天宗高紹天皇:光仁天皇(26)
寶龜十一年(西暦780年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
三月丙寅朔。授命婦正五位上百濟王明信從四位下。戊辰。出雲國言。金銅鑄像一龕。白銅香爐一口。并種種器物漂着海濱。戊寅。授无位紀朝臣東女正五位上。己夘。授從五位下津守宿祢眞常從五位上。辛巳。授從四位下神王正四位下爲參議。」太政官奏稱。分官設職。不在繁多。宣風導民。務於簡要。是以制令之日。限置官員。量才授能。職務不滯。今官衆事殷。而蚕食者多。穀帛難生而用之不節。一歳不登。便有菜色。古者人稠田少。而有儲蓄。由於節用也。今者地闢戸減而患不足。由於糜費也。臣等以爲。當今之急。省官息役。上下同心。唯農是務。特望。天恩許之。臣等并省官員。則倉廩實而禮義行。國用足而廉恥興矣。伏聽聖裁者。奏可之。於是毎司并省各有其數。事在別式。」又奏稱。濟世興化。寔佇九功。討罪威邊。亦資七徳。文武之道廢一不可。但今諸國兵士。略多羸弱。徒免身庸。不歸天府。國司軍毅。自恣駈役。曾未貫習。弓馬唯給。採苅薪草。縱使以此赴戰。謂之棄矣。臣等以爲。除三關邊要之外。隨國大小以爲額。仍點殷富百姓才堪弓馬者。毎其當番。專習武藝。属赴有徴發。庶幾免稽廢。其羸弱之徒勤皆令赴農。此設守備。省不急之道也。臣等商量所定。具状如左。伏聽天裁者。奏可之。毎國減省各有差。於是。諸司仕丁駕輿丁等厮丁及三衛府火頭等。徒免庸調。無益公家。遠離本郷。多破私業。仍從本色以赴農畝焉。壬午。從五位下藤原朝臣眞友爲少納言。從五位下石城王爲縫殿頭。從五位下高倉朝臣殿嗣爲治部少輔。從五位上石川朝臣清麻呂爲民部大輔。從五位下多治比眞人繼兄爲少輔。外從五位下榮井宿祢道形爲主計助。從五位下豊國眞人船城爲大藏少輔。從五位上參河王爲大膳大夫。外從五位下船連住麻呂爲官奴正。從五位下大伴宿祢弟麻呂爲衛門佐。從五位下藤原朝臣宗繼爲伊勢介。外從五位下陽侯忌寸玲璆爲尾張介。外從五位下葛井連根道爲伊豆守。陰陽頭天文博士從五位上山上朝臣船主爲兼甲斐守。從五位下藤原朝臣長川爲相摸守。從五位上藤原朝臣刷雄爲上総守。左京大夫正五位下藤原朝臣種繼爲兼下総守。外從五位下上村主虫麻呂爲能登守。從五位下紀朝臣作良爲丹波介。從五位下阿倍朝臣謂奈麻呂爲但馬介。從五位下紀朝臣白麻呂爲因幡介。從五位下大伴宿祢繼人爲伯耆守。中衛中將内廐頭正四位上道嶋宿祢嶋足爲兼播磨守。正五位下山邊王爲備前守。從五位下紀朝臣眞子爲備後守。從五位下田中朝臣飯麻呂爲筑後守。從五位下紀朝臣門守爲肥前守。從五位下小野朝臣滋野爲豊前守。外從五位下陽侯忌寸人麻呂爲介。乙酉。以從五位下池田朝臣眞枚爲長門守。外從五位下葛井連河守爲參河介。」授正六位上百濟王俊哲從五位下。」駿河國飢疫。遣使賑給之。丁亥。陸奧國上治郡大領外從五位下伊治公呰麻呂反。率徒衆殺按察使參議從四位下紀朝臣廣純於伊治城。廣純大納言兼中務卿正三位麻呂之孫。左衛士督從四位下宇美之子也。寳龜中出爲陸奧守。尋轉按察使。在職視事。見稱幹濟。伊治呰麻呂。本是夷俘之種也。初縁事有嫌。而呰麻呂匿怨。陽媚事之。廣純甚信用。殊不介意。又牡鹿郡大領道嶋大楯。毎凌侮呰麻呂。以夷俘遇焉。呰麻呂深銜之。時廣純建議造覺鼈柵。以遠戍候。因率俘軍入。大楯呰麻呂並從。至是呰麻呂自爲内應。唱誘俘軍而反。先殺大楯。率衆圍按察使廣純。攻而害之。獨呼介大伴宿祢眞綱開圍一角而出。護送多賀城。其城久年國司治所兵器粮蓄不可勝計。城下百姓竸入欲保城中。而介眞綱。掾石川淨足。潜出後門而走。百姓遂無所據。一時散去。後數日。賊徒乃至。爭取府庫之物。盡重而去。其所遺者放火而燒焉。辛夘。伊勢國大目正六位上道祖首公麻呂白丁杖足等賜姓三林公。癸巳。以中納言從三位藤原朝臣繼繩爲征東大使。正五位上大伴宿祢益立。從五位上紀朝臣古佐美爲副使。判官主典各四人。甲午。以從五位下大伴宿祢眞綱爲陸奧鎭守副將軍。從五位上安倍朝臣家麻呂爲出羽鎭狄將軍。軍監軍曹各二人。以征東副使正五位上大伴宿祢益立爲兼陸奧守。
三月一日に命婦の百濟王明信(①-⓱)に従四位下を授けている。三日に出雲國が厨子に入った金銅製の鋳物の仏像一つと白銅製の香炉一口、併せて種々の器物が海浜に漂着したと言上している。十三日に「紀朝臣東女」に正五位上を授けている。十四日に津守宿祢眞常(眞前)に従五位上を授けている。
十六日に神王(❸)に正四位下を授け、参議に任じている。また、太政官が以下のように奏上している・・・官職を分かち設けるのは、繁多にする目的ではなく、教えを宣べ民を導くためには、簡にして要を得るように努めるべきと思われる。このため、令を制定した時には、官人の数を最小限に定め、才能を量って能力ある者に職務をさずけたので、滞ることがなかった。---≪続≫---
今は官人も多く、仕事も増えているのに、蚕が桑を食べるように公費を消費している者がたくさんいるし、穀物や絹織物は作り出しにくいのに、これを節約して使うことをしていない。一年でも不作があれば、たちまち食料が不足して人民の顔色は青くなる有様である。---≪続≫---
昔は人口が多く田地が少なくても、蓄えがあったのは節約に努めたからである。今は土地が開け戸数が減ったのに、不足に思い悩むのは、浪費が原因である。私たちが思うに、現在の急務は官人を減らし労役を止め、上下の者が心を同じくして、ただただ農耕に力を入れることである。---≪続≫---
天皇の恵みによって、これを許されることを切にお願いする。官人の数を合併して減らすならば、たちまち倉庫には穀物が満ちて礼儀た行われ、國の財政は足りて、物欲を恥じる心が起こるであろう。伏して天皇の裁定をお待ちする・・・。天皇は奏上の通りに許可している。そこでそれぞれの官司ごとに合併・削減が行われている。詳しくは別式にある。
また、以下のように奏上している・・・世を済い強化を起こすには、真に九つの働きがが必要であり、罪を犯す者を討ち辺民を恐れさせるには、また七つの徳が不可欠である。文武の道は一つが欠けても成り立たない。しかし今、諸國の兵役はおおよそ軟弱な者が多く、いたずらに個人にかかる庸を免れて、國庫に納めていない。---≪続≫---
國司や軍毅は自ら恣に兵士を駆使し、全く慣れさせず、弓と馬はただ支給するのみで、薪や草を採らせている。仮にこの訓練のない兵士を戦に赴かせたとすれば、それこそ兵士を戦場に捨てるようなものである。私たちが思うに、三關國と辺境の重要な國を除き、國の大小に随って定数をさだめ、その上で富裕な百姓のなかから弓馬に堪能な者を選び出し、番に当たるごとに武芸を専習させれば、徴発があった場合に、行こうとしないようなことは殆どなくなるであろう。---≪続≫---
そして軟弱な者は、みなねぎらって農耕に赴かせる。これこそ防備を設けて、必要を省く策である。私たちが協議して定めたところを、以上のように具申する。伏して天皇の裁定をお待ちする・・・。天皇は奏上の通りに許可している。國ごとにそれぞれ兵士数が減員されている。
また、この時、諸司の仕丁・駕輿丁・厮丁及び三衛府の火頭などは、いたずらに庸と調を免除するばかりで、國に利益がなく、更に故郷を遠く離れて、多くは家業を損なっている。そこで彼等を本来の身分に従い、農耕に赴かすようにさせている。
十七日に藤原朝臣眞友(❶)を少納言、石城王(❾)を縫殿頭、高倉朝臣殿嗣(高麗朝臣殿繼)を治部少輔、石川朝臣清麻呂(眞守に併記)を民部大輔、多治比眞人繼兄を少輔、榮井宿祢道形を主計助、豊國眞人船城(船城王)を大藏少輔、參河王(三川王・三河王)を大膳大夫、船連住麻呂(淨足に併記)を官奴正、大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を衛門佐、藤原朝臣宗繼(宗嗣❶)を伊勢介、陽侯忌寸玲璆(陽侯史)を尾張介、葛井連根道(惠文に併記)を伊豆守、陰陽頭・天文博士の山上朝臣船主を兼務で甲斐守、藤原朝臣長川(長河。❷)を相摸守、藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を上総守、左京大夫の藤原朝臣種繼(藥子に併記)を兼務で下総守、上村主虫麻呂(墨繩に併記)を能登守、紀朝臣作良を丹波介、阿倍朝臣謂奈麻呂(こちら参照)を但馬介、紀朝臣白麻呂(本に併記)を因幡介、大伴宿祢繼人を伯耆守、中衛中將・内廐頭の道嶋宿祢嶋足(牡鹿連嶋足)を兼務で播磨守、山邊王(❽)を備前守、紀朝臣眞子を備後守、田中朝臣飯麻呂(廣根に併記)を筑後守、紀朝臣門守を肥前守、小野朝臣滋野(小野虫賣に併記)を豊前守、陽侯忌寸人麻呂(陽侯史)を介に任じている。
二十日に池田朝臣眞枚(足繼に併記)を長門守、葛井連河守(立足に併記)を參河守に任じている。また、百濟王俊哲(②-❶)に従五位下を授けている。駿河國で飢饉が起こり、疫病が流行ったので使を遣わし、物を恵み与えている。
二十二日に陸奥國上治郡大領の伊治公呰麻呂が反乱を起こし、徒党を率いて、按察使・参議の「紀朝臣廣純」を伊治城において殺害している。「廣純」は、大納言で中務卿を兼ねた「麻呂」の孫で、左衛士督の「宇美」の子であった(こちら参照)。寶龜年中に地方官となり陸奥守に任ぜられ、次いで按察使に転任した。職にあって政務をみるのに、有能ぶりを称えられた。
「呰麻呂」は、元々服属した蝦夷の出身で、初めは訳あって「廣純」を嫌っていたが、怨みを匿し、偽って媚び仕えるふりをした。「廣純」はたいそう信用し、特に気を許していた。また、牡鹿郡大領の道嶋大楯(猪手に併記)は、常に「呰麻呂」を侮辱し、蝦夷として遇したのでこれを深く根に持った。時に「廣純」は建議して覺鼈柵を造り、衛兵や斥候を遠くに配置した。そして蝦夷の軍を率いて伊治城に入った時、「大楯」と「呰麻呂」が共に従っていた。
ここに至って「呰麻呂」は自ら内応し、蝦夷の軍を呼び寄せて誘い、叛乱を起こした。先ず「大楯」を殺し、衆を率いて按察使の「廣純」を囲み、攻めて殺害した。ひとり介の大伴宿祢眞綱だけを呼び、囲みの一角を開いて外に出し、多賀城(柵)にまで護って送り届けた。その城は長年國司の治所であり、兵器や食料を数えきれないほど蓄えていた。
このため城下の人民は競って入り、城中に保護を求めたが、「眞綱」と掾の石川淨足(毛比に併記)は密かに後門より出て逃走し、人民はついに拠り所を失って、たちまち散り散りになって去った。その数日後に賊徒は多賀城(柵)に至り、争って府庫のものを取り、重いものも残さず掠奪して去り、その後に残ったものには、火を放ち焼き払っている。
二十六日に伊勢國大目の「道祖首公麻呂」と白丁の「杖足」等に「三林公」の氏姓を賜っている。二十八日に中納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を征東大使、大伴宿祢益立、紀朝臣古佐美を副使に任じている。判官・主典はそれぞれ四人である。
● 紀朝臣東女
唐突に無位から正五位上を叙爵されている。天皇近親者への叙位は従四位下で、その一つ下の位階である。何とも高位を授けられたものである。
そんな状況をから、天皇の母親である「紀朝臣橡姫」及びその父親である「紀朝臣諸人」(こちら参照)に関わる人物だったのではなかろうか。あるいは天皇の乳母だったのかもしれない。
いずれにしても、「諸人・橡姫」の近隣を出自とする人物であったと推測される。東女=谷間の窪んだ地を突き通すようなところと解釈すると、図に示した場所見出せる。この後に登場されることもなく、委細は不明である。
● 道祖首公麻呂・杖足
古事記に登場する伊勢大鹿首の居処であり、その娘から後の舒明天皇が誕生した地である。余談ぽくなるが、通説は定まっておらず、本居宣長説から抜け切れていないようである。
道祖首の道祖=積み重なった高台の前に首の付け根のように窪んだ地があるところと解釈される。現在の虹山の南麓の地形を表していることが解り、「大鹿首」の別表記でもある。
採石によって山体崩壊しているため国土地理院航空写真1960~9年を参照する。公麻呂の公=八+ム=谷間に小高くなった地がある様であり、この人物の出自場所を図に示した辺りと推定される。また、杖足=長く延びる山稜が足のような形をしているところと解釈すると、「公麻呂」の東隣の場所が出自と思われる。
賜った三林公の三林=谷間に延びる山稜が三段になって並び立っているところと読み解ける。「道(首)」の地形ではなく、彼等の背後にある谷間の地形に基づく名称に変えているのである。尚、百濟系帰化人の「己智」を祖とする一族の中に「三林公」・山村忌寸(山村許智)等があったと知られている。同族だったようである。
少し後に伊勢大神宮禰宜の神主礒守が外従五位下を叙爵されている。「神主」一族は既に幾人かが登場し、居処は伊勢大神宮(現在の蒲生八幡神社)の傍らの谷間と推定した。礒守=肘を張ったように曲がる山稜に囲まれている地の前がギザギザとしているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。「礒」は、紫川の”磯”と解釈することもできそうである。
夏四月戊戌。授征東副使正五位上大伴宿祢益立從四位下。辛丑。勅。備前國邑久郡荒廢田一百餘町。賜右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂。辛亥。造酒正從五位下中臣丸朝臣馬主爲兼上総員外介。壬子。左京人椋小長屋女一産三男。賜乳母一人并稻。甲寅。從五位上藤原朝臣黒麻呂爲治部大輔。正五位上大伴宿祢潔足爲左兵衛督。庚申。授從五位下百濟王俊哲從五位上。」山背國愛宕郡人正六位上鴨祢宜眞髮部津守等一十人賜姓賀茂縣主。辛酉。授正六位上多治比眞人宇美從五位下。命婦從五位上橘朝臣御笠正五位上。」以從五位上上毛野朝臣稻人爲越後員外守。
四月四日に征東副使の大伴宿祢益立に従四位下を授けている。七日に勅されて、備前國邑久郡の荒廃田百町余りを、右大臣の大中臣朝臣清麻呂に賜っている。十七日に造酒正の中臣丸朝臣馬主に上総員外介を兼任させている。十八日に左京の人である「椋小長屋女」が一度に三人の男子を産んだので、乳母一人と稲を賜っている。
二十日に藤原朝臣黒麻呂(❶)を治部大輔、大伴宿祢潔足(池主に併記)を左兵衛督に任じている。二十六日に百濟王俊哲(②-❶)に従五位上を授けている。また、「山背國愛宕郡」の人である「鴨祢宜眞髮部津守」等十一人に「賀茂縣主」の氏姓を賜っている。二十七日に多治比眞人宇美(海。歳主に併記)に從五位下、命婦の橘朝臣御笠(橘宿祢)に正五位上を授けている。また、上毛野朝臣稻人(馬長に併記)を越後員外守に任じている。
多産の女性に関する記事が続いている。直近では、本紀で「丹後國与謝郡人采女部宅刀自女一産三男」と記載されていた。今回と同様に三つ子が誕生していた。
この類の物語は、空白の場所を埋めるがごときもので、突止めるのに些か手間取るのであるが、一方で”瑞祥”と同じく、その地の情報提供として貴重なのである。
氏名に含まれる椋=木+京=山稜が大きな丘のようになっている様と解釈した。名前の小長屋=尾根が長く延びた前が三角に尖っているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。
「山背國愛宕郡」は、記紀・續紀を通じて初見である。左図に示したように山背國の領域と思われる場所で「愛宕」の地形は、「葛野郡」の東側に隣接する谷間であることが解った。
愛=旡+心+夂=足を大きく広げたような山稜の端が延びて尽きている様と解釈した。一方「宕」は地名・人名に用いられたのは初めてである。
あらためて文字解釈を行うと、「宕(トウ)」=「宀+石」と分解される。ここで「石」は「碭(トウ)」の略体と解説されている。地形象形的には「宕」=「山稜に挟まれた麓の谷間に丸く小高い地が突き出ている様」と解釈される。纏めると、愛宕=足を大きく広げたような山稜が延び尽きている麓の谷間に小高い地が突き出ているところと読み解ける。
延び尽きた山稜で挟まれて地であり、西側は「葛野郡」との境界になっているが、現在の行政区分では、共に田川郡赤村赤に属する領域である。その東側は京都郡みやこ町(犀川喜多良)との境界となっていることが分かる。この地は豊前國遠珂郡と推定した場所である。
● 鴨祢宜眞髮部津守 ”鴨が葱を背負って来る:お厚来い向き”のような名称なのであるが、しっかりと地形象形しているようである。「鴨」=「甲+鳥」=「山稜が甲羅があるような鳥の形をしている様」、「祢(禰)」=「示+爾」=「高台が広がっている様」、「宜」=「宀+且」=「積み重なった地が山稜に挟まれている様」である。
纏めると、鴨祢宜=甲羅があるような鳥の形をしている山稜の麓で積み重なった高台が広がっているところと解釈される。眞髮=髪の毛のような山稜が寄せ集められて窪んだところと読み解ける。図の場所が氏名である鴨祢宜眞髮の地形であることが解る。部=近隣を表すとする。
既出である名前の津守=両肘を張り出したような山稜の前の水辺で筆のような形をした地があるところと解釈したが、その地形の場所がこの人物の出自と推定される。賜った賀茂縣主は、「鴨」の地形を「縣」=「首(逆さ文字)+系」=「首のような地がぶら下がっている様」と見做した表記であろう。
五月辛未。以京庫及諸國甲六百領。且送鎭狄將軍之所。甲戌。左京人從六位。下莫位百足等一十四人。右京人大初位下莫位眞士麻呂等一十六人並賜姓清津造。左京人從六位上斯﨟行麻呂賜姓清海造。右京人從七位下燕乙麻呂等一十六人並賜姓御山造。正八位上韓男成等二人賜姓廣海造。武藏國新羅郡人沙良眞熊等二人賜姓廣岡造。攝津國豊嶋郡人韓人稻村等一十八人賜姓豊津造。」勅出羽國曰。渡嶋蝦狄早効丹心。來朝貢獻。爲日稍久。方今歸俘作逆。侵擾邊民。宜將軍國司賜饗之日。存意慰喩焉。乙亥。伊豆國疫飢。賑給之。丁丑。勅曰。機要之備不可闕乏。宜仰坂東諸國及能登。越中。越後。令備糒三万斛。炊曝有數。勿致損失。己夘。勅曰。狂賊乱常。侵擾邊境。烽燧多虞。斥候失守。今遣征東使并鎭狄將軍。分道征討。期日會衆。事須文武盡謀。將帥竭力。苅夷姦軌。誅戮元凶。宜廣募進士。早致軍所。若感激風雲。奮勵忠勇。情願自効。特録名貢。平定之後。擢以不次。」河内國高安郡人大初位下寺淨麻呂賜姓高尾忌寸。壬辰。伊勢太神宮封一千廿三戸。大安寺封一百戸。隨舊復之。」授无位置始女王從五位下。
五月八日に京の庫及び諸國にある甲六百領を鎮狄将軍の許に送ることにしている。十一日に左京の人である「寞位百足」等十四人、右京の人である「寞位眞士麻呂」等十六人にそれぞれ「清津造」、左京の人である斯﨟行麻呂(國足に併記)に「清海造」、右京の人である「燕乙麻呂」等十六人に「御山造」、「韓男成」等二人に「廣海造」、武藏國新羅郡の人である「沙良眞熊」等二人に「廣岡造」、攝津國豊嶋郡の人である韓人稻村(秦井手小足に併記)等十八人に「豊津造」の氏姓を賜っている。
この日、出羽國に次のように勅されている・・・渡嶋蝦夷が先に誠意をつくして来朝し、献上物を貢納してから、ようやく長い月日が経とうとしている。まさに今、帰服した蝦夷が叛逆を起こし、辺境の民を侵し騒がせている。鎮狄将軍や國司は蝦夷に饗宴を賜る日に、特に心掛けて労い喩すように・・・。
十二日に伊豆國で疫病が流行り、飢饉があったので物を恵み与えている。十四日に次のように勅されている・・・軍事上重要な備えは欠いてならない。坂東諸國及び能登・越中・越後に命じて、糒三万石を準備させよ。飯を炊き、日に干すには限りがあるので、損失を出すことのないように・・・。
十六日に次のように勅されている・・・狂暴な賊徒が平和を乱し、辺境を侵し騒がせている。しかし、烽火台には間違いが多く、斥候は見張りを誤っている。今、征東使と鎮狄将軍を遣わし、別々の道から征討させている。日を決めて大軍を集合させるからは、文官と武官が議論を尽くし、将軍は力を尽くして、悪賢い計画を立てる者を苅り平らげ、元凶を誅殺すべきである。広く進士を募り、早く軍営に送れ。もし機会を与えられたことに感激して、忠勇を奮い励み、自ら力を尽くすことを願うならば、特に名を記録して奉れ。平定した後に、異例の抜擢を行うであろう・・・。
この日、河内國高安郡の人である「寺淨麻呂」に「高尾忌寸」の氏姓を賜っている。二十九日に伊勢太神宮の封戸千二十三戸と大安寺の封戸百戸を旧来の通りに復している。また、「置始女王」に従五位下を授けている。
<寞位百足-眞士麻呂[清津造]> |
● 寞位百足・寞位眞士麻呂
同一の氏名でありながら左京人と右京人に別れているのは、称徳天皇紀に宿祢姓を賜った神麻續連一族が登場していた。平城宮を中心にして左右に分けられた地域に跨った地を居処としていたと推定した。
この宿祢一族は、平城宮の北側であったが、おそらく今回は南側の地域と思われる。早速に各人の名称が表す地形を求めてみよう。
寞位の「寞」=「宀+莫」と分解される。相摸國の「摸(手+莫)」に含まれる文字要素であることが解る。同様に解釈すると「寞」=「山稜に挟まれた谷間が隠されているような様」となる。即ち、谷間を横切る山稜が延びている様子を表している。纏めると、寞位=山稜に挟まれて隠された谷間が並んでいるところと読み解ける。
図に示した場所で凹凸のある山稜が延びて囲まれた谷間が二つ並び連なっていることが解る。尋常な文字使いではないが、実に適切な表記と思われる。左京人の百足=丸く小高い地が連なって足のような形をしているところと解釈される。”靈龜”の清海造(斯﨟)一族等の西側に当たる場所である。
右京人の眞士麻呂の眞士=突き出た地がある山稜が寄り集まって窪んだところと解釈すると、「百足」の前にある谷間を表していることが解る。彼等は清津造の氏姓を賜っているが、清津=水辺で四角く囲まれた地と筆のような山稜が並んでいるところと読み解ける。”和風”らしい名称となったようである。左右京の振り分け、絶妙であろう。
● 燕乙麻呂・韓男成
右京人となっている渡来系の人々については、聖武天皇紀に上部眞善・乙麻呂が登場していた。「上部」とは”石上の近隣”と推定した。また、淳仁天皇紀には多くの渡来人達に”和風”の氏姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。
その中に韓遠智に「中山連」を賜姓したとあり、今回も”石上”の谷間に棲息していた人物達と推測される。勿論、賜姓は統治するための重要な手段であり、恭順を表している。
韓男成の出自は、図に示した「遠智」の西側の場所と推定される。男成=[男]のような山稜の麓にある平らに整えられたところと解釈される。また、賜った廣海造の廣海=水辺で母が両腕で抱えるように延びた山稜の前が広がっているところと解釈すると、「韓」の地形の別表記となっている。
少し後に韓眞成が廣海造の氏姓を賜ったと記載されている。眞成=平らに整えられた地が寄り集まって窪んだところと解釈すると、図に示した「男成」に隣接する場所が出自と推定される。
燕乙麻呂の燕=山稜が[燕]のような形をしている様と解釈される。その特徴である二つの長い尾を持っている姿を模したのであろう。頻出の乙=[乙]の形に曲がっている様であり、些か地図上での確認が難しいが、図に示した場所が出自と思われる。賜った御山造の御山=[山]の形に延びる山稜を束ねているところと解釈される。中山寺の近隣の地形を表している。
淳仁天皇紀に「武藏國新羅郡」の人の「新良木舍姓縣麻呂」に「清住造」、「須布呂比滿麻呂」に「狩高造」を賜姓したと記載されていた。少し後に「清住造前麻呂」も登場している(こちら参照)。
帰化した新羅系の人々を武藏國の閑地に新しく郡建てして住まわせたと伝えている。なかなかに優れた人々だったようで、人数も増えて開拓が進捗したのであろう。
この南側に埼玉郡が設置されているが、聖武天皇紀にそこい住まう新羅人に「金」の氏名を賜ったと記載されていた。武藏國東部は新羅人の地となっていたようである。
沙良=水辺に延びて端が三角に尖った山稜がなだらかになっているところ、眞熊=隅の地が寄り集まって窪んだところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。賜った廣岡造は、その場所の東側の地形に着目したものであろう。
書紀の孝徳天皇紀に高向史玄理が登場したり、古くから渡来系の人物が住み着いていた場所なのであるが、実のところ、「高安郡」はここで初めて登場しているのである。
今回登場の「寺淨麻呂」の「寺」の地形象形表記として、貴重である。あらためて文字解釈を行ってみると、「寺」=「之+寸」であり、「進んで止まる」を繰り返している様を表している。「時」=「日+寺」=「太陽が進んで止まるを繰り返す様」なのである。”具象”を用いて抽象的な概念を表すのである。
地形象形表記とすることは、逆に”抽象”を地形という具象的な概念に還元することになる。即ち寺=之+寸=川が蛇行して流れている様を表していると読み解ける。現在の長峡川上流域の川の様子を表現していることになる。淨麻呂に含まれる頻出の淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
賜姓である高尾忌寸の高尾=尾のような山稜がが皺が寄ったように見えるところと解釈される。視点が川側からではなく山側に移ったのである。分かり易い表現となっている。やはり「寺」は難解のなのであろう。
● 置始女王
無位から従五位下を叙爵されているが、寶龜七(776)年七月に従四位下で亡くなったと記載された同一名の女王とは別人であろう。
この女王も系譜不詳であり、出自の場所を名前が示す地形から「氷高皇女」(後の元正天皇)の南隣と推定した(こちら参照)。
度々登場する系譜不詳であるが、「白壁王」の係累に関わる王・女王に一人だったのではなかろうか。名前が示す地形からその出自場所を求めることにする。
置始=塞がれている真っ直ぐな出口がある谷間の奥に嫋やかに曲がる耜のような山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「三關王」の背後の谷間に当たる。この後に一度だけ登場され、従五位上を叙位されている。
直後に名繼女王が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同じく系譜不詳の白壁王絡みの人物と推測してみると、図に示した場所が出自ではなかろうか。国土地理院航空写真1974~8年を参照して、名繼=山稜の端の三角になった地が連なっているところの地形であることが解る。
更に後(桓武天皇紀)に伊賀香王(初見では伊香賀王と表記)が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳であり、白壁王・山部王関連として、伊賀香=谷間に区切られた山稜が押し開いた窪んだ谷間から稲穂のような山稜が延びているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。その後幾度か登場されるようである。