2020年3月31日火曜日

品陀和氣命(応神天皇):渡来の文化・技術 〔400〕

品陀和氣命(応神天皇):渡来の文化・技術


中国史書やら日本書紀、やはり読んでみるものである。簡明な古事記の記述では、なかなか読み取れなかったところが見えて来たようである。品陀和氣命(応神天皇)紀に渡来の文化・技術の記述がった。それに伴って人名が記載されていた。渡来人なのに何故倭名が付く?…と思いながらも手付かずであった。既稿の部分を引用しながら見直してみようかと思う。

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神功皇后の功績大である。人も文化も技術も多方面に渉って渡来してくる。倭国が大変貌する時期に差し掛かったと思われる。古事記原文[武田祐吉訳]…、

此之御世、定賜海部・山部・山守部・伊勢部也。亦作劒池。亦新羅人參渡來、是以、建內宿禰命引率、爲役之堤池而、作百濟池。亦百濟國主照古王、以牡馬壹疋・牝馬壹疋、付阿知吉師以貢上。此阿知吉師者、阿直史等之祖。亦貢上横刀及大鏡。又科賜百濟國「若有賢人者、貢上。」故受命以貢上人・名和邇吉師、卽論語十卷・千字文一卷幷十一卷、付是人卽貢進。此和邇吉師者文首等祖。又貢上手人韓鍛・名卓素、亦吳服西素二人也。
又秦造之祖、漢直之祖、及知釀酒人・名仁番、亦名須須許理等、參渡來也。故是須須許理、釀大御酒以獻。於是天皇、宇羅宜是所獻之大御酒而宇羅下三字以音御歌曰、
須須許理賀 迦美斯美岐邇 和禮惠比邇祁理 許登那具志 惠具志爾 和禮惠比邇祁理
如此歌、幸行時、以御杖打大坂道中之大石者、其石走避。故、諺曰「堅石避醉人也。」

[秦の造、漢の直の祖先、それから酒を造ることを知つているニホ、またの名をススコリという者等も渡つて參りました。このススコリはお酒を造つて獻りました。天皇がこの獻つたお酒に浮かれてお詠みになつた歌は、
ススコリの釀したお酒にわたしは醉いましたよ。平和なお酒、樂しいお酒にわたしは醉いましたよ。
かようにお歌いになつておいでになつた時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになつたから、その石が逃げ走りました。それで諺に「堅い石でも醉人に遇うと逃げる」というのです]
 
劔池・百濟池

<劔池>
建内宿禰が「新羅人」を率いて「百濟池」を作らせた…皮肉なことを・・・。

「劔池」は大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の墓所、劒池之中岡上陵で既に登場していたのであるが、これは当時既にあった池、上記は新しく作ったのであろう。
同様の形の池を探索しても見当たらず、単なる古刀を象った表記ではないと思われる。故に改めて文字解釈を行うことにする。

「劔」=「僉+刃」と分解される。「僉」=「一ヶ所に寄せ集める」という意味を表す文字と解説される。即ち「先端が∧の形をなす様」であり、刀の刃の形を示している。

図に示した現在の二重ヶ池の形が刀の刃を示していると思われる。幾度か述べたように現存する池の形は多くの変遷を経ているかと思われるが、輕嶋之明宮を中心とした地域にあった池と推測される。彦山川流域を開墾する上で必要不可欠な溜池であっただろう。

 
<百濟池(堤池)>
「劔」の形も大きく進化したことを暗示しているような感じである。まだまだ直刀だったであろうか?・・・。


次いで「百濟池」を新羅人に作らせるのであるが、この池は「堤池」の形をしていたと記している。

「堤」=「土+是(匙)」と分解される。要するに「匙の形をした池」と読み解ける。

古事記中での「百濟」の出現は4回のみ、上記とその内の3回が当該のところである。実に付加的説明のない扱いとなっている。

上記の「古波陀」が「百濟國」を示すと読み解いたように、朝鮮半島南部の西側の地形との類似で「紐解いてみよう(こちら参照)。

「百」=「一+白」と分解される。五百津五百木に含まれる文字である。「百」=「一様に連なる丸く小高いところ」と読む。「濟」=「水+齊」=「水のように等しく並び揃う」と解説される。すると「百濟」は…、

 
丸く小高いところが一様に連なって並び揃っているところ

…と読み解ける。これは「師木」に類似する地形を表していることが解る。些か広い「師木」の中で輕嶋に近いところから抽出すると「匙」の形をした池が見出せる。現地名は田川市夏吉の東町辺りである。古事記の範疇から逸脱するが、日本書紀の舒明天皇紀に百濟川・百濟宮・百濟寺が登場する。上記の「百濟池」の近隣であると推定した。「百濟池」から流れ出た水は「百濟川」の注ぐようようである。
 
阿知吉師・阿直史等・和邇吉師

百濟王より送られた馬やら論語に人を付けたと記載されている。先生が伴って来たのである。そしてその名前が倭名である。即ち先生達に「別」を付与したことを示していると思われる。同時に彼らの居場所をも表していることになる。
 
<阿知吉師・阿直史等・和邇吉師>
「吉師」は帶中津日子命(仲哀天皇)紀の忍熊王の謀反を征伐する役目の難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲將軍に登場する。

先生達は本来の使命に加えて「吉師」の開拓も併せて担うことになったのであろう。それでも与えられた土地から十分な財が得られたと推測される。

山稜の端の凹凸が少ない地を散策することになる。何とかそれらしき場所を求めることができたようである。

「阿」=「台地」と言ってもかなり低いところではある。「知」=「矢+口」で幾度も登場した文字である。「鏃」の形を表す。「阿知吉師」は難波津に向かって長く、低く延びた地形を示していると読み解ける。現地名の行橋市泉中央辺りである。

その地は後に大きく発展したのであろう。「阿直史等」の「直」=「|+目」で、真っ直ぐな谷間を表す。古いところでは天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天菩比命の子、建比良鳥命が祖となった津嶋縣直で出現した。

「史」=「中+手」で「真ん中を突き通すような山稜」と読み解ける。「等」=「竹+寺」と分解する。「竹(丘陵)」として「寺」=「之:蛇行する川」と読む。伊邪那岐命の禊祓で誕生した時量師神に含まれている。全ての文字が要求する要件を谷間の西側の地形が満たしていることが解る。

「和邇吉師」は蛇行する祓川に隣接する地、現在の行橋市東泉辺りと推定される。頻出の「和邇」=「しなやかに曲がる地に近いところ」で読み解ける。決して「丸邇」でも「鰐」でもない。

 
秦造之祖・漢直之祖・釀酒人仁番(須須許理等)

名前は記されないが「秦造」、「漢直」の祖及び漢名、倭名まである「釀酒人」が渡来したと告げている。

とりわけ「秦」については詳細を記述することを避けたような感じである。中国史書、隋書俀國伝の中で極めて重要な地名に関わるのである。即ち「日本國」と名乗る「俀國」の場所が詳らかになる表記となる。これは許されなかったのであろう。別稿<魏書・隋書・後漢書・唐書東夷伝新釈>を参照。

とは言え、この場所の特定は決して易しくはない。図に示したように「秦」の古文字が示す形そのままが地形を象形すると解釈した。嫋やかに曲がる二つの山稜が延びているところを表す。現地名は北九州市八幡西区穴生・鷹の巣辺りと推定される。

この地は中国の秦人が住まっていた拠点として知られている。彼らのシンボルが「鷹」であり、「鷹(高)見神社」が数多く集中する地域である。図の山稜が延びる権現山の山頂に鷹見神社奥宮が鎮座している。詳細は地元の方のブログで推論されている程度であろう。

<葛野秦造河勝>
奈良大和の地名を残存地名として、いや、それを唯一の根拠に地名比定されるが、日本の歴史学は根本的に見直さなければならないようである。

以上が「秦」に関する考察であるが、この地との交流は殆ど古事記でも日本書紀でも登場しないようである。天皇家の支配外の地だったのであろう。

書紀には日本に定着した「秦造」が登場する。例を挙げれば葛野秦造河勝であり、「秦」の地形をした場所に住まった一族と記載されている。

おそらく古事記が述べる「秦造」はこの地に関連すると思われる。「天神族」も、勿論渡来人であるが、その後も多くの渡来があったのである。その人々を巧みに活用したことが語られている。
 
<漢直>
「漢直」も全くの唐突に記載される。上記と異なり、関連する記述が後に登場する。が、これも決して単純ではない。

沼名倉太玉敷命(敏達天皇)紀の娶りの記述に漢王が現れる。その出自は未記載かと思いきや、「漢王=難波王」と推定しなければ辻褄が合わない記述なのである。

文字を紐解くと、実に「漢」と「難」とは同根であることが解る。既に一部は述べたが、「漢」=「水+𦰩」であり、「難」=「𦰩+隹」と分解される。

更に共通する「𦰩」=「革+火」と分解され、「革を火で炙って乾かす」意味を表す文字である。「漢」=「革の水分が無くなった様」、「難」=「鳥が焦げて縮こまった様」を意味する。地形象形的には共に皺が寄ったような曲りくねった様を表すと読み解ける。

実に自在な文字使いなのであるが、決して単純に文字面を眺めていただけでは読み取ることは困難な表記であろう。そこに編者達の狙いが潜んでいると思われる。

とは言うものの、上記の「秦」と異なり「漢王=難波王」と読ませて「漢」の場所を示唆していると考えられる。「漢直」は、図に示した通り、犀川(現今川)の曲がり角にある真っ直ぐな谷間の場所を示している。

 
<須須許理等>
渡来人最後の釀酒人、仁番(須須許理等)は漢名も記されている。倭名がその居場所を表すのであるが、関連する既出の人物名から類推することになる。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が娶った三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣の御子に富登多多良伊須須岐比賣命が居た。後に改名して比賣多多良伊須氣余理比賣と呼ばれた。

特徴ある「須須」の地形に関わる場所と推定される。その「須須」の傍(許)で区分けされ(理)蛇行する川(等)の傍らにあるところと読み解ける。

この地は早期に米作りが行われていたところと思われる。「三嶋湟咋」の名前が表すように治水され谷間の奥深く迄棚田(茨田)が作られていた。

勿論そこに目を付けたのが神倭伊波禮毘古命、その前に出雲の大物主大神であって、天皇家の豊かな財源となったと推察される。豊かな米…勿論良質の…釀酒人が必要とするものであったろう。

「呉服」の文字もあり、物作りの技術が渡来してきたと述べている。実に貴重な記述として後世に伝えるべき事柄であろう。色々懸念事項はあるものの倭国は栄え、大国へと歩んでいることを表している。飛鳥を落とす、ではなく大岩をも動かす勢い、と言っているのではなかろうか・・・。



2020年3月29日日曜日

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅸ) 〔399〕

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅸ)


さて、いよいよ戦いが始まるのであるが、何とも他愛のない出来事を伝えている。古事記の説話と同じ感覚で読んでは真のことは理解できないのかもしれない。敗軍の将、蝦夷大臣を小ばかにした記述と思われる。即位九年(西暦637年)のことである。原文引用は青字で示す。

是歲、蝦夷叛以不朝。卽拜大仁上毛野君形名爲將軍令討、還爲蝦夷見敗而走入壘、遂爲賊所圍。軍衆悉漏城空之、將軍迷不知所如、時日暮、踰垣欲逃。爰、方名君妻歎曰「慷哉、爲蝦夷將見殺。」則謂夫曰「汝祖等、渡蒼海跨萬里平水表政、以威武傳於後葉。今汝頓屈先祖之名、必爲後世見嗤。」乃酌酒、强之令飲夫、而親佩夫之劒、張十弓、令女人數十俾鳴弦。既而夫更起之、取仗而進之。蝦夷以爲軍衆猶多、而稍引退之。於是、散卒更聚、亦振旅焉。擊蝦夷大敗、以悉虜。

古事記で幾つかの戦闘場面を読み解いて以来、久々なのであるが、流石に書紀の記述は趣を異にするように感じられる。古事記ではそれぞれの戦闘を再現できるほどに正確に記され、その結末に至る。ましてや多数の女人登場などあり得ない。品陀和氣命(応神天皇)紀の謀反人大山守命を弟の宇遲能和紀郎子が訶和羅前で征伐した例がある。蝦夷大臣は大敗するが、その後は如何?…何とも後味の悪い記述であろう。日本語訳などこちらを参照。
 
<上毛野君形名(方名)>

征伐の役目を仰せつかったのが「上毛野君形名(方名)」と記載されている。「大仁」だから上位三番目の重臣であったとされている。

「上毛野君」は古事記に登場する。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が木國造・名荒河刀辨之女遠津年魚目目微比賣を娶って生まれた豐木入日子命が祖となったと記されている。

「形」=幵(木で組合せた枠)+彡(模様)」と分解され、「」=「四角い形」を表す文字であると解説される。上記の大山守命が祖となった土形君で用いられている。

「方」も同様に「角のある形」を表す文字と解釈される。すると「荒河刀辨」の場所を示していることが解る。「形名(カタナ)=「刀」の洒落た命名かもしれない。

「名」=「夕(月)+囗(大地)」=「山稜の端の三角州(夕月)」と解釈される。古事記に頻出の文字である。最初に登場する天之眞名井を例として挙げておこう。特徴ある地形は別名表記で更に明確に特定できるようである。

「荒河刀辨」の素性は明らかではないが、大国主命が八十神達による幾多の試練を乗越える時に木國之大屋毘古神が登場する。この地は「天神族」の仲間が住みついていた場所である。間違いなく海を渡って来た祖先を持つ一族なのである。それを妻に言わさせた、と記されている。

十年秋七月丁未朔乙丑、大風之折木發屋。九月霖雨、桃李花。冬十月、幸有間温湯宮。是歲、百濟・新羅・任那並朝貢。
十一年春正月乙巳朔壬子、車駕還自温湯。乙卯、新嘗、蓋因幸有間以闕新嘗歟。丙辰、無雲而雷。丙寅、大風而雨。己巳、長星見西北、時旻師曰「彗星也、見則飢之。」秋七月詔曰、今年、造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以、西民造宮、東民作寺、便以書直縣爲大匠。秋九月、大唐學問僧惠隱・惠雲、從新羅送使、入京。冬十一月庚子朔、饗新羅客於朝、因給冠位一級。十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮。是月、於百濟川側建九重塔。

蝦夷大臣が大敗した月日は詳らかではなく、その翌年(西暦638年)秋の話に飛んでいる。大臣の要職は誰が?…大敗しても以前のまま?…また百濟などの出迎えは如何に?…などなど、些か雑な記述であろう。秋七月には大風、九月には降り続く長雨(霖雨)があって、桃李の花が咲いたとのこと。狂い咲いたか?…天皇は、また、有間温湯宮に行かれたようである。

翌年の即位十一年(西暦639年)正月に有間から戻られた。おそらく宮廷内は平穏な雰囲気ではなかったのであろう。群臣達の権力争いも生じていたのかもしれない。蘇我一族内の内輪もめも含めて・・・まぁ、色々と妄想は逞しくなる、そんな記述であろう。新嘗祭は、天皇が有間に行っていたからではなく、宮廷内の状況が原因で先送りとなったのであろう。

そして、またまた大風、彗星などの飢饉の予兆、それには事業を起こして気持ちを引き締めようとした、と記載されている。百濟川の畔に百濟宮と百済寺を造ることにしたとのことである。
 
百濟川・百濟宮・百濟寺

百濟川の東西側に寺と宮を、それぞれ東西の民に造らせたと記されている。「百濟」は朝鮮半島の百濟國を示す筈はなく、田中宮の近隣地域と思われる。古事記に「百濟」は品陀和氣命(応神天皇)紀に登場する。建内宿禰が新羅人を引率して造った百濟池(堤池)である。

百濟=丸く小高いところが一様に連なって(百)並び揃っているところ(濟)と読み解いた。「師木」に重なる表記である。その地に堤池=匙(サジ:堤)の形した池があることを突き止めた。この池から流れ出る水が注ぐ川、それが「百濟川」と推定される。正に百濟(師木)の中央を大きく蛇行しながら流れる川である。
 
<百濟川・百濟宮(寺)・(倭漢)書直縣>
残念ながら現在は川名不詳であるが、勿論これを現在に残存させることはなかったであろう。


伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の師木玉垣宮もこの川の上流域で支流が曲がりながら合流するところの畔にあったと推定した。

おそらくこの池の近隣に宮と寺を川を挟んで東西に造ったと思われるが、なかなか見極め辛いようである。

「大匠」の名前「書直縣」が記載されている。これは場所の情報を兼ねているのではなかろうか。後に「倭漢」が付加される。

「書」=「聿+者」と分解すると、書=[筆]の形()を寄せ集めくっ付けた(者)様を表していると読み解ける。古代は筆で書いた文字が付いた竹簡を寄せ集めくっ付けたものが「書」であったと知られる。図に示したように一方の山稜が筆先のように細かく分かれていて、それがもう一方の山稜に寄り集まってくっ付いた地形を示すところを示していると解釈される。

そこに既出の縣=糸のような隙間(系)に小高いところ(首:県の逆さ文字)がぶら下がった(くっ付いた)様を示すところに直=真っ直ぐな隙間(目)がある、と読み解ける。即ち百濟宮・寺は真っすぐに流れる川の対岸に造られたことを伝えていると思われる。宮と寺は、両岸が小高くなっているところと推定した。九重塔は寺側に建てられたのであろう。
 
<伊豫温湯宮>
書紀の編者達も立派というか、見事な地形象形表記が行える力を有していたことが解る。

残念ながらお上の申しつけには逆らえなかった、のであろう。古事記と書紀の表記を併せて解読できることの心証が得られた思いである。

それにしても日本國は、すっかり仏教国になったようで、神様は何処かに雲隠れ、なのであろうか・・・。

天皇はその年の十二月に「伊豫温湯宮」に向かったと伝えている。古事記に登場の伊余湯の場所であろう。「温湯」の解釈は有間温湯と同様とする。

この谷間の出口が「大雀命」の出自の場所となる。現在も小さな頭の鳥が鎮座しているように伺える。有間よりも田中宮から遠く、更に険しい谷間、益々宮中の連中が寄り付きそうもない場所を選んでいる。混迷は収まらず、なのかもしれない。

十二年春二月戊辰朔甲戌、星、入月。夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊豫、便居廐坂宮。五月丁酉朔辛丑、大設齋、因以請惠隱僧令說無量壽經。冬十月乙丑朔乙亥、大唐學問僧淸安・學生高向漢人玄理、傳新羅而至之、仍百濟・新羅朝貢之使共從來之、則各賜爵一級。是月、徙於百濟宮。
十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩于百濟宮。丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。是時、東宮開別皇子、年十六而誄之。
 
<厩坂宮>
ここで登場する「廐坂宮」の場所を求めて、舒明天皇紀を終えることにする。

「厩」の場所は上宮之厩戸豐聰耳命の場所、上宮(石上廣高宮)がある山稜の麓とを示すと思われる。古事記で幾度か登場する「坂」の解釈が有効であろう。

「坂」=「土+反」と分解される。更に「反」=「厂+又(手)」から成る文字である。これをそのまま地形象形として用いているのである。

坂=崖(厂)にある腕を伸ばしたような山稜(手)と紐解ける。厩坂宮は、図に示した長く延びたところ、その先端部にあった宮と思われる。百濟宮と同じく、現地名は田川市夏吉である。

「無量壽經」を僧に説かせたとある。一心不乱に念仏を唱えれば極楽浄土に往生できる。後の浄土教の根本聖典とのことである。古事記が語る黄泉國は、少々過酷な場所のイメージが強かったのかもしれない。
 
高向漢人玄理

学生「高向漢人玄理」が新羅を経て帰国したと伝えている。推古天皇十六年(西暦608年)に南淵漢人請安(後に南淵先生として登場する)らと共に「隋」に留学していた。この年は西暦640年であり、三十年以上も留学していて、その間に「隋」から「唐」に変わっている。大化の改新後には「国博士」という称号を拝したとのことである。
 
<高向漢人玄理>
出自を調べてみると父親は「高向古足」で渡来した漢人の後裔と知られている。名前に「漢人」が入っているのもそれを示しているようであるが、これは重ねた表記と思われる。

「高向」の文字は蘇賀石河宿禰が祖となった中に高向臣が登場するが、これは蘇賀の地であって、「漢人」が入り込む隙間はなかったであろう。

出自を調べた時に彼らは「河内」に関わる場所に住まって居たことが分かった。すると河内にある漢人=谷間で大きく川が蛇行するところを表していると読み解ける。古事記におけるその地は現地名で京都郡みやこ町勝山浦河内と推定した。

「玄」=「弓と弦が作る形」を表すと紐解いた。櫻井皇子(櫻井之玄王)に含まれていた。「理」=「切り分けられたところ」を示し、図に指名した場所の地形を表していると思われる。別名「黑麻呂」と呼ばれたとのことで、頻出の「黑」の「[炎]の地形」を対岸の山肌が示すと思われる。「麻呂」は「半月の地形」に該当する。

ついでながら父親の「高向古足」を紐解くと、「古」=「丸く小高いところ」、「足」=「帶:山稜が長くなだらかに延びたところ」と解釈すると図に示した場所と推定される。残念ながら神社名は不詳。渡来した漢人達は奥深い峡谷を開拓するように仕向けられたのであろう。そんな地から有能な人材が輩出し、国を支える日本の歴史である。
  
東宮開別皇子

即位十三年(西暦641年)十月九日に百濟宮で崩御された(四十八歳?)。東宮開別皇子(後の天智天皇)は、未だ十六歳だったとのことである。唐突に皇子の年齢を伝えるという中途半端な記述、書紀らしいと言えばそれまでだが、何かの思惑があってのことであろう。後日に述べてみようかと思う。

天智天皇については、皇子名も含めて、葛城皇子近江大津宮御宇天皇天命開別天皇などがあり、それに「東宮開別皇子」が加わる。地名に関わるキーワードは「葛城」、「近江大津」、「天命」、「開別」であり、前記でそれらが示す地を特定した(近江→淡海として)。ここで新たに加わっているのが「東宮」と思われる。

ところが、「東」は古代中国の五行説から「皇太子」を示すと辞書に記載され、古典文学大系によると「マウケノキミ」と読むそうである。弔辞(誄)を述べたと言うなら、さもありなんと思わせる記述であるが、「皇太子開別皇子となって重なった表記である。「東宮開別」あるいは「開別皇太子」であろう。続く「開別」は「近江大津」の地にある特徴的な地形を表していた。

即ち「東宮」=「近江大津宮」を示し、東=近江大津と読み解ける。岡本宮、田中宮、百濟宮など登場する多くの宮がある地(現地名:田川郡香春町・田川市夏吉)の東方にある宮(現地名:行橋市天生田)と記しているのではなかろうか。書紀本文では「皇子」であって「皇太子」とは記述されていないし、実際そうではなかった筈である。

「淡海の津」の近傍にある「開別」の地は東方に位置する。奈良大和から「近江」は北方であろう。書紀編者の良心の欠片が残した「東宮」かと思われる。「東宮開別」の文字列は、書紀中ここでの登場だけである。書紀の「東宮=皇太子」という表現が統一されてないのでは?…と疑問を呈している方もおられる(こちらを参照)。詳細は書紀を読み進める内に明らかとなって来るように思われる。

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古事記における漢字を用いた地形象形表記は、日本書紀でも同様に行われていることが判った。中国史書も含めて倭人達の間では極当たり前のことであったと推測される。白地図のような土地に棲みついた彼らが生み出した文化と言えるかもしれない。

がしかし、その精緻さが仇となってしまう場合も発生したようである。その場所を隠蔽する必要に迫られた支配者は、培われた文化を闇の中に送り込んでしまった。引続き読み解いて行こうかと思う書紀の記述に変化があらわれるのか、楽しみでもある。




2020年3月26日木曜日

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅷ) 〔398〕

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅷ)


さてさて準備万端整ったところで唐からの使者を迎えることになる。西暦632年以降の出来事である。原文引用は青字で示す。

四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。冬十月辛亥朔甲寅、唐國使人高表仁等泊于難波津、則遣大伴連馬養迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾、便告高表仁等曰「聞天子所命之使到于天皇朝、迎之。」時、高表仁對曰「風寒之日、飾整船艘以賜迎之、歡愧也。」於是、令難波吉士小槻・大河內直矢伏爲導者、到干館前。乃遣伊岐史乙等・難波吉士八牛、引客等入於館。卽日、給神酒。
五年春正月己卯朔甲辰、大唐客高表仁等歸國。送使吉士雄摩呂・黑摩呂等到對馬而還之。

遣使の犬上君三田耜が唐の高表仁に送られて帰国する。学問僧(その内の僧旻は後に登場する)新羅の送使を伴っていたとのことである。難波津(現行橋市)までの途中の停泊地は対馬のみが記載されている。省略されているかもしれないが、壱岐には寄らず、対馬からの直行ルートが最短であろう。航続距離が少し延びれば容易だったであろう。

言えることは、「日本国」は博多湾岸ではない、ことである。また隋書俀國伝に記載のルート(およそ三十年前)は、既に過去のものになっていたのであろう。勿論関門海峡を通らず、筑紫嶋(現企救半島)の南側を抜けて難波津に向かったと推定される。

そこで迎えの者が数人登場する。大伴連馬養難波吉士小槻③大河內直矢伏伊岐史乙等難波吉士八牛である。そして翌年高表仁の帰国に際しての送使として、吉士雄摩呂吉士黑摩呂の名前が挙げられている。
 
<大伴連馬養>
大伴連馬養は既出の群臣の一人、大伴鯨連の近隣を出自とする名前であろう。蘇賀の北西の谷間である(現地名は京都郡苅田町山口)。

「養」=「羊+食」と分解される。「羊」は、古事記頻出の文字で、「美」にも含まれ、「谷間に広がる大地」と読み解いた。

例示すると神功皇后が三韓から帰国して品陀和氣命(後の応神天皇)を産んだ場所である宇美がある。隋書俀國伝に記載された使者裴世清が辿り着いた海岸(ウミノキシ)があった場所でもある。

「伴」=「二つに分かれたところ」と読んだ、その隙間(谷間)を「羊」が表していると読み解ける。「食」=「∧+良」=「山麓のなだらかな地形」を表す。これも古事記に登場した文字である。例示すると伊豫之二名嶋の讃岐國・別名飯依比古に含まれる「飯」が示す地形である。

ここまでは順調?…なのであるが、肝心の「馬」の象形を見出すことに手間取った。上記の「鯨」も同様に一見では見つかり難いところだったが・・・「馬」の古文字を図に示した。それで漸くにして読み解けたのである。馬養=「馬」の地形の傍らにある谷間の先に延びた山麓のなだらかなところと読み解ける。
 
<難波吉士小槻・難波吉士八牛>
次いで「吉士」の連中を纏めて読み解いてみよう。「吉士」の地が埋まるかも、である。難波吉士についてはこちら及び難波吉士身刺を参照。

難波吉士小槻、の「小」=「三角の形」で頻出である。「槻」=「木+規」と分解される。

「規」=「丸く区切る様」(コンパス)を表す文字と解説される。小槻=丸く区切られた地が三角形に並ぶところと読み解ける。

山稜の端の先になって標高差が少なく判別が難しくなっているが、小高いところが三角に並んでいる場所が見出せる。現地名は行橋市東泉と南泉の境である。

難波吉士八牛の「八」=「谷」であろう。「牛」も「馬」も度々登場するが、押し並べてそれらの古文字の形、特徴を抽出して用いているようである。「牛」の特徴は「角」であり、その地形を求めると、八牛=谷間にある「牛」の形をしたところがあることが解る。
 
<吉士雄摩呂・吉士黑摩呂>
群臣難波吉士身刺と言う極めて特徴的な地形として求めた場所の周辺に位置するところであることが読み取れた。

更に送使の二名が吉士雄摩呂吉士黑摩呂と記されている。「雄」=「厷+隹」と分解される。「厷」=「翼を広げた様」を表し、「オス」と解釈されている。

地形象形的には、そのままの形、雄=翼を広げた鳥のようなところと読み取れる。摩呂=近付いて並ぶ高台と読む。

図に示した矢留山の山容そのものを表していることが解る。黑=炎のような山稜の麓の稲田と読んだ。例示すれば仁徳天皇紀に登場する黑日賣などである。

矢留山の尾根が更に延びたところの地形が表記されたと思われる。原文は「吉士雄摩呂・黑摩呂」と併記している。それも図の位置関係を示していると思われる。

この地は若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣を娶って誕生した建豐波豆羅和氣が祖となったと記載されている。また御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀には依網池を整備したという記述もある。かなり早期に開拓され人々が住まった場所である。舒明天皇の時代になって有能な人材が輩出するまでに発展したのであろう。
 
<大河內直矢伏>
③大河內直矢伏の「河内」は難波津に注ぐ幾多の川に挟まれた地域と解釈した。

この名称(川内とも表記される)は古く、古事記の天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった凡川内國造に出現する。

現地名の京都郡みやこ町勝山浦河内・宮原・岩熊・矢山辺りと推定した。

「大」が付くことから、平らな頂の山稜の麓に近接した辺りと思われるが、続く文字列「直矢伏」を紐解くことにする。

「伏」=「人+犬」で人の傍で伏せている犬の状態を表す文字であろうが、やはり「犬」=「平らな頂の山麓」と読む。

「大」と区別すると「犬」=「枝稜線が作る(小ぶりな)平らな頂の山麓」となろう。即ち「直矢」では場所の特定が曖昧で、「伏」を付加して明確にした、と解釈できる。

図に示したように直矢伏=真っすぐな矢のような谷間で小ぶりな平らな頂の山麓のところと読み解ける。古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が坐した他田宮があった、その上流に当たる。現在の風景ではあるが、標高150mまで、ほぼ真っ直ぐに延びる棚田は見事であろう。日本の原風景を留める地と思われる。
 
<伊岐史乙等・伊岐史麻呂>
伊岐史乙等は古事記の伊伎嶋を示していると思われる。「史乙等」の「史」=「中+又(手)」と分解する。

既出の「中」=「真ん中を突き通す様」と読んだ。すると「史」=「真ん中を突き通す山稜」と紐解ける。

「乙」=「詰まって曲がる様」を象った文字と解説される。古事記の白髮大倭根子命(清寧天皇)紀に登場する菟田首等に含まれている。

「等」=「竹+寺」と分解して、「等」=「山稜の谷間を蛇行する川」と紐解いた。

纏めると史乙等=谷間を蛇行する川の傍らで詰まって曲がる山稜が真ん中を突き通すようなところと読み解ける。図に示した「天津」の地形を表していることが解る。

天石屋の事件に登場した鍛人天津麻羅の場所である。「天神族」は拠点を東へと移しながら過去の地の有能な人材を登用していたのであろう。高天原に人々が住み続けていたことが伺える。

尚、後の孝徳天皇紀に登場する「伊岐史麻呂」の場所も併せて示した。この地は天津國玉神(天若日子命の父親)が坐していたと古事記が伝える場所であるが、邇邇藝命の降臨の際に居残った一族かもしれない。
 
<難波津江口>
引用原文に戻ると、「唐國使人高表仁」を難波津の「江口」で出迎え、「(三韓)館」で接待したと、簡明に記載されている。

ここであらためて難波津の迎賓の場所を纏めてみると、大雀命(仁徳天皇)紀に「掘難波之堀江而通海」と記されている。

山代河(犀川:現今川)の河口付近で浅瀬となっているところを掘って船の通行を容易にしたのが難波之堀江と解釈した。

「江」は入江のように読まれて来たようだが、「江」は揚子江(長江)を表す文字であり、後に大河を示す意味を持つようになったと解説されている。江口=大河の河口が適切な解釈であろう。即ち犀川の河口を示しているのである。

そこを船着場とすると、迎賓施設の見事な陣立てが描かれていることに気付かされる。迎えられた高表仁に「風寒之日、飾整船艘以賜迎之、歡愧也。」言わしめたこととは単に船の飾りだけではなかったのであろう。送迎の使者の多くが「吉士」を名乗る。事前連絡が困難な時代、突然歓迎への即応体制でもあったと思われる。「天神族」、なかなかやるではないか!・・・。

――――✯――――✯――――✯――――

尚、推古天皇紀に裴世清を迎えた記事が記載されている…、

十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。

…推古天皇即位十六年(西暦608年)では、まだ大唐(西暦618年~)になっていない。隋書俀國伝によれば裴世清は、大業四年(西暦608年)に竹斯國の東方の「海岸」に着き「彼都」で歓迎されたとある。「海岸・彼都」を暈すために行った記述なのだが、西暦608年を敢えて動かさなかったのは書紀編者の”良心”なのかもしれない。詳細は後日推古天皇紀に述べることにするが、明らかに奈良大和を中心とした世界を創出することが彼らに与えられた使命だったのであろう。

――――✯――――✯――――✯――――

六年秋八月、長星見南方、時人曰篲星。七年春三月、篲星𢌞見于東。夏六月乙丑朔甲戌、百濟遣達率柔等朝貢。秋七月乙未朔辛丑、饗百濟客於朝。是月、瑞蓮生於劒池、一莖二花。
八年春正月壬辰朔、日蝕之。三月、悉劾姧采女者皆罪之。是時、三輪君小鷦鷯、苦其推鞫、刺頸而死。夏五月、霖雨大水。六月、災岡本宮、天皇遷居田中宮。秋七月己丑朔、大派王、謂豐浦大臣曰「群卿及百寮、朝參已懈。自今以後、卯始朝之巳後退之、因以鍾爲節。」然、大臣不從。是歲、大旱、天下飢之。
九年春二月丙辰朔戊寅、大星、從東流西、便有音似雷。時人曰流星之音、亦曰地雷。於是、僧旻僧曰「非流星。是天狗也。其吠聲似雷耳。」三月乙酉朔丙戌、日蝕之。

即位六年から九年(西暦634~7年)にかけて、南の空に彗星が見えたり、日食が見えたり、劔池に変わった蓮の花が咲いたり、旱魃による飢饉が生じたり、挙句には宮が火災したと伝えている。風雲を告げる暗示であろうか・・・。

「劔池」は古事記に二度出現する。大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の劒池之中岡上陵(小野牟田池、直方市感田)、もう一つは品陀和氣命(応神天皇)が造った劔池(二重ヶ池、田川郡福智町金田)である。蓮が生える池としては、多分、後者であろう。金辺川と彦山川の合流点近傍である。
 
三輪君小鷦鷯

一月一日に日食があったと伝えている(検証できそうにも思うが、知識・情報不足で断念)。続いて宮内での乱れを述べている。些か緊張感がなくなって来たようであるが、登場する「三輪君小鷦鷯」、この方の名前がもたらす情報は貴重であることが解った。先ずは地形象形表記として紐解いてみよう。
 
<三輪君小鷦鷯>
「三輪」は迷うことなく「美和」に還元し、古事記に登場する「美和山」(現在の企救半島にある足立山)に坐す君と解釈する。

「小」=「三角の形」として、「鷦」=「焦+鳥」、「鷯」=「尞+鳥」と分解する。更に「焦」=「隹+灬(炎)」と分解される。

「鳥を焼く、焦がす」⇒「縮む」⇒「間隔が狭い、迫る」と意味が展開してくと解説される。

一方の「尞」=「柴で燃やす」=篝(かがり)火」⇒「並び連なる」と展開する。「寮」の意味もこの展開によって、その意味が通じて来ることが解る。

纏めると鷦鷯=二羽の鳥がくっ付くように並び連なっている様を表していると読み解ける。図に示したように山腹の山稜が描く三角の形をした二羽の鳥が並んでいるように見える地形である。足立山の西稜にある妙見山に妙見宮上宮がある。古事記は、その麓に筑紫之岡田宮、また筑紫訶志比宮があったと伝えるところである。

大長谷若建命(雄略天皇)紀に登場する引田部赤猪子が、その麓の先に居たとも述べている。「赤」=「大+火」と分解され、山稜の姿を「炎」に見立てた表記である。「焦」、「尞」全て「火」に関わる文字である。全てを絡ませた文字使い、正しく万葉の世界が展開されているようである。
 
岡本宮・田中宮

更に「火」に繋げて岡本宮が火災し、田中宮に移ったと記されている。ここで「岡本宮」も今一度詳しく調べてみよう。ブログのタイトルにも含めた「岡本宮」は古事記では唐突に出現するだけである。「飛鳥岡」によって「飛鳥」の地にあったことが明らかとなった。既にその場所を比定したように現在の香春一ノ岳の東麓である。今一度記された文字列すべてを読み解いてみよう。
 
<飛鳥岡・岡本宮>
少し振り返りながら述べると・・・「岡」=「网+山」と分解される。即ち岡=山稜に囲まれた山を表す文字である。

「网」は「網」の原字であって「覆い被せる、取り囲む」と言う意味を持つ。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が行幸した筑紫之岡田宮に含まれていた。大きな谷間の中に山稜が延びる地形の場所と推定した。

図に示す通り、香春一ノ岳の東側中腹に幾つかの山稜が見出せる。この盛り上がった中腹を「岡」と呼んでいることが解る。

「岡」に類似する文字には「丘」、「杯」などがあるが、その地形は「岡」の原義に基いた表記によって適切に表されていると思われる。鬼ヶ城(香春城)跡の麓と推定される。

一見簡単な文字列ではあるが、古事記全般を通じて揺るぎのない表現を行っている。書紀の固有の名称も、恣意的な改竄を除くと、そのまま通用するように思われる。が、果たしてそうか、読み続けてみよう。
 
<田中宮>
またまた簡単な表記である「田中宮」の登場である。これに関連する文字列は天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった倭田中直にある。

上記の岡本宮に対して香春岳を挟んで西麓の位置にあった宮と推定される。

頻出の「中」=「真ん中を突き通す様」と読む。五徳川が流れる香春岳西麓の谷間に並ぶ田の真ん中を突き通すような山稜があるところを表していると思われる。

急遽の遷宮であれば、開拓された既存の場所を求めることになろう。その要件を満たす場所であったと思われる。

現在も棚田が長く続く谷間である。当時は国の中心地として多くの人々行き交うところであっただろう。幾多の変遷を経た現在であろうか・・・。

その年の秋七月になって大派王…古事記では沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が春日中若子之女・老女子郎女を娶って誕生した大俣王であろう…大御所の立場から豐浦(蝦夷)大臣に「群卿及百寮」が節度を保つようにさせろ!…と進言したにも拘わらず、大臣は従わなかったと伝えている。そして旱魃があって飢えが発生した。流星に雷、既出の僧旻が天狗を持ち出したり…失政と天災が繋がる、のであろう。

豐浦大臣は既に紐解いた。蘇我蝦夷臣の居場所を端的に伝える字名である。いよいよ風雲急を告げる時が訪れたようである。舒明天皇など眼中にない振舞い、と述べている。それが書紀の記述方針に沿ったものであったかどうか、定かではないが・・・。





2020年3月20日金曜日

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅶ) 〔397〕

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅶ)


さて、いよいよ舒明天皇紀の、古事記で言う、説話の部分に入る。どんな興味深いお話になるのやら、登場人物も多彩である。原文引用は青字で示す。

秋八月癸巳朔丁酉、以大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日、遣於大唐。庚子、饗高麗百濟客於朝。九月癸亥朔丙寅、高麗・百濟客歸于國。是月、田部連等、至自掖玖。冬十月壬辰朔癸卯、天皇遷於飛鳥岡傍、是謂岡本宮。是歲、改修理難波大郡及三韓館。

即位二年(西暦630年)の旧暦八月五日(丁酉)に大仁の「犬上君三田耜」と「藥師惠日」を唐に派遣し、また八日(庚子)に高麗百濟から来客があったと記されている。唐が中国全土を統一して十年余りが過ぎた時である。その”圧迫”が朝鮮半島、更には日本列島にも及び出す時代となる。

『旧唐書東夷伝』に「貞觀五年(631年)、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歲貢、又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還」と記述されたところに該当する。書紀との齟齬がなく素直に受け取れるのであるが、実は推古天皇紀の西暦614に「犬上君御田鍬」の名前で遣唐(隋?)使として登場している。隋の煬帝が高句麗を幾度も攻めたが、落とし切れず西暦618年に亡くなったと伝えられている。いずれにしても戦は、民そして国の消耗を強いるのである。

古事記に「犬上」は、倭建命が近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女・布多遲比賣を娶って誕生した稻依別王が祖となった犬上君に含まれている。近淡海之安國は、蘇賀石河宿禰が祖となった蘇賀の東隣であって、その「蘇賀」の地形を「犬」で象った表記と解釈した。
 
<犬上君三田耜>
ここまでの記述では山の中腹に大きく開いた地の詳細は不明で「犬上君三田耜」の登場で漸くその地の詳細が伺えて来るのではなかろうか。


さて「三田耜」の文字列を如何に紐解くか、順次述べてみよう。「三田」の「三」が示す地形を探すと、地図に記載された標高線が三本平行に並んでいるところが見出せる。

即ち横一列に並んだ棚田があるところを示していると推定される。「耜」=「耒+㠯」と分解される。「㠯」=「鋤の刃先」を象った文字と解説される。

ここでは段々に積重なっている土地を表すと読み解ける。三田耜=横一列に積重なった田があるところと紐解ける。現地名は京都郡苅田町山口の北谷である。

苅田町の観光案内によると1992年に農林水産省から農村景観百選(美しい日本のむら景観百選)に選ばれたとのこと、標高~300mに広がる風景は、正に”マチュピチュ”であろう(天空カフェがある)。修験道に由来を求めた記述がなされているが、この地は孝元天皇の御子、建内宿禰そしてその子の蘇賀石河宿禰に繋がり、「日本國」と名乗りを上げるその礎となったところである。

山間の谷間を切り開き、石河(現白川)の中流域から下流域にまで水田を拡げた人々が住まったところなのである。莫大な財力を背景に蘇我一族が台頭し、そして歴史の表舞台から消えて行った。日本国内更には対外的にも大きな転換を残した、その原動力を生み出した地、それを詳らかにすることなく過ごす歴史学を心底悲惨に感じるところである。

別名御田鍬=炎のように延びる(鍬)田を束ねた(御)ところと読める。棚田を正面からではなく横から眺めた様を象った表記と思われるが、些か曖昧であろう。太宗から労いの詞を貰っている。彼の人柄もそう言わしめたのかもしれない。「大仁」は冠位十二階で三番目、出世なさっていたとのことである。

この年の九月には掖玖に派遣していた田部連某が帰って来たとのことである。即位元年(西暦629年)の四月だから、約一年半ばかりの滞在だった。少々余談になるが・・・「掖玖」を屋久島に比定することに違和感を感じている方々がおられるようである。その根拠は圧倒的に人口が多かったと思われる「多禰」(種子島)との交流が少なく、現在も住居面積の小さい「掖玖」を琉球諸島に求めてみたり様々である。これは交流の意味を全く理解できていないことから来る論議であろう。

既に述べたように有明海沿岸の豊かな土地に住む「倭奴族」と福智山・貫山山塊の麓を拠点とする「天神族」の状況に極めて類似する。それぞれの名称が地形(の特徴)を示すように、同じような地形の掖玖(詳細地形)との交流が自然であろう。谷間に開拓する棚田の技術、それが互いの切磋琢磨を喚起するのである。多禰人は豊かな島の恩恵にどっぷり浸かっていたのである。無いものを求めて交流(易)が始まる。「掖玖人」と「多禰人」は隣人であるが故の没交流だったのかもしれない。
 
難波大郡・三韓館

増える「高麗百濟客」をもてなすためであろう、「難波大郡及三韓館」を修理したと記載されている。「郡」とくれば律令制下の「郡(コオリ)」と思いたくなるようだが、当時は「評」の文字を使っていたと言われる。そんな背景もあってか、「大郡」についての解釈、更にはその場所などの推論が見当たらない。

と言う訳で、遠慮なく地形象形表現として紐解くことにする。「郡」=「君+阝(邑)」に分解する。更に「君」=「尹(整える)+囗(大地)」を意味すると解釈される。すると郡=整えられて小高くなった地(君)が寄り集まった(邑)ところと読み解ける。
 
<難波大/小郡・三韓館>
図に示した神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が訪れた豐國宇沙、その近隣の地を出迎えた宇沙都比古・宇沙都比賣が作った足一騰宮の場所と推定した(現在の小烏神社辺り)。

「大郡」は、「三韓館」と同じく、その地にある迎賓の施設を意味していると思われるが、おそらく図に示した、最も南側の小高いところにあったのではなかろうか。

後に同じ目的で作られた「小郡」が登場するが、「大」、「小」の対になった表記と思われる。図に示したように「大郡」の南側にあったと思われる。

間違いなく”迎賓”の地であったことが解る。通説は大分県宇佐市の宇佐神宮関連の場所とされているが定かではない。”迎賓”のキーワードが消滅、勿体ないことである。

「三韓館」の「韓」=「取り囲まれて凹(窪)んだところ」と解釈する。古事記、魏志倭人伝に多く出現する文字である。「館」=「食+官」と分解する。更に「食」=「∧+良」=「山麓がなだらかな様」、「官」=「宀+㠯」=「山麓に段差がある様」と読む。

「三」は上記の「三田耜」でも使われた字で「横線三本」のイメージとして解釈した。元々は「多くのものが入り混じる(参:旧字体は參)」が語源として考えられている。地形象形的には「寄り集まった様」を表すと読み解ける。

纏めると三韓=三つの凹(窪)んだ地が寄り集まった山麓のなだらかな段差があるところと読み解ける。図に示した場所と推定される。勿論「三韓の客を迎える宿舎」の意味も重ねて表している。その為には「参」より「三」が都合が良かったのであろう。命名を行った人物は会心の笑みを浮かべていたかもしれない。

「飛鳥岡傍、是謂岡本宮」については、「田中宮」に遷都したと伝えられることから、後に述べてみようかと思う。

三年春二月辛卯朔庚子、掖玖人歸化。三月庚申朔、百濟王義慈、入王子豐章爲質。秋九月丁巳朔乙亥、幸于津國有間温湯。冬十二月丙戌朔戊戌、天皇至自温湯。

西暦631年の出来事である。「掖玖人」が帰化したと言う。上記で述べたようにこの島では多くの人々が住まう場所は望めない。それを受け入れたのであろう。帰化の形態は様々と推測されるが、その地との繋がりは深まって行ったことは間違いないであろうし、それによって南方の島々の情報が得られたと思われる。

一方で百済の王子を受け入れている。唐は相変わらず高句麗を攻めあぐんで、新羅を結託して南方からの攻略に転換しつつあった時期であろう。そのためには百濟を手中にする必要があり、百済への”圧迫”が増大させる。それの回避を百濟王義慈が目論み、日本側「天神族」は名実共に倭国の主となる思惑が一致したものと思われる。有明海沿岸部での小競り合いに明け暮れた「倭奴族」は航海技術も進展させることなく、大同団結した大国への道を自ら閉ざしてしまったのであろう。
 
有間温湯

天皇は九~十二月にかけて「有間温湯」に滞在したと伝えている。「湯」は古事記の伊余湯で登場した。木梨之輕王(太子)が島流しの刑を受けて向かったところである。罪人を温泉に送り込んでどうする?…と読んで、「湯」=「水+昜」と分解して、「昜」=「高く四方に広がる様」と解説されることより、湯=水が跳ね散る様と読み解いた。

熱して、あるいは急流で岩に当たって跳ね散る様を表す文字である。何となく「温かい湯」のように読んでしまうが、全く矛盾する解釈となる。即ち「熱湯」は矛盾のない表記なのである。「白湯(何も混ぜない湯)」も同様であろう。
 
<津國有間温湯>
「温(溫)」=「水+𥁕」と分解される。更に「𥁕」=「囚+皿」と分解される。「囚」=「枠の中に入れる様」を象った文字である。

温暖・温存などの意味へと展開されて用いられる。つまり、温泉とは無関係に温湯=跳ね散る水を貯めるところと読み解ける。

ここまでは古事記の紐解きに導かれてすんなりと読めるのであるが、「津國」は古事記に登場しない。

「有間」を紐解く前に先ずは「津國」を求めることにする。古事記に関連する記述は、伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に大中津日子命が登場した。

「天神族」が治める地域の北限から南限までに祖となったと記された命である。彼の出自は旦波國に多くの津があるところ、現地名は行橋市稲童と推定した。さて、そこに「有間温湯」が存在するかを探索する。

「有」=「又(右手)+月」と分解される。頻出の「月」=「山稜の端の三角州」である。「又(右手)」=「腕を曲げて囲う様」を表す。「間」=「隙間」とすると、有間=緩やかに曲がる尾根から延びた山稜の端にある三角州の隙間と紐解ける。有間温湯=延びた山稜の間にある急流が堰き止められたところ(池・沼)を示していることが解る。

図に示した行橋市にある覗山の南麓の急斜面にある池・沼の近隣に天皇は行幸したと伝えているのである。そして覗山の北麓は舒明天皇(息長足日廣額天皇)の出自の地であった。蘇我蝦夷大臣が全てを取り仕切る宮中を…四面楚歌の空気を…さりげなく(?)避けた様子を物語っているのかもしれない。

おそらく事実であったかと思われるが、後の大事件の伏線と推測される。「伊余湯」でも述べたが、いい湯だな!…なんて暢気な天皇一家ではなかった筈であろう。通説は「有馬温泉」と比定されているようである。伊予の道後温泉、共に現在も栄える温泉場である。ところで六甲山の北麓にある有馬は、見事に地形象形した表記と思われるが・・・「間(マ)」と「馬(マ)」とは同じではなく・・・。














2020年3月15日日曜日

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅵ) 〔396〕

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅵ)


すったもんだの挙句に蝦夷大臣の思惑通りに田村皇子が即位したと伝えている。原文引用は青字で示す。

元年春正月癸卯朔丙午、大臣及群卿、共以天皇之璽印、獻於田村皇子。則辭之曰「宗廟重事矣。寡人不賢、何敢當乎。」群臣伏固請曰「大王、先朝鍾愛、幽顯屬心。宜纂皇綜、光臨億兆。」卽日、卽天皇位。夏四月辛未朔、遣田部連闕名於掖玖。是年也、太歲己丑。

舒明天皇の在位期間は、62922日~6411117日である。生年593年(?)らしく享年48歳だったのかもしれない。「億兆」=「万民」、「兆民」とも記される。「万」よりスケールが大きい表記と解釈しておこう。
 
<筑紫南海・南嶋>
掖玖・多禰・阿麻彌
 
田部連何某を「掖玖」に派遣したと記述している。これだけでは何とも解釈のしようがないが、初登場は推古天皇紀に掖玖人」が帰化したと伝えている。

更に次期の天武天皇紀に「多禰人・掖玖人・阿麻彌人」と三つ揃えで表記される。これらの表音から現在の「種子島・屋久島・奄美大島」を表す地名である、と比定されて揺るぎがないところであろう。

拡大解釈指向の書紀と分りつつも、九州島の南に列島を形成する島々との交流、その地人物の帰化とは、些か話が大き過ぎるように思われる。少し先読みしてこれらの地が登場する記述を調べると、天武天皇紀に「多禰」は「筑紫南海」にあったと記載されている。また續紀の文武天皇紀には「多褹(禰)・夜久(掖玖)・菴美(阿麻彌)・度感」を「南嶋」と表記している。

書紀は「筑紫日向」と記述する。古事記の竺紫日向に相当する場所である。では書紀が記載する「筑紫日向」が間違いか?…実はこれも地形象形的には的確な表記である、と述べた(こちら参照)。即ち、書紀は現在の孔大寺山塊を含む地を「筑紫」としているのである。勿論、九州島全体を匂わす表現をしていることも事実であろう。編者等の涙ぐましい努力の結果なのであるが、その努力に報いた解読の結果である。
 
<掖玖>
すると、「掖玖・多禰・阿麻彌」は、図に示した現在の博多湾岸の地あったと読み解ける。当時の海面は、地図の青っぽいところ、彦山川流域の結果に基づくと、現在の標高約10~15m辺りまで海辺であったと推測される。以下に詳細を述べるが、推定される三つの地は、島状の地形であったと思われる。

掖玖の「掖」は古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が坐した葛城掖上宮に含まれていた。「掖」=「腋、脇」として人体の胴体と腕が作る形を象った文字と解釈されている。「掖」=「手(腕)+夜」と分解し、更に「夜」=「亦+月(肉)」から人体を象った文字であることが解る。

地形象形表現としては「夜」=「山稜の端の三角州(月)がある多くの川が流れる谷間(亦)」であり、「掖」=「腕のように延びる山稜の傍らにある谷間」と解釈される。「玖」=「王+久」と分解される。古事記に頻出の文字であって、「玖」=「[く]字形が連なっている様」と解釈される。

纏めると、掖玖=腕のように延びる山稜の傍らにある谷間が[く]字形に曲がり連なっているところと読み解ける。図に示した現在の四王寺山の地形を表していることが解る。現地名は太宰府市である。
 
<多禰(褹)>
「掖玖嶋」は、海辺と言うよりも、山麓を流れる川に区切られて島状に見える地形でもある。「玖」の谷間も含めて多くの谷間が周辺に延びている地であり、その狭隘な谷間に人々が住まっていたのであろう。

実を言えば、「筑紫南海・南嶋」と、この「掖玖」の地形を見出せたことによって、漸く書紀及び續紀が記述する、これらの嶋が博多湾岸の島々である、と解読することが可能となった。貴重な地である。

多禰は、最も海に近い場所と推定した。頻出の「多」=「山稜の端の三角州」と解釈した。同じく頻出の「禰」=「示+爾」=「高台が広がっている様」と解釈する。多禰=山稜の端の三角州の高台が広がっているところと読み解ける。

図に示したように現在の福岡市中央区・南区辺りと推定された。がしかし、この地形象形表記では、他にも該当する地形の場所が多く存在することも分る。續紀では「多褹」と表記されている。「褹」=「衣+埶」と分解される。「衣」=「山稜の端」であり、「埶」=「丸く盛り上がっている様」と解釈した。頻出の「勢」に含まれる文字要素である。

即ち、単に「禰」ではなく、褹=山稜の端が丸く盛り上がって広がっている様を示していることが解る。これで、上記の場所として特定することが可能となったのである。續紀では、「多褹國」と記し、郡があり、多くの人が住まっていたことを人物名を挙げて伝えている。全て地形象形表記として読み解くことができる。
 
<阿麻彌>
阿麻彌阿麻=擦り潰されたような台地、天=阿麻の表記そのものであろう。頻出の「彌」=「弓+爾」と分解され、彌=弓なりに延び広がった様と解釈した。「禰」とは、それなりの差異がある文字なのである。

すると、「掖玖」の北西側に長く延びた山稜が「阿麻彌」の地形を示していることが解る。現在は広大な団地となっているが、山稜の端の僅かな起伏が連なった地形であったと推測される。

現地名は福岡市博多区・糟屋郡志免町の境である。續紀では「菴美」と記載されている。「菴」=「艸+奄」と分解される。更に「奄」=「大+申」から成る文字である。「菴」=「艸+大+申」=「平らな頂の山稜が長く延びている様」と解釈される。

頻出の「美」=「羊+大」=「谷間が広がっている様」とすると、菴美=谷間が広がった地に平らな頂の山稜が長く延びているところと読み解ける。正に別名表記である。これら三つの嶋の他にも「度感・信覺・球美」が登場する。全て九州島の南に連なる島として解釈されている。音読みしては、どうも納得できず、諸説紛々となるが、現在に至っても曖昧なままである。

と言う訳で、日本の史書に”博多湾岸”の地が記載されていた、となる。邪馬壹國九州説の主たる比定地である。本ブログの比定地は佐賀県佐久市、そして連合国家の中にも博多湾岸は登場しない。それらは有明海沿岸だったのである。肉薄すれども、まだ史書は邪馬壹國関連の地域との交流は記載しないようである。

二年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女爲皇后。后生二男一女、一曰葛城皇子近江大津宮御宇天皇、二曰間人皇女、三曰大海皇子淨御原宮御宇天皇。夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛、生古人皇子更名大兄皇子。又娶吉備國蚊屋采女、生蚊屋皇子。三月丙寅朔、高麗大使宴子拔・小使若德・百濟大使恩率素子・小使德率武德、共朝貢。

古事記風に言えば、一気に娶りと生子の話となる。「寶皇女」を皇后としたと記されている。何処の出自の皇女とも解らず、少々補足して読み解いてみよう。後の皇極天皇であり、斉明天皇となる。前記したように蘇我一族が台頭した内政動乱の時期に天皇を務めた女性であったと知られる。

1. 皇后寶皇女

故に和風諡号として「天豐財重日足姬天皇」と呼ばれており、その名に重要な情報を有している。系譜を簡略に述べると、欽明天皇(母:宗賀稲目の娘、岐多斯比賣)の御子、桜井皇子(古事記では櫻井之玄王)を父親として生まれたのが吉備姫王(母親未詳、後に「吉備島皇祖母命」と記載される)、その子が寶皇女と伝えられている。父親は茅渟王(古事記では忍坂日子人太子の子、智奴王)である。弟に後の孝徳天皇となる輕王がいた。

吉備に出自を持つ人物の登場は、古事記では仁徳天皇紀で終わる。天皇家の草創期より多くの人材を提供して来た地であったが音沙汰なくなって久しかったのである。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)、仲哀天皇(神功皇后)など内輪もめ以外の対外的な交渉が必要な時期に浮上する地、「鉄」に関わる地だったのであろうか・・・。
 
<吉備姫王・寶皇女・輕王>
それはともかくとして登場人物の出自の地を求めることにする。

「吉備姫王」は「吉備嶋皇祖母命」と尊称されたとのことである。

「吉備島」とは?…吉備兒嶋ではなく、当時の海岸線から推測すると吉備の入江に浮かぶ島、現在の下関市吉見古宿の串本岬がある小高いところと推定される。

「寶皇女」の和風諡号に含まれる「天豐財重日足」の「足」=「帶」に戻して読み解く。

その他の文字の多くは頻出の文字であることから、天(テン)=頭(上)部豐=多くの段差がある高台財=貝の文字の地形(と置換えた文字)、日=炎の地形帶=山稜の端が延びた形と読み解ける。「天」=「阿麻」ではないことに留意する。

残った「重」=「東+人+土」と分解され、「人が土をトントンと突く様」を表すと解説される。地形象形的には重=谷間(貝の中央)を突き通る様を表していると解釈される。

<重日=伊柯之比>
するとこれらの地形を満たすところが吉備島の直ぐ東隣に見出せる。竜王山西麓の段差のある高台の裾に延びる山稜が作る地形である。


大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が針間之伊那毘能大郎女を娶って生まれた櫛角別王・神櫛王の出自の地であり、兄弟の小碓命(後の倭建命)なども含めて各地に散らばり、また祖となる連中である。

皇極天皇紀に「重日=伊柯之比(イカシヒ)」と訓すると記載されている。表音の記述ではあるが、これも地形象形表記と思われる。

「柯」=「木(山稜)+可」と分解される。古事記で頻出する「訶」=「言+可」=「谷間の耕地」と紐解いた。

例示すると品陀和氣命(応神天皇)紀の説話に登場する訶和羅などがある。「柯」=「山稜がある谷間」と読み解ける。「之」=「蛇行する川」頻出である。すると伊柯之比=谷間で区切られた山稜の傍らで蛇行する川が並んでいるところと紐解ける。図<重日=伊柯之比>に示した通り、「重日」の地形の別表現であることが解る。

上図<吉備姫王・寶皇女・輕王>に「輕王」(孝徳天皇)の出自の場所も併せて示した。輕=突き進む様を表していると解説される。三角州の頭の部分として読み解いた(允恭天皇の御子、木梨之輕王輕大郎女・亦名衣通郎女など)。古事記の景行天皇紀に倭建命に随行した吉備臣等之祖・名御鉏友耳建日子の出自で求めたの地形をと表記したと思われる。

欽明天皇及び蘇我氏の血統の比賣が敏達天皇と息長一族の比賣の子の血を引く王子との間で誕生したのが寶皇女となる。正に血統書付きの皇女だったわけである。舒明天皇は忍坂日子人太子が田村王・亦名糠代比賣命(敏達天皇の孫)を娶って生まれている。一方、寶皇女は忍坂日子人太子の子、茅渟王(古事記では智奴王)が漢王之妹・大俣王を娶って生まれている。天皇は忍坂日子太子を巡って従兄弟の子を皇后にしたという関係である。
 
1-1. 葛城皇子(中大兄皇子)・間人皇女

二人の天皇と一人の皇女が誕生したと伝えている。後者の「大海皇子淨御原宮御宇天皇(天武天皇)」については既に紐解き、古事記序文に飛鳥淸原大宮御大八洲天皇と記載されていた天皇である。類似の文字を並べているが、微妙に地形象形表現から外しているように思われる。書紀らしい”姑息さ”が伺えるが、今年で成立後1,300年が経っても、彼らの目的は十二分に達成されているのだから息を呑む”姑息さ”かも、である。
 
<葛城皇子(中大兄皇子)・間人皇女>
「葛城皇子近江大津宮御宇天皇」の最初に記された「葛城皇子」は、別名中大兄皇子と言われる。

葛城の地で「中大兄」の地形を持つところが出自の地と思われる。さて、古事記で登場しなかった場所が該当するのか、葛城の地を散策である。

既出の解釈を適用すれば、大兄=平らな頂の山稜にある谷間の奥が広がっているところと読み解ける。

「中」は三男坊の次男では、決してあり得ない。この場合でも長男である。中臣連彌氣で読み解いたように中=真ん中を突き抜ける様と解釈する。

すると「兄」の谷間を突き抜けるように小ぶりな山稜が延びているところが見出せる。現地名田川郡福智町長浦にある谷間と推定される。石上穴穂宮・石上廣高宮(田川市夏吉)の北側に当たる。葛城の東端、石上・斑鳩に接するところである。皇子の坐していた場所は、多分、谷の出口にある小高いところ、現地名では丸山の麓辺りかと推定される。

「間人皇女」が誕生しているが、「上宮之厩戸豐聰耳命」の母親、間人穴太部王(書紀では穴穗部間人皇女)が坐していた谷間を「間人」と読み解いた。「間」の原字(旧字体)は「閒」とある。「間」=「門+月」と分解され、間=山稜に挟まれた「月(三日月)」の形を示す山稜があるところと読んだ。「人」=「谷間」を表し、「門」が作る谷間の出口を示している。勿論同一場所であろう。

1-2. 大海皇子(淨御原宮御宇天皇)

「大海皇子淨御原宮御宇天皇」の「淨御原宮」(古事記では飛鳥淸原大宮)の場所を再掲する。通常「清浄」と使われ、同じ意味を示すように受け取られているが、この二文字は全く異なる意味を示す。古事記に頻出する「清(淸)」=「水辺で〇〇〇に成りかけのところ」と読み解いた。「靑」=「生+井」=「生まれたばかりの穢れがなく清らかな様」に基づく解釈である。
 
<飛鳥淸原大宮(淨御原宮)>
一方「浄()」は「争(爭)」=「爪(下向きの手)+ノ+又(上向きの手)」と分解される。

上下に引っ張り合う様を象った文字と解説される。争う様を表し、同時に両方から引っ張り取られて澄んで清らかになった様を意味する。

淨=手のような山稜が延びて広がったところと読み解ける。御=束ねる様であり、原=野原と解釈すると、淨御原=手のような山稜が延び広がって野原を束ねているところと解読される。

山稜の端が二つに岐れた先が更に延びて広がった地形を表している。特定するには些か一般的な表記であるが、古事記の「淸原」の場所として矛盾は無いようである。

「石上」の磯辺にあった宮、それをあからさまにすることを抑えた表現のように感じられる。正に確信犯であって、書紀の編者も同じく漢字による地形象形を十分理解していたと思われる。

古事記序文で記載された文字列、本文と同様に地形象形していると解った。また万葉集に収録された歌の解釈も宮の在処を述べていると読み取れた。「御宇」は下記を参照。

こうして見ると古事記、書紀、万葉集どの一つも真っ当に読めていないのが現状なのである。

1-3. 近江大津宮御宇天皇(天命開別天皇)

さて本題の「近江大津宮」の在処を探ってみよう。と言っても含まれる「近江」は古事記では登場しない。既に述べたように両書の対応関係を調べると古事記の「淡海」及び「近淡海」を書紀ではこの二つの区別なく「近江」と置換えていることが解った。逆に言えば書紀で「近江」と記されたなら、それは「(近)淡海」を表すと見做すことができる。

古事記の「淡海」に面した地は、現在の遠賀川下流域から関門海峡に至る広域の海を示し、そこに宮が造られた例は見出せない。他方「近淡海」は豐御食炊屋比賣命(推古天皇)の小治田宮など幾つかの天皇が坐した場所が見出せている。先ずは「近淡海」に注目して「近江大津宮」の在処を求めることにする。

それにしても「大津」の文字からは場所の特定は不可であって、大雀命(仁徳天皇)の御子、大江之伊邪本和氣命(後の履中天皇)の出自の場所に関連するように思われる(大津↔大江)。がしかし、これでも全く不十分であり、宮の在処は見えて来ない。後の記述(天智天皇紀)に天皇名として天命開別天皇と記載されている(舒明天皇紀最後の段で東宮開別皇子として登場する)。
 
<近江大津宮・天命開別天皇>
「命」も地形象形文字として読み解くことになる。既出の天=頭(上部)、別=区分けされた地として、「命」=「令+囗」と分解される。

更に「令」=「亼(寄り集る)+卩(跪く様)」と分解されると解説される。「寄り集まって跪く人びとに言葉を発する」様を表す文字である。

これを地形象形とするには、「囗」と「卩」の地形が寄り集まってところと解釈される。

「開」=「閂(かんぬき)+廾(両手)」と分解される。「両手でかんぬきを外す様」を示している。この文字も「門」のような地形に両手を差し伸べた形を示す場所を表していると思われる。

纏めると天命開別=上部(天)が囗と卩の地形(命)が集まっていて門の地形に両手を差し伸べた地形(開)が区分けされた(別)ところと読み解ける。何とも山稜が描く地形を並べ挙げたような名称であることが解る。

現地名は行橋市天生田(アモウダ)という難読地名の場所である。そして大津=平らな頂の麓にある入江を示すところである(推定した当時の海岸線はこちらを参照)。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が訪れた豐國宇沙・足一騰宮があった近隣であり、大江之伊邪本和氣命の東隣である。

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御宇

ところで「御宇」とは如何なる意味であろうか?…調べると「宇内(うだい)を御(ぎょ)する」もしくは「御代(みよ)」と解説されている。「宇内」=「天下」である。なるほどと頷けるのであるが、全ての天皇に付加されるかと言うとそうではなく(別称も含めて)、多くはないようである。

古くは垂仁天皇(纏向玉城宮御宇天皇)、欽明天皇(磯城嶋宮御宇天皇)、後の孝徳天皇(明神御宇日本倭根子天皇)、天智天皇(近江大津宮御宇天皇)、天武天皇(淨御原宮御宇天皇)など、単に別称を記載する機会がなかったとも思われるが、「御宇」も地形象形表記しているのではなかろうか。詳細は後日に譲るが、御宇=山稜に囲まれた麓(宇)を寄せ集めた(御)ところと読める。上記の天皇が坐した地形を外してはいないようである。

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御所ヶ岳・馬ヶ岳山系をもう少し西に移ると大雀命(仁徳天皇)の難波之高津宮があったところである。仁徳天皇も天智天皇もそれぞれの思いがあって海辺近くに宮を建てたのであろうが、やはり短命な宮となってしまったようである、それにしても高津宮より更に海辺に向かった(天智六年:667年)のには理由があったであろう。後の天智天皇紀で述べることにする。

上記したように古事記の「淡海」→「近江」へ強引な置換えを行った書紀の記述に基づく解釈は無意味である。現在も滋賀県大津市の琵琶湖西岸部に所在を求めて彷徨っている有様である。対外的な理由から交通の要所であったと推測されているが、対外圧力を回避するなら交通の要所には都を作るわけにはいかないであろう。

2. 蘇我嶋大臣女法提郎媛

次いで蘇我一族からも娶ったと記載されている。「蘇我嶋大臣」=「蘇我馬子大臣」の娘「法提郎媛」であり、しっかりと外戚の立場を保っているのである。さて「郎媛」=「郎女」として「法提」という何とも厳めしそうな名前を読み解いてみよう。勿論しっかりと地形象形している筈であろう。

「法提」を通常使われる意味で読んでもなんら情報はえられないようである。一文字一文字を地形を表す要素に分解しながら紐解く方法を採用する。「法」=「水+去」と分解される。「水がなくなる」で何を示そうとしたのか、不思議な文字である。更に「去」=「大(人)+𠙴(キョ)」と分解される。「𠙴」=「凹(窪)んだ形」を表す。「人が窪んだところに入る(去る)」である。
 
<法提郎媛・古人(大兄)皇子>
これでもまだ「法」には届かない。実は「法」の旧字は「灋」=「水+去+廌(カイチ)」から成る文字であった。

廌(カイチ、カイタイ)は空想の獣で正義・公正を象徴するとされる。狛犬の起源とも言われる。

すると「法」=「水が溜まった窪んだところの人が出て来るのを見定める」ことを意味する文字と解釈される。

地形象形的にはより直截的に解釈される。法=水際で区切られたところとなろう。

「提」=「手+是(匙)」と分解される。提=腕を真っすぐ伸ばした「匙」のようなところと読み解ける。

文字が意味する形のみを用いる解釈であって、通常に用いられる意味の方がより複雑である。現地名は田川郡苅田町稲光である。父親の蘇我馬子宿禰の「馬の首」辺りを示している。

漢字を地形象形的に用いるとは、如何に要素に還元するかであろう。古事記にしろ書紀にしろ編者達の漢字そのものへの造詣の深さが伺え、少々長ったらしく述べた。

2-1. 古人皇子(大兄皇子)

御子に「古人皇子更名大兄皇子」が誕生する。ここにも「大兄」が含まれている。通説で如何に理解されているかを見てみよう。Wikipediaによると・・・、

大兄(おおえ、おいね)は、6世紀前期から7世紀中期までの倭国(日本)において、一部の王族が持った呼称・称号である。大兄の称号を持つ皇子は、有力な大王位継承資格者と考えられている。

「大兄」は大王家のみならず、一般豪族にもみられる呼称である。「大兄」の意味について直接説明した同時代的史料はない。ただし、6・7世紀の大王家に集中して「大兄」の呼称がみられるため、現代の歴史学者は「大兄」の名を持つ皇子を比較して帰納的にその意味を探っている。細かな点で異なる諸説があるが、多数の皇子の中で王位を継承する可能性が高い者が持つ称号とみなされている

当時、治天下大王の地位継承は、大王の一世王にあたる皇子(王子)に優先権が認められており、その中で長兄→次兄→・・・→末弟というように兄弟間で行われ(兄弟継承)、末弟が没した後は、長兄の長男に皇位承継されることが慣例となっていた。当時は一夫多妻であり、大王家に複数の同母兄弟グループが存在していたが、この同母兄弟間の長男が「大兄」という称号を保有していた。従って、大兄が同時期に複数存在したこともあり、「大兄」を称する皇子同士でしばしば皇位継承の紛争が起こった。

しかし、「大兄」は同時期に一人に限られていたとする説もある。これによると、「大兄」は皇太子の先駆ともいえる制度的称号であり、「大兄」の称号を保有する皇子が皇位に即くか、即位以前に死亡するかで「大兄」の地位が移動したという。

・・・と記されている。帰納的にして諸説あり、結局収束しない帰納なのである。大兄=平らな頂の山稜が作る谷間の奥が広がったところとして演繹しては如何か?・・・。「大兄」の地位が移動した?…これは論文に記載されているのか、素直に、わからん!、と述べるべきであろう。

「古人皇子」の古人=狭く長い谷間(人)にある丸く小高いところ(古)と紐解ける。別名を併記することで御子の所在は確定するのである。図に示したところ蝦夷大臣の近傍である。現地名は田川郡苅田町下片島である。

3. 吉備國蚊屋采女

三番目の后が「吉備國蚊屋采女」と記載されている。上記の寶皇女と同じく「吉備」の出身である。「蚊屋」は古事記に登場した文字列で安康天皇紀の淡海之久多綿之蚊屋野などがあり、蚊屋=長く延びた山稜の端が交差する地形を表していると読み解いた。

<吉備國蚊屋采女・蚊屋皇子>
その地形を探すと容易に見出せる。頻出の「吉備」は現地名下関市吉見として、その地にある鬼ヶ城の西麓、山塊から延びる山稜が交差したように見える場所と思われる。

地図では吉見大字吉見上、小字は奥畑と記載されている。御子「蚊屋皇子」も同じ場所であろう。ずっと後(天智天皇紀)に蚊屋皇子の子、山部王が登場する。左図に示した場所が出自と思われる。

「吉備」の北部は考安天皇紀の姪忍鹿比賣命及び御子の大吉備諸進命、孝霊天皇紀の大吉備津日子命、開化天皇紀の息長日子王が祖となった吉備品遲君・針間阿宗君など多くの人材が関係する地であった。

仁徳天皇紀の黑比賣の説話で「鉄(器)」の生産が順調に行わるようになったことが述べられ、以後「吉備」の登場が消える。そして、舒明天皇紀に復活する。その地に人材・資源が必要な時にその地の比賣を娶って繁殖する。天皇家の戦略に揺るぎはないようである。更なる「鉄(器)」を必要とする時代が到来しつつあったことも暗示しているのだろう。最後に高麗及び百濟との交流が記されている。「朝貢」は書紀らしい記述であろう。