2018年5月26日土曜日

伊久米伊理毘古伊佐知命=伊玖米入日子伊沙知命 〔214〕

伊久米伊理毘古伊佐知命=伊玖米入日子伊沙知命



初国の天皇となった崇神天皇の跡を引き継いだのが垂仁天皇であった。その和風諡号が些か長い上にどういう分けか崇神紀と垂仁紀では異なる。勿論読みは同じなのだが・・・間違いなくその諡号で何かを伝えているのである。異なる文字列を用いるのは今までにも何度も出現した。それで伝えたいものを表現するのが古事記である。

悲しいかな全く読み取れて来なかった日本の古代史である。これも何度も述べているように勿体無い話であろう。本題に入ろう。崇神紀①と垂仁紀②の古事記原文表記の引用である。

娶大毘古命之女・御眞津比賣命、生御子、伊玖米入日子伊沙知命、次伊邪能眞若命、次國片比賣命、次千千都久和比賣命、次伊賀比賣命、次倭日子命。六柱。

伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也。

この違い、ましてや何かの間違いでは済まされない違いであろう。だがこれは些細な違いであって言及すること自体が無意味な取り扱いのようである。こうなってくると何が何でも紐解いてみようと思うのが人の常…ではないが・・・。では、早速両者の表現を比べながら述べてみよう。

伊久米伊理毘古伊佐知命に含まれる「伊久米」「伊理毘古」伊佐知」頭韻踏んだ調子の良い名前、なんて感心してるだけでは読み解けない、あたり前か…。というわけで、取り掛かりは「久米」である。

ところが、崇神紀では「玖米」と表記されている。「玖米」の解釈をしてみよう…既に一部紐解いているが、詳細はこちらで…、


玖米=玖(黒色の)|米(稲の実)

…黒米の産地の天皇を表しているようである。黒米は紫黒米、紫米とも呼ばれる。「紫」の文字が師木(現在の田川郡香春町中津原の紫竹原)に見出だせる。竹の植物分類は「イネ目イネ科タケ亜科」であり、紫稲、即ち紫米の産地であったことを示しているのでは、と解釈した。

黒米を調べると、吸肥力大、環境変化に強い、長期保存時の発芽率が高いなど早期に栽培された稲で、白米至上主義になったのは明治時代以降とある。生きるための米は近年になるまで有色米であった。赤米(古事記は「丹」で表現する)との関連も含めて興味深いところでもある。

かなり状況証拠的には好ましい解釈のように思われる。がしかし、これでは今一つ場所の特定には至らず、やはり地形象形表現として紐解いてみよう。垂仁紀の「久米」とくれば邇邇藝命の降臨に随行した天津久米命に含まれる「久米」=「くの字に曲がった川の合流点」があるのだが、それに似た地形は存在するのか?・・・。

師木は「天」の地形と同じく凹凸の少ないところである。英彦山山系の山稜の端にあるところ、更に当時と比べると現在では些か凹凸も減少しているようにも思われる。天神達が住み慣れた場所に類似する地への憧れは、おそらく、大きなものであったろう。勿論そんな地形は稀有であって生きるためには新たな土地を求めなければならなかったのも事実である。


<師木玉垣宮・水垣宮>
案じるより産むが易し、見事に地形象形されていることが判った。

図の右側から左側にかけて、すなわち東から西に向けて標高差20mに満たないが、なだらかな谷筋が見て取れる。

またそれらの谷筋が合流し「津」を形成していることも判る。真に「天津」類似の地形を示しているのである。

この「津」近隣の高台に垂仁天皇の師木玉垣宮があったと推定される。現在の鎮西公園、地名は田川市伊田である。

参考に崇神天皇の師木水垣宮の場所も併せて示してある。師木の中央へと侵出したのである。「伊」の文字を三つも含む名前、ひょっとすると伊田の「伊」は残存地名かもしれない。


伊久米=伊(僅かに)|久(くの形)|米(川の合流点)

…「僅かに「く」の形に曲がった川が合流するところ」と紐解ける。「玖米」と表現して「黒米」のイメージを浮かばせながら地形象形では「久米」とする。安萬侶くんの文字使いは尋常ではない、いつものことながら・・・。「伊理毘古」「入日子」は後に回して先に「伊佐知」「伊沙知」について述べる。


崇神紀で記された「伊沙知」は何と解釈されるであろうか?…多用される「伊」なのだが、それだけに意味も多様である。「伊」に続く文字によって適切な解釈をすべきであろう。「伊」=「人+尹(支配する、整える)」として…、

伊(支配する)|沙(辰砂:丹)|知(得る)

…「丹を得るのを支配する」と紐解ける。なだらかな傾斜地での稲穂ばかりでなく「丹」の生産も確保した命と伝えている。垂仁紀の「伊佐知」は…、


伊(整える)|佐(促進する)|知(得る)

…丹の獲得ばかりではなく、更に生産を促進するように計らったと読み解ける。海佐知・山佐知の「佐知」の意味と同様である。海の幸・山の幸としては伝わるニュアンスが消えてしまうのである。

「伊佐知」「伊沙知」の一文字変えて読み手に伝わる内容を広げているのである。何とも多彩な文字使いであろうか・・・これらの言葉に秘められた意味は後の説話…ドラマチックな沙本毘古の謀反の説話で明らかにされる。垂仁天皇紀に「丹」の生産が本格化したことを告げている。

「伊理毘古」「入日子」はそれぞれ紐解くと…、


伊(小さく)|理(田を区分けした)|毘(田を並べて)|古(定める)
入日子=入(移し入れる)|日子(日の子:稲)

…「小さく田を区分けして並べて定める」「苗を本田(ホンデン)に移し替える(田植え)」と解釈される。この二つの表記は「小さな苗代を作ってその苗を本田に植える」という現在の一連の稲作方式を述べていると解釈される。同一人物の名前で用いられた異なる表記からこの一連の作業が浮かび上がって来るのである。

前記(詳細はこちら)で苗を移し入れる表現からこの稲作方式を告げているのではと推測したが、同時に登場し始めた「伊理」の表現が繋がった。遅くとも弥生時代には「苗代・田植え」が行われていたとの考古学上の知見があるとのことだが、古事記が伝えるこの方式は「伊理」が開化天皇紀に出現することからこの時に始まり、崇神天皇紀を経て垂仁天皇紀に本格化したものと思われる。西暦を求めることは後日としよう。

それにしても久々の長たらしい天皇名は、やはり、大切な意味を有していたことが判る。稲作耕地の発展もさることながら、それに「丹」の支配・生産体制整備が加わったのである。垂仁天皇紀全体を通しても賢帝の雰囲気を醸し出している天皇である。紫黒米に満たされた状況もあながち外れてはいないと思われる。それも含めた命名と推測される。

こうして師木玉垣宮の在処が見えて来ると、師木は実に稲作に適した土地を有していたことが判る。葛城、山代などの急斜面の渇いた土地に比べ、容易に大量の米を取得することができた場所であったと思われる。その地を何としても手中に収めること、念願叶った天皇家の行末は希望に満ちていただろう。

本ブログのかなり初期に師木玉垣宮の位置を推定した経緯がある。

垂仁天皇の御子が無口で、何と空を飛ぶ「鵠」を見て言葉を発したことから、それを求めて家臣が旅立つという説話であった。

記載された「卽曙立王・菟上王二王、副其御子遣時、自那良戸、遇跛盲、自大坂戸、亦遇跛盲、唯木戸是掖月之吉戸ト而出行之時、毎到坐地定品遲部也」から求めた結果は図に示した通りであった。

トンデモナイ宮の大きさであったが、ほぼ今回の結果と齟齬がないことが確認された。一安心である。古事記はその場凌ぎの記述をしていないことをここでも確認されたわけである。

ところで「久米」に関してもう一つ関連する記述がある。建内宿禰の比賣、久米能摩伊刀比賣と怒能伊呂比賣である。これも既に紐解いていたが、あらためて見直してみることにした。


久米能摩伊刀比賣

<久米能摩伊刀比賣>
図に示したように伊久米天皇の近隣であろう。そして「摩伊刀」の意味を紐解くことになる。

そのまま読めば「刀を擦って磨く」のような意味になる。

神倭伊波礼比古に随行した武将「大久米命」を連想させ、勇猛な久米一族の住処であったことを暗示しているように受け取れる。

勿論天皇の近くに居ること、彼らの主要な役目であったろう。

だがしかし、間違いなく地形象形していると思われる。「摩伊刀」は何と紐解くか?…、


摩(消えかかったような)|伊(小ぶりな)|刀(斗:柄杓の地)

…と読み解く。安萬侶コードの「刀」=「斗」=「戸」は全て凹んだ地形を示し、場合によって使い分けられている。標高差が少なく、地図は国土地理院アナグリフを使用する。浮かび上がって来た柄杓の地が見出だせる。ついでながら「伊久米」の谷(川)も一層明確に示されている。

「久米」の範囲は残念ながら上記からは求めることは不可で、凡その領域を示した。垂仁天皇がこの地に鎮座するずっと以前に建内宿禰の手が伸びていたということであろう。師木侵出は着実に準備されていたのである。

怒能伊呂比賣

怒能伊呂比賣、一体何と読む?…やはり「ノノイロヒメ」が正解のようである。だが、これでは埒が明かない、というのも正解のようである。そもそも建内宿禰の子供達の居場所を求めた例が極めて少ないのだから、そのうちの一人の比賣など誰も追及なんかしていない…そうなんでしょうか?

そんな怒りが…ちょっと安萬侶くん風になってきた…「怒」=「イカリ」と読む。

師木辺りで関係ありそうな場所を探すと・・・ズバリの名前が登場する。

「伊加利」である。師木玉垣宮のほぼ真南に当たる彦山川の対岸にある。

現地名は田川市伊加利で、かなり広い面積をしめる地名であり、古くからの呼び名ではなかろうか。

ここで終わってしまっては残存地名に合わせただけになってしまう・・・「イカリ」の地形を求めてみると・・・見事な地形象形であった。

「錨」の歴史は古く、舟を多用していれば当然かも知れないが、とは言っても古事記の時代に如何なるものが使用されていたかは不詳である。

「怒能伊呂比賣」は…、


怒(錨の地形)|能(の)|伊(小ぶり)|呂(背骨)

…「錨の地形で小ぶりな背骨ようなところ」の比賣と紐解ける。

上図を参照願うと、背骨の凹凸があり、現在に知られる鉄製の錨の形を示していることが判る。

この形状は石を用いた碇ではなく、既に鉄を用いていたのではなかろうか…古事記編纂時かもしれない?・・・興味深いところだが、これ以上の推論は難しいようである。

読み進んでいると「苗代・田植え」「錨」が浮かんで来て、時はいつか?…と知りたい気分ではあるが、時制に無頓着?な古事記からでは難しいようでもある。焦ることなく、かも?

…全体を通しては古事記新釈の「垂仁天皇【后・子】を参照願う。