2024年5月27日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(27) 〔678〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(27)


寶龜十一(西暦780年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六月戊戌。勅。封一百戸永施秋篠寺。其權入食封。限立令條。比年所行甚違先典。天長地久。帝者代襲。物天下物非一人用。然縁有所念。永入件封。今謂永者是一代耳。自今以後立爲恒例。前後所施一准於此。辛丑。從五位上百濟王俊哲爲陸奧鎭守副將軍。從五位下多治比眞人宇佐美爲陸奧介。甲辰。授正六位上内眞人石田從五位下。己未。散位從四位下久米連若女卒。贈右大臣從二位藤原朝臣百川之母也。辛酉。授從五位上紀朝臣佐婆麻呂正五位下。无位名繼女王從五位下。」伊勢國言。今月十六日己酉巳時。鈴鹿關西内城大鼓一鳴。」勅陸奧持節副將軍大伴宿祢益立等。將軍等去五月八日奏書云。且備兵粮。且伺賊機。方以今月下旬進入國府。然後候機乘變。恭行天誅者。既經二月。計日准程。佇待獻俘。其出軍討賊。國之大事。進退動靜。續合奏聞。何經數旬絶無消息。宜申委曲。如書不盡意者。差軍監已下堪辨者一人。馳驛申上。

六月五日、次のように勅されている・・・封戸百戸を永く「秋篠寺」に施入する。いったい権に食封を施入することについていは、令の条文に期限を定めてある(権は五年以下)。しかし近年の慣行は先の法典と甚だ違っている。天は長く地は久しいが、帝位は代々継承するものである。物は天下のものであり、帝王の占有物ではない。しかし朕は思うところがあって、永く件の封戸を施入する。今回永くというのは帝位一代のみをさす。これから後もこれを恒例とせよ。これ以前、これ以後に施入するものも、ひとえにこれに准ぜよ・・・。

八日に百濟王俊哲(②-)を陸奥鎮守副将軍、多治比眞人宇佐美(宇美。歳主に併記)を陸奥介に任じている。十一日に内眞人石田(等美に併記)に従五位下を授けている。二十六日に散位の久米連若女が亡くなっている。贈右大臣・従二位の藤原朝臣百川(寶龜十年七月に死去)の母親であった。

二十八日に紀朝臣佐婆麻呂(鯖麻呂)に正五位下、名繼女王(置始女王に併記)に従五位下を授けている。伊勢國が[今月十六日に「己酉巳時。鈴鹿關西内城大鼓一鳴」]<真意は下記にて>と言上している。

また、陸奥持節副将軍の大伴宿祢益立等に次のように勅されている・・・将軍等は去る五月八日に書面で[兵粮を準備しながら、賊の様子を伺い、まさに今月下旬を期して、國府(多賀城)に進み入り、その後に機を見て乱れに乗じて、謹んで天誅を行なおうと思う]と奏上して来た。『呰麻呂の乱』後、既に二ヶ月が経過しており、日数を数え道のりを考えて、俘虜を献上するのを待ちかねている。---≪続≫---

軍勢を出して賊徒を討つのは國の大事である。軍の進退やその他の状況は引き続き奏聞すべきである。どうして何十日も状況報告がないのか。委細を申上するように。もし書面で意を尽くすことができないならば、軍監以下で状況を説明できる者を差し立て、早馬で申上させよ・・・。

<秋篠寺>
秋篠寺

いつの間にかに建立されていたようである。勿論、完成してはいなかったと推測されるが・・・「朕が思うところ・・・」とは、皇后の井上内親王及び他戸皇子を弔うための寺だったのではなかろうか。

位置情報については、續紀中ここで登場する以外にはなく、皆目定かではないが、調べると、平城宮の北西、大安寺の北方であったようである。

名前が表す地形は、秋篠=細かく岐れて延びる山稜の前が[火]のようになっているところと解る。その地形を図に示した場所に見出せる。秋篠王(臣籍降下して豊國眞人を賜姓)の「秋篠」の地形である。

井上内親王は、突然降って湧いたように皇后となり、そして息子が皇太子となり、実に順風満帆の様相が一気に崩壊していった。陪臣達の思惑に嵌ってしまったようである。多分、山部王(後の桓武天皇)が優秀だったのであろう。そんな事情を口にするのも恐れ多い、と悟った光仁天皇だったのではなかろうか。

<鈴鹿關西内城>
鈴鹿關西内城

「鈴鹿關」は、所謂『壬申の乱』において天武天皇が吉野を脱出し、驛家を焼き払いながら立寄った場所であった。馳せ参じて来る仲間が増えつつある状況なのだが、未だその展望が開けたわけではなかった、と記載されていた(こちら参照)。

どうやらその場所に城が造られていたようで、「西内城」の名称が付けられている。”鈴鹿關の西方にある内城”では、決してあり得ない。直近での西仲嶋と同じである。

即ち、西内城=谷間の入口にある笊の形をしたところにある城である。正に鈴鹿關があったと推定した場所、現在の長尾小学校辺りを表しているのである・・・と、これで一件落着かと思ったら、どうもここの本文が怪しいように感じられる。

本文「今月十六日己酉巳時。鈴鹿關西内城大鼓一鳴」は、読み飛ばすと・・・当日の午前十時頃に大鼓が一鳴きした・・・とは、一体何を伝えたかったのであろうか?…全て地形象形表記であろう。

①己酉:[己]の形に曲がっている酒樽のような地の麓で
②巳時:渦巻くように蛇行する川が流れている傍の
③鈴鹿關西内城:鈴鹿關の谷間の入口にある笊の形をした地に立つ城は
④大鼓一鳴:大きな鼓の形をした地にあり鳥の口のような谷間と繋がっている

…と読み解ける。鈴鹿關の周辺を整備・拡張した結果を報告していることが解る。国防上、極めて重要な報告であったことになる。”鳥の口”を”鼓”で塞いだのであろう。

秋七月辛未。散位從四位上鴨王卒。丁丑。勅。安不忘危。古今通典。宜仰縁海諸國。勤令警固。其因幡。伯耆。出雲。石見。安藝。周防。長門等國。一依天平四年節度使從三位多治比眞人縣守等時式。勤以警固焉。又大宰宜依同年節度使從三位藤原朝臣宇合時式。癸未。征東使請甲一千領。仰尾張參河等五國。令運軍所。」從八位下韓眞成等四人賜姓廣海造。甲申。征東使請襖四千領。仰東海東山諸國。便造送之。勅曰。今爲討逆虜。調發坂東軍士。限來九月五日。並赴集陸奧國多賀城。其所須軍粮。宜申官送。兵集有期。粮餽難繼。仍量路便近。割下総國糒六千斛。常陸國一万斛。限來八月廿日以前。運輸軍所。伊豫國越智郡人越智直靜養女。以私物資養窮弊百姓一百五十八人。依天平寳字八年三月廿二日勅書。賜爵二級。戊子。勅曰。筑紫大宰僻居西海。諸蕃朝貢舟楫相望。由是簡練士馬。精鋭甲兵。以示威武。以備非常。今北陸道亦供蕃客。所有軍兵未曾教習。属事徴發。全無堪用。安必思危。豈合如此。宜准大宰依式警虞。事須縁海村邑見賊來過者。當即差使速申於國。國知賊船者。長官以下急向國衙。應事集議。令管内警虞且行且奏。〈其一〉。賊船卒來着我邊岸者。當界百姓執隨身兵。并齎私糧走赴要處。致死相戰。必待救兵。勿作逗留令賊乘間。〈其二〉。軍所集處。預立標榜。宜量地勢務得便宜。兵士已上及百姓便弓馬者。量程遠近結隊分配。不得臨事彼此雜乱。〈其三〉。戰士已上。明知賊來者。執隨身兵。兼佩飰帒。發所在處。直赴本軍。各作軍名。排比隊伍。以靜待動。乘逸撃勞。〈其四〉。應機赴軍國司已上皆乘私馬。若不足者。即以驛傳馬充之。〈其五〉。兵士白丁赴軍。及待進止。應給公粮者。計自起家五日乃給。其閑處者給米。要處者給糒。〈其六〉。

七月九日に散位の鴨王()が亡くなっている。十五日に次のように勅されている・・・平安な時にも危険を忘れないのは、古今に通じる法則である。そこで縁海の諸國に命じて警備に務めさせるように。因幡・伯耆・出雲・石見・安藝・周防・長門などの國は、専ら天平四(732)年の節度使の多治比眞人縣守等の時の式に依拠して、怠りなく警固させよ。また大宰府は同年の節度使の藤原朝臣宇合の時の式に依拠するように・・・。

二十一日に征東使が甲一千領を請求して来ている。尾張・參河などの五國に命じて軍営に運ばせている。また、韓眞成(男成に併記)等四人に「廣海造」の氏姓を賜っている。

二十二日に征東使が綿入れの上着四千領を請求している。東海道・東山道の諸國に命じて、直ぐにこれを作り送らせている。また、次のように勅されている・・・今、刃向かう敵を討つために、坂東の軍士を徴発し、来たる九月五日までに、みな陸奥國多賀城に赴き集まらせよ。必要な軍粮は太政官に申請して、送るように。兵士は集めるのに時期があり、食粮の供給は継続しにくいものである。そこで交通の便や近さを考慮し、下総國の糒六千石と常陸國の一万石を割き、来たる八月二十日以前に、軍営まで運び送らせよ・・・。

また、伊豫國越智郡の人である越智直靜養女(入立に併記)は、私物をもって困窮した人民百五十八人を助け養った。そこで天平寶字八(764)年三月二十二日の勅書(窮民五十人以上で位二階授与)によって、位二階を賜わっている。

二十六日に次のように勅されている・・・筑紫大宰府は西海道に位置して、諸蕃の國々が朝貢し、舟と檝を共に眺め渡すことができる。このため将校と馬を選び出して鍛え上げ、武装兵を強くして、もって権威と武力を示し、非常の事態に備えている。ところが今、北陸道もまた蕃國の使を供応するが、所有軍兵は教習の経験がなく、変事があって徴発しても、用いるに足る者は全くいない。平安な時にも必ず危険を予想すべきであるのに、どうしてこのようなことでよかろうか。宜敷く大宰府に准じて、式により警め備えるように。---≪続≫---

海沿いの村において、賊が来航して立寄るのを見れば、直ちに使を遣わして、速やかに國に申し出なければならない。國が賊船であることを確認すれば、長官以下は速やかに国衙まで參向し、事に応じて合議し、管内に警め備えさせて、現場に赴くと共に、奏上せよ。〈その一〉---≪続≫---

賊船が俄かに来航して、我が國の海岸に着いた場合、その区域の人民は身に付けた武器をとると共に、併せて自分の食糧をもって要所に走り赴き、死に物狂いで戦いを交えよ。必ず救援の兵を待ち待機ばかりしていて、賊に付け入る隙を与えることがないようにせよ。〈その二〉---≪続≫---

軍隊の集まる場所には、あらかじめ目印の立札を立て、地勢を考慮して、できるだけ便宜に叶うようにせよ。兵士以上の者及び人民で弓馬に慣れた者を、道のりの遠近を考慮して、部隊に編成して分配せよ。事が起こった時には、あれこれ混乱することのないように。〈その三〉---≪続≫---

戦士以上の者は明らかに賊が来襲したことを知れば、身に付けた武器をとり、併せて干飯の袋を腰に下げ、所在地を出立して、直ちに本隊に赴き、それぞれの部隊名を定めて、順序よく隊伍を作れ。静かに待機して賊の動きを待ち、安楽にしているのに乗じて疲れたところを攻撃せよ。〈その四〉---≪続≫---

機会をとらえて戦端を開く場合、國司以上は皆私有の馬に乗れ。もし足りなければ、驛馬・傳馬をそのままこれに充てよ。〈その五〉---≪続≫---

兵士や一般庶民が軍隊に赴き、進退の指令を待つことになった場合、官より支給すべき食粮は、家を出発してから五日目には支給せよ。戦闘の急迫していない所には米を支給し、重要な軍事行動の行われている所に糒を支給するように。〈その六〉・・・。

八月己亥。外從五位下栗前連枝女。本是從四位下山前王之女也。而從母姓未蒙王名。至是改正爲池原女王。授從五位下。壬寅。授從六位下紀朝臣眞木從五位下。丙午。授越前國人從六位上大荒木臣忍山外從五位下。以運軍粮也。庚戌。勅。今聞。諸國甲冑稍經年序。悉皆澁綻。多不中用。三年一度立例修理。隨修隨破。極費功役。今革之爲甲。牢固經久。擐躬輕便。中箭難貫。計其功程。殊亦易成。自今以後。諸國所造年料甲冑。皆宜用革。即依前例。毎年進樣。但前造鐵甲不可徒爛。毎經三年依舊修之。甲寅。授從五位上安倍朝臣家麻呂正五位上。復无位安倍朝臣繼人本位從五位下。乙夘。出羽國鎭狄將軍安倍朝臣家麻呂等言。狄志良須俘囚宇奈古等款曰。己等據憑官威。久居城下。今此秋田城。遂永所棄歟。爲番依舊還保乎者。下報曰。夫秋田城者。前代將相僉議所建也。禦敵保民。久經歳序。一旦擧而棄之。甚非善計也。宜且遣多少軍士。爲之鎭守。勿令衂彼歸服之情。仍即差使若國司一人。以爲專當。又由理柵者。居賊之要害。承秋田之道。亦宜遣兵相助防禦。但以。寳龜之初。國司言。秋田難保。河邊易治者。當時之議。依治河邊。然今積以歳月。尚未移徙。以此言之。百姓重遷明矣。宜存此情歴問狄俘并百姓等具言彼此利害。庚申。太政官奏曰。筑紫大宰。遠居邊要。常警不虞。兼待蕃客。所有執掌。殊異諸道。而官人相替。限以四年。送故迎新。相望道路。府國困弊。職此之由。加以所給厨物。其數過多。毎守舊例充給。或闕蕃客之儲。於事商量。甚不穩便。臣等望請。且停交替料。兼官人歴任。増爲五年。然則百姓息肩。庖厨無乏。伏聽天裁。奏可之。

八月七日、「栗前連枝女」は、もともと「山前王」(忍壁皇子の子)の娘である。しかし母の姓に従い、未だ王の名を受けていない。ここに至り改正して「池原女王」とし(こちら参照)、従五位下を授けている。十日に「紀朝臣眞木」に従五位下を授けている。十四日に越前國の人である大荒木臣忍山(道麻呂に併記)に外従五位下を授けている。兵粮を運搬したためである。

十八日に次のように勅されている・・・今聞くところによると、諸國の甲冑は年月を経過して、悉くみな綻び敗れ、多くは使用に堪えない。三年に一度修理するのを例としているが、修理する後から破綻して、このうえなく工賃と労役を費やしている。今、革で作った甲は、堅固で長持ちし、身に付けても軽便であり、箭に当たっても貫通しにくい。その手間と日数を見積もっても、特にまた作り易いものである。今後諸國が作る年間所定数の甲冑は、みな革を用いるように。即ち前例に従って、毎年見本を進上せよ。但し、以前に作った鉄の甲も、いたずらに腐らせることなく、三年を経過するごとに、旧来のように修理せよ・・・。

二十二日に安倍朝臣家麻呂に正五位上、安倍朝臣繼人(阿倍朝臣)を本位の従五位下に復している。二十三日に出羽國鎮狄将軍の「家麻呂」等が以下のように言上している・・・夷狄の「志良須」や服属した蝦夷の「宇奈古」等が[私たちは朝廷の権威にたよりすがって、久しく城下に住んでいるが、今この「秋田城」はついに永久に放棄されるのか。兵士を交替に配備し、旧来のように、もう一度守るのか]と尋ねて来た・・・。

これに対して以下のように返答している・・・そもそも「秋田城」は、前代の将軍や宰相が集まり相談して建てたものである。敵を防御し民を保護して、長い年月が経過している。俄かに全てこれを放棄するのは、甚だよい方策ではない。しばらくいくらかの軍士を遣わして、鎮守に当たらせ、彼等が帰服する心を損なわさせないようにせよ。よって直ぐに使者もしくは國司一人を派遣し、「秋田城」の専当とするように。また、「由理柵」は賊にとっての要害に位置し、秋田(城)への道が通じている。ここへも兵を遣わして、互いに助け合って防御させるように。---≪続≫---

ただ思うに、寶龜年間の初めに、國司が[「秋田(城)」は保ちにくく、「河邊(城)」は治めやすい]と言上したので、当時の評議は「河邊(城)」を治めることに決まった。しかし、今まで歳月が積み重なっても、なお未だに移住しようとはしない。このことを考えれば、人民が移住を重荷としていることは明らかである。そこで、この心情を察して、服属した蝦夷や人民一人一人に問い、つぶさに両城の利害を詳しく言上するように・・・。

二十八日に太政官が以下のように奏上している・・・筑紫大宰府は遠い辺境の要所に位置して、常に不測の事態を警戒し、併せて番國の使者を接待している。その職掌は諸地域とは異なっている。しかし、官人の交替は四年をもって期限としており、道に前任者を送り、新任者を迎えて、途切れることがない。大宰府や管下の諸國の疲弊は、もっぱらこれが原因である。それだけでなく、支給する調理所用の食物の数は多過ぎるほどであるのに、常に旧例を守って支給するため、番國の使者のための蓄えが不足する時もある。このことについて考えるに、甚だ穏やかではない。暫く國司の交替料を停止し、併せて大宰府の官人の交替に期限を五年に延長することを、私どもは請願する。そうすれば人民は肩を息め、台所の欠乏がなくなるであろう。伏して天皇の裁定をお待ちする・・・。奏上の通りに許可されている。

<紀朝臣眞木-安自可>
● 紀朝臣眞木

紀朝臣一族からの登用は、凄まじい。その上、系譜は殆どが不詳である。何だか泣き言を述べているような具合になりそうであるが、例に依って名前が表す地形から出自場所を突止めてみよう。

既出の文字列である眞木=[木]の形した山稜が寄り集まって窪んだところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。

この地域については、元正天皇紀に紀臣龍麻呂・廣前等が朝臣姓を賜ったと記載されていた。『八色之姓』制定時には漏れていて、恐らく大口(眞人の父親)系列とは異なる系列だったのであろう。直近では紀臣眞吉が登場していた。

「眞木」は、この後續紀中もう一度登場し、従五位下のままで肥前守を任じられているが、その後の消息は不明である。多くの登用が行われたが、高位者の出現は見られないようである。

少し後に紀朝臣安自可が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳の人物が続いているが、この女孺、多分、もその類であり、名前が表す地形から出自の場所を求めると、図に示した辺りと推定される。安自可=嫋やかに曲る谷間の端が大きく開いているところと解釈される。この叙位後の消息も不明である。

<秋田城・河邊城・由理柵>
秋田城・河邊城・由理柵

「秋田城」は、聖武天皇紀の天平五(733)年十二月に「出羽柵遷置於秋田村高清水岡」と記載されていた出羽柵を改造したものであろう。

「越後國出羽郡」に設置されていた城と思われる。現地名は北九州市門司区春日町である。光仁天皇紀に登場した出羽國賊地野代湊に上陸し、現在の桜峠を越えて侵入する賊を監視するための場所となっている。

国防上極めて重要な配置となっているのだが、さりとて常時監視するほど気忙しくなく、担当者が勝手に自分らの都合で「河邊城」に遷り住んでしまったのであろう。いつの時代も変わらぬ気の弛みを露呈しているのである。

初見の河邊城河邊=山稜の端が広がり延びている(邊)前に谷間の口が開いている(河)ところと解釈される。”川の畔”なんて読んでしまうと、全く伝わらないのである。その地形を図に示した場所、「越中國」に属する地であることが解る。東隣は飛騨國の帰化した人々の居処となっている。

由理柵由理=突き出た山稜(由)が区分けられている(理)ところと解釈される。図に示した場所に、その地形を確認することができる。大昔に古事記の木花之佐久夜毘賣が坐した地の近隣である。「秋田城」は北から、この柵は東からの侵攻に備えることができる。

こう眺めると、”担当の勝手な都合”で造ったとした「河邊城」は、背後を固め後方支援することができ、北・東の両方を同時に監視し得る配置でもある。お詫びして文言却下させて頂く。「秋田城」の專当を充てるのは、実に賢明な策であったようである。

● 志良須・宇奈古 秋田城下に住まう人達である。出自もおそらくそうであったと推測して志良須=なだらかに延びる州の前を蛇行する川が流れているところ宇奈古=谷間に延びる平らな頂の高台の麓に丸く小高い地があるところと読み解ける。国土地理院航空写真1960~9年を参照(こちら)しながら、図に示した場所が各々の出自と推定される。