2024年5月27日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(27) 〔678〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(27)


寶龜十一(西暦780年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六月戊戌。勅。封一百戸永施秋篠寺。其權入食封。限立令條。比年所行甚違先典。天長地久。帝者代襲。物天下物非一人用。然縁有所念。永入件封。今謂永者是一代耳。自今以後立爲恒例。前後所施一准於此。辛丑。從五位上百濟王俊哲爲陸奧鎭守副將軍。從五位下多治比眞人宇佐美爲陸奧介。甲辰。授正六位上内眞人石田從五位下。己未。散位從四位下久米連若女卒。贈右大臣從二位藤原朝臣百川之母也。辛酉。授從五位上紀朝臣佐婆麻呂正五位下。无位名繼女王從五位下。」伊勢國言。今月十六日己酉巳時。鈴鹿關西内城大鼓一鳴。」勅陸奧持節副將軍大伴宿祢益立等。將軍等去五月八日奏書云。且備兵粮。且伺賊機。方以今月下旬進入國府。然後候機乘變。恭行天誅者。既經二月。計日准程。佇待獻俘。其出軍討賊。國之大事。進退動靜。續合奏聞。何經數旬絶無消息。宜申委曲。如書不盡意者。差軍監已下堪辨者一人。馳驛申上。

六月五日、次のように勅されている・・・封戸百戸を永く「秋篠寺」に施入する。いったい権に食封を施入することについていは、令の条文に期限を定めてある(権は五年以下)。しかし近年の慣行は先の法典と甚だ違っている。天は長く地は久しいが、帝位は代々継承するものである。物は天下のものであり、帝王の占有物ではない。しかし朕は思うところがあって、永く件の封戸を施入する。今回永くというのは帝位一代のみをさす。これから後もこれを恒例とせよ。これ以前、これ以後に施入するものも、ひとえにこれに准ぜよ・・・。

八日に百濟王俊哲(②-)を陸奥鎮守副将軍、多治比眞人宇佐美(宇美。歳主に併記)を陸奥介に任じている。十一日に内眞人石田(等美に併記)に従五位下を授けている。二十六日に散位の久米連若女が亡くなっている。贈右大臣・従二位の藤原朝臣百川(寶龜十年七月に死去)の母親であった。

二十八日に紀朝臣佐婆麻呂(鯖麻呂)に正五位下、名繼女王(置始女王に併記)に従五位下を授けている。伊勢國が[今月十六日に「己酉巳時。鈴鹿關西内城大鼓一鳴」]<真意は下記にて>と言上している。

また、陸奥持節副将軍の大伴宿祢益立等に次のように勅されている・・・将軍等は去る五月八日に書面で[兵粮を準備しながら、賊の様子を伺い、まさに今月下旬を期して、國府(多賀城)に進み入り、その後に機を見て乱れに乗じて、謹んで天誅を行なおうと思う]と奏上して来た。『呰麻呂の乱』後、既に二ヶ月が経過しており、日数を数え道のりを考えて、俘虜を献上するのを待ちかねている。---≪続≫---

軍勢を出して賊徒を討つのは國の大事である。軍の進退やその他の状況は引き続き奏聞すべきである。どうして何十日も状況報告がないのか。委細を申上するように。もし書面で意を尽くすことができないならば、軍監以下で状況を説明できる者を差し立て、早馬で申上させよ・・・。

<秋篠寺>
秋篠寺

いつの間にかに建立されていたようである。勿論、完成してはいなかったと推測されるが・・・「朕が思うところ・・・」とは、皇后の井上内親王及び他戸皇子を弔うための寺だったのではなかろうか。

位置情報については、續紀中ここで登場する以外にはなく、皆目定かではないが、調べると、平城宮の北西、大安寺の北方であったようである。

名前が表す地形は、秋篠=細かく岐れて延びる山稜の前が[火]のようになっているところと解る。その地形を図に示した場所に見出せる。秋篠王(臣籍降下して豊國眞人を賜姓)の「秋篠」の地形である。

井上内親王は、突然降って湧いたように皇后となり、そして息子が皇太子となり、実に順風満帆の様相が一気に崩壊していった。陪臣達の思惑に嵌ってしまったようである。多分、山部王(後の桓武天皇)が優秀だったのであろう。そんな事情を口にするのも恐れ多い、と悟った光仁天皇だったのではなかろうか。

<鈴鹿關西内城>
鈴鹿關西内城

「鈴鹿關」は、所謂『壬申の乱』において天武天皇が吉野を脱出し、驛家を焼き払いながら立寄った場所であった。馳せ参じて来る仲間が増えつつある状況なのだが、未だその展望が開けたわけではなかった、と記載されていた(こちら参照)。

どうやらその場所に城が造られていたようで、「西内城」の名称が付けられている。”鈴鹿關の西方にある内城”では、決してあり得ない。直近での西仲嶋と同じである。

即ち、西内城=谷間の入口にある笊の形をしたところにある城である。正に鈴鹿關があったと推定した場所、現在の長尾小学校辺りを表しているのである・・・と、これで一件落着かと思ったら、どうもここの本文が怪しいように感じられる。

本文「今月十六日己酉巳時。鈴鹿關西内城大鼓一鳴」は、読み飛ばすと・・・当日の午前十時頃に大鼓が一鳴きした・・・とは、一体何を伝えたかったのであろうか?…全て地形象形表記であろう。

①己酉:[己]の形に曲がっている酒樽のような地の麓で
②巳時:渦巻くように蛇行する川が流れている傍の
③鈴鹿關西内城:鈴鹿關の谷間の入口にある笊の形をした地に立つ城は
④大鼓一鳴:大きな鼓の形をした地にあり鳥の口のような谷間と繋がっている

…と読み解ける。鈴鹿關の周辺を整備・拡張した結果を報告していることが解る。国防上、極めて重要な報告であったことになる。”鳥の口”を”鼓”で塞いだのであろう。

秋七月辛未。散位從四位上鴨王卒。丁丑。勅。安不忘危。古今通典。宜仰縁海諸國。勤令警固。其因幡。伯耆。出雲。石見。安藝。周防。長門等國。一依天平四年節度使從三位多治比眞人縣守等時式。勤以警固焉。又大宰宜依同年節度使從三位藤原朝臣宇合時式。癸未。征東使請甲一千領。仰尾張參河等五國。令運軍所。」從八位下韓眞成等四人賜姓廣海造。甲申。征東使請襖四千領。仰東海東山諸國。便造送之。勅曰。今爲討逆虜。調發坂東軍士。限來九月五日。並赴集陸奧國多賀城。其所須軍粮。宜申官送。兵集有期。粮餽難繼。仍量路便近。割下総國糒六千斛。常陸國一万斛。限來八月廿日以前。運輸軍所。伊豫國越智郡人越智直靜養女。以私物資養窮弊百姓一百五十八人。依天平寳字八年三月廿二日勅書。賜爵二級。戊子。勅曰。筑紫大宰僻居西海。諸蕃朝貢舟楫相望。由是簡練士馬。精鋭甲兵。以示威武。以備非常。今北陸道亦供蕃客。所有軍兵未曾教習。属事徴發。全無堪用。安必思危。豈合如此。宜准大宰依式警虞。事須縁海村邑見賊來過者。當即差使速申於國。國知賊船者。長官以下急向國衙。應事集議。令管内警虞且行且奏。〈其一〉。賊船卒來着我邊岸者。當界百姓執隨身兵。并齎私糧走赴要處。致死相戰。必待救兵。勿作逗留令賊乘間。〈其二〉。軍所集處。預立標榜。宜量地勢務得便宜。兵士已上及百姓便弓馬者。量程遠近結隊分配。不得臨事彼此雜乱。〈其三〉。戰士已上。明知賊來者。執隨身兵。兼佩飰帒。發所在處。直赴本軍。各作軍名。排比隊伍。以靜待動。乘逸撃勞。〈其四〉。應機赴軍國司已上皆乘私馬。若不足者。即以驛傳馬充之。〈其五〉。兵士白丁赴軍。及待進止。應給公粮者。計自起家五日乃給。其閑處者給米。要處者給糒。〈其六〉。

七月九日に散位の鴨王()が亡くなっている。十五日に次のように勅されている・・・平安な時にも危険を忘れないのは、古今に通じる法則である。そこで縁海の諸國に命じて警備に務めさせるように。因幡・伯耆・出雲・石見・安藝・周防・長門などの國は、専ら天平四(732)年の節度使の多治比眞人縣守等の時の式に依拠して、怠りなく警固させよ。また大宰府は同年の節度使の藤原朝臣宇合の時の式に依拠するように・・・。

二十一日に征東使が甲一千領を請求して来ている。尾張・參河などの五國に命じて軍営に運ばせている。また、韓眞成(男成に併記)等四人に「廣海造」の氏姓を賜っている。

二十二日に征東使が綿入れの上着四千領を請求している。東海道・東山道の諸國に命じて、直ぐにこれを作り送らせている。また、次のように勅されている・・・今、刃向かう敵を討つために、坂東の軍士を徴発し、来たる九月五日までに、みな陸奥國多賀城に赴き集まらせよ。必要な軍粮は太政官に申請して、送るように。兵士は集めるのに時期があり、食粮の供給は継続しにくいものである。そこで交通の便や近さを考慮し、下総國の糒六千石と常陸國の一万石を割き、来たる八月二十日以前に、軍営まで運び送らせよ・・・。

また、伊豫國越智郡の人である越智直靜養女(入立に併記)は、私物をもって困窮した人民百五十八人を助け養った。そこで天平寶字八(764)年三月二十二日の勅書(窮民五十人以上で位二階授与)によって、位二階を賜わっている。

二十六日に次のように勅されている・・・筑紫大宰府は西海道に位置して、諸蕃の國々が朝貢し、舟と檝を共に眺め渡すことができる。このため将校と馬を選び出して鍛え上げ、武装兵を強くして、もって権威と武力を示し、非常の事態に備えている。ところが今、北陸道もまた蕃國の使を供応するが、所有軍兵は教習の経験がなく、変事があって徴発しても、用いるに足る者は全くいない。平安な時にも必ず危険を予想すべきであるのに、どうしてこのようなことでよかろうか。宜敷く大宰府に准じて、式により警め備えるように。---≪続≫---

海沿いの村において、賊が来航して立寄るのを見れば、直ちに使を遣わして、速やかに國に申し出なければならない。國が賊船であることを確認すれば、長官以下は速やかに国衙まで參向し、事に応じて合議し、管内に警め備えさせて、現場に赴くと共に、奏上せよ。〈その一〉---≪続≫---

賊船が俄かに来航して、我が國の海岸に着いた場合、その区域の人民は身に付けた武器をとると共に、併せて自分の食糧をもって要所に走り赴き、死に物狂いで戦いを交えよ。必ず救援の兵を待ち待機ばかりしていて、賊に付け入る隙を与えることがないようにせよ。〈その二〉---≪続≫---

軍隊の集まる場所には、あらかじめ目印の立札を立て、地勢を考慮して、できるだけ便宜に叶うようにせよ。兵士以上の者及び人民で弓馬に慣れた者を、道のりの遠近を考慮して、部隊に編成して分配せよ。事が起こった時には、あれこれ混乱することのないように。〈その三〉---≪続≫---

戦士以上の者は明らかに賊が来襲したことを知れば、身に付けた武器をとり、併せて干飯の袋を腰に下げ、所在地を出立して、直ちに本隊に赴き、それぞれの部隊名を定めて、順序よく隊伍を作れ。静かに待機して賊の動きを待ち、安楽にしているのに乗じて疲れたところを攻撃せよ。〈その四〉---≪続≫---

機会をとらえて戦端を開く場合、國司以上は皆私有の馬に乗れ。もし足りなければ、驛馬・傳馬をそのままこれに充てよ。〈その五〉---≪続≫---

兵士や一般庶民が軍隊に赴き、進退の指令を待つことになった場合、官より支給すべき食粮は、家を出発してから五日目には支給せよ。戦闘の急迫していない所には米を支給し、重要な軍事行動の行われている所に糒を支給するように。〈その六〉・・・。

八月己亥。外從五位下栗前連枝女。本是從四位下山前王之女也。而從母姓未蒙王名。至是改正爲池原女王。授從五位下。壬寅。授從六位下紀朝臣眞木從五位下。丙午。授越前國人從六位上大荒木臣忍山外從五位下。以運軍粮也。庚戌。勅。今聞。諸國甲冑稍經年序。悉皆澁綻。多不中用。三年一度立例修理。隨修隨破。極費功役。今革之爲甲。牢固經久。擐躬輕便。中箭難貫。計其功程。殊亦易成。自今以後。諸國所造年料甲冑。皆宜用革。即依前例。毎年進樣。但前造鐵甲不可徒爛。毎經三年依舊修之。甲寅。授從五位上安倍朝臣家麻呂正五位上。復无位安倍朝臣繼人本位從五位下。乙夘。出羽國鎭狄將軍安倍朝臣家麻呂等言。狄志良須俘囚宇奈古等款曰。己等據憑官威。久居城下。今此秋田城。遂永所棄歟。爲番依舊還保乎者。下報曰。夫秋田城者。前代將相僉議所建也。禦敵保民。久經歳序。一旦擧而棄之。甚非善計也。宜且遣多少軍士。爲之鎭守。勿令衂彼歸服之情。仍即差使若國司一人。以爲專當。又由理柵者。居賊之要害。承秋田之道。亦宜遣兵相助防禦。但以。寳龜之初。國司言。秋田難保。河邊易治者。當時之議。依治河邊。然今積以歳月。尚未移徙。以此言之。百姓重遷明矣。宜存此情歴問狄俘并百姓等具言彼此利害。庚申。太政官奏曰。筑紫大宰。遠居邊要。常警不虞。兼待蕃客。所有執掌。殊異諸道。而官人相替。限以四年。送故迎新。相望道路。府國困弊。職此之由。加以所給厨物。其數過多。毎守舊例充給。或闕蕃客之儲。於事商量。甚不穩便。臣等望請。且停交替料。兼官人歴任。増爲五年。然則百姓息肩。庖厨無乏。伏聽天裁。奏可之。

八月七日、「栗前連枝女」は、もともと「山前王」(忍壁皇子の子)の娘である。しかし母の姓に従い、未だ王の名を受けていない。ここに至り改正して「池原女王」とし(こちら参照)、従五位下を授けている。十日に「紀朝臣眞木」に従五位下を授けている。十四日に越前國の人である大荒木臣忍山(道麻呂に併記)に外従五位下を授けている。兵粮を運搬したためである。

十八日に次のように勅されている・・・今聞くところによると、諸國の甲冑は年月を経過して、悉くみな綻び敗れ、多くは使用に堪えない。三年に一度修理するのを例としているが、修理する後から破綻して、このうえなく工賃と労役を費やしている。今、革で作った甲は、堅固で長持ちし、身に付けても軽便であり、箭に当たっても貫通しにくい。その手間と日数を見積もっても、特にまた作り易いものである。今後諸國が作る年間所定数の甲冑は、みな革を用いるように。即ち前例に従って、毎年見本を進上せよ。但し、以前に作った鉄の甲も、いたずらに腐らせることなく、三年を経過するごとに、旧来のように修理せよ・・・。

二十二日に安倍朝臣家麻呂に正五位上、安倍朝臣繼人(阿倍朝臣)を本位の従五位下に復している。二十三日に出羽國鎮狄将軍の「家麻呂」等が以下のように言上している・・・夷狄の「志良須」や服属した蝦夷の「宇奈古」等が[私たちは朝廷の権威にたよりすがって、久しく城下に住んでいるが、今この「秋田城」はついに永久に放棄されるのか。兵士を交替に配備し、旧来のように、もう一度守るのか]と尋ねて来た・・・。

これに対して以下のように返答している・・・そもそも「秋田城」は、前代の将軍や宰相が集まり相談して建てたものである。敵を防御し民を保護して、長い年月が経過している。俄かに全てこれを放棄するのは、甚だよい方策ではない。しばらくいくらかの軍士を遣わして、鎮守に当たらせ、彼等が帰服する心を損なわさせないようにせよ。よって直ぐに使者もしくは國司一人を派遣し、「秋田城」の専当とするように。また、「由理柵」は賊にとっての要害に位置し、秋田(城)への道が通じている。ここへも兵を遣わして、互いに助け合って防御させるように。---≪続≫---

ただ思うに、寶龜年間の初めに、國司が[「秋田(城)」は保ちにくく、「河邊(城)」は治めやすい]と言上したので、当時の評議は「河邊(城)」を治めることに決まった。しかし、今まで歳月が積み重なっても、なお未だに移住しようとはしない。このことを考えれば、人民が移住を重荷としていることは明らかである。そこで、この心情を察して、服属した蝦夷や人民一人一人に問い、つぶさに両城の利害を詳しく言上するように・・・。

二十八日に太政官が以下のように奏上している・・・筑紫大宰府は遠い辺境の要所に位置して、常に不測の事態を警戒し、併せて番國の使者を接待している。その職掌は諸地域とは異なっている。しかし、官人の交替は四年をもって期限としており、道に前任者を送り、新任者を迎えて、途切れることがない。大宰府や管下の諸國の疲弊は、もっぱらこれが原因である。それだけでなく、支給する調理所用の食物の数は多過ぎるほどであるのに、常に旧例を守って支給するため、番國の使者のための蓄えが不足する時もある。このことについて考えるに、甚だ穏やかではない。暫く國司の交替料を停止し、併せて大宰府の官人の交替に期限を五年に延長することを、私どもは請願する。そうすれば人民は肩を息め、台所の欠乏がなくなるであろう。伏して天皇の裁定をお待ちする・・・。奏上の通りに許可されている。

<紀朝臣眞木-安自可>
● 紀朝臣眞木

紀朝臣一族からの登用は、凄まじい。その上、系譜は殆どが不詳である。何だか泣き言を述べているような具合になりそうであるが、例に依って名前が表す地形から出自場所を突止めてみよう。

既出の文字列である眞木=[木]の形した山稜が寄り集まって窪んだところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。

この地域については、元正天皇紀に紀臣龍麻呂・廣前等が朝臣姓を賜ったと記載されていた。『八色之姓』制定時には漏れていて、恐らく大口(眞人の父親)系列とは異なる系列だったのであろう。直近では紀臣眞吉が登場していた。

「眞木」は、この後續紀中もう一度登場し、従五位下のままで肥前守を任じられているが、その後の消息は不明である。多くの登用が行われたが、高位者の出現は見られないようである。

少し後に紀朝臣安自可が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳の人物が続いているが、この女孺、多分、もその類であり、名前が表す地形から出自の場所を求めると、図に示した辺りと推定される。安自可=嫋やかに曲る谷間の端が大きく開いているところと解釈される。この叙位後の消息も不明である。

<秋田城・河邊城・由理柵>
秋田城・河邊城・由理柵

「秋田城」は、聖武天皇紀の天平五(733)年十二月に「出羽柵遷置於秋田村高清水岡」と記載されていた出羽柵を改造したものであろう。

「越後國出羽郡」に設置されていた城と思われる。現地名は北九州市門司区春日町である。光仁天皇紀に登場した出羽國賊地野代湊に上陸し、現在の桜峠を越えて侵入する賊を監視するための場所となっている。

国防上極めて重要な配置となっているのだが、さりとて常時監視するほど気忙しくなく、担当者が勝手に自分らの都合で「河邊城」に遷り住んでしまったのであろう。いつの時代も変わらぬ気の弛みを露呈しているのである。

初見の河邊城河邊=山稜の端が広がり延びている(邊)前に谷間の口が開いている(河)ところと解釈される。”川の畔”なんて読んでしまうと、全く伝わらないのである。その地形を図に示した場所、「越中國」に属する地であることが解る。東隣は飛騨國の帰化した人々の居処となっている。

由理柵由理=突き出た山稜(由)が区分けられている(理)ところと解釈される。図に示した場所に、その地形を確認することができる。大昔に古事記の木花之佐久夜毘賣が坐した地の近隣である。「秋田城」は北から、この柵は東からの侵攻に備えることができる。

こう眺めると、”担当の勝手な都合”で造ったとした「河邊城」は、背後を固め後方支援することができ、北・東の両方を同時に監視し得る配置でもある。お詫びして文言却下させて頂く。「秋田城」の專当を充てるのは、実に賢明な策であったようである。

● 志良須・宇奈古 秋田城下に住まう人達である。出自もおそらくそうであったと推測して志良須=なだらかに延びる州の前を蛇行する川が流れているところ宇奈古=谷間に延びる平らな頂の高台の麓に丸く小高い地があるところと読み解ける。国土地理院航空写真1960~9年を参照(こちら)しながら、図に示した場所が各々の出自と推定される。



















 

2024年5月20日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(26) 〔677〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(26)


寶龜十一(西暦780年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

三月丙寅朔。授命婦正五位上百濟王明信從四位下。戊辰。出雲國言。金銅鑄像一龕。白銅香爐一口。并種種器物漂着海濱。戊寅。授无位紀朝臣東女正五位上。己夘。授從五位下津守宿祢眞常從五位上。辛巳。授從四位下神王正四位下爲參議。」太政官奏稱。分官設職。不在繁多。宣風導民。務於簡要。是以制令之日。限置官員。量才授能。職務不滯。今官衆事殷。而蚕食者多。穀帛難生而用之不節。一歳不登。便有菜色。古者人稠田少。而有儲蓄。由於節用也。今者地闢戸減而患不足。由於糜費也。臣等以爲。當今之急。省官息役。上下同心。唯農是務。特望。天恩許之。臣等并省官員。則倉廩實而禮義行。國用足而廉恥興矣。伏聽聖裁者。奏可之。於是毎司并省各有其數。事在別式。」又奏稱。濟世興化。寔佇九功。討罪威邊。亦資七徳。文武之道廢一不可。但今諸國兵士。略多羸弱。徒免身庸。不歸天府。國司軍毅。自恣駈役。曾未貫習。弓馬唯給。採苅薪草。縱使以此赴戰。謂之棄矣。臣等以爲。除三關邊要之外。隨國大小以爲額。仍點殷富百姓才堪弓馬者。毎其當番。專習武藝。属赴有徴發。庶幾免稽廢。其羸弱之徒勤皆令赴農。此設守備。省不急之道也。臣等商量所定。具状如左。伏聽天裁者。奏可之。毎國減省各有差。於是。諸司仕丁駕輿丁等厮丁及三衛府火頭等。徒免庸調。無益公家。遠離本郷。多破私業。仍從本色以赴農畝焉。壬午。從五位下藤原朝臣眞友爲少納言。從五位下石城王爲縫殿頭。從五位下高倉朝臣殿嗣爲治部少輔。從五位上石川朝臣清麻呂爲民部大輔。從五位下多治比眞人繼兄爲少輔。外從五位下榮井宿祢道形爲主計助。從五位下豊國眞人船城爲大藏少輔。從五位上參河王爲大膳大夫。外從五位下船連住麻呂爲官奴正。從五位下大伴宿祢弟麻呂爲衛門佐。從五位下藤原朝臣宗繼爲伊勢介。外從五位下陽侯忌寸玲璆爲尾張介。外從五位下葛井連根道爲伊豆守。陰陽頭天文博士從五位上山上朝臣船主爲兼甲斐守。從五位下藤原朝臣長川爲相摸守。從五位上藤原朝臣刷雄爲上総守。左京大夫正五位下藤原朝臣種繼爲兼下総守。外從五位下上村主虫麻呂爲能登守。從五位下紀朝臣作良爲丹波介。從五位下阿倍朝臣謂奈麻呂爲但馬介。從五位下紀朝臣白麻呂爲因幡介。從五位下大伴宿祢繼人爲伯耆守。中衛中將内廐頭正四位上道嶋宿祢嶋足爲兼播磨守。正五位下山邊王爲備前守。從五位下紀朝臣眞子爲備後守。從五位下田中朝臣飯麻呂爲筑後守。從五位下紀朝臣門守爲肥前守。從五位下小野朝臣滋野爲豊前守。外從五位下陽侯忌寸人麻呂爲介。乙酉。以從五位下池田朝臣眞枚爲長門守。外從五位下葛井連河守爲參河介。」授正六位上百濟王俊哲從五位下。」駿河國飢疫。遣使賑給之。丁亥。陸奧國上治郡大領外從五位下伊治公呰麻呂反。率徒衆殺按察使參議從四位下紀朝臣廣純於伊治城。廣純大納言兼中務卿正三位麻呂之孫。左衛士督從四位下宇美之子也。寳龜中出爲陸奧守。尋轉按察使。在職視事。見稱幹濟。伊治呰麻呂。本是夷俘之種也。初縁事有嫌。而呰麻呂匿怨。陽媚事之。廣純甚信用。殊不介意。又牡鹿郡大領道嶋大楯。毎凌侮呰麻呂。以夷俘遇焉。呰麻呂深銜之。時廣純建議造覺鼈柵。以遠戍候。因率俘軍入。大楯呰麻呂並從。至是呰麻呂自爲内應。唱誘俘軍而反。先殺大楯。率衆圍按察使廣純。攻而害之。獨呼介大伴宿祢眞綱開圍一角而出。護送多賀城。其城久年國司治所兵器粮蓄不可勝計。城下百姓竸入欲保城中。而介眞綱。掾石川淨足。潜出後門而走。百姓遂無所據。一時散去。後數日。賊徒乃至。爭取府庫之物。盡重而去。其所遺者放火而燒焉。辛夘。伊勢國大目正六位上道祖首公麻呂白丁杖足等賜姓三林公。癸巳。以中納言從三位藤原朝臣繼繩爲征東大使。正五位上大伴宿祢益立。從五位上紀朝臣古佐美爲副使。判官主典各四人。甲午。以從五位下大伴宿祢眞綱爲陸奧鎭守副將軍。從五位上安倍朝臣家麻呂爲出羽鎭狄將軍。軍監軍曹各二人。以征東副使正五位上大伴宿祢益立爲兼陸奧守。

三月一日に命婦の百濟王明信(①-)に従四位下を授けている。三日に出雲國が厨子に入った金銅製の鋳物の仏像一つと白銅製の香炉一口、併せて種々の器物が海浜に漂着したと言上している。十三日に「紀朝臣東女」に正五位上を授けている。十四日に津守宿祢眞常(眞前)に従五位上を授けている。

十六日に神王()に正四位下を授け、参議に任じている。また、太政官が以下のように奏上している・・・官職を分かち設けるのは、繁多にする目的ではなく、教えを宣べ民を導くためには、簡にして要を得るように努めるべきと思われる。このため、令を制定した時には、官人の数を最小限に定め、才能を量って能力ある者に職務をさずけたので、滞ることがなかった。---≪続≫---

今は官人も多く、仕事も増えているのに、蚕が桑を食べるように公費を消費している者がたくさんいるし、穀物や絹織物は作り出しにくいのに、これを節約して使うことをしていない。一年でも不作があれば、たちまち食料が不足して人民の顔色は青くなる有様である。---≪続≫---

昔は人口が多く田地が少なくても、蓄えがあったのは節約に努めたからである。今は土地が開け戸数が減ったのに、不足に思い悩むのは、浪費が原因である。私たちが思うに、現在の急務は官人を減らし労役を止め、上下の者が心を同じくして、ただただ農耕に力を入れることである。---≪続≫---

天皇の恵みによって、これを許されることを切にお願いする。官人の数を合併して減らすならば、たちまち倉庫には穀物が満ちて礼儀た行われ、國の財政は足りて、物欲を恥じる心が起こるであろう。伏して天皇の裁定をお待ちする・・・。天皇は奏上の通りに許可している。そこでそれぞれの官司ごとに合併・削減が行われている。詳しくは別式にある。

また、以下のように奏上している・・・世を済い強化を起こすには、真に九つの働きがが必要であり、罪を犯す者を討ち辺民を恐れさせるには、また七つの徳が不可欠である。文武の道は一つが欠けても成り立たない。しかし今、諸國の兵役はおおよそ軟弱な者が多く、いたずらに個人にかかる庸を免れて、國庫に納めていない。---≪続≫---

國司や軍毅は自ら恣に兵士を駆使し、全く慣れさせず、弓と馬はただ支給するのみで、薪や草を採らせている。仮にこの訓練のない兵士を戦に赴かせたとすれば、それこそ兵士を戦場に捨てるようなものである。私たちが思うに、三關國と辺境の重要な國を除き、國の大小に随って定数をさだめ、その上で富裕な百姓のなかから弓馬に堪能な者を選び出し、番に当たるごとに武芸を専習させれば、徴発があった場合に、行こうとしないようなことは殆どなくなるであろう。---≪続≫---

そして軟弱な者は、みなねぎらって農耕に赴かせる。これこそ防備を設けて、必要を省く策である。私たちが協議して定めたところを、以上のように具申する。伏して天皇の裁定をお待ちする・・・。天皇は奏上の通りに許可している。國ごとにそれぞれ兵士数が減員されている。

また、この時、諸司の仕丁・駕輿丁・丁及び三衛府の火頭などは、いたずらに庸と調を免除するばかりで、國に利益がなく、更に故郷を遠く離れて、多くは家業を損なっている。そこで彼等を本来の身分に従い、農耕に赴かすようにさせている。

十七日に藤原朝臣眞友()を少納言、石城王()を縫殿頭、高倉朝臣殿嗣(高麗朝臣殿繼)を治部少輔、石川朝臣清麻呂(眞守に併記)を民部大輔、多治比眞人繼兄を少輔、榮井宿祢道形を主計助、豊國眞人船城(船城王)を大藏少輔、參河王(三川王・三河王)を大膳大夫、船連住麻呂(淨足に併記)を官奴正、大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を衛門佐、藤原朝臣宗繼(宗嗣)を伊勢介、陽侯忌寸玲璆(陽侯史)を尾張介、葛井連根道(惠文に併記)を伊豆守、陰陽頭・天文博士の山上朝臣船主を兼務で甲斐守、藤原朝臣長川(長河。)を相摸守、藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を上総守、左京大夫の藤原朝臣種繼(藥子に併記)を兼務で下総守、上村主虫麻呂(墨繩に併記)を能登守、紀朝臣作良を丹波介、阿倍朝臣謂奈麻呂(こちら参照)を但馬介、紀朝臣白麻呂(本に併記)を因幡介、大伴宿祢繼人を伯耆守、中衛中將・内廐頭の道嶋宿祢嶋足(牡鹿連嶋足)を兼務で播磨守、山邊王()を備前守、紀朝臣眞子を備後守、田中朝臣飯麻呂(廣根に併記)を筑後守、紀朝臣門守を肥前守、小野朝臣滋野(小野虫賣に併記)を豊前守、陽侯忌寸人麻呂(陽侯史)を介に任じている。

二十日に池田朝臣眞枚(足繼に併記)を長門守、葛井連河守(立足に併記)を參河守に任じている。また、百濟王俊哲(②-)に従五位下を授けている。駿河國で飢饉が起こり、疫病が流行ったので使を遣わし、物を恵み与えている。

二十二日に陸奥國上治郡大領の伊治公呰麻呂が反乱を起こし、徒党を率いて、按察使・参議の「紀朝臣廣純」を伊治城において殺害している。「廣純」は、大納言で中務卿を兼ねた「麻呂」の孫で、左衛士督の「宇美」の子であった(こちら参照)。寶龜年中に地方官となり陸奥守に任ぜられ、次いで按察使に転任した。職にあって政務をみるのに、有能ぶりを称えられた。

「呰麻呂」は、元々服属した蝦夷の出身で、初めは訳あって「廣純」を嫌っていたが、怨みを匿し、偽って媚び仕えるふりをした。「廣純」はたいそう信用し、特に気を許していた。また、牡鹿郡大領の道嶋大楯(猪手に併記)は、常に「呰麻呂」を侮辱し、蝦夷として遇したのでこれを深く根に持った。時に「廣純」は建議して覺鼈柵を造り、衛兵や斥候を遠くに配置した。そして蝦夷の軍を率いて伊治城に入った時、「大楯」と「呰麻呂」が共に従っていた。

ここに至って「呰麻呂」は自ら内応し、蝦夷の軍を呼び寄せて誘い、叛乱を起こした。先ず「大楯」を殺し、衆を率いて按察使の「廣純」を囲み、攻めて殺害した。ひとり介の大伴宿祢眞綱だけを呼び、囲みの一角を開いて外に出し、多賀城(柵)にまで護って送り届けた。その城は長年國司の治所であり、兵器や食料を数えきれないほど蓄えていた。

このため城下の人民は競って入り、城中に保護を求めたが、「眞綱」と掾の石川淨足(毛比に併記)は密かに後門より出て逃走し、人民はついに拠り所を失って、たちまち散り散りになって去った。その数日後に賊徒は多賀城(柵)に至り、争って府庫のものを取り、重いものも残さず掠奪して去り、その後に残ったものには、火を放ち焼き払っている。

二十六日に伊勢國大目の「道祖首公麻呂」と白丁の「杖足」等に「三林公」の氏姓を賜っている。二十八日に中納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を征東大使、大伴宿祢益立紀朝臣古佐美を副使に任じている。判官・主典はそれぞれ四人である。

<紀朝臣東女>
二十九日に大伴宿祢眞綱を陸奥鎮守副将軍、安倍朝臣家麻呂を出羽鎮狄将軍に任じている。軍監・軍曹はそれぞれ二人である。征東副使の大伴宿祢益立に陸奥守を兼任させている。

● 紀朝臣東女

唐突に無位から正五位上を叙爵されている。天皇近親者への叙位は従四位下で、その一つ下の位階である。何とも高位を授けられたものである。

そんな状況をから、天皇の母親である「紀朝臣橡姫」及びその父親である「紀朝臣諸人」(こちら参照)に関わる人物だったのではなかろうか。あるいは天皇の乳母だったのかもしれない。

いずれにしても、「諸人・橡姫」の近隣を出自とする人物であったと推測される。東女=谷間の窪んだ地を突き通すようなところと解釈すると、図に示した場所見出せる。この後に登場されることもなく、委細は不明である。

<道祖首公麻呂-杖足>
● 道祖首公麻呂・杖足

「伊勢國」の大目を任じられている「公麻呂」は、伊勢の中心地、即伊勢大鹿辺りを居処としていたと推測される。「伊勢太神宮」の麓であり、「鈴鹿郡」と称されていた場所であろう(こちら参照)。

古事記に登場する伊勢大鹿首の居処であり、その娘から後の舒明天皇が誕生した地である。余談ぽくなるが、通説は定まっておらず、本居宣長説から抜け切れていないようである。

道祖首道祖=積み重なった高台の前に首の付け根のように窪んだ地があるところと解釈される。現在の虹山の南麓の地形を表していることが解り、「大鹿首」の別表記でもある。

採石によって山体崩壊しているため国土地理院航空写真1960~9年を参照する。公麻呂公=八+ム=谷間に小高くなった地がある様であり、この人物の出自場所を図に示した辺りと推定される。また、杖足=長く延びる山稜が足のような形をしているところと解釈すると、「公麻呂」の東隣の場所が出自と思われる。

賜った三林公三林=谷間に延びる山稜が三段になって並び立っているところと読み解ける。「道(首)」の地形ではなく、彼等の背後にある谷間の地形に基づく名称に変えているのである。尚、百濟系帰化人の「己智」を祖とする一族の中に「三林公」・山村忌寸(山村許智)等があったと知られている。同族だったようである。

少し後に伊勢大神宮禰宜の神主礒守が外従五位下を叙爵されている。「神主」一族は既に幾人かが登場し、居処は伊勢大神宮(現在の蒲生八幡神社)の傍らの谷間と推定した。礒守=肘を張ったように曲がる山稜に囲まれている地の前がギザギザとしているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。「礒」は、紫川の”磯”と解釈することもできそうである。

夏四月戊戌。授征東副使正五位上大伴宿祢益立從四位下。辛丑。勅。備前國邑久郡荒廢田一百餘町。賜右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂。辛亥。造酒正從五位下中臣丸朝臣馬主爲兼上総員外介。壬子。左京人椋小長屋女一産三男。賜乳母一人并稻。甲寅。從五位上藤原朝臣黒麻呂爲治部大輔。正五位上大伴宿祢潔足爲左兵衛督。庚申。授從五位下百濟王俊哲從五位上。」山背國愛宕郡人正六位上鴨祢宜眞髮部津守等一十人賜姓賀茂縣主。辛酉。授正六位上多治比眞人宇美從五位下。命婦從五位上橘朝臣御笠正五位上。」以從五位上上毛野朝臣稻人爲越後員外守。 

四月四日に征東副使の大伴宿祢益立に従四位下を授けている。七日に勅されて、備前國邑久郡の荒廃田百町余りを、右大臣の大中臣朝臣清麻呂に賜っている。十七日に造酒正の中臣丸朝臣馬主に上総員外介を兼任させている。十八日に左京の人である「椋小長屋女」が一度に三人の男子を産んだので、乳母一人と稲を賜っている。

二十日に藤原朝臣黒麻呂()を治部大輔、大伴宿祢潔足(池主に併記)を左兵衛督に任じている。二十六日に百濟王俊哲(②-)に従五位上を授けている。また、「山背國愛宕郡」の人である「鴨祢宜眞髮部津守」等十一人に「賀茂縣主」の氏姓を賜っている。二十七日に多治比眞人宇美(海。歳主に併記)に從五位下、命婦の橘朝臣御笠(橘宿祢)に正五位上を授けている。また、上毛野朝臣稻人(馬長に併記)を越後員外守に任じている。

<椋小長屋女>
● 椋小長屋女

多産の女性に関する記事が続いている。直近では、本紀で「丹後國与謝郡人采女部宅刀自女一産三男」と記載されていた。今回と同様に三つ子が誕生していた。

この類の物語は、空白の場所を埋めるがごときもので、突止めるのに些か手間取るのであるが、一方で”瑞祥”と同じく、その地の情報提供として貴重なのである。

氏名に含まれる椋=木+京=山稜が大きな丘のようになっている様と解釈した。名前の小長屋=尾根が長く延びた前が三角に尖っているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。

諸王・女王の出自場所と推定した山稜の端に当たる。平城宮に遷都する以前から住み着いていた一族なのであろう。おそらく松井連奈良忌寸等と同様な渡来系かと推測される。この後に登場されることはない。

<山背國愛宕郡:鴨祢宜眞髮部津守[賀茂縣主]>
山背國愛宕郡

「山背國愛宕郡」は、記紀・續紀を通じて初見である。左図に示したように山背國の領域と思われる場所で「愛宕」の地形は、「葛野郡」の東側に隣接する谷間であることが解った。

愛=旡+心+夂=足を大きく広げたような山稜の端が延びて尽きている様と解釈した。一方「宕」は地名・人名に用いられたのは初めてである。

あらためて文字解釈を行うと、「宕(トウ)」=「宀+石」と分解される。ここで「石」は「碭(トウ)」の略体と解説されている。地形象形的には「宕」=「山稜に挟まれた麓の谷間に丸く小高い地が突き出ている様」と解釈される。纏めると、愛宕=足を大きく広げたような山稜が延び尽きている麓の谷間に小高い地が突き出ているところと読み解ける。

延び尽きた山稜で挟まれて地であり、西側は「葛野郡」との境界になっているが、現在の行政区分では、共に田川郡赤村赤に属する領域である。その東側は京都郡みやこ町(犀川喜多良)との境界となっていることが分かる。この地は豊前國遠珂郡と推定した場所である。

● 鴨祢宜眞髮部津守 ”鴨が葱を背負って来る:お厚来い向き”のような名称なのであるが、しっかりと地形象形しているようである。「鴨」=「甲+鳥」=「山稜が甲羅があるような鳥の形をしている様」、「祢(禰)」=「示+爾」=「高台が広がっている様」、「宜」=「宀+且」=「積み重なった地が山稜に挟まれている様」である。

纏めると、鴨祢宜=甲羅があるような鳥の形をしている山稜の麓で積み重なった高台が広がっているところと解釈される。眞髮=髪の毛のような山稜が寄せ集められて窪んだところと読み解ける。図の場所が氏名である鴨祢宜眞髮の地形であることが解る。部=近隣を表すとする。

既出である名前の津守=両肘を張り出したような山稜の前の水辺で筆のような形をした地があるところと解釈したが、その地形の場所がこの人物の出自と推定される。賜った賀茂縣主は、「鴨」の地形を「縣」=「首(逆さ文字)+系」=「首のような地がぶら下がっている様」と見做した表記であろう。

五月辛未。以京庫及諸國甲六百領。且送鎭狄將軍之所。甲戌。左京人從六位。下莫位百足等一十四人。右京人大初位下莫位眞士麻呂等一十六人並賜姓清津造。左京人從六位上斯﨟行麻呂賜姓清海造。右京人從七位下燕乙麻呂等一十六人並賜姓御山造。正八位上韓男成等二人賜姓廣海造。武藏國新羅郡人沙良眞熊等二人賜姓廣岡造。攝津國豊嶋郡人韓人稻村等一十八人賜姓豊津造。」勅出羽國曰。渡嶋蝦狄早効丹心。來朝貢獻。爲日稍久。方今歸俘作逆。侵擾邊民。宜將軍國司賜饗之日。存意慰喩焉。乙亥。伊豆國疫飢。賑給之。丁丑。勅曰。機要之備不可闕乏。宜仰坂東諸國及能登。越中。越後。令備糒三万斛。炊曝有數。勿致損失。己夘。勅曰。狂賊乱常。侵擾邊境。烽燧多虞。斥候失守。今遣征東使并鎭狄將軍。分道征討。期日會衆。事須文武盡謀。將帥竭力。苅夷姦軌。誅戮元凶。宜廣募進士。早致軍所。若感激風雲。奮勵忠勇。情願自効。特録名貢。平定之後。擢以不次。」河内國高安郡人大初位下寺淨麻呂賜姓高尾忌寸。壬辰。伊勢太神宮封一千廿三戸。大安寺封一百戸。隨舊復之。」授无位置始女王從五位下。

五月八日に京の庫及び諸國にある甲六百領を鎮狄将軍の許に送ることにしている。十一日に左京の人である「寞位百足」等十四人、右京の人である「寞位眞士麻呂」等十六人にそれぞれ「清津造」、左京の人である斯﨟行麻呂(國足に併記)に「清海造」、右京の人である「燕乙麻呂」等十六人に「御山造」、「韓男成」等二人に「廣海造」、武藏國新羅郡の人である「沙良眞熊」等二人に「廣岡造」、攝津國豊嶋郡の人である韓人稻村(秦井手小足に併記)等十八人に「豊津造」の氏姓を賜っている。

この日、出羽國に次のように勅されている・・・渡嶋蝦夷が先に誠意をつくして来朝し、献上物を貢納してから、ようやく長い月日が経とうとしている。まさに今、帰服した蝦夷が叛逆を起こし、辺境の民を侵し騒がせている。鎮狄将軍や國司は蝦夷に饗宴を賜る日に、特に心掛けて労い喩すように・・・。

十二日に伊豆國で疫病が流行り、飢饉があったので物を恵み与えている。十四日に次のように勅されている・・・軍事上重要な備えは欠いてならない。坂東諸國及び能登・越中・越後に命じて、糒三万石を準備させよ。飯を炊き、日に干すには限りがあるので、損失を出すことのないように・・・。

十六日に次のように勅されている・・・狂暴な賊徒が平和を乱し、辺境を侵し騒がせている。しかし、烽火台には間違いが多く、斥候は見張りを誤っている。今、征東使と鎮狄将軍を遣わし、別々の道から征討させている。日を決めて大軍を集合させるからは、文官と武官が議論を尽くし、将軍は力を尽くして、悪賢い計画を立てる者を苅り平らげ、元凶を誅殺すべきである。広く進士を募り、早く軍営に送れ。もし機会を与えられたことに感激して、忠勇を奮い励み、自ら力を尽くすことを願うならば、特に名を記録して奉れ。平定した後に、異例の抜擢を行うであろう・・・。

この日、河内國高安郡の人である「寺淨麻呂」に「高尾忌寸」の氏姓を賜っている。二十九日に伊勢太神宮の封戸千二十三戸と大安寺の封戸百戸を旧来の通りに復している。また、「置始女王」に従五位下を授けている。

<寞位百足-眞士麻呂[清津造]>
● 寞位百足・寞位眞士麻呂

同一の氏名でありながら左京人と右京人に別れているのは、称徳天皇紀に宿祢姓を賜った神麻續連一族が登場していた。平城宮を中心にして左右に分けられた地域に跨った地を居処としていたと推定した。

この宿祢一族は、平城宮の北側であったが、おそらく今回は南側の地域と思われる。早速に各人の名称が表す地形を求めてみよう。

寞位の「寞」=「宀+莫」と分解される。相摸國の「摸(手+莫)」に含まれる文字要素であることが解る。同様に解釈すると「寞」=「山稜に挟まれた谷間が隠されているような様」となる。即ち、谷間を横切る山稜が延びている様子を表している。纏めると、寞位=山稜に挟まれて隠された谷間が並んでいるところと読み解ける。

図に示した場所で凹凸のある山稜が延びて囲まれた谷間が二つ並び連なっていることが解る。尋常な文字使いではないが、実に適切な表記と思われる。左京人の百足=丸く小高い地が連なって足のような形をしているところと解釈される。”靈龜”の清海造(斯﨟)一族等の西側に当たる場所である。

右京人の眞士麻呂眞士=突き出た地がある山稜が寄り集まって窪んだところと解釈すると、「百足」の前にある谷間を表していることが解る。彼等は清津造の氏姓を賜っているが、清津=水辺で四角く囲まれた地と筆のような山稜が並んでいるところと読み解ける。”和風”らしい名称となったようである。左右京の振り分け、絶妙であろう。

燕乙麻呂[御山造]>
<韓男成-眞成[廣海造]
● 燕乙麻呂・韓男成

右京人となっている渡来系の人々については、聖武天皇紀に上部眞善・乙麻呂が登場していた。「上部」とは”石上の近隣”と推定した。また、淳仁天皇紀には多くの渡来人達に”和風”の氏姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。

その中に韓遠智に「中山連」を賜姓したとあり、今回も”石上”の谷間に棲息していた人物達と推測される。勿論、賜姓は統治するための重要な手段であり、恭順を表している。

韓男成の出自は、図に示した「遠智」の西側の場所と推定される。男成=[男]のような山稜の麓にある平らに整えられたところと解釈される。また、賜った廣海造廣海=水辺で母が両腕で抱えるように延びた山稜の前が広がっているところと解釈すると、「韓」の地形の別表記となっている。

少し後に韓眞成廣海造の氏姓を賜ったと記載されている。眞成=平らに整えられた地が寄り集まって窪んだところと解釈すると、図に示した「男成」に隣接する場所が出自と推定される。

燕乙麻呂燕=山稜が[燕]のような形をしている様と解釈される。その特徴である二つの長い尾を持っている姿を模したのであろう。頻出の乙=[乙]の形に曲がっている様であり、些か地図上での確認が難しいが、図に示した場所が出自と思われる。賜った御山造御山=[山]の形に延びる山稜を束ねているところと解釈される。中山寺の近隣の地形を表している。

<沙良眞熊[廣岡造]>
● 沙良眞熊

淳仁天皇紀に「武藏國新羅郡」の人の「新良木舍姓縣麻呂」に「清住造」、「須布呂比滿麻呂」に「狩高造」を賜姓したと記載されていた。少し後に「清住造前麻呂」も登場している(こちら参照)。

帰化した新羅系の人々を武藏國の閑地に新しく郡建てして住まわせたと伝えている。なかなかに優れた人々だったようで、人数も増えて開拓が進捗したのであろう。

この南側に埼玉郡が設置されているが、聖武天皇紀にそこい住まう新羅人に「金」の氏名を賜ったと記載されていた。武藏國東部は新羅人の地となっていたようである。

沙良=水辺に延びて端が三角に尖った山稜がなだらかになっているところ眞熊=隅の地が寄り集まって窪んだところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。賜った廣岡造は、その場所の東側の地形に着目したものであろう。

<寺淨麻呂[高尾造]>
● 寺淨麻呂

「河内國高安郡」については、淳仁天皇・称徳天皇の両紀に無姓の渡来人への賜姓が行われている。上記の韓一族も、その中に含まれている(豊田造高安造)。

書紀の孝徳天皇紀に高向史玄理が登場したり、古くから渡来系の人物が住み着いていた場所なのであるが、実のところ、「高安郡」はここで初めて登場しているのである。

今回登場の「寺淨麻呂」の「寺」の地形象形表記として、貴重である。あらためて文字解釈を行ってみると、「寺」=「之+寸」であり、「進んで止まる」を繰り返している様を表している。「時」=「日+寺」=「太陽が進んで止まるを繰り返す様」なのである。”具象”を用いて抽象的な概念を表すのである。

地形象形表記とすることは、逆に”抽象”を地形という具象的な概念に還元することになる。即ち寺=之+寸=川が蛇行して流れている様を表していると読み解ける。現在の長峡川上流域の川の様子を表現していることになる。淨麻呂に含まれる頻出の淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

賜姓である高尾忌寸高尾=尾のような山稜がが皺が寄ったように見えるところと解釈される。視点が川側からではなく山側に移ったのである。分かり易い表現となっている。やはり「寺」は難解のなのであろう。

<置始女王・名繼女王・伊賀香王>
● 置始女王

無位から従五位下を叙爵されているが、寶龜七(776)年七月に従四位下で亡くなったと記載された同一名の女王とは別人であろう。

この女王も系譜不詳であり、出自の場所を名前が示す地形から「氷高皇女」(後の元正天皇)の南隣と推定した(こちら参照)。

度々登場する系譜不詳であるが、「白壁王」の係累に関わる王・女王に一人だったのではなかろうか。名前が示す地形からその出自場所を求めることにする。

置始=塞がれている真っ直ぐな出口がある谷間の奥に嫋やかに曲がる耜のような山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「三關王」の背後の谷間に当たる。この後に一度だけ登場され、従五位上を叙位されている。

直後に名繼女王が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同じく系譜不詳の白壁王絡みの人物と推測してみると、図に示した場所が出自ではなかろうか。国土地理院航空写真1974~8年を参照して、名繼=山稜の端の三角になった地が連なっているところの地形であることが解る。

更に後(桓武天皇紀)に伊賀香王(初見では伊香賀王と表記)が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳であり、白壁王・山部王関連として、伊賀香=谷間に区切られた山稜が押し開いた窪んだ谷間から稲穂のような山稜が延びているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。その後幾度か登場されるようである。










2024年5月13日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(25) 〔676〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(25)


寶龜十一(西暦780年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

十一年春正月丁夘朔。廢朝。雨也。宴五位已上於内裏。宴訖賜被。。天皇御大極殿受朝。唐使判官高鶴林。新羅使薩飡金蘭蓀等。各依儀拜賀。辛未。新羅使獻方物。仍奏曰。新羅國王言。夫新羅者。開國以降。仰頼聖朝世世天皇恩化。不乾舟楫。貢奉御調年紀久矣。然近代以來。境内姦冦。不獲入朝。是以謹遣薩飡金蘭蓀。級飡金巌等。貢御調兼賀元正。又訪得遣唐判官海上三狩等。隨使進之。又依常例進學語生。」參議左大弁正四位下大伴宿祢伯麻呂宣勅曰。夫新羅國。世連舟楫供奉國家。其來久矣。而泰廉等還國之後。不修常貢。毎事无禮。所以頃年返却彼使。不加接遇。但今朕時。遣使修貢兼賀元正。又搜求海上三狩等。隨來使送來。此之勤勞。朕有嘉焉。自今以後。如是供奉。厚加恩遇。待以常禮。宜以茲状語汝國王。是日宴唐及新羅使於朝堂。賜祿有差。授女孺无位大伴宿祢義久從五位下。壬申。授新羅使薩飡金蘭蓀正五品上。副使級飡金巖正五品下。大判官韓奈麻薩仲業。少判官奈麻金貞樂。大通事韓奈麻金蘇忠三人。各從五品下。自外六品已下各有差。並賜當色并履。癸酉。宴五位已上。及唐新羅使於朝堂。賜祿有差。」授從五位上田上王。山邊王並正五位下。正五位下安倍朝臣東人。大伴宿祢潔足並正五位上。從五位上石川朝臣眞守。大中臣朝臣宿奈麻呂並正五位下。從五位下紀朝臣古佐美從五位上。正六位上豊國眞人船城。八多眞人唐名。阿倍朝臣祖足。多治比眞人繼兄。文屋眞人与伎。路眞人玉守。紀朝臣眞人。藤原朝臣眞友。藤原朝臣宗嗣。巨勢朝臣廣山。佐伯宿祢鷹守。紀朝臣馬借並從五位下。正六位上縵連宇陀麻呂。小塞宿祢弓張並外從五位下。丁丑。授從五位下笠王從五位上。庚辰。大雷。災於京中數寺。其新藥師寺西塔。葛城寺塔并金堂等。皆燒盡焉。壬午。賜唐及新羅使射及踏歌。乙酉。詔曰。令順四時聖人之茂典。網解三面哲后之深仁。朕錫命上玄君臨下土。政先儉約志在憂勤。雖道謝潜通功慚日用。而邇安遠至。歳稔時邕。今者。三元初暦。万物惟新。宜順陽和播茲凱澤。自寳龜十一年正月十九日昧爽已前大辟已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸皆赦除。但犯八虐。故殺人。私鑄錢。強竊二盜。及常赦所不免者。不在赦限。天下百姓宜免今年田租。又免寳龜十年以往遭年不登申官正税未納。神寺之稻亦宜准此。丙戌。詔曰。朕以。仁王御暦法日恒澄。佛子弘猷惠風長扇。遂使人天合應邦家保安。幽顯致和鬼神無爽。頃者彼蒼告譴災集伽藍。眷言于茲。情深悚悼。於朕不徳雖近此尤。於彼桑門寧亦無愧。如聞緇侶行事与俗不別。上違无上之慈教。下犯有國之道憲。僧綱率而正之。孰其不正乎。又諸國國師。諸寺鎭三綱。及受講復者。不顧罪福專事請託。員復居多侵損不少。如斯等類不可更然。宜修護國之正法。以弘轉禍之勝縁。凡厥梵衆。知朕意焉。庚寅。授无位矢野女王從五位下。

正月一日に朝賀を廃している。雨が降ったためである。五位以上を内裏に集めて宴を催している。宴が終わってから夜具を賜っている。三日に大極殿に出御されて、朝賀を受けられている。唐使判官の高鶴林、新羅使の金蘭蓀等も儀礼に従って拝賀している。

五日に新羅使が土地の産物を献上し、以下のような國書を奏上している・・・新羅國王(惠恭王)が申し上げる。そもそも新羅は開國以来、聖朝代々の天皇を仰いで恵み深い教化を頼みとし、久しい昔から、船の舵の乾く間もなく、御調を貢上した来た。ところが、近年國内によこしま外敵が侵入し、入朝することができなかった。このため、謹んで薩飡の金蘭蓀、級飡の金巌等を派遣し、御調を貢上すると共に、新年を祝賀させる。また、遣唐判官の海上三狩を尋ね当てたので、使と共に帰國させる。また、慣例に従って、学語生を進上する・・・。

参議・左大弁の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)は、勅を受けて次のように宣している・・・そもそも新羅國は、久しい昔から代々舟の舵を連ねて、我が國に仕えて来た。ところが、金泰廉等が帰國したのち、恒例の貢物を用意することなく、何事につけても無礼である。このため、近年はその使を追い返し、応待することをしなかった。---≪続≫---

但し今、朕の時にあたり、使を遣わして貢物を用意し、併せて新年を祝賀して来た。また、海上三狩等を捜し求め、来朝した使に付けて送って来た。こうした忠勤の苦労は朕のよみするところである。今から後も、このように仕えるならば厚く恵み深い待遇を与えて、通常の礼式で応待するであろう。宜敷くこのことを汝の國王に語るように・・・。

この日、唐及び新羅の使を朝堂に召して宴を催し、それぞれに禄を賜っている。また、女孺の大伴宿祢義久(古珠瑠河に併記)に従五位下を授けている。六日に新羅使の金蘭蓀に正五品上、副使の金巌に正五品下、大判官の薩仲業・少判官の金貞樂・大通事の金蘇忠の三人に従五品下、それ以外の者にそれぞれ六位以下を授け、位階に応じた色の朝服と履を賜っている。

七日に五位以上及び唐・新羅の使を朝堂に集めて宴を催し、それぞれに禄を賜っている。田上王山邊王()に正五位下、安倍朝臣東人(廣人に併記)大伴宿祢潔足(池主に併記)に正五位上、石川朝臣眞守大中臣朝臣宿奈麻呂(子老に併記)に正五位下、紀朝臣古佐美に從五位上、豊國眞人船城(船城王)・「八多眞人唐名」・阿倍朝臣祖足(石行に併記)・「多治比眞人繼兄・文屋眞人与伎」・路眞人玉守(鷹養に併記)・紀朝臣眞人(大宅に併記)・「藤原朝臣眞友・藤原朝臣宗嗣」・巨勢朝臣廣山(馬主に併記)・「佐伯宿祢鷹守・紀朝臣馬借」に從五位下、「縵連宇陀麻呂」・小塞宿祢弓張(小塞連)に外從五位下を授けている。

十一日に笠王に従五位上を授けている。十四日に大きな雷があり、京中の数寺に火災が起きている。新藥師寺(平城藥師寺)の西塔、葛城寺の塔と金堂などが、悉く全焼している。十六日に唐・新羅使のために射礼及び踏歌を催している。

十九日に次のように詔されている・・・法を四季に順わせるのは、聖人の優れた教えであり、四面の網の三面を解くのは(雁字搦めにしない。中国の故事による)、明君の深い思いやりである。朕は天帝の命を受けて天下に君臨し、政治は倹約を先とし、将来を憂えて勤めることを心掛けとしている。教化が國の隅々に行き渡らないことを遺憾に思い、治績が日毎に上がらないこと慚じいる次第であるが、幸いに近くの國内の人民は安らぎ、遠い外國の人々は慕い寄って来て、穀物は豊かに稔り、時節も和らいでいる。---≪続≫---

また、今は新年になって暦が改まり、万物はまさに新しくなっている。宜敷く春ののどかさに順って、この平和の恩恵を広く及ぼそう。寶龜十一年正月十九日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重を問わず、既に発覚したもの、まだ発覚しないもの、罪の確定したもの、確定しないもの、現に獄に繋がれている囚徒も、悉く赦免せよ。但し八虐を犯したもの、故意の殺人、贋金造り、強盗・窃盗、及び通常の恩赦では免されないものは、恩赦の範囲に入れない。天下の人民に今年の田租を免除する。また寶龜十年以後に不作に遇い、太政官に申告した正税の未納分は免除する。神社・寺院の稲もまた同様である・・・。

二十日に次のように詔されている・・・朕が思うに、慈悲深い王者が暦を統御すれば、仏法の日々は恒に澄み、仏弟子の君主が道を弘めれば、恵みの風は長く勢いを得るであろう。その結果、人と天は相応じて、國家は安寧になり、幽界と顕界は互いに調和して、鬼神が調和を破ることはなくなるであろう。---≪続≫---

ところが此の頃天がとがめを告げ知らせ、火災が伽藍に集中した。これを顧み思うと、情に深くおそれ慎んでいる。朕の徳のなさは、この を受けても仕方がないとも思うが、仏門の人々もまた心に愧じるところはないであろうか。聞くところによれば、近年の僧侶の行いは俗人と異ならず、上は無上の慈しみ深い教えに違い、下は國家の法律を犯している。---≪続≫---

僧綱が率先してこれを正しておれば、誰が不正を起こすであろうか。また、諸國の國師や諸寺の鎮・三綱、及び講義や復習を受けるものは、罪か福かを考慮せず、もっぱら物を頼み込んでいる。人員ばかりが多く居て、損害が少なくない。これらの類は放置すべきではない。宜敷く護國の正しい法を修めて、禍を転じて優れた因縁を弘めるようにせよ。全てそれらの僧達に朕の意志を知らせよ・・・。

二十四日に矢野女王(山上王に併記)に従五位下を授けている。

<八多眞人唐名>
● 八多眞人唐名

「八多眞人」の表記は、記紀・續紀を通じて初見であろう。勿論、書紀では『八色之姓』に記載された眞人姓を授けられた「羽田公」、續紀では「波多眞人」と表記された一族である(こちらこちら参照)。

古事記の建内宿禰の子の波多八代宿禰を祖とする一族が広がった「出雲」の端、「淡海」に面する場所を示しているのである。書紀も續紀も、決して多くは語らないところである。

直近では聖武天皇紀に波多眞人繼手(足嶋に併記)が登場して以来だから、極めて希少な眞人であり、叙位の記載はあるが、その後に関連する記述は見られない様子である。

今回登場人物の名前の唐名=山稜の端が四方に広がっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。現在の小森江西小学校の近隣の場所である。「八多眞人」としても、この後に記載されることはないようである。

<多治比眞人繼兄-豊繼>
<岡成[長岡朝臣]>
● 多治比眞人繼兄

「多治比眞人」一族からの高位者出現は殆ど見られなくなったが、それでも連綿と新人が登場し続けている。光仁天皇紀に入っては、歳主・三上・濱成・年持などが叙位されている。

系譜が伝わっている人物も、ちらほらと見受けられている。今回登場の繼兄は、左大臣「嶋」の子である中納言・式部卿の廣成の子と知られているようである。

繼兄=奥が広がっている谷間を繋げるところと解釈される。図に示したように「豊濱・乙安」と「林」の谷間を「兄」で表現していることが解る(こちら参照)。「廣成」の南隣、「伯」(谷間がくっ付いて並んでいるところ)の対岸が出自の場所と推定される。

この後に續紀中では昇進はされないが、幾度か任官されて登場されている。最終従四位上・神祇伯であったと知られているようである。「多治比眞人」の中では高位を授けられた人物の一人となったようである。

後(桓武天皇紀)に多治比眞人豊繼が従五位下を叙爵されて登場する。天皇の皇太子時代の女孺であり、岡成(王)を誕生させたと知られている。後に長岡朝臣の氏姓を賜ったと記載されている。豐繼=[豐]の地が連なっているところと解釈すると、豊濱の近隣に出自場所を求めることができる。「岡成」は、その近隣と思われる。

<文屋眞人与伎-眞屋麻呂-大原>
● 文屋眞人与伎

「文室(屋)眞人」は、長皇子の子である智努王・大市王が臣籍降下後に賜った氏姓である。既に多くの人物が登場していて、なかなかの繁栄ぶりのようである。

最終の位階・職位については、「智努(淨三)」が従二位・御史大夫、「大市」が正二位・大納言になっているので、彼等の子孫の登用が盛んであったのは頷けるところである。

今回従五位下を叙爵された「与(與)伎」は、調べると「淨三」の子と知られていることが分かった。勿論、その近隣の地が出自となる。既出の「與」=「左手+右手+与」=「両手が噛み合うように並んでいる様」と解釈した。

纏めると與伎=山稜が両手が噛み合うように並んだ谷間が二つに岐れているところと読み解ける。図に示した前出の忍坂麻呂の北側の場所を表していると思われる。別名の文室眞人那保企で幾度か登場され、續紀中では正五位上、最終従四位下まで
昇進されたとのことである。「那保企」も申し分のない地形象形表記であろう。

後(桓武天皇紀)に兄弟と知られている文室眞人眞屋麻呂文室眞人大原がそれぞれ従五位下を叙爵されて登場する。眞屋=山稜が延び至った先が寄り集まって窪んだところ大原=平らな頂の山稜の麓に平らに広がっているところと解釈される。

残念ながら、国土地理院航空写真1961~9年を参照しても、広大な貯水池になっていて、当時の地形を確認することが叶わず、図に示した辺りが出自と推測される。

<藤原朝臣眞友-雄友-弟友-友人-吉子>
● 藤原朝臣眞友

藤原南家の是公(黒麻呂)の長男と知られている。他の弟・妹の出自場所を併せて求めてみよう。地図の解像度、いよいよ限界に迫る状況である。

四兄弟に共通する既出の友=又+又=手のような山稜が二つ並んで延びている様と解釈した。天智天皇の大友皇子に用いられた文字である。

❶眞友=窪んだ地に[友]の山稜が寄り集まっているところ
❷雄友=羽を広げた鳥のように[友]の山稜が延びているところ
❸弟友=[友]の山稜の前でギザギザとしているところ
❹友人=谷間が[友]の山稜に挟まれているところ

・・・と読み解ける。「是公」の背後の谷間に兄弟を並べたのである。「藤原四家・南家・乙麻呂・黒麻呂」に続く、それぞれの人物の出自場所は、大げさに述べれば、「記紀・續紀の名称は地形象形表記である」とする前提を揺るぎないものにしていると思われる。尚、「友人」は續紀中には登場しないようである。

❺吉子=生え出た山稜が蓋をするように延びているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。現在の平原川の蛇行に寄り添った地形を表していると思われる。後の桓武天皇(山部王)の夫人となる。母親は橘宿祢眞都我と知られている。

後に「眞友」は従四位上・参議、「雄友」は正三位・大納言、「弟友」は従五位上・侍従となったと伝えられている。衰えを知らぬ「藤原朝臣」一族である。

<藤原朝臣宗嗣-繩主-網主>
<-淨本-八綱-清綱-姉子>
● 藤原朝臣宗嗣

今度は式家の藏下麻呂の長男と知られている。上記と同様に他の弟・妹と併せて出自の場所を求めてみよう。地図上の解像度限界であることには変わりないようである。

異なるところは、共通の文字は限られているが、「繩・網・綱」に含まれる「糸」が表す山稜の形が多彩に寄り集まった地であることが解る。「式家」の山稜の端の地形を表現しているのであろう。

❶宗嗣=山稜に挟まれた高台の麓の谷間が狭まっているところ
❷繩主=[繩]のような山稜の端が真っ直ぐに延びているところ
❸網主=谷間の奥で隠されたような地に真っ直ぐな山稜が延びているところ
❹淨本=山稜が途切れた前の水辺で両腕で取り囲まれたようなところ
❺八綱=筋張ったような山稜が二つに岐れて延びているところ
❻清綱=筋張ったような山稜の麓に四角く取り囲まれたところ
❼姉子=生え出た山稜の前で嫋やかに曲がる谷間が寄り集まっているところ

・・・と読み解ける。図に示した場所が各々の出自場所と推定される。續紀中に登場されるのは「宗嗣」(最終従五位上・伊勢守)の他に「繩主」(従五位上・少納言)のみであり、他は委細不明のようである。南家の華々しさと比べると、地味な感じである。

遅ればせながらではあるが、今女伊久治は「田麻呂」(最終従二位・右大臣)の娘だったのかもしれない。『廣嗣の乱』に連座して隠岐國に配流されているので、家族情報は欠落したようにも思われるが、定かではない。

<佐伯宿祢鷹守>
● 佐伯宿祢鷹守

「佐伯宿祢」一族の本紀に入ってからの叙位の傾向は、『仲麻呂の乱』での功績があった伊多治の居処である佐伯の谷奧と眞守の谷間出口に近い山腹の二つを拠点としている。

いずれにしても今毛人のような谷間ではなく、急斜面の地に蔓延って行った、と言うか、それ以外には住まう地がなかったのであろう。”え!こんなところに?!”は現代人の偏見に過ぎないようである。

話しが横道に逸れそうなので・・・鷹守=二羽の鳥がくっ付いている並んでいる麓に両腕を張り出したような形の地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。現在の白山多賀神社を見上げる場所である。

図では省略しているが、神社周辺は、かつての『乙巳の変』の「佐伯連子麻呂」と共に主役を務めた「蘇我倉山田麻呂」(後に右大臣)の居処であり、後に自害し果てた場所でもある(こちら参照)。續紀の記述は完結に向かっているようである。

<紀朝臣馬借-木津魚>
● 紀朝臣馬借

「紀朝臣」一族、中でも多くの人材を輩出して来た上記の「大口」系列に今回の人物の名前は見当たらないようである(Wikipedia参照)。

そんな背景で「馬」の地形を求めて探索することにする。「馬」を含む人物名には「馬主」が登場していた。犬養・難波麻呂の父親と知られている(こちら参照)。

それと類似の地形を図に示した場所に見出すことができる。馬借の既出の「借」=「人+昔」=「谷間で積み重なっている様」と解釈した。聖武天皇紀に阿倍朝臣車借に用いられていた。纏めると馬借=[馬]の形の山稜が谷間で積み重なっているところと読み解ける。

この谷間は書紀の孝徳天皇紀に登場した紀麻利耆拕臣の居処と推定した。官人としてあるまじき不正を行ったとして処罰された人物である。その後この地に関連する記述は見られない。長い年月を経て近隣の人材が登用されたように思われる。續紀中ではこの後に幾度かの任用が記載されている。

少し後に紀朝臣木津魚が従五位下を叙爵されて登場する。御多分に漏れず系譜不詳の人物であって、名前が表す地形から出自場所を求めることになる。木津魚=[木]の形をした山稜が水辺で[筆]のように延びて先が[魚]の鰭のように細かく岐れているところと読み解ける。図に示した朝倉君の東側に当たる場所と推定される。後に京官・地方官を任じられ正五位上に昇進している。

<縵連宇陀麻呂>
● 縵連宇陀麻呂

書紀の天武天皇紀に「縵造忍勝」が”異畝同頴の嘉禾”を献上したと記載されていた(こちら参照)。勿論、珍しい稲穂ではなく土地を開拓したことを述べていると解釈した。また、『八色之姓』で連姓を賜っている。

續紀中では、聖武天皇紀に狛祁乎理和久が「古衆連」の氏姓を賜ったと記載されている。「縵」には含まれない地形である。

名前の宇陀麻呂宇陀=谷間に延び出た山稜が崖のようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。開拓された地で人々が住まっていたのであろうが、叙爵される人物の出現はなかったようである。この後に續紀中に再度登場されることはない。

二月丙申朔。以中納言從三位石上大朝臣宅嗣爲大納言。參議從三位藤原朝臣田麻呂。參議兵部卿從三位兼左兵衛督藤原朝臣繼繩。並爲中納言。本官如故。伊勢守正四位下大伴宿祢家持。右大弁從四位下石川朝臣名足。陸奧按察使兼鎭守副將軍從四位下紀朝臣廣純。並爲參議。」神祇官言。伊勢大神宮寺。先爲有祟遷建他處。而今近神郡。其祟未止。除飯野郡之外移造便地者。許之。」授正六位上藤原朝臣繼彦從五位下。丁酉。陸奧國言。欲取船路伐撥遺賊。比年甚寒。其河已凍。不得通船。今賊來犯不已。故先可塞其寇道。仍須差發軍士三千人。取三四月雪消。雨水汎溢之時。直進賊地。因造覺鼈城。於是下勅曰。海道漸遠。來犯無便。山賊居近。伺隙來犯。遂不伐撥。其勢更強。宜造覺鼈城碍膽澤之地。兩國之息莫大於斯。甲辰。以參議正四位下大伴宿祢家持爲右大弁。從四位下藤原朝臣雄依爲宮内卿。讃岐守如故。從五位下藤原朝臣末茂爲左衛士員外佐。肥後守如故。參議從四位下石川朝臣名足爲伊勢守。内藥正侍醫從五位下吉田連斐太麻呂爲兼相摸介。從五位下海上眞人三狩爲太宰少貳。丙午。陸奧國言。去正月廿六日。賊入長岡燒百姓家。官軍追討彼此相殺。若今不早攻伐。恐來犯不止。請三月中旬發兵討賊。并造覺鼈城置兵鎭戍。勅曰。夫狼子野心。不顧恩義。敢恃險阻。屡犯邊境。兵雖凶器。事不獲止。宜發三千兵。以刈遺蘖。以滅餘燼。凡軍機動靜。以便宜隨事。庚戌。授命婦正五位下石川朝臣毛比從四位下。」新羅使還蕃。賜璽書曰。天皇敬問新羅國王。朕以寡薄。纂業承基。理育蒼生。寧隔中外。王自遠祖。恒守海服。上表貢調。其來尚矣。日者虧違蕃禮。積歳不朝。雖有輕使。而無表奏。由是泰廉還日。已具約束。貞卷來時。更加諭告。其後類使曾不承行。今此蘭蓀猶陳口奏。理須依例從境放還。但送三狩等來。事既不輕。故修賓礼以荅來意。王宜察之。後使必須令齎表函。以礼進退。今勅筑紫府及對馬等戍。不將表使莫令入境。宜知之。春景韶和。想王佳也。今因還使附荅信物。遣書指不多及。壬戌。授正五位上淡海眞人三船從四位下。甲子。勅。去天平寳字元年。伊刀王坐殺人配陸奧國。久住配處未蒙恩免。宜宥其罪令得入京。

二月一日に中納言の石上大朝臣宅嗣を大納言、參議の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)と參議・兵部卿で左兵衛督の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)兼務のままで中納言、伊勢守の大伴宿祢家持と右大弁の石川朝臣名足と陸奧按察使兼鎭守副將軍の紀朝臣廣純を參議に任じている。

この日、神祇官が以下のように言上している・・・伊勢大神宮寺は以前に祟りがあったため、度會郡から他処(寶龜三[772]年八月に伊勢飯高郡度瀬山房と記載)に遷し建てたが、現在でも神郡(度會郡・多氣郡)に近いため、その祟りが止まない。これを飯野郡以外の適当な地に移建したいと思う・・・。これを許している。また、藤原朝臣繼彦(大繼に併記)に従五位下を授けている。

二日に陸奥國が以下のように言上している・・・船路をとって、まだ降伏していない賊を打ち払おうと思うが、近年はたいそう寒く、その河は既に凍り、船を通すことができない。しかし今も賊は来攻して犯すことを止めない。このため、先ずはその侵寇の道を塞ぐべきであろう。その上で軍士三千人を徴発し、三、四月の雪が消え、雨水の溢れる時をとらえて、賊地に直進し、「覺鼈城」を固め造ろうと思う・・・。

これに対して、次のように勅されている・・・「海道」(海道蝦夷)はいくらか遠いため、その方面の蝦夷が来攻するには不便である。しかし山地の賊は住居が近いため、隙を伺っては来攻する。いずれ伐ち撥わなければ、その勢いは更に強くなろう。そこで「覺鼈城」を造り、膽澤の地を取得せよ。両國の安寧にとって、これほど良いことはない・・・。

九日に參議の大伴宿祢家持を右大弁、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を讃岐守のままで宮内卿、藤原朝臣末茂()を肥後守のままで左衛士員外佐、參議の石川朝臣名足を伊勢守、内藥正・侍醫の吉田連斐太麻呂を兼務で相摸介、海上眞人三狩(三狩王)を太宰少貳に任じている。

十一日に陸奥國が以下のように言上している・・・去る正月二十六日に、賊が長岡に侵入し、民家を焼いた。官軍は追討したが、双方に死者が出た。もし今速やかに攻め伐たなければ、来攻・侵犯は止まないであろう。三月中旬に兵を発して賊を討ち、併せて「覺鼈城」を造り、兵士を置いて、國境を守ることを請願する・・・。

これに対して、次のように勅されている・・・狼は子供でも荒々しい心を持ち、恩義を顧みない。蝦夷も敢えて山川の険しいことを頼み、しばしば辺境を侵犯している。兵は人を損なう凶器ではあるが、それを用いる事も止むを得ない。宜敷く三千の兵を発して、いやしい残党を刈り取り、もって敗残兵を滅ぼしてしまうように。全て軍事作戦の発動は都合の良い機会に適宜行うようにせよ・・・。

十五日に命婦の石川朝臣毛比に従四位下を授けている。また、新羅使が帰る時に天皇の印を捺した詔書を与え、次のように宣べている・・・天皇は敬んで新羅國王に尋ねる。朕は徳の少ない身で、皇位を受け継いだ。人民を治め育むのに、どうして國の内外を分け隔てることがあろうか。王は遠祖より常に海外の土地を守り、久しい昔から上表して調を貢納して来た。---≪続≫---

ところが此の頃は蕃國として礼を欠き、長い年月にわたって朝貢せず、身分の低い使者は送っても上表文は奏上しない。このため金泰廉が帰る日に、既に詳しく取り決めをし、金貞巻が来朝した時に、再び告諭を加えた。しかし、その後も同様の使は、一度も取り決めを承った通りに行わず、今回の金蘭蓀も、尚口頭で上奏した。---≪続≫---

道理として前例により追い返すべきである。ただ、海上三狩等を送って来た事は尊重すべきであるので、特別に賓客を迎える礼を執り行って、来朝の意図に答えた。王は、宜敷くこれを察するように。今後の使者は必ず函に入った上表文をもたらし、礼にかなった振舞いを行うようにさせよ。---≪続≫---

今、筑紫府と對馬などの守備兵に、上表文を持たない使者は國に入れないように勅したおいた。宜敷くこのことを承知するように。王も健やかであろうと思う。今、帰る使に返礼の贈物を託した。遣わす書状では意を十分に尽くしていない・・・。

二十七日に淡海眞人三船に従四位下を授けている。二十九日に次のように勅されている・・・去る天平寶字元(757)年に、「伊刀王」は殺人罪に連坐して、陸奥國に配流された。久しく配所に住まり、未だ恩赦を受けていない。宜敷くその罪を宥して、入京できるようにさせよ・・・。

<覺鼈城
覺鼈城

陸奥國が言うには、雪解けを待って攻撃を仕掛けようと言う作戦を提言し、天皇の返答が当城が膽澤を封じ込めて確保するのに適した場所と認めている。

この賊の拠点は、出羽國志波村と共に少し前に記載されていた。現在の戸ノ上山山系の東麓に当たる場所と推定した。正に辺境の地であろう。

これだけで十分な記述なのであるが、覺鼈城という城名もちゃんと付けている。名付けられるとその場所を求める必要が生じたわけである。

あまり見かけない文字列であり、「覺」=「學(の上部)+見」と分解される。地形象形的には「覺」=「長く延びる谷間が交差する様」と解釈される。「鼈」=「敝+龜」と分解される。「敝」=「八+八+布+攴」と分解される。地形としては、「鼈」=「頭部が二つに岐れている[龜]のような様」と解釈される。

纏めると覺鼈=長く延びる谷間が交差する地に頭部が二つに岐れた[龜]のように山稜が延びているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出すことができる。谷奥が「膽澤」の地となる場所である。

余談だが、「鼈(音:ベツ。訓:スッポン)」の頭部は、確かに頭に窪んだ筋があって岐れている。通説では・・・他のカメとは違って甲羅が柔らかく、英語でSoft-shelled turtle(柔らかい甲羅を持つカメ)と呼ばれます。 「スポンスポン」という鳴き声や、水に飛び込んだときの音が名前の由来です・・・。漢字表記の素晴らしさ、であろう。

<伊刀王>
● 伊刀王

天平勝寶三(751)年に従五位下を叙位された伊刀王(道守王に併記)が登場していたが、その後も幾度か任官が記載されていて、全く配流の気配を伺えない有様である。

上記本文で「去天平寳字元年。伊刀王坐殺人配陸奧國」と記載されている。この年の事件は『橘奈良麻呂の乱』であった。おそらく”反仲麻呂”一派に関わった人物だったのではなかろうか。

「奈良麻呂」に出自周辺に伊刀王伊刀=谷間に区切られた山稜が[刀]の形をしているところの地形を示す場所が、この人物の出自と推定される。「諸兄」(葛木王)の北側の谷間である。

寶龜元(770)年七月に『奈良麻呂の乱』に連坐した者は、四百四十三人、その内罪の軽い者二百六十二人の復籍が許可されていた。「仲麻呂」の非道が明らかな人物は早期に復職させているが、単に歯向かっただけでは、それなりの理由付けが難しく、残りの百八十一人に埋もれていたのであろう。それにしても、未遂事件にしては、凄まじい処罰、「仲麻呂」の非道さを上書きしているようである。