2017年2月22日水曜日

二羽の飛鳥は何処に?〔003〕

二羽の飛鳥は何処に?




この説話は第16代仁徳天皇の崩御の年、西暦399年である。次の第17代履中天皇は西暦400年に即位した。「古墳時代」であり、各地に豪族が現れて渡来人達の知識・技術を活用しながら中央集権国家への道を歩みい始めた時期である。この時期「元号」なるものはなく(少なくとも古事記、日本書紀の世界では)、天皇とは表記するものの、実態は地方豪族の域を出ないもので、西暦673年天武天皇即位より始まると思われる。

なんとなく古事記の文面を眺めていると、固有の場所名が散りばめてある。とても原文のみからでは読み取れず、通説の解説文を頼りに地図上にプロットしてみた。なるほどきちんと地名が当て嵌められれて納得しかかるのですが、何故か引っ掛かる。

纏めてみると以下のようである…

・伊邪本和氣命の宮(後の履中天皇御所):伊波禮之若櫻宮→奈良県桜井市
・難波宮(仁徳天皇の御所):難波高津宮→大阪市中央区高津
・倭(脱出先):ワ→奈良大和(ヤマト)
・多遲比怒*(脱出後立寄り場所):タジヒヌ→大阪府羽曳野市
・波邇賦坂*(同上):ハニュウサカ→大阪府羽曳野市野々上
・大坂山口(同上):オオサカヤマグチ→大阪府南河内郡太子町春日と奈良県香芝市穴虫の間の峠(穴虫峠)に至る山口。水齒別命(後の反正天皇)も履中天皇への報告の際にも通る。
・當岐麻道(迂回路):タギマジ→穴虫峠を迂回するルート、不詳。
・石上神宮(脱出後の在所):イソカミノカミノミヤ→奈良県天理市石上神宮

引っ掛かるところは、以下の通り…


①倭への逃亡の途中、燃え盛る難波宮を見ることが書かれているが、羽曳野市の野々上と大阪市高津との距離は約15km。丘陵地帯(標高50m程度か?)で多数の古墳がある。そこから眺めるとしても難波宮の火炎を確認するには遠すぎる。
 馬に揺られて15km(直線距離ではないので20~30kmか?)。目覚めない? いくらでも途中で火災確認できそうな気もするが…。
②大坂山の地名比定はなく、穴虫峠が旧名大坂という故事()に倣っている。大坂山口という地名なら、その山は丘陵程度の山ではなく高山であろう。
「倭」=「大和(ヤマト)」という表記はもっと時代が進んでからのことで、安易に置
 き換えることはできない。また、置換えた理由が「倭」が矮小など好ましくない字
 を連想することであり、めから「大和」であれば、そのまま使ったであろう。中
 国の史書に記載されているところの朝貢する日本を表す漢字そのものである。


倭への逃亡:東方? or 西方?


通説は「倭」=「大和」とし、逃亡は東方であり、一旦南南東に向かい、西から東の方に大坂山を越えて大和の石上神宮に逃げる。途中の地名比定はその通りで、言うことなしの有様である。その場所がこの事件の逃亡先だと古事記は伝えている。「倭」は何処? そこで味方を募り、武器を調達し、応戦できる場所が石上神宮だったのであろう。

上記で示したように波邇賦坂の比定場所に納得がいかない以上、もう少し原文を調べて試ることにした。前記で…(中略)…とした部分の原文は以下の通り…

爾天皇歌曰、多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母母 母知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆 到於波邇賦坂、望見難波宮、其火猶炳。爾天皇亦歌曰、波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理 故、到幸大坂山口之時、遇一女人、其女人白之「持兵人等、多塞茲山。自當岐麻道、廻應越幸。」爾天皇歌曰、淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閇婆 多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流 故、上幸坐石上神宮也。

二番目の歌の読み下し文は…

波邇賦坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家村 妻が家あたり

「かぎろひ」とは、「曙光」で、東の空に見える明け方の太陽を表したものである。燃える火の様子を、太陽の輝き()とを重ねて表現したものと思われる。燃え盛る難波宮が「東方」に見える位置に居る、言い換えれば「波邇賦坂」は難波宮の「西方」にあることを示している。

伊邪本和氣命は『西方』に逃げた・・・


燃えている場所について、妻の家の場所を区別できることが可能な距離である。「波邇賦坂」は羽曳野市(大阪市中央区高津から南南東方向約15km)にはない。距離も併せて直観的な引っ掛かりはこれを示していたようである。

通説の難波宮(高津宮)の西方は大阪湾である。見事に逃亡経由地点が比定されていることより、初めは、西に…なんて言い訳が出来ないようになってしまっている。日本書紀にも同じ事件が記載され、追加の出来事が盛り込まれているが、難波宮、天皇の所在地、越える山(大坂山、飛鳥山、龍田山と名前を変える)以外の固有地名は省略である(「飛鳥」も含めて)

正史「日本書紀」としては、「古事記」が後の世に現れるとは考えてなかった…焚書した筈なんですが・・・。

その根本的な見直しを行わない限り本当の姿を現さないと思われる。それにしても原文の解釈に、あまりに恣意的な側面が見えて、愕然とする。地名の比定から行うことは、地名自体が如何様にも出来るという前提を抜きにしてはならない、当然のことなのだが…。

抗争の舞台は何処に?


この短い説話に二度も登場する「大坂山口」、かつ、通説が最も苦心しなければならなかった場所に焦点を当ててみよう。

北九州(福岡県)、元は豊前国に大坂山(現飯岳山)がある。北九州西部、中部、東部を南北に走る山塊、その東部の山塊に含まれる。多元的古代国家観からその山塊に区切られた国家間の抗争を多くの先輩諸氏が語られているところでもある。

東にある難波宮で寝込みを襲われた伊邪本和氣命、賢臣達に馬に乗せられ「ここは何処ぞ?」なんて暢気なことを言うと、「あれをご覧下され」と、漸く納得して、腸が煮えくり返るほどに激高した。よく見ると、愛しき嫁が焼死するような…歌は「かげろひ」ごとくの彼の心境を表している。

西へ、倭へ。大坂山口に入ってしまうと、もう都は墨江中王のものになってしまう。戻って戦うかどうか、逡巡もあっただろう、賢臣達の一先ず逃げることの進言に後ろめたさを感じながらも従ったのであろう。

・大坂山の西方の場所とは?


峠を越えて麓に降りたところ、現在の福岡県田川郡香春町、田川市の辺りに辿り着く。また、伊邪本和氣命が留まった石上神宮は香春一ノ岳に鎮座していたと思われるが、現在は、全くその面影もなく、削り取られている(良質の結晶性石灰岩の産地、現在の写真でみると無残である)

一ノ岳の南麓に香春神社がある。西暦709年に一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳に各々祭祀されていた神社(辛国息長大姫大目神社、忍骨神社、豊比売神社)を移設したものとある。不思議なことに、そのうちの2社は西暦843年に正一位の神階になり、天理市布留の石上神宮は西暦868年であることが知られている。

この「石上」は「石上布留(イソノカミフル)」であり、「イシガミ」ではない。ならば「五十神降」と表記できるのではなかろうか。「五十神」=「多くの神」が「降」=「寄り集まる」ことを表していると思われる。「フル()」=「触」=「振」も同様である。余談になるが、伊勢神宮はその古名を磯宮(イソノミヤ)という。関係深い宮川水系のイスズガワは五十鈴川と表記される。日本中に数多の神社があるが、「神宮」の名称を許されるのはこの伊勢と石上だけである。これもまた謎めいた話である。

神は人である。香春岳は石灰石もさることながら、銅の産地(東大寺大仏)であり、後には近くは石炭であり、資源が豊富であれば、神も人も寄り集まって来る、そして去って行く、ということであろう。自然の営みに任せるなら許せるが、人為的であってはならないものであろう。神はもう降ってこないのだから。

・大坂山の東方の場所とは?


ほとんど手掛かりのない難波宮である。①筑後川中流域(久留米市辺りか?)②北九州市小倉(足立山山麓?)③行橋市入角辺り?などが検索に掛かる。近畿の難波宮とは大違いである(複数の天皇の御所による混乱があったみたいだが)。かの有名な仁徳天皇の御所と思われるのが、このありさまである。地名比定を試みられた諸先輩方の苦労が偲ばれる。ましてや、九州の難波宮など、トンデモない話のようである。

でも、やっちゃいます…。

東方を頼りに地図を眺めて御所ヶ谷神籠石が残る山城と御所ヶ岳の北麓辺りに難波宮を置いてみた。豊前平野、さらにその先に周防灘を一望できる戦略的地点である。民の村はその豊前平野に広がり、天皇が炊煙を見たところ、とできそうである。

脱出した伊邪本和氣命一行は、今は県道242号線が通る峠を越えて(「多遲比怒」を通ってこの峠に至る道が「波邇賦坂」かと思われる。埴土=陶土の出る場所か?)、現在の犀川大坂にある山口に向かったと思われる。この峠の名称は全く知る由もないが、神籠石山城の麓とは直線距離で西方約1.5km、麓に広がる家々、各村をつぶさに目視観察できる位置と距離である。そう、ここで「かぎろひ」を見て、心中かぎろひたのだ。

御所ヶ岳南面を降りて、現在の犀川大坂の山口から県道204号線に沿いながら大坂山越を果たす(古代官道:京都郡~田川郡の伝路)。現在の香春町、香春一ノ岳の南麓に到着する。三男坊水齒別命も同じルートを行き来したのであろう。曾婆訶理の魂と共に。

やっちゃいました。名もなきピークを名もなきピークハンターが目指す距離と方向を頭に刻んで、グーグルマップと国土地理院地図の縮小/拡大を際限なく繰り返して、足跡の欠片も見えない山道を辿り、そして行き着いたところ、香春一ノ岳、である。

参考までに、地図を・・・。


*
こんな風に纏めてみると、一説話についてのことながら、古代天皇の御所についての通説とは、く懸け離れたことになってしまった。同時に、致命的な矛盾を含む物語を、それを曝したままで放置されてきたのかと思う。日本人とは?という問いかけに対して、そしてこれからの日本人とは?という考えなければならない重要な問いかけに、知識ある者達は無口である。

近飛鳥と遠飛鳥、それは・・・


再度原文を示すと…、

是以、詔曾婆訶理「今日留此間而、先給大臣位、明日上幸。」留其山口、卽造假宮、忽爲豐樂、乃於其隼人賜大臣位、百官令拜、隼人歡喜、以爲遂志。爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。

「明日」に繋がる「上幸」という文字の意味、なんとなく「上(ノボリ)()く」と読んでしまいそうなのだが、天皇の行為ならば意味は通じるかも・・・。

なんと解釈するか、重要なポイント。最初の「上幸」は、文脈から、「幸(サチ、シアワセ)を上()げる」、次の「上幸」は「幸(狩りの獲物、エモノ)を上(サシア)げる」と読み下せる。いかにも褒めて殺すという過程を具体的に示していると思われる。

祓禊」は「穢れを清めて日常に戻る」儀式で、過去の忌まわしい出来事を時空的に遠ざける意味と解釈される。穿った見方をすれば勝者にとっては都合の良い儀式でもある。全ての悪行を帳消しにする手段である。歴史の中に埋もれた「禊」の対象を浮かび上がらせることも必要なことかと思われる。

地図(国土地理院)を眺めてると、香春一ノ岳の南西麓で金辺川と合流する御祓川(ミソギガワ)なんていう川が香春町を流れている。その謂れなど全く不明だが、「御」がついてるから高貴な方が禊されたか?・・・。逃亡に際して大坂山口で地元?の娘に迂回路「當岐麻道」を教えて貰った。北側は大坂山だから南側の山道を行くしかなく、すると、この御祓川沿いに出る。後世の出来事に由来するのかもしれないが…。

   「近飛鳥」:大坂山東側「みやこ町犀川」(現在の地名)   
「遠飛鳥」:香春一ノ岳麓「田川郡香春町」(現在の地名)

と推定される。

「犀川(現在名今川、何故変えた?)」は英彦山麓を源流に持ち平成筑豊田川線(平成筑豊鉄道)の傍を走り、行橋市市役所の脇を通って周防灘に注ぐ。昭和の時代、ゴールドならぬコールラッシュを見てきたのであろう。万葉歌にも登場する。豊かな自然の恵みに加え、時には穏やかに時には荒々しく、その姿に詠む人が己の姿を映し出したことであろう。


本当に短い説話、地名が記載されてれば比定は容易かと思ったのが、マチガイ。奈落(奈良苦)に落ちた感じである。知っていたこととはいえ、古事記と日本書紀の違い、トンデモない正史、日本書紀。他人の書いた本をトンデモ本にするくらいなら(権威ある大学教授ら)、真っ先にするべきことは、トンデモ日本書紀と叫ぶべきだろう。そうでないなら、「改定日本書紀」を出版すべきだろう。これこそトンデモ改定本か。

奈良の大和に古事記の地名を移し、あるいは作り、説話の通りとする。混乱が発生。当然様々な意見が出てくるのだが、論議を尽くす気概と忍耐に欠如する傾向が強い。邪馬台国論しかり、である。今更「大和」をひっくり返しても如何ともしがたい、ということなのであろう。

今回古田武彦氏及び関係の方々の書物、ネット公開の記述を読み返した。70年安保の全学ストで暇を持て余した貧乏学生が手にした「邪馬台国はなかった」その三部作を読み、T. Kuhnの「科学革命の構造」併せ読み、武谷三男氏の『三段階論』とどう繋げるのか、フラフラしていたことを思い出した。

ともかく新鮮であった。幾星霜後の再会。一昨年に逝去されたことも今回の一つの切っ掛けではあるが、その世界は悲惨なことに…奈落であった。幾人かの論考(室伏志畔氏ら)に救われたが、未だ月読みの時である。また、新鮮な感動を期待して良いのであろうか?

…と、まぁ、通説からするとお話にならないものかも…こんな話になってしまいましたが、暇な老いぼれの戯言と読み飛ばして頂ければ幸いです。

考える筋道が出来たので、たっぷり時間をかけて、とは言え、そんなに時間ないが、「妄想」を膨らませていこうかと・・・。


拙文、最後までお読み頂き、感謝。

…修正して再掲。こちらを参照願う。難波高津宮の場所についてはこちら

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。

<追記>

(古事記新釈:履中天皇・反正天皇を参照)

・2017.06.03
 「多遲比怒」=「多治比怒」=「多くの川を寄集めて整えられている野」
 と解釈された。「治」=「川をおさめる」を意味する(説文解字)。

 2018.02.19
 修正し忘れ。


多遲比怒=多(田)|遲(治水する)|比(並べる)|怒(野)

…「田を治水して並べた野」と解釈する。
 
 当該の場所は「福岡県京都郡みやこ町勝山大久保」(勝山御所カントリークラブの近隣)
 上記と矛盾しない結果である。参考までに現在の地図を示す。



・2017.06.06
 逃亡経路代替案の例示 及び 近飛鳥と遠飛鳥


みやこ町犀川笹原を経由するルート。「沙沙那美遅」があったとの記述による。
(笹が豊かな美しい道)


・2017.06.17⇒2017.12.06
「波邇賦坂」=「埴生坂」で間違いないであろうが、比定の根拠を全く見出せなかった。垂仁天皇紀の記述から、その裏付けが得られた。山代大國之淵之女・苅羽田刀辨と弟苅羽田刀辨を娶るところである。山代大國」は上図「沙沙那美遅」の南側に位置する(現在の福岡県京都郡みやこ町犀川大村)。

比売(刀辨)達の名前にある「苅羽田」=「苅(草木を刈取った)・羽田(埴田)」と解釈される。「埴生坂」はその「埴田」に向かう坂と推定される。近接しており、坂そのものが「埴生」にあったと考えることもできる。上記「多遲比怒」と「波邇賦坂」の傍証が得られ、上記ルートが確からしくなったと思われる。


・2017.11.25
伊邪本和氣命と水齒別命の行程及び近・遠飛鳥の場所。ほぼファイナル版。




・2017.11.26
「波邇賦坂」この意味するところが解けた。詳細はこちら


波邇賦坂

「多治比之柴垣宮」の在処が解けたからこそ辿り着いた納得の解釈、そんな大袈裟なものではないが、本当のところ、かもである。「波邇」=「波(端)|邇(近隣)」を意味することまでは容易であったが、何?の端、近隣かが不詳であった。これでは解けない・・・「何?」は「多治比之柴垣宮」と気付いた。また…、

賦=貝(財)+武(武器)

…財(必要なもの)と武器を持って戦いに行く時を表した文字と解釈される。古事記のこの段の徹底した「説文解字」に準じると…ならば「波邇賦坂」は…、

波邇賦坂=柴垣宮の傍近くで戦闘に向かう時の坂

と紐解くことができる。勿論この時は真面に戦う気持ちであった筈で「弾碁」戦法に気付くのはこの坂を下りてからである。曙光を見て愕然としメラメラと湧き上がって来る怒りを抑えて大坂山口で出会った女人の言葉で初めて気付く戦法であったと古事記は記述する。

全てが生き生きと蘇って来る。そのドラマチックな記述を読取れなかったのを後代の識者の所為にばかりできないであろう。漢字というものの原点、というか使う漢字を自由に分解して、古代であっても、通常の解釈に拘泥することなく文字が伝える意味を作り上げていく、驚嘆の文字使いである。間違いなく…、

古事記は世界に誇るべき史書

であることを確信した。

2017.12.06
「苅羽田」の解釈を修正。「苅羽+田」として、「羽の形状をした地を刈(切)り取った田」に変更した。詳細はこちらを参照願う。上記「波邇賦坂」も「埴田に向かう」という意味ではないと解釈する。