2018年6月12日火曜日

肥長比賣@檳榔之長穂宮 〔221〕

肥長比賣@檳榔之長穂宮


垂仁天皇紀の説話は実に多彩である。天皇の和風諡号から紐解いたように、師木の中心に坐し、豊かな食糧の確保し、「丹」を手中に収め、台頭する豪族達を言向け和し、出雲(大年神一族)との確執に終止符を打ち、倭国繁栄のための人材の手当等々悉く成し遂げたのだから、やはり賢帝の印象である。

是非、本ブログの垂仁天皇【説話】を参照願う。通して読むと古事記が伝えんとするところが、この難解な表現の隙間を通して伺えると自負する。以前にも述べたが垂仁天皇紀を読み解けるかどうかがキーポイントであろう。今は確信を持ってそう言えると思われる。

さて、無口な本牟智和氣を主人公にした物語を前記に続いて詳細に紐解いてみよう。読み飛ばし、読み残し、綺麗に掬い上げて置こう。前記の(鵠を求めて)及び(無口な御子の出雲行き)を参照願う。


御子の出雲参詣

伊久米伊理毘古伊佐知命の和風諡号から師木玉垣宮の場所は現地名田川市伊田にある鎮西公園辺りとした。その宮の木戸から出て品遲部を置きながら北へと進んだのである。


<師木玉垣宮>
「那良戸」「大坂戸」「木戸」三つの方向が直交している場所が垂仁天皇の御所「師木玉垣宮」の在処を示す。

曙立王と菟上王の二人を従えた、大軍団である。少し前には大毘古命の子、建沼河別命も通った道であるが、今度は天皇の御子の行幸であり、「品遲部(ホンヂブ)」=「奉仕義務の直属集団(名代(ナシロ))」を設置した告げている。

東方十二道とは神倭伊波禮毘古命が渡った「浪速之度」で分岐する。更に北上したのである。

垂仁天皇による当地領域の拡大と解釈できる。が、古事記の記述はその後一気に出雲での出来事に移るのである…、

故到於出雲、拜訖大神、還上之時、肥河之中、作黑巢橋、仕奉假宮而坐。爾出雲國造之祖・名岐比佐都美、餝青葉山而立其河下、將獻大御食之時、其御子詔言「是於河下、如青葉山者、見山非山。若坐出雲之石𥑎之曾宮、葦原色許男大神以伊都玖之祝大廷乎。」問賜也。

<出雲への行程>
…素っ気ないというか、当然の行程で書く必要なしと判断したのか、いや、おそらくは書けない訳があったと思われる。

崇神天皇紀に意富多多泥古を登場させ、大物主大神を祭祀し、その功により手厚く持て成したと記す。全く消息不明となっていたこの大神の末裔を探し出さねばならなかった。

多多泥古に出自を語らせ、出雲の神を祭祀するパイプを漸くにして確保したのである。陶津耳命及び比賣の活玉依毘賣らの住まう地を経て御諸山への行程は間違いなく彼の出自を遡ることである。

だから記載しないし、未だ決して大年神一族との確執のしこりは完全に溶けてはいなかったのであろう。

故に御諸山からは尾根伝いに肥河に向かうことになる。これも書き辛いところであろう。出雲の縁を往く、勿論これが最短距離ではあるのだが…。

結果としてこの説話は出雲、大年神一族との融和の物語と受け取れる。疫病、無口な御子の事件を通し、御子が直々に詣でることで確執を清算できる目処がたったと伝えている。骨肉の争いの凄まじさであろうか…。

大役を果たした御子が落ちつた場所が記述されている。既に「出雲之石𥑎之曾宮」を紐解いた時に概略の場所は示していたが、寧ろこの𥑎之曾宮の場所から求めたものであった。今回は逆に落ち着き先の場所から求めてみよう。


肥河と黑巢橋

肥河に到着した御子達を出雲國造之祖・名岐比佐都美が出迎えたと記述される。帰りはもと来たルートではなくどうやら高志を経由するようである。これも至極当然のルートである。大役を果たした一行は手厚い饗しを受けたと追記される。

肥河之中、作黑巢橋」は「肥河の中流域に黑巢橋を作る」と解釈する。肥河は現在の大川、すっかり小さな流れになったようであるが、当時は大河、八俣之遠呂智であった。「黑巢」は何を意味しているのであろうか?…地形を示している筈である。「巢」=「州」としても、この地は州だらけと思われる。特定は困難であろう・・・「黑*」=「里(大地を区画した耕地)+灬(炎)」と分解する…、


黑(火の地形の傍らにある耕地)|巢(州)

…「炎」は山稜の端が細かく、炎のように突き出ている形を示すと解釈すると、肥河の中流域に求める地形が見出だせる。現在は細かい行政区分となっているが北九州市門司区松崎町・奥田辺りと推定される。

大国主命が娶った八嶋牟遲能神之女・鳥耳神の「耳」の開口部に当たるところである。黑巢橋はこの山稜の裾野で、肥河に架けられた橋を示していると思われる。造られた仮宮は、おそらく現在の大山砥神社辺りではなかろうか。

出雲國造之祖・名岐比佐都美の「岐比佐都美」はその居場所を表しているとして…、


岐(二つに分かれる)|比(並ぶ)|佐(支える)|都(集まる)|美(地形)

…やや羅列気味の記述かと思われるが、「山稜が二つに分かれていて、川、道など諸々が集まるところを支えている」と解釈できる。纏めて下図に示した。

で、なんと、肥川で休息中に無口な御子が喋ったのである。出雲之石𥑎之曾宮、葦原色許男大神」大国主命の墓所の名前が登場する。言葉を発するどころか目に入る風景をみて重要な情報を述べたのである。何が重要か、それを下記に述べる。勿論現在まで全く気付かれなかったことである。

上記の説話は、御子が肥河の中流域に坐した時川下に見える山ではないが小高いところを見つけ、それを大国主神が眠る「出雲之石𥑎之曾宮」を祀る場所ではないのか、と言葉を発したと記述されている。

前記で比定した場所である。現在の北九州市門司区寺内(一)にある寺内第二団地辺りの小高くなったところと推定される。その場所、落着したようである。

後に「淡海之柴野入杵」が登場する。「柴」=「此(比:並ぶ)+木(山稜)」とすれば、その山稜に沿って並び守る対象がこの「石𥑎之曾宮」と推定された。関連したリンクのあるところを参照願う。

古事記の舞台の最も重要なランドマークと解読されるところである。出雲=淡海である。通説に従えば出雲=近江となる。この矛盾に目をつぶって1,300年、なのである。

肥長比賣

取り巻きが歓喜したのは当然の記述。天皇に急便を出すは、檳榔(ビンロウ)の島でお寛ぎのために船の調達やら、てんやわんやの騒動に、大成果である。そんなにも「出雲大神」は霊験あらたかだったのか・・・。

<馬島=檳榔>
「アヂマサの島」=「馬島」(現地名は北九州市小倉北区馬島)と比定するのだが、これは後の仁徳天皇紀の記述で紐解けた。

檳榔の古名を「アヂ(ジ)マサ」といったという解説もあり、繋がるところではある。

がしかし、それぞれの繋がりの根拠は決して明確ではない。古事記は周り巡る繋がりでその根拠を示す書ではない。

「檳榔」は檳榔が生えている島と解釈するのであろうか?…いや、やはりこれは、古事記らしく、地形を象形した表現と思われる。

現在の馬島は金崎島を含めた一つの島になっているが、標高を示すと、何と、当時は小高いところの周りは全て海面下であったことが判る。


<例:檳榔の実>
この島の地形を檳榔の実が枝にぶら下がる様子に喩えたものと推察される。面白いのはそれぞれの粒のような島の標高は漸減するのではなく5~10mあたりで明確に段差となっていることである。

即ち粒の縁が暈けておらず、くっきりとしていることが判る。それを受けて、クリッとした実の形状に見立てのではなかろうか。

仁徳天皇が黒比賣を追って吉備に向かう途中で詠う歌に「阿遲摩佐能志麻」と記される。詳細はこちらを参照願うが、「アヂマサ」の記述との関係は、また後日にでも述べることにするが、この「檳榔」の表記が紐解けたことは貴重な結果となった。古事記のランドマークが一つ増えたと思われる。
 
<肥長比賣>
檳榔之長穗宮」は、「穗のように長く延びた地形」を示す場所を表しているのであろう。馬島の北部でその地形を見出すことができる。「宮」は多分谷間の奥辺りかと思われる。

肥長比賣の「肥」=「月([三日月]の地形)+巴(小丸く小高くなったの地形)」の象形であり、「月」=「山稜の端」と解釈すると、「肥長」は…、
 
山稜の端が丸く小高くなった傍で長く延びた山稜があるところ

…と紐解ける。月讀命の「月」=「三日月」=「山麓の三角州」としたが、上記も海に囲まれた三角州である。

ここで寛ぐのは初めからの予定であったようだが、随伴の王たちも喜んで、だろう。が、事件が・・・何かを寓意しているのか…いやこれは戯れの領域であろう。肥長比賣の「肥」に「巴(蛇の象形)」が含まれているとすると、既に名前に「蛇」が含まれている。海上を照らす「月」もある・・・取り敢えず君子危きに近づかず、一目散に逃げる。その逃げ方が貴重な情報提供になる、かもである。


自山多和引越御船

「自山多和引越御船」企救半島、船を引いて越えるのである。「多和」=「撓(尾根の鞍部)」武田氏訳の「峠」である。現在の「大川」に沿って淡島神社付近を通過して奥田峠を経て「伊川」に抜けるルートであろう。「淡海」→「難波津」→「山背川」→「師木玉垣宮」着である。目出度し、目出度し…。

古事記記述の中で具体的に「舟で越す」とされるのはこれが唯一である。二俣舟との関連も含め真に貴重なところであろう。谷の入口、北九州市門司区松崎・永黒から伊川まで距離約4km、標高差約50mの峠越えを行ったと推測される。重量については全く不詳であるが、人力でも十分に可能な移動であったことが伺える。今も各地に残る「船(舟)越」の地名、そして「高志」の地名に当時の情景が浮かぶ。




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文字使いの統一性に感心させられた例。ご参考まで。

第七代孝靈天皇の「黑田廬戸宮」である。「黒田」は何と解釈するか?…「黑」=「里+灬(烈火)」と分解する。「里」=「大地を区画した耕地」、「灬」=「炎の地形」と紐解ける。


玉手岡の丘陵の端が細かく、炎ような地形を示しているところ、その全面にあった田を「黑田」と名付けたと読み解ける。

安萬侶コード「黑(炎の地形の傍らで区画された耕地)」登録である。漢字を用いた驚嘆すべき地形の象形であろうか・・・。

「黒田」=「豊かに泥の詰まった田」の意味も重ねられているとも…。池()の水に支えられ、治水ができた場所を示すと解釈すると、現在の「常福池」(田川郡福智町常福)の近隣に宮があったと思われる。「廬戸宮」と言う表現も彼らの慎ましやかな生活を示そうとしているのかもしれない。


大倭根子日子賦斗邇命の「賦斗邇」は何と解釈する?…、


賦(~の形にする)|斗(柄杓)|邇(近い)

…「柄杓の形にしたところに近い」と紐解ける。そもそもの柄杓の地形であるが、上記の常福池を作りその近くに坐したと解釈することができる。葛城の発展を示す命名である。

既出の「常=床」の解釈を用いると…、


常福=常(床:大地)・福(豊かなこと)

…と読み解ける。上記「黒田­=豊かに泥の詰まった田」と同義であろう。
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