2017年2月27日月曜日

近江とは?〔005〕

近江とは?

先にも述べたように『日本書紀』中には「近江」の文字が溢れんばかりに散りばめられている。これをあらためて検索結果として示すと下記の表のようになる。数字は各々出現回数を示している。

検索語
古事記
日本書紀
近江
0   
80   
遠江
0   
4   
淡海
18   
2   


日本書紀で「淡海」は2回出現するが、これらは前後の文面から筑紫の出来事を記載したことが明白であり、またもう一つは人名と思われるケースであり、「近江」とは表記出来ない思われる。日本書紀における「淡海」の出現回数は「実質0」である。「遠江」は日本書紀に4回出現するが、「遠江国」という表記であり、これについても極めて興味あることだが、また日を改めて纏めてみる。

「近江」について、この検索結果からわかるように古事記と日本書紀は真逆の表記であり、全体の文字数が異なるものであり、絶対数を比較することは不可であるが、日本書紀は「淡海」を「近江」と表記し、かつ「近江」をことさら強調していることは明らかであろう。

「近江」の由来を考察する対象は、またもや万葉集に求めざるを得ないようである。原文及び通説の訳文がついた万葉集のデータベース(山口大学吉村誠教授提供の万葉集テキストデータ、エクセルファイル)を用いて検索した。出現回数は22回、そのうち原文に「近江」とあるのは4回であり、残り18回は原文「淡海」で訳文中に「近江」となっているものである。

この22の歌を一瞥して「淡海」もしくは「近江」の所在地に関わるものを抽出すると、1歌のみであった。なんとまたもや柿本人麻呂の歌であった。天才で曲者の人麻呂君を頼りに・・・である。歌は…

万葉集(巻一ノ二十九) 柿本人麻呂作


玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 阿礼座師 神之盡 樛木乃 弥継嗣尓
天下 所知食之乎 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超 何方 御念食可
天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓
天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云
春草之 茂生有 霞立 春日之霧流 百礒城之 大宮處 見者悲毛

(玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え そらみつ 大和を置き いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも)

歌意の概略は幾代も続いてきた畝傍山の麓を離れて行ったことを嘆いたものだが、訪ねて行ったらなんと無残な姿に・・・。

背景に途轍もない出来事あって、それに翻弄された天皇の姿を表しているのであろうが、それについては語らない。読むものが思い描くことなのであろう。

難解な枕詞が散りばめられたこの歌であるが、淡海国ひいては大津宮の所在を突き止めるには具体的である。当然ながら奈良の大和から北上(地図上は北北東)し大津に至る道筋は比定されており、「淡海」=「近江」である。何の問題もなし、と言える状況であるが、しかしそうであろうか・・・。

大津は西方、南方を比良山塊に取り囲まれた場所である。北上すればこれに突き当たる。この山越えをすることなくして大津には辿り着かない。原文は「平山」を越えれば「淡海」国になる。省略した? 川楊のように決して消し去れてしまうことのない「歌」を残すことに命懸けの人麻呂君がする行為ではない。また、そう推論する不遜な態度は許されるものではない。

「淡海」=「近江」これは「淡海」=「淡水」=「淡水」湖=「近い淡水」湖=「近江」 どうして「江」なのか? 誰しも不思議と思うところであり、やむなく「遠江」=「浜名湖(淡水湖?)」を持ち出してくるしかない有様である。

「江」は元々「大きな川」であり、大きな川あるいは多くの川が海に注ぐ場所(入江)を意味する。「江」=「湖(大きな池)」は暴論である。漢字を使う人として恥ずべき所作である。

「淡海」=「淡の海」=「泡の海」とする以外に解はない。現在もある「淡路島」これが当然の読み方であろう。西井健一郎氏の指摘の通りである。

柿本人麻呂*は足跡を何処に付けたか?


前記した福岡県田川郡香春町を中心とした地図をみる。東西南方を山で囲まれ、彦山川流域が北方に空いている。その北方は東側の山塊の麓であり、いくつかの丘陵の地形を示している。盆地によく似た地形である。彼は通説と同じく北方にある丘陵を越えて「淡海」国に向かったのである。

丘陵の途切れるところ、現在の遠賀川との合流するところを過ぎるとそこが「淡海」国だと言っている。その場所は海の流れと川の流れがぶつかり合い、川は氾濫し流れを変えて蛇行し、干満差を大きくし、海面は正に泡立つ状況であろう。現在の北九州市の古の地名を淡海国と表してなんの不思議も感じない。



淡海国の大津宮とは?


人麻呂はこの大津宮に坐した天皇について何も語らない。「淡海」を「近江」と置換えた日本書紀は饒舌に語る。それは天智天皇から天武天皇までの間に起った出来事を中心として。また額田王も参戦する。まだまだ万葉集の読み込みが不足していると感じるが、彼らの歌の真意は、もっと多くのことを語っているような気もする、道半ばである。

この大津宮に坐した天皇は天智天皇ということなる。日本書紀中の「近江」を「淡海」に置換えると、天智天皇は遠賀川河口付近の小高い山に居たこととなる。何故、そこまで拘らなければならなかったのか? それは大和朝廷成立の根源に関わることだから、と思われる。

飛鳥を去った天智天皇に対する人麻呂の思いは痛切である。難解な枕詞(玉手次、天尓満、青丹吉)を短い歌の中に三つも入れている。これら三つが並ぶと、まるで倭は大和ではない、と語っているようである。天皇を褒めちぎる歌を作る生業だから、天皇を褒めない文言は抹消されることをわかっていたような気もする。危ない言葉は難解にすることである。

彼が残した「川楊」その一つ一つの枝を丁寧に見て行くことこそ後代の人々の努めなのかもしれない。戦後70年余り過ぎて豊かな平和を享受する時代こそ読み解く機会なのかと思う。時代が変われば根こそぎ刈り取られてしまうかもしれない。

近江 と 遠江


近い湖、遠い湖と言われてきたこの二つの「江」について考察した。結果としては…

・「遠江」は固有の名詞ではなく、作者の周辺から一つの案を作成してみた。決して「江」という文字からも浜名湖のような場所を示されず、また「遠」はその「江」の大きさを示し、都からの距離のことではないことも明らかになった。

・「遠」があっての「近」の論法は全くあり得ないこともわかった。既に幾人かの人が指摘している通り、「淡」は「泡」と読むことが妥当と判断された。

・柿本人麻呂の歌を頼りに「淡海」国、即ち天智天皇が坐した大津宮の場所は遠賀川河口付近とした。

・日本書紀という書物が如何に固有の名詞を置換え、操作をしたかを数字でもって示すことができた。書紀が示す置換えた部分と事実のままを書き記した部分の見極めの可能性を示せた。

・柿本人麻呂という天才で曲者の歌、その心情を伺いしれた、と同時に彼の出自、消息不明なことの根源を感じることができた。刈り取られてしまった歌、知るすべもないが、読んでみたくなる気分である。

「近江」という言葉は大和朝廷成立の根源に関わることが読み取れた。大変な課題であると思う。白村江での敗戦後から大和朝廷が成立する約40年間、倭には、大和には何が起こっていたのであろうか。最も隠し通された歴史になるのであろう。最初の実在感ある天武天皇は如何に処したのか、天智天皇と額田王を取り合ってばかりではないであろう。今のところ切り口が見えない。

…と、まぁ、こんな具合であります。

柿本人麻呂*
「柿本」の由来は何であろうか?…ほぼ間違いなく現在地名「柿下」であろう。「柿」は消すに消せない重要なキーワードなのであろう。


図は別表示で拡大願いたいが、「柿」=「木+市」=「山稜が市」尾根と山稜が作る地形が「市」を模していると見做したのであろう。

柿本(下)=山稜が作る市の字形の麓


現在に繋がる地名由来であるが、果たして納得頂けるであろうか・・・。