天宗高紹天皇:光仁天皇(28)
寶龜十一年(西暦780年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
九月壬戌朔。從五位上巨勢朝臣池長。從五位下藤原朝臣末茂並爲中衛少將。從五位下阿倍朝臣祖足爲左衛士員外佐。從五位下大中臣朝臣諸魚爲右衛士佐。甲申。授從四位上藤原朝臣小黒麻呂正四位下。爲持節征東大使。
九月一日に巨勢朝臣池長(巨勢野に併記)・藤原朝臣末茂(❸)をそれぞれ中衛少将、阿倍朝臣祖足(石行に併記)を左衛士員外佐、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を右衛士佐に任じている。二十三日に藤原朝臣小黒麻呂に正四位下を授け、持節征東大使に任じている。
冬十月癸巳。左右兵庫鼓鳴。後聞箭動聲。其響達内兵庫。丁酉。授常陸國鹿嶋神社祝正六位上中臣鹿嶋連大宗外從五位下。癸夘。正五位上藤原朝臣鷹取。紀朝臣船守並授從四位下。壬子。授正五位下因幡國造淨成女正五位上。甲寅。典侍從四位下多可連淨日卒。丙辰。伊勢國言。當土之民。浮宕部内。差科之日。徭夫數少。精加検括。多獲隱首。並悉編附本籍。益口且千。調庸有増。於是仰七道諸國。存心検括。一准伊勢國。」又勅。天下百姓。規避課役。流離他郷。雖有懷土之心。遂懼法而忘返。隣保知而相縱。課役因此無人。乃有臨得出身。諠訴多緒。勘籍之日。更煩尋検。宜依養老三年格式。能加捉搦。委問歸不。願留之輩。編附當處。願還之侶。差綱遞送。若國郡司及百姓。情懷姦詐。阿藏役使者。官人解却見任。百姓决杖一百。永爲恒例焉。己未。勅征東使。省今月廿二日奏状知。使等延遲。既失時宜。將軍發赴。久經日月。所集歩騎數萬餘人。加以入賊地期。上奏多度。計巳發入。平殄狂賊。而今奏。今年不可征討者。夏稱草茂。冬言襖乏。縱横巧言。遂成稽留。整兵設糧。將軍所爲。而集兵之前。不加辨備。還云。未儲城中之粮者。然則何月何日。誅賊復城。方今將軍爲賊被欺。所以緩怠致此逗留。又未及建子。足以擧兵。而乖勅旨。尚不肯入。人馬悉痩。何以對敵。良將之策。豈如此乎。宜加教喩存意征討。若以今月。不入賊地。宜居多賀玉作等城。能加防禦。兼練戰術。
十月三日に左右兵庫の鼓が鳴り、その後、箭の震動音が聞こえ、その響きは内兵庫まで達している。七日に常陸國の鹿嶋神社の祝である「中臣鹿嶋連大宗」に外従五位下を授けている。十三日に藤原朝臣鷹取(❶)・紀朝臣船守にそれぞれ従四位下を授けている。二十二日に因幡國造淨成女に正五位上を授けている。二十四日に典侍の多可連淨日女(高麗使主淨日)が亡くなっている。
二十六日に伊勢國が以下のように言上している・・・当地の民は國内に浮浪し、労役を徴発するには、労役に当たる人夫が數少ないというありさまである。そこで詳しく調査・把握したところ、税を逃れて隠れている者を多く見つけた。悉く本籍に編附すると、人数が千人近くも増え、調・庸が増加した・・・。これを受けて朝廷は七道の諸國に命じて、もっぱら伊勢國に倣い、注意をはらって調査・把握させている。
また次のように勅されている・・・天下の人民で課役を巧みに逃れ他郷に流浪する者は、郷土を懐かしむ心はあっても、ついに法を懼れて、帰ることを忘れてしまい、隣の家々もそれを知りながら互いに見逃している。課役はこのために納める人がなく、官人への登用が叶った時に、やかましい訴えが多く起こり、勘籍の時にも尋問と調査がいっそう面倒である。---≪続≫---
そこで養老三(五?)年の格式に依拠して、浮浪の民をできるだけ絡め捕らえ、郷土に帰るかどうかを詳しく問い、留まることを願う輩は、その地の戸籍に編附し、帰ることを願う者は、綱丁(運送者)を遣わして、順々に送るようにせよ。もし國司・郡司や一般人民が邪な詐の心を懐き、おもねり隠して役使すれば、官人の場合は現職を解任し、一般人民の場合は杖で百回打つ刑に処する。永く恒例とするように・・・。
二十九日に征東使に次のように勅されている・・・朕は今月二十二日の奏状をみて、使達が征討を遅滞させ、既に適当な時期を失っていることを知った。将軍が征討に出発してから久しく月日が経ち、集結した歩兵・騎兵は数万人余りにのぼっている。それだけではなく、賊地に攻め入る期日を度々上奏して来ており、計画では既に進発して攻め入り、狂暴な賊を平らげ滅ぼしている筈である。しかるに今頃になって[今年は征討できない]と上奏して来た。---≪続≫---
夏は草が深いと称し、冬は上着が乏しいと言い、様々に巧みに言い逃れをし、遂に駐留したままである。武器を整え食糧を準備するのは、将軍の仕事である。それなのに兵を集める前に準備を行わず、逆に[城中の食糧がまだ蓄えられていない]と言ってくる。それなら何月何日に賊を誅殺し、城を回復するのか。まさに今、将軍は賊に欺かれたために、気持ちが弛み怠り、この逗留を招いたのである。---≪続≫---
また、まだ十一月になっていないのであるから、十分兵を進めることができる。しかるに勅旨に背き、なお攻め入ろうとはしない。駐留が長引き、人と馬が悉く痩せれば、何をもって敵にあたれるであろうか。優れた将軍の作戦はこのようなものであってはならない。部下を教え喩し、征討の意思を固く持つべきである。もし今月中に賊地に入れなければ、多賀・玉作などの城(柵)に留まり、よく防御を整え、併せて戦術を練るように・・・。
中臣鹿嶋連は、聖武天皇紀の天平十八(746)年三月に「常陸國鹿嶋郡中臣部廿烟。占部五烟。賜中臣鹿嶋連之姓」と記載されていた。
今回も鹿嶋神社の祝であり、通常の官人登用とは些か異なる状況である。外従五位下の叙爵は異例だったのかもしれない。
大宗=山稜に挟まれた谷間にある高台が平らなになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後に登場されることはなく、「中臣鹿嶋連」そのものも今回が最後となっている。
十一月壬戌。先是。和銅四年格云。私鑄錢者斬。從者沒官。家口皆流者。天平勝寳五年二月十五日勅。私鑄錢人。罪致斬刑。自今以後。降一等處遠流者。而首已會降。從并家口猶居本坐。首從之法。罪合減降。輕重相倒。理不可然。至是勅刑部。定其罪科。刑部省奏言。謹案賊盜律云。謀反者皆斬。父子沒官。祖孫兄弟遠流。名例律云。犯罪者以造意爲首。隨從減一等。又云。二死三流各同爲一減者。今比校輕重。仍從者減首一等。處徒三年。家口減從一等。處徒二年半。奏可之。丙戌。授唐人正六位上沈惟岳從五位下。丁亥。授四品弥努摩内親王三品。戊子。前大納言正二位文室眞人邑珍薨。邑珍。二品長親王之第七子也。天平中授從四位下。拜刑部卿。勝寳四歳賜姓文室眞人。勝寳以後。宗室枝族。陷辜者衆。邑珍削髮爲沙門。以圖自全。寳龜初至從二位大納言。年老致仕。有詔不許。五年重乞骸骨。許之。尋授正二位。薨時年七十七。
十一月二日、これより先、和銅四年の格には、[贋金造りの主犯は斬刑に処し、従犯は官に没収して賤民とし、それぞれの家族はみな流刑に処する]とある。また、天平勝寶五(753)年二月十五日の勅には、[贋金造りの主犯は斬刑にあたるが、今より後は罪一等を降して、遠流に処す]とある。これによって主犯は既に減刑されているが、従犯並びに家族は、尚元のままである。主犯と従犯に関する法では、従犯の罪は減降すべきであるのに、これでは軽重が逆転してしまい不合理である。ここに至り、刑部省に勅されて、その罪科を定めさせている。
刑部省は以下のように奏上している・・・謹んで賊盗律を調べてみると、[謀反を図った者は皆斬刑に処し、その父子は官に没収し、その祖父母と孫と兄弟は遠流に処す]とある。名例律には[共に罪を犯した場合は、首謀者を主犯と定め、従犯には罪一等を減ずる]とあり、また[斬・絞の二種の死刑と遠・中・近の三種の流刑とは、それぞれ同じく一減とする]とある。今軽重を比較すると、即ち従犯は主犯の罪一等を減じて、徒三年の刑に処し、家族は従犯の罪一等を減じて徒二年半の刑に処すことにしたい・・・。奏上の通りに許可されている。
二十八日に前大納言の文室眞人邑珍(大市。大市王)が亡くなっている。「邑珍」は長皇子の第七子であった。天平年中に従四位下を授けられ、刑部卿に任じられた。天平勝寶四歳に文室眞人の氏姓を賜った。それ以後皇族で罪に陥る者が多く、「邑珍」は髪を剃って僧侶となり、自らの安全を図った。寶龜の初め、大納言に至り、老年のため辞職を願い出て、天皇は詔を下して、これを許さなかったが、寶龜五年に重ねて辞職を願い出たので、これを許している。次いで正二位を授けられ、薨去した時、年は七十七であった。
十二月甲午。唐人從五位下沈惟岳賜姓清海宿祢編附左京。」授无位福當王從四位下。」勅左右京。今聞。造寺悉壞墳墓。採用其石。非唯侵驚鬼神。實亦憂傷子孫。自今以後。宜加禁斷。」越前國丹生郡小虫神爲幣社焉。庚子。征東使奏言。蠢茲蝦虜。寔繁有徒。或巧言逋誅。或窺隙肆毒。是以遣二千兵。經畧鷲座。楯座。石澤。大菅屋。柳澤等五道。斬木塞徑。深溝作險。以斷逆賊首鼠之要害者。於是。勅曰。如聞。出羽國大室塞等。亦是賊之要害也。毎伺間隙。頻來寇掠。宜仰將軍及國司。視量地勢。防禦非常。辛丑。授正五位下藤原朝臣種繼正五位上。甲辰。越前國丹生郡大虫神。越中國射水郡二上神。砺波郡高瀬神並叙從五位下。」勅左右京。如聞。比來無知百姓。搆合巫覡。妄崇淫祀。蒭狗之設。符書之類。百方作恠。填溢街路。託事求福。還渉厭魅。非唯不畏朝憲。誠亦長養妖妄。自今以後。宜嚴禁斷。如有違犯者。五位已上録名奏聞。六位已下所司科决。但有患祷祀者。非在京内者。許之。庚戌。授正六位上紀朝臣常從五位下。辛亥。授正六位上川邊朝臣淨長從五位下。壬子。常陸國言。脱漏神賎七百七十四人請編神戸。許之。但神司妄認良民。規爲神賎。假託靈異。侵擾朝章。自今以後。更莫申請。丁巳。陸奧鎭守副將軍從五位上百濟王俊哲等言。己等爲賊被圍。兵疲矢盡。而祈桃生白河等郡神一十一社。乃得潰圍。自非神力。何存軍士。請預幣社。許之。
十二月四日に唐人の沈惟岳(左京人戸淨道に併記)に清海宿祢の氏姓を賜り、本籍を左京としている。無位の福當王(❹)に従四位下を授けている。この日、左右京に対して次のように勅されている・・・今聞くところによると、寺を造る際に、悉く墳墓を壊し、その石を採り用いているという。ただ死者の霊魂の平安を侵し驚かせているだけではなく、実にまた子孫を憂い傷ませることでもある。今後は禁断を加えるように・・・。また、越前國丹生郡小虫神(雨夜神に併記)を官の奉幣に与る神社としている。
十日に征東使が以下のように奏上している・・・蠢く蟲のような蝦夷は、まことに多くの仲間の者があり、言葉を巧みにして誅罰を逃れたり、隙を伺がい害悪を恣にしてりしている。このため二千の兵を遣わして、「鷲座・楯座・石澤・大菅屋・柳澤」などの五道を平らげ支配し、木を斬って径を塞ぎ、溝を深く掘って要害を造り、逆賊が様子を伺う要害を断ち切ろうと思う・・・。
そこで次のように勅されている・・・聞くところによると、出羽國の「大室塞」などもまた賊の要害である。常に隙を伺い、頻りに来襲して略奪を行っているという。将軍と國司に命じて、詳しく地勢を調査し、非常事態に対して防御させるように・・・。
また、左右京に対して次のように勅されている・・・聞くところによると、この頃無知な人民は男女の巫と交わり合い、みだりに淫らな祭りを尊び、藁で作った犬を並べたり、お符の類など、様々に怪しげなものを作り、街路にそれらが充ち満ちており、福を求める事をたのんで、返って禁じられたまじないや呪いに関わり合っている。---≪続≫---
これはただ朝廷の法律をおそれないばかりか、まことにまた怪しげでみだりがましい風潮を、長く養成することにもなろう。今後は厳しく禁断するように。もし違犯する者があれば、五位以上は名を記録して奏聞し、六位以下は管轄の官司が処罰せよ。但し、病に罹り、そのために祈祷する者は、京内に居住していない場合にのみ、これを許可せよ・・・。
二十日に紀朝臣常(眞子に併記)に、二十一日に川邊朝臣淨長(東人に併記)に従五位下をそれぞれを授けている。二十二日に常陸國が以下のように言上している・・・戸籍に漏れ落ちている神賎七百七十四人を鹿嶋神社の神戸に編入することを申請する・・・。朝廷はこれを許可している。但し、神司はみだりに良民と知りながら、計画的に神賎とし、不思議な出来事に託けて、朝廷の規定を侵し乱している。今後は二度と申請してはならない。
二十七日に陸奥鎮守副将軍の百濟王俊哲(②-❶)等が以下のように言上している・・・私たちは賊によって包囲され、兵は疲れ矢は尽きようとした。しかし、桃生・白河郡の神十一社に祈ると、やがて囲みをつぶすことができた。神の力でなければ、どうして軍士を保てたであろうか。幣帛を供える神社に加えられることを申請する・・・。これを許可している。
征東五道:鷲座道・楯座道・石澤道・大菅屋道・柳澤道
<征東五道> |
❶鷲座道 「鷲」=「就(京+尤)+鳥」=「手のような山稜の先に大きく突き出た高台がある様」、「座」=「广+坐(人+人+土)」=山麓で谷間が二つ並んで延びている様」と解釈される。纏めると、鷲座=手のような山稜の先に大きく突き出た高台の麓で谷間が二つ並んで延びているところとなる。
❷楯座道 「楯」=「木+⺁+十+目」=「山稜が谷間を塞ぐように延びている様」、「座」の上記と同様として、纏めると、楯座=山稜が塞ぐように延びている谷奥に谷間が二つ並んで延びているところとなる。
❸石澤道 「澤」=「氵+睪」=「水辺に小高く丸い地が並んでいる様」であり、纏めると、石澤=山麓の小高い地の水辺で小高く丸い地が並んでいるところとなる。現在の地図では、大きく地形変形が見られ、国土地理院航空写真1961~9年のこちらを参照した。
❹大菅屋道 そのまま読み解くと、大菅屋=平らな頂の山稜の尾根が尽きた地の前に管のような谷間が延びているところと読み解ける。
❺柳澤道 「柳」=「木+卯」=「山稜の傍らで隙間のような谷間が延びている様」、「澤」は上記と同様にして、纏めると、柳澤=丸く小高い地が並んでいる山稜の脇で隙間のような谷間が延びているところとなる。
各々の名称が表す地形を上図に示した場所に確認することができる。書紀の肅愼國(續紀ではこの表現を用いない)の地から山を越えて侵入する最もらしきルートを全て押さえたと述べていることが解る。あらためて、「由理柵」の重要性、「河邊城」の果たす役割などが鮮明になっている。「秋田城」だけではとても防ぎ切れないことも自明であろう(こちら参照)。
余談だが、この征東五道に関して、通説では全く見当もつかない様子であり、陸奥國と出羽國との往来に位置する場所が幾つか提案されているようである。「蝦夷」の脅威に対して、その地を閉じ込める戦略であったことなど、夢想だにされていない。統治している地域の行路を遮断してどうするのであろうか?…籠城する戦略?…あり得ない解釈である。
出羽國大室塞
按察使大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)の働きで鎮圧した谷間の近隣に「大室驛」があり、ここに「塞」を造ったのか?…と錯覚しそうになるのだが、間違いであろう。
この場所は征東使等が遠征する際に通過する重要な場所であり、その先に伊治城などが造られていて、蝦夷を閉じ込めるような位置関係ではないのである。
前記で蝦夷の拠点の一つとして出羽國志波村が登場していた。大軍を差し向けて、一度は退治したのだが、不完全な状態であったのであろう。大室=平らな頂の山稜の麓で谷間が奥深く延びているところと解釈される。その地形を図で確認することができる。
上記本文で「亦是賊之要害也」と記載されている。「志波村」の入口近くに設置されたのであろう。即ち谷間の入口に、賊が造った要害の「塞」と述べている。「驛」との混同はありえないのである。
「越中國」の郡割の記述は、全くの初見であろう。文武天皇紀に、その四郡(こちら参照)を越後國に転属させたと記載され、その後の郡に関する状況は明らかにされていなかった。
兎も角も狭隘な地で二郡の配置を求めてみよう。前述の河邊城が造られた場所が含まれている筈である。
射水郡の射水=弓なりに曲がっている山稜の端の麓を水が通り抜けているところ、礪波郡の礪波=山麓で[萬]の形に山稜が延びて水辺に覆い被さるように広がっているところと読み解ける。これらの地形を含む、それぞれの領域を二郡の名称としていることが解る。
二上神・高瀬神
二上神の「二上」は、「射水郡」の中に図に示した二上=盛り上がった地が二つ並んでいるところの麓を表していると思われる(国土地理院航空写真1961~9年のこちら参照)。高瀬神は、「礪波郡」の高瀬=皺が寄ったような山稜の麓で川が大きく曲がっているところと解釈される場所に鎮座していたと推定される。”神力”強化、喫緊の課題であったようである。