地形である。

後にこの地は「長谷」と呼ばれたと紐解くことになる。雄略天皇の宮・長谷朝倉宮があった谷とした。忍坂大室の「大室」=「大きな山腹の岩屋」ぐらいが通常の訳なのであろうが、「忍坂」と併せても場所の特定には及ばないようである。

・・・直前までの行程からは、間違いなくこの地域であることが推定できるが…と言ったところであろうか、残念ながら詰め切れていなかったのである。


<忍坂大室>
例によって一文字一文字を紐解いてみよう。勿論安萬侶コードを用いて・・・。

「大」=「平らな頂の山稜」、「室」=「宀+至」=「山麓が尽きるところ(谷間)」とすると…「忍坂大室」は…、
 
目立たない坂にある平らな頂の山稜の谷間

…と紐解ける。すると見事なまでに平らな頂の山稜が見出せる。

図に示した通り、頂が平らなだけでなく、そこから麓に伸びる枝稜線が並んで深い谷間を形成していることが判る。

「大」は「大きい」を示すために用いられていない。大斗大坂山しかり、下記の「大山守命」にも含まれている重要な地形象形の表記であって、これを見逃すと読み解けないのである。

更にその場所を表す文字が記されていた・・・「生尾土雲八十建」の出現である。「八十建」(八十人の武士)、「八十膳夫」(八十人の料理人)と訳されている。「建」が八十人?・・・後者の料理人が八十人とは?・・・首領を謀殺するのが得意な筋書きの筈、何故?・・・「八十」は…、
 
八(谷)|十(十字に交わったところ)


…と解釈される。伊邪那岐の禊祓から誕生した八十禍津日神と同じ解釈である。後の允恭天皇紀ににも味白檮之言八十禍津日前として登場する。「八十」は谷が交差する地形を示して、その場所が特定されるのである。

図に示したように現地名にある香春町採銅所の谷口は、谷が交差した場所であることが判る。南北の長い谷を流れる金辺川を挟んで相対する位置に東西に二つの谷がある地形となっている。これを「八十」と表記したと思われる。その地の「建」であり「膳夫」を表していると解釈される。

「生尾土雲」は、谷が交差する地に住まっていたと告げている。後の「倭建命」「熊曾建」「出雲建」と同じく「地名+建」の命名を行っていると読み解ける。「建」の名前を誰も貰わなかった…名前交換の「言向和」ではなく、その地を奪い取ったからであろうか・・・。

「大室の雲」とは何を意味するのであろうか?…武田氏は「土雲」に悩まれたのであろう。他の史書では「土蜘蛛」などと表現される。だが、この「雲」こそ神倭伊波禮毘古命が遠征してきた最終地点の前にある重要な、彼らにとって最も必要なものを生み出す場所を示しているのである。

「銅の精錬時に発生する煙」である。古事記、日本書紀の現代文訳のサイトを提供されている上田恣さん、いつもお世話になっております、貴方の「個人的カラム」に記述された「製鉄」の際に出る雲、敬意を表して記載させて頂きました

「忍坂大室の雲」で神武東征のルートは氷解したのである。そして古事記が描く古代の日本の姿をあからさまにした、と言える。「雲」解釈に賛同者が一人でもおられたことに感謝申し上げる。安萬侶くんの表現の正確さにも、あらためて感謝する。
 
土形

応神天皇の御子、大山守命について「是大山守命者、土形君、弊岐君、榛原君等之祖」と記述される。「土形」には既に様々な解釈がなされて、むしろ混迷の状態であるが、単純に考えると、銅の鋳型のような見方が成り立つであろう。これも意味しているのではあるが、やはり地形象形が施されている筈である。

「形」=「幵(木で組合せた枠)+彡(模様)」と解説されている。「木(山稜)」とする地形象形では…、
 
土形=土(大地)|形(山稜で作る型)
 
…と解釈できるであろう。安萬侶くん達の地形観察力には頭が下がる思いである。下図を参照。香春町採銅所の谷口辺りにある。初見では鍛冶屋敷辺りかと思われたが、地名のみに依存する解釈は危険であることを再確認する有り様であった。

大山守命は皇位継承に際して謀反を起こして敢無くこの世を去ることになる。銅の産地を治める立場にあった。またその任を果たしていたからこそ己が皇位を引継ぐものと思い込んでいたのかもしれない。

開化天皇紀の沙本毘古王は「日下部連」の祖となったと記される。垂仁天皇に背いて策略を試みるがこれも敢無く命を落とす。「忍坂大室」の地を支配できると、天下を支配したくなったのであろう。「八十」の谷間に渦巻く陰謀?…言い過ぎかも・・・。

ついでと言ってはなんだが、大山守命が祖となった近隣の地も紐解いておく。「弊岐」は…「弊」=「尽きる」の意味とし、「岐」=「山+支(二つに分かれた)」と分解すると…、
 
弊(尽きる)|岐(山の谷間)
 
…と紐解ける。谷が山を分かれさせたと見做した表現であろう。峠でそれが尽きると読み取れる。上記の採銅所がある「長谷」の谷間を行くと金辺峠である。
 
<大山守命(祖)>
谷間の尽きるところ、それを「弊岐」と呼んだのであろう。
住所表示は変わらず同町採銅所(谷口)の北側と思われる。

最後の「榛原」も一般的な名前であり、「原」の地形を持つとして同町採銅所(道原)辺りではなかろうか。

「榛」=「木+秦」としてみると…、
 
 木(山稜)|秦([秦]の地形)
 
…と紐解ける。延びた山稜が横に幾つも枝稜線を持つ地形を示したものと思われる。道原はその麓にあることが判る。

こうしてみると大山守命は銅産出の山に深く関わっていたことを示している。また、かなり近接する地を別けていることが、当時多くの人々が住まっていたことを示していると推察される。

少々余談だが・・・弊岐(ヘキ)」と読むと「日置(ヘキ)」と繋がって来る。他の史書では日置氏は大山守命の末裔とされているが、ここが本貫の地ではなかろうか。