2019年3月29日金曜日

高志前之角鹿:都奴賀 〔332〕

高志前之角鹿:都奴賀


息長帶日賣命(神功皇后)が新羅から帰国した後、継子の香坂王・忍熊王が謀反を起こすという件がある。出雲国(北部)の中心の地に居た大中津比賣の御子達である。何と言っても新羅まで遠征する皇后に歯向かって勝てるわけもなく、淡海で敢無く最後を遂げることになったと伝えている。

勝利した皇后側は、建内宿禰が御子を伴って、例によって、禊祓の儀式に向かうのであるが、それが「高志前之角鹿」と記述される。禊祓の記述には「裏」がある…と勝手に勘ぐっているわけだが、なかなか簡単には読取らせてはくれないようである。憶測を逞しくして読んだところを仲哀天皇紀、応神天皇紀に述べたので、そちらを参照願う。


<行程図>
さて、本題は「高志之角鹿」を、例によって「今謂都奴賀也」と記しているが、何故言い換えたか?…である。やはり「都奴賀」の文字の紐解きを怠ってはいけないようである。

因みに通説は福井県敦賀市、そこには立派な気比神宮が鎮座されている。「越前」の国譲り、立派に行われていることが伺える。
 
古事記原文[武田祐吉訳]…、

建內宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也。亦其入鹿魚之鼻血臰、故號其浦謂血浦、今謂都奴賀也。
[かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊をしようとして近江また若狹の國を經た時に、越前の敦賀に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀(やぶ)れたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食(みけ)つ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦と言いましたが、今では敦賀と言います]

何とも血生臭い説話であるが、登場する「其地伊奢沙和氣大神之命」の名前に潜められた意味…この大神は「高木」に出自を持つ、と読み解いた。「高木」を「言向和」するための第三国における和平交渉なのである。現在のA国とK国…なかなか「言向和」できないようだが・・・。

「血浦」は、神倭伊波禮毘古命が兄宇迦斯・弟宇迦斯と遭遇した宇陀之血原などで解釈した通り、「血」=「複数の山稜が突き出た山腹」として紐解けるが、残念ながら現在の敦賀には国譲りされていないようである。ちょっと血生臭さ過ぎた命名だったかも、である。この地こそ氣比大神が祀られている場所なのだが・・・。

探すと容易に左図に示したところが見出せる。砕石によって際どい状態であるが「血」の形を残している。下図<血浦・都奴賀>中の二つの角に挟まれたところは、現在の海抜10m以下で大半が海面下にあったところと推測される。「血浦」は図に示したところ、麓にある現在の貴布祢神社辺りが氣比大神の居場所であったと推定される。

そして伊奢沙別命を主祭神とする気比神宮の本来の場所であることを告げているのである。天皇家と高木との和解の地、過去に血生臭い経緯を含んでいるのかもしれない。

今謂都奴賀也」の「都奴賀」は何と紐解けるであろうか?…「角鹿」は地形を見たままの表記であって、殊更付け加える必要があるのか?…むしろ意味不明の文字列になり下がっていると思いたくなる。だが、これこそ古事記の真髄、その場所の地形を、丁寧に表しているのである。

「奴」の文字は、速須佐之男命の御子、八嶋士奴美神などに含まれていた。「奴」=「女+又」と分解して「嫋やかに寄り集まる様」を表していると紐解いた。それを用いて「嫋やかに曲がる山稜が寄り集まるところ」と読んでも全く問題ないようであるが()、更に読み込むと…、
 
都(集まる)|奴([女]・[又]の地形)|賀(谷間に積重なる田)

…「[女]と[又]の形を集めた地の谷間に積重なる田があるところ」と紐解ける。二つの「角」がそれぞれ「女」と「又(手)」の地形を表していると見做したのである。
 
<血浦・都奴賀>
正に「女」と「又(手)」の地形が寄り集まった地形であることが解る。図中に甲骨文字の字形を示した。


これは何としても「都奴賀」と表記したかったのであろう。幾度も登場する「今謂○○○也」の用法には真に感心させられる。

読み手にしっかりと伝えようとする。がしかし、簡単に読めては困る、そんな状況の中で記述されたのが古事記であろう。

日本の地名、その由来は不詳か、例えあったとしても怪しげな答えが返って来る場合に遭遇することが多い。

また、漢字表記と実際の発音の関連に全く根拠が見出せない場合も見受けられる。古事記の序に記載された「日下(クサカ)」などが代表的な例であろう。

地名は時の施政者の恣意的な変更など、容易に変化するものである。古事記の時代に地名などあろう筈もなく、安萬侶くん達が考案した方法(地形象形)は、実に素晴らしいものであったと思われる。その素晴らしさは、後の施政者によって無残にもなし崩しになってしまったのである。

そして、一旦崩された本来の地名は、元に戻されることもなく、国譲りされ、全く関係のない地名を表すことになった。唯一残存するところは宗像の辺津宮の場所のみである。中津宮も奥津宮も、もちろん出雲、筑紫も全てが遠慮会釈なくあらぬところに移されてしまったのである。上記の「都奴賀」の示す地形は現在の敦賀に見出すことは不可能である。

「万世一系」と叫んだ来た国、それは「万世多系」の国であったことの裏返しであろう。極東の端に、それぞれのDNAを持って寄り集まって来た人々が作り上げた国、それが日本国であって、多種混在の裏返しの思想が現在に引き継がれていることを強く感じる今日此の頃である。



<血浦・都奴賀①>
右図のように見受けられるが、角の破壊が凄まじく、如何ともし難し。

が、古事記が伝えていることを素直に受け止めれば、二つの嫋やかな又(手)を寄せ集めたところを「都奴」と表記したのであろう。

建内宿禰の御子、木角宿禰が祖となった都奴に関連すると思われる。