2024年6月24日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(31) 〔682〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(31)


天應元(西暦781年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六月戊子朔。詔曰。惟王之置百官也。量材授能。職員有限。自茲厥後。事豫議務稍繁。即量劇官。仍置員外。近古因循。其流益廣。譬以十羊更成九牧。民之受弊。寔爲此焉。朕肇膺寳暦。君臨區夏。言念生民。情深撫育。思欲除其殘害惠之仁壽。宜内外文武官。員外之任。一皆解却。但郡司軍毅不在此限。又其在外國司。多乖朝委。或未知欠倉。且用公廨。或不畏憲網。肆漁百姓。故今擇其姦濫尤著者。秩雖未滿。隨事貶降。自今以後。内外官人。立身清謹。處事公正者。所司審訪。授以顯官。其在職貪殘。状迹濁濫者。宜遣巡察採訪黜降。庶使激濁揚清。變澆俗於當年。憂國撫民。追淳風於往古。普告遐邇知朕意焉。」和泉國和泉郡人坂本臣糸麻呂等六十四人賜姓朝臣。」勅參議持節征東大使兵部卿正四位下兼陸奥按察使常陸守藤原朝臣小黒麻呂等曰。得去五月廿四日奏状。具知消息。但彼夷俘之爲性也。蜂屯蟻聚。首爲亂階。攻則奔逃山薮。放則侵掠城塞。而伊佐西古。諸絞。八十嶋。乙代等。賊中之首。一以當千。竄迹山野。窺機伺隙。畏我軍威。未敢縱毒。今將軍等。未斬一級。先解軍士。事已行訖。無如之何。但見先後奏状。賊衆四千餘人。其所斬首級僅七十餘人。則遺衆猶多。何須先獻凱旋。早請向京。縱有舊例。朕不取焉。宜副使内藏忌寸全成。多朝臣犬養等一人乘驛入京。先申軍中委曲。其餘者待後處分。癸巳。參議從四位上藤原朝臣乙繩卒。右大臣從一位豊成之第三子也。甲午。從五位下塩屋王爲主殿頭。外從五位下小塞宿祢弓張爲内掃部正。丙申。授正六位上物部射園連老外從五位下。己亥。地動。壬寅。授命婦從四位下藤原朝臣教貴正四位下。癸夘。授外從五位下土師宿祢古人從五位下。」降大宰帥從三位藤原朝臣濱成爲員外帥。儀仗之員。限以三人。仍勅大貳正四位上佐伯宿祢今毛人等曰。三考黜陟。前王通典。懲悪勸善。往聖嘉訓。帥參議從三位兼侍從藤原朝臣濱成。所歴之職。善政無聞。今受委方牧。寄在宣風。若不懲肅。何得後効。仍貶其任。補員外帥。宜莫預釐務。但公廨者賜帥三分之一。府中雜務。一事已上。今毛人等行之。乙巳。勅。河内國若江郡人弓削淨人廣方。廣田。廣津等。去寳龜元年配土左國。宜宥其罪放還本郷。但不得入京。己酉。地震。」授外從五位下珍努縣主諸上外從五位上。庚戌。授无位平群朝臣家刀自從五位下。」右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂上表乞身。詔許焉。因賜几杖。辛亥。送唐客使從五位下布勢朝臣清直等自唐國至。進使節刀。」大白晝見。」大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨。詔贈正二位。宅嗣左大臣從一位麻呂之孫。中納言從三位弟麻呂之子也。性朗悟有姿儀。愛尚經史。多所渉覽。好属文。工草隷。勝寳三年授從五位下。任治部少輔。稍遷文部大輔。歴居内外。景雲二年至參議從三位。寳龜初。出爲大宰帥。居無幾遷式部卿。拜中納言。賜姓物部朝臣。以其情願也。尋兼皇太子傅。改賜姓石上大朝臣。十一年。轉大納言。俄加正三位。宅嗣辭容閑雅。有名於時。毎値風景山水。時援筆而題之。自寳字後。宅嗣及淡海眞人三船爲文人之首。所著詩賦數十首。世多傳誦之。捨其舊宅。以爲阿閦寺。寺内一隅。特置外典之院。名曰芸亭。如有好學之徒。欲就閲者恣聽之。仍記條式。以貽於後。其略曰。内外兩門本爲一體。漸極似異。善誘不殊。僕捨家爲寺。歸心久矣。爲助内典。加置外書。地是伽藍。事須禁戒。庶以同志入者。無滯空有。兼忘物我。異代來者。超出塵勞。歸於覺地矣。其院今見存焉。臨終遺教薄葬。薨時年五十三。時人悼之。壬子。遣從五位下勅旨大丞羽栗臣翼於難波。令練朴消。遠江介從五位下土師宿祢古人。散位外從五位下土師宿祢道長等一十五人言。土師之先出自天穗日命。其十四世孫。名曰野見宿祢。昔者纒向珠城宮御宇垂仁天皇世。古風尚存。葬礼無節。毎有凶事。例多殉埋。于時皇后薨。梓宮在庭。帝顧問群臣曰。後宮葬礼。爲之奈何。群臣對曰。一遵倭彦王子故事。時臣等遠祖野見宿祢進奏曰。如臣愚意。殉埋之礼殊乖仁政。非益國利人之道。仍率土部三百餘人。自領取埴造諸物象進之。帝覽甚悦。以代殉人。号曰埴輪。所謂立物是也。此即往帝之仁徳。先臣之遺愛。垂裕後昆。生民頼矣。式觀祖業。吉凶相半。若其諱辰掌凶。祭日預吉。如此供奉。允合通途。今則不然。專預凶儀。尋念祖業。意不在茲。望請。因居地名。改土師以爲菅原姓。勅依請許之。甲寅。以正二位藤原朝臣魚名爲左大臣兼大宰帥。正三位藤原朝臣田麻呂爲大納言兼近衛大將。正三位藤原朝臣是公爲式部卿兼中衛大將。從四位上大中臣朝臣子老。紀朝臣船守並爲參議。是月。大白晝見。

六月一日に次のように詔されている・・・考えてみると帝王が百官を置くに当たっては、人材を吟味して能力のある者を任命したが、職員の定数には限りがあった。その後事務が次第に多くなって、激務の官司にはその程度に応じて定員外の職員を置いた。近頃は一度置かれた定員外の職員をそのままにし、その系統はますます増えている。例えて言うならば、十頭の羊を養うのに九人の牧者を用いるようなものである。人民が弊害を受けるのは、真にこのためである。---≪続≫---

朕は初めて皇位を受けて、天下に君臨するに際し、ここに人民のことを思い、心中、深く慈しみ育てることを思っている。損なう害を除き、長生きできる平安を与えたいと思う。そこで内外の文武官の定員外の職員は全て解任する。但し、郡司・軍毅はこの限りではない。また、在外の國司の多くは朝廷の委託に背いて、正倉の稲が欠乏していることを顧みもせず、一方で公廨の稲を私用してしまったり、あるいは法を恐れずに、恣に人民から利益をあさっている。故に今、そのよこしまで道に背くこと著しい者を選んで、たとえ任期が途中であっても、事柄に応じて官位を落として退ける。---≪続≫---

今後、内外の官人で身の処し方が清廉で、謹み深く、事務を処理するに当たって公正な者には、担当の官司が詳しく実情を調べて、地位の高い官職を授けよ。職にあっても貪欲で利を貪り、勤務態度が乱れて勝手気ままな者については、巡察使を派遣して実地について調査して官位を下げる。行いの悪い官人を除き、清廉な官人を抜擢して、末世の乱れた風俗をかつての頃に還し、國の安否に気を配って、人民を憐れみ、昔のような淳朴な気風に戻したい。広く告知して、朕の意思を知らせるようにせよ・・・。

和泉國和泉郡の人である「坂本臣糸麻呂」ら六十四人に朝臣姓を賜っている。また、参議・征東大使・兵部卿で陸奥按察使・常陸守を兼任する藤原朝臣小黒麻呂等に対して次のように勅されている・・・去る五月二十四日付の上表文によって、詳しく状況を知ることができた。ただ、あの蝦夷の性質は、蜂のように集まってたむろし、蟻のように群がるもので、いつも騒乱の元になっている。攻撃すれば山や藪に素早く逃げ込み、放置しておくと城や砦を掠め侵攻する。---≪続≫---

特に「伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代」等は賊の中の首領で、一人で千人に匹敵する。行方を山野に晦まして、時機を伺い隙を狙っているが、我が軍の勢威を恐れて未だに敢えて害毒を気儘に撒き散らしていない。ところが今、将軍達は、まだ一人の首をも斬らないまま、先に軍を解散してしまった。事は既に行われてしまって、今更これをどうすることもできない。---≪続≫---

ただ、先と今度の上奏を見てみると、賊軍は四千余人であるが、その内斬った首級は僅かに七十余人で、残っている勢力はなお多い。どうしてあらかじめ戦勝を報告し、急いで都に向かうことを願うのか。例え旧例があるからと言っても、朕は認めない。そこで副使の内藏忌寸全成(黒人に併記)多朝臣犬養のうちの一人を驛馬を使って入京させ、先ず軍における仔細を詳しく報告させよ。それ以外のことは次の指令を待つように・・・。

六日に参議の藤原朝臣乙繩(繩麻呂に併記)が亡くなっている。右大臣の「豊成」の第三子であった。七日に塩屋王()を主殿頭、小塞宿祢弓張(小塞連)を内掃部正に任じている。九日に「物部射園連老」に外従五位下を授けている。十二日、地震が起こっている。十五日に命婦の藤原朝臣教貴(綿手に併記)に正四位下を授けている。

十六日に土師宿祢古人に内位の従五位下を授けている。大宰帥の藤原朝臣濱成(濱足)を員外の帥に降格している。護衛の従者の員数は三人を限度とする。それについて、大貳の佐伯宿祢今毛人等に対して次のように勅されている・・・三年間の勤務評定で官位の昇降を決めることは、古代の帝王のたてた古今に通じる法則であり、悪を懲らしめ善を勧めることは昔の聖人の残したよい教訓である。ところが大宰帥・参議・従三位で侍従を兼任する藤原朝臣濱成(濱足)は、歴任した官職に於いて善政を行ったという評判を聞かない。今、遠方の政治を委任されて、託された仕事は強化を広めることである。もし懲らしめ戒めなければ、どうして将来の功績を期待することができようか。よってその官職を降格して員外の帥に任命する。庶務に関係させてはならない。但し、公廨の稲は帥の三分の一を与えよ。大宰府内の雑務は何事も「今毛人」等が行うようにせよ・・・。

十八日に次のように勅されている・・・河内國若江郡の人である弓削淨人・廣方・廣田・廣津(弓削御淨朝臣)等を去る寶龜元(770)年に土左國に流したが、その罪を許して本籍地へ放ち還らせる。但し京へ入ることは許さない・・・。

二十二日に地震が起こっている。また珍努縣主諸上に外従五位上を授けている。二十三日に平群朝臣家刀自(邑刀自に併記)に従五位下を授けている。右大臣の大中臣朝臣清麻呂が上表文を奉り、官職を辞することを願ったので、詔して許可し、肘つきと杖を賜っている。

二十四日に送唐客使の布勢朝臣清直(清道)が唐から帰って節刀を返上している。この日、金星が昼に見えている。大納言・正三位で式部卿を兼任する石上大朝臣宅嗣が薨じ、詔して正二位を贈位している。「宅嗣」は左大臣の麻呂の孫で、中納言弟「麻呂」の子であった。性質は賢明で悟りが早く、姿や様子が立派であった。儒学や歴史を愛し貴び、多方面の書物に通じていた。文章を作るのを好み、草書と楷書の名手であった。天平勝寶三(751)年に従五位下を授けられ、治部少輔に任じられた。暫くして文部大輔となってから内外の官職を歴任して神護景雲二(768)年に参議・従三位に至った。

寶龜の初めに地方に出て大宰帥に任ぜられたが、在任幾ばくもなくして式部卿に転任し、中納言を拝命した。その願い出によって「物部朝臣」の氏姓を賜った。ついで皇太子傳を兼任し、改めて「石上大朝臣」の氏姓を賜った。十一(780)年には大納言に昇進し、ほどなく正三位を授けられた。

「宅嗣」は言葉つきや物腰が穏やかな上に雅やかであったことが当時著名であった。風景や山水に出会うごとに、時に応じて筆を執ってそれを主題に詩文を作ったりした。天平寶字の頃より後では、「宅嗣」と淡海眞人三船が文人の筆頭とされた。著作になる漢詩は賦は数十首あり、その多くは世間に伝えられ朗読されている。また、その旧宅を喜捨して阿閦寺とし、寺内の一隅に特に外典のための一画を設け、藝亭と名付けた。もし学問好きの人がここに来て閲覧を望んが時には、自由にそれを許すこととし、そのために規則を定めて後世に残した。

その要旨は以下のようであった・・・仏教と儒教は、その根本は一体である。漸と極の違いはあるように見えても、上手に導いてやれば異ならない。私が家を喜捨して寺とし、帰依してから久しく時を経た。仏典の理解の助けになるようにと、この場所は仏道修行の寺で、何事も禁じ戒めねばならない。どうか同じ志をもって入った者は、空か有かと論じて滞るようなことなく、兼ねて我執の心を忘れるように、また、世々の後進は、世俗の苦労を超越して、悟りの境地に至るようにと願うものである・・・。

その一画は今も存している。臨終の時葬儀は簡単にするようにと教え遺している。薨じた時、五十三歳であった。当時の人々は、その死を惜しみ悲しんでいる。

二十五日に勅旨大丞の羽栗臣翼を難波に派遣して朴消(芒硝。主として硫酸マグネシウム:ナトリウムではない)の精製させている。遠江介の土師宿祢古人と散位の土師宿祢道長(古人に併記)等十五人が以下のように言上している・・・土師の祖先は「天穗日命」(古事記:天菩比命)から出ている。その十四世の孫の名を「野見宿祢」と言う。昔、「纏向珠城宮」にあって天下を統治された垂仁天皇の時代には、古い風習がなお残っていて、喪葬の儀礼に決まりがなく、喪葬がある度に殉死者を埋葬するのが多くの場合の例であった。

そのようななかで皇后が薨じ、殯宮が庭にあった時、帝がなみいる臣下の者達を顧みて、[後宮における葬礼はどのようにしたら良いであろう]と質問された。臣下の者達は答えて[ひとえに「倭彦王子」(天皇の同母弟)の葬儀の時の先例に従われたらよいであろう]と申し上げた。この時に私ども遠い祖先の「野見宿祢」が進み出て、[私が愚考するには、人を殉死させて葬る儀礼は、とりわけ仁愛なる政治に背くものであり、國のためにも人のためにも無益なやり方である]と申し上げ、土部三百人余りを率いて自ら指揮して粘土を捏ね、様々な物の像を造って進上した。

帝はこれをご覧になってたいそう喜ばれ、殉死する人と替えられた。名付けて埴輪と言う。所謂立物がこれである。このことは、かつての帝の情け深い德と、先臣(野見宿祢)の遺した仁愛の心とが、寛大さを後世に示したもので、人民はこれを頼りとしている。そこで、祖先の職掌を見ると、吉事と凶事が相半ばしている。天皇の喪葬の時には葬儀を掌り、祭りの日には祭祀に預かっている。このように奉仕して来て、まことに世間のしきたりにも合致していた。

ところが今はそうではなく、専ら葬儀にのみ携わっている。祖先の職掌を振り返って思うに、志はここにあるものではない。よって居住地の地名に因んで「土師」を改めて「菅原」姓として頂きたいと要望する・・・。勅して申請通りこれを許可している。

二十七日に藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を左大臣兼大宰帥、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を大納言兼近衛大将、藤原朝臣是公(黒麻呂)を式部卿兼中衛大将、大中臣朝臣子老紀朝臣船守を参議に任じている。この日、金星が昼に見えている。

<坂本臣糸麻呂>
● 坂本臣糸麻呂

木角宿禰が祖となった坂本臣、書紀の天武天皇紀に登場した坂本臣財に関わる人物かと錯覚させられるが、古事記の安康天皇紀に記載された、根臣が祖となった坂本臣ではなかろうか。

前者は既に朝臣姓で表記され、多くの人物が登場している(こちらこちら参照)。若干紛らわしいのだが、通説は全て同じ一族のように解釈して大混乱である。

こちらの「坂本」は、文部一族の麓から延びた山稜が描く地形を、実に端的に表したものであることが解る。現在のみやこ町役場の場所を含んでいる。勝山黒田・箕田・上田の端境の地域である。

糸麻呂糸=山稜が細長く延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。標高差が少ないが、極めて明瞭に判別されている。「根臣」は虚言・窃盗の罪で処罰されたのだが、一族は何とか生き延び、漸く朝臣姓を賜ったのであろう。續紀中、この場限りの登場である。

伊佐西古-諸絞-八十嶋-乙代
● 伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代

賊の首領四名の名前であり、氏姓は省略されているのか、そもそも無いのかは定かではないが、”和風”の名称であることから、多分省略されているのではなかろうか。

ならば地形象形表記として彼等の居処を突止めてみよう。勿論、場所は「出羽國賊地」の筈であり、野代湊の近傍となる。

伊佐西古=谷間に区切られて手のような形の山稜と丸く小高い地に挟まれた笊のようなところとなる。前記に蝦夷と戦いに参戦した吉弥侯伊佐西古に用いられていた文字列である。同一人物である筈はなかろう。

諸絞=谷間の耕地が寄り集まった先で山稜が交差しているところ八十嶋=鳥のような山稜の前で二つに岐れた山稜に挟まれた地で谷間が十字形に交差しているところ乙代=谷間にある[杙]のような山稜が[乙]の形に曲がって延びているところと解釈される。

それぞれの居処を図に示した場所に見出せる。「野代湊」の背後を四名の首領が陣取っていたのである。天皇が述べているように、彼等は具体的に刃向かう行動は起こしておらず、征東将軍等も深追いせずに帰還しようとしているのだが・・・さて、この後は如何なることに・・・彼等の登場は見られないようである。

<物部射園連老>
● 物部射園連老

「物部射園連」は、聖武天皇紀に物部用善が賜った氏姓であった。多くの渡来系の人々が”和風”の氏姓を授けられた中に含まれている(詳細はこちら参照)。賜姓は途切れることなく継続されるのであるが、実に凄まじい様相である。

「用善」は、その後に登場することもなく、ここに至っている状況である。近隣の國君公麻呂も同様に渡来人の一人であり、「國中連」の氏姓を賜っている。この人物は廬舎那仏に貢献し(従四位下を叙爵)、寶龜五年に亡くなったと記載されていた。

書紀の皇極天皇紀に今來と呼称された地域は、渡来系の人々によって開拓されたようである。今回の人物は、そんな背景の中での後裔であり、久々の外従五位下の叙位だったように思われる。名前の老=海老のように曲がっている様であり、出自の場所は「用善」の西側に当たるところと推定される。国土地理院航空写真を参照すると1960年代で既に大きく地形変形が見られる。

<野見宿祢・菅原宿祢>
● 野見宿祢・菅原宿祢

「古人」等が言上したように土師宿祢の遠祖として「野見宿祢」が埴輪埋葬に関わっていたことが知られている。書紀が伝えるところに依るのだが、古事記では「野見宿祢」は登場せず、また、埴輪に関する記述も些か異なっている。

あらためて出自の場所を求めてみよう。野見=長く延びる谷間に野が広がっているところと解釈される。図に示した通り、「古人」等の麓の谷間を表していることが解る。

宿祢は、勿論、”姓”ではない。幾度か述べたように地形象形表記である”宿祢”を”姓”に転用したのである。宿禰=高台が広がり延びた前で三角に尖って薄く延びているところである。この微妙な地形を、周囲の変形にも負けず、現在に残しているという出自場所を図に示したように奇跡的に見出せる。

「古人」等が賜った菅原の氏名は、「見」の別表記と捉えることができる。菅=艸+官=管のような延びている様と解釈する。古事記は、「立花」=「橘」として殉死する風習を詳細に述べている。通説では、「橘」の意味するところは全く解読されていない。これだけでも古代は闇の中にある、と言えるのである。

――――✯――――✯――――✯――――

<纏向珠城宮>
纏向珠城宮

古事記では伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)が坐した宮は師木玉垣宮と記載されている。ここの表記は、書紀によるものであり、同一の場所を表すものか、確かめてみよう。

既出の文字列である「纏向」=「束ねられた山稜が北の谷間に向かって延びている様」、「珠城」=「山稜が途切れた先が勾玉のようになって平らに整えられている様」と解釈される。

纏めると、纏向珠城=束ねられた山稜が北の谷間に向かって延びている地に山稜が途切れた先が勾玉のようになって平らに整えられているところと解釈される。図に示した通り、師木玉垣宮の別称であろう。 

● 倭彦王子 古事記では倭日子命と記載される。「倭日子命。此王之時、始而於陵立人垣」と記述され、上記の續紀本文との整合性が伺える。崇神天皇の子、垂仁天皇とは兄弟である。「彦」=「日子(ヒコ)」と訓される。

地形象形的には「彦」=「厂+文+彡」=「麓で山稜が交差している様」と解釈する。すると、倭彦=谷間で嫋やかに曲がって延びる山稜の麓で別の山稜と交差しているところと読み解ける。「倭日子命」の山稜の端が交差している様子を表している。

――――✯――――✯――――✯――――

秋七月壬戌。詔曰。朕以不徳。陰陽未和。普天之下。炎旱經月。百姓興嗟。九服懷怨。朕爲其父母。属此靈譴。雖竭至誠。未感霈澤。顧念囚徒。特宜矜愍。其自天應元年七月五日昧爽以前大辟已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸皆赦除。但八虐。故殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦限。癸亥。駿河國言。富士山下雨灰。灰之所及。木葉彫萎。丁夘。正四位下藤原朝臣小黒麻呂爲民部卿。陸奥按察使如故。正四位上藤原朝臣家依爲兵部卿。侍從下総守如故。中納言從三位藤原朝臣繼繩爲兼左京大夫。從四位上藤原朝臣種繼爲左衛士督。近江守如故。造宮卿從四位上藤原朝臣鷹取爲兼左兵衛督。左中弁從五位上紀朝臣家守爲兼右兵衛督。近衛員外中將從四位上紀朝臣船守爲兼内廐頭。癸酉。右京人正六位上栗原勝子公言。子公等之先祖伊賀都臣。是中臣遠祖天御中主命廿世之孫。意美佐夜麻之子也。伊賀郡臣。神功皇后御世。使於百濟。便娶彼土女。生二男。名曰本大臣。小大臣。遥尋本系。歸於聖朝。時賜美濃國不破郡栗原地。以居焉。厥後因居命氏。遂負栗原勝姓。伏乞。蒙賜中臣栗原連。於是子公等男女十八人依請改賜之。丙子。河内國言。尺度池水。以今月十八日。自巳至酉。變成血色。其臭甚羶。長可二町餘。廣可三丈。甲申。典藏從四位下爲奈眞人玉足卒。 

七月五日に次のように詔されている・・・朕の不徳のために、未だに陰陽が調和しない。天下の全土で炎熱と日照りが一ヶ月も続いて、人民は嘆きの声をあげ怨みに満ちている。朕は人民の父母として、この天の咎めを身に受けている。この上ない真心を尽くしているけれども、未だ天を感応させて恵みの雨を降らせることができないでいる。囚人のことを思うと、特に憐れむべきである。天應元年七月五日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、既に罪名の定まったもの、未だ罪名の定まっていないもの、現に獄に繋がれ服役している者、悉く皆赦免する。但し八虐、故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗など通常の赦では免されないものは、いずれも赦免の範囲に入れない。

六日に駿河國が[「富士山」の麓に灰が降り、灰の降った範囲の地域では木の葉がしぼみ枯れた]と言上している。十日に藤原朝臣小黒麻呂を陸奥按察使のままで民部卿、藤原朝臣家依を侍從・下総守のままで兵部卿、中納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を兼務で左京大夫、藤原朝臣種繼(藥子に併記)を近江守のままで左衛士督、造宮卿の藤原朝臣鷹取()を兼務で左兵衛督、左中弁の紀朝臣家守を兼務で右兵衛督、近衛員外中將の紀朝臣船守を兼務で内廐頭に任じている。

十六日に右京の人である「栗原勝子公」が以下のように言上している・・・「子公」等の先祖の「伊賀都臣」は、「中臣」の遠い先祖にあたる天御中主命の二十世の孫で、「意美佐夜麻」の子である。「伊賀都臣」が神功皇后の御世に百濟に使いした時、かの國の女性を娶って二人の子をもうけた。名を「本大臣」と「小大臣」と言う。後に遠く本来の血筋を尋ねて我が朝廷に帰化した時に、「美濃國不破郡栗原」に土地を賜って、そこに居住した。その後、居住地の名によって氏の名が付けられたために、ついに「栗原勝」の氏姓を負うことになった。どうか「中臣栗原連」の氏姓を賜るようお願いする・・・。そこで「子公」達一族十八人に申請通りの氏姓を賜っている。

十九日に河内國が以下のように言上している・・・「尺度」の池の水が今月十八日の巳(午前十時前後)から酉(午後六時前後)にかけて変化して、血の色のようになった。その臭いは大変生臭く、長さは二町ほど、幅は三丈ほどあった・・・<詳細は下記参照>。八日に典藏の爲奈眞人玉足(東麻呂に併記)が亡くなっている。

<富士山>
富士山

あの”富士山”が登場!…そんな訳はないであろう。由来を調べると、全く不詳のようであり、諸説が多々あって、例によってアイヌ語以外にもポリネシア語まで持ち出されているようである。

勿論、續紀の記述も引用されているが、何故”富士”は不明である。とは言え、「富士」の文字列を地形象形的に読み解くことになるとは、正に想定外であった。今まで通りに解釈してみよう。

頻出の文字である「富」=「宀+畐」=「山稜に挟まれた谷間に酒樽のような地がある様」、「士」=「突き出ている様」と解釈して来た。纏めると、富士=山稜に挟まれた谷間に酒樽のような形をして突き出ているところと読み解ける。その地形を現在の高蔵山の中腹に見出すことができる。

上図は、より分かり易くするために国土地理院三次元表示で示し、真上からではなく横(麓)から眺めた地形図として表示した。幾つかの山稜が頂上から延びているが、酒樽の側面を表しているとしたのであろう。それにしても、酷似した山容である。小富士山と名付けても良いかもしれない。

”富士”が表す地形は、谷間にある突き出た場所であり、日本の最高峰として聳える独立峰では、決して、ないのである。阿蘇山は中国史書(隋書俀國伝)に登場する。そして、この山も西麓から眺めた地形を”阿蘇”で表現したと解釈した。續紀編者等は、勿論、承知していたであろう。また、突起状の山容は、小規模な火山活動が生じ、灰はその噴煙で運ばれたのかもしれない。

<栗原勝子公-伊賀都臣-意美佐夜麻>
● 栗原勝子公

何とも造化三柱神の中でも筆頭の神を引っ張り出して、「中臣」に紐付けしたようである。その遠祖と知られている天兒屋命も、当然ながら親類縁者となる。

あらためて天神十七柱の配置を眺めると、「天兒屋命」等の現在の神岳周辺を出自とするの神々は、神通の辻近隣の天御中主命の子孫であったように思われる。

史書の記述内容は辻褄の合っているもののように感じられるが、些か曖昧な世界に入るので、ここら辺りで引き下がることにする。

栗原勝子公に含まれる既出の文字列である栗原勝=[栗]のように延びる山稜の麓が平らに広がっている地で盛り上げられたところと解釈すると、図に示した地形を表していることが解る。美濃國不破郡は、広大な住宅地になっていて、国土地理院航空写真1961~9年を参照した。子公=生え出た山稜の端が小高くなっているところであり、出自の場所を求めることができる。

祖先の伊賀都臣=谷間で区切られた山稜(伊)に押し開かれた谷間(賀)の窪んだ地(臣)に交差するように寄り集まっている(都)ところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。百濟派遣時の子である「本大臣・小大臣」が帰化して、「子公」等に繋がったと述べている。

「伊賀都臣」の父親が意美佐夜麻と記載されている。この人物が天御中主命の子孫であり、美濃國不破郡に移り住んだのであろう。意美佐夜麻=広がった谷間(美)の奥(意)から延び出た左手のような山稜(佐)で谷間が二つに岐れ(夜)端が擦り潰されたようになっている(麻)ところと読み解ける。図に示した場所が居処であったと推定される。

賜った中臣栗原連は、そのまま受け入れられるであろう。「伊賀都臣」の時代に断絶した家系の復活を願い出て認められたようである。隆盛を極める「中臣」、「藤原」も含め、一族に寄り添う風潮だったのかもしれない。

<河内國尺度>
河内國尺度

河内國と言っても、些か広くて・・・関連する情報もなく、記載されるのもこの場限りであり、名前が表す地形を求めることにする。

既出の文字列である尺度=「尺」の形をした谷間を跨ぐように山稜が延びているところと解釈される。

実のところ、この地形を有する場所に何度も出会っていたのである。孝謙天皇紀に現地名の田川郡みやこ町勝山箕田・宮原に住まう多くの王達に三嶋眞人の氏姓を賜っていた。その一部である猪名部王等の居処の谷間の様子を表わしていた。とりわけ特徴的な「度」に気付かされていた。

と、一件落着かと思ってはダメなようである。続く本文には「自巳至酉。變成血色。其臭甚羶。長可二町餘。廣可三丈」と記載されている。さらりと読めば上記のようであるが、やはり地形象形表記であろう。

自巳至酉:蛇のような(巳)山稜から酒樽(酉)のような山稜に至る地で
變成血色:別れ出た山稜に挟まれた耕地(變)が渦巻くように高くなった地(色)の前で平らに窪んで(血)いて
其臭甚羶:箕(其)のように並んで延びた山稜の端が平らになって(臭)深い(甚)谷間に高く積み上がり()
長可二町餘:長い方の谷間の口(可)で平らに整えられ地(町)が二つ並んで(二)なだらかに延び広がり(餘)
廣可三丈:広い方の谷間の口(可)には杖のような山稜(丈)が三つ並んで(三)延びているところ

・・・と解釈される。「尺度」の谷間の地形を余すことなく述べていることが解る。若干の文字解釈補足:「變」=「糸+言+糸+攴」=「耕地が別れ出た山稜の挟まれている様」、「血」=「皿+、」=「平らに窪んでいる様」、「臭」=「自+犬」=「山稜の端が平らになっている様」、「羶」=「羊+亶」=「谷間に高く積み上がっている様」、「町」=「田+丁」、「餘」=「食+余」と分解する。

八月丁亥朔。授從五位下吉田連斐太麻呂從五位上。甲午。正四位上大伴宿祢家持爲左大弁兼春宮大夫。先是遭母憂解任。至是復焉。戊戌。授從五位上紀朝臣家守正五位上。從五位下大伴宿祢弟麻呂從五位上。己亥。授從五位上伴田朝臣仲刀自正五位下。辛亥。陸奥按察使正四位下藤原朝臣小黒麻呂。征伐事畢入朝。特授正三位。癸丑。无位五百枝王。五百井女王並授從四位下。无位藤原朝臣夜志芳古從五位下。

八月一日に吉田連斐太麻呂に從五位上を授けている。八日に大伴宿祢家持を左大弁兼春宮大夫に任じている。これより以前、母の喪によって解任されていたが、復されている。十二日に紀朝臣家守に正五位上、大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)に従五位上を授けている。十三日に伴田朝臣仲刀自に正五位下を授けている。二十五日に陸奥國按察使の藤原朝臣小黒麻呂が征伐の事を終えて帰京している。特別に正三位を授けている。二十七日に五百枝王・五百井女王に従四位下、「藤原朝臣夜志芳古」に従五位下を授けている。

<藤原朝臣夜志芳古-宇都都古>
<中臣朝臣必登>
● 藤原朝臣夜志芳古

またまた系譜不詳の「藤原朝臣」の登場である。尚且つ、この場限りで後に昇進や任官されることもなかったようである。情報皆無で名前が示す地形から出自の場所を求めることにする。

”古事記風”の名称である夜志芳古の頻出の一文字一文字は「夜」=「谷間が真ん中に山稜が延びて二つに岐れている様」、「志」=「川が蛇行している様」、「芳」=「艸+方」=山稜が延び広がっている様」、「古」=「丸く小高い様」と解釈した。

文字列の区切りを考慮すると、夜志芳古=真ん中に山稜が延びて二つに岐れている谷間と延び広がった先に丸く小高い地ある山稜の間に蛇行する川が流れているところと読み解ける。

この人物の出自は、図に示した場所、「鎌足」の谷奥に当たるところと推定される。中臣朝臣(意美麻呂等)に隣接する端境である。残念ながら「志」を地図上で確認することは叶わないようである。

直後に中臣朝臣必登が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。必登は既出の文字列として、必登=高台から山稜が岐れた谷間が[杙]のような山稜にくっ付いているところと解釈した。その地形の図に示した場所が出自と推定される。後に參河介に任じられている。

後の桓武天皇紀に女孺の藤原朝臣宇都都古が従五位下を叙爵されて登場する。宇都都古=谷間に延びる山稜が寄り集まり丸く小高い地が交差するように並んでいるところと解釈される。図に示した「夜志芳古」の西隣…「中臣朝臣」との端境、些か食い込んでいるようだが…が出自と推定される。