2017年2月24日金曜日

近江と遠江〔004〕

近江 と 遠江


ネットを徘徊していると、また「近」「遠」問題が・・・。

そんな訳で「近江」と「遠江」の遠近問題に徘徊を絞って探ってみると、これもまた大和を中心として距離が近い、遠いで場所決めされていることがわかった。また、「淡海」の名前の由来にも繋がっている。既に引っ掛かりが発生、更に徘徊を絞って…。


読みの由来


「近」はそのまま読めば「チカ(い)、キン(コン)」、「遠」は「トオ(い)、エン(オン)」で、「近江」=「チカ、キン(コン)コウ」、「遠江」=「トオ、エン(オン)コウ」である。

由来を調べると、以下のような記述があった。

近江は、和名抄の訓読みが知加津阿不三(ちかつあふみ)で、近淡海(ちかつあふみ)二字としたもの。近淡海は、遠淡海(遠江、浜名湖)に対しての語であって、都より距離が近いため。
・琵琶湖は「大湖(おうみ)」、浜名湖は「大水(おうみ)」と呼ばれていた。改名する時に距離の遠近を残して「近江」、「遠江」とした。

どちらかと言えば後者の方が素直な感じだが、「江」はどこから?、である。間違いなく、奈落に落ちそうな予感がするので調べ方を変更。

和名抄の記述、「遠江」に対しての「近江」の記述に引っ掛かる。「近江」名付けられる前に「遠江」があることを示している。今でこそ遠江国といえば浜松を中心とした広範囲な地域を思い浮かべ、存在感ある地域を形成しているが、飛鳥時代のことを思うと、これまた不思議である。

遠江の由来


ネットで検索すると、万葉集の二首に「遠江」の由来があるとわかった。

・柿本人麻呂(7-1293)
丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅亦生云 余跡川楊
(霰降り 遠つ淡海の吾跡川楊 刈れどもまたも生ふといふ 吾跡川楊)

・作者不詳(14-3429)
等保都安布美 伊奈佐保曾江乃 水乎都久思 安礼平多能米弖 安佐麻之物能乎
(遠江[トホトアフミ] 引佐細江[イナサホソエ]のみをつくし 我[]れを頼[タノ]めてあさましものを)

これらの歌からであろう、跡川が流れる細江町では町章を澪標(船の安全航行指標)にされたとか(どこかで見たか思えば大阪市市章も…) 等保都安布美」を「遠江」と置換えられたもので、それはそれとして作者未詳でもあり、柿本人麻呂がずばりそのものの「遠江」書いた歌を紐解いてみようかと思う。

柿本人麻呂*の遠江


この飛鳥の歌人は日本国が成立する直前、激動の7世紀に生きた万葉集が誇る歌人である。山柿の門と言われ額田王やら多言語駆使の暗号めいた、裏の裏の裏を読まなければ意味不明の歌を残した。そんな歌人が精魂込めた歌を暇が取り柄の老いぼれが読み解けるか、なんて臆せずに、やっちゃいます。

サラリと読めば、そんなものか、ネコヤナギはしぶとい木なんだ、なんか自分に掛けてるかな? 程度の印象なのだが・・・。

「吾跡川楊」具体的な固有名詞らしきものに着目。これは短い歌の中に二度も登場する。正確には左記と「余跡川楊」として。通説は「吾」=「余」として、かつ「吾」の意味を表さない。「吾=ア」と読めるので前者は違和感ないが、後者は無理である。人麻呂のこと、意味があって字を変えている筈である。

「吾跡川楊」=「吾・跡・川楊」と区切ってみると、「吾()が跡(アト)した川楊(ネコヤナギ)」となる。「私が残したネコヤナギの木」のような意味にとれる。「余跡川楊」=「余・跡・川楊」として、「余(アマ)る跡(アト)した川楊(ネコヤナギ)」である。その残したネコヤナギが余ってるよ、という意味のようである。

「川楊」=「ネコヤナギ」である必要があったと思われる。川の側にある「楊」ではないのである。彼特有の寓意が感じられるが、他の文字を見ていきたい。

「丸雪降」は「丸雪」=「霰」と解釈されてきた。粉雪状ではなく丸状のから、少しは塊になった雪と考えられた。普通に読めば、そんな感じかなぁ、と読み飛ばすところである。人麻呂の歌は読み飛ばしてはダメなんです…なんて、つい最近教えられた。古代朝鮮語、説文解字なんて、難しすぎる。

情景的には、このまま読んでしまえば良いように思うが、「丸・雪降」と区切ると少し違った風に見えてくる。「丸」=「人」、「雪降」=「雪のように降って来る」=「空の彼方から舞い落ちて集まって来る」と読めるようである。人々が何処ともなくいっぱい集まって来る、という状況を表しているのではなかろうか。

さて、「遠江」である。歌の中に近いという意味を含む言葉はなく、これこそ単独である場所を示しているものであろう。それぞれの主な読みは「遠」=「トオイ、エン、オン(ヲン)」、「江」=「エ、コウ、カウ」である。

この読み下しに取り掛かった時、初めは「遠江」=「オンカウ」と読めるから「オンカウ」=「オンガ」=「遠賀川の河口」…、解けたと思ったが、よく調べると遠賀川という地名は、ずっとずっと後代の名付けとわかった。国交省遠賀川河川事務所のホームページに、元は「岡」という地名から「遠賀」となったという。

「岡」? 河口が「丘」? しかも山がついた丘、岳ではないが…。どうして「オカ」なのか? 上記の逆であった。「オカ」=「オ()()」=「遠江」

当時の地形はまだ河川が運ぶ土砂が少なく、今のような扇状の地形ではなかった。現在の水際ずっと内陸側に後退してたものと思う(地名、伝承から当時の水際を調べてられる記述を拝見、頭が下がります)。それだけに開口部も大きく、川と海とのせめぎ合いを真直に観ることができたのであろう。


「遠江」=「開口部の大きな入江」である。一方の岬ともう一方の岬が遠く離れたところと解釈される。「岬」にも「山」がついているのである。当然ながら「遠賀」=「岡」=「遠江」である。

遠江は何処?


浜名湖というような固有の言葉ではなかった。都から遠いところでもなかった。「二つの飛鳥」の時のような遠近問題でもなかった。固有の地名でないなら、比定のしようがない、その通り。作者が柿本人麻呂を頼りに、この曲者をなんとか味方にして先に進んでみよう。

「飛鳥」=「アスカ」、「遠飛鳥」=「田川郡香春町」、「近飛鳥」=「みやこ町犀川」とした。「飛鳥」は香春岳を中心とした地域指すことを示した。柿本人麻呂は飛鳥の歌人である。彼の「足跡」は飛鳥、その周辺にある。

彼が眺めた「遠江」は行橋市(現在の中心部は当時海面下)を中心とし、遠く離れた岬に挟まれ、周防灘に大きく開いた平野(現在豊前平野もしくは京都平野と呼ばれる)がつくる場所を示すと思われる。<追記>


詠われた歌を再掲すると…、

丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅亦生云 余跡川楊
(霰降り 遠つ淡海の吾跡川楊 刈れどもまたも生ふといふ 吾跡川楊)

「雖苅亦生云」消されてたまるか…なんて何並みならぬ決意と残してきた自らの「跡」に対する愛情を示しているようである。では、

「川楊」は何を寓意したのか?


彼の足跡は誰もが知るである。


ネコヤナギの枝一本一本

を歌に映したのである。

…多くの人々が雪の降るように集まってきた「遠江」、日々時代が移り変わる中で詠ってきた歌、その変化の速さに消えてしまいそうだが、余りある程に詠っていこう…

柿本人麻呂のような天才、その才能だけでは、あれだけ多くの歌は残せなかった。国家として成立する夜明けに前にその中枢を占める大宮人との深い関係がこの天才を衝き動かしたのであろう。

「近」と「遠」の片方の由来が崩れたなら、もう一方も崩れることになる。「遠」が先にあったみたいだから「近」の根拠が揺らぎ始めたことになる。どうなるんでしょうか?

・・・と、まぁ、こんな具合に「飛鳥」と同じく「遠江」も現在とはかけ離れたところに行ってしまった。気にせず先に…「近江」調べてみよう、だが、これが全く状況が異なり、あるはあるはとても纏めるには時間が掛かりそう…と言うわけで、次回に・・・。


<追記>

2017.09.12
既に修正の記述をしたが、原ページに未記載であった。この歌の「遠江」は現在の遠賀川河口を中心にした、現地名の福岡県遠賀郡及び北九州市八幡西区の一部であろう。

邇邇芸命降臨に続いて多くの人が鐘ヶ崎(氣多之御前)にやって来たと思われることと矛盾しない歌の内容とわかる。遠江を遠賀に取り戻し、古事記、日本書紀を読み解くことが重要であることを示す「川楊」の歌である。

柿本人麻呂*
「柿本」の由来は何であろうか?…ほぼ間違いなく現在地名「柿下」であろう。「柿」は消すに消せない重要なキーワードなのであろう。


図は別表示で拡大願いたいが、「柿」=「木+市」=「山稜が市」尾根と山稜が作る地形が「市」を模していると見做したのであろう。

柿本(下)=山稜が作る市の字形の麓

現在に繋がる地名由来であるが、果たして納得頂けるであろうか・・・。