2024年6月17日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(30) 〔681〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(30)


天應元(西暦781年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

夏四月己丑朔。左右兵庫兵器自鳴。其聲如以大石投地也。遣散位從五位下多治比眞人三上於伊勢。伯耆守從五位下大伴宿祢繼人於美濃。兵部少輔從五位下藤原朝臣菅繼於越前。以固關焉。以天皇不豫也。辛夘。詔云。天皇〈我〉御命〈良麻等〉詔大命〈乎〉親王等王等臣等百官〈乃〉人等天下公民衆聞食〈止〉宣。朕以寡薄寳位〈乎〉受賜〈弖〉年久重〈奴〉。而〈尓〉嘉政頻闕〈弖〉天下不得治成。加以元來風病〈尓〉苦〈都〉身體不安復年〈毛〉弥高成〈尓弖〉餘命不幾。今所念〈久〉。此位〈波〉避〈天〉暫間〈毛〉御體欲養〈止奈毛〉所念〈須〉。故是以皇太子〈止〉定賜〈留〉山部親王〈尓〉天下政〈波〉授賜〈布〉。古人有言知子者親〈止〉云〈止奈母〉聞食。此王〈波〉弱時〈余利〉朝夕〈止〉朕〈尓〉從〈天〉至今〈麻天〉怠事無〈久〉仕奉〈乎〉見〈波〉仁孝厚王〈尓〉在〈止奈毛〉神奈我良所知食。其仁孝者百行之基〈奈利〉。曾毛曾毛百足之虫〈乃〉至死不顛事〈波〉輔〈乎〉多〈美止奈毛〉聞食。衆諸如此〈乃〉状悟〈弖〉清直心〈乎毛知〉此王〈乎〉輔導〈天〉天下百姓〈乎〉可令撫育〈止〉宣。又詔〈久〉。如此時〈尓〉當〈都都〉人人不好謀〈乎〉懷〈弖〉天下〈乎毛〉亂己〈我〉氏門〈乎毛〉滅人等麻祢〈久〉在。若如此有〈牟〉人〈乎婆〉己〈我〉教諭訓直〈弖〉各各己〈我〉祖〈乃〉門不滅弥高〈尓〉仕奉弥繼〈尓〉將繼〈止〉思愼〈天〉清直〈伎〉心〈乎〉持〈弖〉仕奉〈倍之止奈毛〉所念〈須〉。天高〈止毛〉聽卑物〈曾止〉詔天皇〈我〉御命〈乎〉衆聞食〈止〉宣。是日。皇太子受禪即位。壬辰。立皇弟早良親王爲皇太子。詔曰。天皇勅命〈乎〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食〈止〉宣。隨法〈尓〉可有〈伎〉政〈止志弖〉早良親王立而皇太子〈止〉定賜〈布〉。故此之状悟〈天〉百官人等仕奉〈礼止〉詔天皇勅旨〈乎〉衆聞食宣。丙申。從五位下大中臣朝臣今麻呂爲右大舍人助。從五位下路眞人玉守爲右京亮。從五位下百濟王仁貞爲近衛員外少將。從五位下藤原朝臣弓主爲左兵衞員外佐。從五位下紀朝臣馬借爲右兵衛佐。外從五位下久米連眞上爲大和介。從五位下佐伯宿祢瓜作爲參河介。從五位下石川朝臣美奈伎麻呂爲下野介。己亥。授伊勢大神宮祢宜正六位上神主礒守外從五位下。」遣使於伊勢大神宮告皇太子即位也。壬寅。以中納言從三位藤原朝臣田麻呂爲兼東宮傅。中務卿如故。右京大夫正四位下大伴宿祢家持爲兼春宮大夫。從五位下紀朝臣白麻呂爲亮。癸夘。天皇御大極殿。詔曰。明神〈止〉大八洲所知天皇詔旨〈良麻止〉宣勅親王諸王百官人等天下公民衆聞食宣。挂畏現神坐倭根子天皇我皇此天日嗣高座之業〈乎〉掛畏近江大津〈乃〉宮〈尓〉御宇〈之〉天皇〈乃〉初賜〈比〉定賜〈部流〉法隨〈尓〉被賜〈弖〉仕奉〈止〉仰賜〈比〉授賜〈閉婆〉頂〈尓〉受賜〈利〉恐〈美〉受賜〈利〉懼進〈母〉不知〈尓〉退〈母〉不知〈尓〉恐〈美〉坐〈久止〉宣天皇勅衆聞食宣。然皇坐〈弖〉天下治賜君者賢人〈乃〉能臣〈乎〉得〈弖之〉天下〈乎婆〉平〈久〉安〈久〉治物〈尓〉在〈良之止奈母〉聞行〈須〉。故是以大命坐宣〈久〉。朕雖拙劣親王始〈弖〉王臣等〈乃〉相穴〈奈比〉奉〈利〉相扶奉〈牟〉事依〈弖之〉此之仰賜〈比〉授賜〈夫〉食國天下之政者平〈久〉安〈久〉仕奉〈倍之止奈母〉所念行。是以無謟欺之心以忠明之誠天皇朝廷〈乃〉立賜〈部流〉食國天下之政者衆助仕奉〈止〉宣天皇勅衆聞食宣。辭別宣〈久〉。朕一人〈乃未也〉慶〈之岐〉貴〈岐〉御命受賜〈牟〉。凡人子〈乃〉蒙福〈麻久〉欲爲〈流〉事〈波〉於夜〈乃〉多米〈尓止奈母〉聞行〈須〉。故是以朕親母高野夫人〈乎〉稱皇太夫人〈弖〉冠位上奉治奉〈流〉。又仕奉人等中〈尓〉自何仕奉状隨〈弖〉一二人等冠位上賜〈比〉治賜〈夫〉。又大神宮〈乎〉始〈弖〉諸社祢宜祝等〈尓〉給位一階。又僧綱〈乎〉始〈弖〉諸寺智行人及年八十已上僧尼等〈尓〉物布施賜〈夫〉。又高年窮乏孝義人等治賜養賜〈夫〉。又天下今年田租免賜〈久止〉宣天皇勅衆聞食宣。授四品薭田親王三品。從三位石上大朝臣宅嗣。藤原朝臣田麻呂。藤原朝臣是公並正三位。從四位下壹志濃王從四位上。從五位下石城王從五位上。无位淺井王從五位下。正四位下大伴宿祢伯麻呂。大伴宿祢家持。佐伯宿祢今毛人。坂上大忌寸苅田麻呂並正四位上。從四位下石川朝臣名足。藤原朝臣雄依。大中臣朝臣子老。藤原朝臣鷹取。紀朝臣船守。藤原朝臣種繼並從四位上。正五位上豊野眞人奄智。安倍朝臣東人。佐伯宿祢久良麻呂並從四位下。正五位下百濟王利善正五位上。從五位上榮井宿祢蓑麻呂。紀朝臣犬養。山上朝臣船主並正五位下。從五位下多治比眞人人足從五位上。外正五位下吉田連古麻呂。正六位上石川朝臣公足。紀朝臣千世。大中臣朝臣安遊麻呂。安倍朝臣木屋麻呂並從五位下。外從五位下河内連三立麻呂外從五位上。正六位上船連田口。和史國守。伊勢朝臣水通。武生連鳥守。上毛野公薩摩。土師宿祢道長。正七位上物部多藝宿祢國足並外從五位下。乙巳。從三位藤原朝臣濱成爲大宰帥。戊申。令賀茂神二社祢宜祝等始把笏。」以從四位下多治比眞人長野爲伊勢守。乙夘。皇太夫人從三位高野朝臣加正三位。戊午。授從六位上三國眞人廣見從五位下。 

四月一日に左右兵庫の兵器が自然に音を立て、その響きは大石を地面に投げ落としたようであった<前記と同様に周辺の地形を表す:下記参照>。散位の多治比眞人三上(歳主に併記)を伊勢、伯耆守の大伴宿祢繼人を美濃、兵部少輔の藤原朝臣菅繼を越前に、それぞれ遣わして關を固守させている。天皇が危篤に陥ったからである。

三日に次のように詔されている(以下宣命体)・・・天皇の御言葉であると仰せになる御言葉を親王達、王達、天下の公民達、皆承れと申し渡す。朕は徳が薄い身でありながら、天皇の高い地位を受け継いで、久しく年を経て来た。そうであるのに、善政に欠けることがしばしばあって、天下を治めることができなくなってしまった。そればかりか以前から風病に苦しんでいて身体にも不安がある。また年もいよいよ高齢になり、余命は幾らもない。今思うには、この位から去って、しばらくの間でも身体を休めたいと思う。それ故に、皇太子と定めておいた山部王に天下の政務を授ける。---≪続≫---

昔の人の言葉に[子を知る者は親に優る者はない]とあると聞く。この親王は幼少のころよ朝に夕べに朕に従って、今に至るまで怠ることなく仕えて来たのを見ると、情け深くて孝行に厚い親王であることを、神の身として知っている。一体、情け深く孝行なことは全ての行為の基本である。そもそも百足の虫が死んでも転倒しないのは、助けが多いからと聞いている。皆はこのような次第を悟って、清らかで正直な心でこの王を補佐し導いて、天下の人民を慈しみ養うべきであると申し渡す・・・。

また、仰せなるになるには、このような時には、人々がよくない陰謀をめぐらして天下を乱し、自分の一族一門を滅ぼしてしまう人が出たりすることが多い。もしこのようなことのある人あるなら、自分が教え諭し、よく言い聞かせて、各自それぞれの祖先の家門を滅ぼすことなく、それどころかいよいよ励んで仕え、いよいよ継ごうと思い慎んで、清らかで正直な心を持って仕えるべきである、と思う。天は高い所にあるけれども、低い地上の声をよく聞き知っているものである、と仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す・・・。この日皇太子は位を譲られて、皇位に就いている。

四日に皇弟の早良親王()をたてて皇太子としている。次のように詔されている(以下宣命体)・・・天皇の御言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人達、それに天下の公民達は皆承れと申し渡す。法の通りにあるべき政務として、早良親王()をたてて皇太子と定める。そこで、このような次第を悟って百官の人達は仕えるように、と仰せにある天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す・・・。

八日に大中臣朝臣今麻呂を右大舍人助、路眞人玉守(鷹養に併記)を右京亮、百濟王仁貞(①-)を近衛員外少將、藤原朝臣弓主()を左兵衞員外佐、紀朝臣馬借を右兵衛佐、久米連眞上を大和介、佐伯宿祢瓜作を參河介、石川朝臣美奈伎麻呂(眞人に併記)を下野介に任じている。

十一日に伊勢大神宮禰宜の神主礒守(道祖首公麻呂に併記)に外従五位下を授けている。また、使者を伊勢大神宮に派遣して皇太子(山部親王)が即位したことを告げさせている。十四日に中納言の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)に中務卿のままで東宮傅、右京大夫の大伴宿祢家持に春宮大夫を兼任させ、紀朝臣白麻呂(本に併記)を亮に任じている。

十五日に大極殿に出御されて次のように詔されている(以下宣命体)・・・現つ御神として大八洲を統治される天皇の御言葉として仰せになる御言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人達、天下の公民達は皆承れと申し渡す。口に出すのも恐れ多い現人神であられる倭根子天皇、我が大君が、この天つ日嗣の高御座の業を、口に出すのも恐れ多い近江大津宮で天下を統治された天皇(天智天皇)が始められ、お定めになった法『不改常典』に従って、お受けして天下の政治にあたるようにと仰せになって、授けられたので、頭上に捧げてお受けして恐縮し、お受けして恐懼して、進むことも退くこともどうすればよいか分からず、ただ恐れ多く思っている、と仰せになる天皇の御言葉を皆承れと申し渡す。---≪続≫---

さて、天皇として天下を統治する君主は、賢明で有能な臣下の補佐を得てこそ、天下を平らかに安らかに治めることができるものであるらしいと聞いている。故に、これは天皇の命令として申し渡すのであるが、朕は拙く愚かであるけれども、親王達を初め、諸王・諸臣の補佐を援助によってこそ、命じられ授けられた天下の統治ということは平らかに安らかに行うことができるであろうと思う。そこで諂い欺く心なく、忠実で陰のない誠の心をもって歴代の天皇の朝廷がお立てになった天下を治める政治を、皆が助け仕えるように、と仰せになる天皇の御言葉を。皆承れと申し渡す。---≪続≫---

言葉を改めて仰せられるには、朕一人だけが喜ばしい貴い御言葉を承ってよいものであろうか。一体、人の子として福を蒙りたいと願うのは、親のためにであると聞いている。故に、朕の母親の高野夫人を皇太夫人と称して、位階をお上げするように取り計らう。また、仕え申し上げる人達の中で、その勤務態度に従って、一人、二人の位階を上げるように取り計らう。また、伊勢大神宮ははじめとして諸神社の禰宜・祝に位一階を与える。また、僧綱を初めとして諸寺の智識・德行に秀でた人、及び八十歳以上の僧尼達には布施の物を与える。また、高齢者、貧困の人達、孝行や節義ある人達をしかるべく優遇し養う。また、天下の今年の田租を免除する、と仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す・・・。

薭田親王()に三品、石上大朝臣宅嗣藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)藤原朝臣是公(黒麻呂)に正三位、壹志濃王()に從四位上、石城王()に從五位上、淺井王()に從五位下、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)大伴宿祢家持佐伯宿祢今毛人坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)に正四位上、石川朝臣名足藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)大中臣朝臣子老藤原朝臣鷹取()紀朝臣船守藤原朝臣種繼(藥子に併記)に從四位上、豊野眞人奄智(奄智王)安倍朝臣東人(廣人に併記)佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)に從四位下、百濟王利善(①-)に正五位上、榮井宿祢蓑麻呂紀朝臣犬養(馬主に併記)山上朝臣船主に正五位下、多治比眞人人足(黒麻呂に併記)に從五位上、吉田連古麻呂(斐太麻呂に併記)石川朝臣公足(眞人に併記)・紀朝臣千世(大宅に併記)・大中臣朝臣安遊麻呂(今麻呂に併記)・「安倍朝臣木屋麻呂」に從五位下、河内連三立麻呂に外從五位上、船連田口(腰佩に併記)・和史國守(和連諸乙に併記)・伊勢朝臣水通(諸人に併記)・武生連鳥守上毛野公薩摩(大川に併記)・土師宿祢道長(古人に併記)・物部多藝宿祢國足に外從五位下を授けている。

十七日に藤原朝臣濱成(濱足)を大宰帥に任じている。二十日、賀茂神を祭る二社の禰宜や祝などに、初めて笏を持たせることにしている。また、多治比眞人長野を伊勢守に任じている。二十七日に皇太夫人の高野朝臣に正三位を加叙している。三十日に三國眞人廣見(千國に併記)に従五位下を授けている。

<安倍朝臣木屋麻呂>
● 安倍朝臣木屋麻呂

「安(阿)倍朝臣」一族は、かなり広範囲の地域に広がり、尚且つ系譜不詳の場合が多くなって出自場所を求めるに際して、曖昧さが残るように思われる。

この人物も、そんな背景であり、名前が示す地形を探すことになる。「木屋麻呂」に含まれる「屋」=「尸+至」=「山稜が延び至る様」と解釈したが、「阿倍」の地では希少である。

元は布勢朝臣と呼称していた一族が広がった場所は、現在の戸ノ上山の西麓が関門海峡に延びる地形であり、出雲國於友郡と(他郡についてはこちら参照)名付けられた場所であったことが解った。

更に遡れば、古事記の大國主命が娶った神屋楯比賣命の居処でもあった。即ち、木屋=[木]の形した山稜が延び至るところと読み解ける。前出の廣人・乙加志の西側に当たる場所である。後に相摸介に任じられている。

――――✯――――✯――――✯――――

<左右兵庫兵器自鳴>
<其聲如以大石投地也>
冒頭に記載された「左右兵庫兵器自鳴。其聲如以大石投地也」を読み解いてみよう。用いられた文字列からして、前出の美作國及び伊勢國の言上に類する記述であろう。

①左右兵庫:左手と右手の両手のような山稜が切り分けられた(左右兵)麓に車のような丸く小高い地(庫)があり
②兵器自鳴:切り分けられた両手のような山稜(兵)に麓に四つの谷間があって(器)その端(自)は鳥の口(鳴)のようになっている
③其聲如:箕の形に延びた山稜(其)の端の麓が「耳(楯)」のようになった地(聲)に囲まれた嫋やかに曲がっている地(如)に
④以大石投地:大きな石(大石)に似ている(以)地をすっぽりと嵌めた(投)ようになっているところ

図に示した通り、左右兵庫のある「平城宮」の地形を余すことなく表現していることが解る。些か悪乗りの感があるが・・・僭越ながら、持統天皇の万葉歌の「春過ぎて・・・」に比肩できる代物ではないようである(こちら参照)。

文字解釈の若干の補足として、「器」=「器」=「㗊+犬」=「平らな地に四つの谷間の口が集まっている様」、「其」=「箕」、「以」=「似」、「大石」=「大きな石」(「平らな頂の麓の小高いところ」の地形象形表記としない)、「投」=「手+殳」=「すっぽりと嵌っている様」(魏志倭人伝の投馬國で用いられた文字)である。この「投」が表す意味が決め手である。”投げる”のではなく、”投薬の投”である。

――――✯――――✯――――✯――――

五月壬戌。地震。癸亥。授正六位上大神朝臣船人從五位下。乙丑。正四位上大伴宿祢家持爲左大弁。春宮大夫如故。從五位上紀朝臣家守爲左中弁。參議從四位上石川朝臣名足爲兼右大弁。中納言從三位藤原朝臣繼繩爲兼中務卿。參議陸奧按察使正四位下藤原朝臣小黒麻呂爲兼兵部卿。從三位高倉朝臣福信爲彈正尹。從四位上藤原朝臣鷹取爲造宮卿。越前守如故。從四位上紀朝臣船守爲近衛員外中將。内廐助如故。從五位下大神朝臣船人爲少將。從四位下佐伯宿祢久良麻呂爲中衛中將。參議宮内卿正四位上大伴宿祢伯麻呂爲兼衛門督。正四位上坂上大忌寸苅田麻呂爲右衛士督。丹波守如故。從四位上伊勢朝臣老人爲主馬頭。」授正六位上佐伯部三國外從五位下。庚午。授无位平群朝臣炊女從五位下。辛未。地震。癸酉。授正五位上藤原朝臣人數從四位下。甲戌。伊勢國言。鈴鹿關城門。并守屋四間。始十四日至十五日。自響不止。其聲如以木衝之。乙亥。始置中宮職。以參議宮内卿正四位上大伴宿祢伯麻呂爲兼中宮大夫。衛門督如故。從五位下大伴宿祢弟麻呂爲亮。左衛士佐如故。外從五位下伊勢朝臣水通爲大進。外從五位下上毛野公薩摩。外從五位下物部多藝宿祢國足。並爲少進。癸未。以從五位下賀茂朝臣大川爲神祇大副。從五位上石川朝臣淨麻呂爲少納言。正五位下大神朝臣末足爲左中弁。從五位下多治比眞人豊濱爲左少弁。從五位上紀朝臣家守爲右中弁。從五位下阿倍朝臣石行爲右少弁。從五位下紀朝臣眞人爲大學頭。正五位上百濟王利善爲散位頭。從五位下三嶋眞人大湯坐爲治部少輔。正五位下石上朝臣家成爲民部大輔。從五位下藤原朝臣菅嗣爲少輔。從五位下藤原朝臣繼彦爲兵部少輔。從四位下石川朝臣垣守爲刑部卿。伊豫守如故。從五位上當麻眞人永嗣爲大輔。從五位下文室眞人子老爲少輔。從五位下中臣朝臣鷹主。高倉朝臣殿繼並爲大判事。正五位下大伴宿祢不破麻呂爲大藏大輔。正五位下紀朝臣犬養爲宮内大輔。丹後守如故。從五位下陽侯王爲大膳大夫。從五位下石淵王爲正親正。從五位下巨勢朝臣廣山爲鍛冶正。從五位下三國眞人廣見爲主油正。造宮卿從四位上藤原朝臣鷹取爲兼左京大夫。越前守如故。右大弁從四位上石川朝臣名足爲兼右京大夫。從四位下豊野眞人奄智爲攝津大夫。從五位上石川朝臣豊麻呂爲造宮大輔。從五位下葛井連根主爲少輔。從五位下桑原公足床爲造東大寺次官。從五位下大中臣朝臣安遊麻呂爲中衛少將。播磨大掾如故。從五位上大中臣朝臣繼麻呂爲衛門佐。中宮亮從五位下大伴宿祢弟麻呂爲兼左衛士佐。左中弁從五位上紀朝臣家守爲兼左兵衛督。從五位下藤原朝臣弓主爲佐。從五位下安倍朝臣祖足爲主馬助。從五位上多治比眞人人足爲山背守。大外記外從五位下上毛野公大川爲兼介。外從五位下陽侯忌寸玲璆兼爲尾張守。外從五位下土師宿祢古人爲遠江介。式部少輔正五位下石川朝臣眞守爲兼武藏守。從五位上巨勢朝臣池長爲介。造酒正從五位下中臣丸朝臣馬主爲兼上総介。兵部卿正四位上藤原朝臣家依爲兼下総守。侍從如故。從五位下賀茂朝臣人麻呂爲常陸介。左衛士督從四位上藤原朝臣種繼爲兼近江守。從五位下大伴宿祢繼人爲介。正五位上大伴宿祢潔足爲美濃守。從五位下紀朝臣馬借爲介。從五位下紀朝臣家繼爲信濃守。正五位上阿倍朝臣家麻呂爲上野守。外從五位下船木直馬養爲若狹守。中宮少進外從五位下物部多藝宿祢國足爲兼因幡介。從五位下篠嶋王爲伯耆守。從四位下石川朝臣豊人爲出雲守。從五位下藤原朝臣園人爲備中守。左兵衛佐從五位下藤原朝臣弓主爲兼阿波守。從五位下正月王爲土左守。從五位下多治比眞人繼兄爲豊後守。乙酉。以從五位上紀朝臣古佐美爲陸奥守。丁亥。尾張國中嶋郡人外正八位上裳咋臣船主言。己等与伊賀國敢朝臣同祖也。是以曾祖宇奈已上。皆爲敢臣。而祖父得麻呂。庚午年籍。謬從母姓。爲裳咋臣。伏望。欲蒙改正。於是。船主等八人賜姓敢臣。

五月四日に地震が起こっている。五日、大神朝臣船人(末足に併記)に従五位下を授けている。七日に大伴宿祢家持を春宮大夫のままで左大弁、紀朝臣家守を左中弁、參議の石川朝臣名足を兼務で右大弁、中納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を兼務で中務卿、參議・陸奧按察使の藤原朝臣小黒麻呂を兼務で兵部卿、高倉朝臣福信(高麗朝臣)を彈正尹、藤原朝臣鷹取()を越前守のままで造宮卿、紀朝臣船守を内廐助のままで近衛員外中將、「大神朝臣船人」を少將、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を中衛中將、參議・宮内卿の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を兼務で衛門督、坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を丹波守のままで右衛士督、伊勢朝臣老人を主馬頭に任じている。また、「佐伯部三國」に外從五位下を授けている。

十二日に平群朝臣炊女(邑刀自に併記)に従五位下を授けている。十三日に地震が起こっている。十五日に藤原朝臣人數に従四位下を授けている。十六日に伊勢國が以下のように言上している・・・鈴鹿關の城門と守屋四棟が十四日から十五日まで自然に屋鳴りして止まなかった。その響きは木で衝撃を与えたようなものであった<下記参照>・・・。

十七日に初めて中宮職を設置している。また、參議・宮内卿の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を衛門督のまま兼務で中宮大夫、大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を左衛士佐のままで亮、伊勢朝臣水通(諸人に併記)を大進、上毛野公薩摩(大川に併記)・物部多藝宿祢國足(多藝連)を少進に任じている。

二十五日に賀茂朝臣大川を神祇大副、石川朝臣淨麻呂(清麻呂。眞守に併記)を少納言、大神朝臣末足を左中弁、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を左少弁、紀朝臣家守を右中弁、阿倍朝臣石行を右少弁、紀朝臣眞人(大宅に併記)を大學頭、百濟王利善(①-)を散位頭、三嶋眞人大湯坐(大湯坐王)を治部少輔、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を民部大輔、藤原朝臣菅嗣(菅繼)を少輔、藤原朝臣繼彦(大繼に併記)を兵部少輔、石川朝臣垣守を伊豫守のままで刑部卿、當麻眞人永嗣(得足に併記)を大輔、文室眞人子老(於保に併記)を少輔、中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)高倉朝臣殿繼(高麗朝臣)を大判事、大伴宿祢不破麻呂を大藏大輔、紀朝臣犬養(馬主に併記)を丹後守のままで宮内大輔、陽侯王(楊胡王。陽胡女王近隣)を大膳大夫、石淵王(山上王に併記)を正親正、巨勢朝臣廣山(馬主に併記)を鍛冶正、三國眞人廣見(千國に併記)を主油正、造宮卿の藤原朝臣鷹取()を越前守のまま兼務で左京大夫、右大弁の石川朝臣名足を兼務で右京大夫、豊野眞人奄智(奄智王)を攝津大夫、石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を造宮大輔、葛井連根主(惠文に併記)を少輔、桑原公足床(桑原連足床)を造東大寺次官、大中臣朝臣安遊麻呂(今麻呂に併記)を播磨大掾のままで中衛少將、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を衛門佐、中宮亮の大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を兼務で左衛士佐、左中弁の紀朝臣家守を兼務で左兵衛督、藤原朝臣弓主()を佐、阿倍朝臣祖足(石行に併記)を主馬助、多治比眞人人足(黒麻呂に併記)を山背守、大外記の上毛野公大川を兼務で介、陽侯忌寸玲璆(陽侯史)を兼務で尾張守、土師宿祢古人を遠江介、式部少輔の石川朝臣眞守を兼務で武藏守、巨勢朝臣池長(巨勢野に併記)を介、造酒正の中臣丸朝臣馬主を兼務で上総介、兵部卿の藤原朝臣家依を侍從のまま兼務で下総守、賀茂朝臣人麻呂を常陸介、左衛士督の藤原朝臣種繼(藥子に併記)を兼務で近江守、大伴宿祢繼人を介、大伴宿祢潔足(池主に併記)を美濃守、紀朝臣馬借を介、紀朝臣家繼(家守に併記)を信濃守、阿倍朝臣家麻呂を上野守、船木直馬養を若狹守、中宮少進の物部多藝宿祢國足(多藝連)を兼務で因幡介、篠嶋王()を伯耆守、石川朝臣豊人を出雲守、藤原朝臣園人(勤子に併記)を備中守、左兵衛佐の藤原朝臣弓主()を兼務で阿波守、正月王(牟都岐王)を土左守、多治比眞人繼兄を豊後守に任じている。

二十七日に紀朝臣古佐美を陸奥守に任じている。二十九日に尾張國中嶋郡の人である裳咋臣船主(足嶋に併記)が以下のように言上している・・・自分達は伊賀國の「敢朝臣」と同祖である。それで曽祖父の「宇奈」より以前はみな「敢臣」であった。ところが祖父の得麻呂(足嶋に併記)は、庚午(670)年の戸籍に誤って母方の姓に従って「裳咋臣」と記載された。謹んで改姓して頂くようお願い申し上げる・・・。「船主」等八人に「敢臣」の氏姓を賜っている。

<佐伯部三國>
● 佐伯部三國

直前に「授播磨國人大初位下佐伯直諸成外從五位下」なる人物が登場し、関連するか?…と思いきや、延暦二(783)年六月「右京人外從五位下佐伯部三國等賜姓佐伯沼田連」と記載されている。

と言うことで、右京の地で名前及び賜姓が表す地形を捜すことになったようである。佐伯=谷間にある左手のような山稜の麓で谷間が二つの谷間がくっ付いているところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。

厩戸皇子の出自の場所であり、その「佐」の上に斑鳩宮・法隆寺(鵤寺)があると推定した場所である。部=近隣を表している。名前の三國=囲まれた地が三つ並んでいるところと解釈すると、この人物の出自場所を求めることができる。

賜った佐伯沼田連の氏姓に含まれる沼=氵+召=水辺がぐるっと巡っている様と解釈され、図に示したように現在の白髪川上流域の様子を表現したものであろう。抜け落ちていた広大な耕地が埋まったようである。

<敢臣宇奈>
● 敢臣宇奈

尾張國中嶋郡の「裳咋臣」については、「足嶋」が登場した時に「船主・得麻呂」も併せて、それぞれの出自場所を推定した(こちら参照)。

「船主」の言上で、彼等の祖は、伊賀國の「敢臣」であったことが認められたと記載されている。称徳天皇紀に敢礒部忍國が登場していたが、伊勢國多氣郡の住人とされ、異なる場所を示している。

あらためて「伊賀國」の地形を眺めることにする。既に読み解いたが、敢=甘+爪+又+ノ=山稜に挟まれた谷間に[舌]のような地が延びている様とした。その地形を伊賀國の地に見出せる。「伊賀」の地形の別表記でもある。

名前の宇奈=谷間に延びた山稜の麓に平らな高台があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「敢」も含めて、伊賀國の中心に位置する地域を表していることが解る。そしてこの地を居処する人物は、全く記載されることがなかったようである。

図に示した通り、書紀の記述によると、この谷間の出口辺りを天智天皇が娶った「伊賀采女宅子娘」、その子の「大友皇子(弘文天皇)」の出自場所と推定した。そして吉野を脱出した天武天皇によって、谷間は塞がれてしまったのである(『壬申の乱』こちら参照)。

光仁天皇及び引き続き桓武天皇の即位によって、天武天皇系の日嗣が天智天皇系へと移ったと言われる。上記本文の記述は、皇統の遷り変りを伺わせるかのように思われる。「敢臣」を祖とすることを憚りなく言える時代になったのであろう。

――――✯――――✯――――✯――――

<伊勢國言上>
上記本文に「伊勢國言。鈴鹿關城門。并守屋四間。始十四日至十五日。自響不止。其聲如以木衝之」と記載されている。またまたの地形象形表記として読み解いてみよう。

①并守屋四間:両肘を張り出したような山稜(守)が延び至って(屋)合わさった(并)地に四つの谷間があり
②始十四日至十五日:二つに岐れた(四)太陽のような丸く小高い地(日)と一つになった(十)嫋やかに曲がる耜のような山稜(始)が太陽のような丸く小高い地(日)と一つになった(十)山稜と交差する(五)ように延び至り
③自響不止:区分けされた耕地を挟んで向かい合っている端(響)が[不]の形に広がって揃い
④其聲如以木衝之:[箕]のように並んだ山稜の端は[耳(楯)]の形(聲)をしてまるで(以)[木]が蛇行する川(之)を突き通す(衝)ように延びているところ

前記に比べて、より広い範囲の「鈴鹿關」周辺の地形を述べていることが解る。と言うことで、ここら辺りでお開きにして頂きたいものである。文字解釈の若干の補足は、「十」=「一つにする様」、「四」=「四つ、二つに岐れる様」の二通りの解釈とした。「之」は現在の紫川を表している。尚、地形変形の激しい場所については、国土地理院航空写真1961~9年を参照(こちら)した。

――――✯――――✯――――✯――――