2017年6月29日木曜日

仲哀天皇:日の本の夜明け前〔056〕

仲哀天皇:日の本の夜明け前


邇邇芸命の降臨場所を特定することができた。古事記が「史書」としての役割を担うことができるならば、どうしても一に決められなければならないところである。何故ならそれが神話から歴史への転換点であり、時空を現実のものに変換することが可能になるからである。

それにしても全てを調べたわけではないが孔大寺山系を取り上げた例を見出すことは不可で、この文字が現れるのは「宗像」に関連する場合に限られる。遠賀川河口付近が早期に開けたところであった、という認識は共有されてはいるが、それを時空に位置付ける作業が欠かせないのである。

景行天皇紀の小碓命の活躍によって古事記が描く領域が隈なく統治の対象となった。残るは熊曾国唯一つ、といったところであろうか。彼らから「建」の名前を譲り受けても統治には程遠い関係にあった。果たしてその後の対応は? 引き継いだ仲哀天皇の時世となる。

仲哀天皇の宮は「穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮」である。「穴門之豐浦宮」について詳細に記述したが、補足する。「穴門」は“直観的に”「関門海峡」とされる。確かに地形的に合致した表記であろうし、殆ど異論を述べた記述は見当たらない。この「穴門」という文字は古事記中に一度、当該の箇所のみである。

「関門海峡」に比定できる文字は「穴戸」である。「戸=門」とするのであろうか? これも古事記中にたった一度だけの出現である。小碓命が「言向和」した熊曾国の神々の中に「穴戸神」の表記がある。「言向和」しても言うことを聞かない連中の集まり、それが熊曾国、と述べている。

熊曾国に「穴戸」がある。「戸=門」とするなら「穴門」は熊曾国の中にあることになる。仲哀天皇は既に熊曾国に居た? 全く不合理な結果に陥る。更にこの国は筑紫嶋の一つの面にある。本州にはない。熊曾国は企救半島北部、関門海峡の南側に位置すると結論付けられた。

これらの矛盾は「戸=門」と勝手に解釈することに起因する。「穴戸≠穴門」であり「山の登口に向かう道」とし、「豊浦」=「豊(国の山)の浦(背後)」と紐解いた。現在の新仲哀トンネルに向かう国道201号線沿いは、正に筑紫嶋の南方(豊日)にあり、また数々の「仲哀」と冠する地名が今も残るところである。

「筑紫訶志比宮」は現在の北九州市小倉北区の妙見宮辺りとし、仲哀天皇の二つの宮は決して本州下関市長府辺りにはなかった、と結論付けた。とあるサイトの方に言わせれば、「穴門之豐浦宮」は古事記解読の「定点」であって動かし難く決定的な比定とされる。それはそれとして、大切なことは、古事記記述において、矛盾するや否やである。

仲哀天皇の娶り関係、御子達の活躍の記述は少なく、神功皇后及び建内宿禰の説話に終始する。前天皇の取った戦略とは全く異なる。皇后の手を煩わした朝鮮半島へのデモンストレーションとその成果としての渡来人達の増加であろう。

それにしても数少ない御子の謀反? 大中津比賣を母親に持つ二人、香坂王と忍熊王は神功皇后への反発があったのでろうが、今は幻想の中である。勝ち組の品陀和氣命(後の応神天皇)の禊祓の説話、建内宿禰がその御子を高志に向かわせたという、既に記述したが、その高志について追加の考察をしてみたい。

高志前之角鹿・高志之利波


第七代孝霊天皇紀にも関連するところがあり、併せて記述するが、御子の「日子刺肩別命*」は高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直の祖になったと記載されている。吉備に注力した天皇ではあるが、この御子の活躍は見逃せないものであった。詳細後述するが、草創期に既に主要な技術、原料等がある場所を押さえに入った、と述べているのである。

「高志前之角鹿」の「角鹿」は? 「高志国」として「猿喰」辺りを漠然と中心に捉えてきたが、いよいよその細部を突き詰める時が来たようである。あらためて「高志」と冠される地域を調べて見よう。古事記の地形象形の確かさに対して、依然と比べてより深まった信頼を基に行う作業である。

企救半島東側で鹿の角ように半島が海に突き出したところは、一か所見つかる。現在の地名、北九州市門司区喜多久である。前述の高志国の中心と思われた「猿喰」の前にある。前記では「高志前」=「越前」との関連を述べたが、律令制後の「前中後」の表現、大和を中心としたものではないようである。

あくまで海に向かってその国より前にあるか否やの表記であろう。海から向かう時には手前になる。二つの大きな半島に挟まれ、奥まったところにある「角鹿」=「喜多久」とはどんなところであろうか? 今に残る「多久」に面影を求めてみる。

「多久」=「栲(タク)」と置換えると、「栲」=「こうぞ」即ち樹皮の繊維から糸・布・紙を作る、原料を意味することがわかる。調べると「高来」などの残存地名もこれを意味するとのこと。この地は糸・布・紙を作る原料及びその加工の技術を保有していた、と推測される。「角鹿」は紡織、紡績の場所であった。

少し奥まったところに「貴布祢神社」=「貴船神社」がある。「船」を「布祢」で表す。当時の舟には布は不可欠である。多くの思いが詰まった表現ではなかろうか。「帆」が作れなくては国の発展を望めない、輸送手段の確保である。「日子刺肩別命」が「角鹿海直」となった、なんだか出来過ぎのような物語である。

では「利波(トナミ)」はどうであろうか? 越中富山の「砺波」であろうか? それは「国譲り」後のこと。この一般的な表現の紐解きは難しい。あれこれ考えて・・・「利(ト)」=「斗(ト)」としてみると、繋がりました。「斗(ト)」=「柄杓(ヒシャク)」、「角鹿」の南隣が「柄杓田」という地名になっている。現地名は北九州市門司区柄杓田である。見るからに良港の地形を示している。


「利波」という簡明な名前を「柄杓田」に「国譲り」しなければならなかった、当時の思いはどんなものであったろうか? 

それは、まだまだ先に読み解く事柄、が、思わずにはいられない気分である…。

さて、「日子刺肩別命」は残り二つの「祖」となっている。簡単に記すと「豊国之国前」は前記したように神武天皇が向かった「豊国宇沙」、現在の行橋市天生田・大谷付近であろう。

「五百原」は「五百(木)の原」と思われ、現地名、北九州市若松区竹並辺り、頓田貯水池の近傍と推測される。凹凸はあるものの当時としては植物の栽培に適した土地柄であったろう。<追記>

前記のごとく輸送手段としての舟の部材、そして港の確保を、その目的に適った土地を選択して行った経緯が述べられていると思われる。その戦略の一貫性は見事である。

話が外れるが、倭の領域はこの「角鹿」を北限としていたことがわかる。現在の地名である北九州市門司区黒川…「熊曾国」の中心…がその後ろの山に迫っている。また一つ「国境」ラインが見えてきた。

この国に仲哀天皇は拘った。色々思いもあったであろうが、結果的にはそれで命を縮めたようである。未だに熊曾が…取巻きの心はもっと先に目が行った。この選択の良否は?…いずれ解き明かせねばならないことであろう。

上記したように仲哀天皇紀は神功皇后及び建内宿禰の説話が中心であるように思われるが、時代の転換期であろう。孝霊天皇紀から始まった領土拡大の発展が一段落して彼らの目に朝鮮半島が入ってきたようである。当時の先進国であり、彼らの出自に関るところでもあり、必然的にその地との関係に気が取られることになる。

皇后と内宿禰との説話は既に記述した。「角鹿」の場所など一部訂正しながら先に話を進めよう…。

…と、まぁ、行ったり来たりですが・・・。

2017年6月27日火曜日

宇沙と宇佐〔055〕

宇沙と宇佐


暫しの間パソコンを離れ「東行」していたら納得いかないことが浮かんできた。「宇沙」の場所、通説に従って「宇佐」現在の大分県宇佐市の宇佐神宮内の一柱騰宮跡(伝承地は他にもあるが…)としてきた。圧倒的に「宇沙」の比定場所はここであり、疑いのないところと言われている。

ところが「日向」の場所を考え直すと、これも筑紫の日向は現在の福岡県博多湾岸にある高祖山山塊という多くの支持を得ている場所ではなく、遠賀川の西、孔大寺山を含む山地の東麓が古事記の言う「日向」に当たると解釈された。

「笠紗之御前」の「紗=薄い布」は「沙=砂」ではなく、孔大寺山山塊が海に突き出た地形…笠の布が下に垂れ下がった時…の見事な象形を表しているとわかった。同時に「日向国」はその東麓にあり、倭の都、田川郡香春町とする場所から十分に統治可能なところであった、と思われた。

この考え方の重要な根拠は以下の記述である。

次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別、熊曾國謂建日別。

この記述を解釈することによって「筑紫嶋」を中心、羅針盤、として「筑紫=西方」「豊=南方」を示していることがわかり、「筑紫」「豊」が冠として付く地名の場所を表していることが浮かび上がってきた。これまでの解読を通じて古事記の記述が彼らの論理の中で極めて合理的な矛盾のない展開を示している。

となると、通説の「宇佐」は「豊=南方」に該当するのであろうか? 答えは明瞭、否である。「肥国=北西方」と真逆の関係にある方向、「東南方」を「南方」と言わないことを示しているからである。言い換えれば「北西方」と「西方」を区別するならば「東南方」と「南方」も区別されなければならない。

神倭伊波禮毘古命與其伊呂兄五瀬命二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。

原文に記載された「豐國宇沙」は筑紫島の南方にある豊国の中にある。そのままの解釈である。「沙」≠「佐」である。読みの類似性からの推定、何度も繰り返してきた危険な解釈であろう。あらためて「宇沙」の場所を紐解いてみよう。

豊国


「豊国」の記述は古事記中に三度出現する。筑紫嶋面四、上記の伊波礼比古東行そして景行天皇紀の豊国別である。その輪郭を知るには程遠い記述であるが、「豊=南方」の意味が解けたことによって古事記が言う「豊国」の輪郭が見えて来る。

現在の福岡県京都郡みやこ町本庁辺りを中心と考えてきたが、正確には、そこは長峡川と小波瀬川とに挟まれた「河内国」に含まれる。それより南方、即ち長峡川を境として、その南~御所ヶ岳山地に囲まれた場所と思われる。西は障子ヶ岳山地、東は犀川(今川)によって区切られた領域と推定される。

その地にある「宇沙」の場所は? 伊波礼比古東行の流れから言って豊国の東端、現在地名は行橋市天生田(アモウダ)付近と推定されるが、手持ちの情報が根拠となり得るのであろうか? 再度丁寧に文字の解釈を行ってみたい。勿論類似の読みの場所「ウサ」などある筈もない。

足一騰宮


「足一騰宮」足一つ上がりの宮、と読まれて来た。バリヤーフリーの宮? 通説は日本書紀の記述に倣い一柱騰宮と解釈され、簡単な造りのことを意味しているのかもとか、という。例によって宣長くんが元凶?となる解釈も意味不明、である。

「足」の意味を一位的に捉えることこそが問題である。古事記は地形象形によって表現する。地形を人体の一部に置換える比喩が頻度高く多用されていることを示して来た。「足」=「麓」主稜の尾根から横に突き出る稜線の先を「足」と見ることは既によく知られたことである。

「足一騰宮」=「突き出た稜線の先が一段高くなっている宮」明快な地形を示している。その場所も明快に示すことができる。現在の行橋市大谷にある小山の近隣、小烏神社辺りであろう。日本書紀は古事記の地形象形を徹底的に避けている。場所の特定に繋がるから当然である。


この宮の場所が特定されれば「宇沙」はその近隣、筑紫嶋のほぼ真南にある豊国の東端である行橋市天生田辺りとしてほぼ間違いないであろうが、「宇沙」の表現は何を伝えようとしているのか・・・。

宇沙


「宇沙」の「宇」はかつても登場した。神功皇后の「宇美」である。宇宙の宇として解釈したが、広大、無限という意味では曖昧な場所を示すものであった。より突っ込んだ地形象形として捉えるのが適切のように思われる。

「宇」の第一義は「軒、ひさし」とある。「屋根の下端で、建物の壁面より外に突出している部分」屋根→尾根、建物の壁面→山の斜面に置換えれば、「尾根の端にあって小高く突き出たところ」と解釈される。「美()」=「湾曲した所、まわり」地形を表す言葉に付く接尾語(回、廻、曲)。「宇美」を現在の福岡県小倉北区富野としたが、地形を一層明確に表している(該当記述の訂正)

御所ヶ岳山地の東端に馬ヶ岳山塊があり、更にその先に小高く突き出た山を経て犀川に降りる。

上記と同様にこの地に「宇」を冠するものと思われる。「沙」=「海辺、川辺」の水際を意味し、「宇沙」=「尾根の端にあって小高く突き出た山の麓にある海辺」を象形した、と解読される。「天生田」辺りの場所である。

 「沙」≠「佐」である。また「豊国宇沙」は海辺でなければならない。宇沙都比古・宇沙都比賣の「都」=「津」であろう。

縄文海進、犀川の沖積が進まない中、今よりももっと陸地が後退した形状であったろうが、古代の交通の要所である。また縣の分岐点、近くの「豊津」との分かれの地でもあった。

古事記はその地に「豊」を冠さないのである。前記旦波国の「印色(イニシキ)」、現在の行橋市豊津()である。古事記記述の合理性、再確認できたと思われる。


「宇」には宇宙と連なる「天」という意味もある。何とも珍しい「天生田(アモウダ)」の「天」と繋がるのかもしれないが、詳細を知るすべを知らない。

伊波禮毘古命は登美能那賀須泥毘古との決戦を前にしてこの地に赴いた。邇藝速日命が支配する領域ではなかったが、限りなくそれに接近したところでもあった。前記した通り近淡海国は決して早期に開けた処ではなく未開の地、それほど地形環境の厳しいところ「之江」であった。繰り返しになるが仁徳天皇の治績は大きいのである。

そして十分な情報を仕入れた伊波禮毘古命はついに那賀須泥毘古を駆逐し、神宝を邇藝速日命から手に入れることになる。彼の「宇沙」「阿岐国」「吉備」で過ごした意味がより一層明確になったように思われる。正に敵の本丸を陥落させるための必要な行動であったと結論付けることができる。

本ブログの矛盾を解消して初めて「矛・盾のe-Note」である。再々の修正、懲りずに頑張ろう…。

…と、まぁ、いよいよ詳細な地名が続出、何とかなるかぁ・・・。


2017年6月23日金曜日

景行天皇:八十名の御子達〔054〕

景行天皇:八十名の御子達


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
「道の尻」の「日向」の場所がわかり、いよいよ尻を据えて…いえいえ、コツコツと地名ピースの紐解きに苦闘する暇が取り柄の老いぼれ、というわけで、なんと八十名の別()を探す? 安萬侶くんも不明な御子も多いようで・・・。古事記原文…、

大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纒向之日代宮、治天下也。此天皇、娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女・名針間之伊那毘能大郎女、生御子、櫛角別王<追記❶>、次大碓命、次小碓命・亦名倭男具那命具那、次倭根子命、次神櫛王<追記❶>。五柱。又娶八尺入日子命之女・八坂之入日賣命、生御子、若帶日子命、次五百木之入日子命、次押別命、次五百木之入日賣命。又妾之子、豐戸別王、次沼代郎女。又妾之子、沼名木郎女、次香余理比賣命、次若木之入日子王、次吉備之兄日子王、次高木比賣命、次弟比賣命。又娶日向之美波迦斯毘賣、生御子、豐國別王。又娶伊那毘能大郎女之弟・伊那毘能若郎女、生御子、眞若王、次日子人之大兄王。又娶倭建命之曾孫・名須賣伊呂大中日子王之女・訶具漏比賣、生御子、大枝王。

「大帶日子淤斯呂和氣天皇」「命」が「天皇」に変わりました。意味があるかどうか…少し脇において、宮の場所を含めて概ね比定が済んでるようであるが、詳細を見てみよう。娶りの相手の国は吉備、八坂は筑紫、妾、妾と続いて、前記した筑紫の日向の三ヶ国。実に地域限定の調達となっている。

先代の垂仁天皇が旦波、山代に集中、南方に焦点を合わせれば、今度は中部、北方というわけのようである。吉備臣等之祖若建吉備津日子は孝霊天皇の御子で吉備下の臣になった。吉備との関係は一層深くにする要があったのであろう。その比賣の名前については下記に記述する。

それにしても妾とは…娶った場合とは待遇が全く違うのだろうが、まぁ、その線は趣味ではないので止めときましょう。それで、八十人、了解です。「小碓命」は倭建命で、これも既に記述したが、追記があれば最後に。

針間之伊那毘


久々に対面の「針間」、吉備ときて針間だから、これは「針間口」のことと解釈する。必要なら「国」を付ける筈である。「伊那毘」の解釈は? 「ヒメ、ヒコ」で使われる「毘」で見慣れているのだが、調べて見ると面白い意味があった。「毘」=「へそ、ほぞ」「伊」は接頭語として「那毘」=「奇麗なへそ」

迷路に入るかと思えば、なんと、南方から針間口を眺めた時、右側から山の稜線が降りてきて針間口で凹となり、左側に小山が続いて最後海に落ちる。そんな稜線を目の当たりにする場所、それを「伊那毘」表記しているとわかる。凹は「へそ」である。現地名は山口県下関市大字吉見下であるが、「船越」の地名も残っている。小字であろう。

船で針間口を通った、牛、馬で曳かせれば思う以上に短時間の作業だったのかもしれない。現在も多数残る地名である。また、余裕が出来れば検索かけてみよう。二俣舟の時もそうであったが、本当に古代のツールに関する報告が少ないようであるが・・・。

山間の地で決して豊かなところとは思えないが、「氷河」が流れ、その治水が果たせたのであろう。上空からの写真からでは不鮮明ではあるが、堰、池等の灌漑施設を確認することができる。見えるのは後代のもの、しかし「猿喰新田」の時と同じく遠い昔からの痕跡、その技術をその地に残している、と推測される。

交通集中するところで人の往来が多い処でもあったと思われる。吉備を開拓し「鉄」の供給を確かなものにするという大目的があってのことであろう。神武一家の明確な戦略を感じ取れる。


凡此大帶日子天皇之御子等、所錄廿一王、不入記五十九王、幷八十王之中、若帶日子命與倭建命・亦五百木之入日子命、此三王、負太子之名。自其餘七十七王者、悉別賜國國之國造・亦和氣・及稻置・縣主也。若帶日子命者、治天下也。故、小碓命者、平東西之荒神及不伏人等也。次櫛角別王者、茨田下連等之祖。次大碓命者、守君、大田君、嶋田君之祖。次神櫛王者、木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖。次豐國別王者、日向國造之祖。

やりました、八十王、惜しくも、百獣の王ではない。六十有余年前、百十の王、と思ってたことを想い出させてくれた。三名皇太子、残りは知らぬ、ではなく全て然るべきところに納めたと。妾の子も含めてである。垂仁天皇までに拡げた統治の領域に送り込んだ人が七十七人、景行天皇の戦略、人材派遣であった。

既に記述したように「倭建命」によって虫食い状態の有様をキッチリと埋める作業が行われる。景行天皇とその御子である倭建命によって拡大した領地の統治を隅から隅まで行渡らせた「平東西之荒神及不伏人等也」と古事記は述べている。この理解は通説を真っ向から否定することになる。

倭建命を拡大膨張の作業とみなし、その行動の範囲の広さに複数の人間の作業と決めつける。その途中に含まれる国々についての言及をせず、正に飛ぶが如くの行為と持て囃す。天皇家が取った戦略の理解など闇の彼方に消え去ってしまうのである。景行天皇が行ったことは極めて地味だが、今及び将来に向けて、欠かせない事業の一つであることを思い知るべきであろう。


大碓命

小碓命、即ち倭建命によって抹殺されてしまう「大碓命」の関連地名を紐解いてみよう。天皇が娶ろうとした比賣をこっそり横取り、挙句に代わりの比賣を宛がうなど、少々ひねくれものなのだが、それなりに後裔も残しているとのこと。

1. 守君、大田君、嶋田君之祖

ご本人がなる祖の記述である。いつものことながら簡単明瞭…いや明瞭でなく簡単なだけ。こんな時は安萬侶くん達にとって説明不要の場所と思うべし。で、気付かされました。「守」=「杜」「嶋田」=「中州の田」少々以前となるが「稗(田)」=「日枝(田)」を見つけたところに「宮の杜」があった。

そこは「之江」=「志賀」の真中、「大田」も含めて、現在の福岡県行橋市上・下稗田~前田辺りと推定される。近淡海国の「鎮守の森」である。「大碓命」については古事記の扱い、小碓命の影に隠れてしまうが地元ではそれなりに評価されたのではなかろうか。

「稗田」は「日枝神社」の発祥の地と本ブログは曝した。この地より「国譲り」で現在比叡山を本山として全国に散らばる神社となっている。侮れない重要な地である。愛知県豊田市(国譲り前は「三川之衣」)にある猿投神社が「大碓命」を祭祀する。近世以降に祭祀されたとしても何らかの「国譲り」の捻りがあるのかもしれない…。

2. 大碓命の御子達

大碓命、娶兄比賣、生子、押黑之兄日子王。此者三野之宇泥須和氣之祖。亦娶弟比賣、生子、押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖。

三野國造之祖大根王の比賣達、景行天皇から横取りした二人に産ませた御子である。「押黒」=「尾倉」と思われる。現地名、福岡県京都郡苅田町尾倉である。また「三野之宇泥須」は北九州市小倉南区朽網東に「宇土」という地名が残っている。<追記❷>「三野国」とした領域に含まれている。「牟宜都」=「魚を貪るところ(津)」とすれば苅田港近くの京都郡苅田町松原・松山辺りではなかろうか。


大碓命の後裔は三野国に流れて祖となったようである。身内の争いは相変わらずであるがその子孫が繋がることで良しとするのであろうか。

さて、景行天皇紀もそろそろ閉じることになるが、倭建命の陵について考えてみたい。有名な「白鳥御陵」である。場所は「河內國之志幾」とある。

本ブログの河内国は近淡海国の内陸部の「志幾」=「師木」であろう。倭の師木と同様の地形、小さな凸凹の丘陵地帯である。現在の京都郡みやこ町勝山黒田、橘塚古墳や綾塚古墳の辺り…いや、その何方かかも知れない…と推定される。


…と、まぁ、飛ぶが如くにはいかない地名の謎解き・・・。








<追記>

❶2017.09.18
「櫛角別王」「神櫛王」について補足。「櫛角別」は下関市吉見下、船越を北に「針間」を通り抜けた直ぐのところ。緩やかな谷間の傾斜地。「神櫛」は同市吉見古宿にある「串山(串本岬)」の麓辺りと推定。「櫛」による地形象形である。また、それぞれが祖となる地との関連がある。

谷間の傾斜地:茨田、串山:山道の造成技術が「祖」の要因と思わせる記述である。天皇家草創期の土地の開発に注力した状況を伺わせる内容と思われ、少々特異なものになっている。

❷2017.10.09
「押黒」は現在の京都郡苅田町苅田(神田)に修正…、

「押黒」は以前には現在の京都郡苅田町尾倉辺りにしていたが、「押」=「手を加えて田にする」に気付く前であった。これを基に再考する為に地図を見直すと、苅田町には苅田(神田の西側)という地名があることがわかった。

「苅田」=「草木を刈って作った田」と解釈するとこの地が「押黒」に該当すると思われる。現在の京都郡苅田町苅田である。神田という地名になってところも含まれるであろう。また「三野之宇泥須」の「須=州」の地であること確認した。「宇土州」である。


2017年6月19日月曜日

垂仁天皇:御子達の活躍-その弐-〔052〕

垂仁天皇:御子達の活躍-その弐-


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
大中津日子命、小碓命に劣らぬ活躍であったが、知名度は低い。だが地元での人気は未だにしっかり残っているようでもある。日本書紀など改名もいいところ、ほぼ抹殺に近い。彼が残した足跡は後代に引き継がれ、国の発展に大きく寄与したことを此処に書き記しておこう。

それに加えて他の御子達も存分の活躍をしていることがわかる。それも併せて紐解いてみよう。暇が取り柄の老いぼれにしては、地名が残ってるという楽しみもある。また、この時期の御子達、姫達の命名が正しく地形象形的であることも嬉しい限りである。

「活躍」に入る前に一名の御子の名前が地名を意味していたのを見逃していた…

旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命、生御子、印色之入日子命印色二字以音

「印色」で、「以音」とある。旦波国の中に「印色(イニシキ)」に類似する地名を探すと「錦」という町名が残っていることがわかった。今の町名ではなく、かつての、というべきであろう。現在の福岡県京都郡みやこ町豊津に含まれているが、コンビニ「7-・豊津錦町」とある。またもう少し南に下って「錦ヶ丘」という地名もある。

旦波国内の仲津(氷羽州)、沼羽田、呰見ときて、最も西に位置するところであろう。犀川の東側河口付近となる。この国の領域が朧気ながら見えてきた。この御子の活躍は既に記述した通り、池、刀作りの名人、「鳥取」の川上の住人となった、職人気質?の御子である。景行天皇、大中津日子命の長兄に当たる。

さて、旦波国の次は「山代国」、とりわけ「山代大国」の比賣達である…

小月之山・三川之衣

山代大國之淵之女・苅羽田刀辨の御子、落別王は「小月之山」「三川之衣」君の祖となる、と記載されている。この二つの在処について考えてみよう。既にわかっている「三川」の地に「衣」という地域がある、と言っている。「衣(ころも)」=「許呂母」、前記の逆である。やはり「襟(元)」の象形と考える。

現在の足立山の南西麓、湯川及び現在は沖積で埋もれたと思われる川とが作る三角州を指す(山稜の端の三角州)、と思われる。現地名は北九州市小倉北区湯川である。ところで「三川」にはもう一つの地域があると記載されていた。三川の「穂」である。開化天皇紀に上記の美知宇斯王の御子、朝廷別王が「三川之穗」別の祖となったとある。

「穂」の解釈は既に幾度か出会ったが、三本の川が付けば、穂先、筆先の形であろう。二つの穂先の象形と思われる。三本の川を表す三川の「穂」の場所は、川に挟まれたところ、現在の同区湯川新町・若園蜷田辺りとすることができる、といっても言っても当時とはかなり変化しているものと思われるが・・・。

この地は現在の地名と見比べると非常に面白い。愛知県の三河地方、律令制後にあった「三河国」には東の豊橋、豊川(穂の国と現在でも言われる)と西の豊田がある。世界の豊田は「挙母(ころも)」と言われた地で、現在にもいくつか地名が残っている。上記そのものである。

<三川之衣・小月之山>

に「豊」が付く。本ブログで紐解いたように「三川」の地は「筑紫嶋」の筑紫国謂白日別と豊国謂豊日別の分かれ目である。豊国の先端にある場所である。

現在の三河地方に「豊」の文字を今に残す所以のように思われる。「挙母」も消さずに…宜敷く、です。

朝廷別王の母親が丹波之河上之摩須郎女、「摩須」=「井」と解釈すると、祓川上流の現在地名、京都郡みやこ町犀川木井馬場であろう。纏めの図に示した。

三川の地の詳細が見えてきたら、「小月」が雲間から見えるようになった。「小」は「小(倉)」「小(河)」であろう。「小月」=「小が尽きる」ところ、「小月之山」は現在の小倉北区赤坂の手向山辺りと思われる。

既に神功皇后の記述の際に出てきた「筑紫末羅縣之玉嶋里」近隣であろう。この地はどうすることもできないどん詰まりの場所であった。

羽咋・三尾


其大國之淵之女・弟苅羽田刀辨の御子、石衝別王は「羽咋」及び「三尾」君の祖となったと記述されている。

全くの情報なく、象形であること、二つはかなり近いところ、そして山城国から遠くないところと考えて探索する。

「三尾」は三つに分かれた山稜の麓であろうし、「羽咋」は喰われた羽の形状で、それなりに見分けやすいと判断する。

「羽」の象形は、羽先の凹凸の状態であろう。大きな山稜ではなく丘に近い、小さな谷に刻まれた…京都郡みやこ町豊津の二月谷があるところ、犀川に接している。

上記の「錦ヶ丘」に近接した場所である。地形象形的には極めて合致したところとわかる。「三尾」も地形的には有力な場所がある。現在の同町光富辺りである。「羽咋」とは祓川を挟んだ対岸にある場所である。

御子達の配置は以上であるが、比賣の名前で少々気になったことを、ついでに・・・。

布多遲能伊理毘賣命・布多遲比賣

倭建命の后となった二人の比賣の名前に「布多遲」がある。「多遲」=「多治」=「多くの川が寄せ集められたところ」=「多くの治水された田」と理解してきた。これに「布」が付くことによって更にその光景を思い浮かべることが可能である。

「布多遲能伊理毘賣命」が居たところは、現地名京都郡みやこ町上原布引というところがある。まさか、ではあるが…。「布多遲比賣」は父親の名前、近淡海之安國造之祖意富多牟和氣からすると現地名京都郡苅田町片島辺りであろう。河川の下流域における治水が大きく進展したことを述べていると推察される。

「布を敷き詰めたように」現在なら「絨毯を敷いたように」とも解釈できそうである。水田に水が張っている状態を上手く表現しているものと思われる。そして「多治」の解釈との整合性も確信することができた。

ついで、ついでに「苅羽田」も・・・。

苅羽田<追記>


国際空港「羽田」の由来かどうかは知らないが、由来の中の一つに「埴田」が変化したもの、という記事があった。当たり、と思われる文字を見つけると、ホッとするのである。「苅羽田」=「苅(草木を刈った)埴田(粘土質の田)」である。

比賣達が生まれ育った場所、山代之大国は急傾斜の山裾にも関わらず見事な水田に変えられていた、ということであろう。御子達の名前に土地情報を埋め込む、あたかも遺伝子のごとく…安萬侶くん、読む方はかなり疲れるよ・・・。

本件、本ブログが走り始めた「履中天皇」の逃亡劇、そこにあった「波邇賦坂(埴生坂)」<追記>に密接に関連する。想定したルートはこの「埴生坂」を越えたところが「山代之大国」の裏に当たる。垂仁天皇紀に、既に、その先は「埴田」と記していた。なんとも周到な記述である。「多遲比怒」と併せて、本ブログの逃亡ルート、確信に至った。

その-壱-、-弐-纏めの図、参考までに…


大中津日子命により、南北ラインの南限北限を「言向」て、その後の東西への拡張への兵站基地としての場所を確保した、と述べていると解釈した。言うのは簡単だが大変な作業であり、返す返すも彼の後裔の記述がないのが残念である。が、それは言っても仕方ないことで今回はどうであろうか?

これも極めて明確である。「小月之山」では北の玄関ともいえる、淡海の窓口、後の「赤間」を押さえたのである。続く「三川之衣」「三川之穂」と併せて交通の要所である。筑紫国と豊国との境であり、敵の侵入もさることながら、自らが通過する時にもその地における情報は欠かせない処である。

「羽咋」とは何とも言えない名称であるが、「犀川」の河口付近に位置し、上記同様の戦略地点であろう。「三尾」は「祓川」「城井川」の下流にあり、網目の川が流れていたところと思われる。いずれにしてもヒト、モノの行き交う要所であったことは疑えない。

また、この時点においては「難波津」の役割は低く、やはり仁徳天皇による港湾整備事業が完成するまでは「難しい波の津」に過ぎなかったことが推測される。近淡海国はそうして初めて多くの人を受け入れる地になったようである。現在の豊前(京都)平野の大きさからは予測困難な有様、だったのであろう。

企救半島東側(科野~都久波)、福智山西麓(葛城)、御所ヶ岳南麓(山代)加えての近淡海国、人が住めないところに渡来して開拓した、殲滅駆逐するのではなく「言向和」することで道を切り開いて来た。DNAハプログループの世界に類を見ない多様性、暇が取り柄の老いぼれは、心の底から、誇りに思う今日この頃である。

…と、まぁ、こんな具合で地名ピースをボチボチと・・・。

<追記>

2017.11.26 「蝮の反正天皇 〔129〕」より抜粋。


波邇賦坂

「多治比之柴垣宮」の在処が解けたからこそ辿り着いた納得の解釈、そんな大袈裟なものではないが、本当のところ、かもである。「波邇」=「波(端)|邇(近隣)」を意味することまでは容易であったが、何?の端、近隣かが不詳であった。これでは解けないが・・・「何?」は「多治比之柴垣宮」と気付いた。また…、

賦=貝(財)+武(武器)

…財(必要なもの)と武器を持って戦いに行く時を表した文字と解釈される。古事記のこの段の徹底した「説文解字」に準じると…ならば「波邇賦坂」は…、

波邇賦坂=柴垣宮の傍近くで戦闘に向かう時の坂

と紐解くことができる。勿論この時は真面に戦う気持ちであった筈で「弾碁」戦法に気付くのはこの坂を下りてからである。曙光を見て愕然としメラメラと湧き上がって来る怒りを抑えて大坂山口で出会った女人の言葉で初めて気付く戦法であったと古事記は記述する。

全てが生き生きと蘇って来る。そのドラマチックな記述を読取れなかったのを後代の識者の所為にばかりできないであろう。漢字というものの原点、というか使う漢字を自由に分解して、古代であっても、通常の解釈に拘泥することなく文字が伝える意味を作り上げていく、驚嘆の文字使いである。間違いなく…、

古事記は世界に誇るべき史書


であることを確信した。

2017.12.06
古事記は「苅+羽田」ではなく「苅羽+田」という文字区切りをしていると判った。文字解釈の根本からの見直しである。では「苅羽田」とは?…、


苅羽・田=苅(刈取る)|羽(羽の形状)・田

「羽の形をした地の一部を刈(切)り取った」ところを意味すると紐解ける。現在の犀川大村及び谷口が含まれる丘陵地帯を「羽のような地形」と表現したものと思われる。苅羽田」は羽の端に当たる現在の犀川谷口辺りと推定される。既に比定した場所そのものに大きな狂いはない。

また意祁王・袁祁王の二人が逃亡する際に登場する「苅羽井」は何と紐解けるであろうか?…


苅羽・井=苅(刈取る)|羽(羽の形状)・井(井形の水源)

…「羽の形をした地の端を切り取った四角い池(沼)」と解釈される。現在の犀川谷口大無田の近隣にある池を示していると思われる。




思い起こせば「苅+羽田」=「草を刈取った埴田」では埴田は草を刈取ってあるのは当然で、何とも釈然としない解釈と思われる。古事記はこのような無意味な修飾語を使わない。より明確に場所を示していたと漸くにして気付かされた。






2017年6月18日日曜日

垂仁天皇:御子達の活躍-その壱-〔051〕

垂仁天皇:御子達の活躍-その壱-

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
沙本毘賣の悲しい物語に感動したものの建国時の乗り越えなければならない課題への対応が記述されていたとわかった。有能な人材、優れた技術、また豊富な資源を手に入れることは不可欠であると同時に、自らがそれに取り込まれてしまうという危険性も含んでいる。

沙本毘賣に紹介された「旦波国」からの娶りに入る前に少々時間を頂いて…

神倭伊波礼比古(神武天皇)の東行に際して初戦敗退し、五瀬命が負傷、その遺言が「日を背にして戦え」であった。「日(邇藝速日命)」に向かうなら「日(太陽)」の助けなくしては勝てない、大きな戦略転換を行った。だが悪戦苦闘は続き、高木神の助けも借りねばならなかった。

後日にわかったことだが、どうやら、高木神は「八田山」そこの住人、熊の毛皮を纏い、熊野山中の道なき道を案内できる人物を道先案内人に雇ったようである。勿論、喋れます。吉野や宇陀の住人とも顔見知りだったかもしれない。言われる通りに後を追い吉野川の川尻に辿り着いた。

後世に某安萬侶氏がその住人を「八咫烏」と名付けたらしい、現住所は福岡県京都郡苅田町山口辺りの住人である。世界に羽ばたく日本サッカー協会シンボルマークになってるなんて…足が三本、じゃあ、人違いかな? 高木神は顔が広い、なんたって造化三神の一人だから・・・。

さて、何事も言われる通りにするのが好結果を生むそうで、垂仁天皇、早々に丹波の比売を娶ったのである。

1.    旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命、生御子、印色之入日子命、次大帶日子淤斯呂和氣命、次大中津日子命、次倭比賣命、次若木入日子命。五柱。

2.    其氷羽州比賣命之弟・沼羽田之入毘賣命、生御子、沼帶別命、次伊賀帶日子命。二柱。

3.    其沼羽田之入日賣命之弟・阿邪美能伊理毘賣命、生御子、伊許婆夜和氣命、次阿邪美都比賣命。二柱。

4.    大筒木垂根王之女・迦具夜比賣命、生御子、袁邪辨王。一柱。

5.    山代大國之淵之女・苅羽田刀辨、生御子、落別王、次五十日帶日子王、次伊登志別王。(三柱)

6.    其大國之淵之女・弟苅羽田刀辨、生御子、石衝別王、次石衝毘賣命・亦名布多遲能伊理毘賣命。二柱。
凡此天皇之御子等、十六王。男王十三、女王三(沙本毘賣の御子、一柱を含む)

丹波に加えて「山代国」の比売も三名娶ったとのこと。

氷羽州比賣命、沼羽田之入毘賣命、阿邪美能伊理毘賣命の三姉妹、前記で、彼女たちの旦波国にある在所を、珍しく、突止められて書き込んでしまった姉妹達、その御子達の働きに注目する。その前に父親の出自を簡単に記すと…

旦波比古多多須美知宇斯王は、あの日子坐王と近淡海国の天之御影神の娘の息長水依比売の御子である。先代の崇神天皇に旦波国に遣わされ、玖賀耳之御笠なる人物を亡き者にした経緯がある。息子に旦波国を治めさせていた様子である。大志を抱く丸邇の意祁都比賣命を母親に持つ日子坐王の血を引く旦波の王である。

この旦波国の三姉妹は次期の景行天皇を含め計七人の王子を産んでいる。中でも氷羽州比賣命の御子である景行天皇の弟、大中津日子命の活躍は目を見張るものがある。これを中心に紐解いてみよう。建国草創期に「言向」だけで領地の拡大をすることができたケースと思われる。古事記原文のまま…

大中津日子命者、山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國之三野別、吉備之石无別、許呂母之別、高巢鹿之別、飛鳥君、牟禮之別等祖也。

祖となる別(又は君)の記述がない御子に比べれば断トツの多さである。また、どうやら地域的に見ても多彩のようでもあるが、信じて良いものか…。

「中津」が示す地名は何処であろうか? 九州東北部に限っても多くある地名、だが、旦波国の中にある、正確には地名ではなく、それとなく残っている場所であろう。現在の福岡県行橋市稲童にある石堂池近隣、母親の氷羽州比賣命の在所(氷羽州)としたところに「仲津小学校、中学校」がある。この場所こそ「旦波国」の中心、宮のあったところであろう。

そこに生を受けた彼は兄の天皇の庇護のもと思い切り羽ばたいたのである。既述された順番に別()の場所を当て嵌めてみよう。

山邊


何の修飾もなくいきなり地名となる一般的な文字、読む者にとって判り切ってるから記さない、常套手段である。「師木」から見ての「山辺」であろう。近接するところは一である。大坂山山塊の西麓、香春町役場総合運動公園などがある場所、現在の田川郡香春町高野・中津原である。「中津」が残っている。現在の地名が示す領域とは異っていると思われるが…。

三枝


「中津」が残っている、と気を良くして…危険な作業であるが…すると現地名に福岡県京都郡みやこ町犀川喜多良三ツ枝というところがある。生立八幡神社辺りで犀川に合流する喜多良川の川上である。当時は大字の喜多良、もう少し川下の大熊も含めての領域だったかもしれない。今回の各地名との兼合いを見て判断しよう。

稻木


そのままの意味は刈取った稲を掛ける木組みの名称である。残念ながら残存地名は見当たらない。「木」=「城」として、沙本毘古王が立て籠もった稲で作った城のあった場所とも考えられるが、「沙本」では「春日」に含まれてしまう。残った手は「中津」の地名…ありました。現地名は田川郡添田町中元寺(中津)である。

かなり飛んだところになったが、山間に広がり、中元寺川の利水が容易な場所と思われる。「中」が付くのもあながち由来の一つかもしれない。これも地名だけであり、全体の兼合いから判断しよう。

阿太


阿太の「阿」=「阿()」=「赤」村と解釈し、「太」を探す。現地名は田川郡赤村赤(大原)、近隣は大伊良、岡本、「オ」が付く地名が並んでいる。彦山川支流の十津川…どこかで聞いたような川の名前…の傍にある。山間の開けたところでもある。この地名はかなりの確度であろうが、最後の見直しは欠かせない。

尾張國之三野


「三野国」と区別して記述していると考えるが、最も探し辛いところである。「三野」=「蓑」と置換えると、現地名の北九州市小倉南区隠蓑が該当するかも、である。この地名の由来は戦いに敗れた平家の安徳天皇が蓑に隠れたところとのことであるが、元々「三野」と言われた処かもしれない。

吉備之石


「石无」=「石梨」であろう。石が役立つところ、「石の町」である。容易に見つけることができる。現地名は山口県下関市大字永田郷(石王田・石原)である。どんな処? 近くの遺跡から縄文時代のガラスが出土したとか…。吉見、永田郷の考古学的探査、必至かな? 歴史学、考古学分野に携わる若者達へ、これらの場所は「宝」の山ですよ、吉備…違った…吉見…違った…君が立ち上がらねば!

許呂母


「許呂母」=「衣」あろう。と、すると「三川之衣」は? 足立山の「襟巻」ではないということか…。「衣」の語源は「襟」の象形である。切立つ山の麓を「襟」に象形した、見事な表現である。それはそれとして、三川のではないとなると、やはり師木の近く、である。

香春一ノ岳の南西側から見た「襟」、金辺川と五徳川に挟まれた三角州を指す。現地名は田川郡香春町香春長畑・中組である。いやぁ、それにしても多彩な統治領域、獅子奮迅のお働きである。

高巢鹿


一見、難しそうな文字列であるが、なんともトンデモない場所であった。「鷹()巣山」高住神社、鷹巣高原そして英彦山に連なる。「鹿」=「峻険な山岳地」である。もうこれは国境、現在は県境、である。正に「言向」の世界であった。大中津日子命の後裔が知りたいところである。

飛鳥()


これのみ「君」である。飛鳥は香春一ノ岳周辺で、その領域の確定は難しいが、上述の「許呂母」からすると、現在の香春神社辺りを示すものと解釈される。地名は田川郡香春町前村・下山辺りであろう。最も古く正一位を授かったこの香春神社、倭の歴史を目の当たりしてきた神が宿る場所である。

牟禮


最後の「牟禮」はなんとも牧歌的な雰囲気、「牛の鳴き声が時を知らせる」ちょっと飛躍があるかも…。田川郡赤村にある「犢牛岳(コットイタケ)」の近くであろう。子牛の山、その鳴き声響く山並みの村、現在の田川郡添田町津野迫田辺りではなかろうか。

図を参照願いたいが、なんとも出来上がった図が示すものは香春一ノ岳、畝火山を中心として、北限の吉備(更にその北限)と南限の高巣鹿に跨る南北ラインを統治したことを表しているものと思われる。

師木に都を敷いた崇神天皇の次期天皇である垂仁天皇は、旦波国出身の大中津日子命に都近隣の土地を抑えると共に南限北限を見極めさせたのであろう。

これから拡大膨張する国の将来に向けて、その地の情報、衣食住及び戦闘に不可欠な人材と資源の確保に動いた、と思われる。

草創期に打つ手として重要なことに最善を尽くした、というべきであろう。どうやら上記で仮置いた地名は的を外していなかったようである。

先に進めば、倭建命の登場となるが、「言向」で統治へと進められた地域以外の場所の「和平」であった。既にそれらしき記述をしてきたが、これらの「言向」地を兵站として軍を進めた、ということであろう。重要な戦略である。この見方からまた後日あらためて考えてみたい。

本日はここまで…前記で「無口な御子」の理由、言葉を濁したが…旦波国の「淨公民」に含まれる意味、更に勘ぐれば、「沙」=「辰砂」に侵されていない、ともとれる。この極めて有益な、だが極めて有害なものをつい最近、いや現在もその後遺症の悩みが続く。放射性物質の「益だが害の矛盾」をいつまで引き摺るか、答えを持ち合わせてないが・・・。

最後にもう一つ…日本書紀には「大中津日子」に該当する重要人物名は「大中姫命」のようである。「中津」は抹消された。しかも女性らしき命名である。日本書紀から古事記のような「史書」に還元するのが楽しみである。

…と、まぁ、中締めて・・・。

詳細地名はこちらで…



2017年6月16日金曜日

沙本の乱〔050〕

沙本*の乱

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
「地名」シリーズ、少々中断して、崇神天皇紀に続く垂仁天皇紀の説話である。この天皇の記述はなかなか多彩で既に「無口な御子の出雲行き」なんていうタイトルで記述した。それだけに含まれる情報は豊かである。安萬侶くんの伝えたいこと、しっかり紐解いてみよう。

「サホヒコの叛乱」なんでも古事記中最も物語性の高い記述だとか、兄弟亡くなるわけだから悲劇的なストーリーであることには違いない。また氷室冴子氏「銀の海金の大地」この物語が原型とか、多くの方がご存知であろう。結論めくが、この暇が取り柄の老いぼれの解釈は、全く異なったものとなりそうである。

全文引用は控えて、必要なところのみ[武田祐吉氏訳]

此天皇、以沙本毘賣爲后之時沙本毘賣命之兄・沙本毘古王、問其伊呂妹曰「孰愛夫與兄歟。」答曰「愛兄。」爾沙本毘古王謀曰「汝寔思愛我者、將吾與汝治天下。」而、卽作八鹽折之紐小刀、授其妹曰「以此小刀、刺殺天皇之寢。」[この天皇、サホ姫を皇后になさいました時に、サホ姫の命の兄のサホ彦の王が妹に向って「夫と兄とはどちらが大事であるか」と問いましたから、「兄が大事です」とお答えになりました。そこでサホ彦の王が謀をたくらんで、「あなたがほんとうにわたしを大事にお思いになるなら、あなたとわたしとで天下を治めよう」と言って、色濃く染めた紐のついている小刀を作って、その妹に授けて、「この刀で天皇の眠っておいでになるところをお刺し申せ」と言いました]

メインの登場人物はこの三人、垂仁天皇、その后の沙本毘賣命とその兄の沙本毘古王である。夫と兄を天秤に懸けるという設定、少々無理があるように感じられるが、内輪の事情を忖度しても致し方ないのでこのまま続けよう。

天皇の寝首をかけとは物騒な話で、何だかその為に妹を天皇に差し出した、と言う感じもする。それよりも自分が天皇になろう、ということだから、えらく力をつけてきた連中であろう。彼らの父は華麗な?日子坐王、母親が沙本之大闇見戸賣という、なんとも堅苦しい名前の持主である「沙本」という言葉を引継いでいる。

父親の日子坐王は、開化天皇と丸邇臣之祖・日子國意祁都命之妹の意祁都比賣命との御子という触れ込みである。母親の沙本之大闇見戸賣は春日建國勝戸賣(父親不明)の子、これも何とも堅苦しい名前である。「戸賣」だから女性らしいのだが、安萬侶くん、本名かい? これは間違いなくお戯れで、その中に重要な意味を含めている、と思う。

先ずは「沙本」。「沙」=「砂」である。そして「砂」=「辰砂」と読取ることができる。当時の大変貴重な材料である。既に記述した通り丸邇氏はこの「辰砂」鉱物の採掘、精製に長けた一族であった。古事記が詳細に、歌の中にも記載しているキーワードである。「本」はその元となるもの(原鉱物)、在処(採掘)を意味すると解釈される。

それを背景にして読解くと、兄妹の母「沙本之大闇見戸賣」「辰砂のある真っ暗闇の採取坑(道)を見(張)る女人」となる。女性が採掘現場を管理監督するなんて、勇ましい、いや逞しい。でも不思議ではない。闇を見る人、預言者、巫女なんて…安萬侶くん好みではないようである。そんな不思議な女性は登場しない、概ね才色兼備である。「丹」の生産は軌道に乗っていたのであろう。

金属鉱山の坑道は「間歩」と呼ばれ、各地に今も残っている。辰砂の坑道も同じように呼ばれたのであろうが、確認は取れなかった。世界遺産となっている石見銀山を訪れた時、数百も残る「間歩」と周辺の街並み、当時の勢いを感じさせられた。

日本書紀では二人の名前「狭穂毘古」「狭穂姫」である。読みが合えば良し、ではなかろう。全く意味違いの言葉となる。また伝わるものも伝わらない、トンデモない書換えである。いや、粗鉱か…いずれ純鉱物を掘り出さねば…。もう既に通説から遥かに逸脱した内容となった。

祖母の名前がまたすごい「建国勝」とはどう意味であろうか?…「建国しがち(仕勝ち)」=「建国を心密かに目論む」と解釈できる。なんとも壮大な夢を持った女性なのである。「丹」は人の気持ちをここまで高揚させる物であったか、と思わせる。正に国を支配できる「モノであったのだ。

父方の祖母である日子坐王の母親、意祁都比賣命「意祁都」=「思いは大きく都にする」とすれば、負けじと壮大である。丸邇臣之祖・日子國意祁都命之妹である。

要するに彼ら兄妹の両親、祖母達「丹」を獲得して、この「虚空見日本国」で果てしない夢と希望を抱いてきた、そのことを名前の中に刻んでいたと思われる。そんな思いを背負った二人には、それがどれだけの重荷になっていたことであろう。

こんな背景が天皇家の王子に取入り、そして天皇そのものに取入った今がチャンス「どっちが大事」と言わせしめたのであろう。そしてそれに応えようとした妹…

…事は成就しなかった。何も知らない、心優しき夫の寝首などかける筈もなく、全てを曝してしまう…ドラマチックな展開、世に言われる物語性十分な場面である。そして…

乃天皇驚起、問其后曰「吾見異夢。從沙本方暴雨零來、急沾吾面。又錦色小蛇、纒繞我頸。如此之夢、是有何表也。」[そこで天皇が驚いてお起ちになって、皇后にお尋ねになるには、「わたしは不思議な夢を見た。サホの方から俄雨が降って來て、急に顏を沾らした。また錦色の小蛇がわたしの頸に纏いついた。こういう夢は何のあらわれだろうか」とお尋ねになりました]

夢を使って「言向」である。いや、本当に見た夢なんだから・・・。迫真の演技に后は思わず「言向」に答えてしまった。

物語は終盤に…時が過ぎて二人の間に出来ていた御子について、夫婦間の思いやり、涙を誘う場面が続く。最後の場面である…

又問其后曰「汝所堅之美豆能小佩者、誰解。」美豆能三字以音也。答白「旦波比古多多須美智宇斯王之女、名兄比賣、弟比賣、茲二女王、淨公民、故宜使也。」然、遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦從也。[またその皇后に「あなたの結び堅めた衣の紐は誰が解くべきであるか」とお尋ねになりましたから、「丹波のヒコタタスミチノウシの王の女の兄姫・弟姫という二人の女王は、淨らかな民でありますからお使い遊ばしませ」と申しました。かくて遂にそのサホ彦の王を討たれた時に、皇后も共にお隱れになりました]

几帳面な安萬侶くんらしい奏上の記述であろうか? 起承転結しなければ落着かなかったのであろうか? 高い物語性…緻密な戦略性を読取った高度な訳になってる筈ですが・・・。

この説話は間違いなく垂仁天皇が仕組んだ「罠」である。急激に台頭してきた丸邇氏一族の処置、これが彼の最重要な課題であった。その技術を受け継ぎながら天皇家に巣食う彼らの放逐、またその首謀者たる者の処分、それらを両立させた解を求めたのである。

后に後添いの心配をさせ、最もよく知る春日の地の比賣を紹介せず、他国の「淨公民」を推薦する。それに従う心優しきだけの天皇、ではないであろう。后に優しく「言向」て全てを曝させることができた天皇であった。

首謀者の沙本毘古王は採銅、採石場所の日下部連の祖、鏡の製作には朱砂は欠かせない研磨剤であり、そのままでは全ての実権を握られる不安があった。他の二人の王子、袁邪本王と室毘古王は葛野別、近淡海之蚊野別の祖及び若狭之耳別の祖にそれぞれ配置されている。

「春日」に入って来たの旦波と山代出身の母親を持つ二人の王子である。伊許婆夜和氣王:沙本穴太部之別祖、五十日帶日子王:春日山君、高志池君、春日部君之祖となる。

事件の最後に引取った御子、品牟都和氣命は無口であった。「阿藝(アギ)」としか言わない。これは何をいわんとするのか未だに不明、宿題である。だがこの御子を無口にした理由はなんとなく理解できる。出雲の神の祟りではなく、である。古事記にはその後登場しない、沙本毘賣の血は途絶えたのであろう。

天皇に奏上する体裁を保ちながら暗に示した記述は流石である。「丹」は柱を鮮やかな朱色に変える、神宝となる鏡の輝を増す、金と合せ使えば(アマルガム)、なんと黄金の館が生まれる、艶めかしい女性の眉を引く、何故か食物が腐らない…一般人には無用なものもあろうが、天皇及び王族にとっては欠かせないものであったろう。また、その摩訶不思議な変化、魔術であった。それに惹かれた。

決して丸邇氏一族を排除したのではない。天皇家に絡んできた、その一部の者達を排除しただけである。残った彼らはその技術に誇りと自信をもって益々需要の高まる「丹」を生産したことであろう。身内以外には殲滅作戦を取らない、と言っているようである。


登美の地に邇藝速日命一団、三十数名の将軍を抱える大船団がやって来た。現在の福岡県田川郡赤村、そこに聳える戸城山を根城として、十種の神宝を持ち、天神の見印をかざして侵攻した。その地を「春日」(日=邇藝速日命)という呼び名に変えて「虚空見日本国」への第一歩を歩んだのである。

しかし、思うようには事は運ばず、特に「銅」の産地を抑えられなかったのが痛かった。「神」の怒りをかってしまい、神倭伊波禮毘古命の登場となった。彼の戦略は当たった(太陽⇔邇藝速日命でキャンセル)。邇藝速日命から受け継いだ神宝を守り、香春の地に落ち着いたのである。

だが、決して楽ではなかった。幾人かの天皇が変わって始めて「春日」に辿り着き、そして都の中「師木」(低く小さな山が無数にあるところ)、現在の名福岡県田川郡香春町中津原・大任町今任原辺りに、漸くにして行き着いた。

ところが、その「春日」の地に銅に勝るとも劣らない「宝」が眠っていた。そこに多くの人が集まり出し、天皇家を脅かす輩も現れる。この危機を乗越えずしてなんとする、垂仁天皇の知恵の出しどころでもあった。それを記したのが、この説話であった。

「春日」は邇藝速日命を敬うことを基にした漠然とした名称であろう。その地「日子国」国という枠を作ったのであろう。後世に出現す「宇遅」は丸邇一族が結束した、その地の地域なのであろう。そして丸邇一族から天皇家を脅かす者は出て来なかったようである。

戸城山西麓、大坂山南麓のこの地は多彩なところであった。難波津に向かう重要な交通路でもあった。今は静かな佇まいのように思うが、人々が踏み残した跡は計り知れないものがあった、が、今は知るすべを知らない。あらためて香春岳周辺の資源の豊かさに驚かされる。銅(一時金も)、石灰石、丹、後世には石炭あり。鉱物種類の豊富さには目を見張るものがあるとの報告もある。

資源ではないが極めて特異な、穴ぼこだらけカルスト台地もある。また、決して楽に暮らせるところでもなかった。葛城、葛原の地名、「葛」=「乾いてゴツゴツしている様」、加えて低山ながら驚くほどの急斜面の土地、それらを巧みに利用してきた「知恵」と「工夫」の豊かさにも驚かされる。

そんな「技」を大切に思う心を持っていたこと、と言うか、それこそ「国力」を示す、今も変わらない根本を繰り返し述べている古事記に教えられた。こんなことを考えると日本の発祥の地として、さもありなん、という気持ち、少ない資源を如何に有効に使い続けていくこと、それが現在、未来の日本人としての変わらぬ原点、と心よりそう思う。

なんだか纏めの論調に…ちょっと気分転換に記したまでと・・・。

さて、垂仁天皇の后を調べていたら、見逃していたことが見つかった。旦波国の「沼羽田之入日賣命之弟・阿邪美能伊理毘賣命」御子が「伊許婆夜和氣命」で、「沙本穴太部之別祖」となる「穴太部」だから「大闇見」である。しっかり入替っているのである。


阿邪美

「沼羽田」=「羽根のように広がっている沼の傍らの田」現在の福岡県行橋市稲童・道場寺にある「畠田池」辺りとしたが、「阿邪美」を読み飛ばしていた。「阿邪美」=「呰見」同県京都郡みやこ町呰見である。畠田池とは、南西に1km強離れているところである。数少ない残存地名であろう。

氷羽州比賣命

これに気を良くして姉氷羽州比賣命も紐解いてみた。「氷」=「冫水」二水扁である。氷が割れた時の象形文字の典型。「氷羽州」=「大きく二つに割れた川中島」現在の稲童を流れる長野間川と前田川に挟まれ、その中にもう一本の川(名称不明)が流れる。畠田池とは北東に1km強離れている。正に文字通りの川の流れと「州」の形状である。当時と変わってなければ、のことだが…。


渡来人達が多く集まっていただろうこの地「旦波国」漸くにして確信するに至った。纏まらない…いつもと同じか…話になったが本日はこの辺りで・・・。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。

2017年6月14日水曜日

倭国の繁栄を示す地名:その四〔049〕

倭国の繁栄を示す地名:その四


この「地名」シリーズも雄略天皇の「立国」宣言に近付いてきた。取り敢えずこの天皇までの「地名」を片付けてみることにする。途中、省いて来たものについては、後日纏めてみよう。国の拡大は明らかに止まり、詳細な地域の記述になると思われるが、比定は一層難しくなるであろう。

懐かしの履中天皇、本ブログは彼の逃亡劇から始まった。あらためて見てみると、彼の歌の中にある「かぎろひ」が示す方向、地理情報を紐解くこと、それが古事記解釈の基本であることを知り、現在に至ってその考え方の確からしさを感じる。

さて、シリーズの様式に従って、天皇ごとに記述された地名を列挙する。色の表示も前記と同じである。尚、[ ]内は「娶」と「祖」とは無関係だが重要と思われ、追記した。今回:太字。

1.履中天皇
伊波礼 葛城 

2.反正天皇
丸邇

3.允恭天皇
忍坂 木梨 長田  

4.安康天皇
葛城 [淡海之佐佐紀山] [淡海之久多綿之蚊屋野] [小治田]

5.雄略天皇
 日下 [伊勢国之三重]

一見して娶りと御子の派遣先の地名数が減少する。そして「国名」は殆どなく地域名の記述となる。が、それはそれで伝えんとするところを読取ってみようと思う。

伊波礼<追記>・市辺


「伊波礼」の地名は不確かである。関連する説話もなく、殆どが天皇の宮の地名に被せられる言葉である。そう言う意味では地名と言う保証もないが記述のパターンからすれば、ということであろう。神武天皇の名前(神倭伊波禮毘古命)と宮の推定場所(畝火之白檮原宮:福岡県田川郡香春町高野)から推し量るのみである。

履中天皇の宮「伊波禮之若櫻宮」については既に比定された例(若咲神社:福岡県田川市川宮)があり、それに準じた記述をしたが、その後も古事記中に出現することなく、現在に至っている。

「伊波礼」=「謂れ」=「由来、物事の起こったわけ」であるが、「伊波礼」=「波のように繰り返し頭を垂れて敬意を表す」と解釈できるかもしれない。推測になるが、より「高野」に近い、現在の香春町鏡山辺りとなるのではなかろうか。今後、幾人かの天皇の宮の在処探索で詰めてみたい。

「市辺」は履中天皇が娶った葛城之曾都毘古の孫娘、黑比賣命との御子「市邊之忍齒王」に記載されている。「市」は人々が多く集まるところ、歌垣などの解釈があるが、「市」=「聖と俗との境界」という解釈がある。現在とは異なり、物の売り買いなどは存在しない時に使われた文字とすると適切な表現かと思われる。

ならば「市」は何らかの境界、地形的には海と川との境界が考えられる。現在の福岡県田川郡福智町市場辺りが該当する場所として浮かび上がる。「市津」という地名も残る。この場所は正に海と川との境界、縄文海進と沖積進行の兼合いで生じた地形と思われる。前記でこの場所の地名を「葛城」とした。川向こうは「欠史」の天皇達の宮がずらずらと並んでいるところである。




毛受

少々補足になるが、履中天皇の陵は「毛受」、次の反正天皇は「毛受野」とある。また、前後するが仁徳天皇は「毛受之耳原*」である。通説では大変有名な墓場である場所を突止めてみよう。御陵の比定は今後の課題とするが…。

「毛受」の解釈は難しいものであろう。通説の「百舌」に引き摺られることなく一語一語解いてみると…、


毛受=毛(鱗:鱗片状)|受(引継ぐ)

…である。「鱗片状の地形の小高い丘が連なったところ」と解釈される。「受」=「渡し舟を受け渡す」が原義である。また、仁徳天皇が絡む以上河内、即ち現在の福岡県行橋市、京都郡みやこ町辺りであろう。

これだけの条件が揃えば、現在の行橋市延永辺り、「ビノワノクマ古墳」があるところと推測される。おそらくこの古墳が仁徳天皇の「毛受之耳原」、反正天皇の「毛受野」が「牧場」となっている場所で、履中天皇の「毛受」がその真ん中辺りではなかろうか。仁徳さんのお墓、鱗の縁にあった…。


木梨・長田・八瓜・小治田


「曾婆加理」抹殺の反正天皇に関する記述は簡単、素晴らしい歯の持主だったとか…宮が「多治比之柴垣宮」、この表記のお陰で「多治(遅)比」が解けた。「多くの川を寄せ集めて一つにするところ」現在の行橋市吉国辺り、「毛受」の近隣である。ついでながら「柴垣」=「柴(守る、防ぐ)垣(囲い)」で適切であろう、この名前が多くの宮で使われている。

「木梨」とくれば「ノリタケ」なんて言う訳ではなく、「梨」=「役立つ木」木が重なるから木々とでも解釈しておこう。「山梨県」は「木が無い」という意味ではなく、「役に立つ木がある山の県」確か恩賜林が多くあったような記憶があるが…。

木が役に立つ、必要なところと言えば、香春町の採銅所近隣である。神武天皇の「白檮」は「橿」では決してない。切り株である。この日田彦山線採銅所駅の西側、牛斬山山地の谷筋がその場所と思われる。「木梨之輕王」の母親「忍坂之大中津比賣命」であり、「忍坂」(既に定めた香春町採銅所)の近隣に居たと思われる。

「長田」は長女の「長田大郎女」に含まれる。全く手掛かりなしだが、こんな時は意外と地名が残っている。現在の福岡県京都郡みやこ町勝山黒田小長田である。小字と思われる地名まで消去されていない、のかもしれないが…。

「八瓜」は文字情報からの推定の難しい例である。ただ、これについては開化天皇の多くの系列表記の中に埋もれて見逃していた、「日子坐王」と近淡海の御影神之女・息長水依比売との御子、神大根王、亦の名「八瓜之入日子王」がいた。彼は後に「三野国之本巣」(現在の北九州市小倉南区朽網辺り)の祖となる。

近淡海国、三野国、入日を掛合せ、更に既に比定した「八田(京都郡苅田町山口)」「近淡海国之安国(同町下片島)」を除くと、「八瓜」は現在の同町葛川辺りと推定される。今回の「八瓜」は「八瓜之白日子王」に含まれている。後の雄略天皇によって目を飛び出させられて最後を遂げる王子であり、その場所が「小治田」である。

「八瓜」の宮から引き摺り出された場所、「小治田」=「小さな治水された田」と思われる。現在の地図からもわかるように背後が急斜面の山が控えた麓になる。治水がなければ田は作れないところでもある。その昔は「瓜」などの畑作が主であったところであろう。この事件の経緯からの地形推定より「八瓜」の場所は確からしくなった、と思われる。

淡海之佐佐紀山・淡海之久多綿之蚊屋野


安康天皇紀の淡海シリーズ、娶りとは離れるが「淡海」に関連する記述は少なく、またあれば貴重な情報をもたらすものである。勿論、「近淡海」との区別は明確である。日本書紀とは異なる。この言葉が出てくるのは、後の雄略天皇が安康天皇殺害の下手人及びその関係者を処罰する説話である。

複数王子達の処罰の背景、深読みは差し控えて、先に話を進める。「近淡海」と比べて「淡海」の領域は広く感じる。「市邊之忍齒王」を誘って行くとなると彦山川~遠賀川河口の淡海に抜けるルート上が有力な候補と考えられる。山は「福智山」山系であろう。現在名「金剛山」その麓を「笹尾川」が流れる。その周辺を「笹田」と記載されている。

この辺り、既に「淡海」である。何度か引用してきた地形に合致する。そして「金剛山」=「佐佐紀山」であった。わざわざこの祖を記述し、「淡海之久多綿之蚊屋野」に繋げる。安萬侶くんの仕込みである。

「久多綿」=「くちゃくちゃ(秩序のない様)の海」であろう。同じ「淡海」でも程度が違う。そこに接する「蚊屋野」=「蚊(小さい、少ない)屋(覆うもの)野」=「地面を覆う木が少ない(殆どない)野原」と思われる。その場所は、現在の福岡県遠賀郡水巻町の宮尾台など複数の団地となっているところであろう。「久多綿」=「水巻」である。

雄略天皇紀の「伊勢国之三重(采女)」もルート変更した結果と整合性の良い表記である。三重が伊勢国に含まれた配置で納得である。但し詳細な場所の特定には至らないが…。またこの天皇の御陵は「河內之多治比高鸇」<追記>とある。反正天皇の宮<追記>の近くにあったものと推測される。安康天皇陵も下図に示したが、詳細は後日に(福岡県田川郡福智町伊方丸山)

紐解いてみると彼らの地形認識を、定性的ではあるが、極めてスムーズに理解できる。この「蚊屋野」は今までに登場していない。伊豫之二名嶋の「土左国」の南方にあたる。早くから開けていたように思うが、やはり「淡海」の環境は厳しいものがあったとわかる。地名が特定され、そこで彼らが何をしたかがわかると当時の環境の全体像が浮かんでくる。面白い作業になるように思われる。

「倭国の発展」シリーズは一応完了。見返してみると抜けが多い、それはまた後日に…。本日の地図を参考までに…


…と、まぁ、こんな具合で先に話を進めてみよう・・・。


<追記>

2017.11.22
「伊波礼」の地についてその詳細を紐解いた。『伊波礼』の地を参照願う。



2017.12.13
「鸇」=「亶+鳥」に分解して、「亶」=「物が多く集積されている様」文字の印象からも積み重なった様子と見られる。これを適用してみると…


河内之|多治比|高鸇=河内の|治水された(田)|積み重なる

と紐解ける。河内にある「高い山稜が作る谷間の棚田」に近接する場所となる。現在の地形からではあるが、河内(長峡川と小波瀬川に挟まれたところ)の中では一ヶ所、それを示すところが見つかる。行橋市入覚の西側、塔ヶ峰南麓の谷間が合致することが判る。鳥は何処かに飛んで行った?



詳細な場所の特定は難しいが五社八幡宮辺りではなかろうか。

反正天皇:多治比之柴垣宮