2020年11月25日水曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (8) 〔471〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (8) 


即位十年(西暦696年)正月からの記事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

十年春正月甲辰朔庚戌、饗公卿大夫。甲寅、以直大肆授百濟王南典。戊午、進御薪。己未、饗公卿百寮人等。辛酉、公卿百寮、射於南門。二月癸酉朔乙亥、幸吉野宮。乙酉、至自吉野。

正月七日に公卿大夫と宴会を催している。十一日百濟王南典(①-)に直大肆位を授けている。即位五年(西暦691年)正月に百濟王禪廣(①-善光)等と共に登場しているが、無位だったようである。この後も活躍されて従三位まで昇進されている。十五日に薪を献上。公卿百寮人等と十六日に宴会、十八日には射会を行っている。二月三~十三日に吉野行幸。

三月癸卯朔乙巳、幸二槻宮。甲寅、賜越度嶋蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草、錦袍袴・緋紺絁・斧等。夏四月壬申朔辛巳、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。戊戌、以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石、幷賜人絁四匹・絲十絇・布廿端・鍬廿口・稻一千束・水田四町、復戸調役、以慰久苦唐地。己亥、幸吉野宮。五月壬寅朔甲辰、詔大錦上秦造綱手、賜姓爲忌寸。乙巳、至自吉野。己酉、以直廣肆授尾張宿禰大隅、幷賜水田卌町。甲寅、以直廣肆贈大狛連百枝、幷賜賻物。

三月三日に「二槻宮」に行幸されている。斉明天皇の後飛鳥岡本宮の別名として「兩槻宮(天宮)」が記載されていた。十二日に「越度嶋蝦夷伊奈理武志」と「肅愼志良守叡草」に袴、斧などを与えている。四月十日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀している。二十七日、「伊豫國風速郡物部藥」と「肥後國皮石郡壬生諸石」に追大貳位を授け、併せて布、稲、水田などを与えている。長く唐の地で苦労を慰めるために調役を許している。

四月二十八日~五月四日、吉野行幸。五月三日に秦造綱手(秦造熊に併記)に「忌寸」姓を授けている。八日に「尾張宿禰大隅」に直廣肆位を授け、併せて水田四十町を与えている。十三日、大狛連百枝(大狛造百枝)に直廣肆位と賻物を贈っている。

<越度嶋蝦夷伊奈理武志・肅愼志良守叡草>
● 越度嶋蝦夷伊奈理武志・肅愼志良守叡草

登場人物の固有人名が付いて、「蝦夷」、「肅愼」との融和は着実に進んでいたことを示しているのであろうが、やはり何処か雰囲気の異なる名称である。

その前に「越度嶋」と記載されているが、前出の「渡嶋蝦夷」が「越」にも居たような感じに受け取ってしまいそうだが、これは”罠”であろう。

前出の越智で用いられた越=足+戉=鉞の様と紐解いた。すると越度=鉞の地が渡す様と読み解ける。図に示した場所を表していると思われる。かつては兩箇蝦夷と表記された蝦夷の別名となる。

伊奈理武志の居場所を求めてみよう。伊=谷間で区切られた山稜も含めて見慣れた文字の羅列のように見えるが、「奈」は古事記では地形象形表記として用いられていない文字である。辞書を頼りに調べると本字は「柰」=「木+示」と分解される(大きな実がなる木)。

地形象形的には柰=山稜の端が高台となっている様と読み解ける。確かに「那良」の地形を「奈良」に置き換えることは難しいようである。纏めて読み解けば、谷間で区切られた山稜()の端の高台()が区切られて()戈のようになった地()が蛇行する川()の傍にあるところ、となる。

肅愼志良守叡草は、勿論肅愼國に住まっていたのであろう。現地名は北九州市門司区清見であり、古事記の熊曾建之家があった地と記載していた場所である。この人名も殆どが見慣れた文字であるが、地形象形表記と思われる「叡」は古事記には出現せず、書紀も極僅かである。

「叡」=「睿+又」と分解される。更に「睿」は「谷」、「目」の文字要素を含み、「かしこい、奥深く見通す」などの意味を表すと知られるが、地形象形的にはそのまま叡=奥深い谷間と解釈される。すると文字列は、山稜に囲まれて流れる蛇行する川(守・志)がなだらかになった地()で奥深い谷間()から延びる山稜に挟まれた小高い()ところと読み解ける。肅愼國の中心の場所であろう。勿論、熊曾建の家があった場所と思われる。

――――✯――――✯――――✯――――

少々余談になるが、上記の取って付けたような名前については前記した宋書倭國伝の『倭國の五王(讃・珍・濟・興・武)』に関連しているように思われる(こちら参照)。五王が朝鮮半島及び倭國を代表するほどの広い領域を確保したと上表することから歴代の天皇に比定する作業が行われ、極めて曖昧でありながら通説となっているのが現状である。

上記の越度蝦夷、肅愼の人物名は、明らかに融和した(させた)後に付けられた”倭風”名称であり、彼らは本来の”韓風”名称、おそらく一文字、を持っていたのではなかろうか。「讃・珍・濟・興・武」時代に新羅を出自の場所とし、日本列島に移住していたこと、それが朝鮮半島及び倭國を代表する発言の根拠となろう。

――――✯――――✯――――✯――――

<伊豫國風速郡>
伊豫國風速郡

「伊豫國」の郡では、銀が産出した宇和郡が登場していた。おそらくその近隣と目星をつけて探すと、その西隣にあることが解った。

「風」は龍田風神で用いられている。風=凡+虫=[凡]の形に囲まれて曲がりくねった地がある様と読み解いた地形である。

現在の白山山稜の平らは尾根から東に延びる山稜が示す地形を表している。幾度か登場の速=辶+束=束ねた様と読み解いた。「虫」の山稜が寄り集まった地形を表現していると思われる。

いつの間にやら「風早」に置き換えられているが、通常の意味から置換え可と考えられたのであろうが、全く異なる地形を表すことになる。書紀に「風早」の地はなく、それは”倭風”の名称ではないのである。

● 物部藥

白村江の戦いで捕虜となったのであろう。物部一族と解釈されているようだが、直接的な繋がりは求められない。既に述べたように「物部」は物=牛+勿=[勿]の形に山稜が延びる様と読み解いた。この地に住まう人々が「物部」を名乗っていたのである。彼ら一族と言われる氷連、置始連など隣接しても「物部」と名乗っていない。と言うことは、「風速郡」に「物部」地形がある筈、である。

本元に比べたら些か小ぶりではあるが、立派に要件を満たすような地形を示している。風速郡の南端に位置する。「藥」=「艸+絲+白+木」と分解される。書紀では好まれて使用される文字であり、人名に多用されている。簡単に訳せば、山稜に挟まれた丸く小高いところである。これも小ぶりながらちゃんと揃っているようである。

<肥後國皮石郡・壬生諸石>
肥後國皮石郡

「肥後國」は推古天皇紀に一度の計二度の登場である。また「肥國」としては宣化天皇紀に「筑紫肥豐三國屯倉」として、その存在を示す記述が辛うじてあるくらいの表記である。

古事記では、速須佐之男命が降臨する鳥髮の肥河が流れる「肥國」=「出雲國」であり(こちら参照)、現地名は北九州市門司区大里(旧地名)と推定した。

勿論これでは不味いわけで、何とか暈した表現をせざるを得ない状況に陥った書紀編者は、結局省略手法を採用したことになる。

即ち「肥國=出雲」ではなく、新たに「肥」(山稜の端が渦巻くように高くなった様)の地を設定したのである。そして、その背後に「肥後國」を設けたと解釈することができる。しかしながら「肥前國」の登場はずっと後になる(續日本紀、西暦740頃)。当然ながら、書紀・續紀には「肥國」は登場しない。

同様の手法が越前・越後に用いられている(詳細は續紀にて、越後の推定場所はこちら)。古事記の「高志」・「高志前」の「高志=越」と置き換えることから、「越前」は「越國」の下流域に置くのだが、「越後」は、全く異なる「高志」(皺が寄ったような谷間で蛇行する川があるところ)の川(谷間)の奥にある國とされていると解釈される。実に巧みに矛盾なく記載された書物群である。

話しが横道に逸れすぎるので、元に戻して、「肥後國」の現地名は北九州市門司区伊川である。おそらく南は越國、東は飛騨國・阿多との境、北側は風師山の東麓を含む地域を示しているのではなかろうか。皮石郡は、風師山東南麓に横たわる地()がを剝いだようにつるりとした様を表している思われる。

● 壬生諸石

既出の文字列である壬生=ふっくらとした地から生え出た様であり、諸石=耕地が交差する傍にある山麓の地と読み解ける。図に示した場所と推定される。「壬生」もその一族との解釈があるようだが、上記と同じく地形に基づいた命名と思われる。

この地の下流域は古事記の高志國之沼河比賣の出自の場所と推定した。また大毘古命の子、建沼河別命(阿倍臣の祖)も関係する地であり、古くから開けていたのであろうが、その最上流域に登場する人物はいなかった。「肥後國」も含めて貴重な記述であろう。

<尾張宿禰大隅・稻置>
● 尾張宿禰大隅

「尾張連」が「宿禰」姓を賜った、その一人であろうが、直廣肆位(48階中上位1/3に入る)、また水田40町も、と言う破格の褒賞であろう。

調べると、『壬申の乱』の時、天武天皇が桑名から不破へ移動する際に自宅を提供したようである。「筑紫大宰」の動静は把握できたとしても、その他は不明であり、この支援は、心理上も、極めて意味があったと推測される。

持統天皇がその恩に報いた、のであろう。「隅」はそのままの意味として解釈できるが、敢えて「隅」の文字を使ったのはより詳細は場所を示すためではなかろうか。

隅=阝+禺=よく似た形の積み重なった地が二つ並んでいる様と読み解ける。「隅」ではあるが、更にそれを満足する地形を探すと図に示した場所が見出せる。古事記の尾張連之祖意富阿麻比賣の出自の谷間の出口辺りと推定される。

後(續紀の元正天皇紀)に壬申の功臣であった「大隅」の子、稻置が登場する。功績に基づいて田を賜っている。稻=禾+爪+臼=しなやかに曲がる山稜の端が指を広げたような様置=网+直=真っ直ぐな地が閉じ込められている様と解釈した。すると父親の西側にある谷間がその地形を示していることが解る。

この親子が住まっていた場所は、桑名郡から不破郡に抜ける際、山裾を通り抜ける脇であることが解る。謀反人に自宅を提供するには、それなりの事前の協力取り付けがなければ不可であろう。尾張國司守小子部連鉏鉤も含め、尾張の造反は決定的であったと思われる。朝廷の処遇に何らかの不満が蓄積していたのかもしれない。 

六月辛未朔戊子、幸吉野宮。丙申、至自吉野。秋七月辛丑朔、日有蝕之。壬寅、赦罪人。戊申、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。庚戌、後皇子尊薨。八月庚午朔甲午、以直廣壹授多臣品治、幷賜物、褒美元從之功與堅守關事。

六月十八~二十六日に吉野行幸。七月初め、日蝕あり。二日、罪人を赦している。八日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀している。十日に「後皇子尊」(皇子高市)が亡くなっている。八月二十五日、多臣品治に直廣壹位を授け、物を与えている。当初から従い、鈴鹿關を堅守したことを褒められている。近江朝将軍田邊小隅から防いだ功績は大きく(「莿萩野の戦い」と名付けよう)、これを破られると桑名が危うかったのである。

「後皇子尊」は「後の皇太子」の意味であろうが、実際には立太子した記述はないようである。「草壁皇子尊の後」と読め、当時の実情は皇太子の役割(諸臣がそう見ていた)を果たしていたのではなかろうか。いずれにしても冠位と資産は圧倒的であった。柿本人麻呂が万葉集最長の挽歌を献じているようで、いつの日か読み下してみようかと思う。

九月庚子朔甲寅、以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬、幷賜賻物、以顯元從之功。冬十月己巳朔乙酉、賜右大臣丹比眞人輿杖、以哀致事。庚寅、假賜正廣參位右大臣丹比眞人資人一百廿人、正廣肆大納言阿倍朝臣御主人・大伴宿禰御行並八十人、直廣壹石上朝臣麻呂・直廣貳藤原朝臣不比等並五十人。

十一月己亥朔戊申、賜大官大寺沙門辨通、食封卅戸。十二月己巳朔、勅旨、緣讀金光明經、毎年十二月晦日度淨行者一十人。

九月十五日に若櫻部朝臣五百瀬(稚櫻部臣五百瀬)に直大壹位を授け、賻物を贈っている。十月十七日に右大臣丹比眞人に杖を与えているが、職務を辞したようである。二十二日に右大臣丹比眞人に正廣參位を授け、従者を百二十人を与えている。また、大納言阿倍朝臣御主人(布勢朝臣御主人)と大伴宿禰御行にそれぞれ八十人を、石上朝臣麻呂(物部麻呂朝臣)と藤原朝臣不比等(藤原朝臣史)に五十人の従者を与えている。

十一月十日に大官大寺(高市大寺)沙門辨通に食封三十戸を与えている。十二月初めに金光明經を読経し、毎年十二月晦日(三十日)に修行者十人を出家させることになったと述べている。

十一年春正月甲辰、饗公卿大夫等。戊申、賜天下鰥寡孤獨篤癃貧不能自存者、稻各有差。癸丑、饗公卿百寮。二月丁卯朔甲午、以直廣壹當麻眞人國見爲東宮大傅、直廣參路眞人跡見爲春宮大夫、直大肆巨勢朝臣粟持爲亮。三月丁酉朔甲辰、設無遮大會於春宮。

即位十一年(西暦697年)正月七日に公卿大夫等と宴会を催している。十一日に身寄りのない者などに稲をそれぞれ与えている。十六日に公卿百官と宴会。二月二十八日に當麻眞人國見を東宮大傅(皇子の教師)に、路眞人跡見を春宮大夫(皇子の世話係長官)に、巨勢朝臣粟持を副長官にそれぞれ任命している。三月八日、無遮大會を春宮(皇子の宮)で開催している。

上記で「後皇子尊」と記述されたように皇子高市が亡くなって、皇統継続の危機が発生した様子が伺える。世継が思うように行かないのは、常世なのであろう。些か気忙しい雰囲気が醸し出されている。ところで東宮、春宮の主は誰?…立太子しているのか?…など些か不明な、暈した表記となっている。そうしなければならなかった訳は?…最後に「皇太子」と記述されるが、固有の名称は省略である。

夏四月丙寅朔己巳、授滿選者、淨位至直位、各有差。壬申、幸吉野宮。己卯、遣使者祀廣瀬與龍田。是日、至自吉野。五月丙申朔癸卯、遣大夫謁者詣諸社請雨。

四月四日に「淨位至直位」の滿選者(有資格者)に授けている。七~十四日、吉野行幸。帰還の日に恒例の「廣瀬・龍田」(簡略に)を祭祀している。五月八日、大夫謁者を派遣して諸社で雨乞いをさせている。

六月丙寅朔丁卯、赦罪人。辛未、詔讀經於京畿諸寺。辛巳、遣五位以上、掃灑京寺。甲申、班幣於神祇。辛卯、公卿百寮、始造爲天皇病所願佛像。癸卯、遣大夫謁者詣諸社請雨。秋七月乙未朔辛丑夜半、赦常𨰃盜賊一百九人、仍賜布人四常、但外國者稻人廿束。丙午、遣使者祀廣瀬與龍田。癸亥、公卿百寮、設開佛眼會於藥師寺。

八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。 

六月二日、罪人を赦している。六日に京及び畿内の諸寺で読経させている。十六日に五位以上の者を遣わして京の寺を払い清めさせている。十九日、幣を神祇に奉らさせている。二十六日、初めて公卿百官が天皇の病の為に仏像を造っている。また、大夫謁者を派遣して諸社で雨乞いをさせている。

七月七日の夜半に盗賊等百九人を赦している。布を、外国人には稲を二十束与えている。十二日に恒例の「廣瀬・龍田」を祭祀している。二十九日に公卿百寮が藥師寺で仏像開眼の会を行っている。

八月初め、天皇は禁中にて皇太子(輕皇子、後の文武天皇)に天皇位を禅譲したと記載している・・・日本書紀の長~い物語が閉じられている。

――――✯――――✯――――✯――――

途中でも述べたが、持統天皇の頻繁な、三十数回の吉野行幸の理由については、過去に幾つかの推論がなされているようである。これらの諸説を整理された方がおられて、❶景勝遊覧・宴遊、❷風雨の順調祈願、❸三霊場での禊ぎ、❹天武帝・天武朝追懐、❺人間性の回復・蘇生、❻国家の安寧祈願、❼その他の副動機(地方巡守や神仙境憧憬など)となるらしい。

これら七つの目的で行幸された、と言っても良いような感じであろう。これだけの回数となれば、真実の目的が暈ける、ある意味それが狙いだったのかもしれないが、そんな状況なのかもしれない。舒明天皇が頻繁に有間温湯に行幸され、年越しまでされたと記述されていた。都での居心地が悪かったのでは?…と推察したが、思惑外れの皇子草壁崩御、太政大臣皇子高市を前面にした政事だったのかもしれない。

梅原猛氏の「吉野」は、夫天武と苦楽を共にした思いがその地を「仙境」とさせたと解釈するのも結構だが、この持統天皇は、なかなかに強かな女性であったと思われる。息子が外れたら孫に繋ぐ、思えば斉明天皇も勝るとも劣らない強かさの持ち主だったように感じれらる。対唐・新羅の国防戦略は彼女が画策したものであった。結果的には失敗となったが、それがあった故の百濟支援と思われる。

倭國→俀國→日本國の混乱期は女性天皇で救われて来たようである。世界の大国がそれぞれの思惑で割拠する時代に小国日本の進むべき道は”やまとなでしこ”の中に潜んでいるのかもしれない。いずれにしても、その後も吉野行幸は続き、後の聖武天皇が最後と言われる。奈良大和から北九州市小倉南区平尾台まで通うわけにはいかなくなった・・・のではなかろうか。

最後に「万葉集巻一・二十八」に持統天皇の歌が掲載されている。他にも多くの叙情的な内容の歌を作られているようだが、美しい風景を想起させる叙景的な内容を持つ歌と知られている。百人一首にも選ばれた有名歌である。

[原文]春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山
[訓読]春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山

<天之香來山>
春過の「春」=「屯+艸+日」と分解される。「屯」=「中に籠っている様」であり、日差しの中で今にも飛び出して来そうな草が土中に籠っている様を表す文字と知られる。

「過」=「辶+咼」と分解される。「丸まりながら動く様」と解説される。「咼」=「関節の骨」を象った文字と知られ、「丸い形」を示すことから導かれる解釈である。

「而」は「長く垂れた顎鬚」を象った文字と知られる。これを文字要素として用いた「儒」は續紀及び魏志倭人伝の「侏儒」に含まれていた。纏めると春過=谷間の山稜が丸まって小高く連なり長く延びた様と読み解ける。

夏來良之の「夏」=「覆い被さる様」と解釈されている。上記の「春」から草木が茂って覆い被される季節を表している。今來などで使われた「來(来)」=「山稜が長く延びて広がる様」と読み解いた。

頻出の「良」=「なだらかな様」、「之」=「蛇行する川」として纏めると、夏來良之=覆い被さるように延びて広がった地の傍でなだらかに曲がりながら流れる川がある様となる。図に示したように藤原宮・新益京の地形を示していることが解る。「来るらし」と訓されるが、「良之」は立派な地形象形表記である。万葉歌の示す万葉の表記であろう。

白妙能は「妙」=「女+少」と分解される。「嫋やかに曲がって山稜の端が削り取られた様」、即ち「春」の山稜と気付かされる。「栲」=「木+考」と分解され、「山稜が曲がって延び切った様」と読み解ける。地形的には類似の様子であろう。ここでも「能」は略しては勿体ないのである。「能」=「熊」=「隅」の関係をしっかりと示している。白妙能=くっ付いて並ぶ嫋やかに曲がって端が削り取られた山稜の隅と読み解ける。藤原宮の東側の小高い山を指し示していると思われる。

衣乾有の「衣」は、その小高い山の東~南麓を內藏衣縫造の出自の場所と推定したところと思われる。「乾」、「干」は共に「立て掛けて乾かす様」を意味する。更に細かい表記は、「有」=「右手+月」と分解され、「腕の様に曲がった尾根の谷間にある三日月の様」と読み解いた。前出の有間温湯などに多用された文字である。すると、衣乾(干)有=衣を立て掛けて乾かすような山稜の間に三日月の形の山稜がある様と読み解ける。

天之香來(具)山の「天」=「阿麻」=「擦り潰されたような台地」である。「香」=「黍+甘」と分解して、「窪んだところからしなやかに曲がって延びる山稜がある様」と読み解いた。古事記の天香山など幾つかの例がある。「來(来)」は上記と同様の解釈であろう。

纏めると、天之香來山=擦り潰されたような台地で窪んだところからしなやかに曲がって延びて更に長く広がっている山稜があると読み解ける。「天」は高天原廣野姫天皇に繋がっているのである。恐れ入った感じであろう。地形の特徴を余すことなく盛り込んだ”歌”であることが解る。あらためて持統天皇の藤原京・藥師寺・新益京への思いが伝わって来るようである。

「具」は読み手が付けた表記のように思われるが、しいて訳せば「具」=「山稜に囲まれた大きな谷間」と解釈した。例えば迦具夜比賣などがある。すると「香具山」は「香春三ノ岳」の山容を表しているようである。文字を変えては、示す場所が異なる。当たり前のことだが、無神経であろう。上記の「妙」→「栲」はたまたま何とか繋がっているが・・・俗に言われる大和三山「香具山・耳梨山・畝火山」の詳細はこちら・・・。

古事記本文で味わった歌の解釈であるが、やはり万葉集も同様の表現を行っているようである。勿論、従来より言われるように、持統天皇が藤原宮を訪れて詠われた歌であったことが明らかになったと思われる。そして藤原宮、藥師寺、新益京の場所をより確実にしているのである。

――――✯――――✯――――✯――――

さてさて、万葉集に進むべきか、續日本紀などを紐解くべきか・・・悩ましいところである。













2020年11月21日土曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (7) 〔470〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (7)


即位八年(西暦694年)正月からの記事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

八年春正月乙酉朔丙戌、以正廣肆授直大壹布勢朝臣御主人與大伴宿禰御行、増封人二百戸、通前五百戸、並爲氏上。辛卯、饗公卿等。己亥、進御薪。庚子、饗百官人等。辛丑、漢人奏蹈歌、五位以上射。壬寅、六位以下射、四日而畢。癸卯、唐人奏蹈歌。乙巳、幸藤原宮、卽日還宮。丁未、以務廣肆等位授大唐七人與肅愼二人。戊申、幸吉野宮。

一月二日に布勢朝臣御主人大伴宿禰御行に正廣肆位を授け、更に封戸を二百戸増やし(通して五百戸)、また氏上にしている。七日公卿等と宴会を催す。十五日、薪を進呈している。十六日に百官等と宴会。十七日に「漢人」が蹈歌を奏じている。また五位以上の者と射会している。十八日、六位以下と射会、四日で終了。十九日、「唐人」が蹈歌を奏じている。二十一日に藤原宮に行幸。即日帰還。二十三日に大唐七人と肅愼二人に務廣肆等位を授けている。二十四日、吉野行幸。

「漢人」と「唐人」が区別されているが、詳しいことは分っていないようである。東漢一族のような古くから帰化した者を漢人、唐の時代に帰化した一族を表しているのかもしれない。いずれにせよ多くの帰化人が居て、それぞれの集団を形成していたのであろう。肅愼は新羅からの移住者である。古事記の熊曾國に当たる。徐々に融和策が浸透して来たのであろう。

三月甲申朔、日有蝕之。乙酉、以直廣肆大宅朝臣麻呂・勤大貳臺忌寸八嶋・黃書連本實等、拜鑄錢司。甲午、詔曰「凡以無位人任郡司者、以進廣貳授大領、以進大參授小領。」己亥、詔曰「粤以七年歲次癸巳、醴泉涌於近江國益須郡都賀山。諸疾病人停宿益須寺而療差者衆。故入水田四町・布六十端、原除益須郡今年調役雜徭、國司頭至目進位一階。賜其初驗醴泉者、葛野羽衝・百濟土羅々女、人絁二匹・布十端・鍬十口。」乙巳、奉幣於諸社。丙午、賜神祇官頭至祝部等一百六十四人絁布、各有差。

三月初めに日蝕あり。二日に大宅朝臣麻呂・「臺忌寸八嶋」・黃書連本實(黃書造本實)等が「鑄錢司」(銭貨鋳造)を拝命している。十一日に無位の者の場合、大領には進廣貳位、小領には進大參位を授けるようにしろ、と命じられている。

十六日、即位七年に「近江國益須郡都賀山」で「醴泉」が湧き、諸疾病のある者が「益須寺」に泊まって治療して多くが癒えている。故に水田四町・布六十端を納めて「益須郡」の今年の調役・雜徭を免除すること、また國司頭から目(サカン)まで位を一階進めよ命じられている。更に「醴泉」を初めて験した「葛野羽衝・百濟土羅々女」に布・鍬などを与えよ、とも申し付けられている。二十三日に神祇官頭から祝部等までに布などを与えたと記載している。

<臺忌寸八嶋・宿奈麻呂>
● 臺忌寸八嶋

「臺」を名前に含めた表記は極めて珍しいように思われる。和風ではなく漢風かと思いながら調べると、どうやら西漢一族、と言っても東漢一族に比して登場回数は極めて少ないのだが・・・。

西漢一族では西漢大麻呂が登場していた。書紀本文ではなく、引用された『伊吉連博德書』であり、原資料的に情報が乏しい状況だったことが伺える。

「臺」は、魏志倭人伝では馴染みの深い文字であり、「壹」との違いを考察した経緯もあるが、それは省略して、臺=高+之+至=蛇行しながら辿り至った高台と読み解いた。行橋市にある観音山から南に延びる山稜の端が平らな頂を示していることが認められる。その台地のような場所を表していると思われる。

「八嶋」は古事記の八嶋士奴美神の解釈と類似して、山稜が描く鳥の形とすると、図に示した場所に翼を広げた姿が浮かび上がって来る。その麓が出自の場所と推定される。後に従五位下に昇進するが、その時古事記編者の太安萬侶等も同様であったようである。

後に臺忌寸宿奈麻呂が登場する(續紀の元明天皇紀、和銅二年:709年)。「八嶋」との繋がりは定かではないようである。同名の人物が多く記載されているが、全く同様に地形象形されていると思われる。宿奈=山稜に挟まれた谷間の地にこじんまりとした高台がある様と読み解いた。「八嶋」の東隣の山稜の端の地形を表していることが解る。

<近江國益須郡都賀山・益須寺>
近江國益須郡都賀山

前記で「近江國益須郡」にあった「醴泉」の場所と求めた。この泉の水は本物だったようで、大変な賑わいが生じたと伝えている。

泉の源は「都賀山」と記載されている。現在の大平山である。その南麓は、図に示した通り、深い谷間が幾筋も流れていることが分る。それを賀=貝を押し開いたような様と表記している。

既出の伊賀で用いられた地形象形表現であり、山頂でそれらを寄せ集めた()ように見える山、都賀山と命名していたのであろう。

賑わった場所が益須寺と言う。浄土院川を挟んで「醴泉」の対岸の場所、現地名は京都郡苅田町下片島浄土院、の集落にあったと推定される。寺跡らしきものは皆目見当たらないが、地名になんらかの謂れがあるのかもしれない。

● 葛野羽衝・百濟土羅々女

発見者の固有名詞まで記載している。当時の大騒ぎ振りが垣間見えるようである。「葛野」は、古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が庶妹豐御食炊屋比賣命(後の推古天皇)を娶って誕生した葛城王の場所に由来すると思われる。葛=渇いた様と解釈した。「葛城」(現地名の田川郡福智町)に類似する表記である。

羽衝=羽のような地が突当っている様と読むと、図に示した菅原神社辺りの場所を示していると思われる。現地名は京都郡苅田町葛川である。「百濟土羅々」は丸く小高い地が一様に連なっている様と読み解ける。「羽」の場所を表しているようである。

この地は天智天皇即位四年二月の記事に「以百濟百姓男女四百餘人、居于近江國神前郡」とあり、田を与えたと記載されていた。後に移転させられたりもするが、百濟人が住まっていた場所である。重ねた表記と推察される。いずれにしても、悉く当て嵌まる地形象形表記は、読み解きながら、実に痛快であった。この地が、書紀の”近江國”である。

夏四月甲寅朔戊午、以淨大肆贈筑紫大宰率河內王、幷賜賻物。庚申、幸吉野宮。丙寅、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。丁亥、天皇至自吉野宮。庚午、贈律師道光賻物。五月癸未朔戊子、饗公卿大夫於內裏。癸巳、以金光明經一百部送置諸國、必取毎年正月上玄讀之、其布施以當國官物充之。

四月五日に筑紫大宰率河內王に淨大肆位を授け、賻物を贈っているが、直前に亡くなられたのであろう。七~十四?日に吉野行幸。十三日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀。十七日に律師道光に賻物を贈っている。孝徳天皇の白雉四年五月に学問僧として唐に渡った記載されていた(僧:僧正、僧都、律師)。

五月六日に公卿大夫と内裏で宴会を催してる。十一日に諸國へ金光明經百部を配っている。また毎年正月の上玄(七、八日)に読経し、布施はその地の官物を当てろ、と命じられている。

六月癸丑朔庚申、河內國更荒郡獻白山鶏。賜更荒郡大領・小領位人一級、幷賜物。以進廣貳賜獲者刑部造韓國、幷賜物。秋七月癸未朔丙戌、遣巡察使於諸國。丁酉、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。

六月八日に「河內國更荒郡」が「白山鶏」を献上し、その郡の大領・小領に各一級を、物も併せて与えている。また捕らえた「刑部造韓國」に進廣貳位を授けている。七月四日、巡察使を諸國に遣わしている。十五日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀したと記している。

<河內國更荒郡・刑部造韓國・白山鶏>
河內國更荒郡

「河内國」で郡の場所を求めるのであるが、些か広く、「更荒」の文字列を紐解くことから始める。

「更」は頻度高く用いられている文字であるが、地名人名ではかなり珍しいケースと思われる。文字要素も簡単でもなさそうだが、調べると「更」=「丙+攴」と分解されている。

「丙」=「二つに岐れて延びる様」を表す。難波長柄豐碕宮に含まれていた。「攴」=「軽く打つ様」の動作を示す文字要素である。

纏めると更=平坦で岐れて延びる様と読み解ける。幾度か登場の荒=艸+亡+水=山稜が水辺で途切れる様と読み解いた。要するに[更]の山稜が水辺に長く延びているところを表していることが解る。

そんな地形を求めると現地名の行橋市下崎で並んでいる山稜の端が見出せる。河内國依網屯倉の北側であり、また近江之平浦の西側に当たる場所である。「河内國」は「近江」に注ぐ川に囲まれた地であり、「平浦」は「近江」に面する地である。上図ではその山稜の端は広々とした水田に囲まれた様子となっているが、現在の標高(10m以下)からして当時は汽水の状態であったと推測される。

白山鶏とは?・・・ところでまたもや珍しい鶏が献上されたようである・・・二つくっ付いて並んだ()稜の端が冠の形をしていることを表しているのではなかろうか。海辺に限りなく接近した地を開拓し、公地として差し出した。

● 刑部造韓國

獲得した人物名が記載されている。二つ並んだ山稜の谷間に四角くなったところをと表現したのであろう。その先()が二つに分かれ()、そこに取り囲まれたような()地形が見出せる。この人物の居場所であろう。谷間の奥からその出口の海辺までを耕地にしたことを述べているようである。

八月壬子朔戊辰、爲皇女飛鳥、度沙門一百四口。九月壬午朔、日有蝕之。乙酉、幸吉野宮。癸卯、以淨廣肆三野王拜筑紫大宰率。冬十月辛亥朔庚午、以進大肆賜獲白蝙蝠者飛騨國荒城郡弟國部弟日、幷賜絁四匹・綿四屯・布十端、其戸課役限身悉免。十一月辛巳朔丙午、赦殊死以下。

十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。戊午、百官拜朝。己未、賜親王以下至郡司等、絁綿布各有差。辛酉、宴公卿大夫。

八月十七日に皇女飛鳥のために沙門百四人を出家させた。九月初め、日蝕あり。四日に吉野行幸。二十二日、三野王が筑紫大宰を拝命している。十月二十日、「白蝙蝠」を捕獲した「飛騨國荒城郡」の「弟國部弟日」に進大肆位を授け、布などを与えている。またその身に限り一家の課役を悉く免除している。十一月二十六日、死罪以下の者を赦したと記している。

十二月二日に藤原宮に遷っている。九日、百官が朝廷で拝礼。十日、親王以下に布などを各々与えている。十二日に公卿大夫と宴会を催したと述べている。

<飛騨國荒城郡>
飛騨國荒城郡

またまた珍しい、今度は「蝙蝠(コウモリ)」だとか・・・先ずは落ち着いて飛騨國の詳細を見てみよう。

頻出の荒=水辺で山稜が途切れている様と読み解いた。山また山の奥飛騨の地でそんな地形があるのであろうか?・・・大河奥畑川が大きく曲がって流れ淵が形成されている場所が見出せる。

現在は高速道路のIC付近で些か判別し辛い様子であるが、地図上明確に識別できる地形と思われる。山稜の末端が寄り集まっているところを流れる川縁の地形である。荒城=平らな台地が途切れている様と読み解ける。飛騨國北部に位置する郡と推定される。

そこに白蝙蝠が棲息していたと言う・・・蝙=虫+扁=延び出た山稜が平らに広がる様蝠=虫+畐=延び出た真っ直ぐな山稜が束ねられたような様と解釈する。「蝙蝠」も文字列は初登場であるが、それらの文字要素は幾度も登場している。白=くっ付いて並ぶ様より、図に示した地を表していることが解る。崖っぷちを耕地にしたのであろう。悲しいかな現在は車が行き交う場所となっているようである。

● 弟國部弟日 またまた捕獲者に褒賞である。「弟國部」に含まれる幾度か登場の弟=弋+弓(糸が巻き付いた様)=山稜の端が段々になっている様と読み解いた。すると荒城郡の西側にその地形が見出せる。山稜を真上から見た象形であるが、「弟日」の「弟」は山稜を横から見た象形と解釈する。

即ち、弟日=一段低くなって延びた山稜が炎ようになっている様と読み解ける。「弟國」の弟分の地が出自の場所と記載しているのである。この段の書紀編者は、なかなかの曲者だった・・・実に巧妙である。国土開発が着々と進んでいたのかもしれない。

九年春正月庚辰朔甲申、以淨廣貳授皇子舍人。丙戌、饗公卿大夫於內裏。甲午、進御薪。乙未、饗百官人等。丙申、射、四日而畢。閏二月己卯朔丙戌、幸吉野宮。癸巳、車駕還宮。三月戊申朔己酉、新羅遣王子金良琳・補命薩飡朴强國等及韓奈麻金周漢・金忠仙等、奏請國政、且進調獻物。己未、幸吉野宮。壬戌、天皇至自吉野。庚午、遣務廣貳文忌寸博勢・進廣參下譯語諸田等於多禰、求蠻所居。

即位九年(西暦695年)正月五日皇子舎人淨廣貳位を授けている。七日に公卿大夫と宴会を催している。十五日に薪を献上。翌日、百官人等と宴会。更に翌日に射会、四日で終了したと記している。閏二月八~十五日、吉野行幸。

三月二日に新羅が王子金良琳等を遣わして、国政を報告し、進調もしたと述べている。十二~五日、吉野行幸。二十三日に「文忌寸博勢」・「下譯語諸田等」(譯語:通訳のことではない)を多禰に派遣し、「蠻」(南蛮人)の居所を求めさせている。

<文忌寸博勢-赤麻呂>
● 文忌寸博勢

倭漢一族の書直智德が改姓に伴って「文忌寸智德」となっていた。さて、この地からも多くの人材が登場しているが、居場所に空きはあるのだろうか?…全くの杞憂であった。

既出の博=四方に平らに広がった様、また、かなりの登場である勢=丸く小高くなった様と読み解いて来た。図に示したように「智德」の西側に小高いところが広がったような地形が見出せる。

これで一件落着ではなく、別名に「博士」があると知られる。頻出の「士」=「蛇行する川」であり、博士=突き出た山稜が四方に広がって平らになっているところと読み解ける。即ち、この人物の居場所は、「勢」が広がった先の川辺であることが解る。

またすぐ後に文忌寸赤麻呂が登場する。出自も不詳のようである。「赤=大+火」の文字が示す地形が山稜の端で見辛くなっているが、百濟家があった小高いところを「火」の頭とすると「智德」の東側と推定できそうである。

倭漢系か西漢系か、と悩むことはなく倭漢系の氏族であろう。「漢・東漢・西漢」と合わせて四つの「漢」が登場するが、通説は殆ど理解できていないようである。またいつの日か「漢一族」を纏めてみようかと思うが・・・。

<下譯語諸田>
● 下譯語諸田

「譯語」とくれば譯語田宮御宇天皇の谷間を外すわけにはいかないであろう。「下」が付いて、若干分り辛いのであるが、その意味も合せて紐解いてみよう。

この文字列でキーとなっているのが「諸」と思われる。通常「諸」=「諸々とした様」で問題なく解読できるのであるが、ここではその解釈では場所の特定に至らない。

故に少々捻った表記と考えることにする。よく見ると「譯語諸」の三文字は全て「言」のが付く文字である。言=刃物で耕地にされた様と読み解いて来た。

文脈に従うと、諸=言+者=耕地が交差する様と読むことができる。この長い谷間に所々谷間が交差する場所があり、それぞれが耕地となっているの伺える。当時と現在での異動は別として、この交差する棚田を表現したものと推察される。

図では省略されているが、現地名の小字上矢山にもう一つの交差する棚田がある。その下流域にあることを表現したのであろう。正に日本の棚田の原風景がこの地、京都郡勝山矢山に存在していると思われる。

夏四月戊寅朔丙戌、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。甲午、以直廣參贈賀茂朝臣蝦夷、幷賜賻物本位勤大壹、以直大肆贈文忌寸赤麻呂、幷賜賻物本位大山中。五月丁未朔己未、饗隼人大隅。丁卯、觀隼人相撲於西槻下。

四月九日、恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀している。十七日に勤大壹位の賀茂朝臣蝦夷(鴨君蝦夷)直廣參位、また大山中位の「文忌寸赤麻呂」(上図参照)に直大肆位を授け、賻物を贈っている。五月十三日に隼人大隅と宴会し、二十一日に隼人相撲を西槻の下(飛鳥寺)で観たと記載している。

六月丁丑朔己卯、遣大夫謁者詣京師及四畿內諸社請雨。壬辰、賞賜諸臣年八十以上及痼疾、各有差。甲午、幸吉野宮。壬寅、至自吉野。秋七月丙午朔戊辰、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。辛未、賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野・務大貳伊吉連博德等物、各有差。

六月三日に大夫謁者を遣わして京及び四畿内の諸社で雨乞いをしている。十六日に諸臣で八十歳以上、あるいは病気のある者に物を与えている。十八~二十六日、吉野行幸。七月二十三日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀している。二十六日、新羅に派遣しようとした「小野朝臣毛野」・伊吉連博德(連姓を賜っている)に物を与えている。

<小野朝臣毛野>
● 小野朝臣毛野

舒明天皇紀以降では「小野臣」の具体的な人物は記載されていなかった。小野臣妹子などよく知られた人物も含めて、その出自の場所を求めてみよう。

「小野臣」は古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御子、天押帶日子命が祖となった中に登場する。現地名では田川郡赤村内田小柳辺りを中心とした場所と推定した。

「妹」=「女+未」と分解される。更に「未」=「木+一」と分解され、「山稜が切り離された様」=「道で横切られた様」と読み解いた。味御路味白檮などで用いられた文字である。

図に示した場所で山稜がくっきりと区切られているところが見出せる。更に「女」が付加されているのは、その道が嫋やかに曲がった形をしていることを表していると思われる。妹子=山稜を嫋やかに曲がって窪んだ横切る道が延びた様と読み解ける。

その子に「毛人」が居たと知られる。毛人=谷間にある鱗のような様と読めば、図に示したところにその場所を見出すことができる。毛野毛人の子、妹子の孫に当たる。谷の出口辺りに、父親よりも一回り大きな「鱗」が見出せる。居場所はその近隣と推定される。この後も外交面で活躍なされたようである。

「毛人」には小野朝臣廣人と言う弟が居たと知られている。廣人=谷間が広がった様を表すと読むと、妹子の西側に当たる場所が出自と推定される。更にその子の小野朝臣牛養牛養=牛の形の谷間が長く延びた様がいたと知られている。父親の北側の谷間である。續紀(元明天皇紀)に登場する。

八月丙子朔己亥、幸吉野。乙巳、至自吉野。九月乙巳朔戊申、原放行獄徒繋。庚戌、小野朝臣毛野等、發向新羅。十月乙亥朔乙酉、幸菟田吉隱。丙戌、至自吉隱。十二月甲戌朔戊寅、幸吉野宮。丙戌、至自吉野。賜淨大肆泊瀬王賻物。

八月二十四~三十日に吉野行幸。九月四日に獄に繋がれた人を放している。六日、小野朝臣毛野等が新羅に向かったと記している。十月十一~二日に菟田の吉隱に行幸されている。十二月五~十三日、吉野行幸。その日、「泊瀬王」(?)に賻物を贈っている。

<菟田吉隱>
菟田吉隱

「菟田」の地にある「吉隱」とは何処を示しているのであろうか?・・・「菟田」を散策すると、天武一行が吉野を脱出した際に通過する隱郡が目に入って来る。その地の驛家に火を付けて、逃亡情報が伝わらないようにした場所であった。

吉=蓋+囗=蓋をするような様すると、「隱郡」の谷間出口を塞ぐような場所、その地を示しているのではなかろうか。吉隱=隠郡の出口に蓋をするようなところと読み解ける。現地名は北九州市小倉南区母原である。

因みに通説では吉隠(吉名張、ヨナバリ)と訓されている。「隱郡」を「名張」とする解釈だから、それはそれとして辻褄があっているが、書紀に記載された名張は無視されているようである。『壬申の乱』は奈良大和・滋賀大津を舞台としていない、のである。

そして凱旋帰京に際には南隣の阿閉に宿泊している(672910日)。それから二十三年余りが過ぎ、今回の行幸もおそらく阿閉泊であったろう・・・即位九年(西暦695年)も静かに暮れて行ったようである。





2020年11月18日水曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (6) 〔469〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (6)


引続き即位六年(西暦692年)七月からの記事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

秋七月甲午朔乙未、大赦天下、但十惡・盜賊不在赦例。賜相模國司布勢朝臣色布智等・御浦郡少領闕姓名與獲赤烏者鹿嶋臣櫲樟、位及祿。服御浦郡二年調役。庚子、宴公卿。壬寅、幸吉野宮。甲辰、遣使者祀廣瀬與龍田。辛酉、車駕還宮。是夜、熒惑與歲星、於一步內乍光乍沒、相近相避四遍。

七月二日に大赦したが、十悪(国家を揺るがす謀反)・盗賊は含めていない。相模國の赤烏(前記の赤鳥、よく見ると烏だったのかもしれない)を捕獲した件での褒賞したと記載している。相模國司布勢朝臣色布智(布勢臣耳麻呂に併記)、御浦郡少領闕姓名、鹿嶋臣櫲樟(「赤鳥鶵」に併記)に位と禄を与え、御浦郡の二年間の調役を赦している。

七日に公卿等と宴会をし、九日に吉野行幸。十一日に恒例の「廣瀬・龍田」を祭祀している。二十八日に吉野から帰還している。この夜、熒惑(火星)と歲星(木星)が接近しては離れるという動きが四回見られた、と言う。

八月癸亥朔乙丑、赦罪。己卯、幸飛鳥皇女田莊、卽日還宮。九月癸巳朔辛丑、遣班田大夫等於四畿內。丙午、神祇官奏上神寶書四卷・鑰九箇・木印一箇。癸丑、伊勢國司獻嘉禾二本。越前國司獻白蛾。戊午、詔曰、獲白蛾於角鹿郡浦上之濱、故増封笥飯神廿戸、通前。

八月三日に恩赦している。罪人が居なくなるほどの回数であろう。十七日に飛鳥皇女の田荘に行幸するが、その日に宮に還っている。この皇女は、天智天皇が阿倍倉梯麻呂大臣の娘、橘娘を娶って誕生したと記載されていた。勿論持統天皇とは異母姉妹となる。

二年後の即位八年八月十七日に「爲皇女飛鳥、度沙門一百四口」と記述されている。特別な存在だったように伺えるが、その理由を憶測してみると、飛鳥皇女の妹の新田部皇女と鸕野皇女(持統天皇)とは隣り合わせの配置であったと推定した。年齢的にも近く、この三姉妹は特に仲が良かったのではなかろうか。

殯に際して柿本人麻呂が残した歌の中に幾度も登場する飛鳥河(近飛鳥近隣、現大坂川と推定)と葛城との間を行き来する三姉妹の姿が浮かんで来るようである。乱世を生き抜いた女性たちだったのであろう。

九月九日に班田大夫(班田収受の管理役人)を四つの畿内に遣わしている。十四日に神祇官が神寶書四卷などを奏上している。二十一日に伊勢國司が「嘉禾二本」を、越前國司が「白蛾」を献上している。二十六日、「白蛾」を「角鹿郡浦上之濱」で捕獲した故に「笥飯神」に二十戸増封せよ、と命じている。

<伊勢國嘉禾二本>
伊勢國嘉禾二本

「嘉禾二本」とは?…良き稲を二本と訳されているようだが、稲は「束」で数える筈、それを「本」と記している。理由があってのこと思うべし、であろう。しかもたったの二本、勿論これは地名と解釈するのが妥当であろう。

「嘉」=「壴+加」と分解される。「壴」の解釈には異説があるようだが、「鼓(ツヅミ)」の原字と見做すと、地形象形的には、「嘉」=「鼓のように丸く取り囲むように積み上がった様」と読み解ける。

嘉禾=鼓のように丸く取り囲むように積み上げられた地から稲穂のようにしなやかに曲がる山稜が延びているところと読み解ける。二本=二つに岐れた(くっ付いた)麓と解釈する。

図に示した、現地名は北九州市小倉北区竪林町にある山稜に囲まれた場所を表していると解る。天武天皇紀に伊勢國からの白茅鴟の献上が記載されていた。勿論目出度い鳥ではない。その場所より更に紫川下流域へと開拓が進んで行ったことを告げていると思われる。

<越前國角鹿郡白蛾>
越前國角鹿郡白蛾

「越前國」の表記は、書紀中に二回のみである。継体天皇紀に一度とここだけの登場となる。勿論古事記には登場しないが、「越=高志」とすれば、「高志前」の表記が、一度だけ、記述されている。

幼い応神天皇が禊祓のために訪れた高志前之角鹿(都奴賀)である。「越國」は越國守阿部引田臣比羅夫で登場している。現地名は北九州市門司区伊川と推定した。

既に登場した周辺の国名、越國・飛騨國を図に併記してみると、古事記が江野財と、ざっくりと表現した地域が、その地形に基づいてきちんと区画されていることが明らかとなったようである。建内宿禰の子、若子宿禰が祖となった地と記載されていた。

「白蛾」は、蝶々のような虫か?…ではなく、勿論地形を表している。頻出の白=くっ付いた様である。「蛾」=「虫+我」と分解される。既出の虫=蟲=小ぶりな山稜が生え出た様と読み解いた。同じく既出の我=ギザギザの刃がある戈の様と読み解いた。「蘇我」に含まれる文字である。要するに「虫」と「我」の山稜がくっ付いているところと読み解ける。

図に示した山稜の谷間を表し、それは浦上之濱に面する場所であることが解る。更に続けて笥飯神に増封したと記載されている。「笥飯」の文字列は垂仁天皇紀に「越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也」と記されたのが最初であり、その後に「笥飯宮」、「笥飯大神」などが出現している。書紀も時代と共にざっくりとした表記が精緻になって行ったように伺える。

冬十月壬戌朔壬申、授山田史御形務廣肆、前爲沙門學問新羅。癸酉、幸吉野宮。庚辰、車駕還宮。十一月辛卯朔戊戌、新羅遣級飡朴億德・金深薩等、進調。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老・務大貳川內忌寸連等祿、各有差。辛丑、饗祿新羅朴憶德於難波館。

十月八日に新羅で学問僧となっていた「山田史御形」に務廣肆を授けている。ここだけでの登場であるが、後の聖武天皇の教育係を仰せつかっていることから記載されたかも、である。十二~九日、吉野行幸。十一月八日に新羅が使者を送って進調。新羅に遣わす予定の「息長眞人老」・川內忌寸連(高向玄理の場所)等に禄を与えている。十一日、新羅の使者と宴会をしたと記している。

<山田史御形>
● 山田史御形

「山田」は幾つかの地にあった地名を思われるが、無冠とされる場所を求めると、仁賢天皇の御子に春日山田皇女(古事記では春日山田郎女)が誕生し、後に安閑天皇の妃となり「山田皇后」と称された記載されている。

どうやら無冠の「山田」は春日の地にあったと思われる。古事記で求めたその地で「山田史御形」(別名が御方、三方とされる)の地形が存在するかを確認することになる。

図に示した通り、既出の史=中+又=真ん中を突き通す山稜御=束ねる様形=四角く区切られた様と解釈すると必要な要件を満たす場所であることが解る。「御方」、「三方」の方=鍬の様を象った文字であり、その通りの形を示している。現地名は田川郡赤村内田山の内である。

「春日山田」の場所が、類似の地形に溢れて一に特定し辛い有様であったが、この人物の登場で、どうやら落着したような感じである。「山田皇后」は、初代の女性天皇にと勧められたが、辞退しなければ、少しは歴史が変わったかもしれない。

<息長眞人老>
● 息長眞人老

舒明(息長足日廣額)天皇以来「息長」からは久々の登場である。 そんな訳で息長の地を探索すると、「老」の地形が容易に見出せる。息長眞手王の子孫が蔓延っていたと思われるが、案外表舞台で見かけることは少ないようである。

あらためてWikipediaの「息長」を・・・、

息長氏は近江国(現在の滋賀県にほぼ該当する)坂田郡(現在の米原市のほとんどと長浜市の一部)を本拠とした古代豪族であるとするのが一般的な見解である。しかし、河内に息長氏末裔が近世まで存在しており、文献などには信頼性が欠ける部分も多いが、看過出来ない部分も有り河内が本拠であるという説も有る。また、播磨・吉備などにも息長を名に持つ関係者が古代資料には残っており播磨・吉備が本拠である可能性もある。息長の名義発祥の由来は、上古から持つ製鉄・鍛冶に関する技術からこの氏が生じたとみられる。『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とするとされている。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。皇室との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公(のち、三国真人)・坂田公(のち、坂田真人)・酒人公(のち、酒人真人)などがある。

・・・この重要氏族について、全く不詳の有様を露わにしている記述であろう。「息長」の理解の程度で”歴史学”の浅底が伺える。ともかくも途絶えながらこの後も表舞台に登場される一族だったと伝えられている。

十二月辛酉朔甲戌、賜音博士續守言・薩弘恪、水田人四町。甲申、遣大夫等、奉新羅調於五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足。

十二月十四日に音博士の續守言・薩弘恪に一人当たり四町の水田を与えている。二十四日、新羅の調を五社(伊勢住吉紀伊(紀伊國々縣神)大倭・「菟名足」)に奉っている。

<菟名足社>
菟名足社

五社の內、四社は既出であるが、「菟名足社」は全くの初登場であり、かつ極めて情報の少なく手掛かりらしきものも殆ど入手不可の状況である。

致し方なく検索すると、大和國添上郡宇奈多理坐高御魂神社と言う神社が、現地名は奈良市法華寺にあることが分った。

「宇奈多理」は別名として「菟名足・菟足・宇奈足」の表記も存在するとのことで、どうやら当該神社の本貫の地は「大和國添上郡」、書紀記述にすると「倭國添上郡」となろう。

「倭國添上郡・添下郡」については欽明天皇紀及び天武天皇紀に登場する。後者の詳細を既に読み解いたこちらを参照。「添上郡」故に彦山川に沿って上流域を探索すると、「菟名足」の地形を難なく見出すことができる。図に示した現地名は田川郡添田町添田で彦山川に畑谷川が合流する地点、その三角州の上に鎮座していたと推定される。

「菟」は菟道に使われた文字であり、頻出の名=山稜の端の三角州足=山稜が[足]のように延びている様の地形要素を満たす地形であることが解る。現在は須佐神社があるが、おそらくその地にあったのであろう。山稜の端で「添下郡」までを見通せる絶好の位置であり、需要な通行の拠点に鎮座していたと思われる。

七年春正月辛卯朔壬辰、以淨廣壹授皇子高市、淨廣貳授皇子長與皇子弓削。是日、詔令天下百姓、服黃色衣、奴皁衣。丁酉、饗公卿大夫等。癸卯、賜京師及畿內有位年八十以上、人衾一領・絁二匹・綿二屯・布四端。乙巳、以正廣參贈百濟王善光、幷賜賻物。丙午、賜京師男女年八十以上・及困乏窮者、布各有差。賜船瀬沙門法鏡、水田三町。是日、漢人等奏蹈歌。

即位七年(西暦693年)正月の記事である。二日に皇子高市に淨廣壹を、皇子長皇子弓削に淨廣貳の位を授けてる。この日、百姓は黄色、奴には皁衣(くりぞめのきぬ)を着用せよ、と命じている。七日に公卿大夫等と宴会。十三日に京及び畿内の八十歳以上の有位の者に綿布などを与えている。十五日に百濟王善光(①-)に正廣參位を授けている。十六日に京の男女八十歳以上の者、困窮者に布を与えている。「船瀬沙門法鏡」(船泊りを各地に造ったと言われる)に水田三町を授けている。この日、漢人等が蹈歌(足を踏み鳴らしながらの歌)を奏でたと記している。

二月庚申朔壬戌、新羅遣沙飡金江南・韓奈麻金陽元等、來赴王喪。己巳、詔造京司衣縫王等、收所掘尸。己丑、以流來新羅人牟自毛禮等卅七人、付賜憶德等。三月庚寅朔、日有蝕之。甲午、賜大學博士勤廣貳上村主百濟、食封卅戸、以優儒道。乙未、幸吉野宮。庚子、賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物。壬寅、天皇至自吉野宮。乙巳、賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老・勤大貳大伴宿禰子君等・及學問僧辨通・神叡等、絁綿布各有差。又賜新羅王賻物。丙午、詔令天下、勸殖桑紵梨栗蕪菁等草木、以助五穀。

二月三日に新羅が使者を遣わして王(神文王?)が亡くなったことを伝えている。十日に造京司の「衣縫王」が掘り出した尸(死体)を収めたと記している。新益京設営の作業中に見つかったのであろうか。三十日、新羅人三十七人が漂着、それを新羅の使者に付け与えている。

三月初め、日蝕あり。五日、儒道に優れた大學博士の上村主百濟(上寸主光父の子)に食封三十戸を与えている。六~十三日、吉野行幸。十一日に葛原朝臣大嶋(中臣連大嶋)に「賻物」(香典の類)を与えている。藤原朝臣史(不比等)系列以外には使えなくなった、それはもう少し後だが、編纂時は既にそうなっていたのであろう。

十六日に新羅への使者とした息長眞人老大伴宿禰子君(大伴宿禰手拍に併記)等及び学問僧等に綿布などを与えている。十七日に「桑・紵・梨・栗・蕪菁等」を植えることを勧めている。

<衣縫王>
● 衣縫王

調べると用明天皇の第五皇子である「殖栗皇子」(古事記では植栗王)の後裔と知られているようである。その地の近隣が出自の場所と思われる。

「衣縫」の文字列は、大藏衣縫造麻呂などに含まれていた。衣縫=衣のような形の山陵(衣)が寄り集まって盛り上がっている(縫)ところと読み解いた。崖の側面の山稜の模様を表した表記と思われる。

その麓が衣縫王の出自の場所と推定される。それにしても大勢の「王」達の出自の場所を求めるのは厄介である。もう少し情報を・・・多過ぎて原資料にも記載がなかったのであろうか。

ご本人はこの後にそれなりに活躍なされたようで、越智山陵(斉明天皇陵であろう)の修復などを担当されている。どうやら土木建築に才があったようである。最終冠位は従四位下とのこと。

夏四月庚申朔丙子、遣大夫謁者詣諸社祈雨、又遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。辛巳、詔「內藏寮允大伴男人坐贓、降位二階、解見任官。典鑰置始多久與菟野大伴亦坐贓、降位一階、解見任官。監物巨勢邑治、雖物不入於己知情令盜之、故降位二階、解見任官。然、置始多久、有勤勞於壬申年役之、故赦之、但贓者依律徵納。」

四月十七日、大夫謁者を派遣して諸社に詣でて雨乞いを、また恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀している。二十二日に內藏寮允(宝器の管理をする第三等官)の大伴男人(大伴連馬來田の子)が「贓」(不正な手段で金品を入手)をし、よって二階降位し、見任官を解任する。

また典鑰(諸司の倉の鍵を管理)の置始多久(置始連大伯)菟野大伴(菟野馬飼造に併記)も「贓」を行った故に降位一階し解任する。監物(諸司の倉の出し入れを管理)の「巨勢邑治」は自らは行っていないが、盗ませている。よって降位二階し解任する。但し、「置始多久」は壬申の役で功労によって赦す、と命じられている。

<巨勢邑治(祖父)・子祖父>
● 巨勢邑治

罪人には「(朝)臣」姓を付けないと言う徹底ぶりなのだが、この人物はこの後も勤務に励んで正三位(中納言)になっているとのことである。

祖父が大臣巨勢臣德太、父親が黑麻呂の由緒ある家柄であろう。調べてみて実に興味深い結果となった。大勢の巨勢一族なのだが、この谷間で目を引く秋葉神社がある山、正に「巨勢」の「勢」を表す地形であるが、この地に関連する人物は登場していなかった。

名前は一見、関係なさそうに見えるが、「邑」=「囗+巴(卩)」と分解すると、巴(卩)」=「人がうずくまっている様」を象った文字である。地形象形とすると、邑=大地が丸く区切られている様と読み解ける。

治=氵+台=水辺で耜のようになっている様と読むと、「勢」の麓が延び出た地形が見出せる。別名に祖父があったと伝えられている。「祖」=「示+且」と分解され、「積み重なった高台」と読み解ける。「父」=「交差する様」であり、「勢」の西麓で延び出た山稜が交差するように集まる地形が見出せる。彼の居場所は、その交点付近であったと推定される。

續紀の文武天皇紀には弟の巨勢朝臣子祖父が登場する。「祖父」が居た場所から更に先に延びた場所を示していると思われる。父親の黑麻呂については、古事記に幾度か登場する黑=囗+米+灬(炎)=炎のように延びた山稜の端に田がある様と読み解いた。出自の場所は、図に示した場所と思われる。

麓がこの区域の地形的な厳しさが開拓を遅らせていたものと推測される。前記した下流域への進展と合わせ「巨勢」の開拓の歴史を垣間見ることができたように思われる。

五月己丑朔、幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮。癸卯、設無遮大會於內裏。六月己未朔、詔高麗沙門福嘉還俗。壬戌、以直廣肆授引田朝臣廣目・守君苅田・巨勢朝臣麻呂・葛原朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・丹比眞人池守・紀朝臣麻呂、七人。秋七月戊子朔甲午、幸吉野宮。己亥、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。辛丑、遣大夫謁者詣諸社祈雨。癸卯、遣大夫謁者詣諸社請雨。是日、天皇至自吉野。

五月初め~七日、吉野行幸。十五日に内裏で無遮大會を催している。六月初め、高麗沙門を還俗させている。四日に以下の者に直廣肆位を授けている。「引田朝臣廣目・守君苅田巨勢朝臣麻呂(弟の巨勢朝臣多益須に併記)葛原朝臣臣麻呂(中臣朝臣々麻呂)巨勢朝臣多益須(馬飼に併記)丹比眞人池守紀朝臣麻呂(父親の紀大人臣に併記)

七月七~十六日、吉野行幸。十二日に恒例の「廣瀬大忌神・龍田風神」を祭祀させている。十四日及び十六日に大夫謁者を遣わして諸社で雨乞いをさせたと記載している。

<引田朝臣少麻呂-廣目・阿倍朝臣安麻呂-船守>
● 引田朝臣廣目・引田朝臣少麻呂

超が付くほど有名な阿倍引田臣比羅夫の子達の登場である。どうやらそもそもは阿倍一族なのだが、「阿倍」を名乗らず「引田」と称していたのであろう。

「比羅夫」の谷間を遡ると、谷間が広がっている場所が見出せる。廣目=谷間を広げた様、その通りの地形であろう。こちらが弟で、兄は「少麻呂」と記載されている。

少=山稜の端の三角形を削ったような様と紐解いた。少名毘古那神などに用いられた文字である。その地が「麻呂」な地形であるところを探すと隣接した場所であることが解る。續紀の文武天皇・元明天皇紀になってもう二人の弟、阿倍朝臣安麻呂阿倍朝臣船守が登場する。

「安麻呂」は頻出の安=山稜に挟まれて嫋やかに曲がる様とすると、現在の七ツ石峠からの谷間を示していると思われる。「船守」の船=船のような様であるが、水辺に突き出た山稜を表し、守=肘を張ったような山稜に挟まれた様であり、図に示した場所と推定される。但し、山稜の端が延びた地形であるが、現在は貯水池に沈んでしまったようである。

現在は広大な墓地となっていて若干変形が見られるが、基本的な地形は保たれているように伺える。現在にも繋がる阿倍一族の本貫の地、そこは巨大霊園となっているようである。

八月戊午朔、幸藤原宮地。甲戌、幸吉野宮。戊寅、車駕還宮。九月丁亥朔、日有蝕之。辛卯、幸多武嶺。壬辰、車駕還宮。丙申、爲淸御原天皇、設無遮大會於內裏。繋囚悉原遣。壬寅、以直廣參贈蚊屋忌寸木間、幷賜賻物、以褒壬申年之役功。

八月初めに藤原宮の地に行幸し、十七~二十一日まで吉野行幸している。九月初めに日蝕があったようである。五日~六日に「多武嶺」に行幸している。斉明天皇紀に田身(大務)嶺と記載された場所であろう。多武=山稜の端の三角州が戈(矛)のような様と解釈される。「矛」は「務」の含まれる文字要素である。

YAMAPの登山地図によると麓の道の駅からおよそ45min程度で辿り着くが、車駕でゆっくり進めば山頂(小富士山)の行宮(寺?)で一泊の旅となろう。京が一望できる見晴らしの良い場所である。

九月十日に天武天皇を偲んで内裏で無遮大會を催し、囚人を悉く赦している。「蚊屋忌寸木間」に直廣參位を壬申の役の功によって授けている。

<蚊屋忌寸木間>
● 蚊屋忌寸木間

『壬申の乱』における東漢一族の活躍は素晴らしいかったのであろう。実記された部分は正に氷山の一角、一方で戦死者は極僅かしか記述されないが、前線で戦ったのは、やはり東漢のような立場の人々のように推測される。

この人物も東漢一族だったと知られ、更に、その一族の中でも「民忌寸(直)」等の系列に属する一族だったようである。

『壬申の乱』において、近江大津宮から脱出した高市皇子に随行した民直(忌寸)大火の名前が記載されている。その近隣を居処としていたのではなかろうか。現地名は田川郡福智町金田、同郡糸田町との端境である。

全て既出の文字列である。蚊=虫+文=延びた山稜が交差するような様屋=尸+至=尾根が延び至った様間=門+日(月)=門のような山稜の間に三日月のような山稜がある様と読み解いた。図に示した場所にその地形を見出せる。

冬十月丁巳朔戊午、詔「自今年、始於親王下至進位、觀所儲兵。淨冠至直冠、人甲一領・大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚・鞍馬。勤冠至進冠、人大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚。如此、預備。」己卯、始講仁王經於百國、四日而畢。

十月二日に、今年から親王以下、その兵器を視察しようと思うので、淨~直冠までと勤~進冠までに別けて備えるようにと命じている。十月二十三日から四日間、国々(百國←諸國)で仁王経を講じさせている。

十一月丙戌朔庚寅、幸吉野宮。壬辰、賜耽羅王子・佐平等、各有差。乙未、車駕還宮。己亥、遣沙門法員・善往・眞義等、試飲服近江國益須郡醴泉。戊申、以直大肆授直廣肆引田朝臣少麻呂、仍賜食封五十戸。十二月丙辰朔丙子、遣陣法博士等、教習諸國。

十一月五~十日にかけて吉野行幸。七日に耽羅王子等に物を与えている。十四日に沙門を遣わして「近江國益須郡」の「醴泉」(甘い水、軟水か?)を試し飲みさせている。二十三日に引田朝臣少麻呂(弟の引田朝臣廣目に併記)に直大肆位を授け、食封五十戸を与えている。十二月二十一日、陣法博士等を遣わして、諸國で教習させている。

<近江國益須郡>
近江國益須郡

さて、なかなかその範囲が定まらない「近江國」なのであるが、今回で決めたく・・・取り敢えず、郡の名前を紐解いてみよう。

「益」は前出の新益京で用いられていた。「谷間に挟まれた一様に平らな様」と読み解いた。「須=州」と合わせると、益須=谷間に挟まれた平らな地の傍らに州があるところとなる。これで一目瞭然の地形が見出せる。

蘇我田口臣の出自の場所である。含まれる「口」が「縊れ」の状態を示すところとなろう。ある意味「益」をうまく使った表記と言える。

通説は「益須(ヤス)」と読んで現在の滋賀県野洲市に当てているようであるが、ちょいと無理筋の読み方であろう。訓が注記されないことから、様々な解釈が横行するようである。おっと、この比定には異説がない(?)ようで・・・折角の見事な地形象形表現が台無しである。

ところで醴泉」も甘酒のような解釈もあって、わざわざ学識のあろう筈の沙門に試飲させるものか、疑わしい。と言うことは、これもその泉の場所を表す表現であろう。

醴泉

「醴」=「酉+豊」と分解する。「酉」は、古事記では「山麓の峠に向かう坂」と解釈したが、書紀ではそのまま「酉」=「酒樽」の象形とする。地形象形的には酉=幾本かの山稜が縦に並んでいる様と読み解いた。豊=高台の上に揃って並ぶ様である。図に示した場所の山稜が並ぶ姿を表していることが解る。後にこの「醴泉」の効能が素晴らしかったと記載されている(詳細はそちらで)。

泉は、現在の池とは異なり、麓で湧水があった場所であろう。現在風に言えば、苅田アルプスの天然水、であろうか。古事記の近淡海之安國造之祖意富多牟和氣、その比賣を倭建命娶ったと記載されて以来、早くから開拓された土地であったと思われる。

――――✯――――✯――――✯――――

即位七年(西暦693年)も漸く暮れたようである。更に続く・・・。