淤能碁呂嶋
伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの段の冒頭に記述される「淤能碁呂嶋」については、既に何度か言及して来た。この島でいよいよ作業開始となるのあるが、「天之御柱・八尋殿」など、付帯設備も整えたとされ、その場所も突止めることができた。詳細はこちらを参照願う。
がしかし、何故か「淤能碁呂嶋」の文字列が何を意味しているのかは、紐解いていなかった。欠落部の補填である。正に、下記の原文に記載されているように「自其矛末垂落之鹽累積」でできた島らしい表記であった。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
<天浮橋・淤能碁呂嶋・淡嶋>
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[そこで天の神樣方の仰せで、イザナギの命・イザナミの命御二方に、「この漂っている國を整えてしっかりと作り固めよ」とて、りっぱな矛をお授けになって仰せつけられました。それでこの御二方の神樣は天からの階段にお立ちになって、その矛をさしおろして下の世界をかき廻され、海水を音を立ててかきして引きあげられた時に、矛の先から滴たる海水が、積って島となりました。これがオノゴロ島です]
「淤能碁呂嶋」の比定場所を再確認すると、現在の下関市彦島西山町とした。大正時代の地図を参照するとこの島が大きく変化して今日の地形となったことが伺える。溶岩台地の大部分は海面下にかったようである。海進と沖積によって海面水位が大きく変化した今日につながっているのである(詳細はこちらを参照)。
伊邪那岐・伊邪那美が国(島)生みを行った時は、およそ現在の海深で5m前後と推定したが、そのと時は、むしろ現在の地形に近い状態であったと推測される(埋立て地を除く)。いずれにしても大陸・海洋プレートの鬩ぎ合いの場所に日本列島がある限り、マグマの吹き出口が必要だったと思われる。そんな溶岩台地の島が「淤能碁呂嶋」であると導かれる。勿論「伊伎嶋」も同様な経緯で誕生したのであろう。
では早速、「淤能碁呂嶋」の文字解きを行ってみよう・・・、
淤(泥が固まった)|能(熊:隅)|碁([箕]の形)|呂(積み重なる)|嶋
…「泥が固まったようなところの隅が[箕]の形で積重なった島」と解釈される。
古事記中に幾度も登場する「箕:碁、其、三野」の地形、最も重要な地形象形の一つとして挙げられるであろう。
現在の地形には後代の手が加えられているようであるが、基本の形を読取ることは可能と思われる。
重要なことは、隅に「囗」な台地が形成されていることであり、そこに伊邪那岐・伊邪那美の拠点が置かれたと述べていることである。
この地形を捉えて「八尋殿」、「天之御柱」という表現を行ったことに苦笑を禁じ得ない有様である。そして重要な「火山」があることをちゃんと伝えているのである。既報で述べたが、再掲して置く。
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天之御柱・八尋殿
国(島)生みの場所である。通訳は「大きな柱、大きな御殿」である。特に問題はなさそうで、さらりと読み飛ばされてしまうところであろう。後に登場する八尋矛なら素直に受け止められそうだが、御殿となると、何か他の意味?…を込めているのかもしれない。
「天」=「阿麻(擦り潰された台地)」及び「柱」は後に登場する伊伎嶋の別名「天比登都柱」の「柱」=「木+主」=「燃える火がある山」と同じとして…、
天之(擦り潰された台地の)|御(束ねる)|柱(燃える火がある山)
…「擦り潰された台地で燃える火がある山を束ねたところ」と紐解ける。「柱」の周辺、麓の意味と読み取れる。「御」=「御する、束ねる、臨む(面する)」と解釈する。図に示した現在の彦島西山町の最高峰(標高31m)の麓を示していると思われる。
「尋」=「奥深く入り込む」が原義(藤堂説)とある。すると…「八尋殿」は…、
「尋」=「奥深く入り込む」が原義(藤堂説)とある。すると…「八尋殿」は…、
八(谷の)|尋(奥深く入ったところ)|殿(大きくて立派な建物)
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「淤能碁呂嶋(オノゴロシマ)」という語感を示しながら、島の形状を伝える、やはり見事と言う以外になすすべが見つからないようである。