天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(9)
大寳元年春正月乙亥朔。天皇御大極殿受朝。其儀於正門樹烏形幢。左日像青龍朱雀幡。右月像玄武白虎幡。蕃夷使者陳列左右。文物之儀。於是備矣。戊寅。天皇御大安殿受祥瑞。如告朔儀。戊子。新羅大使薩飡金所毛卒。賻絁一百五十疋。綿九百卅二斤。布一百段。小使級飡金順慶及水手已上。賜祿有差。
元号「大寶」が定められ、正月一日に「文物之儀」(文物:学問・芸術・宗教・法律・制度など、文化に関するもの)が整備されたと記載している。些か不明のところもあるが、烏形幢: 威儀の幢(はた)の一種。とりがたのはた、日像・青龍・朱雀の幡、月像・玄武・白虎の幡を用いている。「蕃夷」の表現は中国に倣ったもの、錯覚の賜物であろう。
勿論この場所は藤原宮であり、新生日本國が誕生した場所である。現在の奈良県明日香村の比定場所の発掘が現在も継続されている。2010年の新聞記事を掲載したが、”まぼろしの藤原宮”になることは必至であろう。
実に好意的な寸評が載せられているが、「奈良文化財研究所」はてっきり奈良県の管理下の組織かと思いきや、「独立行政法人国立文化財機構の一部門」とある。東博、奈良国立博物館(さすが奈良には二つ)などが傘下にあると知られる。
マスコミが「過信」と書いているが、邁進させていることも併記されるべきであろう。いずにしても「記紀」、「續紀」を国「宝」の持ち腐れにしているのが現状と思われる。尚、「文物之儀」についてはなぶんけんぶろぐを参照した。
一月四日に天皇は大安殿にて「祥瑞」(告朔:毎月朔日に進奏する儀式)を受けている。十四日、新羅大使が亡くなり、綿布などを、また水手(水夫)以上に禄を与えている。
己丑。大納言正廣參大伴宿祢御行薨。帝甚悼惜之。遣直廣肆榎井朝臣倭麻呂等。監護喪事。遣直廣壹藤原朝臣不比等等。就第宣詔。贈正廣貳右大臣。御行難破朝右大臣大紫長徳之子也。庚寅。宴皇親及百寮於朝堂。直廣貳已上者。特賜御器膳并衣裳。極樂而罷。壬辰。廢大射。以贈右大臣喪故也。
一月十五日、大納言大伴宿禰御行が亡くなり、ことのほか惜しまれている。榎井朝臣倭麻呂等を遣わして葬儀を執り行い、また藤原朝臣不比等等を向かわせて一階級昇位して右大臣とすることを告げさせている。孝徳天皇紀の右大臣長德の子と付記されている。十六日に皇親及び百寮と宴会し、直廣貳位以上に御器膳・衣裳を与えている。右大臣の喪に服するために十八日の大射を中止している。
丁酉。以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。爲遣唐執節使。左大辨直廣參高橋朝臣笠間爲大使。右兵衛率直廣肆坂合部宿祢大分爲副使。參河守務大肆許勢朝臣祖父爲大位。刑部判事進大壹鴨朝臣吉備麻呂爲中位。山代國相樂郡令追廣肆掃守宿祢阿賀流爲小位。進大參錦部連道麻呂爲大録。進大肆白猪史阿麻留。无位山於億良爲少録。癸夘。直廣壹縣犬養宿祢大侶卒。遣淨廣肆夜氣王等就第宣詔。贈正廣參。以壬申年功也。
一月二十三日、守民部尚書の粟田朝臣眞人を遣唐執節使、左大辨の「高橋朝臣笠間」を大使、右兵衛率の「坂合部宿祢大分」を副使、參河守の許勢朝臣祖父(邑治)を大位、刑部判事の「鴨朝臣吉備麻呂」を中位、「山代國相樂郡令」の「掃守宿祢阿賀流」を小位、「錦部連道麻呂」を大録、「白猪史阿麻留」と無位の「山於億良」を少録としての編成が記載されている。
『白村江』(663年)以来の唐との接触の試みである。調べるとこの時は天候のため渡航できず、翌年に見事その目的を果たせたと言う。とりわけ正規の外交を復活したことは大きな成果であったようである。尚、この時唐は武則天による武周王朝時代である。早いもので四十年弱が過ぎたことになる。西海の脅威は、一応鎮まったのであろう。
多くの人物が登場しているが、最後の無位「山於億良」(山上憶良で知られる)、万葉歌人として柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持などと共に名を残すことになる。「山於」が本名であろう。下記で詳細に紐解くことにする。中西進氏がその見識を披露されているが(こちら参照)、歴史を混乱させているだけ、かもしれない。
二十九日に縣犬養宿祢大侶(大伴)が亡くなり、「夜氣王」を遣わして壬申の功により四階級昇位を贈っている。例によって出自不詳の「〇〇王」であるが、大胆に憶測してみようかと思う。「許勢朝臣祖父」は「邑治」の名前で既出である。また「參河守」については、こちらを参照。
<高橋朝臣笠間> |
● 高橋朝臣笠間
一方「笠間」は祖父が膳臣摩漏、父親が「高橋朝臣國益」と言われている。「摩漏」はその死亡記事のみの登場であるが、壬申の功で大紫位を贈られている。
「膳臣」の地は現在の田川郡赤村内田と推定した。図は、少し見る角度を変えて表示したものである。
すると「摩漏」の東側の山稜が[笠]のような形をしていることが解る。古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の御子、若日子建吉備津日子命が祖となった笠臣の地形に類似している。書紀では吉備笠臣垂・諸石が登場していた。
間=門+月=山稜に挟まれた三日月の地がある様と読み解いた。有間温湯など幾つかの例があった。出自の場所は、この山稜の麓辺りと推定される。父親の「國益」の益=谷間に挟まれて平らに広がった様と読み解いた。新益京で用いられていた文字である。「摩漏」の北側のなだらかところと思われる。親子三代で「膳」の谷間を切り開いたのであろう。
<坂合部宿禰大分・三田麻呂> |
● 坂合部宿禰大分
坂合部は頻出である。「境部」とも表記され、現地名の直方市上・下境と推定した場所である。人材輩出の地であり、彦山川の近傍に集中していたのが、どうやら山側の地に広がったように思われる。
既出の文字列である大分=平らな頂の山稜を二つに切り分けた様と読み解いた。そのものずばりの地形が見出せる。本人の居場所は些か不確かであるが、その谷間ではなかろうか。
後に坂合部宿禰三田麻呂が登場する。三田=三つの田が段々に並んでいる様と読み解いた。舒明天皇紀の犬上君三田耜に用いられていた。図に示したように「大分」の北側にあるそれらしき場所と思われる。「大分」は長く唐に留まり、帰国は718年だったとか。
● 鴨朝臣吉備麻呂
「鴨」の地、現地名の田川郡福智町伊方の辺りを探索することになる。藤原朝臣宮子娘、その母の賀茂比賣など「鴨」の地形の周辺が含まれている(こちら参照)。
「吉備」は、吉備國と全く同様に解釈されなければならないのだが、果たしてその地形が見出せるのか・・・杞憂することなく「鴨」の西隣に蓋付きの箙が矢で満たされていることが解る。
「蝦夷」の地形がやや曖昧な感じなのが、ここですっきりとしたようである。一族の出現は大歓迎、と言ったところであろう。帰国後、地方の國司を歴任したと伝えられている。更に後の元明天皇紀に鴨朝臣堅麻呂が登場する。それなりの頻度で用いられる堅=臣+又(手)+土=谷間に手のような地がある様と読み解いた。図に示した場所と推定される。
「掃守」は孝徳天皇紀に掃守連小麻呂で登場していた氏名である。白雉四年(653年)の遣唐使団の一員であったが、途中遭難し、生存者に見当たらず一命を落としたように言われている。
何らかの血縁関係であったと推測されるが、不詳のようである。阿=台地、賀=谷間を押し広げたような様、流=広がる延びる様と読むと、図に示した谷間、出自の場所は谷間の奥方と思われる。
何せ狭い箒の先のような谷間、がしかし有能な人材が育っていたのであろう。命懸けの遣唐使だったわけで様々な悲運も生じていたと推測される。この地もまた、複数の人物名の登場で確からしさが増したように思われる。
派遣時の職務が「山代國相樂郡令」と記されている。山代國相樂郡は、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に記載された山代國之相樂であろう。「背」ではなく「代」を用いているのも興味深いところである。何となく續紀は古事記表記に戻している感じである。
「錦部」は既出の河内國錦部郡に含まれていた。現在の行橋市にある幸ノ山を「錦」と見做した表記と思われる。「白鳩」を献上した記事であったが、その西隣に、道=辶+首の地形が見出せる。
椿小学校の南側に位置する場所が出自と推定される。系譜なども定かではなく、この後の消息も殆ど知られていないようである。
「椿市」の地は、古事記で廣國押建金日命(安閑天皇)陵がある河內之古市高屋村と推定した。しっかり国譲りされているようである。
ところが、実は若帶日子命(成務天皇)が坐した近淡海之志賀高穴穂宮に近い場所でもある。錦氏の祖の三善氏は近江國錦郡だとか、諸説があるようで、上図の位置関係を暗示しているのかもしれない。書紀に見習って「近淡海」→「近江」と置き換えれば、申し分のない配置であろう。
● 白猪史阿麻留
「白猪史」は、唐の留学生として十年余り滞在後帰国した白猪史寶然(骨)の一族であろう。また大寶律令の撰定者の一人となっていた。早期に開けた地の吉備の住人である。
その地で「阿麻留」を探索すると、「骨」の下流、西側の三角州の辺りであることが解る。阿=台地、麻=擦り潰されたような様、留=隙間を通り抜ける様であり、両脇の山稜の合間を「阿麻」の大地の三角州が通り抜ける地形と読み解ける。
「阿麻留」と「骨」の関係は、少し調べたところでははっきりしないようで、位置関係からすると親子、兄弟かもしれない。
二人とも唐へ赴くことになるわけで、それなりの素養が備わっていたのであろう。「天神族」以前に吉備を開拓した人々の末裔ではなかろうか。後に「葛井連」、更に「宿禰」と改姓したと伝えられる。
また後(元正天皇紀)に白猪史廣成が遣新羅使に任命されている。対外的な能力が備わっていた一族と見做されていたと思われる。父親が「道麻呂」と知られている。図に示した「廣成」の南側、山麓が窪んだところに住まっていたのであろう。それ以外の系譜は定かでないようである。
更に後(聖武天皇紀)に葛井連毛人が登場している。毛=鱗の形を谷間に見出すのは、かなり難しい状態であるが、「廣成」の西側にある、それらしき場所を出自と推定した。
● 山於億良
さて、この超有名な万葉歌人の出自の場所を求めてみよう。系譜は、決して定かではなく、遣唐使団に加えられた経緯もはっきりとはしていないようである。
遣唐執節使である粟田朝臣眞人と同じく春日一族で、その推挙だったとか、強ち的を外してないような感じである。
推定されている「添上郡」の地の登場人物が少なく、断定的ではないが・・・彼の名前のポイントは「於」である。「上」に置き換えては、全く不明な状況となろう。
既に幾度か登場した於=㫃+二=旗がなびいて途切れた様と読み解いた(こちら参照)。すると英彦山山系から延びる山稜の中で、一際目立つ山稜が見出せる。旗のように平らな台地が延びて途中で途切れたようになっているのが解る。そして、その旗のような山稜が山=[山]の文字形をしている様と見做した表記と思われる。
既出の「新城」(天武天皇紀のこちら参照)の畔を流れる彦山川上流域にあり、添上郡と推定した場所となる。その旗の付け根辺りに、億=人+意=谷間にある閉じ込められたようなところであり、良=なだらかな様とすると現地名田川郡添田町野田にある窪んだ地形が見出せる。ここが山於億良、別名山上憶良の出自の場所と推定される。いつの日か彼の歌を読むことがあるかもしれない。
持統天皇紀に「奉新羅調於五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足」の記述があった。古くから存在する四社に加わった菟名足社の推定場所を図に併記した。次第に開けた地になりつつあったところだったのであろう。英彦山修験の勢いもあったのかもしれない。
<夜氣王> |
● 夜氣王
相変わらず王族の出自は全く闇の中である。系譜も分らずで手の施しようがない、且つ登場頻度も少ないとお手上げ状態となってしまうようである。
少々自棄気味に、洒落ている場合じゃないが、「夜氣」を書紀で検索すると、「彌夜氣」(屯倉)が引っ掛った。垂仁天皇紀に「興屯倉于來目邑。屯倉、此云彌夜氣」の一文が載せられている。
この「屯倉」が彌夜氣=広がった台地(彌)の傍らにある狭く曲がりくねった(氣)谷間(夜)の近傍にあることを伝えていると解釈される。
「來目」の地、來目皇子の場所でそれを探すと容易に見出すことができる。おそらく王子は、谷間の出口辺りの屯倉、もしくはその近隣に住まっていたのではなかろうか。
二月丁未。詔始任下物職。丁巳。釋奠。〈注釋奠之礼。於是始見矣。〉己未。遣泉内親王侍於伊勢齋宮。癸亥。行幸吉野離宮。丙寅。任勘民官戸籍史等。庚午。車駕至自吉野宮。
二月四日に初めて下物職(出納に立ち会い、入用時に倉庫の鍵を借返する職)を任じている。十四日に釋奠(孔子および儒教における先哲を先師・先聖として祀る儀式)を行っている。十六日に泉内親王(天智天皇の泉皇女、姉兄は大江皇女、川嶋皇子)を伊勢齋宮(泊瀬齋宮)に遣わしている。二十~二十七日、吉野離宮に行幸されている。二十三日に民官の戸籍管理をする史を任命している。