2018年6月28日木曜日

大帶日子淤斯呂和氣命:娶りと御子続編(含妾之子) 〔227〕

大帶日子淤斯呂和氣命:娶りと御子続編(含妾之子) 


景行天皇の段は倭建命の活躍の影で何となく事績も少なく、従って説話もなく、終わってしまうのであるが、既に述べたように垂仁天皇の人材増強の祭り事をキチンと引き継いでいるようである。で、何をしたかという、ひたすら御子を誕生させたのである。あまりの数に記録が怪しくなるほどで、安萬侶くん達も止むを得ず古事記記載を省略したのである。確かに凄まじい・・・。


それで妾の文字が出現するのだが、少々紐解く方には情報欠落となって悔しいところもある。ただ、恣意的に妾として名前を伏せている節も感じられ、複雑なところではある。愚痴を言っても仕方なし、知恵を絞って居所突き止め作業を継続するのである

雑駁に娶りと御子を列挙するのでストーリーは、ほぼ無視、お時間あれば<景行天皇>を参照願う。先ずは、「伊豫之二名嶋の四面」の表記は姿を消し、四つの「木」で表されるようになる。高木(粟国:これは応神天皇紀で頻出)以外の三つの「木」の詳細を突き止めてみよう。

1. 五百木之入日子命・入日賣命

大帶日子淤斯呂和氣天皇(景行天皇)の娶りの記述「娶八尺入日子命之女・八坂之入日賣命、生御子、若帶日子命、次五百木之入日子命、次押別命、次五百木之入日賣命」とある。「五百木」が付いた御子が二人誕生する。

「五百木」はかつての伊豫国とした。多くの山稜が入り乱れたような地形を示す場所と紐解いたのだが、それだけに特徴のある地形が少なく、かなり詳細に眺めないと伊豫国の中の何処に坐していたかは求めにくい状況ではある。


<五百木之入日子・入日賣>
その他の記載された情報もなく、従って母親の八坂之入日賣命との場所との関係で推測してみよう。

彼女は図に示すように「八坂」に居たが、それは洞海湾に面するところと言える。

そして「押別命」が八坂と洞海湾との間に田を広げたならば、他の兄弟たちは新たな地を求めて旅立つことになったのであろう。その一つが「五百木」と告げているのである。

伊豫国を見る視点は現在では響灘の海側から眺めるのであろうが、間違いなく、当時は洞海湾を中心とした海域が彼らの交流圏を形成していたものと思われる。

すると、「五百木」は洞海湾それに繋がる江川、甚五井川及び坂井川の流域を中心とした地域と考えるべきではなかろうか。

その江川、甚五井川及び坂井川は現在のような川幅では毛頭なく、図に示した広い水田地帯(青色)は全て海面下にあったと推測される(標高5m以下)。現在の北九州市若松区蜑住は海辺に当たり、その奥が「有毛」である。川沿いに豊かな水田が見られる。黄色破線の中は概ね標高7~30mであり、当時も水田として利用できたのではなかろうか。

この地が五百木之入日子命、入日賣命が坐していたところと推定される。既述したように入日子、入日賣は苗代を作って田植えを行っていたと考えた命名である。なだらかな傾斜の地は彼らにとって最も好ましい稲作立地の条件を満たしていたのであろう。蜑住の地名はその名の通りに海辺で住まう人々に由来するところと推測される。

伊豫国の中心地として直感的に求められるところではあるが、洞海湾から眺めてもここに行き着くことが判った。伊邪那岐・伊邪那美が国生みをした時代の海面の状態と古事記が語る時代との違いを敢えて異なる表記で伝えている。それを念頭に置いて読め!…と述べているのである。次いで、最後の御子「若帶日子命」について述べる。

2. 若帶日子命

「若帯日子」(後の成務天皇)=「若い方の満たす人」で父親の「大帯」に対して名付けられたと解釈したくなるのだが・・・四人の御子中三人が洞海湾の近隣に因む名前を持っていたことが判った。では、残る一人の若帶日子命もその居場所を示しているのではなかろうか。


<若帶日子命⑴>
「若」は「若木=讃岐国」とすると、現地名の北九州市若松区修多羅の地名がある。

「修多羅」=「スータラ:経文」であるが「袈裟の装飾として垂らす赤白四筋の組紐」のことでもある。

この「垂らす」と繋がるのか?…後の倭建命の御子、建貝兒王が「讃岐綾君」、「綾=組紐」とも関連ありや?・・・。

「若木」に関連するとしてもなかなかに解読できそうにない。簡単な表記故に一層不確かな考察に陥ってしまうのである。

今一度地形を眺めてみると・・・「若木」即ち「山稜の分岐が少なく、またそれが未発達な状態」を示すと解釈した。要するに谷の形成が不十分な地形と思われる。

ところがこの「修多羅」と言われている地は多くの山稜分岐があり、それが作る谷の深さが不十分な地形を示していることが判った。
<若帶日子命⑵>

画像にするとのっぺりとしているが、微かに山稜分岐が確認できる状態である。何のことはない…、


若帶=若木が満ちている

…と読み解ける。余りにも簡明な結果なので敢えて考察の過程を記述したが、概ね紐解きとはこんなものであろう。

現地名の修多羅の由来も決して明らかではない。いずれにしても経文が絡むものには古事記は無関係であろう。

八坂之入日賣関連の考察が八坂及び伊豫之二名嶋は洞海湾を中心とした密接な繋がりを持つ一つの地域であったことが導かれた。

海を中心とした海洋国家ではないが、生活文化圏としての認識を示していることは極めて貴重な記述と思われる。古事記が書き残した日本の古代の姿である。

3. 二人の妾

古事記は…「妾之子、豐戸別王、次沼代郎女。又妾之子、沼名木郎女、次香余理比賣命、次若木之入日子王、次吉備之兄日子王、次高木比賣命、次弟比賣命」と記述する。母親の居場所が隠されているので、少々粗い比定になりそうであるが、構わず進めてみよう。ここも「木」が多く登場する。

3-1. 豊戸別王・沼代郎女

「豐」は「国」関連であることと解釈するのであるが、「国謂日別」の記述は別として、国の位置を明確に表したのは神倭伊波禮毘古命の「国宇沙」である。この地の場所が紐解けないと、国は宇佐まで飛んで行くことになり、国の領域は極めて漠然としたものに止まっていたであろう。恐ろしい、真に気の抜けない記述である。漠然が望ましく思う方々には都合良し、かもであるが・・・。
 
<豐戸別王・沼代郎女>

「戸」は「宍戸、瀬戸」で使われるように水の流れが細く狭まったところ意味するであろう。

の地にそれを求めると、「宇沙」を含む地域を示すと思われる。現在の地名は行橋市天生田辺りであろう。

当時の犀川(現今川)の川幅は広く、陸地は現在より大きく後退していたと推測される。推定海岸線は仁徳天皇紀のこちらを参照。

「沼代郎女」は…、
 
沼代=沼が背にある

…と解釈すれば図の大池を背にしてのではなかろうか。どうやらこの妾は、宇沙都比古・宇沙都比賣に後裔に当たる女人だったように思われるが、確証は全くない。

もう一人の妾からは六人も誕生する。伊豫之二名嶋の「沼名木=土左国」「若木=讃岐国」「高木=粟国(2)」で現地名北九州市若松区である。「吉備」は現地名山口県下関市吉見である。上記の名前だけからではそれぞれの国の何処に居たかは特定し辛いのだが、関連した既述から推定してみよう。尚、「高木」については後の応神天皇紀に高木関連の既述が頻出するのでそちらで纏める。

3-2. 沼名木郎女

土左国の別名と解釈したが、「沼名木」の文字列は古事記に二度登場する。伊豫関連としては少ない。ここで登場するのと崇神天皇が尾張連之祖・意富阿麻比賣を娶って誕生する「沼名木之入日賣命」である。人材、と言うか娶る比賣がいなかったのであろう。崇神天皇紀ではその詳細の居場所を求めていなかったが、あらためて推論してみよう。


<沼名木郎女>
上記の「五百木」で述べた通りにこの地も現在の地形とは大きく異なる、より大きな変化があったかと推測される。

また、大規模な宅地開発が行われおり、それも少なからず影響しているが、できる範囲で推定してみる。

江川に合流する坂井川及びその支流の流域は全て海面下にあったと思われる。すると池(沼)が無数にある丘陵地帯のみが残り、それが「沼名木」(沼が目立つ山稜)の地と言われたところとなる。

その謂れの通りであるが、五百木と比較すると極端に水田にできる土地が少なくなる。よく観察すると辛うじて図の青色破線で囲んだ所(現地名は若松区乙丸)に水田が見受けられる状況である。

沼及び海を活用した食糧の確保を主としていたのではなかろうか。崇神天皇紀の比賣には「入日賣」が付くことからこの狭いところに坐し、その近隣が沼名木の中心の場所と推定される。

古事記登場回数が少ないのも十分に頷ける訳である。この地の比賣の御子には「別」を与え辛く、別途の手配が必要になって来る。食糧の調達、その拡張が望めないところは古事記の表舞台から引き下がらざるを得なかったということになる。至極当然の帰結であろう。

3-3. 香余理比賣命・若木之入日子王

何故、纏めて述べる?…地図掲載の都合である。先ずは、唯一もう少し絞り込まれた名前が示されている「香余理比賣命」を紐解いてみよう。香余理(コヨリ=紙縒り)のような比賣、なんてことはあり得ないであろう。上記の「若帶日子命」と如何に棲み分けているかも興味深い。


<香余理比賣命・若木之入日子王>
香(祭祀する山)|余(残り)|理(区分けされた田)

…「石峰山山稜が延びた残りで田畑を区分けする」比賣と、既出の安萬侶コードで紐解ける。天香山の「香」に通じる。この石峰山も重要な祭祀場所であったと思われる(高木神が居た?)。

この地を除くと若木の東部は殆ど海面下に…唯一の残りが図に示した「若木之入日子王」の場所となる。

畑地としての土地は多くあるが水田にできそうな谷川は少ない。現在は住宅密集地の様相である。時代が求める変化であろうし、本来耕地とするには狭い土地である。地図を眺めて今に残る地名「棚田町」(香余理比賣の場所)に救われたような気分である。

重要な場所に坐した比賣だから名前を付けたかも、である。妾の住まいは粟国=高木?…定かでない。それにしても景行天皇、こまめにお出掛けなされたことである。比賣の名前も確認しなかったのかもしれない、そんなことはないか・・・。

3-4. 吉備之兄日子王

吉備は幾度も登場するのであるが、概ね御子の名前に詳細な情報が含まれていて坐したところを特定できるのでるが、「兄」では如何ともし難い・・・それとも何かを意味しているのか?…一体どんな地形を象形しているのであろか。


<吉備之兄日子王>

「兄」=「口+ハ」と分解すると「口」=「大きく広がったところ」、「ハ」=「谷」の象形ではなかろうか…、


兄=谷の奥が広がった

…という地形を表していると解釈される。「貝」と類似の地形象形と思われる。

図から判るように山からの谷筋が一様に広がるのではなく、特徴的な形をしている。真に「兄」の文字に当て嵌まる地形であることが伺える。現地名は下関市吉見上・下の境に当たる。地図には中町という表記もあり、旧地名であろうか。

古事記には「兄弟」の表現が多く登場するが、単独で用いられた例は初めてのようである。それが、ナント、地形象形していたのである。恐るべし、である。下記に関連する「大兄」が登場する。大恐るべし、である。

4. 日向之美波迦斯毘賣

<日向之美波迦斯毘賣>
日向は天孫降臨の地、現在の遠賀郡岡垣町辺りである。

美波迦斯」は通説「御佩刀=高貴な人の刀」日本書紀では「御刀媛」のそのものの表現であるが、久米一族の比賣ならいざ知らず、どうも合わない。

で、少し紐解いてみようかと…美波迦斯…、

美(谷間が広がる)|波(端)|迦(増す)|斯(蛇行する川)


<羊>
…「谷間が広がる端で蛇行を増す川がある」毘賣(田を並べて生み出す女)と紐解ける。

現在の遠賀郡岡垣町波津、「笠沙」岬の東側に当たるところと思われる。ほぼ直角に曲がる蛇行をしていることが判る。「美」=「羊+大」で羊の甲骨文字の象形から、また「迦」=「辶+加」と解釈する。「美」の解釈は前記で追記した「淤迦美神」に含まれている…実に多くの「美」が古事記で記載される。地形を表すもの、全てこれで解読できる。安萬侶コード「美(谷間が広がる)」登録済である。


<豊国>
御子に「豐國別王」が誕生する。「豊」を代表する国の誕生である。


響灘に面し、湯川山から流れる川があり、「茨田」を作り、人々が集まり住んでいたところではなかろうか。そんな地を埋もれさせないためにも敢えて比定する。

御所ヶ岳山・馬ヶ岳山系の北麓、長峡川とに挟まれた東西に長い国である。

東の馬ヶ岳山系が途切れるところから西の障子ヶ岳・大坂山山系までを指し示しているかと思われる。

この御子は戻って「日向國造之祖」となる。二つの国が一つに繋がったのである。邇邇芸命一家の始点と終点がこの御子によって繋がり、そしてまた新たな国造りに向かうことを述べていると思われる。「日向」は博多湾岸には、決して、あり得ない。

5. 大郎女之弟・伊那毘能若郎女


<日子人之大兄王>
「眞若王、次日子人之大兄王」の二人が誕生すると記される。眞若王は母親の名前を継いだものであろう。

次の「日子人之大兄王」は何と紐解けるか?…古事記には一度の出現、「日子人」の文字列も後代に「忍坂日子人王」として登場するのみである。

が、これは重要なヒントで、「人(ヒト)」ではないことを示している。

間違いなく地形象形であり、続く「大兄」も上記の吉備之兄日子王と同様の意味を表していると思われる。「日子人」は地名として…、

日子人=日子(稲穂の)|人(人の形の谷)

…「稲穂がある人(三角)の形をした谷」と解釈できる。「大兄」=「谷の奥が大きく広がったところ」として…「稲穂がある人(三角)の形をした谷の奥が大きく広がったところ」と紐解ける。

さて、そんなところがあるのか…現地名は下関市永田郷である。南は吉見に接するところから北は梅ヶ峠辺りまでで、永田郷妙寺に「大兄」がすっぽりと収まる。

永田郷にある石原、石王田は垂仁天皇の御子、大中津日子命が祖となった「吉備之石无別」に当たるとしたところである。当時は石王田の南側まで海面下にあったと推定される。日子人之大兄王は「倭国連邦言向和国」の最北端に居た王と思われる。安萬侶コード「兄(谷の奥が広がったところ)」登録である。

北端の人にお目にかかることはないようであるが、恙無くで・・・。

2018年6月25日月曜日

木花知流比賣と木花之佐久夜毘賣 〔226〕

木花知流比賣と木花之佐久夜毘賣

古事記中に「木花」と付く比賣が人登場する。一人は速須佐之男命の御子、八嶋士奴美神が娶った比賣であり、もう一人は邇邇藝命が降臨後に見初めて娶った比賣である。二人の間に何らの関係もないのだが、勿論時代も大きく異なる、文字列としての類似性が気に掛かるところであろう。

通説は「花が散る」「花が咲く」と読んで物語の流れと併せて何とか理解しようと試みるのであるが、無理がある。それを重々承知していたのだが、何故か紐解き未達になっていた。という訳で、この二人の比賣の身体検査を根掘り葉掘りで行ってみようかと思う。

1. 木花知流比賣

速須佐之男命の御子、八嶋士奴美神が娶った大山津見神の比賣とあれば、出雲のいずれかに住まっていたと思われる。古事記が示すようにこの時代では天神達の行動範囲は限定的である。それを背景に「木花知流比賣」が示す意味を紐解くと…、
 
木(山稜)|花(端)|知(矢口)|流(広がる)

…「山稜の端が矢口の形をして延びて広がっている」ところの比賣と紐解ける。「知」=「矢+口」とし、弓矢の先、鏃の形をした地形と解釈である。既知の安萬侶コードで解読できることが判った。


<木花知流比賣>
出雲の地は長く延びる山稜があるところは南部に限られる。

現地名の北九州市門司区大里(旧の大字)の陰影起伏図で見ると一目で見出だせる。

「宇迦能山」(山の稜線が複数寄集っている様)から細長く延びた山稜である。

それにしても、見事な表記と言えるであろう。

と言うか、地形とは如何に興味深いものなのかと知らされる。

御子に「布波能母遲久奴須奴神」が誕生し、これも紐解けば…「母」=「両腕で抱える」象形を地形に適用して…、


布(斗の平地)|波(端)|母(挟まれる)|遲(治水された)|久奴(勹の形の野)|須奴(州の野)


<速須佐之男命系譜⑴>
…「出雲の端にあって山稜に挟まれ、治水された勹(く)の形の州がある野」の神となろう。

三つの深い谷間(門司区上藤松辺り)から流れ出る川が作る大きな州が形成されていたものと推測される。

図から分るように大きく川(村中川)が蛇行している様子が伺える。下流(河口)付近にまで達する州を形成していたのであろう。現地名は門司区藤松辺りである。

この図は極めて重要な意味を持つと考えられる。即ち櫛名田比賣の御子、八嶋士奴美神が娶ったのは神大市比賣の御子、大年神及び宇迦之御魂神に取り囲まれた場所だったのである。木花知流比賣も神大市比賣も共に大山津見神の比賣であるから血統は交錯している状況である。


<速須佐之男命系譜⑵>

既にこれらの系列の骨肉の争いが勃発したことを述べたが、そもそもの切っ掛けはこの配置にあったと推測される。

この好適立地な場所の争奪戦である。それを示すのが「布波能母遲久奴須奴神」の名前に刻まれた豊かな土地の有り様である。

如何なる諍いがあったのかは知る由もないが、「木花知流比賣」の系列は、御子が淤迦美神の比賣「日河比賣」を娶ることによって、再び肥河の畔に舞い戻ることになったと言う。そしてあろうことか、「天」にまで逆戻りをしてしまうのである。

「花が散る」の読み解きは正鵠を得ていたことが判る。いや、そう読めるように安萬侶くんは記述しているのである。八嶋士奴美神、木花知流比賣の系列は見事に散った。そしてこれが大国主命を使った弔い合戦に発展し、更に天皇家十代以上続くトラウマとなって行くのである。古事記の伝える真髄に関わる名前の比賣であったと思われる。

2. 木花之佐久夜毘賣

もう一人の比賣の話に移ろう。この比賣は名前は本来の名前の「神阿多都比賣」の別名と記される。既に紐解き済で詳細はこちらを参照願い、概略のみをのべることにする。また、説話の内容も参照する必要があるので、関連箇所のみ再掲する。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是、天津日高日子番能邇邇藝能命、於笠紗御前、遇麗美人。爾問「誰女。」答白之「大山津見神之女、名神阿多都比賣此神名以音亦名謂木花之佐久夜毘賣。此五字以音。」又問「有汝之兄弟乎。」答白「我姉石長比賣在也。」爾詔「吾欲目合汝奈何。」答白「僕不得白、僕父大山津見神將白。」故乞遣其父大山津見神之時、大歡喜而、副其姉石長比賣、令持百取机代之物、奉出。故爾、其姉者、因甚凶醜、見畏而返送、唯留其弟木花之佐久夜毘賣、以一宿爲婚。
爾大山津見神、因返石長比賣而、大恥、白送言「我之女二並立奉由者、使石長比賣者、天神御子之命、雖雨零風吹、恒如石而、常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘賣者、如木花之榮榮坐、宇氣比弖自宇下四字以音貢進。此令返石長比賣而、獨留木花之佐久夜毘賣。故、天神御子之御壽者、木花之阿摩比能微此五字以音坐。」故是以至于今、天皇命等之御命不長也。
[さてヒコホノニニギの命は、カササの御埼みさきで美しい孃子おとめにお遇いになつて、「どなたの女子むすめごですか」とお尋ねになりました。そこで「わたくしはオホヤマツミの神の女むすめの木この花はなの咲さくや姫です」と申しました。また「兄弟がありますか」とお尋ねになつたところ、「姉に石長姫いわながひめがあります」と申し上げました。依つて仰せられるには、「あなたと結婚けつこんをしたいと思うが、どうですか」と仰せられますと、「わたくしは何とも申し上げられません。父のオホヤマツミの神が申し上げるでしよう」と申しました。依つてその父オホヤマツミの神にお求めになると、非常に喜んで姉の石長姫いわながひめを副えて、澤山の獻上物を持たせて奉たてまつりました。ところがその姉は大變醜かつたので恐れて返し送つて、妹の木の花の咲くや姫だけを留とめて一夜お寢やすみになりました。
しかるにオホヤマツミの神は石長姫をお返し遊ばされたのによつて、非常に恥じて申し送られたことは、「わたくしが二人を竝べて奉つたわけは、石長姫をお使いになると、天の神の御子みこの御壽命は雪が降り風が吹いても永久に石のように堅實においでになるであろう。また木の花の咲くや姫をお使いになれば、木の花の榮えるように榮えるであろうと誓言をたてて奉りました。しかるに今石長姫を返して木の花の咲くや姫を一人お留めなすつたから、天の神の御子の御壽命は、木の花のようにもろくおいでなさることでしよう」と申しました。こういう次第で、今日に至るまで天皇の御壽命が長くないのです]

物語の場所は笠沙御前、邇邇藝命が降臨したところで大山津見神の比賣…一体何人居るのか?…を見初めた、と始まる。神阿多都比賣」は…、
 
神(稻妻の山稜)|阿(台地)|多(三角州が数多くある)|都(集まる)

…「稲妻の山稜の傍らにある数多くの三角州が寄り集まっているところ」に坐す比賣と紐解ける。現地名は門司区大字黒川であるが、現住居表示は改名・細分化されているようである。

<神阿多都比賣(木花之佐久夜毘賣)>
これに合致する地形は北九州市門司区黒川東・西辺りと推定される。

図を参照願う。砂利山から延びた山稜を「神」と表現している。山間ではあるが阿多の中心地であったと告げているようである。

「都」は「みやこ」の意味も込められていると思われる。「津」ではなく「都」と表現するのは「川」のみに限られず様々に寄り集まった地を意味しているのであろう。

山に囲まれ、決して広くはないが自然環境に優れたところであり、当時の「都」となり得る地形と思われ、独自の文化が発生することが多いようである。


「阿多」が示す意味をしっかりと受け止めることが肝要かと思われる・・・と、ここまではほぼ前記に従っているのだが、別名には全く手を出さず、スルーしていたのである。

「木花之佐久夜毘賣」は何処を示しているのであろうか?…場所ではなく美しいことを強調した表現に過ぎない?…桜の花だとする説もあるが…、
 
木(山稜)|花(端)|之|佐(助くる)|久(勹の形)|夜(谷)

…「山稜の端にある勹(く)の形の谷をより良くする」毘賣(田を並べて生み出す)と紐解ける。「助くる」=「より良い状態にする」と解釈する。上図を参照すると真に珍しい谷の光景が示されている。古事記のランドマークにできそうである。

何のことはない、神阿多…は山稜に着目した命名、木花…はその山稜の端の特徴ある地形を模した表現であった。これによってこの比賣の居場所は確定的になったのである。ところが、この説話にもう一つの「木花」があった。

木花之阿摩比能

例によって姉妹が登場して「因甚凶醜、見畏而返送」となる。「木花」と「石」を対比した比喩はそれなりに面白いのだが・・・美しいもの、それに惹かれるのも常、と言いながら、美しくあることは移ろい易いものと述べている。時に関する概念は今と変わらない、がしかしそれを量的に表現するすべがなかったのであろう。少なくとも古事記が伝える伝承の範囲においては…。

また例によって天皇は醜いものを捨てるのだが、ここで父親の大山津見神の教えが述べられる。石(岩)は地味だが永遠に、花は一時の華やかさで両方あって満たされるものなのに天皇は一時のものを求めて永遠の時を捨てた。だから天皇には永遠というものはなくなってしまった、と述べる。

天神御子之御壽者、木花之阿摩比能微坐」が大山津見神の結論である。従来、この文意は解読不能とするか、無視するかである。何とか読んだのが「阿摩比(アマヒ)」=「甘い」として考えが足らないと解釈するとの例がある。これは大山津見神の文言の流れからの推測であろう。古事記は徹底的に単刀直入である。「木花」=「山稜の端の」…、

 
阿(台地)|摩(近接する)|比(並ぶ)|能(熊:隅)

…「山稜の端に近接して並ぶ台地の隅」と紐解ける。「木花(山稜の端)」なんかに拘ってると磨り減ってしまって、その台地に微(僅かに)座するのみだと言い放っているのである。

<高千穂宮>
岩(山全体を意味する)は変わらないが、その山稜の端は時と共に変化する。谷川はいつもと変わらずに穏やかに流れるわけではない。洪水を起こし、流れを変え、山の裾野は大きく変化する。

だから、「木花」は移ろい易いと述べている。いずれその台地はなくなってしまうかも知れない、それが「木花之佐久夜毘賣」だと…。

と、ここまで読み解いて来て、何故「比」なのか?…わざわざ付記するのか?・・・邇邇藝命が坐している場所を述べていると気付かされた。


図に示されるように降臨したところが日向の高千穂、その宮を現在の高倉神社辺りと推定して来た。今一度眺めると、その地は山稜の端の更に延びたところで、二つ並ぶ台地なのである。

「阿摩比能」と表現した。こんなところに今につながる天皇家の宮の場所を示す言葉が潜められていた。行きつ戻りつ、古事記の紐解きに振り回されるのだが、1,300年を一気に取り戻すことを思えば、些細なことか、と・・・。

「木花」に潜められた極秘情報、やはり安萬侶コードがなければ解読不能だったようである。高千穂宮に関連する情報は皆無かと思われたが、ここに眠っていた。いや、眠っていたのは古事記の読者ということになろうか。

ちょっと余談ぽくなるが、ついでに上記「日河比賣」の親である「淤迦美神」について一言・・・。
――――✯――――✯――――✯――――
「淤迦美神」=「龗神」として「雨をもたらす龍の神」とし、「龍」=「蛇行する川」の象形と紐解いた。それはそれで十分意味が通じるのであるが、何故それをこの文字列で表記したのか?…、

淤(泥が溜まった洲)|迦(増やす)|美(谷間の大地)
<羊>


…「谷間の大地で泥が溜まった洲を増やす」神と紐解ける。「美」=「羊+大」羊の甲骨文字を使って象形したものと解釈した。羊の上部の三角が山、下部が谷間を示すとする。安萬侶コード「美(谷間の大地)」を登録する。

文字列の意味は全く見事な表現と思われる。激しく蛇行する川が変曲するところで流速を落として洲を増やすのである。ちょっと出来過ぎの話しになるのだが、これらの表現が全てその謂れとすると頷けることとなる。検証するすべがないが、そんな気になる件である。






2018年6月23日土曜日

大碓命の系譜 〔225〕

大碓命の系譜



<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
天皇の許しを得ずに、比賣を横取りするなんて、真に大胆不敵な行いする割には簡単に葬られてしまったと、古事記は伝える。と言うか、小碓命が述べてことをそのまま記述しているだけなのだが・・・。いずれにせよ大碓命は歴史の表舞台からは消えたのだろう。

そんな彼の後裔が記されている。既に一部は紐解いたのだが、あらためて整理をしてみよう。この説話は一体何を伝えようとしたのか、そんなことを考えながら見てみよう。

古事記原文[武田祐吉訳]…

於是天皇、聞看定三野國造之祖大根王之女・名兄比賣・弟比賣二孃子其容姿麗美而、遣其御子大碓命以喚上。故其所遣大碓命、勿召上而、卽己自婚其二孃子、更求他女人、詐名其孃女而貢上。於是天皇、知其他女、恒令經長眼、亦勿婚而惚也。故其大碓命、娶兄比賣、生子、押黑之兄日子王。此者三野之宇泥須和氣之祖。亦娶弟比賣、生子、押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖。[ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄姫弟姫の二人の孃子が美しいということをお聞きになって、その御子のオホウスの命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女を求めて、その孃子だと僞って獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになって、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須の別の祖先です。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都の君等の祖先です]

大碓命はこんな事件を引き起こして、天皇と疎遠になり、挙句に小碓命、即ち倭建命によってあっさり抹殺されてしまうという筋書きなのである。天皇が娶ろうとした比賣をこっそり横取り、挙句に代わりの比賣を宛がうなど、血迷ったか!…のような話なのだが、ただでは済まされない事件を起こしたことは誰にでもわかる、敢えて行った理由は?…この二人の比賣が迷わせたか?…難しい。


小碓命の挙動はかなり正当化されるわけだが、それだけのことでもなさそうである。いずれにしろ大碓命はそれまでにしっかり祖となる地を持ち、流石三野国造の祖である大根王の力であろうか、容姿麗美な比賣の子供は三野の地に根を張ることなったと言う。

大碓命が祖となった「守君、大田君、嶋田君之祖」と併せて紐解いてみよう。


守・大田・嶋田


<日枝=稗田>
いつものことながら簡単明瞭…いや明瞭でなく簡単なだけ。こんな時は安萬侶くん達にとって説明不要の場所と思うべし、である。「守」=「杜」、「嶋田」=「中州(川中島)の田」として、読んでみると…、

大国主命の子、大山咋神が坐した地に「近淡海國之日枝山」が登場した。その解釈で「稗(田)」=「日枝(田)」を見つけたところに「宮の杜」がある。そこは「之江」=「志賀」の真中、「大田」も含めて、現在の福岡県行橋市上・下稗田~前田辺りと推定した。

あらためて地形を見てみると、「嶋田」が州の中の州であるところと比定されるようである。真に州だらけの地なのだが、氾濫する川の防御が不可欠なところでもあり、現在のような広い範囲の水田になったのは、ずっと後代の出来事だったと思われる。

未開の地、近淡海国の「鎮守の森」があり、「大碓命」について古事記の扱いは小碓命の影に隠れてしまうが、地元では開拓者としてそれなりに評価されたのではなかろうか。

「稗田」は「日枝神社」の発祥の地であろう。この地より「国譲り」で現在比叡山を本山として全国に散らばる神社となっている。侮れない重要な地である。愛知県豊田市(国譲り前は「三川之衣」)にある猿投神社が「大碓命」を祭祀する。近世以降に祭祀されたとしても何らかの「国譲り」の捻りがあるのかもしれない…これも大碓命の謎の一つである

押黒之兄日子王・弟日子王
 
横取りした比賣の御子の名前まで記される。三野で生まれた御子が「押黑之兄日子王・弟日子王」である。

そしてそれぞれが「三野之宇泥須和氣、牟宜都君」の祖となったと記述される。押黒、三野之宇泥須、牟宜都を紐解いてみよう。

「押黒」は何と紐解けるか?…「押」=「手を加えて田にする」、安萬侶コード「黑」=「里+灬(炎)」と分解して、「山稜の端が細かく分かれた傍らの田」と解釈する。「押黑」は…、


山稜の端が細かく分かれた傍らにある手を加えた田

…と読み解ける。現地名は京都郡苅田町提(ヒサゲ)辺りと思われる。この地名が古くからあったものであろうが、由来は不詳。


三野之宇泥須・牟宜都

三野之宇泥須和氣の「宇泥須」は…、


宇(山麓)|泥(水田)|須(州)

…「山麓にある水田の州」と紐解ける。山稜が延び、複数の谷川によって作られた州に水田が並ぶ地と思われる。北九州市小倉南区朽網東(三野国と比定)に「宇土」という地名(実際には交差点名)が残っている。そのものの表現であろう。残存地名として見做せるものであろう。


牟(多く)|宜(魚)|都(集まる)
 
…「多くの魚が集まるところ」と紐解ける。現在の京都郡苅田町若久町・松原町辺り、当時の海岸線は遥かに後退していたものと思われる。

松山も含めて天然の「湾」の地形をしていたものと推察される。洞海湾ほどではないにしても漁獲が豊かだったであろう…「粟国の御宜都比賣」である。

「三野國造之祖大根王」は何処にいたかを推定するのだが、「大根」=「大きな山稜の端」と解釈すると現地名北九州市小倉南区朽網西に広がる地が見出だせる。

残念ながら大規模な団地に開発されており、当時の地形を伺うことは叶わないようであるが、山稜の端が大きく迫り出していたところと伺える。


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残存地名、地形象形の確かさから、上記の比定作業の確度はかなり高いものと思われる。いずれにしても三野の地は極めて重要な地点であったことが伺える。これらの御子のお陰で三野の地の詳細が見えてくる。まさかそのために説話を載せた…そんな訳はないであろうが…神倭伊波禮毘古命が大倭豊秋津嶋に上陸した「熊野村」はひょっとするとこの「押黒」だったのかも、である。

小碓命は兄を亡き者にはしなかったと思われる。天皇への報告は兄を庇ったもの、そうとも言わなければ事の決着は見られず、ってところであろうか・・・他の史書などでは生き長らえたとのことであるが、それが真相であろう。それにしても、この大碓命を主祭神にする神社があるとは…謎である。三野から尾張、更には三川まで逃げたのか?・・・直線ルートで10km弱ではある。


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2018年6月21日木曜日

大碓命と小碓命 〔224〕

大碓命と小碓命


さて、本ブログも何回目か、グルグル回って説話が一杯の記述に巡って来たようである。それはそれとして登場人物の名前の紐解きを疎かにしないように、と戒めながら・・・すると直ぐにブチ当たる人物がいた。

古事記中、最大の英雄と持て囃されているのだが、実は彼の出自は「吉備国」と言うか、その手前の地であったわけで、英雄やら傑物など、結構地方出身者が多いのも古事記の特徴…建内宿禰は木国の出身…そう言えば現代も同じような状況かもしれない。分かり切ったと思って吉備国の何処かと問い詰めるのが抜けていた。

そんな訳でこの二兄弟の出自を今一度確かめてみようかと思う、のである。

古事記原文…

大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纒向之日代宮、治天下也。此天皇、娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女・名針間之伊那毘能大郎女、生御子、櫛角別王、次大碓命、次小碓命・亦名倭男具那命、次倭根子命、次神櫛王。五柱。

大帶日子淤斯呂和氣天皇(景行天皇)が纏向之日代宮に座して、孝霊天皇の孫娘、吉備臣の祖となる若建吉備津日子を父親に持つ「針間之伊那毘能大郎女」が彼らの母親であると伝える。まぁ、田舎住まいだが、それなりの血統ではある。吉備、針間など通説は瀬戸内海に面するところとなっているのだが、そうですか、頷くわけにはいかない。母親の居場所などを再掲する。


針間之伊那毘

吉備国及びその近隣にある「針間」=「針のような細いところ」の「針間口」吉備に入る手前にあった場所であろう。「伊那毘」の解釈は?…、




伊(小ぶり)|那(豊かな)|毘(田を並べた)

…「針のような細いところに小ぶりだが豊かな田を並べたところ」と紐解ける。

この文字列にはもう一つの解釈があって…、


伊(小ぶり)|那(大きな)|毘(臍:へそ)

…「針のような細いところに小ぶりだが豊かな臍のようなところ」と解釈できる。南方から針間口を眺めた時、右側から山の稜線が降りてきて針間口で凹となり、左側に小山が続いて最後海に落ちる。そんな稜線を目の当たりにする場所、それを「伊那毘」表記しているとわかる。両意を汲んでよいのではなかろうか。「毘=臍」の地形象形が数例ある。全て報告済み。

山間の地で決して豊かなところとは思えないが、「氷河」(二つに分かれた川)が流れ、その治水が果たせたのであろう。

上空からの写真からでは不鮮明ではあるが、堰、池等の灌漑施設を確認することができる。

見えるのは後代のもの、しかし「猿喰新田」の時と同じく遠い昔からの痕跡、その技術をその地に残している、と推測される。

交通集中するところで人の往来が多い処でもあったと思われる。吉備を開拓し「鉄」の供給を確かなものにするという大目的があってのことであろう。神武一家の明確な戦略を感じ取れる。

父親の名前に含まれる「吉備津」と表現されるように当時は現在のJR吉見駅辺り(吉見本町、竜王町など)は海面下であったと推定される。西側の永田郷(吉備兒嶋と比定)も大半がそうであり、大きく内陸側に海辺があった地形であった思われる。おそらく若建吉備津日子の拠点は現在の竜王神社辺りであったのではなかろうか(祖となる笠臣の「笠」↔「龍」との繋がるであろう)。

誕生した御子の内「櫛角別王神櫛王」については過去のブログを参照願うとして、大碓命、小碓命、倭根子命について下記する。

大碓命・小碓命

果たしてこの「碓」の文字は彼らが坐した場所の地形を表しているのであろうか?…「碓=臼」とある。地形とするなら凹んだところであろう。母親の針間之伊那毘能大郎女の居場所を頼りに探索してみよう。


<大碓命・小碓命・倭根子命>
枝稜線が複雑に絡む地の地形をしっかりと見定める必要があったのである。縄文海進やら沖積の未熟さも考慮に入れながら、である。

すぐ近隣の吉備兒嶋(下関市永田郷)があるのに…この場所ほど明瞭ではなかったと言い訳しつつ、図を参照願う。

大碓命・小碓命の破線円で示したところは現在の標高約10m以下の凹になった地形である。何と大小並んでいるのである。

竜王山山系の主稜線から多くの枝稜線が響灘へと向かい、枝稜線の谷間から流れる川が海に注ぐ様相が伺える。海と山系との距離が短くこの地も急勾配の傾斜を持ち、海岸線は起伏の激しいところと思われる。

海面上昇に依る海岸線の状況は大きく異なるが、この基本的な地形には当時との相違はないと推測される。

<大碓命・小碓命>
凹んだ地形を表現するには「首」「印」のようなものがあり、既に複数の例に遭遇した。それらと区別をしているのは、この地が周囲を取り囲まれた「臼」の形状をしているからと思われる。「碓」が使われる希少な例であることが判る。

図に国土地理院陰影起伏図を示した。枝稜線が複雑に絡み真に凹の地形をしていることが伺える。何とも上手くできた、と言うか精緻な表記なのであろうか・・・。これも古事記のランドマークに登録しなければならないようである。

従来には到達できなかった場所であろうし、本居宣長らが古文献をひっくり返しても全く行き着くことのない結果であろう。

日本の古代史上、最も有名な、かつ悲劇の英雄である倭建命の出生場所である。現地名、山口県下関市福江の山中とある。JR山陰本線福江駅の北隣りである。彼に因んで命名された場所が全国に散らばる。国譲りの拡大解釈の結果なのであるが、この地にはない、ようである。


倭男具那命(小碓命)・倭根子命


小碓命に別名が付記される。「臼」の地形とマッチするのであろうか?…、


倭(曲がる)|男(田を作る)|具(谷間の田)|那(豊かな)

…「曲がった谷間に豊かな田を作る」命と紐解ける。安萬侶コード「具」は谷間に田が並んだ象形である。前記の「迦具夜比賣」と同じである。図から判るように谷間を流れる川が大きく曲がり、それに沿って田が並んでいる様が伺える。小碓命の場所である。一方の「倭根子命」は…、


倭(曲がる)|根(山稜の端)|子(端の先)

…「曲がって伸びる山稜の端の先」の命と紐解ける。図に示した通り細長く延びた山稜の場所と推定される。

「針間」の北側と南側の地に誕生した御子達が配置されていたのである。鉄の産地、吉備への入口を見事に固めたと告げている。天皇になることはなかった小碓命ではあるが、その血統は深く関わっていくことになる。詳細は別稿【倭建命】を参照願う。

「倭=ヤマト」から脱却しなくては、古事記の伝えるところから遙か遠くに向かうことになる。「倭男具那命」それとも大和の男の道具が豊かな命とでも解釈して済ませるのであろうか・・・。


2018年6月19日火曜日

菅原之御立野中・狹木之寺間 〔223〕

菅原之御立野中・狹木之寺間


垂仁天皇は二つの和風諡号「伊玖米入日子伊沙知命」「伊久米伊理毘古伊佐知命」を持ち、この天皇についての情報を豊かにしている。説話も含め賢帝であり、歴代の天皇の中でも、したたかさは群を抜いている感じである。登岐士玖能迦玖能木實=橘」で記述されたように人材確保が急務の発展途上国の様相を物語っているものと思われる。

彼らの必需品、稲に加わる「丹」の確保、それは天皇の権威を知らしめ、この世に彩りを与える魔法のようなものであったろう。その生産の確保も彼が果たした役割が大きいと伝えている。いよいよ倭国は大国への船出を果たしたのである。坐した地は現在の福岡県田川市伊田辺りと比定した。豊かな鉱物資源が埋もれる土地である。

大きな足跡を残した天皇及び后の眠れる場所を紐解いておこう。陵墓の場所は尚更難解な表現が使われている、いつものことながら…盗掘防止かな?・・・。

古事記原文[武田祐吉訳]…此天皇御年、壹佰伍拾參歲。御陵在菅原之御立野中也。又其大后比婆須比賣命之時、定石祝作、又定土師部。此后者、葬狹木之寺間陵也。[この天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野の中にあります。 またその皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土師部をお定めになりました。この皇后は狹木の寺間の陵にお葬り申しあげました]…と記載されている。


菅原之御立野中

<菅原之御立野中>
「菅原」は後の安康天皇の陵の場所「菅原之伏見岡」で出現する。

キーワードの「伏見=伏水」から鍾乳洞が多く集まる現在の福岡県田川郡福智町伊方の東長浦辺りと読み解いた。

この近隣と推定し、「御立野中」の意味するところを探してみよう。

「立野」は一段と高くなっている野原を示すであろう。図に大きな池
で挟まれた地形が見出だせる。

水面から立ち上がる野のイメージであろう。山稜の端が三つに分かれた尾を持っているように見られる。その中の真中の山稜が該当すると思われる。どうやら…、


御立野中=三つの立野がある内の中

…を表し、更に小高くなっているところではなかろうか。当該の墓所を一に特定することは難しいようである。 

狹木之寺間

太后氷羽州比賣命の陵「狹木之寺間」は何処を指し示しているのであろうか?…「寺間」の「寺」は通常のお寺を意味しない。仏教の隆盛に伴ってこの文字が宛がわれたものと解説されている。


<狭木之寺間>

狭木=狭(狭い)|(山稜)

…と解釈できるが、狭い山稜が特徴になるなら、垂仁天皇の陵墓の近隣に特徴的な地形が見出だせる。

やはり「寺間」は何を意味しているのであろうか?…「寺」の文字に関連するところでは、伊邪那岐の御祓で誕生した「時量師神」で解釈した「時」を思い出す。


時=蛇行する川

…が紐解き結果であった。この「時」→「寺」で簡略表記していると思われる。一気に解決となる。図に示した「狭木」の両側を複数の川が蛇行していることが判る。

流石に鍾乳洞の巣の近隣である。豊かな水に溢れている場所であろう。現在の田川市夏吉にある細く延びた山稜が複数の蛇行する川に囲まれている。真に難解な表記である。場所が特定されることを防ぐためなのかもしれない。太后の陵墓が記載されるのは限られている。事績は不詳であるが、存在感のある后でだったかも。

又其大后比婆須比賣命之時、定石祝作、又定土師部」と記される。何故、后の時に?…唐突に登場する文言に戸惑う解釈・・・それが従来であった。前記した「登岐士玖能迦玖能木實=橘=人柱」の理解に従えば、その風習を目の当たりにした后が差し止めた、と実に自然に受け止めることができる。

何故、后の陵墓を?…そんな疑問も吹っ飛んで行く。彼女が人柱ではなく埴輪で代用するという埋葬の様式を変えたのである。その根拠もしっかりと「登岐士玖能迦玖能木實」という表現に含めていた。不老不死、長寿などの解釈を続ける限り、石祝の闇の中であろう。氷羽州比賣命という漢字表記に感謝すると共にご冥福を祈る。

――――✯――――✯――――✯――――

垂仁天皇紀の修正・加筆が漸く終了。全体通して【后・子】【説話】を参照願う。



2018年6月14日木曜日

登岐士玖能迦玖能木實:縵八縵・矛八矛 〔222〕

登岐士玖能迦玖能木實:縵八縵・矛八矛


垂仁天皇紀の最後の説話登岐士玖能迦玖能木實=橘」を既に読み解いたが、世の中は日本書紀の「非時香菓=橘」の表記に引きずり回され解釈しか見出だせなかった。今回、2016年の論文が入手でき、それも参考しながら深掘りしてみようかと思う。

古事記の中で重要なキーワードとなっている「橘」の紐解きが未だなされていないことに愕然としながらも、懲りずに情報発信することと割り切ってキーボードをポチポチと引っ叩いている今日此頃である。関連するところを引用する。

古事記原文[武田祐吉訳]

又天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。[また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリを常世の國に遣して、時じくの香かぐの木の實を求めさせなさいました。依ってタヂマモリが遂にその國に到ってその木を採って、蔓の形になっているもの八本、矛の形になっているもの八本を持って參りましたところ、天皇はすでにお隱れになっておりました。そこでタヂマモリは蔓四本矛四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、「常世の國の時じくの香の木の實を持って參上致しました」と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです]

前記の概略を述べると・・・、

1.「登岐士玖能迦玖能木實」の解釈には二通りあることが判った。

 ①「登岐士玖」…「登」=「成熟する」の意味がある。「岐」=「()分かれる」頻度高く用いられる言葉である。「士玖」=「敷く=広がる」とすれば、「登岐士玖」は…、
 
成熟すると枝分かれして広がる

…と読み解ける。更に迦玖能木實」では「迦玖」=「懸く(垂れ下がる)」とすると、「登岐士玖能迦玖能木實」は…、
 
成熟すると枝分かれして広がり垂れ下がる木の実

=「橘」そのものである。「士()」・「迦玖(カク)」であり、「時(ジ)」・「香(カグ)」のような濁音への勝手な解釈は不可であろう、とも記述した。

 ②「登岐士玖」…「登」=「登る」、「岐」=「分岐」、「士玖」=「敷く(広がる)」、「迦玖」=「廓or閣(囲まれた場所)」、「木實」=「君」とすると、「登岐士玖能迦玖能木實」は…、
 
登って行くと分岐して広がるその先の囲まれた処の君

…と紐解ける。複数(多く)の支流を持つ川の上流にある「宮」に居る「君」(比古、比賣達)のことを表現しているのである。

古事記は事実、この二通りの解釈ができるように文字を並べている。最後に「其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也」で結んで、亡き垂仁天皇に捧げた「人柱(=タチバナ)」=「橘」に繋げたのである。

2.縵八縵・矛八矛」…「縵=比賣」「矛=比古」としてそれぞれ八人と解釈した。

通常は、武田氏訳にもある通り「蔓の形になっているもの八本、矛の形になっているもの八本」と知られているようである。カツラのように輪になったもの、棒に実を付けたものとか解釈されている。がしかし、何故に木の実の形状を書き記したのか、不自然さそのもの表現となる。だから延々と新解釈が登場する。

本ブログは「縵=比賣」、「矛=比古」と解釈して、全てが意味のある説話となったのである。課題として残ったのが、「矛=比古」は見たまんまであるが、「縵(マン)」がどうしても繋がらなかった。何となく女性器の表現に絡むようでもあるが、根拠に乏しい。

・・・のようであった。今回検索で見つかった論文は、根来麻子氏が”『古事記』における「登岐士玖能迦玖能木実」の位置づけ”のタイトルで投稿されたものである。専門外でなかなかに読み辛いところではあるが、抜粋すると・・・、

「薬として服用する」は疑問である。奈良時代以降装飾として特殊な役割を担う。
「縵と矛」は形状の違いを意味する。
「迦玖」→「香ぐ」ではなく、「輝く」(新潮日本古典文学集成より)。次節を定めず輝く木の実。
「橘の実」は持続性、不変性(万葉集など)を表す。「登岐士玖能迦玖能木實」に視覚的な印象を重ねている。
 装飾具としてのその輝きや不変性にあやかる目的である。
「縵」は実をつないで環状にした装飾具(原義は模様のない絹布) 「縵」は「蔭」とも表現される例がある。
「矛」は棒状のものに実をつけたもの。「縵」「矛」は形状が神事に関わる装飾具としての役割。
この説話は天之日矛の子孫、多遲摩毛理の忠誠譚としての位置付けである

・・・結果的には服用薬ではないが、そのものが長寿の意味を示すものとして解釈されている。不老不死ではないようである。木の実の残りの半分を貰った后が亡くなっても不思議ではない、ということかも?…辻褄は合う。

「迦玖」はそのまま濁音にしないで解釈、これは結構なことなのだが、「輝く(カガヤク)」では似たり寄ったりではなかろうか?…なかなか「カク」に届かない。「カク」にはかなりの数の意味があるのだが、思いに沿わない、ってところであろう。

「縵と矛」は従来よりの解釈に従っておられるのだが、参考文献豊かにより詳細に事例を挙げられている。それぞれの文字単独で引用すれば説明されている通りかと思われる。苦労されたのが、やはり、この形状を二つ、ワザワザ記述した根拠であろう。神事に関わる装飾具とされているが、推論に留まっているように思われる。

雑駁に読んだのみであるが、従来説に則った解釈では到底納得できるようなものには至っていないと思われる。本説話の本意「多遲摩毛理の忠誠譚」そうと受け取っても差し支えないとは思われるが、それでは古事記の伝えるところが軽薄になる。急速に拡大する倭国の若手人材への要求であろう。それを求めるのは、やはり「常世国」新進の人が集まっているところなのである。

根来麻子氏に感謝である。「縵=比賣」に繋がったのである。上記⑸に「縵」=「蔭」と記述されている。「蔭」=「陰」=「富登」古事記に「訓陰云富登」と記載されている。Wikipediaよると種々雑多な謂れが記載されている。不詳であろう。縵=比賣」「矛=比古」ひょっとしたらこれが最も確からしい由来になるかもしれない。

「登岐士玖能迦玖能木實」読み解き、漸く完了である。そして垂仁天皇【説話】も無事終わらせることができたようである。参照願う。

ところで常世国の何処を多遲摩毛理は探したのか?・・・前記の記述も併せて示す。
 
<常世国:壱岐市勝本町仲触>
「橘」は端的に川の流れを表したものと思われる。山の斜面を流れる川が寄集って一つになる「図柄」を「橘」に比喩したものと解釈される。

その地を特定する際に重要な示唆を与えることができる。山の稜線が描く図柄を象形したのではなく、川の流れる谷が描く図柄の象形を示していると読み解ける。

常世国の何処に行ったのであろうか?…常世は既に登場し、現在の壱岐市勝本町の北端にあったところとした。

この地は標高差が少なく深い谷間があるとは言い難いが、台地の北麓は急な斜面を持ち分岐した谷を形成していることが判る。

北側から眺めた俯瞰図では現在も多くの棚田が作られていることが見て取れる。図に示した以外にもっと小ぶりなものもあっただろう。多遲摩毛理はそれを隈なく訪れたのであろう。
<登岐士玖能迦玖能木實の俯瞰図>

「縵八縵・矛八矛」葉っぱが有る無し、なんていう苦労は皆無である。

「縵」=「比賣」、「矛」=「比古」とすれば一気にこの説話の意味が伝わってくる。比賣と比古、合せて16人を調達してきた、と多遲摩毛理が述べている。

「天皇既崩」を知り、持ち帰った「木」の半分を后に、残りを亡くなった天皇に擎(ささげ)たのである、人柱として。

だから「(死者の霊に手向ける)立花(タチバナ)」なのだ、と伝えている。

「橘」の字源は「矛のような棘のある木」とある。「木實(キミ)」を言わんがために作り出した「登岐士玖能迦玖能木實」だと紐解ける。加えて「橘」の地形象形の謂れを述べているのである。

后の氷羽州比賣命が関わって、人柱の代わりに埴輪を用いるようになったと伝えられているとのことである(古事記では「土師部」を定めるとの記述と関連)。上記の事件が関連するのであろうか、「橘」と「人柱」が密接に関係することを示している説話である。

おっと、垂仁天皇と后の墓所が残っていた。これが決して簡単ではないようで、次回にしようかと思う。古事記には珍しい后の御陵、特と拝見、である。










 
















<常世国:壱岐市勝本町仲触>
「橘」は端的に川の流れを表したものと思われる。山の斜面を流れる川が寄集って一つになる「図柄」を「橘」に比喩したものと解釈される。

その地を特定する際に重要な示唆を与えることができる。山の稜線が描く図柄を象形したのではなく、川の流れる谷が描く図柄の象形を示していると読み解ける。

常世国の何処に行ったのであろうか?…常世は既に登場し、現在の壱岐市勝本町の北端にあったところとした。

この地は標高差が少なく深い谷間があるとは言い難いが、台地の北麓は急な斜面を持ち分岐した谷を形成していることが判る。

北側から眺めた俯瞰図では現在も多くの棚田が作られていることが見て取れる。図に示した以外にもっと小ぶりなものもあっただろう。多遲摩毛理はそれを隈なく訪れたのであろう。


「縵八縵・矛八矛」葉っぱが有る無し、なんていう苦労は皆無である。

「縵」=「比賣」、「矛」=「比古」とすれば一気にこの説話の意味が伝わってくる。比賣と比古、合せて16人を調達してきた、と多遲摩毛理が述べている。

「天皇既崩」を知り、持ち帰った「木」の半分を后に、残りを亡くなった天皇に擎(ささげ)たのである、人柱として。

だから「(死者の霊に手向ける)立花」なのだ、と伝えている。

「橘」の字源は「矛のような棘のある木」とある。「木實」を言わんがために作り出した「登岐士玖能迦玖能木實」だと紐解ける。加えて「橘」の地形象形の謂れを述べているのである。

古事記は語らないが、后の氷羽州比賣命が関わって、人柱の代わりに埴輪を用いるようになったという説話もあるとのこと。上記の事件が関連するのかどうか定かでないが、「橘」と「人柱」が密接に関係することを示している説話である。

「不老不死」の木を持ち帰ったのに后も亡くなる、だから古事記の記述は矛盾する?…などの論考もネットにある。自ら作り上げた齟齬は矛盾とは言わない。いずれにしても「不老不死」などと関連付けてきた解釈は廃棄すべきものであろう。