2017年4月27日木曜日

もう一つの『相津』〔029〕

もう一つの『相津*


「高志道」と「東方十二道」つの異なる道で遠征した将軍親子がドラマチックな再会を「高志国」で果たした。安萬侶くんの粋な計らいで会った場所が、なんと「相津」。偉大な親子を山に見立てた記述は、なかなかのもの…ちょっと小ぶりな山であるが・・・。

ところでこの「相津」どこかでお目にかかったような気もする。古事記検索で一件ヒット。そうであった、「鵠」の捜索説話の冒頭にあった。二俣舟の調達場所。勿論、高志之相津、ではなく「尾張之相津」再会のお話ではない。

古事記原文[武田祐吉訳]

故、率遊其御子之狀者、在於尾張之相津、二俣榲作二俣小舟而持上來、以浮倭之市師池・輕池、率遊其御子。
[かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあった二俣の杉をもって二俣の小舟を作って、持ち上って來て、大和の市師の池、輕の池に浮べて遊びました]

今回の安萬侶くんの見立ては「二俣」である。素直に川が合流する場所と思われる。暇が取り柄の老いぼれの「尾張国」は北九州市小倉南区の貫山山塊が北にその根をり出した先にある。現在は曽根・新門司平地と呼ばれるところ、かつては大半が海面下であり、この国は丘陵地形の上にあったと思われる。


そこに流れる「竹馬川」と「稗田川」の合流地点が「尾張之相津」と推定する。海面下のところが多く、また河川の流域の変化もあると考えられ、現在の場所とは異なる可能性があるが、小倉南区横代東、北及び湯川新町、上葛原という、現在の行政区分内にあったと推測される。

古事記検索では「相津」がヒットするが「(会、合、遭、逢、遇)津」はである。単に「あう」だけでは安萬侶くんの地名命名基準を満たさないようである。戯れたのが多いので、全く基準は不明だが…。

二俣舟


ところで、この「二俣舟」とは如何なる物かと調べてみると、実はあまりわかっていない。少し古い文献であるが、田中巽氏の論文(海事資料館年報11(1-6)1983年)を紹介する。

田中氏もこの無口な御子の説話の「二俣舟」に興味を持たれた。特に1962年に大阪門真市三島で出土した「古代の独木舟」が「二俣舟」であること、またそれを保管してきた大阪市博物館が手狭になったゆえに廃棄するとの情報を得て、いろいろ画策した上に、論文としておこうとされた、とのことである。

結論的には虚伝ではない。 ②ヘサキが分かれた独木舟である。 ③船木部(八井耳系)なる集団があった。出雲系、尾張系共に銅鐸と関係あり(福井県大石出土の銅鐸絵図は二俣の可能性あり)等が記述されている。何故、二俣? に関しては不明のようである。古代にしか存在しなかったものなのであろう。ならば、博物館の廃棄騒ぎはトンデモないことである。その後如何になったか知る由もないが…。

おそらく、かつての舟は水陸両用であったかと思われる。海上も陸上も滑らせることが重要、船としては二俣にして転覆抑制、ソリの時は引張り/押しやすく、少々スピードは犠牲にしても、である。地図上「船越」地名が多々残ってることを考え合わせれば、こんな予想も許されるであろう。事実、この御子、企救半島を舟で横断している

また、田中氏は日本書紀の仁徳天皇紀「遠江国大井河」にも言及されている…遠江國司表上言「有大樹、自大井河流之、停于河曲。其大十圍、本壹以末兩」と記述されている。本ブログで「福岡県宗像市の釣川支流大井川」に比定したところである。

御子の二俣は池に浮かべる大きさだが、大井川の二俣の木は大変な太さである。「二俣舟」は大小問わずに利用されていたと思われる。福井の銅鐸に記載された「二俣舟」の使い道については決着がついていない様子とのことである。

更に上記の「尾張之相津」「遠江国大井河」通説に従って地名比定をされている。かなり説得力あるようで、興味のある方は原著を参照願う。海事資料館、一度訪れてみようかな?…。

「相津」はこれでお別れである。また会うことがあれば・・・と、こんな話になりました。


…全体を通しては「古事記新釈」参照願う。


2017年4月25日火曜日

和訶羅河の戦い〔028〕

和訶羅河の戦い

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
記の崇神天皇紀「東方十二道」のところで書き残した大毘古命の高志国派遣の際、良からぬ事件が発覚、早速の叛乱制圧に赴いたという説話である。それにしても内輪もめの多い家系である。対外的には「言向和」で対内的には抹殺する。古事記記述の姿勢、かな?

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

故、大毘古命、罷往於高志國之時、服腰裳少女、立山代之幣羅坂而歌曰

美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理都斗用 伊由岐多賀比 麻幣都斗用 伊由岐多賀比 宇迦迦波久 斯良爾登 美麻紀伊理毘古波夜

於是、大毘古命思恠、返馬、問其少女曰「汝所謂之言、何言。」爾少女答曰「吾勿言、唯爲詠歌耳。」卽不見其所如而忽失。故大毘古命、更還參上、請於天皇時、天皇答詔之「此者爲、在山代國我之庶兄建波邇安王、起邪心之表耳。波邇二字以音。伯父、興軍宜行。」卽副丸邇臣之祖・日子國夫玖命而遣時、卽於丸邇坂居忌瓮而罷往。於是到山代之和訶羅河時、其建波邇安王、興軍待遮、各中挾河而、對立相挑、故號其地謂伊杼美。今謂伊豆美也。[の大彦の命が越の國においでになる時に、裳を穿いた女が山城のヘラ坂に立って歌って言うには、

御眞木入日子さまは、御自分の命を人知れず殺そうと、 背後の入口から行き違い前の入口から行き違い 窺いているのも知らないで、御眞木入日子さまは。

と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思って、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌っただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依って大彦の命は更に還って天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行っていらっしやい」と仰せになって、丸邇の臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂に清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待っており、互に河を挾んで對い立って挑み合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言っております]

崇神天皇の祖父の息子たち、おじさん達の争いになる「大毘古命」は長男で後に登場する「建波邇安王」が異母兄弟になる。日本書紀では「大毘古命」は四道将軍となっており、「東方十二道」との整合性はない。赴くところは北陸で、高志国なんでしょうが…。

先ずは高志国に行け、と命じられたのだから例のルートで和邇坂を経て山背を通り、難波津に向かう筈である。そこで不思議な女性に出会う。このパターンも嘗てに登場。神のお告げに頼る時代、巫女の役割が大きかった。歌の内容はそのものずばりでこれを聞いて不審がらない訳はない、早々に取って返して掃討開始である。

「山代之幣羅坂」何処であろう「幣羅」=「幣(ヌサ:旅の無事を祈って贈るもの)羅(ラ:複数の意味)」と解すれば、「大毘古命」が「師木(磯城)」から和邇坂を経て、高志国に向かうために遠征安全を祈願したところとなる。 

土地の名前とは思えない、いや、安萬侶くんは坂の名前で「大毘古命」の行動を示しているのである。拡大解釈の通説ではこのニュアンスは理解できないかと…。間違いなく通過点にある「山浦大祖神社」近隣の坂である。だから「服腰裳少女」に会えた。戦闘前に「忌瓮」を供えるのは常套手段、これで勝てる、なんてことになるんでしょうかね。

「山代之和訶羅河」至る「和訶羅河」=「輪柄河」=「輪のような様子の河」=「大きく曲がった(うねった)河」と解釈される。通説は「木津川」(三重県および京都府を流れる淀川水系の支流)である。ほぼ直角に曲がる川である。「ワカラ」ない、というサイトもある。「山代之和訶羅河」=「犀川(今川)」と解釈する。

川沿いに進んでいよいよ「大毘古命」vs「建波邇安王」となる。その場所は? 通説は現在の木津市木津辺りとする。古事記には「伊豆美(イズミ)」と言われるところとある。

在平成田川筑豊線の「美夜古泉(ミヤコイズミ)」駅周辺に「矢留」地名がある。「矢留」=「戦闘終了」である。川沿いの道が大きく曲がり、また多くの山影がある待ち伏せるには最適の場所である。現在の上記筑豊線の「豊津駅」周辺であろう。

「矢留」少し先「流末」である。もう「淡海」が近い。古事記は簡単に記述するが、小競り合いを含め、追い詰められたところでもあったと思われる。真に珍しく古事記記載の地名が残っている場所である。複数の事件があった場所かも?、である。

今のところ通説と暇が取り柄の老いぼれ説は互角の戦闘? 通説は「平城山」越えないと山城国、木津には届かないのに記述がない? 磯城からワザワザ和邇坂に寄り道して行く? なんて細かいことは・・・。さて、安萬侶くんのお戯れが始まる。

爾日子國夫玖命乞云「其廂人、先忌矢可彈。」爾其建波爾安王、雖射不得中。於是、國夫玖命彈矢者、卽射建波爾安王而死。故其軍悉破而逃散。爾追迫其逃軍、到久須婆之度時、皆被迫窘而、屎出懸於褌、故號其地謂屎褌。今者謂久須婆。又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士、故號其地謂波布理曾能。自波下五字以音。如此平訖、參上覆奏。[ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中てることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放った矢はタケハニヤスの王に射中てて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依って逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎が出て褌にかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言っております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜のように河に浮きました。依ってその河を鵜河といいます。またその兵士を斬り屠りましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終って、朝廷に參って御返事申し上げました]

まぁ、正々堂々の戦いであったが、後が胡散臭いことに。「久須婆()」=「祓()に比定済み通説はこれを淀川沿いの「樟葉」に当てる。木津から約20km、拡大解釈の破綻である。逃げ散る敵をその距離で集約することは不可能である。「樟葉」以外の、より手短な場所を選定されることをお勧めする。

地図を参照願うが、「大毘古命」は南から進軍、大将戦に敗れた戦士たち、西は「犀川」、北は山、池に阻まれ、唯一の逃走場所の東に、南から勢い付く敵に押込まれながら、向かうと「久須婆河」、その距離約3.5km、現在の「祓川」に架かる「草場橋」に行き当たる。僅か3km強と雖も経路は不確かである。安萬侶くんに感化されてしまって「クソバ」⇒「クサバ」であろう。

戦闘状況の把握には十分な情報を安萬侶くんから頂いた。伝説の戦いではなく、極めて具体性のある戦闘場面を再現できることがわかった。残念ながら「鵜河」「波布理曾能」は残っていないようである。

高志国にて親子の再会

引き続いての説話がある…

故、大毘古命者、隨先命而、罷行高志國。爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共、往遇于相津、故其地謂相津也。是以各和平所遣之國政而覆奏。爾天下太平、人民富榮。於是、初令貢男弓端之調、女手末之調。故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也。又是之御世、作依網池、亦作輕之酒折池也。天皇御歲、壹佰陸拾捌歲。戊寅年十二月崩。御陵在山邊道勾之岡上也。[かくて大彦の命は前の命令通りに越の國にまいりました。ここに東の方から遣わされたタケヌナカハワケの命は、その父の大彦の命と會津で行き遇いましたから、其處を會津というのです。ここにおいて、それぞれに遣わされた國の政を終えて御返事申し上げました。かくして天下が平かになり、人民は富み榮えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物や女の手藝の品々を貢らしめました。そこでその御世を讚えて初めての國をお治めになつたミマキの天皇と申し上げます。またこの御世に依網の池を作り、また輕の酒折の池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊寅の年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾の岡の上にあります]

「大毘古命」漸くして「高志国」に赴いたら、なんと息子に会った。その「建沼河別(命)」は例の「東方十二道」経由で来たというわけである。筑波山東麓を行けば、未開拓の荒野ではあるが高志に届く。会ったところが現在の北九州市門司区今津と思われる。

この津は形状の類似した標高79mと60mの山に挟まれたところである。「相津(アイヅ)*」=「相(向かい合った対の山の間にある)津」二つの山は「大毘古命」と「建沼河別(命)」の寓意である。「会(アイ)津」だけではなく、一歩も二歩も踏み込んだ理解が必要である。


拡大解釈の通説は「会津」(現在の福島県会津若松市)とするようである。「隨先命」に依って行動する「大毘古命」が居た場所は「高志国」である。

その地の「相津」である。「樟葉」と同様、読みが合致するだけの比定は、古事記の読み下しに百害あって一利なしである。

「知初國之御眞木天皇」確かに将軍達を各地に出向かせ、「和平」したわけだから「初国」に該当するのであろう。

「言向」がないのは、かなり武力による制圧的なように思われる。甥っ子に天皇を譲り、熟練のおじさん達が実働部隊になる、上手く回れば良い体制かも…拗ねた奴が出てくると、抹殺である。情報源の「女子」は欠かせない。

「御陵在山邊道勾之岡上也」「山辺の道」「勾之岡」を頼りにして、現在の福岡県田川郡香春町高野にある総合運動公園辺りであろう。


…と、まぁこんな調子で・・・。


2017年4月24日月曜日

常陸国風土記の『筑波山』〔027〕

常陸国風土記の『筑波山』

記で「筑波」=「紀氏国」=「吉志国」であることがわかった。それを記す「常陸国風土記」には更なる記述が見受けられる。「筑波山」の在処である。

神話の森[口訳・常陸国風土記]というサイトからの引用…

筑波山は、雲の上に高く聳え、西の頂は、高く険しく、雄の神(男体山)といって登ることは出来ない。東の頂(女体山)は、四方が岩山で昇り降りはやはり険しいが、道の傍らには泉が多く、夏冬絶えず湧き出てゐる。坂東の諸国の男女は、桜の花咲く春に、あるいは紅葉の赤染む秋に、手を取り連れ立って、神に供へる食物を携へ、馬に乗りあるいは歩いて山に登り、楽しみ遊ぶ。そして思ひ思ひの歌が歌はれる(歌垣において)。

ほぼ間違いなく筑波山の比定が出来そうである。先に地図を参照願う。


東西の位置、頂上の形状も現在の国土地理院地図に合致する。

また、それに記載された登山道も男体山は頂上に達せず、女体山は辛うじて届いているようである。

風土記の通り、急勾配の斜面であろう。

茨城県の筑波山も同じように男体、女体山の東西の位置、頂上形状は類似するが、後者の方が若干であるが高い。

「坂東の諸国」通説では「坂東」=「足柄峠、碓氷峠より東の地方」関東の古称である。

碓氷峠は古事記に未だ出現せずで不明だが、「足柄()」は辛うじて…いや、南にある・・・という不毛な議論は止めて、「坂東」=「筑波山東麓」と解釈するべきであろう。

Wikipediaによると、「歌垣(うたがき)とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗。現代では主に中国南部からベトナムを経て、インドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる。古代日本の常陸筑波山などおいて、歌垣の風習が存在したことが『万葉集』などによりうかがうことができる。」

「紀氏」ルーツ中国南部であろう(呉の姫氏?)。彼らがその地の風習を持ち込んだ、それが最も簡明な理解である。決して茨城県筑波山中の出来事ではない。詳細は略すが、なかなかの風俗話しのようである…

鷲住 筑波乃山之 裳羽服津乃 其津乃上尓 率而 未通女<壮>士之 徃集 加賀布嬥歌尓 他妻尓 吾毛交牟 吾妻尓 他毛言問 此山乎 牛掃神之 従来 不禁行事叙 今日耳者 目串毛勿見 事毛咎莫 [嬥歌者東俗語曰賀我比]
[の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 娘子壮士の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交らむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな [の歌は、東の俗語に賀我比と曰ふ]]

「裳羽服津」=「裳羽服の津」=「もはや何もかも忘れて従う、川の合流点」図上特定出来そうだが、ここまでで・・・。

命辛々落ち延びてきた人々の活き活きとした営み、それを現状の理解に留まっていることに忸怩たる思いである。古代を輝かせること、それが明日へと繋がる、と信じる。

歌垣に関連する説話に、福慈(富士)山では歌垣が出来なくて、筑波の山で大盛会となったというものがある。「福慈」=「富士」とする根拠は「以音」のみである。「坂東」にはない「富士山」は頂けない。「福慈山」=「足立山」であろう。現在、その山麓に「富野」「足原」「上藤松」というところがある。「足原」はかつての「富原」であろう。山の名前を変えるのに合わせて、である。

写本として現存するのはこの「常陸国」を含め五ヶ国のみである。貴重な古代の史料として見直すことではなかろうか…インターネットにそれら資料を掲載されている方々に深く感謝の意を表して…と、また後日に・・・。


2017.04.27追記>


その後「足立山」関連の調査を続けていたら、トンデモないことに気付いた。というか手抜かりであった。この山の南面及び山麓一帯を占める地名、北九州市小倉南区「大字葛原」「葛原本町」等の「葛原」の「葛」は、「葛」=「葛藤」=「藤」に置換えられることがわかった。


「葛原」=「藤原」である。「足立山」=「藤山」=「福慈山」となる。更に「藤原」の名称の出現は今後の日本国家の成立に深く関わる。暇が取り柄の老いぼれの「矛」が向かう「盾」の裏(内)側である。次に向かう先が少し見えてきたような錯覚に陥っている次第である・・・。





2017年4月22日土曜日

東方十二道〔026〕

東方十二道

「古事記」序文の記述を思い起こせば「倭国創生」の物語は、神武天皇の「遠飛鳥」と「近淡海国」二国の支配から始まった。そして、続く天皇達の活躍で各国を「言向和平」し、姻戚関係、人事の交流を計って領域の拡大を行った。「倭建命」の「東方十二道」への遠征は、その拡大の一つの区切りとして重要な位置付けである。

後の正史「日本書紀」によって北海道、沖縄を除く現在の「日本」へと拡張拡大された。律令制にある「五畿七道」となる。中国の行政区分に倣ったものとされるが、その内の西海道を除いては「道」としての行政機関は無かったとのことである。

その拡張拡大の過程を、そして行われた時点における背景、意図を思い合せて紐解こう、というのが本ブログの狙いである。「日本書紀」に含まれる、「要素」としての「古事記」、恣意的な改竄も含めて、その「要素」が止揚された実態をあからさまにすることである。

「東方十二道」の記述は「古事記」中、崇神天皇紀と景行天皇紀の二度出現するだけである。極めて簡略なものであるが、それを基にして安萬侶くんの伝えたかったことを推測してみよう。

将軍の派遣

崇神天皇、師木水垣宮に居られたのであるが、大物主大神に祟られて、なんとかその場を凌いだという説話の後に続く。師木水垣宮は前記の垂仁天皇の師木玉垣宮に近接するところであろう。二代続けて「磯城」である。

古事記原文[武田祐吉訳]

又此之御世、大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令和平其麻都漏波奴自麻下五字以音人等。又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠。此人名者也。玖賀二字以音。
[またこの御世に大彦の命をば越の道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました]

「東方十二道」初出、と言うかいきなりである。加えて「高志道」という表現もある。「高志に向かう道」と思われる。そうであるなら「東方十二道」=「東方十二に向かう道」となろう。「高志道」は「東方十二道」とは異なる「道」と区別されている。

「東方十二」には主要な「国」に加え未だ「国」として明確に認知されていないところも含めているのであろう。また、それが一本の「道」で繋がるところに位置することであろう。それら十二の国及び国らしきところが彼らの定義する東方にあるという意味する

「旦波國」(現在の行橋市稲童辺り)には「道」が無い。当然ではなかろうか、「山代」を抜けると、そこにある。「道」として区別する必要がないからである。「高志道」が区別されるのは何故か? 「山代」を抜けて難波津から「淡海」を渡ると、そこは「高志国」だからである。前記17番で御子の禊のために使った行程である。

通説ではこれらの違いを説明するには方角の違いだけであろう。古事記は方角の違いを区別していない。「道」の手段であり、「道」が繋げる場所を纏めて表現したものである。後の行政機関としての「道」による統括機能は求めていない。実際、統括機能は殆ど果たせなかったようであるが。

ここで何故「新治」「筑波」が東方限界であったのか? 「道」の手段が異なれど「高志国」はもう間近の筈。通説だと、理由なくしてUターンであり、日本書紀だと仙台辺りまで。この東方限界の根拠を求めることは古事記記述の拡大解釈の齟齬を示す一例となろう。

あらためて調べて見た。古事記では「常陸」という記述はない。通説に準じて「恒(見)」=「常(陸)」としたが、結果的にはこれもあり得るかも、である。「常陸」の由来は決して明確なものではなく、諸説の中にある。「直(ひた)すら)」からというのもある。Uターンとは一層かけ離れる。全く拘るわけではないが、「ヒ(追い)」=「鉱脈(追い)」という言葉がある。このヒを使えば「常陸」=「ヒ断(タ)ち」でUターンとなるが…

「筑波」「新治」で解釈するのであるが、「筑波山」は「常陸国風土記」の記述に「紀国」に聳えていたとある。「筑波」はその昔「紀国」=「紀氏国」=「吉志国」であることを示している。「倭建命」が相武国から向かったのは、前記で現在の北九州市門司区「吉志」とした。

全国に散らばる「紀氏」の痕跡、大阪府吹田市岸部に残る「吉志部神社」、門司と同じ文字が使われている。「高志国」にある「猿喰」もそうであるが、改名の圧力?にも屈せず、現在に到達したのであろう。そこに住んだ人々の気概を感じる

「新治」=「新(しい)治(水)」である。企救半島東部の急峻な地形、扇状地のないところを開拓したところである。現在も山の中腹に溜池が多く残る。現存する設備は後代のものであろうが、それを切り開いたのが紀氏であった。渡来人達の多くは未開の土地に入り開墾し住処を得たのである。

現在に伝えられる各地の伝説はそれらを如実に伝えているのではなかろうか。日本の、日本人の原点を、そして現在の日本人に繋がる日本人を古事記が語っている、と思われる

現在の北九州市門司区吉志(筑波、新治)及び小倉南区吉田(東国)を併せた地域が紀氏の領域であったろう。徳川の時代に至っても尾張、紀伊、水戸に御三家を置いた。上記の流れは、「常陸国」の扱いを理解することに通じるものである

「筑波」の由来も諸説ある。「尽く端」=「崖の端」、縄文海進による「着く波」などなど。企救山地の最高峰「足立山(竹和山)」の「竹(の)端」もあるかもしれない。地形象形的には「崖の端」がピッタリである。当時の「吉志」の先は入江が大きく入り込んで、山の手は断崖のように海に接すると推測される。

これが、Uターンの理由である。「鉱脈」の尽きるところであった。安萬侶くんでさえ地形の変貌までは読み切れなかった。説明など不要と思ったのであろう。いや、1300年間も経つとは神のみぞ知る、世界である。

東方十二道<追記>


さて、本題のこの十二道はどう解釈されのであろうか? 「倭建命」の遠征に登場した地名が十二の内の一つに該当すると考える。最初の「伊勢大御神宮」は地名ではないが現在の伊勢神宮と同じくその地名を表していると思われる。また、そこに行く道すがらになんらの「言向和」の記述がないことから既に彼らの支配下にあったことを示している。

前記で東方、西方の概略のボーダーラインを描いてみたが、比定した「伊勢大御神宮」の周辺までを東方とする。下図を参照願いたいが、以下の地名である

伊勢、尾張、三野、科野、相武、新治、筑波、足柄、東、甲斐、當藝、三重


三野国はこの遠征には登場しないが尾張国に隣接()するところである。

古くは本居宣長著『古事記伝』に、伊勢、尾張、参河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥、とある。また、その後に、遠江、駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、という提案もある。いずれにしても主に五幾七道に基づくものである。古事記を律令制発足以後の目で眺めては、その意味するところは伝わらない。

古事記が当然のこととして記述しない重要な境界条件を、その拡大創作によって境界条件の意味を失くしてしまったことを的確に読み取ることである。恣意的かどうかは別として、それを行って来なかったことこそ責められるべきであろう。

ところで、上記の古事記原文に「将軍の派遣」具体例が続く、それなりに興味ある内容、後日紐解いてみよう…と、今日はこの辺で・・・。



2017年4月19日水曜日

倭建命の東奔西走:その参〔025〕

倭建命の東奔西走:その参

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
「東方十二道」巡る旅、真に大変。いやいや、通説はもっと大変、日本書紀の記述まで参考にすると仙台辺りまで赴く、後程教科書の地図を例示しよう。安萬侶くんの伝えたかったことは、具体的な「倭」の勢力範囲「言向和」した場所を丁寧に述べているのである。

「東方十二道」の中で、景行天皇の時代に未だ「言向和」が行われていない場所、それを「倭建命」に命じた、ということである。姻戚関係の整っていない国を如何に「言向和」するか、武力に頼らざるを得ない状況を示している。

垂仁天皇の時代の「鵠」の追跡時「相武国」「常陸国」は「言向和」が未達であった。また、未だ完全ではない国もあった。「尾張国」のようにしっかりと姻戚関係が出来上がった国にする必要性があったのである。「倭建命」の東奔西走は大戦後の掃討作戦と理解できる。決して拡充膨張の侵略作戦ではない。

また日をあらためて「東方十二道」について述べてみよう。「東方」の定義が極めて重要の筈である。ところで、前回の記述の中で、どうも引っ掛かることがある。「東国」の国造に指名されたお爺さんの歌、国造にする程のことを言ったのか? ということ。

迦賀那倍弖 用邇波許許能用 比邇波登袁加袁[日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます] 

安萬侶くん、例によってお戯れかな? 「九十(クソ)」=「糞」=「(日数なんて)取るに足らないものでございますと言った? まぁ、国造かも?・・・。

東奔(復路)


さて、いよいよご帰還である。「甲斐」の「酒折宮」で一息ついて「科野国」へ、その山麓に向かう予定である。古事記は簡単記述、書くことないから、である。「甲斐」から既に「言向和」した「常陸の筑波、新治」通過、「相武国」に至る。

そこから「科野国」の山側に向かい、そこの「坂神」を「言向和」して「尾張国」に入ることになる。現在の北九州市小倉南区葛原高松、湯川辺りを経由したのであろう。作戦通りの成果を挙げて尾張の姫と再会である。が、事件が発生する。

古事記原文[武田祐吉訳]

故爾御合而、以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。於是詔「茲山神者、徒手直取。」而、騰其山之時、白猪、逢于山邊、其大如牛。爾爲言擧而詔「是化白猪者、其神之使者。雖今不殺、還時將殺。」而騰坐。於是、零大氷雨打惑倭建命。此化白猪者、非其神之使者、當其神之正身。因言擧、見惑也。故還下坐之、到玉倉部之淸泉、以息坐之時、御心稍寤、故號其淸泉、謂居寤淸泉也。[そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになった草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。そこで「この山の神は空手で取って見せる」と仰せになって、その山にお登りになった時に、山のほとりで白い猪に逢いました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になったものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨を降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であったのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還っておいでになって、玉倉部の清水に到ってお休みになった時に、御心がややすこしお寤めになりました。そこでその清水を居寤の清水と言うのです]

1.伊服岐能山
気の緩み、少々調子に乗り過ぎた感じである。「倭比売」から授かった刀、肌身離さずの筈が…拙かった。「伊服岐能山」は通説「伊吹山」とされる。この山の特徴はその後に記述される「清泉」である。「玉倉部之淸泉」=「玉倉部にある清く澄んだ泉」通説は「玉倉部の清水」とするが、原文通りに「泉」とする。

名水ある場所、それは鍾乳洞の近くである。「伊吹山」も関ヶ原鍾乳洞に隣接する山である。前記の「志賀之穴穂宮」の在処で記述したように現在の北九州市小倉南区は全国でも有数のカルスト台地を持つ。

一方、この山塊の最高峰「貫山(ヌキサン:712m)」及び隣接する「水晶山」は花崗岩質の岩場を形成しており幾つかの奇岩が名付けられている。尾張(現在の地名小倉南区貫)山である。通説は「近江」の山を拝借するという離れ業を使っているのである。

「貫」=「つらぬく、突き通す」岩が突き出た様相を象形したか、岩場から出て来る湧水の有様を意味したのかは定かでないが、表面に突出る地形に合致した命名ではなかろうか。「服岐(フキ)」=「吹」=「外や表面に現れ出る」類似の意味であろう。

「空手」でお出掛けの「倭建命」、どこまで山に入られたかは不明であるが、手酷く傷めつけられたようである。這う這うの体で「玉倉部之清泉」まで辿り着き休んだとのこと。「玉倉部」通説は場所を示すとするが、宝玉、薬石等の保管、管理場所(部)ではなかろうか。「水晶山」から連想される透明な水晶の玉、立派な宝玉であったろう。

「玉倉部之清泉」は「貫山」北方山稜の麓辺りあったと思われる。残念ながら「倭建命」の体調には効かない薬石しかなかったのか、清泉の水を飲んでホッと一息したのであろう。山の神は怖い…まだまだ山奥には「言向和」する相手が…本物の神様?・・・。

2.當藝野/杖衝坂/尾津前一松
自其處發、到當藝野上之時、詔者「吾心恒念、自虛翔行。然今吾足不得步、成當藝當藝斯玖。自當下六字以音。」故號其地謂當藝也。自其地、差少幸行、因甚疲衝、御杖稍步、故號其地謂杖衝坂也。到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀不失猶有、爾御歌曰、
袁波理邇 多陀邇牟迦幣流 袁都能佐岐那流 比登都麻都 阿勢袁 比登都麻都 比登邇阿理勢婆 多知波氣麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁 比登都麻都 阿勢袁
[其處からお立ちになって當藝の野の上においでになった時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思っていたが、今は歩くことができなくなって、足がぎくぎくする」と仰せられました。依って其處を當藝といいます。其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになってゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝坂といいます。尾津の埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさた時に其處にお忘れになた大刀が無くならないでありました。そこでお詠み遊ばされたお歌、
尾張の國に眞直に向かつている尾津の埼の一本松よ。お前。
一本松が人だたら大刀を佩かせようもの、着物を著せようもの、一本松よ。お前]

傷んだ身体に鞭打って帰途に就くわけだが、往路で立寄った「伊勢大御神宮」へは赴かないようである。それどころではなかったのであろう。「當藝野」で「當藝當藝斯玖」なる。懐かしい「當藝」=「弾碁」ではなく、そのまま「凸凹」と解釈。山稜線が延びたところを交差するように歩くのであるが、地形的に適したとも思われる場所、現在の北九州市小倉南区舞ヶ丘辺りではなかろうか。

西に進んで行き当たる「杖衝坂」は次の「尾津の埼の一本松」(現在の小倉南区横代南町の高倉八幡神社辺り)に至るまでの坂道であろう。通説もいくつかの候補があり特定することは困難である。ここから左に旋回して南下する。

歌の内容は太刀への思い、「空手」で伊吹山に入ったことへの後悔なんだろうか・・・。しかし、よく太刀を手元から放してしまうお方のようで、ポカもやる天才的ヒーロー、かつて野球選手にもそんなお方が…人気でるよね・・・。

3.三重村/能煩野
自其地幸、到三重村之時、亦詔之「吾足、如三重勾而甚疲。」故、號其地謂三重。自其幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
又歌曰、
伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古
此歌者、思國歌也。又歌曰、
波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母
此者片歌也。此時御病甚急、爾御歌曰、
袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜
歌竟卽崩。
[其處からおいでになって、三重の村においでになった時に、また「わたしの足は、三重に曲った餅のようになって非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。 其處からおいでになって、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになってお歌いになりましたお歌、
大和は國の中の國だ。重なり合ている青い垣、山に圍まれている大和は美しいなあ。 命が無事だた人は、大和の國の平群の山のりぱなカシの木の葉を 頭插にお插しなさい。お前たち。
とお歌いになりました。この歌は思國歌という名の歌です。またお歌い遊ばされました。
なつかしのわが家の方から雲が立ち昇て來るわい。
これは片歌でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌を、
孃子の床のほとりにわたしの置いて來た良く切れる大刀、あの大刀はなあ。
と歌い終って、お隱れになりました]

通説に従って読み下せると思われる。「三重村」は現在の北九州市小倉南区堀越辺り(通説は三重県三重郡川越町辺り)、また「能煩野」は母原を流れる母原川辺りではなかろうか。太刀への思いを告げながら、幕切れとなった。

例によって参考に地図を…


また、教科書に載せてある地図は…



比べるまでもないことだが、本州各地を点で結んだ行程である。「倭建命」の東征は「東方十二道」の掃討作戦である筈。点と点の間が空いていては全く意味のない作戦となろう。解釈した結果の矛盾を伝承記録書に過ぎないとして解決?する態度は、断じて許されるべきことではない。

…と、「倭建命」の東奔西走が終わった。あっけなくもあり、まだまだ比定しきれない部分も見つかった。今後の課題としつつ、先に進もう・・・。




<追記>


2017.06.08
ルートの修正です。その後の考察で「尾津」の在処がほぼ確定した(縄文海進を伴うため現在地名からの推定:根拠は後日に)。修正図を下記に…



往路
1.伊勢神宮に向かう時、頭書より西側、紫川に沿うルートに変更(おそらく頭書のルートはまだ開拓されていなかったと思われる、距離は長くなるが…)

復路
1.「當藝野」までは変わらず。

「尾津」の位置は、現在の北九州市小倉南区北方辺りまで淡海が入り込んでいたと思われることから、その近隣の岬に一本松が立っていたと推測される。

それに伴い杖衝坂は、同小倉南区下石田・石田町辺りと推定される。

2.三重村も移動し、現在の地名では、北から同小倉南区徳力~新道寺辺りであろう。

「能煩野」は書の通り「母原」辺りと思われる。


2017.09.19
「貫山」が花崗岩質であることが明らかとなってので、本文修正。原文を下記に留める。
1.伊服岐能山
気の緩み、少々調子に乗り過ぎた感じである。「倭比売」から授かった刀、肌身離さずの筈が…拙かった。「伊服岐能山」は通説「伊吹山」とされる。この山の特徴はその後に記述される「清泉」である。「玉倉部之淸泉」=「玉倉部にある清く澄んだ泉」通説は「玉倉部の清水」とするが、原文通りに「泉」とする。

名水ある場所、それは鍾乳洞の近くである。「伊吹山」も関ヶ原鍾乳洞に隣接する山である。前記の「志賀之穴穂宮」の在処で記述したように現在の北九州市小倉南区は全国でも有数のカルスト台地を持つ。

「平尾台」に繋がる山塊は「穴」だらけ、ある。この山塊の最高峰「貫山(ヌキサン:712m)」尾張(現在の地名小倉南区貫)山である。通説は「近江」の山を拝借するという離れ業を使っているのである。

「貫」=「つらぬく、突き通す」灰岩層から出て来る湧水の有様を意味している。「服岐(フキ)」=「吹」=「外や表面に現れ出る」類似の意味であろう。この「伊吹山」の地名比定は、なんとなくの思い込みから容易に頷けるようであるが、極めて大きな齟齬を示している例である。

「空手」でお出掛けの「倭建命」、どこまで山に入られたかは不明であるが、手酷く傷めつけられたようである。這う這うの体で「玉倉部之清泉」まで辿り着き休んだとのこと。「玉倉部」通説は場所を示すとするが、宝玉、薬石等の保管、管理場所(部)ではなかろうか。現在も奈良の正倉院に「鍾乳床」(止渇薬、利尿薬)が保存されている。

鍾乳洞は地下に浸透した水を、水温、水質が年中変わらぬ状態で、湧水として生み出す。また石灰石そのものも種々の薬剤として利用できる。普通の環境では得られない貴重な資源を提供してくれるところなのである。だから感謝をし、祈り、祀り、敬ったのである。その素直な心を素直に受け止めることが大切である。

「玉倉部之清泉」は「貫山」北方山稜の麓辺りあったと思われる。残念ながら「倭建命」の体調には効かない鍾乳床ではあったが、清泉の水を飲んでホッと一息したのであろう。山の神は怖い…まだまだ山奥には「言向和」する相手が…本物の神様?・・・。




2017年4月18日火曜日

倭建命の東奔西走:その弐〔024〕

倭建命の東奔西走:その弐

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
いよいよ、古事記最高の英雄物語の始り。無理難題をその超人的能力で克服する、なんとも楽し気な内容なのですが、果たしてそうなのでしょうか…美しい倭比売に助けられて東方に飛んだ。国名、個別の地名など盛りだくさんの内容である。それだけに地名比定など、一つ一つ確実に・・・。

重要なスタート地点から考察してみよう。景行天皇の御所「纏向之日代宮」からであるが、この宮自体が決して明確ではない。「纏向」「日代」の二語を解釈する。通説は大和三輪山の東北にある巻向山の麓として簡単に説明されるが、文字の意味からは果たして妥当なところであろうか。様々な解釈が発生する所以である。

本ブログは福岡県香春岳を中心に「纏向」「日代」の意味を解釈する。「纏向」=「纏わりついて向く」=「山麓に近く、その正面を向けている」と読む。正面を向けているのは香春岳の三ノ岳(香具山)である。「日代」=「日が背」=「日が後ろ」、即ち三ノ岳に対して東からその正面を向けていて、朝日がその背を照らす宮と思われる。ほぼピンポイントの場所、現在の田川郡香春町鏡山という地名、金辺川と呉川が作る三角州の中である。

東奔(往路)


1.伊勢大御神宮/尾張国

「倭建命」が西方での言向和から帰って間もなく、今度は東方十二道だ、と景行天皇に言われたところから始まる<追記>

関連部の古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)を示すと…

故受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、卽白其姨倭比賣命者「天皇既所以思吾死乎、何擊遣西方之惡人等而返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」患泣罷時、倭比賣命賜草那藝劒那藝二字以音、亦賜御囊而詔「若有急事、解茲囊口。」故、到尾張國、入坐尾張國造之祖・美夜受比賣之家。乃雖思將婚、亦思還上之時將婚、期定而幸于東國、悉言向和平山河荒神及不伏人等。[依って御命令を受けておいでになった時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになった叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、「父上はわたくしを死ねと思っていらっしゃるのでしょうか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになって、還ってまいりましてまだ間も無いのに、軍卒も下さらないで、更に東方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしょう。こういうことによって思えば、やはりわたくしを早く死ねと思っておいでになるのです」と申して、心憂く思って泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、また嚢ふくろをお授けになって、「もし急の事があったなら、この嚢の口をおあけなさい」と仰せられました。かくて尾張の國においでになって、尾張の國の造の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還って來た時にしようとお思いになって、約束をなさって東の國においでになって、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました]

悲運の英雄、心優しき女性、ドラマチックな様相を醸し出して物語は始まる。で、いきなり「伊勢大御神宮」の登場。古事記中唯一の登場である。とは言え、あの「伊勢神宮」らしきところの在処が不明では解釈の迫力に欠ける? 少し丁寧に突き止めてみよう。

この「伊勢大御神宮」から次に向かうのが「尾張国」、この国は既に比定済みで、現在の北九州市小倉南区長野、貫周辺である(「三野国」を含めて前記はもう少し広い範囲の字を挙げたが、狭めて良いように思われる)。「倭建命」は間違いなく金辺峠越ルートを辿ったと思われる。前記の「無口な御子の出雲行き」で「品遅部」を置きながら歩いた道である。

この山間ルート上に残る地名に「志井」(北九州市小倉南区)がある。「志」は「志摩」に繋がる。現在の伊勢神宮が存するところ「伊勢志摩」である。「志摩市」は「伊勢市」の南側に接する。「志井」周辺を流れる紫川下流域の丘陵に「山田」という地名が残る(山田緑地)。「宇治山田」(現在伊勢市)と繋がる。

「宇治」=「内宮周辺」、「山田」=「外宮周辺」示すとある。前記で考察した「宇治」=「宇遅」=「内」、宇治の由来、あらためて確認できた。全て地名の「国譲り」であろう。現在の「蒲生八幡神社」(北九州市小倉南区)辺り「伊勢大御神宮」があった場所と推定される。これが「斎宮」なのか、古事記は語らない。

心優しき倭比売から慰めを頂き、剣を授かり、中身は不明だが頼りになりそうな袋を貰った。少しは気を取り直して直線距離6~7kmも歩けば、馴染みの尾張国へ到着。帰りの際には尾張の美しい姫を娶ろう、なんて勢いづけて旅だった、という流れである。

2.相武国

故爾到相武國之時、其國造詐白「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」於是、看行其神、入坐其野。爾其國造、火著其野。故知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者、火打有其裏。於是、先以其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其國造等、卽著火燒。故、於今謂燒津也。[ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐って言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになって、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになった嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打がありました。そこでまず御刀をもって草を苅り撥い、その火打をもって火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還っておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津といっております]

「相武國」=「相模国」される。現在の神奈川県に当たる。さて、そうであろうか? この国の特徴「沼」である。現在も多くの沼があり、地名自体も「沼」というところが見出せる。現在の北九州市小倉南区沼である。この地は入江が大きく入り込んだ場所であり、当時の海岸線は今よりかなり陸地側に後退したものであったろう。背後の山(高蔵山)の麓にあった国と推定される。

ここも前記の「鵠」の追跡で「科野国」としたところ、「相武国」は出現しなかった。一代前の垂仁天皇時代には未だなかった国なのか、「鵠」が居そうになく省略したのか…「言向和」の未達…これが「倭建命」のミッションなのである。

「尾張国」から「相武国」は水行であるが、特に記載はない。名も無き国造なんかの小賢しい策略などものともせず、あっさりと返り討ちに。倭比売の小物、役に立ったようで。比売は知っていたのか? そんな訳なし?。

「焼津」は「駿河国の焼津」したいところだが「国」が異なる。いえいえ、そんなところまで「倭建命」は赴いていないのでは? 残念ながら小倉南区沼には「焼津」の地名は残っていないようである。

そこから次の国に向けて「走水海」=「流速の大きな川、海」を渡るが、后の「弟橘比賣命」が身を挺して「倭建命」を助ける。ここもドラマチックなところ、それにしても英雄は女性の人気が高い。そして彼女らの助力が英雄を一層英雄らしくさせるのであろう。ん? 夫人同伴? それで尾張の姫と? そんな時代かも?・・・。

「焼津」の比定が困難な上に当時の地形とのギャップ、かなり曖昧さが残るところであるが、現在の「沼緑町」辺りから県道25号線沿いに水行及び陸行で「北九州市門司区吉志」辺りに向かったと思われる。この地が「邇比婆理 都久波」である。通説は「常陸の新治、筑波」と訳す。静岡県焼津からだとすると、とても尋常な距離ではない。これが罷り通ってきたこと、だから複数の英雄の寄せ集めと…驚きである。

3.常陸新治筑波/足柄坂本/甲斐/東国

一気に四つの地名が出現する。少々複雑なルートではなかろうか・・・。

自其入幸、悉言向荒夫琉蝦夷等、亦平和山河荒神等而、還上幸時、到足柄之坂本、於食御粮處、其坂神、化白鹿而來立。爾卽以其咋遺之蒜片端、待打者、中其目乃打殺也。故、登立其坂、三歎詔云「阿豆麻波夜。自阿下五字以音也。」故、號其國謂阿豆麻也。
卽自其國越出甲斐、坐酒折宮之時、歌曰、

邇比婆理 都久波袁須疑弖 伊久用加泥都流

爾其御火燒之老人、續御歌以歌曰、

迦賀那倍弖 用邇波許許能用 比邇波登袁加袁

是以譽其老人、卽給東國造也。[それからはいっておいでになて、悉く惡い蝦夷どもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還ってお上りになる時に、足柄の坂本に到って食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になって參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端をもってお打ちになりましたところ、その目にあたって打ち殺されました。かくてその坂にお登りになって非常にお歎きになって、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻とはいうのです。 その國から越えて甲斐に出て、酒折の宮においでになった時に、お歌いなされるには、

常陸の新治・筑波を過ぎて幾夜寢たか。

ここにその火を燒いている老人が續いて、

日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます。

と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻の國の造になさいました]

その常陸の新治、筑波で「悉言向荒夫琉蝦夷等、亦平和山河荒神等」、「言向平和」したのである。現在の「吉志」から少し先は「恒見」という地名になる。「恒(見)」=「常(陸)」である。「倭建命」の東方最終到達地点である。

これから引き返すのであるが、同じルートではない。引き返して最初の場所が「足柄之坂本」である。「足柄」=「足搦(アシガラ)ミ」勾配、距離等きつい坂道を上る様子を示したものであろう。そんな場所、現在の北九州市門司区恒見から小倉南区吉田に抜ける道がある。通説だと神奈川県足柄上郡から富士吉田市へと抜ける道に該当するのであろう。

この小倉南区吉田が「東国」となる。この国、現在の地名下吉田、から東北方向に山を越えると「甲斐国」に到達する。「甲斐」の「斐」は「挟まれた間」を象形する。「甲」=「山」とすると「甲斐」=「山に挟まれたところ」となろう。既に「山の狭(カイ)」と解釈されたことがあるが、この場所はその通りの地形を表していると思われる。

その国にある酒折宮にて御一腹されていよいよ折返しに取り掛かる。「淡海」を水行すれば一気に「纏向の日代宮」にご帰還だが、「倭建命」は帰りながら更に山の手の神を「言向和平」なされるのである。

今日のところの地図を参考までに…。


さて、次回は晴れて凱旋、とはいかずに悲しい結末を辿ることになりそう・・・。



<追記>

2017.08.02
爾天皇、亦頻詔倭建命「言向和平東方十二道之荒夫琉神・及摩都樓波奴人等。」而、副吉備臣等之祖・名御鉏友耳建日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛。[ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになって、吉備の臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになった時に、柊の長い矛を賜わりました]

景行天皇から東方に行けと命じられた時の前文に重要な文字が潜んでいた。「比比羅木之八尋矛」である。「比比羅木」とは上記の「柊」の木であろうか?…いくら固い棘があっても矛となり得るのか?…この矛盾の解消のために矛は実戦用具ではなかったとまで脱線する。それで良いのか?…混迷の極みであろう。

では、矛の産地を示すのであろうか?…そうとしたら何処であろうか?…その後に大国主命が「比比羅木之其花麻豆美神」を娶るという記述が出現した。「比比羅木」は場所である。「木=山陵」の地形象形であろう。「比比」=「物事が並び連なるさま、一様に同じような状態であるさま(どれもこれも)」とある。山の並びが示されている、と解釈できる。

が、特定には至らない。調べると「比比羅木の八尋矛根底附かぬ国=新羅国」(播磨国風土記逸文)の記述があることがわかった。「八尋矛根底附かぬ国」=「八尋矛が台につかない国」=「戦闘ばかりしている国」と紐解ける。となると「比比羅木」=「同じような高さで並び連なる山がある」を掛ける国が「新羅国」となる。

この国の場所は朝鮮半島南東部、文献によると半島の75%は山岳地帯だが平均標高は482m2,000m以上の山はなく1,915mが最高とある。分水嶺が東部海岸近くにあり、東高西低の地形、西に向かって緩やかに傾斜する。地図で確認するとその通りの「比比羅木」であることがわかる。


「比比羅木之八尋矛」は本家本元の「新羅国」で作られた銘刀、いや、銘矛であった。安萬侶くん、省略するのも程々にせよ、今じゃ、この日本では「比比羅木=柊」で通ってるではないか。新羅国が関連するところまでは紐解けても、その意味するところは闇の中である。なんとも口惜しい・・・。

この銘矛は使われなかった、尾津の一本松に忘れたから。新羅の力を借りずに「言向和平」したことの象徴かもしれない。いや、そうしたかったのであろう。次期天皇の時代には凱旋報告をするのだから。





2017年4月17日月曜日

倭建命の東奔西走:その壱〔023〕

倭建命の東奔西走:その壱


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
「倭建命(ヤマトタケルノミコト)、日本書紀では「日本武尊」と表記される。日本古代史上の伝説的英雄である。通説に従えば、確かに出雲から東国(相模国、甲斐国など)まで、その活躍の範囲を考えれば、である。既に本ブログで記述してきたように古事記で記載される国々は、通説のような場所ではなく、九州の東北部にある。

安萬侶くんの伝えたかったことは何であったのか? 古事記原文に従い読み下していくことが肝要である。幾度か記述してきたように、通説では伝わらなかった古代の日本の有様が見えてくるように思われる。正に「国譲り」と「禊祓」の歴史なのである。

とは言うものの、この英雄の足跡に、俗説も含めて、比定された場所は大変な数にのぼる。古事記に記載された地名に複数の場所が発生することにもなる。それもこれも、良しである。古代史における矛盾を解き明かし、現実の世界、その将来へと止揚することが本ブログの目的だから。

先ずはその生立ちである。景行天皇の御子、父親の真意を読み取れず、なんとも乱暴な性質であることが述べられる。天皇自身の身の危険を感じさせる出来事である。だから賢明なる天皇はどうしたか? 国の発展に如何に彼を使ったか、それによって支配する領域の平定に彼がどう寄与したかを述べているのである。決して「小碓命(倭建命)」は天皇にならないのである。

記述には多くの地名が登場する。西方、東方という概念も出現する。通説は奈良の大和を中心として西、東とするが決してそのような大雑把な括りではないと思われる。例によって逐次に読み下してみよう。

西走


「西方有熊曾建二人」で始まる勅命を受けた「小碓命」はいとも簡単に目的を果たしてしまう。やり方は、これも通例の宴会中に懐から剣、である。叔母の「倭比賣命」の衣装で女装をして、である。熊曾建の最後の言葉が安萬侶くんの伝えたかったことである。

古事記原文[武田祐吉訳]

爾其熊曾建白「信、然也。於西方、除吾二人無建強人。然於大倭國、益吾二人而、建男者坐祁理。是以、吾獻御名。自今以後、應稱倭建御子。」是事白訖、卽如熟苽振折而殺也。故、自其時稱御名、謂倭建命。然而還上之時、山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上。[そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさった強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」と申しました。かように申し終って、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。そうして還っておいでになった時に、山の神・河の神、また海峽の神を皆平定して都にお上りになりました]

西方には熊曾建兄弟以上に強い者はいない、と述べさせている。西方とは、その領域は極めて曖昧である。古事記は西方の記述が極端に少なく、また記述する必要性を持たないことを示しいる。前記したように「日向国(博多湾岸、糸島半島周辺)」に国があるが、彼らの支配する場所ではないことからも、彼らと並立する場所なのであろう。

「山神・河神・及穴戸神、皆言向和」ら推測する。熊曾建らが居る場所は山、河、宍戸である。「宍戸」が地形的に当て嵌まる場所は、現在の北九州市若松区高塔山公園及び戸畑区都島展望公園に挟まれた「淡海の海峡」であろう。山の方は北九州市八幡東区小「熊」野という地名が残っている。「(宍)戸」=「戸(畑)」と繋がる。

板櫃川などが洞海湾に流れ込む場所であり、「出雲国」の西方にある。この場所を「言向和」して、「倭建命」という尊大な名前を頂戴して「出雲国」に入る、と述べている。「宍戸」は、通訳が困り果てて当てた「海峡」などという一般名称ではなく、場所を特定する極めて重要な意味を示している。

では西方の東限はどう定義されるのであろうか? 東限は現在の企救半島の西部、山塊の稜線を境とする、前記22番の「出雲国」と半島東部の「高志国」との境を意味するものと解釈される。

西方東限の国、出雲の出来事が続く…

卽入坐出雲國、欲殺其出雲建而到、卽結友。故竊以赤檮、作詐刀爲御佩、共沐肥河。爾倭建命、自河先上、取佩出雲建之解置横刀而、詔「爲易刀。」故後、出雲建自河上而、佩倭建命之詐刀。於是、倭建命誂云「伊奢、合刀。」爾各拔其刀之時、出雲建不得拔詐刀。卽倭建命、拔其刀而打殺出雲建。爾御歌曰、

夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮

故、如此撥治、參上覆奏。[そこで出雲の國におはいりになって、そのイヅモタケルを撃とうとお思いになって、おいでになって、交りをお結びになりました。まずひそかに赤檮いちいのきで刀の形を作ってこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥の河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずお上りになって、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになって、「大刀を換えよう」と仰せられました。そこで後からイヅモタケルが河から上って、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀を合わせよう」と挑まれましたので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されました。そこでお詠みになった歌、

雲の叢り立つ出雲のタケルが腰にした大刀は、 蔓を澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ。

かように平定して、朝廷に還って御返事申し上げました]

前記で考察した通り「出雲国」現在の北九州市門司区大里周辺の地域を指す。そこで起こった出来事は相変わらず姑息な策略であった。三人目のタケルも敢無くお亡くなりになったとのことである。「肥川」の文字遊び…「肥(フトル)川」=「肥(フト)川」=「太川」=「大川」なのかもしれない。

良かにお詠いなった歌の「夜都米佐須(ヤツメサス)」は出雲の枕詞とあり、「八雲立つ」に置換えれている。安易である。「夜都米佐須(ヤツメサス)」=「八つ布(メ)さす」=「大きな昆布が繁る」である。「ヤクモタツ」への変化は無理である。門司は和布刈り神事が残る場所であり、「淡海」に特徴的な大きくて歯ごたえのある昆布の産地となり、現在も鳴門ワカメは有名である。古事記の示す「出雲国」は島根の方にはない。

古事記の「出雲国」の場所は確定したようである。そしてそこが「西方」の東限であり、企救半島の東側は「東方」と表すことがわかった。都を中心とした発想ではなく、古事記の中での定義であろう。またそれが彼らの共通の認識であったと思われる。

図示すると…



西方を「言向和」した「倭建命」、やれやれと思ったら、なんと今度は東方に行けと言われる。ボヤキながらも命に背くわけにもいかず、僅かな手勢を率いて赴く羽目になるが、次回に・・・。



<追記>

2017.05.04
「熊曾国」比定の再考:現在の企救半島北部

2017.09.14
熊曾国の詳細参照。






2017年4月9日日曜日

無口な御子の出雲行き〔022〕

無口な御子の出雲行き


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
垂仁天皇の命を受けて大鶙」さん「越」までお出掛け、なんと「猿喰」で「鵠」を見事にゲット、目出度し…とはいかず、御子は無口なままであった。困った時の神頼み、占ってみると、出雲の神様の祟りだとか。お参りするほか手は無し。前記18番に続く物語である。

古事記原文[武田祐吉訳]を示すと…

卽曙立王・菟上王二王、副其御子遣時、自那良戸、遇跛盲、自大坂戸、亦遇跛盲、唯木戸是掖月之吉戸ト而出行之時、毎到坐地定品遲部也。故到於出雲、拜訖大神、還上之時、肥河之中、作黑巢橋、仕奉假宮而坐。爾出雲國造之祖・名岐比佐都美、餝青葉山而立其河下、將獻大御食之時、其御子詔言「是於河下、如青葉山者、見山非山。若坐出雲之石𥑎之曾宮、葦原色許男大神*以伊都玖之祝大廷乎。」問賜也。爾所遣御伴王等、聞歡見喜而、御子者坐檳榔之長穗宮而、貢上驛使。爾其御子、一宿婚肥長比賣。故、竊伺其美人者、蛇也、卽見畏遁逃。爾其肥長比賣患、光海原、自船追來。故、益見畏以自山多和此二字以音引越御船、逃上行也。於是覆奏言「因拜大神、大御子物詔、故參上來。」故、天皇歡喜、卽返菟上王、令造神宮。於是天皇、因其御子、定鳥取部・鳥甘部・品遲部・大湯坐・若湯坐。[かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子に副えてお遣しになる時に、奈良の道から行つたならば、跛だの盲だのに遇うだろう。二上山の大阪の道から行っても跛や盲に遇うだろう。ただ紀伊の道こそは幸先のよい道であると占って出ておいでになった時に、到る處毎に品遲部の人民をお定めになりました。 かくて出雲の國においでになって、出雲の大神を拜み終って還り上っておいでになる時に、肥の河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造ってお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲のイワクマの曾の宮にお鎭まりになつているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました。そこでお伴に遣された王たちが聞いて歡び、見て喜んで、御子を檳榔あじまさの長穗の宮に御案内して、急使を奉って天皇に奏上致しました。そこでその御子が一夜ヒナガ姫と結婚なさいました。その時に孃子を伺いて御覽になると大蛇でした。そこで見て畏れて遁げました。ここにそのヒナガ姫は心憂く思って、海上を光らして船に乘って追って來るのでいよいよ畏れられて、山の峠から御船を引き越させて逃げて上っておいでになりました。そこで御返事申し上げることには、「出雲の大神を拜みましたによって、大御子が物を仰せになりますから上京して參りました」と申し上げました。そこで天皇がお歡びになって、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子のために鳥取部・鳥甘・品遲部・大湯坐・若湯坐をお定めになりました]

誓約もして、いよいよ出発である。が、宮殿の戸口に三方向あって、占いによると一方向しか良いところがない、そこを通って…既に通訳から逸脱している。「奈良の道」「大坂の道」「紀伊の道」なんとも拡大解釈である。前回の鳥の探索は「木の国」がスタート、宮殿の場所を特定する必要がなかった、というか解らなかった。

通説が「・・・道」と書いてくれたことに感謝、ハッキリと「宮殿の戸口()」と認識して、試みる。「那良戸」=「那良山の方を向いている戸」、「大坂戸」=「大坂山の方を向いている戸」、「木戸」=「木の国の方を向いている戸」これら三つの方向が直交している場所が垂仁天皇の御所「師木玉垣宮」に該当すると思われる。

地図上で求めると現在の福岡県田川郡香春町「中津原」と「今任原」の境辺りであることがわかる。この場所が「師木」(通説の磯城)(追記❶参照)と表されるところである。古事記に登場する幾人かの天皇の御所が在ったところと思われる。

占いは「木戸」が好ましい、という。「出る戸口」が「木戸」であれば良いのである。大事なことは出雲に向かう「道」を選ぶことではない。通説は、遥か彼方の出雲、道を選ばないと意味不明な占いになるようである。拡大解釈すると実際の出来事がぼやけてしまうのである。繰り返して起こっている解釈である。

さて、アケタツの王とウナガミの王の二人を従えた、大軍団で何処に向かったのであろうか?「品遲部」が重要なヒントである。これを置きながらの道行である。「品遲部(ホンヂブ)」=「奉仕義務の直属集団(名代(ナシロ))」と解釈すると、彼らの行く道は陸行であり、その周辺に「国」が形成されていないところである。

選択できる道は唯一、暇が取り柄の老いぼれのバージンロード?、「木戸」を出て直に反転し、現在の香春岳東麓を北上、金辺峠越をする道である。彼らは「品遲部」を設けながら、紫川に沿って北へ北へと進んで行くと、現在の「小倉」に抜ける。そこは「淡海」である。そこが「出雲」? 古事記は語らない。<追記❸>

「出雲」は何処? 前記18番で「高志国」に向かった際、現在の企救半島の山向こうが「大里」であった。「大」は出雲のキーワードである。調べてみた。なんと、「戸ノ上山」が聳える。「戸ノ上山(トノエヤマ)」=「戸上山(トガミヤマ)」=「鳥髪山(トガミヤマ)」である。須佐之男命が降臨した地である。その裾野を流れる「大川」が「肥川」であろう。

「小倉」辺りに行き着いた無口な御子、直線距離約8kmの陸行で、難無く「戸ノ上山」北西麓にある神社「戸上神社」に到着する。「戸上神社」が「出雲大神宮」かは不詳である。現在の出雲大社は遥か彼方にあるのだから。古事記の簡明過ぎる記述、辿ってみると、あながち違和感のない結果であった。

なんと、「肥川」で休息中に喋ったのである。しかも、あの仰天遺跡の岩倉のことをご存知?<追記❷> 取り巻きが歓喜したのは当然の記述。天皇に急便を出すは、アジマサの島でお寛ぎのために船の調達やら、てんやわんやの騒動に、大成果である・・・「出雲」の「国譲り」もあったのか・・・。

「檳榔(アジマサ)の島」=「馬島」と比定済み。ここで寛ぐのは初めからの予定であったようだが、王たちも喜んで、だろう。が、事件が…何かを寓意しているのか不明だが、取り敢えず君子危きに近づかず、一目散に逃げる。その逃げ方が重要。

「益見畏以自山多和引越御船」企救半島、船を引いて越えるのである。現在の「大川」に沿って淡島神社付近を通過して「伊川」に抜けるルートであろう。「淡海」→「難波津」→「山背川」→「師木玉垣宮」着である。目出度し、目出度し…。



なかなか出雲神社も抜け目なく、ちゃっかり神殿造って貰って…ご利益あれば…「国譲り」してしまっては跡形もないか…。古事記が描く世界、また少し大きくなったような・・・。



<追記>

❶2017.06.08
「木=山」として、地表を上から見た時の比喩としていることがわかってきた。五百木、若木、沼名木は伊豫之二名嶋の伊豫国、讃岐国、土左国である。「師木」も同様の解釈を適用すると…


師木=師(諸々多く集まってる)・木(山稜)

となる。上記の示した場所の状態を端的に表しているものと思われる。

❷2017.09.12
出雲之石𥑎之曾宮について検討済み。「𥑎」は玄室及び棺の象形表現と解釈。また、その場所を北九州市門司区寺内にある高台(後に高安山と呼ばれる)に特定した。

葦原色許男大神*
賜った名前が「葦原色許男」と言う。何とも色男風の名前で、従来よりそのように解釈されて来ているようである。強い男も加わって、正に英雄に恥じない名前。一方、これは日本書紀の記述に準じて「醜男」とするが、古代は現在の解釈とは異なり、やはり英雄風の解釈である。

こんな有様だから「色許男」の紐解きになかなか至らなかった…少し言い訳も込めて…。時代が過ぎて邇藝速日命の後裔、穂積臣之祖:内色許男命及びその比賣内色許賣命などが登場するまでは手付かずの状態であった。詳細は孝元天皇紀を参照願うが、概略は…「色」=「人+巴」=「渦巻く(蛇の象形)」、「許」=「元、下、所」として…「葦原色許男」は…、


葦原(出雲)|色(渦巻く地形)|許(下)|男(田を作る人)

…と紐解ける。渦巻く地形は見つかるのか?…更に説話は続く・・・省略して地図を示す。(2018.04.21)





❸2017.10.09
「小倉」→「小津」に変更。小倉は海面下。






2017年4月8日土曜日

応神天皇:我が行く道〔021〕

応神天皇:我が行く道

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
前記した仁徳天皇は女性がらみで皇后の嫉妬を気にすることなく、ひたすら国の拡充発展に努められた。好奇心旺盛で何処にでも出かける、おかげで暇が取り柄の老いぼれもご一緒させて頂けた。

一方、父親の応神天皇さん、どうやら自分を語ることがお好きなようで、それはそれで彼らの関心事を伺い知るには都合よし、という感じである。

「蟹の歌」に続く説話は相変わらず仁徳さんの女好きをいいことに、父親と息子の一人の女性の取り合い、なんて読んでしまったら、もったいない、であろう、と、こんな色眼鏡で読んでみたら・・・「歌」の連発、安萬侶くんはそこに本音を、しかし難解。

古事記原文と通訳[武田祐吉訳]

天皇聞看日向國諸縣君之女・名髮長比賣、其顏容麗美、將使而喚上之時、其太子大雀命、見其孃子泊于難波津而、感其姿容之端正、卽誂告建內宿禰大臣「是自日向喚上之髮長比賣者、請白天皇之大御所而、令賜於吾。」爾建內宿禰大臣、請大命者、天皇卽以髮長比賣、賜于其御子。所賜狀者、天皇聞看豐明之日、於髮長比賣令握大御酒柏、賜其太子。爾御歌曰
伊邪古杼母 怒毘流都美邇 比流都美邇 和賀由久美知能 迦具波斯 波那多知婆那波 本都延波 登理韋賀良斯 志豆延波 比登登理賀良斯 美都具理能 那迦都延能 本都毛理 阿加良袁登賣袁 伊邪佐佐婆 余良斯那
又御歌曰、
美豆多麻流 余佐美能伊氣能 韋具比宇知賀 佐斯祁流斯良邇 奴那波久理 波閇祁久斯良邇 和賀許許呂志叙 伊夜袁許邇斯弖 伊麻叙久夜斯岐
如此歌而賜也。故被賜其孃子之後、太子歌曰、
美知能斯理 古波陀袁登賣袁 迦微能碁登 岐許延斯迦杼母 阿比麻久良麻久
又歌曰、
美知能斯理 古波陀袁登賣波 阿良蘇波受 泥斯久袁斯叙母 宇流波志美意母布
[また天皇が、日向の國の諸縣の君の女の髮長姫が美しいとお聞きになって、お使い遊ばそうとして、お召し上げなさいます時に、太子のオホサザキの命がその孃子の難波津に船つきしているのを御覽になって、その容姿のりっぱなのに感心なさいまして、タケシウチの宿禰にお頼みになるには「この日向からお召し上げになった髮長姫を、陛下の御もとにお願いしてわたしに賜わるようにしてくれ」と仰せられました。依つてタケシウチの宿禰の大臣が天皇の仰せを願いましたから、天皇が髮長姫をその御子にお授けになりました。お授けになる樣は、天皇が御酒宴を遊ばされた日に、髮長姫にお酒を注ぐ柏葉を取らしめて、その太子に賜わりました。そこで天皇のお詠み遊ばされた歌は、
さぁお前たち、野蒜摘みに蒜摘みにわたしの行く道の香ばしい花橘の樹、上の枝は鳥がいて枯らし、下の枝は人が取って枯らし、三栗のような眞中の枝の目立って見える紅顏のお孃さんをさあ手に入れたら宜いでしよう。
また、
水のたまつている依網の池の堰杙を打ってあったのを知らずに ジュンサイを手繰って手の延びていたのを知らずに氣のつかない事をして殘念だつた。
かようにお歌いになって賜わりました。その孃子を賜わってから後に太子のお詠みになった歌、
遠い國の古波陀のお孃さんを、雷鳴のように音高く聞いていたが、わたしの妻としたことだった。
また、
遠い國の古波陀のお孃さんが、爭わずにわたしの妻となったのは、かわいい事さね]

「日向国」、このブログ初出の国から「髮長比賣」という、まるでハリウッドスターのような女性をゲットしたというお話である。通訳は歌いまくる歌の解釈に苦しむ、辻褄が合わないのである。そんなわけで、例によって、どこかで詠われたものを挿入、なんて理解で済ませるようである。
一語一語、見てみると…ちょっと一目ぼれした仁徳さんが、困った時の「建」さんに相談、応神天皇にご進言申し上げた、という前説で、御歌である。
 
野蒜と花橘

さっそくの冒頭「伊邪古杼母」=「さぁお前たち」歌の初めに挿入したのは何故であろうか? 「さぁ、お前たち、よ~く聞け!」の気合が籠った一語であろう。何かを語ろうとする時に発せられる言葉と理解した。続く歌が奇妙なのである。気合入れて、そして懺悔である。神と崇められる天皇が「斯良邇(シラニ)」=「知らずに」を一歌に二回も、である。

彼らの祖先が朝鮮半島を出て「天の国」からこの「倭」に来た。紆余曲折ながらも「言向和」してここまで来た。東から昇る太陽に向かって東へ、東へ、と進んで来たのである。子供達に語ることは祖先のことであり、また、その故郷の状況と、これから先の行く末を案じることではなかろうか。

「怒毘流都美邇 比流都美邇 和賀由久美知能」=「野蒜摘みに蒜摘みにわたしの行く道の」=「新しい土地を切り開いて来た我()が行く道の」過去から現在までの自分達の歴史を物語っている。また「野蒜」は次の「迦具波斯(香ばしい)波那多知婆那波(花橘は)」と対比して、彼らの先人たちが作り上げた豊かさに対して、まだまだ及ばないことを暗示しているのであろう。

「本都延波 登理韋賀良斯 志豆延波 比登登理賀良斯」=「上の枝は鳥がいて枯らし、下の枝は人が取って枯らし」叙景的には通訳の通りである。がしかし、彼らが辿ってきた道の出発点は朝鮮半島である。今の彼らから見た「本都延」「志豆延」は「朝鮮半島北方(遠方)」「朝鮮半島南方(近傍)」であろう。

応神~仁徳天皇の時代、西暦に換算するには諸説あろうが、概ね世紀半ばから世紀の間にあると推測される。東アジアは激動の時代である。後漢が滅亡し(西暦220)、三国(魏呉蜀)時代を経て朝鮮半島もそれまで漢の支配下にあった国がそれぞれ独立し群雄割拠の状態である。遠方の「高句麗」、近傍の「新羅」が戦略的膨張拡大の有様を述べていると思われる。

「美都具理能 那迦都延」=「三栗のような眞中の枝」中間がお好きなようで、これは日本の宿命かな? キーポイントである。この真中の国が「百済」である。運が良いのか、判っていたのか、知る由もないが、「百済」は4世紀に建国以来の隆盛を迎えることになる。「百済」と仲良くすることが大スター「髮長比賣」の輿入れなのである。

応神天皇、天皇としてのビジョンを明確に示された。彼らの日常は朝鮮半島の動向と全く切り離せない状況にあることが述べられている。当然と言えばそうであろうが、これほどあからさまに記述されていること、やはり読み手の問題であろう。「伊麻叙久夜斯岐」である。

「美豆多麻流 余佐美能伊氣」=「水のたまつている依網の池」である。「依網」=「海波と川波が相寄るところ」であり、「水がたまる」=「人々が集まる」と解釈される。大河が流れ込む湾に多くの人々が寄り集まった状況を表している。

ここで二つの「斯良邇」が登場する。「韋具比宇知賀 佐斯祁流」=「堰杙を打てあった」、「奴那波久理 波閇祁久」=「ジュンサイを手繰て手の延びていた」の二つである。大勢の人が集まって来て育てた収穫物を守る手立て、またそれを盗もうとする者達、水辺に育つジュンサイ(蓴菜)は彼らが獲得した「ヒト、モノ、(カネ)」の寓意であろう。

そして「和賀許許呂志叙 伊夜袁許邇斯弖 伊麻叙久夜斯岐」=「氣のつかない事をして殘念だつた」と通訳する。「伊夜袁許邇斯弖」=「いやぁ、愚かにして」と直訳した方がもっと伝わる。何故天皇が知らない? これは別の国の話なのである。敵国ではないが、彼らが直接支配する国ではない。親戚のおじさん、いやおばさん?、達の国なのである。

と、こんな話を、「お前たち、よ~く聞け」と仰っている。極めて重要なことである。決して俺が見つけた女の子を横取りしおってからに、許せん…いや、いいよ、なんて他愛ない内容では、決してあり得ない。すぐ近くに危機が迫っているのである。
 
ヒムカのコハダのオトメ

それをよ~く理解した仁徳さん、大スターのお姫様を頂き、「美知能斯理 古波陀」=「遠い國の古波陀」で二首も詠われるのである。「古波陀」通説不詳。だが、この「美知能斯理 古波陀」こそこの説話のキーワードである。

「美知能斯理」=「道の尻」=「道の後方」である。彼らが日に向かって進んで来た道の後方、即ち「降臨した場所」である。「道の後方」=「高千穂の日向」となる。古田武彦氏の「高祖山」周辺を頂戴する。ここに記載の「日向国」=「福岡県糸島市」の一部であろう。上記の「水のたまつている依網の池」=「博多湾岸の池」となる。

「古波陀*」とは? 「古波陀」=「コハダ(小鰭)」である。コノシロの成長する時の別名である。朝鮮半島南西部では欠かせない食材、故郷の味である。日本の秋刀魚かな? 「百済」の所在地であった。「美知能斯理の最後方」=「百済」ではなかろうか。どうやらこの説話の「尻」に行き着いたようである。

少し後に新羅、百済からの渡来、朝貢の話が続く。百済からの移入に目を見張るものがある。朝鮮系の鍛冶屋、中国()系の機織屋など、秦氏、漢直氏の祖だとか。和邇吉師による論語等々。新羅人は土木技術屋。朝鮮半島が混乱すれば倭に移住、である。

こんな業務報告だけではなく、その背景を歌で示してくれたんでしょうが、安萬侶くん、ちっとも伝わってなかったようですよ・・・。

邇邇芸命一派の応神天皇家と博多湾岸にある一家の存在を示している。<追記> 中国史書に残る「卑弥呼」一家なのであろうか。その影を垣間見せた説話である。また、邇邇芸命一派の発展に伴って朝鮮半島との繋がりも深まりつつあることを語る。「遠飛鳥」となるにはもう少し時間がかかるがその萌芽を示すものと理解できる。

…と、まぁ本日はこの辺りで・・・。