2018年6月21日木曜日

大碓命と小碓命 〔224〕

大碓命と小碓命


さて、本ブログも何回目か、グルグル回って説話が一杯の記述に巡って来たようである。それはそれとして登場人物の名前の紐解きを疎かにしないように、と戒めながら・・・すると直ぐにブチ当たる人物がいた。

古事記中、最大の英雄と持て囃されているのだが、実は彼の出自は「吉備国」と言うか、その手前の地であったわけで、英雄やら傑物など、結構地方出身者が多いのも古事記の特徴…建内宿禰は木国の出身…そう言えば現代も同じような状況かもしれない。分かり切ったと思って吉備国の何処かと問い詰めるのが抜けていた。

そんな訳でこの二兄弟の出自を今一度確かめてみようかと思う、のである。

古事記原文…

大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纒向之日代宮、治天下也。此天皇、娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女・名針間之伊那毘能大郎女、生御子、櫛角別王、次大碓命、次小碓命・亦名倭男具那命、次倭根子命、次神櫛王。五柱。

大帶日子淤斯呂和氣天皇(景行天皇)が纏向之日代宮に座して、孝霊天皇の孫娘、吉備臣の祖となる若建吉備津日子を父親に持つ「針間之伊那毘能大郎女」が彼らの母親であると伝える。まぁ、田舎住まいだが、それなりの血統ではある。吉備、針間など通説は瀬戸内海に面するところとなっているのだが、そうですか、頷くわけにはいかない。母親の居場所などを再掲する。


針間之伊那毘

吉備国及びその近隣にある「針間」=「針のような細いところ」の「針間口」吉備に入る手前にあった場所であろう。「伊那毘」の解釈は?…、




伊(小ぶり)|那(豊かな)|毘(田を並べた)

…「針のような細いところに小ぶりだが豊かな田を並べたところ」と紐解ける。

この文字列にはもう一つの解釈があって…、


伊(小ぶり)|那(大きな)|毘(臍:へそ)

…「針のような細いところに小ぶりだが豊かな臍のようなところ」と解釈できる。南方から針間口を眺めた時、右側から山の稜線が降りてきて針間口で凹となり、左側に小山が続いて最後海に落ちる。そんな稜線を目の当たりにする場所、それを「伊那毘」表記しているとわかる。両意を汲んでよいのではなかろうか。「毘=臍」の地形象形が数例ある。全て報告済み。

山間の地で決して豊かなところとは思えないが、「氷河」(二つに分かれた川)が流れ、その治水が果たせたのであろう。

上空からの写真からでは不鮮明ではあるが、堰、池等の灌漑施設を確認することができる。

見えるのは後代のもの、しかし「猿喰新田」の時と同じく遠い昔からの痕跡、その技術をその地に残している、と推測される。

交通集中するところで人の往来が多い処でもあったと思われる。吉備を開拓し「鉄」の供給を確かなものにするという大目的があってのことであろう。神武一家の明確な戦略を感じ取れる。

父親の名前に含まれる「吉備津」と表現されるように当時は現在のJR吉見駅辺り(吉見本町、竜王町など)は海面下であったと推定される。西側の永田郷(吉備兒嶋と比定)も大半がそうであり、大きく内陸側に海辺があった地形であった思われる。おそらく若建吉備津日子の拠点は現在の竜王神社辺りであったのではなかろうか(祖となる笠臣の「笠」↔「龍」との繋がるであろう)。

誕生した御子の内「櫛角別王神櫛王」については過去のブログを参照願うとして、大碓命、小碓命、倭根子命について下記する。

大碓命・小碓命

果たしてこの「碓」の文字は彼らが坐した場所の地形を表しているのであろうか?…「碓=臼」とある。地形とするなら凹んだところであろう。母親の針間之伊那毘能大郎女の居場所を頼りに探索してみよう。


<大碓命・小碓命・倭根子命>
枝稜線が複雑に絡む地の地形をしっかりと見定める必要があったのである。縄文海進やら沖積の未熟さも考慮に入れながら、である。

すぐ近隣の吉備兒嶋(下関市永田郷)があるのに…この場所ほど明瞭ではなかったと言い訳しつつ、図を参照願う。

大碓命・小碓命の破線円で示したところは現在の標高約10m以下の凹になった地形である。何と大小並んでいるのである。

竜王山山系の主稜線から多くの枝稜線が響灘へと向かい、枝稜線の谷間から流れる川が海に注ぐ様相が伺える。海と山系との距離が短くこの地も急勾配の傾斜を持ち、海岸線は起伏の激しいところと思われる。

海面上昇に依る海岸線の状況は大きく異なるが、この基本的な地形には当時との相違はないと推測される。

<大碓命・小碓命>
凹んだ地形を表現するには「首」「印」のようなものがあり、既に複数の例に遭遇した。それらと区別をしているのは、この地が周囲を取り囲まれた「臼」の形状をしているからと思われる。「碓」が使われる希少な例であることが判る。

図に国土地理院陰影起伏図を示した。枝稜線が複雑に絡み真に凹の地形をしていることが伺える。何とも上手くできた、と言うか精緻な表記なのであろうか・・・。これも古事記のランドマークに登録しなければならないようである。

従来には到達できなかった場所であろうし、本居宣長らが古文献をひっくり返しても全く行き着くことのない結果であろう。

日本の古代史上、最も有名な、かつ悲劇の英雄である倭建命の出生場所である。現地名、山口県下関市福江の山中とある。JR山陰本線福江駅の北隣りである。彼に因んで命名された場所が全国に散らばる。国譲りの拡大解釈の結果なのであるが、この地にはない、ようである。


倭男具那命(小碓命)・倭根子命


小碓命に別名が付記される。「臼」の地形とマッチするのであろうか?…、


倭(曲がる)|男(田を作る)|具(谷間の田)|那(豊かな)

…「曲がった谷間に豊かな田を作る」命と紐解ける。安萬侶コード「具」は谷間に田が並んだ象形である。前記の「迦具夜比賣」と同じである。図から判るように谷間を流れる川が大きく曲がり、それに沿って田が並んでいる様が伺える。小碓命の場所である。一方の「倭根子命」は…、


倭(曲がる)|根(山稜の端)|子(端の先)

…「曲がって伸びる山稜の端の先」の命と紐解ける。図に示した通り細長く延びた山稜の場所と推定される。

「針間」の北側と南側の地に誕生した御子達が配置されていたのである。鉄の産地、吉備への入口を見事に固めたと告げている。天皇になることはなかった小碓命ではあるが、その血統は深く関わっていくことになる。詳細は別稿【倭建命】を参照願う。

「倭=ヤマト」から脱却しなくては、古事記の伝えるところから遙か遠くに向かうことになる。「倭男具那命」それとも大和の男の道具が豊かな命とでも解釈して済ませるのであろうか・・・。