2020年6月28日日曜日

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅷ) 〔428〕

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅷ)


ついに粛愼國を討伐することに成功したと記されていた。「粛愼國」=「熊曾國」と読み解いた。古事記の伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みにも登場する”由緒”ある国である。ではあるが、皇統に絡むことはなく、倭建命の謀略で熊曾建を殺害したと伝えるが、決してなびくことのない国として位置付けられている。帶中津日子命(仲哀天皇)が筑紫に居を構えて討伐を企てたのだが、成就できなかった。

その記述は息長帶毘賣命(神功皇后)の三韓遠征と密接に関連付けられていて、支配下に置けなかった地を征伐するのか、それとも融和策を用いるのかの選択であったと推測される。結果的には後者が選ばれ、三韓との交流が一気に活発になって行く。これらの一連の記述は、「熊曾國」が三韓、とりわけ新羅との関係が深いことを物語っているのである。

唐の圧迫による朝鮮半島内の騒乱は、この積年の課題を片付ける必要性をあらためて浮かび上がらせたものと思われる。唐との関係を深めて来た自負があるが故に新羅の日本列島への進出さえ食い止めることができれば、均衡を保てると判断したのであろう。

時は即位六年暮れから、翌七年(西暦661年)である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

十二月丁卯朔庚寅、天皇幸于難波宮。天皇、方隨福信所乞之意、思幸筑紫、將遣救軍。而初幸斯、備諸軍器。是歲、欲爲百濟將伐新羅、乃勅駿河國造船。已訖、挽至績麻郊之時、其船夜中無故艫舳相反。衆知終敗。科野國言「蠅群向西、飛踰巨坂。大十圍許、高至蒼天。」或知救軍敗績之怪。有童謠曰、

摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美
烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝

年も押し迫った日に天皇は難波宮に行かれた。そこから更に筑紫に行き、「鬼室福信」救助のための軍備を整えようとされたと記載されている。百濟のために新羅を討とうとして、「駿河國」で船を造り、「績麻郊」まで船を曳航した時に艫舳が逆になったと言う。隻数不明で、新羅を討とうとするくらいだから、かなりの隻数で、その内の一隻かもしれない。「科野國」が蠅が西に向かって巨坂を越えて行った噂したと伝えている。

救援軍の船であるとか、敗軍の予兆だとか、後付け風の記述が続くようである。海辺の国で造船するのは理解できるのだが、海のない国、「科野國」の登場は何と解釈するのであろうか。

末尾の童謡は如何ともし難いようで、不詳のようである。これもいつの日か読めるかもしれない。
 
駿河國・績麻郊・巨坂

出現した地名などを読み解いてみよう・・・いや、既にしっかり比定されて揺るぎない有様か?・・・おそらく通説とは全く異なる地を示すことになりそうである。「駿河」は、書紀の日本武尊の遠征時に登場している。古事記では倭建命の東方十二道遠征で、前後の記述から「駿河國」ではなく「相武國」の地名となっている。
 
<駿河國・績麻郊・巨坂>
これだけで場所は、現地名の北九州市小倉南区沼辺りとなるのであるが、古事記には、もう一つ重要なキーワード「走水海」がある。

この海であわや遭難しかけたところを妻の弟橘比賣が身代わりとなって命を助ける説話が挿入されている。

対応する書紀は同じような設定ではあるが、暴風による「馳水」と記している。「暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也」

実に巧みに誤魔化した書紀、「水が走ったのは風のせい」、とした。古事記は「走水の傍らの海」である。「駿河(走水)の傍らの海」であり、「駿河國に面した海」となる。

即ち「滝のように流れる川がある国」を示していることになる。書紀は、それでは都合が悪いから、「暴風」を持ち出したのである。ただ彼らは「駿河」の名称を残した。要するに曖昧にすることによって、地形象形表記の”矜持”を保った、のであろう。

因みに「駿河」は、川に着目した表記であり、「相武」(離れて並ぶ山稜が矛の形をしているところ)はその奥の谷間の地形を表したと解釈される。言うまでもないが、古事記、書紀の編者等は自在に地形を漢字で表すことに長けていたことである。

「績麻郊」は、「オミノ」と読むそうなんだが、一文字一文字が表す地形のを総合したものであろう。「績」=「糸+責」と分解される。すると「山稜(糸)が積み重なった(責)ような様」と読み解ける。「責」は更に分解した解釈もあるが、ここでは「積」の一般的な表現を用いる。「麻」=「擦り潰された様」である。「郊」=「交+邑」と分解される。「交差するように集まった様」と読み解ける。

纏めると績麻郊=積み重ねられて擦り潰されたような山稜が交差するように寄り集まったところと読み解ける。「績麻郊」までの経路を示した。現地名では北九州市小倉南区葛原、湯川との境に当たる。

「其船夜中無故艫舳相反」と記載されている。「無故」と余計な文字が付加されているのは、「故」は分るだろう!…を示しているのであって、転覆などと訳しては勿体ないのである。「艫舳が反転」したのは、おそらく渦が巻いていたのであろう。この地も急流が流れ込む入江であり、西側は「巨坂」が延びた山稜の端で塞がれた地形を示している。

そして「科野國」と「豐國」との端境に近い場所であることも判る。その境を「巨坂」と呼んでいたのであろう。「科野國」が蠅の大群が西に向かって天高く舞い上がるのを見た場所である。「大きな坂」と読んで、「国境の長い峠道」と訳しては、全くの誤りである。「巨」、「坂」それぞれの示す意味が伝わっていない。

何度も登場する「坂」=「土+反(厂+又(手))」と分解すると、「崖の麓で山稜が延びている様」である。崖の麓(厂)で大きく広がった(巨)山稜が延びた(又)ところと読み解ける。この坂を東西に真っ二つに分けるのが、現在の北九州市小倉南区葛原と湯川の境界線である。

書紀では「科野國」はここだけの出現である。「蝦夷」に関連して「磐舟柵」を造らせた「信濃之民」が登場する。「磐舟」の近隣に地のイメージを醸し出している記述であった。「信濃」(谷間に耕地がある舌を出した二枚貝のようなところ)であり「科野」(段差がある野原)である。野原は耕作されていない土地の意味である。

これらは全く異なる地の様子を表わす表現である。書紀編者は重々承知の上での文字使いである。それが全く読むことができず、「記紀」も中国史書東夷伝も、谷間に奥で眠ったままという、悲しい現実である。

七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。甲辰、御船到于大伯海。時、大田姬皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女。庚戌、御船泊于伊豫熟田津石湯行宮。熟田津、此云儞枳拕豆。三月丙申朔庚申、御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮。天皇、改此名曰長津。夏四月、百濟福信遣使上表、乞迎其王子糺解。釋道顯日本世記曰、百濟福信獻書、祈其君糺解於東朝。或本云、四月天皇遷居于朝倉宮。

即位七年(西暦661年)正月十四日に「伊豫熟田津石湯行宮」で停船したと伝える。そして三月二十五日に「御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮」と記されている。四月になって「百濟福信」が王子の「糺解」を返して欲しいと使者を寄越したと書かれている。(或本云)ではこの月に天皇は朝倉宮に移っていたと言う。

「狂心」の斉明天皇は、高齢にも拘わらず、何と筑紫まで、その先の朝倉まで出向かれたと信じられている物語である。何せ「伊豫」は登場するし、「娜大津」(博多湾)、挙句に「朝倉」だから間違いようがない、のである。下段で五月に「朝倉橘廣庭宮」へと移られたと記されているので最終到着地を含めて読み解いてみよう。
 
大伯海・伊豫熟田津石湯行宮

さて、この大航海の出発港が明記されていないと言う不思議な航海なのである。昨年の暮れには難波宮に出向いていたことが記されているので、「御船西征始就于海路」の港は、てっきり難波津のように読んでしまうが、ここには「難波津」の文字は見られない。記載しているのは、「海路に始めて就く」である。怪しげな表現がこれから幾つか登場するようである。

と言うことで、どこかの港から「大伯海」に向かったとして読み解くことにする。「大伯海」は既出の文字から成り、更に西に進めば、「伊豫温湯」の場所に届く。そこを「熟田津」と表現している。
 
<大伯海・伊豫熟田津・石湯行宮>
これには「儞枳拕豆(ニキタツ)」の訓が付加されている。「儞」=「人+爾」と分解され、「谷間の近くにある様」と読める。

枳」=「木+只」と分解され、「奥の広がった谷の麓から山稜が広がり出た様」と読める。頻出の「兄」に類似する地形象形である。

拕」=「手+它」と分解され、「崖のように山稜が延びる様」と読める。「豆」=「高台」である。「陀」から「阝(段差)」の表現を除いた表記である。

纏めると儞枳拕豆=谷間の近くにあって()崖のように延びる山稜()が奥の広がった谷の麓から広がり出た()高台(豆)と読み解ける。この地の地形を余すことなく盛り込んだ表現であることが解る。「枳」、「拕」の文字から大きな谷間の崖が背後に迫った港であることを示している。

熟田津と併せて詳細な地形象形表記となっていることが解る。従来より比定されている各所は、この地形要件を満たす必要があることを忘れてはならないであろう。あらためて「大伯海」の意味を読み解いてみよう。

下図に示すように、洞海湾の現在は埋め立てられて当時の地形そのものではないと思われるが、水路は二つに岐れている。その分岐する場所(三角州)は、当時でも島状となっていたと推測される。すると大伯=平らな山稜の傍で谷間がくっ付く様と読み解ける。古事記は勿論、書紀もしっかりと地形象形している、と言うか、当時は当たり前のことだったのであろう。さて、本論に戻って・・・。
 
<大伯海・伊豫熟田津・石湯行宮・娜大津・磐瀬行宮・朝倉橘廣庭宮>

そして十日ばかり後に「御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮」と記載されている。怪しげな表現の二つ目である。「御船還至于娜大津」は、従来より「御船は”元の経路に戻って”那大津に至る」のような解釈がなされている。無数に記載される「還」の文字をこれで解釈すると、行宮を往来される天皇は、いつまで経ってもお帰りにならないことになる。

加えて航海日数が不明の記述を行っている。”自由に解釈しろ!”、と言っているのである。正に怪しげな表現である。「還」はその文字が示す通りに”戻る”ことになる。上図に示したところに「娜大津」があったと推定する。既に紐解いた図を再掲する。
 
<筑紫大津之浦・娜大津・磐瀬行宮>

娜大津・磐瀬行宮

「娜大津」は前記で引用された古事記の勝門比賣の場所と推定される。現地名は北九州市小倉北区赤坂である。

これで「娜」の文字が使われている意味を読み解けることになる。単に「那」(なだらか)ではなく、「女」が付加されているのである。

「娜」=「嫋やかになだらかに」を示しつつ、「女」(比賣)の地形を表現していると解釈される。そして女性天皇としては、それを避けるために「長津」と”平凡な”名称に変えられたと告げているのである。

古事記も、書紀も編者達の記述は、真偽は別として、極めて論理的である。彼等は命懸けで職務を果たしていたのである。緊張感の無い後代の歴史家、現在も全く変わらないようであるが、とは雲泥の差があろう。通説は朝倉市周辺と奈良大和の地名が偶然とは思えないほど類似する、と宣う寝惚けた大家がおられるようだが、緊張感は皆無である。
 
朝倉橘廣庭宮

異説があるくらいだから、この行宮での滞在日数は不明であるが、「朝倉橘廣庭宮」を造って移られたと伝える。いよいよ天皇の終の棲家となる宮に到達である。書紀本文でもあるように「朝倉宮」と略される。勿論「朝倉」も重要なのであるが、注目は「橘」の一文字である。古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀で長々と記述された橘(登岐士玖能迦玖能木實)である。
 
<朝倉橘廣庭宮>
「朝倉」は、例えば古事記の大長谷若建命(雄略天皇)が坐した長谷朝倉宮で用いられた表記である。

「朝倉」=「朝が暗いところ」である。そして「橘」=「幾つもの谷(川)が寄り集まったところ」と読み解いた。

「廣」=「四方に広がるところ」であり、「庭」=「山麓の平らなところ」である。

そのまま纏めれば、朝倉橘廣庭宮=朝が暗く幾つもの谷(川)が寄り集まる四方に広がった山麓の平らなところの宮と読み解ける。

現在の行政区分では北九州市小倉北区大畠・足立・寿山辺りと推定される。小文字山の西麓、多くの谷間が麓で寄り集まって平らになった台地が海に突出ている場所である。古事記では帶中津日子命(仲哀天皇)に神功皇后がお腹に品陀和氣命(後の応神天皇)を抱えて彷徨われた「裳」の場所と推定した地である。

上図<大伯海・伊豫熟田津・石湯行宮・娜大津・磐瀬行宮・朝倉橘廣庭宮>に示した位置関係であり、磐瀬行宮とは直線距離でおよそ2.2kmである。中大兄皇太子が行ったり来たりするのに何ら支障のない距離と思われる。

この行幸の目的は何であったのか?…奈良大和からすると、ざっと500km(往復だと1,000kmを遥かに超える)、本著では伊勢・海経由で約50km)を越える長旅であるのだが…最後の段が終了したところで述べることにする。

五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時、斮除朝倉社木而作此宮之故、神忿壤殿、亦見宮中鬼火。由是、大舍人及諸近侍病死者衆。丁巳、耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。(伊吉連博德書云「辛酉年正月廿五日還到越州、四月一日從越州上路東歸、七日行到檉岸山明。以八日鶏鳴之時順西南風、放船大海。海中迷途、漂蕩辛苦。九日八夜僅到耽羅之嶋、便卽招慰嶋人王子阿波伎等九人同載客船、擬獻帝朝。五月廿三日奉進朝倉之朝、耽羅入朝始於此時。又、爲智興傔人東漢草直足嶋所讒、使人等不蒙寵命。使人等怨徹于上天之神、震死足嶋。時人稱曰、大倭天報之近。」)

五月九日に天皇は朝倉橘廣庭宮に移ったと記している。この宮を造るのに「朝倉社」(現在の妙見神社であろう)の木を使って、顰蹙をかったと記載されている。神の祟りかと思わせる不祥事が続いたとのことである。それでも勝手に使えるような状況、即ちその地は既に天皇の支配下にあったことを、何気なく、述べているのであろう。「朝倉」の比定要件の一つである。

伊吉連博德書』からの引用である。前年の九月半ばに西安で解放されて漸く四月八日に出航したのだが、迷走してしまって九日八夜掛かって(現在の済州島)に辿り着いたと記載されている。王子「阿波伎」等を同船して五月二十三日に朝倉宮に招き入れたようである。讒言した人物の名前が「東漢草直足嶋」となっていて、前記(西漢大麻呂説)で異説あり、と注記されていたのは、これが根拠であろう。

王子「阿波伎」も「台地の端の谷間で岐れたところ」と読めて、ほぼ推定される場所(現在の韓国済州島)が見出せるが、割愛する。

六月、伊勢王薨。秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。八月甲子朔、皇太子奉徙天皇喪、還至磐瀬宮。是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨視喪儀、衆皆嗟怪。冬十月癸亥朔己巳、天皇之喪歸就于海。於是、皇太子泊於一所哀慕天皇、乃口號曰、

枳瀰我梅能 姑裒之枳舸羅儞 婆底々威底 舸矩野姑悲武謀 枳瀰我梅弘報梨

乙酉、天皇之喪還泊于難波。

十一月壬辰朔戊戌、以天皇喪殯于飛鳥川原、自此發哀至于九日。(日本世記云「十一月、福信所獲唐人續守言等至于筑紫。」或本云「辛酉年、百濟佐平福信所獻唐俘一百六口、居于近江國墾田。」庚申年既云福信獻唐俘、故今存注、其決焉。)

伊勢王は、古事記で記述される沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の御子、寶王(別名糠代比賣王)の場所と推定した。その後の出番もなく、前記と同様とする。それが唐突に記載されるのは、皇祖に関係した上に「伊勢」(神)絡みであることを暗示しているようでもある。

続けて七月二十四日に、天皇が朝倉橘廣庭宮で崩御されたと伝えている。年齢的も当時としては長寿に域であり、寿命が尽きて逝かれたと思われる。出先での出来事であり、皇太子は難波津に亡骸を帰還させることになる。八月一日に喪を行って磐瀬宮に帰って来たと記載している。朝倉山に大笠を着た鬼が現れたとかのことがあって、十月七日に「天皇之喪歸就于海」、そして、とあるところで泊り、詠われた歌が載せられている。

例によって参考資料を引用して・・・、

君が目の 恋しきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り
(あなたの目が恋しいから、ここに泊まっているのです。これほどに恋しいのは、あなたの目が欲しい(あなたに見つめて欲しい)からなのです。)

十月二十三日に難波に帰って来たと記している。皇太子の動きに注目すると、「朝倉橘廣庭宮」から「岩瀬行宮」、そこから船に乗って、直行で「難波津」までの経路であって、所要日数も行きの途中下船分を除けば、ほぼそのような感じと思わせる記述である。

がしかし、「天皇之喪歸就于海」の一文に怪しさが滲んでいるのである。「磐瀬行宮」に行ったと記述してはいるが、「娜大津」は登場しない。出発時は御船西征始就于海路」であって、「難波宮」に行ったと記述しているが、「難波津」は登場しない。と言うことは、やはり「海」は「筑紫海」と思われる。

「天皇之喪歸就于海」=「天皇の喪は海より帰りに就く」と訳す。上図<朝倉橘廣庭宮>に記載した通り、「朝倉橘廣庭宮」の直ぐ北側が「海」である。中大兄皇太子は天皇の亡骸を抱えて「岩瀬行宮」まで運んだわけではなく、「海」から「難波」まで同道したのである。

わざとらしく、途中で泊まって歌まで読ませている。この歌が何とも、ある意味ふざけた内容であろう。わざわざ泊まって読むほどの内容ではない。それは「難波」への帰還の記述が”わざとらしい”ことを暗示している。勿論、読み手にそう読ませるように仕向けた記述であることには変わりはない。

十一月には「天皇喪殯于飛鳥川原」と記載されている。前出の川原寺と思われる。(或本云)で記載されている「近江國墾田」は、古事記の豐御食炊屋比賣命(推古天皇)が坐した 小墾田宮(古事記の小治田宮)の東隣、現在の旭ヶ丘ニュータウン辺りかと思われる。

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さて、最後に斉明天皇の大航海を今一度眺めてみよう。高齢にも拘らず決行した動機、目的は何と考えれば良いのであろうか?…博多湾岸ではなく、少し奥まった有明海に面する山裾で唐・新羅との戦いに備えた、と言われているようなのだが・・・はたまた、「狂心」の天皇の行動は理解し難い、と切り捨てているかのようでもある。
 
<唐・新羅の侵攻予想行程>

図に本天皇紀に登場する地点をプロットし、西方からの想定侵入ルートを示した。葛城嶺から唐人らしき者が顔を覗けた話は、最も南側の遠賀川を遡るルートを表している。これに対しては地形そのもので防御されており、宮の西側の谷に「渠」を造って補強するすることで対処できると考えたのであろう。

「伊豫之二名嶋」(現在の北九州市若松区)は当時は南側を川(現在名江川)で区切られていて、響灘と洞海湾(かつては洞海)を通る二つのルートに分かれる。その後関門海峡入口で合流することになる。そして上陸地点は、彼らの橋頭保である「肅愼國・蝦夷國」であろう。

「伊豫」で分かれた南側のルート上にあるのが「伊豫熟田津」である。しかもそれは江川を抜けた出口であり、相手方の動向を知るには都合良く、威嚇するには最適の場所である。更に戦闘状態に入った時に洞海湾側からの攻撃は極めて有効と思われる。即ちこの津は戦略拠点として最重要であったことが伺える。長い航海の途中、温泉に入って骨休め、では決してなかろう。

北側の響灘直行ルートを抑えるには、関門海峡入口付近、これが「娜大津」に当たる。ここが海路上最終の防御地点である。相手方も関門海峡を突破する一隊と「筑紫」上陸を決行する一隊に分かれることも想定される。「筑紫海裏」(績麻郊)はそれに対応する戦略拠点であったと思われる。そして難波津上陸を許した場合の防御が宮の東側の山麓に積み上げられた「石垣」であった。

重祚された斉明天皇の目的は、何はともあれ「国防強化」であった。唐が国家として強大化すれば、少なからず日本にその影響が及んで来ることは必然であったろう。豪族の寄り合い所帯の国ではとても対応できる状態ではない。「公地公民」制を施行し、国としての力を集中できるならば、何とか西方からの脅威に立ち向かうことが可能と判断したと推測される。

その可能な限りの諸策を打ち終わって、西方の遥かな海の向こうを眺める地で、さぁ、来るなら来い、と朝倉橘廣庭宮で安堵の気持ちを、些かの不安を抱きつつ逝かれたのではなかろうか。書紀編者が苦労して舞台の中心を奈良大和と思わせる記述を行った。それを還元すれば、彼らの深謀遠慮が一気に海面上に浮かび上がって来たように思われる。西方騒乱、なのに東北・北海道へせっせと赴く、何と暢気な天皇…ではなく、暢気なのは読み手であった。

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皇祖母尊(斉明天皇)紀はこれでお終いである。従来より本紀には不明な記述が多く、諸説が多いようである。ご高齢な天皇の数百キロに及ぶ長旅はあり得ないとして、「九州王朝盗用」説まで飛び出す始末である。通説に従って、難波から朝倉宮までの行程を詳細に論じられた論考がある。清原倫子、「斉明天皇の筑紫西下の意義と行程に関する一考察 : 熟田津の船出を中心に」、交通史研究,80)、ご興味のある方はこちらを参照。

論文にするには各地の配置を通説に従わざるを得ないと思われるが、瀬戸内海の航海ルートは興味深い考察と思われる。流について「一島、門、戸」と記載されている。知られていることではあるが、これをお書きになったら、瀬戸内海を唐・新羅が侵攻して来ることはあり得ないとお気付きになられた筈である。

”不動”の奈良大和に国の中心を置くならば、国防視察は山陰(出雲)~北陸(越)への旅路となったであろう(白紙撤回となったイージス・アショアの配置)。本紀に登場する「肅愼國」の解釈は、樺太まで候補に挙げられる。空間認識が全く欠如した現在の古代史学上に論考を重ねても無意味である。

天皇家が九州東北部から奈良大和へ逃げたのは、その日本三大潮流の先なのである。そして益々西方の脅威が高まる時期に即位した次の天智天皇の「近江大津宮」を国防上手薄な「越」に近付けることなど以ての外だった筈である。「蝦夷」、「肅愼」も含め、書紀編者が悪戦苦闘した本紀だと思われる。それが報われての千三百年間とも言えるが、悲しい現実である。








2020年6月25日木曜日

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅶ) 〔427〕

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅶ)

 
「蝦夷國」の全貌が語られた。現在の東方地方の地名がズラリ、では似たような名称であり、全く見出せない地名もあったり、被っていたり、所詮遠い昔の記述であり、細かいところは目を瞑るのが当たり前、のような感じであろう。以前にも述べたが、書紀編者は古事記よりもう少し洗練された文字使いを行っているようである。それによって、使用する文字種が一気に増えた感があるが・・・。

各地の「蝦夷」を招いて「須彌山」を造り、大宴会である。それは彼等の懐柔策の一つに先進の仏教文化を用いていたことを告げている。書紀編者は、奈良大和に「九山八海」を作り出すことが不可能なことを承知しており、故に詳細な説明を省略したのであろう。蝦夷懐柔に須彌山を用いたことは極めて重要な戦略だった筈である。

非敵対的(実際は異なるかもしれないが)な「蝦夷」とは違って、敵対的な反抗を取る輩が存在する。前記で登場の「粛愼國」であり、古事記の「熊曾國」と結論付けた。いよいよその国の征伐の時が訪れる。新羅の倭國に於ける橋頭保、それを手中に収めることができたようである。

時は即位五年~六年(西暦660年)正月である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

命出雲國造闕名修嚴神之宮。狐嚙斷於友郡役丁所執葛末而去、又狗嚙置死人手臂於言屋社。言屋、此云伊浮瑘。天子崩兆。又、高麗使人、持羆皮一枚稱其價曰、綿六十斤。市司、咲而避去。高麗畫師子麻呂、設同姓賓於私家日、借官羆皮七十枚而爲賓席。客等羞怪而退。

即位五年(西暦659年)に「出雲國」が登場する。勿論古事記で読み解いた北九州市門司区大里、戸ノ上山山系の西麓として読むことにする。「命出雲國造(闕名)修嚴神之宮」と記載され、通常の読み方は「神之宮を修嚴する」となっているようである。「修嚴」の文字列は書紀に登場せず、そもそもの意味も不明である。
 
嚴神之宮・於友郡

文字列の区切りを変更して「修・嚴神之宮」として読む。「嚴神」は神の有様を表しているのであろうが、当然地形象形表記と思われる。「嚴」=「口+口+厂+敢」と分解される。更に「敢」=「甘+爪+丿+又」とバラバラにすることができる。要するに「嚴」=「口+口+厂+甘+爪+丿+又」を構成要素とする文字である。

ズラリと並んだ地形を示す文字である。「口(クチ)」=「谷間の入口」、「厂」=「崖の麓」、「甘」=「舌のように延び出た様」、「爪」=「[爪]の形に延びる様」、「ノ」=「削られた様」、「又」=「腕を伸ばしたような山稜」である。「神」=「示+申」と分解して「山稜が(稲妻のように)延びた麓の高台」と解釈する。頻出の文字である。
 
<出雲國於友郡・嚴神之宮・言屋社>
何処の場所を表しているかを求める前に「於友郡」を読み解いてみよう。「於」=「㫃+=(途切れる)」と分解される。


㫃」は「旗」の原字であり、「途切れる様」の表現は「今(來)」の場合に類似する。すると「於」が示す場所の端は、古事記の大國主命が娶った神屋楯比賣命の場所を示していることが解る。

「友」=「又+又」と分解される。「又=手(腕)」とすると、「友」が示す地形は、その西側の長く延びた二つの山稜を表していると思われる。

纏めると「於友郡」は、これら戸ノ上山から延びる山稜に挟まれた地と推定される。これが読み解けると「嚴神之宮」が示す意味、即ち、その場所が浮かんで来る。

嚴神之宮=[爪]の形に延びた山稜(申)の麓(厂)で二つの谷間の入口に挟まれ(口)削られて(ノ)[舌]を出したような(甘)高台(示)にある宮と紐解ける。

図に示した現在の豊国学園高校がある台地と推定される(現在の戸上神社ではないようである)。この地は倭建命の御子、若建王が娶った「飯野眞黑比賣、生子、須賣伊呂大中日子王。自須至呂以音。此王、娶淡海之柴野入杵之女・柴野比賣」の記述に関わる地である。

要するに「淡海」に関わる地であると古事記は記述しているのである。書紀編者が最も神経を尖らすところ、「淡海」は省略しながら伝えんとした気力に乾杯、であろう。そんな気遣いなく、全く読み取れていないのが現状である。「修嚴」の区切りは、ない。
 
言屋社

不吉な予兆と言える出来事が述べられている。宮の修繕用、おそらく材木の結束とか、運搬に使う葛(カズラ)が狐のために持ち去られたとか、死人の手を犬が「言屋社」に置いたとか…天子が崩御される兆しなんだそうである。

「言」は古事記に登場する「言」の解釈と見做す。即ち「言」=「辛+囗」と分解して、「刃物で耕地にした様」と読み解く。図<出雲國於友郡・嚴神之宮・言屋社>に示した神屋楯比賣命の御子、「八重事(言)代主神」に用いられた「言」の文字である。

これらを繋げば意味として通じるが、「言代主神」に重ねられた表記と解釈される。「耕地が傍らにある尾根が尽きたところ」でも良いが、もう少し言葉を選んで、言屋社=谷間の奥から繋がる山稜の傍らの耕地が尽きるところにある社と読み解ける。現在の御所神社辺りにあったと推定される。現地名は北九州市門司区大里戸ノ上である。

さて、羆の毛皮も綿も、当時としては貴重なものだったのであろう。畫工として既に登場済みである。「設同姓賓於私家」と記され、狛=高麗が確認されるのだが、「高麗」への応対に余裕すら感じさせる記述である。倭國の関心は唐であって、百濟は唐との情報ルート上必要であった、のであろう。皇位継承に絡む諍いはあったとしても甚大な損害が発生する事件は殆どなく、朝鮮半島内とは大きく異なる発展をした様子が伺えるところである。

六年春正月壬寅朔、高麗使人乙相賀取文等一百餘、泊于筑紫。三月、遣阿倍臣闕名率船師二百艘、伐肅愼國。阿倍臣、以陸奧蝦夷令乘己船到大河側。於是、渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。營中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣。」阿倍臣、遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數、兩箇蝦夷便指隱所曰「船廿餘艘。」卽遣使喚、而不肯來。阿倍臣、乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木舉而爲旗、齊棹近來停於淺處、從一船裏出二老翁、𢌞行熟視所積綵帛等物、便換着單衫各提布一端、乘船還去。俄而老翁更來、脱置換衫幷置提布、乘船而退。阿倍臣遣數船使喚、不肯來、復於弊賂辨嶋。食頃乞和、遂不肯聽弊賂辨、渡嶋之別也據己柵戰。于時、能登臣馬身龍、爲敵被殺。猶戰未倦之間、賊破殺己妻子。

年が明けて即位六年(西暦660年)正月である。「高麗」が百余名の集団で筑紫に来ている。その目的等は語られていない。三月になって「阿倍臣(闕名)」が大船団で肅愼攻めを敢行したと伝えている。
  
<肅愼國①>

全体を示すために、前記の図を再掲する。「穴戸」に向かって関門海峡を北上する。古事記が伝える熊曾国である。

「渡嶋蝦夷」が討伐の実行部隊なのであるが、彼らは勿論自力・自前でこの地に出向いた筈である。現在で言えば、最強の海兵部隊であろう。既に上陸して「海畔」で川に向かって一千余が集まっていたようである。
 
大河側・海畔

至極普通の名称が挙げられている。通常はそのまま読み飛ばしてしまうところであるが、「大河」も「海畔」も地形象形表記と思われる。

ともあれ、関門海峡に面する当時の海水面の有様を推定することから始める。前記の筑紫大津之浦でも行ったように現在の標高およそ10mのところが当時の海岸線であったと思われる。

それぞれの文字の基本に立ち返って文字の示す地形を求めてみよう。「河」=「水+可」と分解される。単に河・川の表現ではなく、「谷間から水が流れ出て来る様」を表すと読める。「側」=「人+則」と分解される。「直ぐ傍にある谷間」を表すと解釈される。繋ぐと大河側=平らな頂の麓にある水が流れ出てくるところの直ぐ傍にある谷間と読み解ける。図に示した山稜が大きく窪んだような谷間の麓に彼らは着岸したと思われる。現地名は門司区庄司町である。
 
<肅愼國②>
次に登場するのが「渡嶋蝦夷」が駐屯した「海畔」で、川の向こうに面していると述べている。

この辺りは地形がかなり複雑に、当然最下流域であって入江の状態であったと思われる。「海の畔(ホトリ)」と読んで差し支えないのであろうが、それでは場所の特定には至らない。

そこで「畔」=「田+半」と分解する。すると「畔」=「田で二つに分けられた様」と読める。「(大)伴」(谷間で二つに分けられた様)の用法と同じと解釈する。

すると海畔=海の傍らで田で二つに分けられたところと読み解ける。台地が平らな地で区切られた場所が見出せる。即ち「渡嶋蝦夷」等はこの窪んだところを中心に潜んでいた状況が浮かんで来る。正に上陸して戦闘態勢を整える場所として最適な地形と思われる。そして川向こうを見やると(図の❶)「肅愼船師多來將殺我等」を察知できる位置関係であったと述べている。

ところが「渡嶋蝦夷」が「願欲濟河而仕官矣」叫び、あわや寝返りそうな雰囲気になったと伝えている。何とも尻軽な、と言っては失礼な話で、如何に「肅愼」が手強い敵だったかを含めた表現なのである。「阿部臣(闕名)」としては、あらぬ風評で部隊に混乱が生じては、戦う前に敗れたも同然の事態に陥ることになる。そこで・・・。
 
兩箇蝦夷

勿論初登場なのであるが、地元の蝦夷である。「箇」=「竹+囗+古」から成る文字で、前記で登場した須彌山を造った場所、「真っ直ぐな山稜に囲まれた小高いところ」と読み解いた。彼等が着岸した場所は兩箇=真っ直ぐな山稜に取り囲まれた二つ並んだところだったのである。彼等を船に乗せてグルリと回って「肅愼」の隠れた場所を覗かせた(図の❷)と記載されている。
 
<能登臣馬身龍>
すると十分の一の船師であることが判明、何とも悠長な戦いであるが、命懸けである。献上品のようなものを置いて、それを取りに来る作業を繰り返し、相手の様子を伺いながら勝敗が決するのである。

● 能登臣馬身龍

一応実戦があったのであろう、小競り合いの中で「能登臣馬身龍」が戦死したと記載されている。そして勝ち目無しと判断した粛愼の親玉の自決となる。

追悼を込めて、この臣の出自の場所を示した。能登臣は古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が尾張連之祖・意富阿麻比賣を娶って誕生した大入杵命が祖となった地である。「淡海」に関わる人物であって、書紀には登場しない。徹底的に「淡海」排除の編集である。

それはまた別途で述べることにして、正にその地の地形をそのまま名前にしたようである。現地名北九州市門司区猿喰である。七ッ峠を越えれば阿倍臣の地である。配下の臣であったと思われる。
 
弊賂辨嶋

何とも奇妙な名称の島が記載されている。「弊賂辨嶋」の「弊」=「敝+廾」と分解され、「二つに切り裂かれる様」を表すと解説される。「賂」=「貝+各」と分解される。「各」=「至る、届く」で「貝(金品)」が届く賄賂となり、確かに金品を遣り取りしようとしている場面なのだが、ちょっと適切ではないようである。「各」=「夂+口」と分解され、「大地に立つ人が足を開いた様」を象った文字と解説される。

「辨」=「辛+辛+刀」で「真ん中に切れ目がある様」を加えて、全体を纏めると、弊賂辨嶋=二つに開かれた貝の足のようなところに真ん中に切れ目がある島と読み解ける。「渡嶋之別」と補足されているように島の端が延びて小高くなった場所である。現在の三光寺がある辺りと推定される。図を拡大すると切れ目が確認される。全く異国風の名称を作り上げて、「肅愼國」の場所を暗示するような表記であるが、これに惑わされているようでは、「記紀」は読み下せないであろう。

積年の課題であった「熊曾國」を手懐けた戦いであった。西海から圧迫に対抗するためには何が何でもこの地を統治下、少なくとも友好関係にしておく必要があったのである。遠い異国を征伐して領土にする余裕など微塵もなかった時代である。そう受け取れるようにも記載した書紀編者であった。

夏五月辛丑朔戊申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。是月、有司、奉勅造一百高座・一百衲袈裟、設仁王般若之會。又、皇太子初造漏剋、使民知時。又、阿倍引田臣(闕名)獻夷五十餘。又、於石上池邊作須彌山、高如廟塔、以饗肅愼卅七人。又、舉國百姓、無故持兵往還於道。(國老言、百濟國失所之相乎。)

正月に筑紫に来た高麗の使者が五月になって難波館に到着したと伝えている。筑紫と難波間の移動に一ヶ月要したとしても遅い動きである。本国の動静を考慮すると、この辺りの日付の記述は些か怪しげな感じであろう。最重要課題はスルーの書紀である。尚、この段については上記の日本語訳参考資料の記述(斉明六年)を参照。

仁王般若」は、大乗仏教における経典のひとつで、仏教における国王のあり方について述べた経典・・・と記されている。仏法にどっぷり浸かっていたのであろう。阿倍引田臣(闕名)は前記の「肉入籠」に侵出した臣である。

とまれ、要するに・・・、
 
肅愼國=熊曾國

・・・である。古事記の「熊曾國」を「熊襲國」の表記に変え、九州南部に”誘導”した。そして「蝦夷國」を東北の彼方にあるような錯覚を起こさせる記述を行ったのである。書紀編者は、それらの地が通説に言われる場所とは、全く明言していないのである。

発生した事実を曲げずに、その場所を変更するための落としどころを天皇に求めると言う、官人達の策略、日本の天皇という存在の根源を表しているように伺える。書紀の一局面における精緻な記述を認めると同時に、史書としての価値を自ら放棄した、あるいは放棄せざるを得なかった書物である。しかしながら、実務担当者の「ひょっとしたら読み解いてくれるかも?」思いが伝わっていることも添えておきたい。

秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷歸。又覩貨羅人乾豆波斯達阿、欲歸本土求請送使曰、願後朝於大國、所以留妻爲表。乃與數十人入于西海之路。(高麗沙門道顯日本世記曰、七月云々。「春秋智、借大將軍蘇定方之手、使擊百濟亡之。或曰、百濟自亡。由君大夫人妖女之無道擅奪國柄誅殺賢良、故召斯禍矣、可不愼歟、可不愼歟。」其注云「新羅春秋智、不得願於內臣蓋金。故、亦使於唐捨俗衣冠請媚於天子、投禍於隣國而搆斯意行者也。」伊吉連博德書云「庚申年八月百濟已平之後、九月十二日放客本國。十九日發自西京、十月十六日還到東京、始得相見阿利麻等五人。十一月一日、爲將軍蘇定方等、所捉百濟王以下・太子隆等・諸王子十三人・大佐平沙宅千福・國辨成以下卅七人幷五十許人、奉進朝堂、急引趍向天子。天子、恩勅見前放着。十九日賜勞、廿四日發自東京。」)

七月になって漸く高麗の使者帰国したとのことである。相変わらず、滞在中の話題は記載されない。勿論饗応の記述も、である。漂着した「覩貨羅人」(名前の「乾豆波斯達阿」も地形象形表記のような印象だが後日としよう)が帰国を願い出て西海之路に入ったと記している。

「高麗沙門道顯」が著した『日本世記』が引用されている。七月、「春秋智」(新羅武烈王)が唐の大将軍「蘇定方」の手を借りて百濟を滅亡させたのだが、百濟の内政も不穏で、自ら滅んだようにも伺えると記している。また、『伊吉連博德書』では、九月半ばに西安で解放され、十月半ばには東京へ、そこで遭難後に辿り着いていた「阿利麻等五人」に遭遇できたと記している。

唐の関心事は高句麗の攻略であって、その前段での包囲網の確立のため百濟を占領したわけである。それにしても滅亡するまで後八年の月日が過ぎる。なかなかの強者であったことには違いないようである。蚊帳の外から眺めるだけの日本、では済まされない時代が訪れようとしている。

九月己亥朔癸卯、百濟、遣達率闕名・沙彌覺從等來奏曰(或本云逃來告難)「今年七月、新羅恃力作勢、不親於隣。引搆唐人、傾覆百濟。君臣總俘、略無噍類。(或本云、今年七月十日、大唐蘇定方、率船師、軍于尾資之津。新羅王春秋智、率兵馬、軍于怒受利之山。夾擊百濟相戰三日、陷我王城。同月十三日、始破王城。怒受利山百濟之東堺也。)於是、西部恩率鬼室福信、赫然發憤據任射岐山(或本云北任敍利山。)達率餘自進、據中部久麻怒利城(或本云、都々岐留山)。各營一所、誘聚散卒。兵盡前役、故以棓戰。新羅軍破、百濟奪其兵。既而百濟兵翻鋭、唐不敢入。福信等、遂鳩集同國共保王城。國人尊曰、佐平福信、佐平自進。唯福信、起神武之權、興既亡之國。」
 
九月に入って百濟から使者が来たと伝える。七月に新羅と唐によって滅ぼされたが、「鬼室福信」(出自の場所等は天智天皇紀で述べる)が抵抗して幾つかの城を取り戻したと言う。この反転攻勢に際しては唐は介入せずで、やはり唐の目的は駐留できれば良しとする戦略であろう。朝鮮半島全体を占領するのは、彼らの主眼ではなかったと思われる。

山の名称が多く記載されている。詳細地図があれば、きっと地形象形表記として求めることができそうであるが、いずれの日かにしよう。生々しい報告を耳にして、明日は我が身、と思ったかもしれないし、また新羅に対する見方もほぼ固まったようである。

冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人、今美濃國不破・片縣二郡唐人等也。又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰(或本云、佐平貴智・達率正珍也)「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。(百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐國。蓋是、無故持兵之徵乎。)而百濟國遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。詔曰「乞師請救聞之古昔、扶危繼絶著自恆典。百濟國窮來歸我、以本邦喪亂靡依靡告。枕戈嘗膽、必存拯救。遠來表啓、志有難奪。可分命將軍百道倶前、雲會雷動倶集沙㖨、翦其鯨鯢紓彼倒懸。宜有司具爲與之、以禮發遣。」云々。(送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年。或本云、天皇、立豐璋爲王・立塞上爲輔、而以禮發遣焉。)

十月になって「鬼室福信」から捕虜の唐人の献上及び「王子豐璋」を王と為すための返還依願があったと伝えている。天皇はそれに応えた。この唐人は、戦での捕虜と言うよりは、ぞれ以前から百濟に居た人々のことであろう。編纂時点で、「美濃國不破・片縣二郡」に住まっていると述べている。

王子豐璋」は人質として記載されて来たが、ある意味上手い方法であることが解る。万が一国が滅ぼされ、王が不在となった時に、その国を再興するために必要な「王」の確保となっている。勿論両国間での諍いがあれば文字通りに人質となったであろうが。不安定な政情の中で生きた人々の知恵なのかもしれない。

<美濃國不破郡・片縣郡>
美濃國不破郡・片縣郡

「美濃國不破郡」は既に幾度か登場しているが、その地の詳細が記載された例である。「不破」の「不」も既出であって、その文字形のように山稜の端が広がった様を表すと解釈した。

「破」は「破る」と訓読みされるが、その意味でも通じるかもしれないが、「破」=「石+皮」と分解する。

すると既出の文字要素となる。「石」=「厂+囗」で「麓の区切られた地」であり、「皮」=「傾く様」を表す文字である。不破=「不」の文字形に広がり延びた山稜の麓が崖のようになっているところと読み解ける。

隋書俀國伝に登場する「彼都」は、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)が坐した筑紫訶志比宮の「訶志比(傾い)」と紐解いた例に類似する解釈である。

「片縣」の「片」=「木の文字の半分」を象った文字と知られている。その文字形そのものを表していると思われる。既に紐解いたように、「縣」=「(首の逆文字)+系」=「首のような山稜がぶら下がったような様」である。すると片縣=[木]の左半分の形になった山稜が首をぶら下げたように延び出ているところと読み解ける。

両郡隣り合って存在していることが図から判る。この二つの山稜の谷間が人々が住むには適切な場所と思われるが、おそらく唐人等は、最下流域である海辺に面した地あるいは「不」の付け根の山側の未開拓部分が宛がわれたのではなかろうか。

現地名は北九州市小倉南区朽網である。住居表示は東、西と分かれているが。古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)紀に登場する三野國造之祖大根王の場所に該当すると思われる。



2020年6月22日月曜日

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅵ) 〔426〕

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅵ)


有間皇子の謀反という事件、それは旧態然たる豪族の台頭の芽摘む出来事だったように思われた。「公地公民」制の浸透は、決して簡単なことではなく、それは現在にも通じる課題でもあろう。「格差」、「分断」と簡単に言われるが、人が生きる上において、他者との差別化を求める以上発生する課題と思われる。「古事記」、「日本書紀」の記述は、あらためて貴重であることを思い知った感じである。

「粛愼(國)」が登場した。これは古事記の「熊曾國」があった場所を示す。書紀は「熊襲國」として、類似の訓と意味を重ねた表記ではあるが、全く異なる地に置こうとした国である。故に名称を変えたのであるが、これがまた実に素晴らしい地形象形表現であることも判った。

さて、年が変わって即位五年(西暦659年)正月からである。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

五年春正月己卯朔辛巳、天皇至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野而肆宴焉。庚辰、天皇幸近江之平浦(平、此云毗羅)。丁亥、吐火羅人共妻舍衞婦人來。甲午、甘檮丘東之川上、造須彌山而饗陸奧與越蝦夷。(檮此云柯之、川上此云箇播羅。)是月、遣阿倍臣闕名率船師一百八十艘討蝦夷國。阿倍臣簡集

年が明けての正月、天皇は紀温湯から戻り、三月一日には吉野、二日後には「近江之平浦」に行かれている。「平浦」の通説は滋賀県滋賀郡志賀町辺り、とても移動できるような距離ではないが、疑われてはいないようである。吐火羅人達が訪問して来たりしたと述べている。また陸奥・越の蝦夷を饗応して須彌山を造った記載されている。後に詳しく述べる。

阿倍臣(闕名)が軍船を率いて「蝦夷國」を討伐に向い、飽田・渟代・津輕・膽振鉏の蝦夷を集めて饗応して祿を与えたと伝えている。総勢ざっと四百名ぐらいである。津輕蝦夷の詳細が語られ、「蝦夷國」は、ほぼ平定されたと思われるが、さてこの後如何なる事件が待ち受けているのであろうか。
 
近江之平浦

「吉野」に行かれて「肆宴」をしたと記載されている。この宴は「祭祀、直会(なおらひ)、肆宴の三段階の三段目、直会では歌、肆宴では舞いや身ぶりが、主になる」とのことである。読みは「とよのあかり」で、古事記の大嘗祭の後の「豐明」とされているようである。伊邪本和氣命(後の履中天皇)が難波之高津宮を焼け出された時の宴会、明け方近くまで続いた会と推定した(詳しくは
 
<近江之平浦>
さて久々に登場の「近江」、「律令制」が施行された後の名称であろう。即ち古事記の近淡海國に該当する。書紀が行った最大(多)の改竄の文字である。

では「近淡海國」にあった「平浦」とは何処であろうか?…「平」=「毗羅」と読めと訓されている。「平」の原字は「萍(浮草)」と知られる。水草が水面に広がった様を象った文字である。

簡単な、何処にでもありそうな地形ではなく、当時の海水準を想定すると、難無く求められる場所である。

「長江」の入口、「河内惠賀」にある大きく広がった地、現地名は行橋市二塚辺りである。「平浦」の後方、小高いところを倭建命の白鳥御陵近隣の場所と推定した。

正に浦(海が入り込んだ様)の形を示している。そして現在は住宅地に変わっているが、当時は「毗羅」=「田が並んで連なった様」、緩やかな棚田の様子であったことが伺える。この地の古事記における登場は、建小廣國押楯命(宣化天皇)の御子、惠波王が坐した場所である。

吉野宮(三月三日)の早朝に立てば二時間程度で平浦に到着である。さりげなく記載された箇所において、通説が全く成立しないことを示しているのである。吉野から滋賀県滋賀郡志賀町まで150kmを越える距離であろう。「天磐舟」でもない限り現実的ではないようである。
 
須彌山
 
<須彌山(甘檮丘東之川上)>
今回作られた場所が詳しく記述され、何かを伝えようとしていることが伺える。「甘檮丘東之川上」であり、「檮此云柯之、川上此云箇播羅」と訓されている。

「柯之」の訓が付記されているが、「之(蛇行する川)」を挟む丘陵地を示す表記である。これもきめ細かい記述であろう。蘇我親子が建てた宮は南側の地にあったことを述べている。

その「東之川上」は、現在の金辺川の少し上流側を示すと思われる。そこを「箇播羅」と訓すると記載している。

「箇」=「竹+固」と分解される。「竹」=「真っ直ぐな山稜」、「固」=「囗+古」と分解すると、「囲まれたて丸く小高い様」となる。「箇」=「真っ直ぐな山稜に囲まれた丸く小高い様」と読み解ける。

「播」=「手+番」と分解され、「散らばらせる、広げる様」の意味を表す。既出の「羅」=「連なる様」である。纏めると、箇播羅=真っすぐな山稜に囲まれた丸く小高い地が広がり連なったところと読み解ける。

そして、この須彌山を中心にして、背後に九つの小高い地が配置された構図となっていることが解る。即ち仏教の世界観の中心にある須彌山とその背後の山から成る「九山八海」を模しているのである。須彌山の像を造るだけなら所かまわずにであろう。重要なことはその背景(地形)であることを述べているのである。
 
<須彌山(石上池)>
仏教の理解、その奥深い世界、理想の世界とも言える地が、眼前に広がっている、どうだ!…と「蝦夷」達に示した、と伝えているのである。

すぐ後の記述(即位六年五月)に「愼人」を饗応し、「石上池」の近くに須彌山を造った。まるで「廟塔」のような高いものであったと記載されている。

「石上」(金辺川下流)でその地を求めると、山稜の端が、「九山八海」に奇麗に並んでいるところが見出せる。更に解りやすい地形であろう。

「八海」の西側辺りは、実際に見られるかのような見事さであろう。居合わせた三十七人の蝦夷達にとっては、極楽浄土を垣間見たような気分に陥ったのではなかろうか。日本のせせこましい地形を巧みに利用した、ちょっとした遊びであろう。現在の日本庭園に残る美しさの原点である。
 
<須彌山(飛鳥寺西)>
香春一ノ岳の南麓を使った「須彌山」である。山肌の稜線を「九山八海」に見立てた配置で、何だか虚を突かれた感あるが、これも地形観察のきめ細やかさと思われる。

香春神社(当時の石上神社)を含む配置であり、正に神仏融合の様相なのであるが、仏法の深く遠大な教えを示唆する行為だったのかもしれない。

覩貨邏人」に見せたのは、自分達の仏法への理解と信仰を「西域」の人達に知らしめるためであったと思われる。

須彌山の麓は「四天王」で固められ、天辺は「有頂天」なんだそうで、今でも日常の言葉の中に残されている。それを模した日本庭園の形式、これも各所の寺で見られるが、日本人らしい造作の感じである。

それらは現在に伝わる事なのだが、「地形象形表記」が消滅してしまったことに愕然たる思いが沸き上がって来る。「記紀」及び中国史書に登場する倭國の人・地名表記に全て用いられている”事実”は、やはり、何らかの強制手段によってかき消されたものと推察される。

またまた、蝦夷國を討伐したと書くが、中身は饗応して禄を与えた、である。率いた阿倍臣の名前が欠落と、少々原資料が怪しいところも示唆しているのであるが、何と言っても蝦夷國の詳細が語られている。想像以上の企救半島島北部の”詳細地図”である。それにしても採石場で崩れかかっているが、何とか持ち堪えた有様であろう。
 
飽田郡・渟代郡・津輕郡

これら三郡の蝦夷については、その詳細も含めて前記で読み解いた。「渟代郡」及び「津輕郡」などについては、こちらを参照。また「飽田郡」(渟代郡と併記)についてはこちらを参照。

「蝦夷」を現在の東北地方に散らばせる作業を行ったとしら、秋田県(飽田)にある能代市(渟代)であろう。「齶田蝦夷」は「越蝦夷」に隣接するほど近かったから初めに登場しただけである。どうしても散らばらせる作業をするのなら山形県鶴岡市辺りが該当する、かもしれない。読みの類似性がないから受け付けて貰えない、であろう。
 
問菟蝦夷

今回は津輕郡の詳細である。その周辺と言える場所に、なかなか骨のある連中が居たようである。登場が後先になるが、「問菟蝦夷」について読み解いてみよう。尚、登場する場所の現地名は全て北九州市門司区白野江である。
 
<問菟蝦夷・膽振鉏蝦夷>
津輕郡と言う名称の由来である「輕」東麓の谷間に生息していた蝦夷と思われる。これに含まれる「菟」は「宇(ウ)」と読めと、重ねて訓されている。


古事記を意識した記述であろう。すると罷り間違っても「菟(ト)」とは読めず、更に解釈が異なっていることの警鐘と思われる。

あらためて「菟」の文字を考察する。「菟」=「艸+兔」と分解される。「免」=「女性のお産の様」を象った文字と知られる。

「(分)娩」の原字である。「狭いところを通り抜ける様」であり、それから展開した用法が一般に用いられている。地形象形的には、そのままの形(姿)を当て嵌めていると思われる。

「問」=「門+口(クチ)」と分解する。「門」は出入口に立っているものだが、「戸」と異なるのは「中にある物を隠す」と言う意味が込められている。すると「問」=「見えない奥にある口」と解釈する。

「塗毗宇」と訓される。「塗」=「長く延ばす様」、「毗」=「田を並べた様」、「宇」=「山稜に囲まれた麓」であるから、塗毗宇=山稜に囲まれた麓(宇)が長く延びて(塗)田が並んでいる(毗)ところと読み解ける。

二名の登場人物が記載されている。「菟穂名」の「名」=「夕+囗」と分解する。「夕」=「山稜の端の三角州」と読む。古事記頻出の文字である。菟穂名=[菟]の地で稲穂のような山稜の端に三角州があるところと読み解ける。

訓の「宇保那」の「保」=「人+呆(子+八)」と分解される。「保」=「谷間に生え出て広がる様」を表している。山稜に囲まれた谷間(宇・人)でなだらかに(那)生え出て広がった()ところと読み解ける。同一地形の異なる表記であることが解る。書紀のこの段の編者は、真に丁寧である。

もう一人の「膽鹿嶋」の「膽」は既出(膽=頂上から大きく広がった山稜が多く連なり(詹)その端に三角州(月)がある地形と読み解いた。すると谷間の東側に「膽」の山があることが分かる。「鹿」=「山麓」、「嶋」=「山+鳥」と分解され、「山稜が鳥の形」と読める。これらは頻出の文字である。膽鹿嶋=[膽]の山麓にある山稜が鳥の形をしたところと読み解ける。
 
膽振鉏蝦夷

最北の「蝦夷」である。上記の「膽」の山系の東側の海辺に面した場所となる。「振」=「手+辰」と分解される。「辰」=「二枚貝が舌を出した様」と解釈して来た。

伊浮梨娑陛」と訓されている。「浮」=「水+孚(爪+子)」と分解される。「浮」=「水辺で持ち上げられたような様」、「陛」=「阝+比+土」と分解すると「段差が並んでいる様」と解釈する。谷間で区切られた(伊)持ち上げられた(浮)ような山稜が水辺(娑)で並んでいる段差(陛)と切り離された(梨)ところところと読み解ける。この地、現在の青浜海岸の特徴を捉えた表記であろう。
 
<肉入籠・後方羊蹄>
肉入籠

遂に行き着くところまで来た感じである。大宴会を行った後に「肉入籠」に至り、そこに「問菟蝦夷」の二人「膽鹿嶋・菟穗名」が進言して来たと伝えている。

政所」の場所は、何となく津輕の大領「馬武」の場所ように読めるが、そこではない場所を申し出て来た、のである。

何とも生々しい表記の「肉入籠」の「肉」は何と解釈するか?…少し特殊な意味に「縁の盛り上がった様」がある。入江の両端の山稜を表していると思われる。

するとこの地形が「籠」=「箙の形」即ち円筒形の断面のように見えて来る。

訓が記されていて「之々梨姑(シシリコ)」と読むとある。「之」=「蛇行する川」、「姑」=「女+古」とすると「嫋やかに曲がる小高い様」であろう。之々梨姑=二つの蛇行する川で切り離された嫋やかに曲がる小高いところと読み解ける。

「政所」を「後方羊蹄」に置け、と述べている。「蹄」=「足+帝」と分解される。古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に山邊之大鶙が登場する。これに含まれる「鶙」の解釈として「帝」の古文字形を山稜が示す模様に当て嵌めた。その形を谷間の奥の、更に奥に見出すことができる。

場所は図に示したところと推定される。訓が付加されていて「斯梨蔽之(シリヘシ)」と言う。古事記で多用される「斯」(切り分けられた様)であるが、「斯」=「其+斤」と分解するまでは同様であるが、少し解釈が異なるようである。書紀はより具体的で「斯」=「箕の形に刻まれた様」と読む。斯梨蔽之=箕の形に刻まれて(斯)切り離された山稜(梨)が蛇行する川(之)を蔽うところと読み解ける。

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蝦夷関連の記述を読むと、書紀は実に正直な記述を行っていることが解る。初めは磐舟柵に近い「齶田郡」の「恩荷」を頼りにし、「津輕郡」に入ったら「馬武」宜敷く、として来たわけである。その地は「肉入籠」の正面である。そんなところに「宮」(政所と解釈)は造らないであろう。

”人が良い征服者”の演出を書紀がしたのなら、何をか況や、であろう。「これが蝦夷の郡か?」とまで記載している。古事記の伝える「言向和」の戦略を踏襲させたのかもしれない。いや、事実だったかもしれない。ならば、実に讃えるべき天皇家となろう。

蝦夷自ら申し出たと記載している。事実ならば、彼らは二度と歯向かうことはないように思われる。「之々梨姑(シシリコ)」、「斯梨蔽之(シリヘシ)」はアイヌ語に通じると言う解釈まである。書紀編者の博識振りに惑わされては、古代史の「門」は開かないであろう。

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秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子。(伊吉連博德書曰「同天皇之世、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等二船、奉使吳唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦、八月十一日發自筑紫大津之浦。九月十三日行到百濟南畔之嶋、嶋名毋分明。以十四日寅時、二船相從放出大海。十五日日入之時、石布連船、横遭逆風漂到南海之嶋、嶋名爾加委。仍爲嶋人所滅、便東漢長直阿利麻・坂合部連稻積等五人、盜乘嶋人之船、逃到括州。州縣官人、送到洛陽之京。十六日夜半之時、吉祥連船、行到越州會稽縣須岸山。東北風、風太急。廿二日行到餘姚縣、所乘大船及諸調度之物、留着彼處。潤十月一日行到越州之底。十五日乘驛入京。廿九日馳到東京、天子在東京。卅日、天子相見問訊之、日本國天皇平安以不。使人謹答、天地合德、自得平安。天子問曰、執事卿等好在以不。使人謹答、天皇憐重亦得好在。天子問曰、國內平不。使人謹答、治稱天地萬民無事。天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷毎歲入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異極理喜怪、使人遠來辛苦、退在館裏、後更相見。十一月一日朝有冬至之會。會日亦覲、所朝諸蕃之中倭客最勝、後由出火之亂棄而不復檢。十二月三日、韓智興傔人西漢大麻呂、枉讒我客。客等、獲罪唐朝已決流罪、前流智興於三千里之外、客中有伊吉連博德奏、因卽免罪。事了之後、勅旨、國家來年必有海東之政、汝等倭客不得東歸。遂匿西京幽置別處、閉戸防禁、不許東西、困苦經年。」難波吉士男人書曰「向大唐大使觸嶋而覆、副使親覲天子奉示蝦夷。於是、蝦夷以白鹿皮一・弓三・箭八十獻于天子。」)
庚寅、詔群臣、於京內諸寺、勸講盂蘭盆經使報七世父母。

七月に坂合部連石布津守連吉祥を唐に遣わしたと記載している。これに関しては伊吉博德の書が引用されている。その書によると、二船に分かれて(石布連と吉祥連)、一方の吉祥連の船は、越州之底(浙江省紹興)到着。閏10/15の日の入時に石布連の船が遭難して南海に流され、「嶋名爾加委」に漂着、「東漢長直阿利麻坂合部連稻積等五人」、何とか洛陽に辿り着いたと記載されている。

一方の吉祥連の船は餘姚縣、越州之底を経て東京に到着し、天子に拝謁したと述べている。その問答の中で「蝦夷」の関する質疑があり、「遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷」と答えている。「蝦夷」の生業についても答えているが、あながち嘘でもないような感じである。現在から見た解釈ではない・・・「蝦夷」達に水田稲作の技術は持ち合わせておらず・・・憶測の領域だが・・・。

いずれにしても、高麗討伐の計画が水面下で進行中の時、東からの訪問者をそのまま放置するわけには行かなかったであろう。彼等は幽閉されることになったようである。
  
難波三津之浦

古事記及び書紀編者以外の「難波津」の表記であり、これまでも「御津」の表現と関連して興味深い。「三つの津」としてその場所を突止めてみようかと思う。難波の着船場所として表記は、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の豐國宇沙などがある。
 
<難波三津之浦>
すると「三つの津」はもっと下流域、海に近付いた場所と思われる。「難波荒陵」辺りの詳細を当たると、図に示した、些か票差が少なく見極め辛くはなっているが、「三つの津」と推定される場所が見出せる。


大雀命(仁徳天皇)が造った難波之堀江の場所であり、おそらく現在の今川が真っ直ぐに流れているが、東に曲がっていたところと思われる。

山稜の端の凹凸が不規則であり、「三つの津」に岐れた地形となったようである。今川が真っ直ぐに流れる場所は、当時は既に海面下であって、犀川は荒陵の隙間を縫いながら流れていたと思われる。

この地形故に「堀江」が必要であったと推測される。想像以上に起伏があって、船の走行には極めて危険な入江であっただろう。だが、少し手を加えれば、奥まった天然の良港となったと思われる。

四天王寺別称に「御津寺」があったと伝えられている。前記で「堀江寺」の別称は簡単に思い付けたが、「御津」は「三つの津」の場所が特定されて漸く読み解くことができたのである。即ち束ねる()ところ現在の西法寺の東隣の高台としたが、「荒陵」(段差のある台地が途切れた様)の文字通りの結果となったようである。
  
筑紫大津之浦

「難波三津之浦」から向かったのが「筑紫大津之浦」と記載されている。現在では延命寺川の河口以外は陸で埋まっている地形となっているが、当時は広い浜辺、と言うか磯の地形と推定される。
 
<筑紫大津之浦・娜大津・磐瀬行宮>
古事記では筑紫末羅縣玉嶋里と記載され、出雲國に隣接する場所でもある。「玉嶋」が表すように小さな島が浮かぶ入江だったと思われる。

図には現在の標高約10mの海岸線を描いた。当時の位置だと推定される。

更に図には、後に登場する「娜大津」、「長津」の名称も記載したが、詳細はその段にて、併せて磐瀬行宮の場所も、記述することにする。

さて、引用原文では難波津から筑紫までおよそ一ヶ月、そこから百濟の南の島まで、同じく約一月の所要月数が記載されている。

遭難せず順調に航海した一隻は三日間程度で百濟の南の島から中国越州に届いている。一月の航海ならば無寄港での航海は難しいであろう。当然のことながら難波津から百濟の南に至るまでの距離(航海日数)に関する改竄を行った結果と思われる。

伊吉博德が行ったのか、書紀編者かは不明だが(おそらく後者)、朝鮮半島以西の記述の精緻さとのギャップが伺える。「難波三津之浦」を大阪難波津に見せ掛けた記述であると推測される。後に斉明天皇が「朝倉橘廣庭宮」まで行幸(この地で崩御)するのであるが、上記の記述との関連でもう少し詳しく述べる。新規に登場の人物の出自の場所を求めておこう。

<西漢大麻呂>
● 西漢大麻呂

「東漢」に比べて殆どこの人物以外の登場は見られない。密告者なので、正義感が強かったのか、単に性格上の問題があったのか、であろうが、出自の場所は、極めてクリヤーである。

長峡川が大きく曲がる「漢」の場所に「麻呂」が見出せる。かつ「大」=「平らな頂の麓」となっている。この地は古事記を通して、全くの初登場である。

この南側の対岸は意富多多泥古が住まって居た場所と推定した

やはり山間の谷間の地で、多くの人材が輩出するには至らなかった…粟田臣などはもっと狭い地かも…のかもしれないが、土地柄だけではないようである。

尚、ずっとずっと後になるが、西=笊(ザル)の地形象形であることが解読された。図に示したように、その地形を表していると思われる。麻呂=萬呂の解釈も併せて、貴重な情報提供がなされていたようである。また、「東漢」に対する”西の漢”ではないことも解る。勿論、「東漢」も”東の漢”ではないのである。

● 難波吉士男人

「男人」=「谷間にある男の様」なのであるが、見出したところは海辺に近付き、地図上での判別は難しいようである。

最後になるが、漂流した一隻が辿り着いた島名「爾加委」については「横遭逆風」とあり、押し戻されて黄海側に振れたとして可居島の可能性があるように思われる。これもリンクの地図を参照。


2020年6月19日金曜日

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅴ) 〔425〕

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅴ)


正に蝦夷のオンパレード、そして申し分のない形で彼らを味方に取入れたと伝えている。企救半島の東北部、古事記では全く登場しなかった地である。不思議なことに、いや地形がそうなのだから、蝦夷は蝦夷の地に住まっていたのである。通説は「蝦夷(エゾ)」の読みに拘った、と言うかその方が都合が良い解釈である。

西からの脅威に対して、日本列島の東北地域にひたすら大船団を送り込むことは到底納得される行いではない。書紀の記述が、些か曖昧に仕向けている感じもあるが、奈良大和にヤマト政権ありきの捉え方では事の真相は浮かび上がっては来ない。更に残念なのは、「九州王朝」なるものを想定した考えの方々も、勿論ヤマト政権である。

魏志倭人伝に誤謬はない、との姿勢で解読された古田武彦氏も書紀の記述では、改竄あり、として様々な手を加えて、解釈を試みられたようである(九州王朝の事績の取込みなど)。それの是非を論議するのは、ず~っと先にして、この書物の真相を明らかにして初めて貴重な”歴史書”としての価値を見出すことができるのであろう。まだまだ道半ばの感である。

さて、前記に引き続き即位四年(西暦658年)十月からの物語である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

冬十月庚戌朔甲子、幸紀温湯。天皇、憶皇孫建王、愴爾悲泣、乃口號曰、

耶麻古曳底 于瀰倭柁留騰母 於母之樓枳 伊麻紀能禹知播 倭須羅庾麻旨珥 其一
瀰儺度能 于之裒能矩娜利 于那倶娜梨 于之廬母倶例尼 飫岐底舸庾舸武 其二
于都倶之枳 阿餓倭柯枳古弘 飫岐底舸庾舸武 其三

詔秦大藏造萬里曰、傅斯歌勿令忘於世。

天皇は「紀温湯」に行幸されたのだが、建王のことが忘れられずに詠われたと言う。歌の内容は、例によって参考にさせて貰って…、

山越えて 海渡るとも おもしろき 今城のうちは 忘らゆましじ (其の一)
(山を越えて海を渡り、面白く楽しい旅をしても、今城のことは忘れないよ)
水門の潮のくだり 海くだり 後も暗に 置きてか行かむ (其の二)
(港から潮に乗り、海へと下りでて、後ろに暗い思い出を置いて残して行くなぁ)
愛しき 吾が若き子を 置きてか行かむ (其の三)
(愛するかわいい我が子を、置いて残して行くのだなぁ)

いつの間にやら孫が子になったり、う~ん、歌は難しいようである。
 
<紀温湯・藤白坂>
紀温湯

さて、またまた「温湯」の登場である。「紀」は幾度か登場の「紀臣」の場所と思われる。かなり容易に「温湯」の場所を見出せる。

豊前市大村の高野谷の奥に鎮座する場所である。山稜の標高は決して高くはないが、崖に囲まれた地形を示している。勿論、現在の池の様子は当時のままではなかろうが、「温湯」があったと推定可能な場所と思われる。

前出の牟婁温湯は任那にあったとしたが、通説は南紀白浜温泉となっていると述べた。「紀温湯」も同じくで、”総称白浜温泉”と捉えるのであろう。

少し先走りになるが、謀反を起こした有間皇子等は一旦「紀温湯」に送られ、そして処刑された場所が「藤白坂」と記載されている。これも唐突な登場なのであるが、読み解いてみよう。

「藤」=「艸+朕+水」と分解される。通常に用いられる「藤の木」の意味に繋げるのが難しいくらいの文字なのだが、「藤の木」の螺旋状の姿から、「水を持ち上げる様」と見立てたと解説されている。それを如何に地形象形したのかを求めると、「藤」=「谷間に池が段々に並んでいる様」と読み解いた。

「白」=「くっ付いて並ぶ様」だから、藤白=谷間に池が段々に並んで(藤)くっ付いている(白)ところと読み解ける。図に示した場所に、都合よく三つの池が並んでいるのが解る。上記したように池は当時の再現性が低いのでは?…と思われるが、知る人ぞ知る、であろう。通説は、和歌山県海南市藤白に諸々の史跡(世界遺産熊野古道に含まれる)があると言われている。
 
<秦大藏造萬里>
● 秦大藏造萬里

上記の歌を「世の人々に忘れさせてはならない」と天皇から言われたとしての登場である。勿論最初で最後の登場、と言うか「秦大藏造」もここだけの出現である。

そんな訳だからネットからの情報も全く得られずの状態である。書紀中の検索で「秦大」まで広げると、既に読み解いた「秦大津父」がヒットした。

深草屯倉があった場所である(現地名は京都郡みやこ町犀川木山)。その近辺で「藏」と「萬」を頼りに探すと、見事なまでに合致する地形を見出すことができた。

深草屯倉の直ぐ東隣の場所である。「藏」は大藏衣縫造麻呂に含まれていて、藏=山稜が並んで(艸)長方形()の凹んだ(臣)ところと読み解いた。書紀では幾度か登場する「萬」は天萬豐日天皇(孝德天皇)で使われていた文字であり、「サソリ」の姿を象ったと読み解いた。現地名は京都郡みやこ町犀川花熊である。

古事記によると「山代國」(書紀では山背國)は天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった地に登場する早期に天皇家が手中にした場所である。皇統に絡むのは久しく途絶え、歴史の表舞台に出現する機会は減っているが、脈々と人々が営んでいたようである。

十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰、天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財、一也。長穿渠水損費公粮、二也。於舟載石運積爲丘、三也。有間皇子、乃知赤兄之善己而欣然報答之曰、吾年始可用兵時矣。甲申、有間皇子向赤兄家登樓而謀、夾膝自斷。於是、知相之不祥、倶盟而止、皇子歸而宿之。是夜半、赤兄遣物部朴井連鮪率造宮丁、圍有間皇子於市經家。便遣驛使、奏天皇所。戊子、捉有間皇子與守君大石・坂合部連藥・鹽屋連鯯魚、送紀温湯。舍人新田部米麻呂、從焉。於是、皇太子親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天與赤兄知、吾全不解。

十一月になって、大変な事件が勃発したと伝えている。天皇が紀温湯に出向いている時に留守官の蘇我赤兄臣が有間皇子に接近し、天皇の治政に三つの失政があると述べたと記載されている。租税を増やし、渠・石垣の巨大土木工事をさせたことである。皇子は、後日赤兄の家に出向いて謀議をして、その夜には謀反の廉で捕らえられたと述べている。

赤兄臣の策略…勿論陰には中大兄皇太子の存在が伺えるのであるが…にまんまと引っ掛かった様相である。そして申し開きが、なんとも言葉足らず。書紀の記述がパターン化しているところからも真実であったかどうかは甚だ疑わしい感じであろう。事実は、謀殺されたことである。
 
<蘇我赤兄臣>
● 蘇我赤兄臣

蘇我山田石川麻呂大臣の兄弟であり、蘇我日向臣の兄弟でもある。中大兄皇太子は、この三兄弟を巧みに操ったというところであろうか。

「蘇賀」の東側、即ち稲目→馬子→蝦夷→入鹿の残影が彼らを登場させることによって払拭されたことは間違いないようである。赤兄臣の出自の場所を求めておこう。

石川大臣の谷間の西側に、大きな「」(谷間の奥が広がった様)の地形が見出せる。「赤」=「大+火」と分解される。

幾度となく出現し、赤=平らな頂の麓(大)で山稜が交差するように集まった(火)ところと読み解いた。これらの地形が重なった場所であることが解る。

後の天智天皇紀に娘、「常陸娘」が登場する。「常」=「向+八+巾」と分解すると、常=北向きの開けた地が広がって谷間が長く延びた様と読み解ける。陸=段差のある盛り上がった様と読める。父親の「赤兄」の地形の別表記であろう。娘を皇太子に差し出した、と言うところであろうか。図に併せて示した。

「蘇我日向臣」の場所は北方にあり、三兄弟の出自の場所は、いずれにせよ狭隘な地であったことを示している。前記の「稲目一族」のような広大な地を開拓した豪族型の財力保有者ではない。知恵と才覚となれば、道を外すことがあるかもしれない。
 
<物部朴井連鮪>
● 物部朴井連鮪

「物部」とくれば斬首の役目、有間皇子の最後を看取る・・・今回は捉える役目だけだったようである。「物部」と顔を見合わせるだけで縮こまった、かもしれない。

それにしても特異な位置付けとして、語られている。「朴井連」も登場済みなので出自の場所はその近隣であろう。

「鮪」=「魚+有」と分解される。すると「魚」の「灬」の地形、「有」=「しなやかに曲がる尾根から延びる山稜の様」の地形を見出すことができる。

鮪=しなやかに曲がる尾根からの延びる山稜(有)が魚の鰭の形(魚)のところと読み解ける。「朴井」の北辺に当たる場所である。古事記の記述で見つかった「物部」の地もかなり埋まって来たようであるが、それでもまだまだ余裕がある。古代の賑わいを彷彿とさせる「物部」一族の登場である。
 
<市經家・丹比小澤連國襲>
市經家

「市經」これも唐突な出現で、かつこれ以外には見当たらない地名である。「經」はそれなりに現れる文字で、經=細い山稜が延びて突き出た様と読み解いて来た。「市」=「集まる様」だから、一応の地形は思い浮かぶようである。

問題は場所である。ヒントは、難波に執着した孝徳天皇の御子である。また難波にあった宮の一つ、味經宮に「經」が含まれることであろう。

すると「難波」の地には「市」の形は見当たらないが、西隣の「丹比」では山稜の端が近付き重なり合うような地形が見受けられる。

高低差が少なくなって地図上は判別し辛くなっているが、間違いなく真っ直ぐに延びる山稜があつまった地が識別できるようである。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保の中久保辺り、大原八幡神社辺りと推定される。これが当時の有間皇子のご自宅だったのであろう。

図には後に「藤白坂」で処刑人となる「丹比小澤連國襲」の居場所も併記した。幾度か登場の「澤」=「水+睪」と分解され、水辺が点々と連なった様を示すと読み解いた。「襲」=「重なった様、引き継ぐ様」の意味を持つ文字である。小澤連國襲=小さな水辺が連なった地から延び出て大地が重なったようなところと読み解ける。ゴルフ場開発で些か変形しているが、何とか読み取れる地形である。

それはともかく、連座した連中を「紀温湯」に送り込んだと記載されている。さりげなく記された「温泉」、ではなく「温湯」である。やはり「隔絶された地」で、管理できる諸設備が整っている場所なのであろう。
 
<守君大石・舍人新田部米麻呂>
● 守君大石・舍人新田部米麻呂

謀反に連座した連中の名前が載せられている。ひょっとしたら赤兄臣の息の掛かった者も含まれているかもしれないが、それは後日の物語としよう。

「守君」は書紀に記載された景行天皇の御子、大碓命が祖となった一族と思われる。古事記にも記述があり、同じく守君の表記とされている。

場所は、現地名の行橋市上稗田辺り、既出の舍人田目連の近隣である。大石=平らな頂の麓にある台地と読み解ける。

図に示したように既出の守=山稜に囲まれた蛇行する川が流れるところの出口辺りの台地(やすらぎ苑)を表していると思われる。

「舍人新田部米麻呂」の「新」=「辛+木+斤」と分解され、「斧で切り裂いた様」を意味する文字とされる。地形象形としては、新=山稜が途切れた様と読み解く。「田目連」の「目」=「隙間」を表す文字であり、同じ場所に異なる表現を行っているようである。

すると「新田部米麻呂」はその裏側の地を示していると推定される。少々判り辛いのが「米麻呂」=「米粒のような麻呂」と読めるが、辛うじて判別できそうな地形が見出せる。地図上での見極めは限界に近いであろう(Google Street Viewで確認、詳細略)。

● 坂合部連藥・鹽屋連鯯魚

「坂合部連藥」は既に坂合部連磐鍬に併記した。どうも出自の場所の狭さが挙動に大きく影響しているように伺える。ある意味自然の流れかもしれないが・・・。また「鹽屋連鯯魚」については孝徳天皇紀の「勤務評定」でお褒めの言葉を頂戴した一人に挙げられていた人物である(場所はこちらを参照)。褒められて舞い上がったわけでもないであろうが、一命を落とす羽目になったようである。

「坂合部連藥」を除く残りの三名は、市經家まで直線距離で2km前後の近隣に住まって居たことが判る。常日頃に寄り集まっていた仲間だったのかもしれない。それで連座となってはたまらなかったであろうが、事の真相は闇の中である。

庚寅、遣丹比小澤連國襲、絞有間皇子於藤白坂。是日、斬鹽屋連鯯魚・舍人新田部連米麻呂於藤白坂。鹽屋連鯯魚、臨誅言、願令右手作國寶器。流守君大石於上毛野國、坂合部藥於尾張國。(或本云、有間皇子、與蘇我臣赤兄・鹽屋連小戈・守君大石・坂合部連藥、取短籍卜謀反之事。或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人一日兩夜邀牟婁津、疾以船師斷淡路國。使如牢圄、其事易成。或人諫曰「不可也。所計既然、而無德矣。方今皇子年始十九、未及成人、可至成人而待其德。」他日、有間皇子與一判事謀反之時、皇子案机之脚無故自斷。其謨不止、遂被誅戮也。)

騒動勃発から一週間も経たないうちに斬首であった。その場所は上記で読み解いた「藤白坂」であった。有間皇子は縛り首、鹽屋連鯯魚及び新田部連米麻呂は斬首、守君大石は上毛野國、坂合部藥は尾張國へそれぞれ流罪としたと記載している。

書紀の本編は以上なのだが、引用の「或本云」が続く。それによると有間皇子は與蘇我臣赤兄・鹽屋連小戈・守君大石・坂合部連藥と謀反を起こすと書き残した短籍(短冊)を作っていた、と伝える。また別の本によると、先ずは宮を焼き、五百人で一日両夜牟婁津で迎え討つようにして、淡路國を断てば、牢屋に籠るようにすれば事は成ると言ったが、諌める人も居たようで、結局謀反は成就せずに誅殺されたとのことである。

「或本云」で中大兄皇太子の影を薄めようとしたのか、すれば悲劇の皇子は、張本人となってしまう感じである。ちょっと先読みになってしまうが、蘇我臣赤兄は後に左大臣になる。皇子抹殺の陰謀は、中大兄皇太子(表に登場しない中臣鎌足内大臣)が仕掛けたものであろう。
 
<鹽屋連小戈>
本編に登場した「丹比小澤連國襲」、「藤白坂」は上記で、また、既出の「上毛野國」は現在の築上郡上毛町、「尾張國」は北九州市小倉南区長野辺りと思われる。


「或本云」中に出現した人・地名を読み解いておこう。
 
● 鹽屋連小戈

「鹽屋連鯯魚」の近隣、二俣に岐れた「コノシロ」の尻尾の片割れと思われる。

書紀本編とは、魚の尻尾が入れ替わったような状況であるが、真偽は、勿論不詳であろう。両方が絡んでいたのかもしれない。

「鯯魚」が孝徳天皇から「奉順天皇。朕深讚美厥心」のお褒めの言葉を貰った六人中の一人(Blog No. 415)のように「鹽屋」の地は、かなり豊かな地であったと思われる。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が娶った三嶋湟咋の比賣、伊須須岐比賣命(別名伊須氣余理比賣命)が最初に坐した場所と推定した。天皇家が侵出する以前から開かれた地であったことが伺える。

「鹽屋連鯯魚」が臨終の際に叫んだ「願令右手作國寶器」とは「国の宝器を作らむとしてお前達に謀られ殺されててしまった」(宝器:有間皇子、実際には宝器かどうかは不明だが)の思いを述べているのであろう。即ち、有間皇子のパトロンとしての自負が滲み出ているようである。

これも中大兄皇太子にとっては都合の悪いことであったように感じられる。縣犬養として皇統に係る人材が輩出することになる(橘姓)。豪族の台頭に神経質な時期に遭遇した皇子とその仲間、と言えるのではなかろうか。それだけ「公地公民」制への移行への抵抗が凄まじかったとも言えるようである。
 
<牟婁津・淡路國>
牟婁津・淡路國

「牟婁」とくれば、「白浜」となっているようである。「牟婁」の地形を持つ場所として読み解くことが肝要であろう。文脈は、「牟婁津」を遮断して、籠城することを戦略とした、のである。

では籠城する場所は、それに適した場所であろう。孤立無援の見知らぬ土地で籠城することは不可能である。即ち、籠城する場所は、有間皇子の出自の場所、有間温湯(宮)である。

「津國」であり、近隣は「息長」の地である。四方を川、また海で取り囲まれた籠城するには最適な地形を有している場所である。そこへの入口は、有間温湯宮から武庫行宮への行路上にある渡し(現地名行橋市東和泉~道場寺の草場)、を示している。

「牟婁」と言える地形であろうか?…杞憂することなくこの地は「牟婁」(牟の地形の傍に数珠つなぎの台地が並んでいるところ)の地形の「津」となっている。すると「淡路國」は対岸の多くの川が流れる大地を表すことになる。「淡路國」は書紀に登場するのであろうか?…否である。淡路島(嶋、洲)はあるが、「國」は付かない。するとこの文字列も地形象形した表記であろう。

「淡」=「水+炎」と分解される。「水が飛び散る様」とすれば「淡海」に用いられた解釈となる。書紀が忌避する「淡海」である。川が狹いところを蛇行して流れると水は飛び散るのである。即ち、「細い川が蛇行して流れる様」を意味していることが解る。淡路國=多くの細い川が蛇行して流れる(淡)傍らを通る道(路)がある大地と読み解ける。この大地を吉士=蛇行する川で満たされたところと紐解いた。

「南紀白浜」と「淡路島」その位置関係から書紀の記述を理解することには無理がある。重々承知で、何とか押込もうとする諸説が登場するわけである。書紀の編者も苦労をした文字選びを行っている様子が透けて来るが、憶測はこれくらいにしておこう。

是歲、越國守阿部引田臣比羅夫、討肅愼、獻生羆二・羆皮七十枚。沙門智踰、造指南車。出雲國言「於北海濱魚死而積、厚三尺許。其大如鮐、雀涿針鱗、鱗長數寸。俗曰、雀入於海化而爲魚、名曰雀魚。」(或本云、至庚申年七月、百濟遣使奏言、大唐・新羅幷力伐我。既以義慈王・王后・太子、爲虜而去。由是、國家以兵士甲卒陣西北畔、繕修城柵斷塞山川之兆也。)又、西海使小花下阿曇連頰垂、自百濟還言、百濟伐新羅還時、馬自行道於寺金堂、晝夜勿息、唯食草時止。(或本云、至庚申年爲敵所滅之應也。)

「越國守阿部引田臣比羅夫」が「肅愼」を討伐して、生きた羆、羆の皮を献上したと記されている。後に阿倍臣(闕名)が実際に蝦夷を伴って戦うのであるが、小競り合いが続いていたのかもしれない。詳細はその段になって述べることにして、「粛愼(國)」は何処にあったのであろうか?…通説は、ほぼお手上げ状態のようである。

欽明天皇紀に…越國言「於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人、乘一船舶而淹留、春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也、亦言鬼魅不敢近之。・・・(後略)・・・」…と記載されていることから現在の佐渡島の北部に居た粛愼人の話で、「粛慎國」に直接関連する話ではなさそうである。
 
<粛愼國>
また中国史書に登場する「粛愼」を引っ張り出しても、反って混乱するばかりであろう。

そんな背景の中で「蝦夷」ではない「蝦夷」の扱いになってしまい、色々語られているのだが、文字が示す意味をせいぜい「慎ましい人」程度で終わっているようである。

では、文字解きを行ってみよう。「肅」=「聿+𣶒」と分解する。「聿」=「筆の形」と読み解いて来たが、正確には「筆を立てた様」である。

「𣶒」は「淵」の原字である。すると「肅」=「崖淵に立って見下ろす様」を表していると解説される。通常使われる「身が引き締まる」意味に通じて来るのである。

地形象形的には、実はそのものズバリの地形が見出せる。北九州市門司区旧門司、関門海峡に面して突っ立っている筆立山~古城山の西麓である。=筆を立てたような山の麓にある淵を表している。「筆立」は間違いなく残存地名であろう。

「愼」=「忄+眞」と分解される。「眞」は古事記に頻出の文字で「一杯に詰まった様、いくつも寄り集まった様」と読み解いた。「忄」=「心」であるが、地形象形的には、この文字形を利用していると思われる。即ち「小ぶりな谷間」と読み解く。すると愼=小ぶりな谷間がいくつも寄り集まったところと紐解ける。

纏めると慎=筆を立てたような山の麓に淵がある傍らの小ぶりな谷間がいくつも寄り集まったところと解釈される。古事記が伝える熊曾国である。倭建命が征伐したかのようで、決して媚びることなく存在した人々が住まう地である。東隣の「蝦夷」の地と併せ、前記したように新羅が倭國内に築いた出先の地、少なくとも倭國はそう受け取った地域である。

書紀は「熊襲國」と表記する。「襲」も「曾」と類似する意味を表す文字である(上図<市經家・丹比小澤連國襲>参照)。なのだが、書紀の編纂の都合上、この地には存在しないかのような記述なのである。故に新しい名称を作る必要があった、と推測される。「肅」の文字は実に適切、見事な地形象形である。後に戦闘場面が記述されるので詳細はそちらとする。
 
<越國守阿部引田臣比羅夫>
雀魚」の話が載せられているが、この魚は「雀涿針鱗」(ハリセンボン?)だと言う。何かの予兆としてみるなら、武器を持った輩が大挙して上陸して来る、ということかもしれない。

出雲の北海の浜だから意味ある位置関係であるが、いずれの時かに述べてみよう。登場人物の出自について簡単に・・・。

● 越國守阿部引田臣比羅夫

「阿部」は「阿倍」の地と考えてよかろう。前者は「咅(花の子房)が集まるところ」、後者は「谷間の咅」の違いがある。

「引田」の「引」=「弓+|」と分解される。弓を引く様を表した文字である。地形象形的には「引田」=「弓を引くように田を広げた様」と解釈できるから、既出の比羅夫=並び連なって交差するようなところと組み合わせると、引田臣比羅夫=弓を引くように広げた田を並び連ねて交差させたところと読み解ける。図に示した場所と推定される。「部」と「倍」の違いを、きちんと使い分けていることが解る。交差するところで「咅」が集まった地形である。
 
<越國守>
「越國守」と冠されている。この表記は書紀中にここだけである。出自が「阿部」で現住所が「越」なのであろう。「守」=「山稜に囲まれた麓に蛇行する川があるところ」とすると、図に示した門司区伊川小学校辺りと推定される。

推定した「阿倍」の狭い地から、多くの有能は人材は輩出している。財力ではなく、才覚で天皇家に貢献した一族だったと思われる。「公地公民」制は益々彼らの活躍する場を提供したのであろう。

また、西海使であった阿曇連頰垂(出自の場所はこちら)が百濟から帰朝したと伝えている。百濟が新羅を征伐したと言う。

それは西暦658年時点の状況であって、戦いは一進一退だったことが伺える。結局、(或本云)として西暦660年(即位六年)七月に百濟は唐・新羅によって滅ぼされたと伝えている。朝鮮半島内の混乱もいよいよ本格化の様相である。即位四年の十一月だから残り一年半ばかりで時代の変曲点に差し掛かるのである。