2024年5月13日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(25) 〔676〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(25)


寶龜十一(西暦780年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

十一年春正月丁夘朔。廢朝。雨也。宴五位已上於内裏。宴訖賜被。。天皇御大極殿受朝。唐使判官高鶴林。新羅使薩飡金蘭蓀等。各依儀拜賀。辛未。新羅使獻方物。仍奏曰。新羅國王言。夫新羅者。開國以降。仰頼聖朝世世天皇恩化。不乾舟楫。貢奉御調年紀久矣。然近代以來。境内姦冦。不獲入朝。是以謹遣薩飡金蘭蓀。級飡金巌等。貢御調兼賀元正。又訪得遣唐判官海上三狩等。隨使進之。又依常例進學語生。」參議左大弁正四位下大伴宿祢伯麻呂宣勅曰。夫新羅國。世連舟楫供奉國家。其來久矣。而泰廉等還國之後。不修常貢。毎事无禮。所以頃年返却彼使。不加接遇。但今朕時。遣使修貢兼賀元正。又搜求海上三狩等。隨來使送來。此之勤勞。朕有嘉焉。自今以後。如是供奉。厚加恩遇。待以常禮。宜以茲状語汝國王。是日宴唐及新羅使於朝堂。賜祿有差。授女孺无位大伴宿祢義久從五位下。壬申。授新羅使薩飡金蘭蓀正五品上。副使級飡金巖正五品下。大判官韓奈麻薩仲業。少判官奈麻金貞樂。大通事韓奈麻金蘇忠三人。各從五品下。自外六品已下各有差。並賜當色并履。癸酉。宴五位已上。及唐新羅使於朝堂。賜祿有差。」授從五位上田上王。山邊王並正五位下。正五位下安倍朝臣東人。大伴宿祢潔足並正五位上。從五位上石川朝臣眞守。大中臣朝臣宿奈麻呂並正五位下。從五位下紀朝臣古佐美從五位上。正六位上豊國眞人船城。八多眞人唐名。阿倍朝臣祖足。多治比眞人繼兄。文屋眞人与伎。路眞人玉守。紀朝臣眞人。藤原朝臣眞友。藤原朝臣宗嗣。巨勢朝臣廣山。佐伯宿祢鷹守。紀朝臣馬借並從五位下。正六位上縵連宇陀麻呂。小塞宿祢弓張並外從五位下。丁丑。授從五位下笠王從五位上。庚辰。大雷。災於京中數寺。其新藥師寺西塔。葛城寺塔并金堂等。皆燒盡焉。壬午。賜唐及新羅使射及踏歌。乙酉。詔曰。令順四時聖人之茂典。網解三面哲后之深仁。朕錫命上玄君臨下土。政先儉約志在憂勤。雖道謝潜通功慚日用。而邇安遠至。歳稔時邕。今者。三元初暦。万物惟新。宜順陽和播茲凱澤。自寳龜十一年正月十九日昧爽已前大辟已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸皆赦除。但犯八虐。故殺人。私鑄錢。強竊二盜。及常赦所不免者。不在赦限。天下百姓宜免今年田租。又免寳龜十年以往遭年不登申官正税未納。神寺之稻亦宜准此。丙戌。詔曰。朕以。仁王御暦法日恒澄。佛子弘猷惠風長扇。遂使人天合應邦家保安。幽顯致和鬼神無爽。頃者彼蒼告譴災集伽藍。眷言于茲。情深悚悼。於朕不徳雖近此尤。於彼桑門寧亦無愧。如聞緇侶行事与俗不別。上違无上之慈教。下犯有國之道憲。僧綱率而正之。孰其不正乎。又諸國國師。諸寺鎭三綱。及受講復者。不顧罪福專事請託。員復居多侵損不少。如斯等類不可更然。宜修護國之正法。以弘轉禍之勝縁。凡厥梵衆。知朕意焉。庚寅。授无位矢野女王從五位下。

正月一日に朝賀を廃している。雨が降ったためである。五位以上を内裏に集めて宴を催している。宴が終わってから夜具を賜っている。三日に大極殿に出御されて、朝賀を受けられている。唐使判官の高鶴林、新羅使の金蘭蓀等も儀礼に従って拝賀している。

五日に新羅使が土地の産物を献上し、以下のような國書を奏上している・・・新羅國王(惠恭王)が申し上げる。そもそも新羅は開國以来、聖朝代々の天皇を仰いで恵み深い教化を頼みとし、久しい昔から、船の舵の乾く間もなく、御調を貢上した来た。ところが、近年國内によこしま外敵が侵入し、入朝することができなかった。このため、謹んで薩飡の金蘭蓀、級飡の金巌等を派遣し、御調を貢上すると共に、新年を祝賀させる。また、遣唐判官の海上三狩を尋ね当てたので、使と共に帰國させる。また、慣例に従って、学語生を進上する・・・。

参議・左大弁の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)は、勅を受けて次のように宣している・・・そもそも新羅國は、久しい昔から代々舟の舵を連ねて、我が國に仕えて来た。ところが、金泰廉等が帰國したのち、恒例の貢物を用意することなく、何事につけても無礼である。このため、近年はその使を追い返し、応待することをしなかった。---≪続≫---

但し今、朕の時にあたり、使を遣わして貢物を用意し、併せて新年を祝賀して来た。また、海上三狩等を捜し求め、来朝した使に付けて送って来た。こうした忠勤の苦労は朕のよみするところである。今から後も、このように仕えるならば厚く恵み深い待遇を与えて、通常の礼式で応待するであろう。宜敷くこのことを汝の國王に語るように・・・。

この日、唐及び新羅の使を朝堂に召して宴を催し、それぞれに禄を賜っている。また、女孺の大伴宿祢義久(古珠瑠河に併記)に従五位下を授けている。六日に新羅使の金蘭蓀に正五品上、副使の金巌に正五品下、大判官の薩仲業・少判官の金貞樂・大通事の金蘇忠の三人に従五品下、それ以外の者にそれぞれ六位以下を授け、位階に応じた色の朝服と履を賜っている。

七日に五位以上及び唐・新羅の使を朝堂に集めて宴を催し、それぞれに禄を賜っている。田上王山邊王()に正五位下、安倍朝臣東人(廣人に併記)大伴宿祢潔足(池主に併記)に正五位上、石川朝臣眞守大中臣朝臣宿奈麻呂(子老に併記)に正五位下、紀朝臣古佐美に從五位上、豊國眞人船城(船城王)・「八多眞人唐名」・阿倍朝臣祖足(石行に併記)・「多治比眞人繼兄・文屋眞人与伎」・路眞人玉守(鷹養に併記)・紀朝臣眞人(大宅に併記)・「藤原朝臣眞友・藤原朝臣宗嗣」・巨勢朝臣廣山(馬主に併記)・「佐伯宿祢鷹守・紀朝臣馬借」に從五位下、「縵連宇陀麻呂」・小塞宿祢弓張(小塞連)に外從五位下を授けている。

十一日に笠王に従五位上を授けている。十四日に大きな雷があり、京中の数寺に火災が起きている。新藥師寺(平城藥師寺)の西塔、葛城寺の塔と金堂などが、悉く全焼している。十六日に唐・新羅使のために射礼及び踏歌を催している。

十九日に次のように詔されている・・・法を四季に順わせるのは、聖人の優れた教えであり、四面の網の三面を解くのは(雁字搦めにしない。中国の故事による)、明君の深い思いやりである。朕は天帝の命を受けて天下に君臨し、政治は倹約を先とし、将来を憂えて勤めることを心掛けとしている。教化が國の隅々に行き渡らないことを遺憾に思い、治績が日毎に上がらないこと慚じいる次第であるが、幸いに近くの國内の人民は安らぎ、遠い外國の人々は慕い寄って来て、穀物は豊かに稔り、時節も和らいでいる。---≪続≫---

また、今は新年になって暦が改まり、万物はまさに新しくなっている。宜敷く春ののどかさに順って、この平和の恩恵を広く及ぼそう。寶龜十一年正月十九日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重を問わず、既に発覚したもの、まだ発覚しないもの、罪の確定したもの、確定しないもの、現に獄に繋がれている囚徒も、悉く赦免せよ。但し八虐を犯したもの、故意の殺人、贋金造り、強盗・窃盗、及び通常の恩赦では免されないものは、恩赦の範囲に入れない。天下の人民に今年の田租を免除する。また寶龜十年以後に不作に遇い、太政官に申告した正税の未納分は免除する。神社・寺院の稲もまた同様である・・・。

二十日に次のように詔されている・・・朕が思うに、慈悲深い王者が暦を統御すれば、仏法の日々は恒に澄み、仏弟子の君主が道を弘めれば、恵みの風は長く勢いを得るであろう。その結果、人と天は相応じて、國家は安寧になり、幽界と顕界は互いに調和して、鬼神が調和を破ることはなくなるであろう。---≪続≫---

ところが此の頃天がとがめを告げ知らせ、火災が伽藍に集中した。これを顧み思うと、情に深くおそれ慎んでいる。朕の徳のなさは、この を受けても仕方がないとも思うが、仏門の人々もまた心に愧じるところはないであろうか。聞くところによれば、近年の僧侶の行いは俗人と異ならず、上は無上の慈しみ深い教えに違い、下は國家の法律を犯している。---≪続≫---

僧綱が率先してこれを正しておれば、誰が不正を起こすであろうか。また、諸國の國師や諸寺の鎮・三綱、及び講義や復習を受けるものは、罪か福かを考慮せず、もっぱら物を頼み込んでいる。人員ばかりが多く居て、損害が少なくない。これらの類は放置すべきではない。宜敷く護國の正しい法を修めて、禍を転じて優れた因縁を弘めるようにせよ。全てそれらの僧達に朕の意志を知らせよ・・・。

二十四日に矢野女王(山上王に併記)に従五位下を授けている。

<八多眞人唐名>
● 八多眞人唐名

「八多眞人」の表記は、記紀・續紀を通じて初見であろう。勿論、書紀では『八色之姓』に記載された眞人姓を授けられた「羽田公」、續紀では「波多眞人」と表記された一族である(こちらこちら参照)。

古事記の建内宿禰の子の波多八代宿禰を祖とする一族が広がった「出雲」の端、「淡海」に面する場所を示しているのである。書紀も續紀も、決して多くは語らないところである。

直近では聖武天皇紀に波多眞人繼手(足嶋に併記)が登場して以来だから、極めて希少な眞人であり、叙位の記載はあるが、その後に関連する記述は見られない様子である。

今回登場人物の名前の唐名=山稜の端が四方に広がっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。現在の小森江西小学校の近隣の場所である。「八多眞人」としても、この後に記載されることはないようである。

<多治比眞人繼兄-豊繼>
<岡成[長岡朝臣]>
● 多治比眞人繼兄

「多治比眞人」一族からの高位者出現は殆ど見られなくなったが、それでも連綿と新人が登場し続けている。光仁天皇紀に入っては、歳主・三上・濱成・年持などが叙位されている。

系譜が伝わっている人物も、ちらほらと見受けられている。今回登場の繼兄は、左大臣「嶋」の子である中納言・式部卿の廣成の子と知られているようである。

繼兄=奥が広がっている谷間を繋げるところと解釈される。図に示したように「豊濱・乙安」と「林」の谷間を「兄」で表現していることが解る(こちら参照)。「廣成」の南隣、「伯」(谷間がくっ付いて並んでいるところ)の対岸が出自の場所と推定される。

この後に續紀中では昇進はされないが、幾度か任官されて登場されている。最終従四位上・神祇伯であったと知られているようである。「多治比眞人」の中では高位を授けられた人物の一人となったようである。

後(桓武天皇紀)に多治比眞人豊繼が従五位下を叙爵されて登場する。天皇の皇太子時代の女孺であり、岡成(王)を誕生させたと知られている。後に長岡朝臣の氏姓を賜ったと記載されている。豐繼=[豐]の地が連なっているところと解釈すると、豊濱の近隣に出自場所を求めることができる。「岡成」は、その近隣と思われる。

<文屋眞人与伎-眞屋麻呂-大原>
● 文屋眞人与伎

「文室(屋)眞人」は、長皇子の子である智努王・大市王が臣籍降下後に賜った氏姓である。既に多くの人物が登場していて、なかなかの繁栄ぶりのようである。

最終の位階・職位については、「智努(淨三)」が従二位・御史大夫、「大市」が正二位・大納言になっているので、彼等の子孫の登用が盛んであったのは頷けるところである。

今回従五位下を叙爵された「与(與)伎」は、調べると「淨三」の子と知られていることが分かった。勿論、その近隣の地が出自となる。既出の「與」=「左手+右手+与」=「両手が噛み合うように並んでいる様」と解釈した。

纏めると與伎=山稜が両手が噛み合うように並んだ谷間が二つに岐れているところと読み解ける。図に示した前出の忍坂麻呂の北側の場所を表していると思われる。別名の文室眞人那保企で幾度か登場され、續紀中では正五位上、最終従四位下まで
昇進されたとのことである。「那保企」も申し分のない地形象形表記であろう。

後(桓武天皇紀)に兄弟と知られている文室眞人眞屋麻呂文室眞人大原がそれぞれ従五位下を叙爵されて登場する。眞屋=山稜が延び至った先が寄り集まって窪んだところ大原=平らな頂の山稜の麓に平らに広がっているところと解釈される。

残念ながら、国土地理院航空写真1961~9年を参照しても、広大な貯水池になっていて、当時の地形を確認することが叶わず、図に示した辺りが出自と推測される。

<藤原朝臣眞友-雄友-弟友-友人-吉子>
● 藤原朝臣眞友

藤原南家の是公(黒麻呂)の長男と知られている。他の弟・妹の出自場所を併せて求めてみよう。地図の解像度、いよいよ限界に迫る状況である。

四兄弟に共通する既出の友=又+又=手のような山稜が二つ並んで延びている様と解釈した。天智天皇の大友皇子に用いられた文字である。

❶眞友=窪んだ地に[友]の山稜が寄り集まっているところ
❷雄友=羽を広げた鳥のように[友]の山稜が延びているところ
❸弟友=[友]の山稜の前でギザギザとしているところ
❹友人=谷間が[友]の山稜に挟まれているところ

・・・と読み解ける。「是公」の背後の谷間に兄弟を並べたのである。「藤原四家・南家・乙麻呂・黒麻呂」に続く、それぞれの人物の出自場所は、大げさに述べれば、「記紀・續紀の名称は地形象形表記である」とする前提を揺るぎないものにしていると思われる。尚、「友人」は續紀中には登場しないようである。

❺吉子=生え出た山稜が蓋をするように延びているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。現在の平原川の蛇行に寄り添った地形を表していると思われる。後の桓武天皇(山部王)の夫人となる。母親は橘宿祢眞都我と知られている。

後に「眞友」は従四位上・参議、「雄友」は正三位・大納言、「弟友」は従五位上・侍従となったと伝えられている。衰えを知らぬ「藤原朝臣」一族である。

<藤原朝臣宗嗣-繩主-網主>
<-淨本-八綱-清綱-姉子>
● 藤原朝臣宗嗣

今度は式家の藏下麻呂の長男と知られている。上記と同様に他の弟・妹と併せて出自の場所を求めてみよう。地図上の解像度限界であることには変わりないようである。

異なるところは、共通の文字は限られているが、「繩・網・綱」に含まれる「糸」が表す山稜の形が多彩に寄り集まった地であることが解る。「式家」の山稜の端の地形を表現しているのであろう。

❶宗嗣=山稜に挟まれた高台の麓の谷間が狭まっているところ
❷繩主=[繩]のような山稜の端が真っ直ぐに延びているところ
❸網主=谷間の奥で隠されたような地に真っ直ぐな山稜が延びているところ
❹淨本=山稜が途切れた前の水辺で両腕で取り囲まれたようなところ
❺八綱=筋張ったような山稜が二つに岐れて延びているところ
❻清綱=筋張ったような山稜の麓に四角く取り囲まれたところ
❼姉子=生え出た山稜の前で嫋やかに曲がる谷間が寄り集まっているところ

・・・と読み解ける。図に示した場所が各々の出自場所と推定される。續紀中に登場されるのは「宗嗣」(最終従五位上・伊勢守)の他に「繩主」(従五位上・少納言)のみであり、他は委細不明のようである。南家の華々しさと比べると、地味な感じである。

遅ればせながらではあるが、今女伊久治は「田麻呂」(最終従二位・右大臣)の娘だったのかもしれない。『廣嗣の乱』に連座して隠岐國に配流されているので、家族情報は欠落したようにも思われるが、定かではない。

<佐伯宿祢鷹守>
● 佐伯宿祢鷹守

「佐伯宿祢」一族の本紀に入ってからの叙位の傾向は、『仲麻呂の乱』での功績があった伊多治の居処である佐伯の谷奧と眞守の谷間出口に近い山腹の二つを拠点としている。

いずれにしても今毛人のような谷間ではなく、急斜面の地に蔓延って行った、と言うか、それ以外には住まう地がなかったのであろう。”え!こんなところに?!”は現代人の偏見に過ぎないようである。

話しが横道に逸れそうなので・・・鷹守=二羽の鳥がくっ付いている並んでいる麓に両腕を張り出したような形の地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。現在の白山多賀神社を見上げる場所である。

図では省略しているが、神社周辺は、かつての『乙巳の変』の「佐伯連子麻呂」と共に主役を務めた「蘇我倉山田麻呂」(後に右大臣)の居処であり、後に自害し果てた場所でもある(こちら参照)。續紀の記述は完結に向かっているようである。

<紀朝臣馬借-木津魚>
● 紀朝臣馬借

「紀朝臣」一族、中でも多くの人材を輩出して来た上記の「大口」系列に今回の人物の名前は見当たらないようである(Wikipedia参照)。

そんな背景で「馬」の地形を求めて探索することにする。「馬」を含む人物名には「馬主」が登場していた。犬養・難波麻呂の父親と知られている(こちら参照)。

それと類似の地形を図に示した場所に見出すことができる。馬借の既出の「借」=「人+昔」=「谷間で積み重なっている様」と解釈した。聖武天皇紀に阿倍朝臣車借に用いられていた。纏めると馬借=[馬]の形の山稜が谷間で積み重なっているところと読み解ける。

この谷間は書紀の孝徳天皇紀に登場した紀麻利耆拕臣の居処と推定した。官人としてあるまじき不正を行ったとして処罰された人物である。その後この地に関連する記述は見られない。長い年月を経て近隣の人材が登用されたように思われる。續紀中ではこの後に幾度かの任用が記載されている。

少し後に紀朝臣木津魚が従五位下を叙爵されて登場する。御多分に漏れず系譜不詳の人物であって、名前が表す地形から出自場所を求めることになる。木津魚=[木]の形をした山稜が水辺で[筆]のように延びて先が[魚]の鰭のように細かく岐れているところと読み解ける。図に示した朝倉君の東側に当たる場所と推定される。後に京官・地方官を任じられ正五位上に昇進している。

<縵連宇陀麻呂>
● 縵連宇陀麻呂

書紀の天武天皇紀に「縵造忍勝」が”異畝同頴の嘉禾”を献上したと記載されていた(こちら参照)。勿論、珍しい稲穂ではなく土地を開拓したことを述べていると解釈した。また、『八色之姓』で連姓を賜っている。

續紀中では、聖武天皇紀に狛祁乎理和久が「古衆連」の氏姓を賜ったと記載されている。「縵」には含まれない地形である。

名前の宇陀麻呂宇陀=谷間に延び出た山稜が崖のようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。開拓された地で人々が住まっていたのであろうが、叙爵される人物の出現はなかったようである。この後に續紀中に再度登場されることはない。

二月丙申朔。以中納言從三位石上大朝臣宅嗣爲大納言。參議從三位藤原朝臣田麻呂。參議兵部卿從三位兼左兵衛督藤原朝臣繼繩。並爲中納言。本官如故。伊勢守正四位下大伴宿祢家持。右大弁從四位下石川朝臣名足。陸奧按察使兼鎭守副將軍從四位下紀朝臣廣純。並爲參議。」神祇官言。伊勢大神宮寺。先爲有祟遷建他處。而今近神郡。其祟未止。除飯野郡之外移造便地者。許之。」授正六位上藤原朝臣繼彦從五位下。丁酉。陸奧國言。欲取船路伐撥遺賊。比年甚寒。其河已凍。不得通船。今賊來犯不已。故先可塞其寇道。仍須差發軍士三千人。取三四月雪消。雨水汎溢之時。直進賊地。因造覺鼈城。於是下勅曰。海道漸遠。來犯無便。山賊居近。伺隙來犯。遂不伐撥。其勢更強。宜造覺鼈城碍膽澤之地。兩國之息莫大於斯。甲辰。以參議正四位下大伴宿祢家持爲右大弁。從四位下藤原朝臣雄依爲宮内卿。讃岐守如故。從五位下藤原朝臣末茂爲左衛士員外佐。肥後守如故。參議從四位下石川朝臣名足爲伊勢守。内藥正侍醫從五位下吉田連斐太麻呂爲兼相摸介。從五位下海上眞人三狩爲太宰少貳。丙午。陸奧國言。去正月廿六日。賊入長岡燒百姓家。官軍追討彼此相殺。若今不早攻伐。恐來犯不止。請三月中旬發兵討賊。并造覺鼈城置兵鎭戍。勅曰。夫狼子野心。不顧恩義。敢恃險阻。屡犯邊境。兵雖凶器。事不獲止。宜發三千兵。以刈遺蘖。以滅餘燼。凡軍機動靜。以便宜隨事。庚戌。授命婦正五位下石川朝臣毛比從四位下。」新羅使還蕃。賜璽書曰。天皇敬問新羅國王。朕以寡薄。纂業承基。理育蒼生。寧隔中外。王自遠祖。恒守海服。上表貢調。其來尚矣。日者虧違蕃禮。積歳不朝。雖有輕使。而無表奏。由是泰廉還日。已具約束。貞卷來時。更加諭告。其後類使曾不承行。今此蘭蓀猶陳口奏。理須依例從境放還。但送三狩等來。事既不輕。故修賓礼以荅來意。王宜察之。後使必須令齎表函。以礼進退。今勅筑紫府及對馬等戍。不將表使莫令入境。宜知之。春景韶和。想王佳也。今因還使附荅信物。遣書指不多及。壬戌。授正五位上淡海眞人三船從四位下。甲子。勅。去天平寳字元年。伊刀王坐殺人配陸奧國。久住配處未蒙恩免。宜宥其罪令得入京。

二月一日に中納言の石上大朝臣宅嗣を大納言、參議の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)と參議・兵部卿で左兵衛督の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)兼務のままで中納言、伊勢守の大伴宿祢家持と右大弁の石川朝臣名足と陸奧按察使兼鎭守副將軍の紀朝臣廣純を參議に任じている。

この日、神祇官が以下のように言上している・・・伊勢大神宮寺は以前に祟りがあったため、度會郡から他処(寶龜三[772]年八月に伊勢飯高郡度瀬山房と記載)に遷し建てたが、現在でも神郡(度會郡・多氣郡)に近いため、その祟りが止まない。これを飯野郡以外の適当な地に移建したいと思う・・・。これを許している。また、藤原朝臣繼彦(大繼に併記)に従五位下を授けている。

二日に陸奥國が以下のように言上している・・・船路をとって、まだ降伏していない賊を打ち払おうと思うが、近年はたいそう寒く、その河は既に凍り、船を通すことができない。しかし今も賊は来攻して犯すことを止めない。このため、先ずはその侵寇の道を塞ぐべきであろう。その上で軍士三千人を徴発し、三、四月の雪が消え、雨水の溢れる時をとらえて、賊地に直進し、「覺鼈城」を固め造ろうと思う・・・。

これに対して、次のように勅されている・・・「海道」(海道蝦夷)はいくらか遠いため、その方面の蝦夷が来攻するには不便である。しかし山地の賊は住居が近いため、隙を伺っては来攻する。いずれ伐ち撥わなければ、その勢いは更に強くなろう。そこで「覺鼈城」を造り、膽澤の地を取得せよ。両國の安寧にとって、これほど良いことはない・・・。

九日に參議の大伴宿祢家持を右大弁、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を讃岐守のままで宮内卿、藤原朝臣末茂()を肥後守のままで左衛士員外佐、參議の石川朝臣名足を伊勢守、内藥正・侍醫の吉田連斐太麻呂を兼務で相摸介、海上眞人三狩(三狩王)を太宰少貳に任じている。

十一日に陸奥國が以下のように言上している・・・去る正月二十六日に、賊が長岡に侵入し、民家を焼いた。官軍は追討したが、双方に死者が出た。もし今速やかに攻め伐たなければ、来攻・侵犯は止まないであろう。三月中旬に兵を発して賊を討ち、併せて「覺鼈城」を造り、兵士を置いて、國境を守ることを請願する・・・。

これに対して、次のように勅されている・・・狼は子供でも荒々しい心を持ち、恩義を顧みない。蝦夷も敢えて山川の険しいことを頼み、しばしば辺境を侵犯している。兵は人を損なう凶器ではあるが、それを用いる事も止むを得ない。宜敷く三千の兵を発して、いやしい残党を刈り取り、もって敗残兵を滅ぼしてしまうように。全て軍事作戦の発動は都合の良い機会に適宜行うようにせよ・・・。

十五日に命婦の石川朝臣毛比に従四位下を授けている。また、新羅使が帰る時に天皇の印を捺した詔書を与え、次のように宣べている・・・天皇は敬んで新羅國王に尋ねる。朕は徳の少ない身で、皇位を受け継いだ。人民を治め育むのに、どうして國の内外を分け隔てることがあろうか。王は遠祖より常に海外の土地を守り、久しい昔から上表して調を貢納して来た。---≪続≫---

ところが此の頃は蕃國として礼を欠き、長い年月にわたって朝貢せず、身分の低い使者は送っても上表文は奏上しない。このため金泰廉が帰る日に、既に詳しく取り決めをし、金貞巻が来朝した時に、再び告諭を加えた。しかし、その後も同様の使は、一度も取り決めを承った通りに行わず、今回の金蘭蓀も、尚口頭で上奏した。---≪続≫---

道理として前例により追い返すべきである。ただ、海上三狩等を送って来た事は尊重すべきであるので、特別に賓客を迎える礼を執り行って、来朝の意図に答えた。王は、宜敷くこれを察するように。今後の使者は必ず函に入った上表文をもたらし、礼にかなった振舞いを行うようにさせよ。---≪続≫---

今、筑紫府と對馬などの守備兵に、上表文を持たない使者は國に入れないように勅したおいた。宜敷くこのことを承知するように。王も健やかであろうと思う。今、帰る使に返礼の贈物を託した。遣わす書状では意を十分に尽くしていない・・・。

二十七日に淡海眞人三船に従四位下を授けている。二十九日に次のように勅されている・・・去る天平寶字元(757)年に、「伊刀王」は殺人罪に連坐して、陸奥國に配流された。久しく配所に住まり、未だ恩赦を受けていない。宜敷くその罪を宥して、入京できるようにさせよ・・・。

<覺鼈城
覺鼈城

陸奥國が言うには、雪解けを待って攻撃を仕掛けようと言う作戦を提言し、天皇の返答が当城が膽澤を封じ込めて確保するのに適した場所と認めている。

この賊の拠点は、出羽國志波村と共に少し前に記載されていた。現在の戸ノ上山山系の東麓に当たる場所と推定した。正に辺境の地であろう。

これだけで十分な記述なのであるが、覺鼈城という城名もちゃんと付けている。名付けられるとその場所を求める必要が生じたわけである。

あまり見かけない文字列であり、「覺」=「學(の上部)+見」と分解される。地形象形的には「覺」=「長く延びる谷間が交差する様」と解釈される。「鼈」=「敝+龜」と分解される。「敝」=「八+八+布+攴」と分解される。地形としては、「鼈」=「頭部が二つに岐れている[龜]のような様」と解釈される。

纏めると覺鼈=長く延びる谷間が交差する地に頭部が二つに岐れた[龜]のように山稜が延びているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出すことができる。谷奥が「膽澤」の地となる場所である。

余談だが、「鼈(音:ベツ。訓:スッポン)」の頭部は、確かに頭に窪んだ筋があって岐れている。通説では・・・他のカメとは違って甲羅が柔らかく、英語でSoft-shelled turtle(柔らかい甲羅を持つカメ)と呼ばれます。 「スポンスポン」という鳴き声や、水に飛び込んだときの音が名前の由来です・・・。漢字表記の素晴らしさ、であろう。

<伊刀王>
● 伊刀王

天平勝寶三(751)年に従五位下を叙位された伊刀王(道守王に併記)が登場していたが、その後も幾度か任官が記載されていて、全く配流の気配を伺えない有様である。

上記本文で「去天平寳字元年。伊刀王坐殺人配陸奧國」と記載されている。この年の事件は『橘奈良麻呂の乱』であった。おそらく”反仲麻呂”一派に関わった人物だったのではなかろうか。

「奈良麻呂」に出自周辺に伊刀王伊刀=谷間に区切られた山稜が[刀]の形をしているところの地形を示す場所が、この人物の出自と推定される。「諸兄」(葛木王)の北側の谷間である。

寶龜元(770)年七月に『奈良麻呂の乱』に連坐した者は、四百四十三人、その内罪の軽い者二百六十二人の復籍が許可されていた。「仲麻呂」の非道が明らかな人物は早期に復職させているが、単に歯向かっただけでは、それなりの理由付けが難しく、残りの百八十一人に埋もれていたのであろう。それにしても、未遂事件にしては、凄まじい処罰、「仲麻呂」の非道さを上書きしているようである。