2024年6月10日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(29) 〔680〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(29)


天應元(西暦781年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

天應元年春正月辛酉朔。詔曰。以天爲大。則之者聖人。以民爲心。育之者仁后。朕以寡薄。忝承寳基。無善萬民。空歴一紀。然則惠澤壅而不流。憂懼交而弥積。日愼一日。念茲在茲。比有司奏。伊勢齋宮所見美雲。正合大瑞。彼神宮者國家所鎭。自天應之。吉無不利。抑是朕之不徳。非獨臻茲。方知凡百之寮。相諧攸感。今者元正告暦。吉日初開。宜對良辰共悦嘉貺。可大赦天下。改元曰天應。自天應元年正月一日昧爽以前。大辟以下。罪無輕重。未發覺。已發覚。未結正。已結正。繋囚見徒。咸皆赦除。但犯八虐。故殺。謀殺。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦例。其齋宮寮主典已上。及大神宮司。并祢宜。大物忌。内人。多氣度會二郡司。加位二級。自餘番上。及内外文武官主典已上一級。但正六位上者廻授一子。如無子者。宜量賜物。其五位已上子孫。年廿已上者。亦叙當蔭之階。又如有百姓爲呰麻呂等被詿誤。而能弃賊來者。給復三年。其從軍入陸奧出羽諸國百姓。久疲兵役。多破家産。宜免當戸今年田租。如無種子者。所司量貸。又去年恩免神寺封租者。宜以正税填償。天下老人。百歳已上賜籾三斛。九十已上二斛。八十已上一斛。鰥寡孤獨不能自存者。量加賑恤。孝子順孫。義夫節婦。旌表門閭。終身勿事。癸亥。授正五位下佐伯宿祢久良麻呂正五位上。己巳。授正六位上石淵王從五位下。庚午。授女孺无位縣犬養宿祢勇耳從五位下。」參議正四位下藤原朝臣小黒麻呂爲兼陸奧按察使。右衛士督常陸守如故。壬申。授從二位藤原朝臣魚名正二位。乙亥。下総國印幡郡大領外正六位上丈部直牛養。常陸國那賀郡大領外正七位下宇治部全成。並授外從五位下。以進軍粮也。丙子。授正五位上藤原朝臣種繼從四位下。己夘。下総國飢。賑給之。庚辰。授播磨國人大初位下佐伯直諸成外從五位下。以進稻於造船瀬所也。 

正月一日に次のように詔されている・・・天を偉大なものと考え、これに則るものは聖人であり、人民の心を自分の心として人民を養うものは、恵み深い君主であるという。朕は徳の薄い身でありながら恐れ多くも皇位を継承し、万民には益することのないまま、空しく十二年を経てしまった。そのために恵みは滞り、人民の上に及ばない。憂いと恐れが交錯して、益々鬱積している。---≪続≫---

毎日毎日を慎んで、身の至らなさを思っていたが、この頃役人たちが[伊勢齋宮に現れた美しい雲は、まさしく大瑞に相当するものである]と奏上して来た。かの神宮は國の鎮めとするところであるが、天がこれに感応したのは吉祥であって、善いことに間違いはない。そもそも不徳な朕だけでこの吉祥が現れたのではなく、全ての官司が調和していることに天が感応したものであると分かる。---≪続≫---

今、正月元日が暦を告げ、吉い日が始まった。このめでたい日に対して一同共に善い賜物として喜ぶべきである。そこで天下に大赦を行い、年号を改めて「天應」とする。天應元年正月一日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、まだ発覚していない罪、既に発覚した罪、未だ罪名の定まらないもの、既に罪名の定まったもの、獄に繋がれ現に服役している者、これらは悉く皆赦免する。但し、八虐を犯したもの、故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗の通常の赦で免されないものは、いずれも赦免の範囲に入れない。---≪続≫---

齋宮の主典以上、及び大神宮司、並びに禰宜・大物忌・内人、多氣・度會二郡の郡司は位を二階昇叙する。それ以外の交替勤務の官人、及び内外文武官の主典以上には位を一階昇叙する。但し、正六位以上の者については、子の一人に回すようにせよ。もし子がない場合は物に換算して賜う。五位以上の子・孫で年二十以上の者には、蔭位として授かるべき位階に叙せよ。---≪続≫---

また、もし「呰麻呂」(伊治公呰麻呂)のために欺かれた一般の人民の中で、賊の仲間から抜け出て来た者には租税負担を三年間免除する。陸奥・出羽に従軍している諸國の人民は、長期の兵役に疲弊し、家の産業の破滅してしまった者が多い。そこでその戸の今年の田租は免除する。もし、種籾がなければ國司は必要量を計って貸し与えよ。また、去年、恩をもって神社や寺院の封戸の租を免除したが、正税から支出して補填するようにせよ。---≪続≫---

天下の老人の百歳以上には、籾三石を与える。九十歳以上には二石、八十歳以上には一石とする。鰥・寡・孤・獨で自活できない者には、その状態に応じて物を恵み与える。孝子・順孫・義夫・節婦は、その家と村の門に顕彰し、租税負担を終身免除する・・・。

三日に佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)に正五位上を授けている。九日に石淵王(山上王に併記)に従五位下を授けている。十日に女孺の縣犬養宿祢勇耳(堅魚麻呂に併記)に従五位下を授けている。また、参議の藤原朝臣小黒麻呂に右衛士督・常陸守のままで陸奥按察使を兼任させている。十二日に藤原朝臣魚名(鳥養に併記)に正二位を授けている。

十五日に「下総國印幡郡」の大領の「丈部直牛養」と常陸國那賀郡の大領の「宇治部全成」にそれぞれ外従五位下を授けている。兵糧を貢進したためである。十六日に藤原朝臣種繼(藥子に併記)に従四位下を授けている。十九日に下総國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。二十日、播磨國の人である「佐伯直諸成」に外従五位下を授けている。造船瀬所(「船瀬」についてはこちら参照。船を一時的に待避させる所を造る役所)に稲を貢進したためである。

<下総國印幡郡:丈部直牛養>
下総國印幡郡

「下総國印幡郡」は記紀・續紀を通じて初見である。元正天皇紀に香取郡(こちら参照)、称徳天皇紀に結城郡及び猿嶋郡が登場していた。現在は、見る影もなく、広大な住宅地に変貌している地域である。

そして、唯一残されているのが下総國北西の区画となる。それが印幡郡となる・・・一件落着にしても良いのだが、やはり地形象形表記であることを確認しておこう。

文字列に含まれる「印」=「爪+卩」=「三つの山稜が押し出ている様」と解釈する。古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)などに用いられた文字である。この特徴的な山稜の形を、その残された場所に見出すことができる。地形象形表記、確信である。

纏めると印幡=三つの山稜が押し出ている先がはためくように延びているところと読み解ける。「上総國」との端境に位置する郡となっている。續紀中に当郡に関わる記述は見られず、登場することがないようである。

● 丈部直牛養 「丈部」の氏名(姓:造・直)を持つ一族は極めて多く、例示すると、丈部造(相摸國)丈部直(武藏國)丈部(上総國)丈部(陸奥國)丈部(常陸國)、が記載されていた。地形象形として丈部=山稜が長く延びている地の近隣のところと解釈するが、既に解読したように、これ等の國の配置は現在の企救半島東南部の地形を表している。

今回の人物は、下総國大領であり、上図に示したように「上総國」と同様な山稜の形を表していることが解る。頻出の牛養=牛の頭部のような山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところから出自場所を推定することができる。

<常陸國那賀郡・宇治部全成>
● 宇治部全成

元正天皇紀に常陸國那賀郡の住人である宇治部直荒山が私財を貢進して外従五位下を叙爵されていた。「那賀郡」の初見の記述でもあった。

全成は直姓が付与されていないが、近隣を出自とする人物であったと推測される。既出の文字列である全成=玉のような地が谷間にすっぽりと嵌っている麓で平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。

周辺を眺めると、実に多くの”烏”が群がっていることが分かる。官人への登用・叙位のない人々が住まっていたのであろう。續紀も開拓の歴史を克明に記述しているのである。

上記の「牛養」と同じく、この後續紀中に登場することはないのだが、蝦夷対策のため、坂東諸國の強化を行ったのかもしれない。飢饉・疫病の脅威を感じさせる記述のように思われる。

<佐伯直諸成>
● 佐伯直諸成

「佐伯宿祢」とは無縁の一族に属する人物なのであろう。居処を播磨國と記載され、その地が出自と推測する。

ところで、この人物に関して延暦四(785)年に園池正に任じたり、更に延暦七(788)年十一月七日に「播磨國揖保郡人外從五位下佐伯直諸成。延暦元年籍冐注連姓。至是事露改正焉」と記載されている。

「揖保郡」を居処としていたことが分かる。外従五位下の叙爵に悪乗りしたのか、「姓」を偽わるなんてもっての外の行為に及んだようである。

兎も角も播磨國揖保郡で出自の場所を確かめておこう。頻出の佐伯=谷間にある左手のような山稜の麓で谷間がくっ付いているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。名前の諸成=耕地が交差するように延びている地にある平らに整えられたところであり、出自の場所をより精細に示していると思われる。

その谷間の出口辺りに、「諸成」が稲を貢進した造船瀬所があったのではなかろうか。「船瀬」に都合の良い地形を有している場所と思われる。国土地理院航空写真1961~9年のこちら参照(干拓最中の写真?)。

二月庚寅朔。授无位磐田女王從五位下。壬辰。授從六位下安曇宿祢日女虫從五位下。乙巳。從五位下阿倍朝臣祖足爲河内守。丙午。三品能登内親王薨。遣右大弁正四位下大伴宿祢家持。刑部卿從四位下石川朝臣豊人等。監護喪事。所須官給。遣參議左大弁正四位下大伴宿祢伯麻呂。就第宣詔曰。天皇大命〈良麻止〉能登内親王〈尓〉告〈与止〉詔大命〈乎〉宣。此月頃間身勞〈須止〉聞食〈弖〉伊都〈之可〉病止〈弖〉參入〈岐〉。朕心〈毛〉慰〈米麻佐牟止〉今日〈加〉有〈牟〉明日〈加〉有〈牟止〉所念食〈都都〉待〈比〉賜間〈尓〉安加良米佐〈須〉如事〈久〉於与豆礼〈加毛〉年〈毛〉高〈久〉成〈多流〉朕〈乎〉置〈弖〉罷〈麻之奴止〉聞食〈弖奈毛〉驚賜〈比〉悔〈備〉賜〈比〉大坐〈須。〉如此在〈牟止〉知〈末世婆〉心置〈弖毛〉談〈比〉賜〈比〉相見〈弖末之〉物〈乎。〉悔〈加毛〉哀〈加毛〉云〈部〉不知戀〈毛之〉在〈加毛〉。朕〈波〉汝〈乃〉志〈乎波〉暫〈久乃〉間〈毛〉忘得〈末之自美奈毛〉悲〈備〉賜〈比〉之乃〈比〉賜〈比〉大御泣哭〈川川〉大坐〈麻須〉。然〈毛〉治賜〈牟止〉所念〈之之〉位〈止奈毛〉一品贈賜〈不〉。子等〈乎婆〉二世王〈尓〉上賜〈比〉治賜〈不。〉勞〈久奈〉思〈麻之曾〉。罷〈麻佐牟〉。道〈波〉平幸〈久〉都都〈牟〉事無〈久〉宇志呂〈毛〉輕〈久〉安〈久〉通〈良世止〉告〈与止〉詔天皇大命〈乎〉宣。」内親王。天皇之女也。適正五位下市原王。生五百井女王。五百枝王。薨時年卌九。」以從五位下阿倍朝臣謂奈麻呂爲權右少弁。己未。穀一十万斛仰相摸。武藏。安房。上総。下総。常陸等國。令漕送陸奧軍所。

二月一日に磐田女王(石田女王。『仲麻呂の乱』連坐後の復位)に従五位下を、三日に安曇宿祢日女虫(諸繼に併記)に従五位下を授けている。十六日に阿倍朝臣祖足(石行に併記)を駿河守に任じている。

十七日に三品の能登内親王()が薨じている。右代弁の大伴宿祢家持と刑部卿の石川朝臣豊人等を派遣して、葬儀を監督・護衛させている。必要な物は官より支給した。参議・左大弁の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を邸宅に遣わし、次のような詔を宣べさせている(以下宣命体)・・・天皇の御言葉として「内親王」に告げよと仰せられる御言葉を申し渡す。この幾月かの間、病気に罹っていると聞いて、いつになったら病気が治って宮中に参内して来て、朕の心を慰めてくれるであろうかと、今日であろうか明日であろうかと思いつつ待っている間に、ふと目を他へ逸らすくらいの俄な間に、人を惑わす言葉ではないのか、年をとってしまった朕を残して薨ってしまった、と聞いて驚き悔やんでいる。---≪続≫---

こうなることと知っていたならば、そのつもりで語らいもしたであろうし、会ってもいたものを。悔しいことだ、哀しいことだ。どう言ってもよいかもわからないことよ。朕は汝の心映えをしばらくの間も忘れることができないように思うので、悲しみ偲んでは声をあげて泣いていることだ。ついては、優遇しようと思っていた位として一品を贈る。その子たちを二世王にあげてしかるべく優遇する。心を痛めなさらないように。退いて行く道は、平安で差しさわりなく、後の事に心を残すことなく、安らかに行かれるように、と告げるように、と仰せになる御言葉を申し渡す・・・。

「内親王」は天皇の娘であった。正五位下の市原王(春日王の孫。父親阿紀王に併記)に嫁いで「五百井女王・五百枝王」を生んだ。薨じた時、四十九歳であった。また、阿倍朝臣謂奈麻呂(こちら参照)を権右少弁に任じている。三十日に相摸・武藏・安房・上総・下総。常陸などの諸國に命じて、籾米十万石を陸奥の軍営に船で運送させている。

五百井女王・五百枝王
● 五百井女王・五百枝王

能登内親王()と市原王との間に誕生した子達であり、二世王として処遇すると述べている。確かに少し後に従四位下、更に従四位上を叙爵されている。「五百枝王」は任官の記載もあり、この後に幾度か登場されている。

既に「市原王」の出自場所を求めるに際して、現在は広大な貯水池になっている場所は、当時は川の流れる野原として推定した。果たして、その子等の場所は見出せるのか?・・・。

両者に含まれる頻出の五百=連なっている丸く小高い地が交差するようなところと解釈した。その地形を「市原王」の東北の谷間に確認することができる。井=四角く取り囲まれた様枝=山稜が岐れている様であり、それぞれの出自を図に示した場所と推定される。

三月庚申朔。授采女從六位上牟義都公眞依。正七位上安那公御室。」正八位上久米直麻奈保並外從五位下。乙丑。地震。戊辰。正六位下珍努縣主諸上。從六位上生部直清刀自。從七位下葛井連廣見。從八位下三笠連秋虫並授外從五位下。己巳。尚侍兼尚藏正三位大野朝臣仲仟薨。從三位東人之女也。癸酉。授從五位上和氣朝臣廣虫正五位上。辛巳。正六位上酒部造家刀自。從六位下丸部臣須治女並授外從五位下。壬午。授從六位下紀朝臣安自可從五位下。甲申。詔曰。朕枕席不安。稍移晦朔。雖加醫療。未有効驗。可大赦天下。自天應元年三月廿五日昧爽以前。大辟以下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸赦除之。但八虐。故殺。謀殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦限。乙酉。美作國言。今月十二日未三點。苫田郡兵庫鳴動。又四點鳴動如先。其響如雷霆之漸動。」伊勢國言。今月十六日午時。鈴鹿關西中城門大鼓。自鳴三聲。

三月一日に采女の「牟義都公眞依・安那公御室」及び「久米直麻奈保」にそれぞれ外従五位下を授けている。六日に地震が起こっている。九日に「珍努縣主諸上」・生部直清刀自(大生部直三穗麻呂に併記)・「葛井連廣見・三笠連秋虫」にそれぞれ外從五位下を授けている。

十日に尚侍兼尚藏の大野朝臣仲仟(廣言に併記)が亡くなっている。東人の娘であった。十四日に和氣朝臣廣虫に正五位上を授けている。二十二日に酒部造家刀自(酒部公家刀自に併記)・丸部臣須治女(豊捄に併記)にそれぞれ外從五位下を授けている。二十三日に紀朝臣安自可(眞木に併記)に從五位下を授けている。

二十五日に次のように詔されている・・・朕は安眠できない状態が一月に及んでいる。治療を加えているけれども未だその効果は現れていない。そこで天下に大赦を行う。天應元年三月二十五日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、既に発覚した罪、まだ発覚してない罪、既に罪名の定まったもの、未だ罪名の定まらないもの、現に獄に繋がれ服役している者は悉くみな赦免する。但し、八虐、故意による殺人、強盗・窃盗、通常の赦では免されないものは、いずれも赦免の範囲に入れない・・・。

二十六日に美作國が以下のように言上している・・・今月十二日未の時の三点(午後三時)に苫田郡の兵器庫が音を立てて震動した。また、四点(午後三時半)にも同様に音を立てて震動した。その音の響きは雷がだんだん轟いて来るようであった・・・。また、伊勢國が以下のように言上している・・・今月十六日の午時(正午)に鈴鹿關の西中城門の太鼓が自然に三回鳴った・・・。<下記参照>

<牟義都公眞依>
● 牟義都公眞依

「牟義都公」は、古事記の大碓命の子、押黑弟日子王が祖となった牟宜都君の子孫であろう。書紀では『壬申の乱』の功臣である身毛君廣が登場し、續紀の文武天皇紀に、その功績を称える時には「牟宜都君比呂」と記載されていた。

ここでも例に依って、續紀は古事記に類する表記を行っていることを示し、書紀とは多くの場合に異なっていることが分かる。

宜=宀+且=山稜に挟まれて段々に積み重なった様義=羊+我=谷間がギザギザしている様に置換えているが、居処周辺の地形に視点を置いた表現としたのであろう。

眞依=谷間にある山稜の端が三角の形になっている地を寄せ集めて窪んだところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「比呂」の谷間の出口辺りとなる。尚、この地は美濃國にご執心であった元正天皇の御世に務義郡と表記された場所である。

<安那公御室>
● 安那公御室

「安那公」は、記紀・續紀を通じて初見であろう。「安那」は、元正天皇紀に「備後國安那郡」にあった「茨城」を廃城にしたと記され、「安那郡」が設置されていたことが分かる(こちら参照)。

その後「安那郡」を分割して深津郡を設置したとも記載されていた。いずれにせよこの地を出自とする人物の登場は見られなかったようである。

紛うことなく今回の人物は「安那郡」を居処としていたとして、その出自場所を求めてみよう。御室=奥にまで延びる谷間を束ねるところと解釈すると、図に示した場所がその地形を表していることが解る。

上記の「眞依」と共に采女として外従五位下を叙爵されているが、埋もれた地や辺境の地からの希少な登用を述べているのであろう。貴重な記録と思われる。

<久米直麻奈保>
● 久米直麻奈保

「久米直」は、元正天皇紀に忍海手人廣道が雑戸の身分を解除されて、賜った氏姓と記載されていた。忍海造(後に連)一族の多くが蔓延っていた地の一隅の場所と推定した。

直近では孝謙天皇紀に踏歌の音頭取りである女孺の忍海伊太須が外従五位下を授けられていたが、この地を出自とする人物の任官の記載は極めて少ないようである。

今回の人物も上記の采女二名とは区別されているので女孺としての叙位であろう。麻奈保=谷間に延びる山稜の端が丸く小高くなった高台が擦り潰されたような平らなところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。多分、現在の日吉神社辺りかと思われる。この後に登場されることはないようである。

<珍努縣主諸上>
● 珍努縣主諸上

「珍努縣主」は、勿論、初見の氏姓である。ただ、この珍しい名称は、元正天皇紀に登場した珍努宮に用いられていた。和泉國日根郡に造られていたと推定した。

聖武天皇紀では「和泉宮」と表記され、元正天皇に劣らず盛んに行幸されたと伝えている。交通の要所だったのである。

珍努縣主は、この「珍努宮」が縣=県(首の逆文字)+系=首ような地がぶら下がっている様の地形の場所にあったことを示している。図に示したように、”珍努”の”首”がぶら下がっていることが解る。

名前の諸上=盛り上がった地の前で耕地が交差しているところと解釈すると、この人物の出自場所を求めることができる。後に外従五位上を叙爵されている。

<葛井連廣見>
● 葛井連廣見

「葛井連」は、絶えることなく連綿と登用されている一族の一つである。直近では河守・道依が外従五位下を叙爵されている。

元正天皇紀に「白猪史」から改姓されたと記載されているが、天武天皇紀に登場した寶然の居処周辺を出自とする人物が大勢を占めている状況である。

今回登場の廣見=長く延びた谷間の前が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が、この人物の出自と推定される。廣成の背後の山麓となる。

直近の傾向とは、些か異なる登用だったように思われる。上記でも述べたように埋もれている地を再発掘しているかのような記述かもしれない。尚、そう遠くない時に内位の従五位下に昇進している。

<三笠連秋虫>
● 三笠連秋虫

「三笠連」の氏姓は、聖武天皇紀に高正勝が賜っていた。元明天皇紀に登場した「高庄子」の後裔と推測される。彼等の居処を現地名の行橋市元永と推定した。

古事記の玖賀耳之御笠が帰順することを拒んで日子坐王に殺害された地であり、後に登場する幾人かの「高」の氏名を持つ人物の出自の場所になったと思われる。

秋虫(蟲)=稲穂のような山稜が[火]の形に延びている麓が三つに細かく岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「正勝」の西側に位置する山麓である。

「高」一族の住まった地については、全く関連する情報がなく、”三(御)笠”の文字列を頼りに求めた結果であったが、どうやら一件落着の様子である。この後に登場されることはないようであるが、貴重な・・・いや、そうと解るように記載したのかもしれない。

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<美作國:言上>
上記本文の美作國(元は備前國)の言上について、「今月十二日未三點。苫田郡兵庫鳴動。又四點鳴動如先。其響如雷霆之漸動」と記載されている。

サラッと読めば、参考資料のように解釈されるが、何を告げたいのか、全く怪しげな雰囲気であろう。前記の伊勢國の言上(鈴鹿關西内城)と同様にその地の開拓・整地と推測される。

適当な箇所で区切って、地形象形表記として読み下してみよう・・・さて、如何なることになるか・・・。

①未三點苫田郡:苫田郡にある途切れた山稜が(未)三つ並んで[炎]ようになっている(三點)地と
②兵庫鳴動:山麓の丸く小高い地(庫)を切り分けて[鳥]の口のような谷間(鳴)を貫いている(動)ところ
③四點鳴動如先:二つに分けられた(四)山稜の[炎]のように延びた(點)麓が同じように[鳥]の口のような谷間(鳴)を貫いている(動)ところ
④響如雷霆:嫋やかに曲がる谷間(如)で区分けられた耕地を挟んで向かい合っている(響)丸く小高く三つ寄り集まっている高台(雷)と平らで真っ直ぐに延びた高台(霆)の麓を
⑤之漸動:蛇行する川(之)が狭い谷間を切り開いて(漸)貫いている(動)ところ

図に示した二つの谷間を開拓・整地、即ち耕地にしたことを告げているのである。同時に、「美作國苫田郡」の詳細な地形情報を提供してくれていることが解る。勿論、その場所は、確定的である。それにしても、續紀編者等も氏名の羅列ではなく、”万葉表記”を行いたくなったのであろう。些か唐突過ぎるが・・・いや、なかなかの腕前である。

各文字の解釈については、「點」=「黑+占」=「折れ曲がった山稜の端が炎のように延びている様」、「兵」=「斤+廾」=「両手延ばしたような山稜が切り分けられている様」、「庫」=「广+車」=「山麓に丸く小高い地ある様」、「動」=「重+力」=「押し貫く様」、「四」=「囗+八」=「二つに岐れる様」、「響」=「郷+音」=「区分けされた耕地を挟んで向かい合っている様」、「如」=「女+囗」=「囲まれた地が嫋やかに曲がっている様」、「雷(靁)」=「雨+畾」=「丸く小高い地が三つ寄り集まっている様」、「霆」=「雨+廷」=「山稜が平らで真っ直ぐに延びている様」、「漸」=「氵+斬」=「水辺で隙間を切り開く様」である。「未・鳴・之」は省略する。

<伊勢國:言上>
続いて「伊勢國」が「今月十六日午時。鈴鹿關西中城門大鼓。自鳴三聲」と言上している。前記の内容を更に深堀した表現のようである(こちら参照)。

①午時:杵を舂くように延びた山稜(午)の麓で蛇行する川(時)が流れている傍の
②鈴鹿關西中城:鈴鹿關は笊の形(西)をして谷間に突き通る(中)ような整えられた高台(城)にあり
③門大鼓:門がある平らな(大)鼓ような形をしている麓に
④自鳴三聲:鳥の口をしたな谷間(鳴)の出入口(自)に[耳(楯)]の形をした山稜の端の麓(聲)三つ並んでいる

何とも奇跡としか思えないのだが、その地形を確認することができる。「美作國」にできるなら、当然「伊勢國」も・・・のような感じであろう。完璧な”關”となったと述べているのである。

文字解釈については、「西」=「笊」は前記と同様、幾度か用いられている「午」=「杵」、初見の「聲」=「声+殳+耳」=「山稜の端の麓が耳のような形をしている様」である。

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