2017年2月28日火曜日

日本書紀の『遠江国』〔006〕

日本書紀の『遠江国』

前回の検索で書紀に「遠江国」の記載(4)があることがわかった。順に見てみよう。

巻第十一 仁徳天皇紀

六十二年夏五月、遠江司表上言「有大樹、自大井河流之、停于河曲。其大十圍、本壹以末兩。」時遣倭直吾子籠、令造船而自南海運之、將來于難波津、以充御船也。

「遠江国」の「大井川」で大木が見つかり、それで船を造らせ「南海」を経由して難波津に持ってきた…というような内容である。遠江国東方、現在の静岡県に大井川がある。遠江国と駿河国との境界であり、日本で初めての井川ダムが造られたところである。加えて「南海」を運んだというから、それなりに筋の通った話のように聞こえる。
だが、これは大変な時代錯誤の言葉を織り交ぜて、それらしく見せているだけである。「南海()」は律令制確立後の五畿七道で用いられた言葉「南海道(紀伊~淡路~四国)」であり、古事記には出現しない。また、大井川から運ぶとすると「東海道(伊賀~伊勢~遠江~駿河~武蔵~常陸)」から「南海道」を経て難波に到着することになる筈である。通訳は「ミナミ ノ ウミ ノ ミチ」である。苦労が偲ばれる。
前記で遠賀川河口付近の古地名「岡」=「遠江」=「遠賀」とした。これに由来する国があったことを示していると思われる。宗像市の釣川に大井川という支流がある(大井ダムが造られている)。これらを併せると、遠賀川左岸(現在遠賀郡)~宗像市辺りを「遠江国」と見なすことができるであろう。<追記>
では「南海」とは何処を指すのであろうか? ここを通って難波津に向かうのである。間違いなく「南海」=「淡海」である。なんとも皮肉なことに「近江」「遠江」は東西に並んでることになる。「淡海」=「近江」に置換えるということはトンデモなかったのである。さすがに重なってはいないが、いや一部は重なるか…。
「淡海」=「近江」の置換えを明らかにできたが、実は、「近江」に無関係なところにおいては「淡海」=「南海」の置換も行われたことを浮かび上がらせることができた。このことは反って、日本書紀における近江大津京の所在地に関する「徹底した」情報操作を表しているものと思われる。
前記で「遠江」は固有の名詞でなく、また「川楊」に注目したことから作者の周辺で「遠江」=「現在の行橋市を中心とする入江」としたが、「丸雪降」の場所を国の広さにまで広げるなら「遠江」=「遠江国」と解することもできるかと思われる。どちらでもとれるように、あの曲者は詠ったのかもしれない。

巻第二十四 皇極天皇紀

辛未、天皇詔大臣曰、起是月限十二月以來、欲營宮室。可於國國取殿屋材。然東限遠江、西限安藝、發造宮丁

宮殿用の屋材の調達範囲を示しているようであり、「遠江国(静岡県)」~「安芸(広島県)」のような意味不明な解釈はできない。遠賀川と釣川の間にある「湯川山~孔大寺山~戸田山」の山塊を示しているかと思われる。

巻第二十九 天武天皇紀下

丙戌、自筑紫貢唐人卅口、則遣遠江國而安置。
地名的なことに関しては、そのままである。天武天皇に関する情報は乏しく、どのように浮かび上がらせるかは今後の課題である。

巻第三十 持統天皇紀

甲午、詔免近江・美濃・尾張・參河・遠江等國供奉騎士戸及諸國荷丁・造行宮丁今年調役。

律令制成立後の名称であろう。既に「近江国」「遠江国」が並記されている。

纏めてみると重要な意味を有する結果であった。書紀の編纂に係わった人達は大変な作業を継続した。「淡海」を「近江」に置換えるだけなら、現在では検索(置換)で瞬時に完了するが・・・。日本書紀の置換え、今はそれを垣間見ただけで、もっと深いところが潜んでいるのであろう。

…と、まぁ、ボチボチ、です。



<追記>

2017.09.02
その後の考察より「遠江国」は上記の「湯川山~孔大寺山~戸田山(→城山に変更)」の山塊…邇邇芸命が降臨した「高千穂之串触岳」…までと思われる。古事記の時代の「日向国」までで、現在の福岡県遠賀郡の行政区分に相当する。現在の宗像市は「阿岐国」と呼ばれていた地域を含むと解釈される。上記の「安藝」である。


<Google Map 3D>


また、第35代皇極天皇は北九州に坐していた。おそらく近淡海国内であろうか。第37代斉明天皇でもある。古事記が途切れた後の出来事である。

2017年2月27日月曜日

近江とは?〔005〕

近江とは?

先にも述べたように『日本書紀』中には「近江」の文字が溢れんばかりに散りばめられている。これをあらためて検索結果として示すと下記の表のようになる。数字は各々出現回数を示している。

検索語
古事記
日本書紀
近江
0   
80   
遠江
0   
4   
淡海
18   
2   


日本書紀で「淡海」は2回出現するが、これらは前後の文面から筑紫の出来事を記載したことが明白であり、またもう一つは人名と思われるケースであり、「近江」とは表記出来ない思われる。日本書紀における「淡海」の出現回数は「実質0」である。「遠江」は日本書紀に4回出現するが、「遠江国」という表記であり、これについても極めて興味あることだが、また日を改めて纏めてみる。

「近江」について、この検索結果からわかるように古事記と日本書紀は真逆の表記であり、全体の文字数が異なるものであり、絶対数を比較することは不可であるが、日本書紀は「淡海」を「近江」と表記し、かつ「近江」をことさら強調していることは明らかであろう。

「近江」の由来を考察する対象は、またもや万葉集に求めざるを得ないようである。原文及び通説の訳文がついた万葉集のデータベース(山口大学吉村誠教授提供の万葉集テキストデータ、エクセルファイル)を用いて検索した。出現回数は22回、そのうち原文に「近江」とあるのは4回であり、残り18回は原文「淡海」で訳文中に「近江」となっているものである。

この22の歌を一瞥して「淡海」もしくは「近江」の所在地に関わるものを抽出すると、1歌のみであった。なんとまたもや柿本人麻呂の歌であった。天才で曲者の人麻呂君を頼りに・・・である。歌は…

万葉集(巻一ノ二十九) 柿本人麻呂作


玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 阿礼座師 神之盡 樛木乃 弥継嗣尓
天下 所知食之乎 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超 何方 御念食可
天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓
天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云
春草之 茂生有 霞立 春日之霧流 百礒城之 大宮處 見者悲毛

(玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え そらみつ 大和を置き いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも)

歌意の概略は幾代も続いてきた畝傍山の麓を離れて行ったことを嘆いたものだが、訪ねて行ったらなんと無残な姿に・・・。

背景に途轍もない出来事あって、それに翻弄された天皇の姿を表しているのであろうが、それについては語らない。読むものが思い描くことなのであろう。

難解な枕詞が散りばめられたこの歌であるが、淡海国ひいては大津宮の所在を突き止めるには具体的である。当然ながら奈良の大和から北上(地図上は北北東)し大津に至る道筋は比定されており、「淡海」=「近江」である。何の問題もなし、と言える状況であるが、しかしそうであろうか・・・。

大津は西方、南方を比良山塊に取り囲まれた場所である。北上すればこれに突き当たる。この山越えをすることなくして大津には辿り着かない。原文は「平山」を越えれば「淡海」国になる。省略した? 川楊のように決して消し去れてしまうことのない「歌」を残すことに命懸けの人麻呂君がする行為ではない。また、そう推論する不遜な態度は許されるものではない。

「淡海」=「近江」これは「淡海」=「淡水」=「淡水」湖=「近い淡水」湖=「近江」 どうして「江」なのか? 誰しも不思議と思うところであり、やむなく「遠江」=「浜名湖(淡水湖?)」を持ち出してくるしかない有様である。

「江」は元々「大きな川」であり、大きな川あるいは多くの川が海に注ぐ場所(入江)を意味する。「江」=「湖(大きな池)」は暴論である。漢字を使う人として恥ずべき所作である。

「淡海」=「淡の海」=「泡の海」とする以外に解はない。現在もある「淡路島」これが当然の読み方であろう。西井健一郎氏の指摘の通りである。

柿本人麻呂*は足跡を何処に付けたか?


前記した福岡県田川郡香春町を中心とした地図をみる。東西南方を山で囲まれ、彦山川流域が北方に空いている。その北方は東側の山塊の麓であり、いくつかの丘陵の地形を示している。盆地によく似た地形である。彼は通説と同じく北方にある丘陵を越えて「淡海」国に向かったのである。

丘陵の途切れるところ、現在の遠賀川との合流するところを過ぎるとそこが「淡海」国だと言っている。その場所は海の流れと川の流れがぶつかり合い、川は氾濫し流れを変えて蛇行し、干満差を大きくし、海面は正に泡立つ状況であろう。現在の北九州市の古の地名を淡海国と表してなんの不思議も感じない。



淡海国の大津宮とは?


人麻呂はこの大津宮に坐した天皇について何も語らない。「淡海」を「近江」と置換えた日本書紀は饒舌に語る。それは天智天皇から天武天皇までの間に起った出来事を中心として。また額田王も参戦する。まだまだ万葉集の読み込みが不足していると感じるが、彼らの歌の真意は、もっと多くのことを語っているような気もする、道半ばである。

この大津宮に坐した天皇は天智天皇ということなる。日本書紀中の「近江」を「淡海」に置換えると、天智天皇は遠賀川河口付近の小高い山に居たこととなる。何故、そこまで拘らなければならなかったのか? それは大和朝廷成立の根源に関わることだから、と思われる。

飛鳥を去った天智天皇に対する人麻呂の思いは痛切である。難解な枕詞(玉手次、天尓満、青丹吉)を短い歌の中に三つも入れている。これら三つが並ぶと、まるで倭は大和ではない、と語っているようである。天皇を褒めちぎる歌を作る生業だから、天皇を褒めない文言は抹消されることをわかっていたような気もする。危ない言葉は難解にすることである。

彼が残した「川楊」その一つ一つの枝を丁寧に見て行くことこそ後代の人々の努めなのかもしれない。戦後70年余り過ぎて豊かな平和を享受する時代こそ読み解く機会なのかと思う。時代が変われば根こそぎ刈り取られてしまうかもしれない。

近江 と 遠江


近い湖、遠い湖と言われてきたこの二つの「江」について考察した。結果としては…

・「遠江」は固有の名詞ではなく、作者の周辺から一つの案を作成してみた。決して「江」という文字からも浜名湖のような場所を示されず、また「遠」はその「江」の大きさを示し、都からの距離のことではないことも明らかになった。

・「遠」があっての「近」の論法は全くあり得ないこともわかった。既に幾人かの人が指摘している通り、「淡」は「泡」と読むことが妥当と判断された。

・柿本人麻呂の歌を頼りに「淡海」国、即ち天智天皇が坐した大津宮の場所は遠賀川河口付近とした。

・日本書紀という書物が如何に固有の名詞を置換え、操作をしたかを数字でもって示すことができた。書紀が示す置換えた部分と事実のままを書き記した部分の見極めの可能性を示せた。

・柿本人麻呂という天才で曲者の歌、その心情を伺いしれた、と同時に彼の出自、消息不明なことの根源を感じることができた。刈り取られてしまった歌、知るすべもないが、読んでみたくなる気分である。

「近江」という言葉は大和朝廷成立の根源に関わることが読み取れた。大変な課題であると思う。白村江での敗戦後から大和朝廷が成立する約40年間、倭には、大和には何が起こっていたのであろうか。最も隠し通された歴史になるのであろう。最初の実在感ある天武天皇は如何に処したのか、天智天皇と額田王を取り合ってばかりではないであろう。今のところ切り口が見えない。

…と、まぁ、こんな具合であります。

2017年2月24日金曜日

近江と遠江〔004〕

近江 と 遠江


ネットを徘徊していると、また「近」「遠」問題が・・・。

そんな訳で「近江」と「遠江」の遠近問題に徘徊を絞って探ってみると、これもまた大和を中心として距離が近い、遠いで場所決めされていることがわかった。また、「淡海」の名前の由来にも繋がっている。既に引っ掛かりが発生、更に徘徊を絞って…。


読みの由来


「近」はそのまま読めば「チカ(い)、キン(コン)」、「遠」は「トオ(い)、エン(オン)」で、「近江」=「チカ、キン(コン)コウ」、「遠江」=「トオ、エン(オン)コウ」である。

由来を調べると、以下のような記述があった。

近江は、和名抄の訓読みが知加津阿不三(ちかつあふみ)で、近淡海(ちかつあふみ)二字としたもの。近淡海は、遠淡海(遠江、浜名湖)に対しての語であって、都より距離が近いため。
・琵琶湖は「大湖(おうみ)」、浜名湖は「大水(おうみ)」と呼ばれていた。改名する時に距離の遠近を残して「近江」、「遠江」とした。

どちらかと言えば後者の方が素直な感じだが、「江」はどこから?、である。間違いなく、奈落に落ちそうな予感がするので調べ方を変更。

和名抄の記述、「遠江」に対しての「近江」の記述に引っ掛かる。「近江」名付けられる前に「遠江」があることを示している。今でこそ遠江国といえば浜松を中心とした広範囲な地域を思い浮かべ、存在感ある地域を形成しているが、飛鳥時代のことを思うと、これまた不思議である。

遠江の由来


ネットで検索すると、万葉集の二首に「遠江」の由来があるとわかった。

・柿本人麻呂(7-1293)
丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅亦生云 余跡川楊
(霰降り 遠つ淡海の吾跡川楊 刈れどもまたも生ふといふ 吾跡川楊)

・作者不詳(14-3429)
等保都安布美 伊奈佐保曾江乃 水乎都久思 安礼平多能米弖 安佐麻之物能乎
(遠江[トホトアフミ] 引佐細江[イナサホソエ]のみをつくし 我[]れを頼[タノ]めてあさましものを)

これらの歌からであろう、跡川が流れる細江町では町章を澪標(船の安全航行指標)にされたとか(どこかで見たか思えば大阪市市章も…) 等保都安布美」を「遠江」と置換えられたもので、それはそれとして作者未詳でもあり、柿本人麻呂がずばりそのものの「遠江」書いた歌を紐解いてみようかと思う。

柿本人麻呂*の遠江


この飛鳥の歌人は日本国が成立する直前、激動の7世紀に生きた万葉集が誇る歌人である。山柿の門と言われ額田王やら多言語駆使の暗号めいた、裏の裏の裏を読まなければ意味不明の歌を残した。そんな歌人が精魂込めた歌を暇が取り柄の老いぼれが読み解けるか、なんて臆せずに、やっちゃいます。

サラリと読めば、そんなものか、ネコヤナギはしぶとい木なんだ、なんか自分に掛けてるかな? 程度の印象なのだが・・・。

「吾跡川楊」具体的な固有名詞らしきものに着目。これは短い歌の中に二度も登場する。正確には左記と「余跡川楊」として。通説は「吾」=「余」として、かつ「吾」の意味を表さない。「吾=ア」と読めるので前者は違和感ないが、後者は無理である。人麻呂のこと、意味があって字を変えている筈である。

「吾跡川楊」=「吾・跡・川楊」と区切ってみると、「吾()が跡(アト)した川楊(ネコヤナギ)」となる。「私が残したネコヤナギの木」のような意味にとれる。「余跡川楊」=「余・跡・川楊」として、「余(アマ)る跡(アト)した川楊(ネコヤナギ)」である。その残したネコヤナギが余ってるよ、という意味のようである。

「川楊」=「ネコヤナギ」である必要があったと思われる。川の側にある「楊」ではないのである。彼特有の寓意が感じられるが、他の文字を見ていきたい。

「丸雪降」は「丸雪」=「霰」と解釈されてきた。粉雪状ではなく丸状のから、少しは塊になった雪と考えられた。普通に読めば、そんな感じかなぁ、と読み飛ばすところである。人麻呂の歌は読み飛ばしてはダメなんです…なんて、つい最近教えられた。古代朝鮮語、説文解字なんて、難しすぎる。

情景的には、このまま読んでしまえば良いように思うが、「丸・雪降」と区切ると少し違った風に見えてくる。「丸」=「人」、「雪降」=「雪のように降って来る」=「空の彼方から舞い落ちて集まって来る」と読めるようである。人々が何処ともなくいっぱい集まって来る、という状況を表しているのではなかろうか。

さて、「遠江」である。歌の中に近いという意味を含む言葉はなく、これこそ単独である場所を示しているものであろう。それぞれの主な読みは「遠」=「トオイ、エン、オン(ヲン)」、「江」=「エ、コウ、カウ」である。

この読み下しに取り掛かった時、初めは「遠江」=「オンカウ」と読めるから「オンカウ」=「オンガ」=「遠賀川の河口」…、解けたと思ったが、よく調べると遠賀川という地名は、ずっとずっと後代の名付けとわかった。国交省遠賀川河川事務所のホームページに、元は「岡」という地名から「遠賀」となったという。

「岡」? 河口が「丘」? しかも山がついた丘、岳ではないが…。どうして「オカ」なのか? 上記の逆であった。「オカ」=「オ()()」=「遠江」

当時の地形はまだ河川が運ぶ土砂が少なく、今のような扇状の地形ではなかった。現在の水際ずっと内陸側に後退してたものと思う(地名、伝承から当時の水際を調べてられる記述を拝見、頭が下がります)。それだけに開口部も大きく、川と海とのせめぎ合いを真直に観ることができたのであろう。


「遠江」=「開口部の大きな入江」である。一方の岬ともう一方の岬が遠く離れたところと解釈される。「岬」にも「山」がついているのである。当然ながら「遠賀」=「岡」=「遠江」である。

遠江は何処?


浜名湖というような固有の言葉ではなかった。都から遠いところでもなかった。「二つの飛鳥」の時のような遠近問題でもなかった。固有の地名でないなら、比定のしようがない、その通り。作者が柿本人麻呂を頼りに、この曲者をなんとか味方にして先に進んでみよう。

「飛鳥」=「アスカ」、「遠飛鳥」=「田川郡香春町」、「近飛鳥」=「みやこ町犀川」とした。「飛鳥」は香春岳を中心とした地域指すことを示した。柿本人麻呂は飛鳥の歌人である。彼の「足跡」は飛鳥、その周辺にある。

彼が眺めた「遠江」は行橋市(現在の中心部は当時海面下)を中心とし、遠く離れた岬に挟まれ、周防灘に大きく開いた平野(現在豊前平野もしくは京都平野と呼ばれる)がつくる場所を示すと思われる。<追記>


詠われた歌を再掲すると…、

丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅亦生云 余跡川楊
(霰降り 遠つ淡海の吾跡川楊 刈れどもまたも生ふといふ 吾跡川楊)

「雖苅亦生云」消されてたまるか…なんて何並みならぬ決意と残してきた自らの「跡」に対する愛情を示しているようである。では、

「川楊」は何を寓意したのか?


彼の足跡は誰もが知るである。


ネコヤナギの枝一本一本

を歌に映したのである。

…多くの人々が雪の降るように集まってきた「遠江」、日々時代が移り変わる中で詠ってきた歌、その変化の速さに消えてしまいそうだが、余りある程に詠っていこう…

柿本人麻呂のような天才、その才能だけでは、あれだけ多くの歌は残せなかった。国家として成立する夜明けに前にその中枢を占める大宮人との深い関係がこの天才を衝き動かしたのであろう。

「近」と「遠」の片方の由来が崩れたなら、もう一方も崩れることになる。「遠」が先にあったみたいだから「近」の根拠が揺らぎ始めたことになる。どうなるんでしょうか?

・・・と、まぁ、こんな具合に「飛鳥」と同じく「遠江」も現在とはかけ離れたところに行ってしまった。気にせず先に…「近江」調べてみよう、だが、これが全く状況が異なり、あるはあるはとても纏めるには時間が掛かりそう…と言うわけで、次回に・・・。

2017年2月22日水曜日

二羽の飛鳥は何処に?〔003〕

二羽の飛鳥は何処に?




この説話は第16代仁徳天皇の崩御の年、西暦399年である。次の第17代履中天皇は西暦400年に即位した。「古墳時代」であり、各地に豪族が現れて渡来人達の知識・技術を活用しながら中央集権国家への道を歩みい始めた時期である。この時期「元号」なるものはなく(少なくとも古事記、日本書紀の世界では)、天皇とは表記するものの、実態は地方豪族の域を出ないもので、西暦673年天武天皇即位より始まると思われる。

なんとなく古事記の文面を眺めていると、固有の場所名が散りばめてある。とても原文のみからでは読み取れず、通説の解説文を頼りに地図上にプロットしてみた。なるほどきちんと地名が当て嵌められれて納得しかかるのですが、何故か引っ掛かる。

纏めてみると以下のようである…

・伊邪本和氣命の宮(後の履中天皇御所):伊波禮之若櫻宮→奈良県桜井市
・難波宮(仁徳天皇の御所):難波高津宮→大阪市中央区高津
・倭(脱出先):ワ→奈良大和(ヤマト)
・多遲比怒*(脱出後立寄り場所):タジヒヌ→大阪府羽曳野市
・波邇賦坂*(同上):ハニュウサカ→大阪府羽曳野市野々上
・大坂山口(同上):オオサカヤマグチ→大阪府南河内郡太子町春日と奈良県香芝市穴虫の間の峠(穴虫峠)に至る山口。水齒別命(後の反正天皇)も履中天皇への報告の際にも通る。
・當岐麻道(迂回路):タギマジ→穴虫峠を迂回するルート、不詳。
・石上神宮(脱出後の在所):イソカミノカミノミヤ→奈良県天理市石上神宮

引っ掛かるところは、以下の通り…


①倭への逃亡の途中、燃え盛る難波宮を見ることが書かれているが、羽曳野市の野々上と大阪市高津との距離は約15km。丘陵地帯(標高50m程度か?)で多数の古墳がある。そこから眺めるとしても難波宮の火炎を確認するには遠すぎる。
 馬に揺られて15km(直線距離ではないので20~30kmか?)。目覚めない? いくらでも途中で火災確認できそうな気もするが…。
②大坂山の地名比定はなく、穴虫峠が旧名大坂という故事()に倣っている。大坂山口という地名なら、その山は丘陵程度の山ではなく高山であろう。
「倭」=「大和(ヤマト)」という表記はもっと時代が進んでからのことで、安易に置
 き換えることはできない。また、置換えた理由が「倭」が矮小など好ましくない字
 を連想することであり、めから「大和」であれば、そのまま使ったであろう。中
 国の史書に記載されているところの朝貢する日本を表す漢字そのものである。


倭への逃亡:東方? or 西方?


通説は「倭」=「大和」とし、逃亡は東方であり、一旦南南東に向かい、西から東の方に大坂山を越えて大和の石上神宮に逃げる。途中の地名比定はその通りで、言うことなしの有様である。その場所がこの事件の逃亡先だと古事記は伝えている。「倭」は何処? そこで味方を募り、武器を調達し、応戦できる場所が石上神宮だったのであろう。

上記で示したように波邇賦坂の比定場所に納得がいかない以上、もう少し原文を調べて試ることにした。前記で…(中略)…とした部分の原文は以下の通り…

爾天皇歌曰、多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母母 母知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆 到於波邇賦坂、望見難波宮、其火猶炳。爾天皇亦歌曰、波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理 故、到幸大坂山口之時、遇一女人、其女人白之「持兵人等、多塞茲山。自當岐麻道、廻應越幸。」爾天皇歌曰、淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閇婆 多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流 故、上幸坐石上神宮也。

二番目の歌の読み下し文は…

波邇賦坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家村 妻が家あたり

「かぎろひ」とは、「曙光」で、東の空に見える明け方の太陽を表したものである。燃える火の様子を、太陽の輝き()とを重ねて表現したものと思われる。燃え盛る難波宮が「東方」に見える位置に居る、言い換えれば「波邇賦坂」は難波宮の「西方」にあることを示している。

伊邪本和氣命は『西方』に逃げた・・・


燃えている場所について、妻の家の場所を区別できることが可能な距離である。「波邇賦坂」は羽曳野市(大阪市中央区高津から南南東方向約15km)にはない。距離も併せて直観的な引っ掛かりはこれを示していたようである。

通説の難波宮(高津宮)の西方は大阪湾である。見事に逃亡経由地点が比定されていることより、初めは、西に…なんて言い訳が出来ないようになってしまっている。日本書紀にも同じ事件が記載され、追加の出来事が盛り込まれているが、難波宮、天皇の所在地、越える山(大坂山、飛鳥山、龍田山と名前を変える)以外の固有地名は省略である(「飛鳥」も含めて)

正史「日本書紀」としては、「古事記」が後の世に現れるとは考えてなかった…焚書した筈なんですが・・・。

その根本的な見直しを行わない限り本当の姿を現さないと思われる。それにしても原文の解釈に、あまりに恣意的な側面が見えて、愕然とする。地名の比定から行うことは、地名自体が如何様にも出来るという前提を抜きにしてはならない、当然のことなのだが…。

抗争の舞台は何処に?


この短い説話に二度も登場する「大坂山口」、かつ、通説が最も苦心しなければならなかった場所に焦点を当ててみよう。

北九州(福岡県)、元は豊前国に大坂山(現飯岳山)がある。北九州西部、中部、東部を南北に走る山塊、その東部の山塊に含まれる。多元的古代国家観からその山塊に区切られた国家間の抗争を多くの先輩諸氏が語られているところでもある。

東にある難波宮で寝込みを襲われた伊邪本和氣命、賢臣達に馬に乗せられ「ここは何処ぞ?」なんて暢気なことを言うと、「あれをご覧下され」と、漸く納得して、腸が煮えくり返るほどに激高した。よく見ると、愛しき嫁が焼死するような…歌は「かげろひ」ごとくの彼の心境を表している。

西へ、倭へ。大坂山口に入ってしまうと、もう都は墨江中王のものになってしまう。戻って戦うかどうか、逡巡もあっただろう、賢臣達の一先ず逃げることの進言に後ろめたさを感じながらも従ったのであろう。

・大坂山の西方の場所とは?


峠を越えて麓に降りたところ、現在の福岡県田川郡香春町、田川市の辺りに辿り着く。また、伊邪本和氣命が留まった石上神宮は香春一ノ岳に鎮座していたと思われるが、現在は、全くその面影もなく、削り取られている(良質の結晶性石灰岩の産地、現在の写真でみると無残である)

一ノ岳の南麓に香春神社がある。西暦709年に一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳に各々祭祀されていた神社(辛国息長大姫大目神社、忍骨神社、豊比売神社)を移設したものとある。不思議なことに、そのうちの2社は西暦843年に正一位の神階になり、天理市布留の石上神宮は西暦868年であることが知られている。

この「石上」は「石上布留(イソノカミフル)」であり、「イシガミ」ではない。ならば「五十神降」と表記できるのではなかろうか。「五十神」=「多くの神」が「降」=「寄り集まる」ことを表していると思われる。「フル()」=「触」=「振」も同様である。余談になるが、伊勢神宮はその古名を磯宮(イソノミヤ)という。関係深い宮川水系のイスズガワは五十鈴川と表記される。日本中に数多の神社があるが、「神宮」の名称を許されるのはこの伊勢と石上だけである。これもまた謎めいた話である。

神は人である。香春岳は石灰石もさることながら、銅の産地(東大寺大仏)であり、後には近くは石炭であり、資源が豊富であれば、神も人も寄り集まって来る、そして去って行く、ということであろう。自然の営みに任せるなら許せるが、人為的であってはならないものであろう。神はもう降ってこないのだから。

・大坂山の東方の場所とは?


ほとんど手掛かりのない難波宮である。①筑後川中流域(久留米市辺りか?)②北九州市小倉(足立山山麓?)③行橋市入角辺り?などが検索に掛かる。近畿の難波宮とは大違いである(複数の天皇の御所による混乱があったみたいだが)。かの有名な仁徳天皇の御所と思われるのが、このありさまである。地名比定を試みられた諸先輩方の苦労が偲ばれる。ましてや、九州の難波宮など、トンデモない話のようである。

でも、やっちゃいます…。

東方を頼りに地図を眺めて御所ヶ谷神籠石が残る山城と御所ヶ岳の北麓辺りに難波宮を置いてみた。豊前平野、さらにその先に周防灘を一望できる戦略的地点である。民の村はその豊前平野に広がり、天皇が炊煙を見たところ、とできそうである。

脱出した伊邪本和氣命一行は、今は県道242号線が通る峠を越えて(「多遲比怒」を通ってこの峠に至る道が「波邇賦坂」かと思われる。埴土=陶土の出る場所か?)、現在の犀川大坂にある山口に向かったと思われる。この峠の名称は全く知る由もないが、神籠石山城の麓とは直線距離で西方約1.5km、麓に広がる家々、各村をつぶさに目視観察できる位置と距離である。そう、ここで「かぎろひ」を見て、心中かぎろひたのだ。

御所ヶ岳南面を降りて、現在の犀川大坂の山口から県道204号線に沿いながら大坂山越を果たす(古代官道:京都郡~田川郡の伝路)。現在の香春町、香春一ノ岳の南麓に到着する。三男坊水齒別命も同じルートを行き来したのであろう。曾婆訶理の魂と共に。

やっちゃいました。名もなきピークを名もなきピークハンターが目指す距離と方向を頭に刻んで、グーグルマップと国土地理院地図の縮小/拡大を際限なく繰り返して、足跡の欠片も見えない山道を辿り、そして行き着いたところ、香春一ノ岳、である。

参考までに、地図を・・・。


*
こんな風に纏めてみると、一説話についてのことながら、古代天皇の御所についての通説とは、く懸け離れたことになってしまった。同時に、致命的な矛盾を含む物語を、それを曝したままで放置されてきたのかと思う。日本人とは?という問いかけに対して、そしてこれからの日本人とは?という考えなければならない重要な問いかけに、知識ある者達は無口である。

近飛鳥と遠飛鳥、それは・・・


再度原文を示すと…、

是以、詔曾婆訶理「今日留此間而、先給大臣位、明日上幸。」留其山口、卽造假宮、忽爲豐樂、乃於其隼人賜大臣位、百官令拜、隼人歡喜、以爲遂志。爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。

「明日」に繋がる「上幸」という文字の意味、なんとなく「上(ノボリ)()く」と読んでしまいそうなのだが、天皇の行為ならば意味は通じるかも・・・。

なんと解釈するか、重要なポイント。最初の「上幸」は、文脈から、「幸(サチ、シアワセ)を上()げる」、次の「上幸」は「幸(狩りの獲物、エモノ)を上(サシア)げる」と読み下せる。いかにも褒めて殺すという過程を具体的に示していると思われる。

祓禊」は「穢れを清めて日常に戻る」儀式で、過去の忌まわしい出来事を時空的に遠ざける意味と解釈される。穿った見方をすれば勝者にとっては都合の良い儀式でもある。全ての悪行を帳消しにする手段である。歴史の中に埋もれた「禊」の対象を浮かび上がらせることも必要なことかと思われる。

地図(国土地理院)を眺めてると、香春一ノ岳の南西麓で金辺川と合流する御祓川(ミソギガワ)なんていう川が香春町を流れている。その謂れなど全く不明だが、「御」がついてるから高貴な方が禊されたか?・・・。逃亡に際して大坂山口で地元?の娘に迂回路「當岐麻道」を教えて貰った。北側は大坂山だから南側の山道を行くしかなく、すると、この御祓川沿いに出る。後世の出来事に由来するのかもしれないが…。

   「近飛鳥」:大坂山東側「みやこ町犀川」(現在の地名)   
「遠飛鳥」:香春一ノ岳麓「田川郡香春町」(現在の地名)

と推定される。

「犀川(現在名今川、何故変えた?)」は英彦山麓を源流に持ち平成筑豊田川線(平成筑豊鉄道)の傍を走り、行橋市市役所の脇を通って周防灘に注ぐ。昭和の時代、ゴールドならぬコールラッシュを見てきたのであろう。万葉歌にも登場する。豊かな自然の恵みに加え、時には穏やかに時には荒々しく、その姿に詠む人が己の姿を映し出したことであろう。


本当に短い説話、地名が記載されてれば比定は容易かと思ったのが、マチガイ。奈落(奈良苦)に落ちた感じである。知っていたこととはいえ、古事記と日本書紀の違い、トンデモない正史、日本書紀。他人の書いた本をトンデモ本にするくらいなら(権威ある大学教授ら)、真っ先にするべきことは、トンデモ日本書紀と叫ぶべきだろう。そうでないなら、「改定日本書紀」を出版すべきだろう。これこそトンデモ改定本か。

奈良の大和に古事記の地名を移し、あるいは作り、説話の通りとする。混乱が発生。当然様々な意見が出てくるのだが、論議を尽くす気概と忍耐に欠如する傾向が強い。邪馬台国論しかり、である。今更「大和」をひっくり返しても如何ともしがたい、ということなのであろう。

今回古田武彦氏及び関係の方々の書物、ネット公開の記述を読み返した。70年安保の全学ストで暇を持て余した貧乏学生が手にした「邪馬台国はなかった」その三部作を読み、T. Kuhnの「科学革命の構造」併せ読み、武谷三男氏の『三段階論』とどう繋げるのか、フラフラしていたことを思い出した。

ともかく新鮮であった。幾星霜後の再会。一昨年に逝去されたことも今回の一つの切っ掛けではあるが、その世界は悲惨なことに…奈落であった。幾人かの論考(室伏志畔氏ら)に救われたが、未だ月読みの時である。また、新鮮な感動を期待して良いのであろうか?

…と、まぁ、通説からするとお話にならないものかも…こんな話になってしまいましたが、暇な老いぼれの戯言と読み飛ばして頂ければ幸いです。

考える筋道が出来たので、たっぷり時間をかけて、とは言え、そんなに時間ないが、「妄想」を膨らませていこうかと・・・。


拙文、最後までお読み頂き、感謝。

…修正して再掲。こちらを参照願う。難波高津宮の場所についてはこちら

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。

<追記>

(古事記新釈:履中天皇・反正天皇を参照)

・2017.06.03
 「多遲比怒」=「多治比怒」=「多くの川を寄集めて整えられている野」
 と解釈された。「治」=「川をおさめる」を意味する(説文解字)。

 2018.02.19
 修正し忘れ。


多遲比怒=多(田)|遲(治水する)|比(並べる)|怒(野)

…「田を治水して並べた野」と解釈する。
 
 当該の場所は「福岡県京都郡みやこ町勝山大久保」(勝山御所カントリークラブの近隣)
 上記と矛盾しない結果である。参考までに現在の地図を示す。



・2017.06.06
 逃亡経路代替案の例示 及び 近飛鳥と遠飛鳥


みやこ町犀川笹原を経由するルート。「沙沙那美遅」があったとの記述による。
(笹が豊かな美しい道)


・2017.06.17⇒2017.12.06
「波邇賦坂」=「埴生坂」で間違いないであろうが、比定の根拠を全く見出せなかった。垂仁天皇紀の記述から、その裏付けが得られた。山代大國之淵之女・苅羽田刀辨と弟苅羽田刀辨を娶るところである。山代大國」は上図「沙沙那美遅」の南側に位置する(現在の福岡県京都郡みやこ町犀川大村)。

比売(刀辨)達の名前にある「苅羽田」=「苅(草木を刈取った)・羽田(埴田)」と解釈される。「埴生坂」はその「埴田」に向かう坂と推定される。近接しており、坂そのものが「埴生」にあったと考えることもできる。上記「多遲比怒」と「波邇賦坂」の傍証が得られ、上記ルートが確からしくなったと思われる。


・2017.11.25
伊邪本和氣命と水齒別命の行程及び近・遠飛鳥の場所。ほぼファイナル版。




・2017.11.26
「波邇賦坂」この意味するところが解けた。詳細はこちら


波邇賦坂

「多治比之柴垣宮」の在処が解けたからこそ辿り着いた納得の解釈、そんな大袈裟なものではないが、本当のところ、かもである。「波邇」=「波(端)|邇(近隣)」を意味することまでは容易であったが、何?の端、近隣かが不詳であった。これでは解けない・・・「何?」は「多治比之柴垣宮」と気付いた。また…、

賦=貝(財)+武(武器)

…財(必要なもの)と武器を持って戦いに行く時を表した文字と解釈される。古事記のこの段の徹底した「説文解字」に準じると…ならば「波邇賦坂」は…、

波邇賦坂=柴垣宮の傍近くで戦闘に向かう時の坂

と紐解くことができる。勿論この時は真面に戦う気持ちであった筈で「弾碁」戦法に気付くのはこの坂を下りてからである。曙光を見て愕然としメラメラと湧き上がって来る怒りを抑えて大坂山口で出会った女人の言葉で初めて気付く戦法であったと古事記は記述する。

全てが生き生きと蘇って来る。そのドラマチックな記述を読取れなかったのを後代の識者の所為にばかりできないであろう。漢字というものの原点、というか使う漢字を自由に分解して、古代であっても、通常の解釈に拘泥することなく文字が伝える意味を作り上げていく、驚嘆の文字使いである。間違いなく…、

古事記は世界に誇るべき史書

であることを確信した。

2017.12.06
「苅羽田」の解釈を修正。「苅羽+田」として、「羽の形状をした地を刈(切)り取った田」に変更した。詳細はこちらを参照願う。上記「波邇賦坂」も「埴田に向かう」という意味ではないと解釈する。



二羽の飛鳥は何処に?〔003〕

二羽の飛鳥は何処に?




この説話は第16代仁徳天皇の崩御の年、西暦399年である。次の第17代履中天皇は西暦400年に即位した。「古墳時代」であり、各地に豪族が現れて渡来人達の知識・技術を活用しながら中央集権国家への道を歩みい始めた時期である。この時期「元号」なるものはなく(少なくとも古事記、日本書紀の世界では)、天皇とは表記するものの、実態は地方豪族の域を出ないもので、西暦673年天武天皇即位より始まると思われる。

なんとなく古事記の文面を眺めていると、固有の場所名が散りばめてある。とても原文のみからでは読み取れず、通説の解説文を頼りに地図上にプロットしてみた。なるほどきちんと地名が当て嵌められれて納得しかかるのですが、何故か引っ掛かる。

纏めてみると以下のようである…

・伊邪本和氣命の宮(後の履中天皇御所):伊波禮之若櫻宮→奈良県桜井市
・難波宮(仁徳天皇の御所):難波高津宮→大阪市中央区高津
・倭(脱出先):ワ→奈良大和(ヤマト)
・多遲比怒*(脱出後立寄り場所):タジヒヌ→大阪府羽曳野市
・波邇賦坂*(同上):ハニュウサカ→大阪府羽曳野市野々上
・大坂山口(同上):オオサカヤマグチ→大阪府南河内郡太子町春日と奈良県香芝市穴虫の間の峠(穴虫峠)に至る山口。水齒別命(後の反正天皇)も履中天皇への報告の際にも通る。
・當岐麻道(迂回路):タギマジ→穴虫峠を迂回するルート、不詳。
・石上神宮(脱出後の在所):イソカミノカミノミヤ→奈良県天理市石上神宮

引っ掛かるところは、以下の通り…


①倭への逃亡の途中、燃え盛る難波宮を見ることが書かれているが、羽曳野市の野々上と大阪市高津との距離は約15km。丘陵地帯(標高50m程度か?)で多数の古墳がある。そこから眺めるとしても難波宮の火炎を確認するには遠すぎる。
 馬に揺られて15km(直線距離ではないので20~30kmか?)。目覚めない? いくらでも途中で火災確認できそうな気もするが…。
②大坂山の地名比定はなく、穴虫峠が旧名大坂という故事()に倣っている。大坂山口という地名なら、その山は丘陵程度の山ではなく高山であろう。
「倭」=「大和(ヤマト)」という表記はもっと時代が進んでからのことで、安易に置
 き換えることはできない。また、置換えた理由が「倭」が矮小など好ましくない字
 を連想することであり、めから「大和」であれば、そのまま使ったであろう。中
 国の史書に記載されているところの朝貢する日本を表す漢字そのものである。


倭への逃亡:東方? or 西方?


通説は「倭」=「大和」とし、逃亡は東方であり、一旦南南東に向かい、西から東の方に大坂山を越えて大和の石上神宮に逃げる。途中の地名比定はその通りで、言うことなしの有様である。その場所がこの事件の逃亡先だと古事記は伝えている。「倭」は何処? そこで味方を募り、武器を調達し、応戦できる場所が石上神宮だったのであろう。

上記で示したように波邇賦坂の比定場所に納得がいかない以上、もう少し原文を調べて試ることにした。前記で…(中略)…とした部分の原文は以下の通り…

爾天皇歌曰、多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母母 母知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆 到於波邇賦坂、望見難波宮、其火猶炳。爾天皇亦歌曰、波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理 故、到幸大坂山口之時、遇一女人、其女人白之「持兵人等、多塞茲山。自當岐麻道、廻應越幸。」爾天皇歌曰、淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閇婆 多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流 故、上幸坐石上神宮也。

二番目の歌の読み下し文は…

波邇賦坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家村 妻が家あたり

「かぎろひ」とは、「曙光」で、東の空に見える明け方の太陽を表したものである。燃える火の様子を、太陽の輝き()とを重ねて表現したものと思われる。燃え盛る難波宮が「東方」に見える位置に居る、言い換えれば「波邇賦坂」は難波宮の「西方」にあることを示している。

伊邪本和氣命は『西方』に逃げた・・・


燃えている場所について、妻の家の場所を区別できることが可能な距離である。「波邇賦坂」は羽曳野市(大阪市中央区高津から南南東方向約15km)にはない。距離も併せて直観的な引っ掛かりはこれを示していたようである。

通説の難波宮(高津宮)の西方は大阪湾である。見事に逃亡経由地点が比定されていることより、初めは、西に…なんて言い訳が出来ないようになってしまっている。日本書紀にも同じ事件が記載され、追加の出来事が盛り込まれているが、難波宮、天皇の所在地、越える山(大坂山、飛鳥山、龍田山と名前を変える)以外の固有地名は省略である(「飛鳥」も含めて)

正史「日本書紀」としては、「古事記」が後の世に現れるとは考えてなかった…焚書した筈なんですが・・・。

その根本的な見直しを行わない限り本当の姿を現さないと思われる。それにしても原文の解釈に、あまりに恣意的な側面が見えて、愕然とする。地名の比定から行うことは、地名自体が如何様にも出来るという前提を抜きにしてはならない、当然のことなのだが…。

抗争の舞台は何処に?


この短い説話に二度も登場する「大坂山口」、かつ、通説が最も苦心しなければならなかった場所に焦点を当ててみよう。

北九州(福岡県)、元は豊前国に大坂山(現飯岳山)がある。北九州西部、中部、東部を南北に走る山塊、その東部の山塊に含まれる。多元的古代国家観からその山塊に区切られた国家間の抗争を多くの先輩諸氏が語られているところでもある。

東にある難波宮で寝込みを襲われた伊邪本和氣命、賢臣達に馬に乗せられ「ここは何処ぞ?」なんて暢気なことを言うと、「あれをご覧下され」と、漸く納得して、腸が煮えくり返るほどに激高した。よく見ると、愛しき嫁が焼死するような…歌は「かげろひ」ごとくの彼の心境を表している。

西へ、倭へ。大坂山口に入ってしまうと、もう都は墨江中王のものになってしまう。戻って戦うかどうか、逡巡もあっただろう、賢臣達の一先ず逃げることの進言に後ろめたさを感じながらも従ったのであろう。

・大坂山の西方の場所とは?


峠を越えて麓に降りたところ、現在の福岡県田川郡香春町、田川市の辺りに辿り着く。また、伊邪本和氣命が留まった石上神宮は香春一ノ岳に鎮座していたと思われるが、現在は、全くその面影もなく、削り取られている(良質の結晶性石灰岩の産地、現在の写真でみると無残である)

一ノ岳の南麓に香春神社がある。西暦709年に一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳に各々祭祀されていた神社(辛国息長大姫大目神社、忍骨神社、豊比売神社)を移設したものとある。不思議なことに、そのうちの2社は西暦843年に正一位の神階になり、天理市布留の石上神宮は西暦868年であることが知られている。

この「石上」は「石上布留(イソノカミフル)」であり、「イシガミ」ではない。ならば「五十神降」と表記できるのではなかろうか。「五十神」=「多くの神」が「降」=「寄り集まる」ことを表していると思われる。「フル()」=「触」=「振」も同様である。余談になるが、伊勢神宮はその古名を磯宮(イソノミヤ)という。関係深い宮川水系のイスズガワは五十鈴川と表記される。日本中に数多の神社があるが、「神宮」の名称を許されるのはこの伊勢と石上だけである。これもまた謎めいた話である。

神は人である。香春岳は石灰石もさることながら、銅の産地(東大寺大仏)であり、後には近くは石炭であり、資源が豊富であれば、神も人も寄り集まって来る、そして去って行く、ということであろう。自然の営みに任せるなら許せるが、人為的であってはならないものであろう。神はもう降ってこないのだから。

・大坂山の東方の場所とは?


ほとんど手掛かりのない難波宮である。①筑後川中流域(久留米市辺りか?)②北九州市小倉(足立山山麓?)③行橋市入角辺り?などが検索に掛かる。近畿の難波宮とは大違いである(複数の天皇の御所による混乱があったみたいだが)。かの有名な仁徳天皇の御所と思われるのが、このありさまである。地名比定を試みられた諸先輩方の苦労が偲ばれる。ましてや、九州の難波宮など、トンデモない話のようである。

でも、やっちゃいます…。

東方を頼りに地図を眺めて御所ヶ谷神籠石が残る山城と御所ヶ岳の北麓辺りに難波宮を置いてみた。豊前平野、さらにその先に周防灘を一望できる戦略的地点である。民の村はその豊前平野に広がり、天皇が炊煙を見たところ、とできそうである。

脱出した伊邪本和氣命一行は、今は県道242号線が通る峠を越えて(「多遲比怒」を通ってこの峠に至る道が「波邇賦坂」かと思われる。埴土=陶土の出る場所か?)、現在の犀川大坂にある山口に向かったと思われる。この峠の名称は全く知る由もないが、神籠石山城の麓とは直線距離で西方約1.5km、麓に広がる家々、各村をつぶさに目視観察できる位置と距離である。そう、ここで「かぎろひ」を見て、心中かぎろひたのだ。

御所ヶ岳南面を降りて、現在の犀川大坂の山口から県道204号線に沿いながら大坂山越を果たす(古代官道:京都郡~田川郡の伝路)。現在の香春町、香春一ノ岳の南麓に到着する。三男坊水齒別命も同じルートを行き来したのであろう。曾婆訶理の魂と共に。

やっちゃいました。名もなきピークを名もなきピークハンターが目指す距離と方向を頭に刻んで、グーグルマップと国土地理院地図の縮小/拡大を際限なく繰り返して、足跡の欠片も見えない山道を辿り、そして行き着いたところ、香春一ノ岳、である。

参考までに、地図を・・・。


*
こんな風に纏めてみると、一説話についてのことながら、古代天皇の御所についての通説とは、く懸け離れたことになってしまった。同時に、致命的な矛盾を含む物語を、それを曝したままで放置されてきたのかと思う。日本人とは?という問いかけに対して、そしてこれからの日本人とは?という考えなければならない重要な問いかけに、知識ある者達は無口である。

近飛鳥と遠飛鳥、それは・・・


再度原文を示すと…、

是以、詔曾婆訶理「今日留此間而、先給大臣位、明日上幸。」留其山口、卽造假宮、忽爲豐樂、乃於其隼人賜大臣位、百官令拜、隼人歡喜、以爲遂志。爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。

「明日」に繋がる「上幸」という文字の意味、なんとなく「上(ノボリ)()く」と読んでしまいそうなのだが、天皇の行為ならば意味は通じるかも・・・。

なんと解釈するか、重要なポイント。最初の「上幸」は、文脈から、「幸(サチ、シアワセ)を上()げる」、次の「上幸」は「幸(狩りの獲物、エモノ)を上(サシア)げる」と読み下せる。いかにも褒めて殺すという過程を具体的に示していると思われる。

祓禊」は「穢れを清めて日常に戻る」儀式で、過去の忌まわしい出来事を時空的に遠ざける意味と解釈される。穿った見方をすれば勝者にとっては都合の良い儀式でもある。全ての悪行を帳消しにする手段である。歴史の中に埋もれた「禊」の対象を浮かび上がらせることも必要なことかと思われる。

地図(国土地理院)を眺めてると、香春一ノ岳の南西麓で金辺川と合流する御祓川(ミソギガワ)なんていう川が香春町を流れている。その謂れなど全く不明だが、「御」がついてるから高貴な方が禊されたか?・・・。逃亡に際して大坂山口で地元?の娘に迂回路「當岐麻道」を教えて貰った。北側は大坂山だから南側の山道を行くしかなく、すると、この御祓川沿いに出る。後世の出来事に由来するのかもしれないが…。

   「近飛鳥」:大坂山東側「みやこ町犀川」(現在の地名)   
「遠飛鳥」:香春一ノ岳麓「田川郡香春町」(現在の地名)

と推定される。

「犀川(現在名今川、何故変えた?)」は英彦山麓を源流に持ち平成筑豊田川線(平成筑豊鉄道)の傍を走り、行橋市市役所の脇を通って周防灘に注ぐ。昭和の時代、ゴールドならぬコールラッシュを見てきたのであろう。万葉歌にも登場する。豊かな自然の恵みに加え、時には穏やかに時には荒々しく、その姿に詠む人が己の姿を映し出したことであろう。


本当に短い説話、地名が記載されてれば比定は容易かと思ったのが、マチガイ。奈落(奈良苦)に落ちた感じである。知っていたこととはいえ、古事記と日本書紀の違い、トンデモない正史、日本書紀。他人の書いた本をトンデモ本にするくらいなら(権威ある大学教授ら)、真っ先にするべきことは、トンデモ日本書紀と叫ぶべきだろう。そうでないなら、「改定日本書紀」を出版すべきだろう。これこそトンデモ改定本か。

奈良の大和に古事記の地名を移し、あるいは作り、説話の通りとする。混乱が発生。当然様々な意見が出てくるのだが、論議を尽くす気概と忍耐に欠如する傾向が強い。邪馬台国論しかり、である。今更「大和」をひっくり返しても如何ともしがたい、ということなのであろう。

今回古田武彦氏及び関係の方々の書物、ネット公開の記述を読み返した。70年安保の全学ストで暇を持て余した貧乏学生が手にした「邪馬台国はなかった」その三部作を読み、T. Kuhnの「科学革命の構造」併せ読み、武谷三男氏の『三段階論』とどう繋げるのか、フラフラしていたことを思い出した。

ともかく新鮮であった。幾星霜後の再会。一昨年に逝去されたことも今回の一つの切っ掛けではあるが、その世界は悲惨なことに…奈落であった。幾人かの論考(室伏志畔氏ら)に救われたが、未だ月読みの時である。また、新鮮な感動を期待して良いのであろうか?

…と、まぁ、通説からするとお話にならないものかも…こんな話になってしまいましたが、暇な老いぼれの戯言と読み飛ばして頂ければ幸いです。

考える筋道が出来たので、たっぷり時間をかけて、とは言え、そんなに時間ないが、「妄想」を膨らませていこうかと・・・。


拙文、最後までお読み頂き、感謝。

…修正して再掲。こちらを参照願う。難波高津宮の場所についてはこちら

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。

<追記>

(古事記新釈:履中天皇・反正天皇を参照)

・2017.06.03
 「多遲比怒」=「多治比怒」=「多くの川を寄集めて整えられている野」
 と解釈された。「治」=「川をおさめる」を意味する(説文解字)。

 2018.02.19
 修正し忘れ。


多遲比怒=多(田)|遲(治水する)|比(並べる)|怒(野)

…「田を治水して並べた野」と解釈する。
 
 当該の場所は「福岡県京都郡みやこ町勝山大久保」(勝山御所カントリークラブの近隣)
 上記と矛盾しない結果である。参考までに現在の地図を示す。



・2017.06.06
 逃亡経路代替案の例示 及び 近飛鳥と遠飛鳥


みやこ町犀川笹原を経由するルート。「沙沙那美遅」があったとの記述による。
(笹が豊かな美しい道)


・2017.06.17⇒2017.12.06
「波邇賦坂」=「埴生坂」で間違いないであろうが、比定の根拠を全く見出せなかった。垂仁天皇紀の記述から、その裏付けが得られた。山代大國之淵之女・苅羽田刀辨と弟苅羽田刀辨を娶るところである。山代大國」は上図「沙沙那美遅」の南側に位置する(現在の福岡県京都郡みやこ町犀川大村)。

比売(刀辨)達の名前にある「苅羽田」=「苅(草木を刈取った)・羽田(埴田)」と解釈される。「埴生坂」はその「埴田」に向かう坂と推定される。近接しており、坂そのものが「埴生」にあったと考えることもできる。上記「多遲比怒」と「波邇賦坂」の傍証が得られ、上記ルートが確からしくなったと思われる。


・2017.11.25
伊邪本和氣命と水齒別命の行程及び近・遠飛鳥の場所。ほぼファイナル版。




・2017.11.26
「波邇賦坂」この意味するところが解けた。詳細はこちら


波邇賦坂

「多治比之柴垣宮」の在処が解けたからこそ辿り着いた納得の解釈、そんな大袈裟なものではないが、本当のところ、かもである。「波邇」=「波(端)|邇(近隣)」を意味することまでは容易であったが、何?の端、近隣かが不詳であった。これでは解けない・・・「何?」は「多治比之柴垣宮」と気付いた。また…、

賦=貝(財)+武(武器)

…財(必要なもの)と武器を持って戦いに行く時を表した文字と解釈される。古事記のこの段の徹底した「説文解字」に準じると…ならば「波邇賦坂」は…、

波邇賦坂=柴垣宮の傍近くで戦闘に向かう時の坂

と紐解くことができる。勿論この時は真面に戦う気持ちであった筈で「弾碁」戦法に気付くのはこの坂を下りてからである。曙光を見て愕然としメラメラと湧き上がって来る怒りを抑えて大坂山口で出会った女人の言葉で初めて気付く戦法であったと古事記は記述する。

全てが生き生きと蘇って来る。そのドラマチックな記述を読取れなかったのを後代の識者の所為にばかりできないであろう。漢字というものの原点、というか使う漢字を自由に分解して、古代であっても、通常の解釈に拘泥することなく文字が伝える意味を作り上げていく、驚嘆の文字使いである。間違いなく…、

古事記は世界に誇るべき史書

であることを確信した。

2017.12.06
「苅羽田」の解釈を修正。「苅羽+田」として、「羽の形状をした地を刈(切)り取った田」に変更した。詳細はこちらを参照願う。上記「波邇賦坂」も「埴田に向かう」という意味ではないと解釈する。