景行天皇

<垂仁天皇【説話】                          倭建命>

景行天皇



旦波国の氷羽州比賣の御子が第十二代景行天皇となる。「大帶日子淤斯呂和氣天皇」「命」が「天皇」に代わっている。この天皇の特筆すべきことは、産めよ増やせよ、の富国強兵政策である。八十人の御子が誕生するという断トツの「偉業」を成遂げた。開化天皇から始まった倭国の興隆、崇神天皇、垂仁天皇を経ていよいよ本物の様相を呈している。

師木から離れ「纒向之日代宮」に移る。師木そのものは稲作の地であり、「宮」の適切な場所を求めたのではなかろうか。倭国のあるべき姿を求めて行動をし、興隆の仕上げを行った天皇と推察される。娶りと御子を読み解き、彼の「偉業」を眺めてみたい。

古事記原文…、

大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纒向之日代宮、治天下也。此天皇、娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女・名針間之伊那毘能大郎女、生御子、櫛角別王、次大碓命、次小碓命・亦名倭男具那命、次倭根子命、次神櫛王。五柱。又娶八尺入日子命之女・八坂之入日賣命、生御子、若帶日子命、次五百木之入日子命、次押別命、次五百木之入日賣命。又妾之子、豐戸別王、次沼代郎女。又妾之子、沼名木郎女、次香余理比賣命、次若木之入日子王、次吉備之兄日子王、次高木比賣命、次弟比賣命。又娶日向之美波迦斯毘賣、生御子、豐國別王。又娶伊那毘能大郎女之弟・伊那毘能若郎女、生御子、眞若王、次日子人之大兄王。又娶倭建命之曾孫・名須賣伊呂大中日子王之女・訶具漏比賣、生御子、大枝王
凡此大帶日子天皇之御子等、所錄廿一王、不入記五十九王、幷八十王之中、若帶日子命與倭建命・亦五百木之入日子命、此三王、負太子之名。自其餘七十七王者、悉別賜國國之國造・亦和氣・及稻置・縣主也。故、若帶日子命者、治天下也。小碓命者、平東西之荒神及不伏人等也。次櫛角別王者、茨田下連等之祖。次大碓命者、守君、大田君、嶋田君之祖。次神櫛王者、木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖。次豐國別王者、日向國造之祖。

…と言う訳で、さしもの安萬侶くんも御子を省略して記述である。逐次追いかけてみよう。が、その前に天皇の諡号と居場所の紐解きである。

大帶日子淤斯呂和氣天皇の「淤斯呂」=「御代」とすると…、
 
淤斯呂和氣=御代別=子に代を別ける

…となる。上記中の「悉別賜國國之國造・亦和氣・及稻置・縣主也」の「偉業」に繋がる。言向和した、あるいは開拓した土地を分け与えたのである。素晴らしい、天皇家の実力を天下に示す作業である。と同時に全てが将来への布石ともなる。
 
<大帶日子淤斯呂和氣命・纒向之日代宮>
そんな意味も示しながら、しっかりと居場所の地形を表すのが、古事記の記述法であろう。順次紐解いてみよう。「大帯日子」は…、

 
大(平らな山稜の麓)|帯(なだらかに延びた)|日(炎の形)|子(生え出た)

…「平らな頂の山稜の麓がなだらかに延びた先にある炎のような地から生え出たところ」と読み取れる。図に示したように長く延びる山稜から枝が延びたようになっている地形を表している。

「淤斯呂」の「淤」=「氵+於」と分解される。更に「於」=「㫃+二」から成る文字と知られ、「㫃」=「旗」の原字である。「於」=「旗がたなびく」様と解釈され、「淤」=「水辺で旗がたなびいているようなところ」となる。「斯」=「其+斤」=「切り分けられた」様、「呂」=「四角く積み重なった」様と解釈される。「淤斯呂」は…、
 
淤(水辺で旗がたなびいたような地)|斯(切り分ける)|呂(四角く積み重なる)

…「水辺で旗がたなびいているような地と四角く積重なった地が切り分けられたところ」と読み取れる。延びた山稜の積み重なった端の更にその先にゴロゴロした台地が広がっている様子を表している。淤能碁呂嶋で用いられた文字であるが、全体の形として旗がたなびく様と表面のゴロゴロとした様を重ねた表記であろう。確かに旗がたなびく様は凹凸のある状態である。

「和氣」=「しなやかにゆらゆらと曲がる」様として「子」の地形を表している。「淤斯呂」の傍にある場所、そこが大帶日子淤斯呂和氣天皇の御座所であることを述べているのである。図に示した通り、余すことなく地形情報を盛り込んだ名前であることが解る。

「纒向之日代宮」は何処であろうか?…「纏向」は…、
 
纏(纏わり付く)|向(向く)

…「山麓にあって正面を向けている」と読み解ける。正面を向けているのは、既に登場した三つの畝の香山(香春岳)の最高峰、香春三ノ岳である。では「日代」とは?…、
 
日(日=太陽)|代(背)

…「日が背にある(日を背にする)」と解釈される。即ち香春三ノ岳に対してその正面を向けていて、日(太陽)がその背を照らす宮と思われる。この解釈で宮は、呉川が流れる谷間を背にして建っていたと推定される。なのだが、これも地形象形表記であろう。「代」=「人+弋」と分解される。「弋」=「杙」であるから、「人」=「谷間」として「日代」は…、
 
炎の地の谷間にある杙のようなところ

…と紐解ける。「和氣」の山稜から突き出た枝山稜の端に宮があったと推定される。上記の「淤斯呂和氣命」と何ら矛盾することなく、現在の福岡県田川郡香春町鏡山の四王子辺りと結論付けられる。「纒向之日代宮」については、後の雄略天皇紀にも詳細な記述がある。抜粋して述べると・・・。
 
<纏向日代宮>
雄略天皇の「長谷朝倉宮」についての詳細はこちらを参照。

「長谷(長い谷)・朝倉(朝が暗い:東に山塊)・宮」として現在の香春町採銅所宮原辺りと推定。

説話はその地が日代宮の近隣である。

日代宮は小高いところの「多氣知」にある、と后が詠う。天照大神の御子:天津日子根命が高市縣の祖となる記述がある。

伊勢國之三重婇の歌に「麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜」[武田祐吉訳:纏向の日代の宮は朝日の照り渡る宮、夕日の光のさす宮]とある。宮は一日中日が当たる場所にあったと告げている。

これだけの情報を併せて矛盾のない記述かと思われる。天皇一家の倭国支配が本格化した景行天皇からそれが極められた時の天皇の揃い踏みの記述である。日代宮はさぞかし立派な宮であったのだろうか…知る由もないのだが・・・。妾が何人も、いやはや、流石である。后と御子の話に移ろう…。
 
1. 若建吉備津日子之女・名針間之伊那毘能大郎女

孝霊天皇の御子の若建吉備津日子(吉備臣、笠臣の祖)の比賣である針間之伊那毘能大郎女を娶ったと記述される。同じ時期に吉備上に入った大吉備津日子命についてはその後記述がない。何かの事情があったのであろうか。

「笠」=「龍」と繋がる。現在ある龍王神社との繋がりは不透明であるが、この地を「リュウ」と表現されたのではなかろうか。現在の山口県下関市吉見、古事記に幾たびも登場するこの地に眠る古代が「穂」となることを祈るばかりである。
 
針間之伊那毘
 
吉備国及びその近隣にある「針間」=「針のような細いところ」の「針間口」吉備に入る手前にあった場所であろう。「伊」=「人+|+尹」、「毘」=「囟+比」と分解して、「伊那毘」の解釈は?…、
 
<針間之伊那毘>
伊(谷間で区切られた山稜)|那(ゆったりと延びる)|毘(窪んだ地が並ぶ)

…「谷間で区切られた山稜がゆったりと延びる傍で窪んだ地が並んでいるところ」と紐解ける。

この文字列にはもう一つの解釈があって…、
 
伊(山稜を区切る谷間)|那(整った)|毘(臍:へそ)

…「山稜を区切る整った谷間が臍のように見えるところ」と解釈できる。南方から針間口を眺めた時、右側から山の稜線が降りてきて針間口で凹となり、左側に小山が続いて最後海に落ちる。

そんな稜線を目の当たりにする場所、それを「伊那毘」表記しているとわかる。両意を汲んでよいのではなかろうか。「毘=臍」の地形象形も確かなところであろう。

凹は「へそ」である。現地名は下関市吉見下であるが、「船越」の地名も残っている。小字であろう。積み荷を満載にした船で針間口を通ったのであろうか。牛、馬で曳かせれば思う以上に短時間の作業だったのかもしれない。現在も多数残る地名であるが、当時の交通の要所であったことは間違いなかろう。二俣舟の時もそうであったが、本当に古代のツールに関する文献が少ないようである。
 
<俯瞰図>
山間の地で決して豊かなところとは思えないが、「氷河」(二つに分かれた川)が流れ、その治水が果たせたのであろう。

上空からの写真からでは不鮮明ではあるが、堰、池等の灌漑施設を確認することができる。

見えるのは後代のもの、しかし「猿喰新田」の時と同じく遠い昔からの痕跡、その技術をその地に残している、と推測される。「氷河」については孝霊天皇紀を参照願う。

交通集中するところで人の往来が多い処でもあったと思われる。吉備を開拓し「鉄」の供給を確かなものにするという大目的があってのことであろう。神武一家の明確な戦略を感じ取れる。

父親の名前に含まれる「吉備津」と表現されるように当時は現在のJR吉見駅辺り(吉見本町、竜王町など)は海面下であったと推定される。西側の永田郷(吉備兒嶋と比定)も大半がそうであり、大きく内陸側に海辺があった地形であった思われる。おそらく若建吉備津日子の拠点は現在の竜王神社辺りであったのではなかろうか(「笠」↔「龍」との繋がりを前記で示唆)。

誕生した御子が「櫛角別王、次大碓命、次小碓命・亦名倭男具那命、次倭根子命、次神櫛王。五柱」と記される。大碓命、小碓命は説話に登場する。小碓命が「倭建命」となる。共通する名前の文字別に括って述べてみよう。
 
1-1. 櫛角別王・神櫛王

この二王に共通する「櫛」があるように近隣に居たと思われる。纏めて紐解いてみよう。櫛角別王は「櫛角別王者、茨田下連等之祖」になるとされる。「茨田」と如何に繋がるのか?…勿論通説で考察された例を知らない。
 

<櫛角別王・神櫛王>
母親の地、吉見下辺りに目を付けて探すも「櫛」に象形できるような地形を一見では見当たらない。

「櫛」=「くしの歯のようにすきまなく並んださま」であろうが、そんな地形を示す山麓はないことがわかる。

では何を櫛に象形したのか?・・・山頂が「串」のように並んでいる様を象形した。

とすると「船越」の西側にある山並みがそれを示していると思われる。

「久士布流」の解釈に類似する。低山ではあるが、ハッキリとした凹凸が見られる地形である。

更にこの「串」は北側で直角に曲がっているのがわかる。
 
(山頂が連なる)|(曲がりカド)
 
<櫛角別王:茨田下連>
…である(下図の北)。現在の地図からではあるが、この場所をよく見ると池、川があり水田としての開発がなされている。

「櫛角」とは実に的確な表記であろう。谷間の緩やかな傾斜地の場所である。「別」は、細く延びた山稜で区切られている地であることを示している。

「櫛角別王」は後に茨田下連の祖となる。現在の福岡県京都郡みやこ町勝山松田下田であろう。「松田」=「茨田」である。「棚田」の繋がりを伝えている。

その「茨田」の下(麓)にある「連」(山稜の端が延びたところ)…この場合は形の整った三角州…を形成している。古事記が繰り返し述べる「棚田」、灌漑技術が出来上がる前の水田耕作の重要性を記述しているのである。
 
茨田:古代稲作のキーワード

これが読み解けなかった現状が古事記解釈の全てを物語っている、と言っても過言ではないであろう。

神櫛王の「神櫛」は何処を指し示すのであろうか?…「櫛角別」の西方に「串本岬」という地名(吉見古宿町)がある。その岬にある山(串山)がやはり「櫛」の形状を示している。「櫛」=「串」(山頂が連なる様)で残存する地名と思われる。加えてその山頂が「稲妻」のように折れ曲がった繋がり方をしているのが見える。
 
(雷)|(山頂が連なる)

…「雷の形のように山頂が連なる」と紐解ける。「神櫛王」は岬の山の麓に居た王子であった。この王子、「木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖」と記述される。「酒部」=「酒造り」で良いのであろうか?…やはり安萬侶コード「酒(境の坂)」であろう。由来は下記する。

<神櫛王:酒部>
木國之酒部阿比古

神櫛王は急斜面の山を背にする地に居た。彼の得意とするところはその斜面の活用であろう。その為に必要な技術は「階段・スロープ」作りではなかったろうか。「酒部」は斜面の土地に…、
 
階段・スロープ等の山道

…を造る部隊であったと推測される。坂を均して耕地にする技術は貴重である。彼及び彼の子孫が保有する技術を伝えたことを「祖」として記述したのである。

「木國之酒部阿比古」とは何処を示すのであろうか?…、
 
阿(台地)|比(並ぶ)|古(小高い地)

…「台地の傍らで小高い地が並んでいるところ」と紐解ける。「阿比古(アビコ)」=「我孫子」のように古代の姓との解釈もあるが古事記の表記は地形象形と思われる。

あらためて「酒」の意味するところを調べると、「サカムカエ(坂迎え、境迎え、酒迎え)」=「旅から郷里に帰る人を、国境・村境などに出迎えて供応したこと」古代から近世に至るまで重要な儀式の一つであったようである。「ホツマツタエ」にも登場するとある。これで「酒」と「坂」が繋がった。

ならば古事記の記述は単なる「坂」を示すのではなく「境にある坂」を意味しているのではなかろうか。場所を示す上においてより精度の高い表記と解釈される。関連する文字に「富」=「宀+畐(酒樽の象形)」がある。紐解けば「富」=「山麓にある境の坂」となる。「意富富杼王」の意味するところ、実に鮮明に浮かび上がって来る。応神天皇紀を参照。
 
宇陀酒部

宇陀は、既に求めた現在の北九州市小倉南区呼野・小森・市丸辺りである。この地は高い崖に挟まれた谷であり、かつては東谷村と言われたとのこと。そそり立つ崖もさることながら斜面だらけの地である。その中で限りなく境に近いところ、現在の金辺峠に向かう坂を指し示していると読み取れる。二人の王子の生まれ育った場所の地形から読み取れる古事記の内容、あらためてその深さに驚かされた。

1-2. 大碓命・小碓命

果たしてこの「碓」の文字は彼らが坐した場所の地形を表しているのであろうか?…「碓=臼」とある。地形とするなら凹んだところであろう。母親の針間之伊那毘能大郎女の居場所が実に限定的に求められたことから、この探索が前進したようである。
 
<大碓命・小碓命・倭根子命>
枝稜線が複雑に絡む地の地形をしっかりと見定める必要があったのである。縄文海進やら沖積の未熟さも考慮に入れながら、である。

すぐ近隣の吉備兒嶋(下関市永田郷)があるのに…この場所ほど明瞭ではなかったと言い訳しつつ、図を参照。

大碓命・小碓命の破線円で示したところは現在の標高約10m以下の凹になった地形である。大小並んで海に面している。

竜王山山系の主稜線から多くの枝稜線が響灘へと向かい、枝稜線の谷間から流れる川が海に注ぐ様相が伺える。

海と山系との距離が短くこの地も急勾配の傾斜を持ち、海岸線は起伏の激しいところと思われる。

海面上昇に依る海岸線の状況は大きく異なっていたが、この基本的な地形には当時との相違はないと推測される。
 
凹んだ地形を表現するには「首」「印」のようなものがある。それらと区別をしているのは、この地が周囲を取り囲まれた「臼」の形状をしているからと思われる。

図に国土地理院陰影起伏図を示した。枝稜線が複雑に絡み真に凹の地形をしていることが判る。何とも上手くできた、と言うか精緻な表記なのであろうか・・・。

これも古事記のランドマークに登録しなければならないようである。読み飛ばしては到達できなかった場所であろうし、本居宣長が古文献をひっくり返しても全く行き着くことのない結果であろう。

日本の古代史上、最も有名な、かつ悲劇の英雄である倭健命の出生場所である。現地名、山口県下関市福江の山中とある。JR山陰本線福江駅の北隣りである。

彼に因んで命名された場所が全国に散らばる。国譲りの拡大解釈の結果なのであるが、この地にはない、ようである。

1-3. 倭男具那命(小碓命)・倭根子命

小碓命に別名が付記される。「臼」の地形とマッチするのであろうか?…、
 
倭(嫋やかに曲がる)|男(太く延びた山稜)|具(山稜に挟まれた窪んだ地)|那(整える)

…「嫋やかに曲がる太く延びた山稜に挟まれた窪んだ地がなだらかになっているところ」の命と紐解ける。前出の迦具夜比賣に類似する解釈である。図から判るように谷間を流れる川が大きく曲がり、それに沿って田が並んでいる様が伺える。小碓命の場所である。一方の「倭根子命」は…、
 
倭(嫋やかに曲がる)|根(山稜の端)|子(端の先)

…「嫋やかに曲がって伸びる山稜の端の先」の命と紐解ける。図に示した通り細長く延びた山稜の場所と推定される。

「針間」の北側と南側の地に誕生した御子達が配置されていたのである。鉄の産地、吉備への入口を見事に固めたと告げている。天皇になることはなかった小碓命ではあるが、その血統は深く関わっていくことになる。詳細は別稿【倭健命】で述べる。

1-4. 大碓命の系譜

極めて難しい解釈が必要となる段である。読み解くことではなくてこの説話の意味である。何を伝えようとしたのか、そんなことを考えながら見てみよう。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是天皇、聞看定三野國造之祖大根王之女・名兄比賣・弟比賣二孃子其容姿麗美而、遣其御子大碓命以喚上。故其所遣大碓命、勿召上而、卽己自婚其二孃子、更求他女人、詐名其孃女而貢上。於是天皇、知其他女、恒令經長眼、亦勿婚而惚也。故其大碓命、娶兄比賣、生子、押黑之兄日子王。此者三野之宇泥須和氣之祖。亦娶弟比賣、生子、押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖。
[ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄姫弟姫の二人の孃子が美しいということをお聞きになって、その御子のオホウスの命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女を求めて、その孃子だと僞って獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになって、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須の別の祖先です。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都の君等の祖先です]

大碓命はこんな事件を引き起こして、天皇と疎遠になり、挙句に小碓命、即ち倭建命によってあっさり抹殺されてしまうという筋書きなのである。天皇が娶ろうとした比賣をこっそり横取り、挙句に代わりの比賣を宛がうなど、血迷ったか!…のような話なのだが、ただでは済まされない事件を起こしたことは誰にでもわかる、敢えて行った理由は?…この二人の比賣が迷わせたか?…難しい。

小碓命の挙動はかなり正当化されるわけだが、それだけのことでもなさそうである。いずれにしろ大碓命はそれまでにしっかり祖となる地を持ち、流石三野国造の祖である大根王の力であろうか、容姿麗美な比賣の子供は三野の地に根を張ることなったと言う。

大碓命が祖となった「守君、大田君、嶋田君之祖」と併せて紐解いてみよう。
 
守君・大田君・嶋田君
 
<大碓命(祖)>
いつものことながら簡単明瞭…いや明瞭でなく簡単なだけ。こんな時は安萬侶くん達にとって説明不要の場所と思うべしである。


「守」=「杜」、「嶋田」=「中州(川中島)の田」として、読んでみると・・・大国主神(命)の子、大山咋神が坐した地に近淡海國之日枝山が登場した。

その解釈で「稗(田)」=「日枝(田)」を見つけたところに「宮の杜」がある。そこは難波津の真中、近淡海國の中央に当たるところ、現在の福岡県行橋市上・下稗田辺りと推定される。

さて、名称の通りの地形が見出せるのか?…州の中に州が入り組む、真に州だらけの地であることが判る。人々が水田を作り住まうには実に適したところ、がしかし氾濫する川の防御が不可欠なところでもあったと思われる。

「嶋田」はその文字通りに中洲にある田を示すのであろうが、「守」、「大田」は何と紐解くか?…「守」は応神天皇紀に登場する大山守命と同様に紐解くと…、
 
肘を張ったように曲がる山稜に囲まれたところ

…となる。標高からして深い谷ではないが、現在の宮の杜の南端の谷の地形を示していると思われる。また「大田」も真にありふれた表記ではあるが…、
 
大(平らな頂きの山陵)|田

…と紐解ける。山稜の端にあってなだらかな頂を示すところの麓を表しているように思われる。三つの君は、現在の行橋市上稗田の場所に坐していたことを伝えているのであろう。各々「君」(整えられた高台)と称される。決して高くはない台地に坐すのに適した地形の場所であろう。「守君」以外は現在の神社・学校などがある場所と推定される。

未開の地、近淡海國の「鎮守の森」である。「大碓命」について古事記の扱いは小碓命の影に隠れてしまうが、地元では開拓者としてそれなりに評価されたのではなかろうか。

「稗田」は「日枝神社」の発祥の地である。この地より「国譲り」で現在比叡山を本山として全国に散らばる神社となっている。侮れない重要な地である。愛知県豊田市(国譲り前は三川之衣)にある猿投神社が「大碓命」を祭祀する。近世以降に祭祀されたとしても何らかの「国譲り」の捻りがあるのかもしれない…これも大碓命の謎の一つである。
 
押黑之兄日子王・弟日子王

三野の姉妹が生んだ御子が「押黑之兄日子王・弟日子王」である。そしてそれぞれが「三野之宇泥須和氣、牟宜都君」と記述される。「押黒」は何と紐解けるか?…「黑」は、黑田廬戸宮の解釈と同じとして「押黑」は…、
 
谷間で[炎]のような山稜が押し延ばされたところ

…と読み解ける。現地名は京都郡苅田町提(ヒサゲ)辺りと思われる。この地名が古くからあったものであろうが、由来は不詳。「日子」([炎]の地から生え出たところ)が示すように「黑」から更に延びた山稜が見られる。各々その高台に坐していたと思われる。
 
三野之宇泥須和氣・牟宜都君

先に「牟宜都」を紐解くことにする。頻出の「牟」は、やはり[牟]の字形を象った地形を意味するのであろうが、果たして見出せるのか?…「宜」=「山麓の段差がある高台」であろう。伊豫の粟国の謂れ、大宜都比賣と同様に解釈する。「牟宜都」は…、
 
牟([牟]の形)|宜(山麓の段差がある高台)|都(集まる)
 
…「[牟]の形に山麓の段差がある高台が集まっているところ」と紐解ける。「君」(整えられた高台)を加味して、現在の京都郡苅田町松山の戸取神社辺りと推定される。
 
<大碓命の御子>
何とも期待を裏切らない配置である。頻出の[牟]の形は、山麓に現れる自然の造形美なのであろうか・・・。


稜線が端が長く伸びて天然の「湾」の地形をしていたものと推察される。洞海湾ほどではないにしても漁獲が豊かだったであろう。

粟国と同様に「魚(宜)が集まる」ところでもあったと思われる。両意に重ねられた表記のように思われるのだが、如何であろう。

さて残った「三野之宇泥須和氣」は何と解釈するか?…ありふれた文字列のようにも感じられるが、「泥」の解釈に一工夫を要すると思われる。

「水田、~ではない(呉音:ナイ)」とすると「宇」「須」が一般的な表記であることから場所が特定されない。何かを告げようとしているのだが・・・。

「泥」=「氵+尼」と分解される。更に「尼」=「尸+匕」と分解されて、それそれが左、右を向いて尻を突き合せた形を象ったものと解説される。水が媒介してくっ付き合っている状態を表す文字と読み取れる。当に「泥(ドロ)」なのであるが、これを地形象形に用いると…、
 
宇(山麓)|泥(くっ付いている)|須(州)
 
<大根王>
…「山麓でくっ付いている州」と紐解ける。上図に示した通りに山稜の端がくっ付いたように海に突き出ている場所である。「尼」仏教で使われる意味では、勿論、ない。

北九州市小倉南区朽網東(三野国と比定)に「宇土」という地名(実際には交差点名)が残っている。残存地名として見做せるかも?…である。

「和氣」(しなやかに曲がる地形が立ち上がるように見えるところ)とすると、山麓にある現在の清源寺辺りを示している。ここが本拠地であったのではなかろうか。

「三野國造之祖大根王」は何処にいたかを推定するのだが、「大根」=「大きな山稜の端」と解釈すると現地名北九州市小倉南区朽網西に広がる地が見出だせる。

残念ながら大規模な団地に開発されており、当時の地形を伺うことは叶わないようであるが、山稜の端が大きく迫り出していたところと伺える。
 
――――✯――――✯――――✯――――

残存地名、地形象形の確かさから、上記の比定作業の確度はかなり高いものと思われる。いずれにしても三野の地は極めて重要な地点であったことが伺える。これらの御子のお陰で三野の地の詳細が見えてくる。まさかそのために説話を載せた…そんな訳はないであろうが…神武天皇が大倭豊秋津嶋に上陸した「熊野村」はひょっとするとこの「押黒」だったのかも、である。

小碓命は、兄を亡き者にはしなかったのではなかろうか。天皇への報告は兄を庇ったもの、そうとも言わなければ事の決着は見られず、ってところであろう。他の史書などでは生き長らえたとのことであるが、それが真相であろう。それにしても、この大碓命を主祭神にする神社(豊田市猿投神社:挙母市とも言われた)があるとは…謎である。三野から尾張、更には三川(三川之衣)まで逃げたのか?・・・直線ルートで10km弱、ではあるが。
 
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< 八尺入日子命・八坂之入日賣命>
2. 八尺入日子命之女・八坂之入日賣命

御子も「若帶日子命、次五百木之入日子命、次押別命、次五百木之入日賣命」とあり、多彩な展開が記述される。「八坂」は、崇神天皇紀の八坂之入日子命の段で読み解いた。

また「八尺」の文字は天石屋の段で八尺鏡八尺勾璁之五百津之御須麻流之玉で登場した。共に地形象形の表記であって親指と他の指とが開いたような谷」と解釈した。

「八坂」の近隣に「八尺」の地形は見出せるのであろうか?…いや、「天」の擦り潰された地形よりも、より鮮明な「手」の地形を読取ることができる。現地名は北九州市八幡東区東台良町辺りである。即ち「八坂」の中の「八尺」であることが解る。既出の「入日子」を同様に読み解くと、図に示したように谷間の形を象った命名であると気付かされる。

山稜の「日(炎)」の形が延びて[入](古文字)形の谷間を作り、更にそこから生え出たところが「入日子」、また「入日賣」は同様だが、生え出ずに、含まれたところが坐した場所と推定される。「入日子」、「入日賣」の文字列がこれだけ多くの情報を孕んでいたとは、少々驚きである。

また垂仁天皇紀で「五百木」は「木」の地形象形で「伊豫国」と解釈した。押別命の「押」も上記で読み解いた。一気に紐解いてみよう五百木之入日子命、五百木之入日賣命は「伊豫国」に居たとして問題ないようである。先ずは「押別命」について読み解いてみよう。

2-1. 押別命

<八坂之入日賣命・押別命>
上記したように…「押別」=「押し拡げた別けたところ」と紐解ける。現在の北九州市八幡東区の洞海湾に面するところは大半が埋め立てられた工業地帯となっている。

当時の海岸線は東海道本線、その更に山側であったかと推定される。それを念頭にして「八坂」から延びる山稜が「押し拡げられたところ」を示していると思われる。

また、その山稜の端が別れた状態になっている様を「押別」と表したのであろう。

この地は官営八幡製鉄が発祥し、世界遺産にも登録。西は三菱化学黒崎工場などなど、近代工業化の波が押し寄せた場所である。

直方、田川の石炭を主燃料とする鉄・化学産業が大きく花開いた地である。天神達、神武一家、安萬侶くんたちには想像もできない発展を成し遂げた。万世一系などと言わずとも彼らの思いは今にしっかりと繋がっているのである。

孝安天皇(大倭帶日子國押人命)の「押人」=「狭い谷間を押し拡げたところ」に類似して最もらしい解釈になったと思われる。神が助くる処、祇園の「前田」であろうか。

2-2. 五百木之入日子命・入日賣命

上記したように五百木はかつての伊豫国である。多くの山稜が入り乱れたような地形を示す場所と紐解いた。ただそれだけに特徴のある地形が少なく、かなり詳細に眺めないと伊豫国の中の何処に坐していたかは求めにくい状況ではある。その他の記載された情報もなく、従って母親の八坂之入日賣命との場所との関係で推測してみよう。
 
<五百木之入日子・入日賣>
彼女は上図に示すように八坂に居たが、それは洞海湾に面するところと言える。

そして「押別命」が八坂と洞海湾との間に田を広げたならば、他の兄弟たちは新たな地を求めて旅立つことになったのであろう。

その一つが「五百木」と告げているのである。伊豫国を見る視点は現在では響灘の海側から眺めるのであろう。

しかしながら間違いなく、当時は洞海湾を中心とした海域が彼らの交流圏を形成し、視点は洞海湾にあったと思われる。

すると、既に求めた五百木の範囲の中でも洞海湾及びそれに繋がる江川・坂井川の流域を中心とした地域と考えるべきではなかろうか。

その江川・坂井川は現在のような川幅では毛頭なく、図に示した広い水田地帯(青色)は全て海面下にあったと推測される(標高5m以下)。現在の北九州市若松区蜑住は海辺に当たり、その奥が「有毛」である。川沿いに豊かな水田が見られる。

橙色破線の中は概ね標高7~30mであり、当時も水田として利用できたのではなかろうか。この地が五百木之入日子命、入日賣命が坐していたところと推定される。既述したように入日子、入日賣は苗代を作って田植えを行っていたと考えた命名である。なだらかな傾斜の地は彼らにとって最も好ましい稲作立地の条件を満たしていたのである。蜑住の地名はその名の通りに海辺で住まう人々に由来するところであろう。

「入日子」、「入日賣」の解釈を上記の「八坂」に類似した地形象形とすると、図に示したように彼らの居場所を求めることができる。やや出来過ぎのきらいも感じられるが、見事に当て嵌まる地形を見出せることが解る。

伊豫国の中心地として直感的に求められるところではあるが、洞海湾から眺めてもここに行き着くことが判った。伊邪那岐・伊邪那美が国(島)生みをした時代の海面の状態と古事記が語る時代との違いを敢えて異なる表記で伝えている。それを念頭に置いて読め!…と述べているのである。

2-3. 若帶日子命

「若帯日子」=「若い方の満たす人」で父親の「大帯」に対して名付けられたと解釈される。四人の御子中三人が洞海湾の近隣に因む名前を持っていたことが判った。では、残る一人の若帶日子命もその居場所を示しているのではなかろうか。
 
<若帶日子命>
「若」は「若木=讃岐国」とすると、現地名の北九州市若松区修多羅の地名がある。

「修多羅」=「スータラ:経文」であるが「袈裟の装飾として垂らす赤白四筋の組紐」のことでもある。

この「垂らす」に掛けている?…後の倭建命の御子、建貝兒王が「讃岐綾君」、「綾=組紐」とした。

「若木」に関連するとしてもなかなかに解読できそうにない。簡単な表記故に一層不確かな考察に陥ってしまうのである。

今一度地形を眺めてみると・・・「若木」即ち「山稜の分岐が少なく、またそれが未発達な状態」を示すと解釈した。要するに谷の形成が不十分な地形と思われる。上記の大帶日子淤斯呂和氣天皇「帶」、「日子」として…、
 
若(成りかけ)|帶(長く延びる)|日([炎]の形の山稜)|子(生え出る)|命

…「長く延びかけている[炎]の形の山稜が生え出たところ」に坐す命と紐解ける。「若木」の「若」に掛けた命名と思われる。

現地名の修多羅の由来も決して明らかではない。いずれにしても経文が絡むものには古事記は無関係であろう。八坂之入日賣関連の考察が八坂及び伊豫之二名嶋は洞海湾を中心とした密接な繋がりを持つ一つの地域であったことが導かれた。

海を中心とした海洋国家ではないが、生活文化圏としての認識を示していることは極めて貴重な記述と思われる。古事記が書き残した日本の古代の姿である。

3. 二人の妾

古事記は…「妾之子、豐戸別王、次沼代郎女。又妾之子、沼名木郎女、次香余理比賣命、次若木之入日子王、次吉備之兄日子王、次高木比賣命、次弟比賣命」と記述する。母親の居場所が隠されているので、少々粗い比定になりそうであるが、構わず進めてみよう。
 
3-1. 豐戸別王・沼代郎女

「豐」は「豐國」関連であることと解釈するのであるが、「國謂日別」の記述は別として、國の位置を明確に表したのは神倭伊波禮毘古命の豐國宇沙である。この地の場所が紐解けないと、國は宇佐まで飛んで行くことになり、國の領域は極めて漠然としたものに止まっていたであろう。恐ろしい、真に気の抜けない記述である。漠然が望ましく思う方々には都合良し、かもであるが・・・。
 
<豐戸別王・沼代郎女>
「戸」は「宍戸、瀬戸」で使われるように水の流れが細く狭まったところ意味するであろう。

「豐」の地にそれを求めると、「宇沙」を含む地域を示すと思われる。現在の地名は行橋市天生田辺りであろう。

当時の犀川(現今川)の川幅は広く、陸地は現在より大きく後退していたと推測される。推定海岸線は仁徳天皇紀のこちらを参照。

「沼代郎女」は…、
 
沼代=沼が背にある

…と解釈すれば図の大池を背にしてのではなかろうか。どうやらこの妾は、宇沙都比古・宇沙都比賣に後裔に当たる女人だったように思われるが、確証は全くない。

もう一人の妾からは六人も誕生する。伊豫之二名嶋の「沼名木=土左国」「若木=讃岐国」「高木=粟国(2)」で現地名北九州市若松区である。「吉備」は現地名山口県下関市吉見である。上記の名前だけからではそれぞれの国の何処に居たかは特定し辛いのだが、関連した既述から推定してみよう。尚、「高木」については後の応神天皇紀に高木関連の既述が頻出するのでそちらで纏める。

3-2. 沼名木郎女

土左国の別名と解釈したが、「沼名木」の文字列は古事記に二度登場する。伊豫関連としては少ない。ここで登場するのと崇神天皇が尾張連之祖・意富阿麻比賣を娶って誕生する「沼名木之入日賣命」である。人材、と言うか娶る比賣がいなかったのであろう。崇神紀では「入日賣」を頼りに紐解けたが、「郎女」では何とも手の施しようがない、要である。
 
<沼名木郎女>
また、団地開発、ゴルフ場開発など、当時の地形は殆ど残されていない有様でもある。

既に述べたように江川に合流する坂井川及びその支流の流域は全て海面下にあったと推測される。

辛うじて今でも水田がある場所を求めてみた結果を図に示す。

先の「沼名木之入日賣命」が谷の出口付近であれば、おそらくもう少し上流側に坐していたのではなかろうか。

古事記登場回数が少ないのも十分に頷ける訳である。この地の比賣の御子には「別」を与え辛く、別途の手配が必要になって来る。誕生した御子達がその地に散らばらなければ、詳細も伝わらず、である。

食糧の調達、その拡張が望めないところは古事記の表舞台から引き下がらざるを得なかったということになる。至極当然の帰結であろう。「沼名木」の登場は景行天皇紀で終わる。

3-3. 吉備之兄日子王

吉備は幾度も登場するのであるが、概ね御子の名前に詳細な情報が含まれていて坐したところを特定できるのでるが、「兄」では如何ともし難い・・・それとも何かを意味しているのか?…一体どんな地形を象形しているのであろか。


<吉備之兄日子王>
「兄」=「口+ハ」と分解すると「口」=「広がったところ」、「ハ」=「谷」の象形ではなかろうか…、
 
兄=谷の奥が広がっている

…地形を表していると解釈される。「貝」と類似の地形象形と思われる。

図から判るように山からの谷筋が一様に広がるのではなく、特徴的な形をしている。

真に「兄」の文字に当て嵌まる地形であることが伺える。現地名は下関市吉見上・下の境に当たる。地図には中町という表記もあり、旧地名であろうか。「兄」の地が「日子」=「[炎]の山稜が延びたところ」であると述べているのあろう。

古事記には「兄弟」の表現が多く登場するが、単独で用いられた例は初めてのようである。それが、ナント、地形象形していたのである。恐るべし、である。

3-4. 香余理比賣命・若木之入日子王

何故、纏めて述べる?…地図掲載の都合である。先ずは、唯一もう少し絞り込まれた名前が示されているの「香余理比賣命」を紐解いてみよう。香余理(コヨリ=紙縒り)のような比賣、なんてことはあり得ないであろう。
  
<香余理比賣命・若木之入日子王>
香([香]の形の山稜)|余(残り)|理(筋目)

…「[香]の形の山稜が延びた残りで筋目のあるところ」の比賣と紐解ける。

天香山あるいは大香山の「香」に通じる。全てしなやかに曲がって平らな頂の山稜を示している。

この地を除くと若木の東部は殆ど海面下に…「若木之入日子王」は「入日子」を既出のように紐解いて図に示した場所とした。ちゃんと「日の子」のところに[Y]字の谷が見出せる。

畑地としての土地は多くあるが水田にできそうな谷川は少ない。現在は住宅密集地の様相である。時代が求める変化であろうし、本来耕地とするには狭い土地である。

地図を眺めて今に残る地名「棚田町」(香余理比賣の場所)に救われたような気分である。重要な場所に坐した比賣だから名前を付けたかも、である。妾の住まいは粟国=高木?…定かでない。それにしても景行天皇、こまめにお出掛けなされたことである。比賣の名前も確認しなかったのかもしれない、そんなことはないか?・・・。

<日向之美波迦斯毘賣>
4. 日向之美波迦斯毘賣

日向は天孫降臨の地、現在の遠賀郡岡垣町辺りと推定した。

通説では美波迦斯」は「御佩刀=高貴な人の刀」と訳されている。

また、日本書紀では「御刀媛」のそのものの表現であるが、久米一族の比賣ならいざ知らず、どうも合わない。

一文字一文字の地形象形の表記と思われる。

使われている文字は、総て既出であって、それを用いて紐解くと…「美波迦斯」は…、
 
美(谷間が広がる)|波(端)|迦(出会う)|斯(切り分ける)
 
…「谷間が広がった端が切り分けられている地と出合うところ」の毘賣と紐解ける。直訳しても現在の遠賀郡岡垣町も些か広く、合致する地形を探索する羽目になるようだが・・・。

それが報われて上図に示す岡垣町の北部、波津港に面する地形を見出すことができる(遠賀郡岡垣町波津)。二つの谷間が合流した先が平坦な地形となって田を作るに適したところとなっていることが解る。「美」=「羊+大」、「迦」=「辶+加」、「斯」=「其+斤」と分解する。解ければ、実に見事な表現である。

響灘に面し、湯川山から流れる川があり、「茨田」を作り、人々が集まり住んでいたところではなかろうか。そんな地を埋もれさせないためにも敢えて比定するのだが、如何せん狭い土地である。誕生した御子は旅立つことを余儀なくされたのであろう。
 
豐國別王(日向國造)
 
<豐國別王>
御子に「
豐國別王」が誕生する。「豐國」は神倭伊波禮毘古命が訪れた「豐國宇沙」か?…一瞬錯覚しそうであるが、その「豐國」は段差の崖で取り囲まれた地を示していた。

ここで登場するする「豐國」は正真正銘の「豐國」、即ち筑紫嶋にあったところと推察される。それは「取り囲まれた地」と言う具体的な地形を示すのではなく、「人々が住まう地」を意味する表記と思われる。

図に示したように「豐國」は現在の足立山・砲台山の南麓にあり、急峻な多くの段差がある崖のような地形の國と推定した。そして一様に広がるわけではなく、多くの谷間で区切られている。

豐國別王は、その一つの区切りの地、現在の湯川が流れる谷間が出自と推定される。「別」が表すのは、それを「別ける」ところの王であろう。ただ幾つの「別」が存在するようで、一に特定されないが、以下のような推察から図に示した場所とした。

母親が「日向之美波迦斯毘賣」であり、ご当人は「日向國造」の租となったと記載されている。日向の火遠理命(山佐知毘古)と豐玉毘賣命が出会った地が豐國の海辺であったと推測した(当時は湯川は海に注いでいた)。日向と深い結び付きがある豐國の地、それが上図に示した谷間と思われる。洞海湾を経て海路で繋がった地域だったのであろう。勿論、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)、その兄の稻氷命も何度も行き来した行路だったようである。
 
<日向國造>
豐國別王」は、母の國に戻って「日向國造」の祖となった。正に凱旋帰国だったのだろう。「稻氷命」とは真逆の様相である。その場所は汐入川の上流、二俣の谷間に近接するところと読み解ける。

幾度も登場の「國造」は二俣の谷間に坐していたと紐解いた。そしてそこはその「國」の中心の地であることを示している。神倭伊波禮毘古命兄弟の長兄、五瀬命が坐した場所近隣であろう。

彼ら兄弟が立ち退いて以来、天皇家は漸くその地も支配下に置けるようになったことを伝えていると推察される。

伊邪那岐が切り開いた場所、がしかし遠賀川河口近辺の環境は決して生易しいところでなかったのである。「日向」は、決して、博多湾岸にはない、ましてや日向灘に面した場所ではない、と強調しておこう。

5. 大郎女之弟・伊那毘能若郎女
 
<日子人之大兄王>
誕生した御子「眞若王、次日子人之大兄王」と記される。眞若王は母親の名前を引き継いだものとして解釈できるが、「日子人之大兄王」は何と紐解けるであろうか?…「日子人」は古事記に二度出現する。後の「忍坂日子人」敏達天皇の御子である。

すると、「人(ヒト)」の意味ではなく、何らかの意味のある表記と推察される。日子人之大兄王とするならば「日子人」は地名を表していると思われる。「兄」は上記の通りに「谷の奥が広がっている」ところを示すものであろう。
 
[日(炎)]の山稜から延びた地が作る[人]の形の谷間

…とすると、「その谷間の奥の広がったところ」の王と紐解ける。

それで該当する場所を探すと・・・現地名、下関市永田郷、石原・石王田の北側が見出だせる。この地の南側は当時は海面下にあったと推測され、細く長く延びた「人形(ヒトガタ)」の谷であることが判る。

その先(北側)に大きく広がった盆地のようなところがある(永田郷妙寺)。それが「大兄」と名付けられた場所と推定される。その北端は現地名の梅ヶ峠と思われるが、永田郷の区分もその辺りまでとなっている。「吉備之兄日子王」を登場させて、近隣に「大兄」が居ることを忍ばせている。「兄」の意味、解けますか?…と問いかけられているような気分である。

石原・石王田は垂仁天皇の御子、大中津日子命が祖となった「吉備之石无別」と比定したところである。どうやら「倭国連邦言向和国」の北端の地を示しているようである。安萬侶コード「兄(谷の奥の広がった地)」登録である。如何かな?…安萬侶くん・・・。

6. 倭建命之曾孫・訶具漏比賣

「大枝王」が誕生するが、倭健命の段に「迦具漏比賣」「大江王」と記載される。詳細が記述されるので、そちらで述べることにする。

7. 事績と陵墓

さて事績として…、

此之御世、定田部、又定東之淡水門、又定膳之大伴部、又定倭屯家。又作坂手池、卽竹植其堤也。[この御世に田部をお定めになり、また東國の安房の水門みなとをお定めになり、また膳の大伴部をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手の池を作ってその堤に竹を植えさせなさいました]

東之淡水門」は神倭伊波礼比古が五瀬命と逃げた紀國男之水門、後の倭建命が立寄った東国とを重ね合わせれば現在の北九州市小倉南区吉田辺り、竹馬川河口付近と推定される。通説では東京湾まで飛ぶようであるが・・・。
 
<東之淡水門>
「淡水門」は、「淡海」=「淡水の海」ならば同様に「淡水の門」とでも解釈するのが尋常であろうが、そうではないようである。

既に述べたように「淡」=「氵+炎」炎のように水が飛び跳ねる水の状態を表わす。ここは綿津見の場所なのである。現存する神社があっても不思議はない。

「倭屯家」は東京湾まで統治しているのに、何故倭に屯家が要る?…なんてことになりそうである。自ら作った齟齬は矛盾とは言えない。

「夜麻登」はその文字通りに決して豊かな耕作地を提供できる場所ではなかった。漸くにして屯家が作れる時になったと考えるべきであろう。

「屯」=「一ヶ所に集まる」を意味する。既出の「家」=「宀+豕」=「山稜の端」と紐解いた。すると…「屯家」は…、
 
屯(一ヶ所に集まる)|家(山稜の端)

<倭屯家>
…「山稜の端が一ヶ所に集まるところ」と読み解ける。

「倭」は本来の「嫋やかに曲がる」を意味を有しているが、畝火山の周辺の地域を示すと思われる。

「屯家」は、神八井耳命が祖となった筑紫三家のように「三家」(三つの山稜の端)とも表記された。

その場合は集まらずに三方に分かれているのである。実に丁寧に表現されていると感心させられる。

畝火之白檮原宮(現田川郡香春町上高野)の近くに「常安」という地名がある。この辺りを指し示しているのではなかろうか。後に何代もの天皇が宮を構えた「伊波禮」の地、その中心に位置する場所である。国として構える礎を築いたと解釈される。

坂手池」は纏向日代宮の背後、山麓の斜面に「手」の模様が見出せる(図参照)。現在の水田の場所は下流域に移っているが、当時は谷間を利用したところに限られていたと推測される。現在の鏡ヶ池辺りで池を作り用水としたのではなかろうか。急斜面の池作りは「堤」作成の技術に基づく。
 
<坂手池・膳之大伴部・田部>
竹植其堤」は、前記した「竹と池作り」の密接な繋がりを表ていて興味深い。

「膳之大伴部」は、天皇の食膳を司る部署のように解釈されている。

既出の「大毘古命」の息子、「比古伊那許士別命」が祖となった「膳臣」と同じ解釈であろう(こちら参照)。

すると「膳」及び「大伴」の地形を表していると思われる。勿論、両意に重ねられているかもしれない。

「膳」=「谷間が広がるところで山稜の端にある三角州の傍らの耕地」から求める地を見出すことができる。

更に「伴」=「二つに分れた」様を象った文字とすれば、図<坂手池・膳之大伴部・田部>に示した山稜の端にある谷間を示していると解る。「田部」には何らの修飾も施されていないことから、纏向日代宮の周辺に田を拡げたところと推測される。
 
<山邊之道上陵>
倭国が大国へと歩み始めた時の天皇として、旧来の「師木」を離れ、自らの都を作り上げようとした事例が記載されているようである。

「虚空見日本国」即ち未開の地に侵出し、それを着実に繁栄の地に変えていった天皇家の戦略に深く感動する。

彼らは一歩一歩、だが時を惜しまず果敢に開拓する意志は、古事記が伝えたかった最も重要な事柄であったと思われる。

「此大帶日子天皇之御年、壹佰參拾漆。御陵在山邊之道上也」と記述される。「山邉」=「山裾」と読んで…「道」=「辶+首」と分解すると「首」らしき地形がある。その上に葬られたのではなかろうか。現在の田川郡香春町中津原の湯無田の上当りと推定される。



<垂仁天皇【説話】                          倭建命>
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