大帶日子淤斯呂和氣命:娶りと御子続編(含妾之子)
景行天皇の段は倭建命の活躍の影で何となく事績も少なく、従って説話もなく、終わってしまうのであるが、既に述べたように垂仁天皇の人材増強の祭り事をキチンと引き継いでいるようである。で、何をしたかという、ひたすら御子を誕生させたのである。あまりの数に記録が怪しくなるほどで、安萬侶くん達も止むを得ず古事記記載を省略したのである。確かに凄まじい・・・。
それで妾の文字が出現するのだが、少々紐解く方には情報欠落となって悔しいところもある。ただ、恣意的に妾として名前を伏せている節も感じられ、複雑なところではある。愚痴を言っても仕方なし、知恵を絞って居所突き止め作業を継続するのである
雑駁に娶りと御子を列挙するのでストーリーは、ほぼ無視、お時間あれば<景行天皇>を参照願う。先ずは、「伊豫之二名嶋の四面」の表記は姿を消し、四つの「木」で表されるようになる。高木(粟国:これは応神天皇紀で頻出)以外の三つの「木」の詳細を突き止めてみよう。
1. 五百木之入日子命・入日賣命
大帶日子淤斯呂和氣天皇(景行天皇)の娶りの記述「娶八尺入日子命之女・八坂之入日賣命、生御子、若帶日子命、次五百木之入日子命、次押別命、次五百木之入日賣命」とある。「五百木」が付いた御子が二人誕生する。
「五百木」はかつての伊豫国とした。多くの山稜が入り乱れたような地形を示す場所と紐解いたのだが、それだけに特徴のある地形が少なく、かなり詳細に眺めないと伊豫国の中の何処に坐していたかは求めにくい状況ではある。
その他の記載された情報もなく、従って母親の八坂之入日賣命との場所との関係で推測してみよう。
彼女は図に示すように「八坂」に居たが、それは洞海湾に面するところと言える。
そして「押別命」が八坂と洞海湾との間に田を広げたならば、他の兄弟たちは新たな地を求めて旅立つことになったのであろう。その一つが「五百木」と告げているのである。
伊豫国を見る視点は現在では響灘の海側から眺めるのであろうが、間違いなく、当時は洞海湾を中心とした海域が彼らの交流圏を形成していたものと思われる。
すると、「五百木」は洞海湾それに繋がる江川、甚五井川及び坂井川の流域を中心とした地域と考えるべきではなかろうか。
その江川、甚五井川及び坂井川は現在のような川幅では毛頭なく、図に示した広い水田地帯(青色)は全て海面下にあったと推測される(標高5m以下)。現在の北九州市若松区蜑住は海辺に当たり、その奥が「有毛」である。川沿いに豊かな水田が見られる。黄色破線の中は概ね標高7~30mであり、当時も水田として利用できたのではなかろうか。
この地が五百木之入日子命、入日賣命が坐していたところと推定される。既述したように入日子、入日賣は苗代を作って田植えを行っていたと考えた命名である。なだらかな傾斜の地は彼らにとって最も好ましい稲作立地の条件を満たしていたのであろう。蜑住の地名はその名の通りに海辺で住まう人々に由来するところと推測される。
伊豫国の中心地として直感的に求められるところではあるが、洞海湾から眺めてもここに行き着くことが判った。伊邪那岐・伊邪那美が国生みをした時代の海面の状態と古事記が語る時代との違いを敢えて異なる表記で伝えている。それを念頭に置いて読め!…と述べているのである。次いで、最後の御子「若帶日子命」について述べる。
2. 若帶日子命
雑駁に娶りと御子を列挙するのでストーリーは、ほぼ無視、お時間あれば<景行天皇>を参照願う。先ずは、「伊豫之二名嶋の四面」の表記は姿を消し、四つの「木」で表されるようになる。高木(粟国:これは応神天皇紀で頻出)以外の三つの「木」の詳細を突き止めてみよう。
1. 五百木之入日子命・入日賣命
大帶日子淤斯呂和氣天皇(景行天皇)の娶りの記述「娶八尺入日子命之女・八坂之入日賣命、生御子、若帶日子命、次五百木之入日子命、次押別命、次五百木之入日賣命」とある。「五百木」が付いた御子が二人誕生する。
「五百木」はかつての伊豫国とした。多くの山稜が入り乱れたような地形を示す場所と紐解いたのだが、それだけに特徴のある地形が少なく、かなり詳細に眺めないと伊豫国の中の何処に坐していたかは求めにくい状況ではある。
<五百木之入日子・入日賣> |
彼女は図に示すように「八坂」に居たが、それは洞海湾に面するところと言える。
そして「押別命」が八坂と洞海湾との間に田を広げたならば、他の兄弟たちは新たな地を求めて旅立つことになったのであろう。その一つが「五百木」と告げているのである。
伊豫国を見る視点は現在では響灘の海側から眺めるのであろうが、間違いなく、当時は洞海湾を中心とした海域が彼らの交流圏を形成していたものと思われる。
すると、「五百木」は洞海湾それに繋がる江川、甚五井川及び坂井川の流域を中心とした地域と考えるべきではなかろうか。
その江川、甚五井川及び坂井川は現在のような川幅では毛頭なく、図に示した広い水田地帯(青色)は全て海面下にあったと推測される(標高5m以下)。現在の北九州市若松区蜑住は海辺に当たり、その奥が「有毛」である。川沿いに豊かな水田が見られる。黄色破線の中は概ね標高7~30mであり、当時も水田として利用できたのではなかろうか。
この地が五百木之入日子命、入日賣命が坐していたところと推定される。既述したように入日子、入日賣は苗代を作って田植えを行っていたと考えた命名である。なだらかな傾斜の地は彼らにとって最も好ましい稲作立地の条件を満たしていたのであろう。蜑住の地名はその名の通りに海辺で住まう人々に由来するところと推測される。
伊豫国の中心地として直感的に求められるところではあるが、洞海湾から眺めてもここに行き着くことが判った。伊邪那岐・伊邪那美が国生みをした時代の海面の状態と古事記が語る時代との違いを敢えて異なる表記で伝えている。それを念頭に置いて読め!…と述べているのである。次いで、最後の御子「若帶日子命」について述べる。
2. 若帶日子命
「若帯日子」(後の成務天皇)=「若い方の満たす人」で父親の「大帯」に対して名付けられたと解釈したくなるのだが・・・四人の御子中三人が洞海湾の近隣に因む名前を持っていたことが判った。では、残る一人の若帶日子命もその居場所を示しているのではなかろうか。
<若帶日子命⑴> |
「修多羅」=「スータラ:経文」であるが「袈裟の装飾として垂らす赤白四筋の組紐」のことでもある。
この「垂らす」と繋がるのか?…後の倭建命の御子、建貝兒王が「讃岐綾君」、「綾=組紐」とも関連ありや?・・・。
「若木」に関連するとしてもなかなかに解読できそうにない。簡単な表記故に一層不確かな考察に陥ってしまうのである。
今一度地形を眺めてみると・・・「若木」即ち「山稜の分岐が少なく、またそれが未発達な状態」を示すと解釈した。要するに谷の形成が不十分な地形と思われる。
ところがこの「修多羅」と言われている地は多くの山稜分岐があり、それが作る谷の深さが不十分な地形を示していることが判った。
<若帶日子命⑵> |
画像にするとのっぺりとしているが、微かに山稜分岐が確認できる状態である。何のことはない…、
若帶=若木が満ちている
…と読み解ける。余りにも簡明な結果なので敢えて考察の過程を記述したが、概ね紐解きとはこんなものであろう。
現地名の修多羅の由来も決して明らかではない。いずれにしても経文が絡むものには古事記は無関係であろう。
八坂之入日賣関連の考察が八坂及び伊豫之二名嶋は洞海湾を中心とした密接な繋がりを持つ一つの地域であったことが導かれた。
海を中心とした海洋国家ではないが、生活文化圏としての認識を示していることは極めて貴重な記述と思われる。古事記が書き残した日本の古代の姿である。
3. 二人の妾
古事記は…「妾之子、豐戸別王、次沼代郎女。又妾之子、沼名木郎女、次香余理比賣命、次若木之入日子王、次吉備之兄日子王、次高木比賣命、次弟比賣命」と記述する。母親の居場所が隠されているので、少々粗い比定になりそうであるが、構わず進めてみよう。ここも「木」が多く登場する。
3-1. 豊戸別王・沼代郎女
「豐」は「豐国」関連であることと解釈するのであるが、「豐国謂豐日別」の記述は別として、豐国の位置を明確に表したのは神倭伊波禮毘古命の「豐国宇沙」である。この地の場所が紐解けないと、豐国は宇佐まで飛んで行くことになり、豐国の領域は極めて漠然としたものに止まっていたであろう。恐ろしい、真に気の抜けない記述である。漠然が望ましく思う方々には都合良し、かもであるが・・・。
「戸」は「宍戸、瀬戸」で使われるように水の流れが細く狭まったところ意味するであろう。
豐の地にそれを求めると、「宇沙」を含む地域を示すと思われる。現在の地名は行橋市天生田辺りであろう。
当時の犀川(現今川)の川幅は広く、陸地は現在より大きく後退していたと推測される。推定海岸線は仁徳天皇紀のこちらを参照。
「沼代郎女」は…、
…と解釈すれば図の大池を背にしてのではなかろうか。どうやらこの妾は、宇沙都比古・宇沙都比賣に後裔に当たる女人だったように思われるが、確証は全くない。
<豐戸別王・沼代郎女> |
豐の地にそれを求めると、「宇沙」を含む地域を示すと思われる。現在の地名は行橋市天生田辺りであろう。
当時の犀川(現今川)の川幅は広く、陸地は現在より大きく後退していたと推測される。推定海岸線は仁徳天皇紀のこちらを参照。
「沼代郎女」は…、
沼代=沼が背にある
…と解釈すれば図の大池を背にしてのではなかろうか。どうやらこの妾は、宇沙都比古・宇沙都比賣に後裔に当たる女人だったように思われるが、確証は全くない。
もう一人の妾からは六人も誕生する。伊豫之二名嶋の「沼名木=土左国」「若木=讃岐国」「高木=粟国(2)」で現地名北九州市若松区である。「吉備」は現地名山口県下関市吉見である。上記の名前だけからではそれぞれの国の何処に居たかは特定し辛いのだが、関連した既述から推定してみよう。尚、「高木」については後の応神天皇紀に高木関連の既述が頻出するのでそちらで纏める。
3-2. 沼名木郎女
土左国の別名と解釈したが、「沼名木」の文字列は古事記に二度登場する。伊豫関連としては少ない。ここで登場するのと崇神天皇が尾張連之祖・意富阿麻比賣を娶って誕生する「沼名木之入日賣命」である。人材、と言うか娶る比賣がいなかったのであろう。崇神天皇紀ではその詳細の居場所を求めていなかったが、あらためて推論してみよう。
上記の「五百木」で述べた通りにこの地も現在の地形とは大きく異なる、より大きな変化があったかと推測される。
また、大規模な宅地開発が行われおり、それも少なからず影響しているが、できる範囲で推定してみる。
江川に合流する坂井川及びその支流の流域は全て海面下にあったと思われる。すると池(沼)が無数にある丘陵地帯のみが残り、それが「沼名木」(沼が目立つ山稜)の地と言われたところとなる。
その謂れの通りであるが、五百木と比較すると極端に水田にできる土地が少なくなる。よく観察すると辛うじて図の青色破線で囲んだ所(現地名は若松区乙丸)に水田が見受けられる状況である。
沼及び海を活用した食糧の確保を主としていたのではなかろうか。崇神天皇紀の比賣には「入日賣」が付くことからこの狭いところに坐し、その近隣が沼名木の中心の場所と推定される。
古事記登場回数が少ないのも十分に頷ける訳である。この地の比賣の御子には「別」を与え辛く、別途の手配が必要になって来る。食糧の調達、その拡張が望めないところは古事記の表舞台から引き下がらざるを得なかったということになる。至極当然の帰結であろう。
3-3. 香余理比賣命・若木之入日子王
何故、纏めて述べる?…地図掲載の都合である。先ずは、唯一もう少し絞り込まれた名前が示されている「香余理比賣命」を紐解いてみよう。香余理(コヨリ=紙縒り)のような比賣、なんてことはあり得ないであろう。上記の「若帶日子命」と如何に棲み分けているかも興味深い。
…「石峰山山稜が延びた残りで田畑を区分けする」比賣と、既出の安萬侶コードで紐解ける。天香山の「香」に通じる。この石峰山も重要な祭祀場所であったと思われる(高木神が居た?)。
この地を除くと若木の東部は殆ど海面下に…唯一の残りが図に示した「若木之入日子王」の場所となる。
畑地としての土地は多くあるが水田にできそうな谷川は少ない。現在は住宅密集地の様相である。時代が求める変化であろうし、本来耕地とするには狭い土地である。地図を眺めて今に残る地名「棚田町」(香余理比賣の場所)に救われたような気分である。
重要な場所に坐した比賣だから名前を付けたかも、である。妾の住まいは粟国=高木?…定かでない。それにしても景行天皇、こまめにお出掛けなされたことである。比賣の名前も確認しなかったのかもしれない、そんなことはないか・・・。
3-4. 吉備之兄日子王
吉備は幾度も登場するのであるが、概ね御子の名前に詳細な情報が含まれていて坐したところを特定できるのでるが、「兄」では如何ともし難い・・・それとも何かを意味しているのか?…一体どんな地形を象形しているのであろか。
「兄」=「口+ハ」と分解すると「口」=「大きく広がったところ」、「ハ」=「谷」の象形ではなかろうか…、
図から判るように山からの谷筋が一様に広がるのではなく、特徴的な形をしている。真に「兄」の文字に当て嵌まる地形であることが伺える。現地名は下関市吉見上・下の境に当たる。地図には中町という表記もあり、旧地名であろうか。
古事記には「兄弟」の表現が多く登場するが、単独で用いられた例は初めてのようである。それが、ナント、地形象形していたのである。恐るべし、である。下記に関連する「大兄」が登場する。大恐るべし、である。
土左国の別名と解釈したが、「沼名木」の文字列は古事記に二度登場する。伊豫関連としては少ない。ここで登場するのと崇神天皇が尾張連之祖・意富阿麻比賣を娶って誕生する「沼名木之入日賣命」である。人材、と言うか娶る比賣がいなかったのであろう。崇神天皇紀ではその詳細の居場所を求めていなかったが、あらためて推論してみよう。
<沼名木郎女> |
また、大規模な宅地開発が行われおり、それも少なからず影響しているが、できる範囲で推定してみる。
江川に合流する坂井川及びその支流の流域は全て海面下にあったと思われる。すると池(沼)が無数にある丘陵地帯のみが残り、それが「沼名木」(沼が目立つ山稜)の地と言われたところとなる。
その謂れの通りであるが、五百木と比較すると極端に水田にできる土地が少なくなる。よく観察すると辛うじて図の青色破線で囲んだ所(現地名は若松区乙丸)に水田が見受けられる状況である。
沼及び海を活用した食糧の確保を主としていたのではなかろうか。崇神天皇紀の比賣には「入日賣」が付くことからこの狭いところに坐し、その近隣が沼名木の中心の場所と推定される。
古事記登場回数が少ないのも十分に頷ける訳である。この地の比賣の御子には「別」を与え辛く、別途の手配が必要になって来る。食糧の調達、その拡張が望めないところは古事記の表舞台から引き下がらざるを得なかったということになる。至極当然の帰結であろう。
3-3. 香余理比賣命・若木之入日子王
何故、纏めて述べる?…地図掲載の都合である。先ずは、唯一もう少し絞り込まれた名前が示されている「香余理比賣命」を紐解いてみよう。香余理(コヨリ=紙縒り)のような比賣、なんてことはあり得ないであろう。上記の「若帶日子命」と如何に棲み分けているかも興味深い。
…「石峰山山稜が延びた残りで田畑を区分けする」比賣と、既出の安萬侶コードで紐解ける。天香山の「香」に通じる。この石峰山も重要な祭祀場所であったと思われる(高木神が居た?)。
この地を除くと若木の東部は殆ど海面下に…唯一の残りが図に示した「若木之入日子王」の場所となる。
畑地としての土地は多くあるが水田にできそうな谷川は少ない。現在は住宅密集地の様相である。時代が求める変化であろうし、本来耕地とするには狭い土地である。地図を眺めて今に残る地名「棚田町」(香余理比賣の場所)に救われたような気分である。
重要な場所に坐した比賣だから名前を付けたかも、である。妾の住まいは粟国=高木?…定かでない。それにしても景行天皇、こまめにお出掛けなされたことである。比賣の名前も確認しなかったのかもしれない、そんなことはないか・・・。
3-4. 吉備之兄日子王
吉備は幾度も登場するのであるが、概ね御子の名前に詳細な情報が含まれていて坐したところを特定できるのでるが、「兄」では如何ともし難い・・・それとも何かを意味しているのか?…一体どんな地形を象形しているのであろか。
<吉備之兄日子王> |
「兄」=「口+ハ」と分解すると「口」=「大きく広がったところ」、「ハ」=「谷」の象形ではなかろうか…、
兄=谷の奥が広がった
…という地形を表していると解釈される。「貝」と類似の地形象形と思われる。
図から判るように山からの谷筋が一様に広がるのではなく、特徴的な形をしている。真に「兄」の文字に当て嵌まる地形であることが伺える。現地名は下関市吉見上・下の境に当たる。地図には中町という表記もあり、旧地名であろうか。
古事記には「兄弟」の表現が多く登場するが、単独で用いられた例は初めてのようである。それが、ナント、地形象形していたのである。恐るべし、である。下記に関連する「大兄」が登場する。大恐るべし、である。
4. 日向之美波迦斯毘賣
<日向之美波迦斯毘賣> |
「美波迦斯」は通説「御佩刀=高貴な人の刀」日本書紀では「御刀媛」のそのものの表現であるが、久米一族の比賣ならいざ知らず、どうも合わない。
で、少し紐解いてみようかと…美波迦斯…、
美(谷間が広がる)|波(端)|迦(増す)|斯(蛇行する川)
…「谷間が広がる端で蛇行を増す川がある」毘賣(田を並べて生み出す女)と紐解ける。
現在の遠賀郡岡垣町波津、「笠沙」岬の東側に当たるところと思われる。ほぼ直角に曲がる蛇行をしていることが判る。「美」=「羊+大」で羊の甲骨文字の象形から、また「迦」=「辶+加」と解釈する。「美」の解釈は前記で追記した「淤迦美神」に含まれている…実に多くの「美」が古事記で記載される。地形を表すもの、全てこれで解読できる。安萬侶コード「美(谷間が広がる)」登録済である。
御子に「豐國別王」が誕生する。「豊」を代表する国の誕生である。
現在の遠賀郡岡垣町波津、「笠沙」岬の東側に当たるところと思われる。ほぼ直角に曲がる蛇行をしていることが判る。「美」=「羊+大」で羊の甲骨文字の象形から、また「迦」=「辶+加」と解釈する。「美」の解釈は前記で追記した「淤迦美神」に含まれている…実に多くの「美」が古事記で記載される。地形を表すもの、全てこれで解読できる。安萬侶コード「美(谷間が広がる)」登録済である。
<豊国> |
響灘に面し、湯川山から流れる川があり、「茨田」を作り、人々が集まり住んでいたところではなかろうか。そんな地を埋もれさせないためにも敢えて比定する。
御所ヶ岳山・馬ヶ岳山系の北麓、長峡川とに挟まれた東西に長い国である。
東の馬ヶ岳山系が途切れるところから西の障子ヶ岳・大坂山山系までを指し示しているかと思われる。
東の馬ヶ岳山系が途切れるところから西の障子ヶ岳・大坂山山系までを指し示しているかと思われる。
この御子は戻って「日向國造之祖」となる。二つの国が一つに繋がったのである。邇邇芸命一家の始点と終点がこの御子によって繋がり、そしてまた新たな国造りに向かうことを述べていると思われる。「日向」は博多湾岸には、決して、あり得ない。
5. 大郎女之弟・伊那毘能若郎女
<日子人之大兄王> |
次の「日子人之大兄王」は何と紐解けるか?…古事記には一度の出現、「日子人」の文字列も後代に「忍坂日子人王」として登場するのみである。
が、これは重要なヒントで、「人(ヒト)」ではないことを示している。
間違いなく地形象形であり、続く「大兄」も上記の吉備之兄日子王と同様の意味を表していると思われる。「日子人」は地名として…、
日子人=日子(稲穂の)|人(人の形の谷)
…「稲穂がある人(三角)の形をした谷」と解釈できる。「大兄」=「谷の奥が大きく広がったところ」として…「稲穂がある人(三角)の形をした谷の奥が大きく広がったところ」と紐解ける。
さて、そんなところがあるのか…現地名は下関市永田郷である。南は吉見に接するところから北は梅ヶ峠辺りまでで、永田郷妙寺に「大兄」がすっぽりと収まる。
永田郷にある石原、石王田は垂仁天皇の御子、大中津日子命が祖となった「吉備之石无別」に当たるとしたところである。当時は石王田の南側まで海面下にあったと推定される。日子人之大兄王は「倭国連邦言向和国」の最北端に居た王と思われる。安萬侶コード「兄(谷の奥が広がったところ)」登録である。
北端の人にお目にかかることはないようであるが、恙無くで・・・。