2024年12月16日月曜日

今皇帝:桓武天皇(23) 〔706〕

今皇帝:桓武天皇(23)


延暦九(西暦790年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

五月戊辰。大藏卿從四位上石川朝臣豊人卒。庚午。陸奥國言。遠田郡領外正八位上勳八等遠田公押人款云。己既洗濁俗。更欽清化。志同内民。風仰華土。然猶未免田夷之姓。永貽子孫之恥。伏望。一同民例。欲改夷姓。於是賜姓遠田臣。癸酉。以外從八位上紀直五百友爲紀伊國造。丙戌。遣使五畿内祈雨焉。甲午。以炎旱經月。公私焦損。詔奉幣畿内名神。以祈嘉注焉。

五月三日に大藏卿の石川朝臣豊人が亡くなっている。五日に陸奥國が以下のように言上している・・・遠田郡領で勲八等の「遠田公押人」は、[私は既に濁った風習を洗い落とし、その上清らかな導きを敬っている。志は内地の人民と同じであり、習わしは中華を仰いでいる。ところが、まだ野蛮な夷の姓を免除されず、永く子孫に恥をもたらすことになる。どうか姓を他の民の場合と同じようにし、夷としての姓を改められるよう希望する]と訴えて来ている・・・。そこで姓を改め「遠田臣」を賜っている。

八日に紀直五百友(神奴百繼に併記)を紀伊國造に任じている。二十一日に使を畿内五ヶ國に遣わし、降雨を祈願させている。二十九日、前月以来旱魃が続き、公私ともに干害を受けているので、詔して、畿内の名神に幣帛を奉り、慈雨を祈っている。

<遠田公押人・石神山精社>
● 遠田公押人

「遠田公(君)」は、聖武・孝謙天皇紀に雄人・小捄・金夜が登場し、上記本文に記載されている通りに帰順した蝦夷であり、外従五位下を叙爵されている。「押人」は、その一族の一人だったと述べている。

確かに、後の称徳天皇紀に、多くの同様に帰順した陸奥在住の蝦夷等に賜姓したと記載され、その多くが「臣・連」を賜っていた(こちら参照)。

彼等は特に治績があるわけでもなく、史書に記録されるような功績があった「遠田公」にしてみれば、歯痒い気持ちがあっても不思議ではない状況と思われる。

押人=谷間を覆い被せるように山稜が延びているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。何とも地形変形が凄まじい場所であり、それも早期に行われたようで、若干不明なところがあるが、最もらしい場所とできるであろう。

石神山精社 少し後に陸奥國黒川郡にある石神山精社を官社にしたと記載される。勿論、海道蝦夷襲来に備えての神頼みであろう。「石」=「磯」として、石神=磯辺で高台が長く延びているところと解釈すると、図に示した場所と表していることが解る(当時の地形は今昔マップから推測)。

「精」=「米+靑」=「米粒のような地の傍らで四角く区切られた様」と読めるが、地図の解像度からして確認は難しいようである。

六月戊申。於神祇官曹司行神今食之事。先是。頻属國哀。諒闇未終。故避内裏而於外設焉。辛酉。内厩頭從五位上三嶋眞人名繼爲兼美作守。

六月十三日に神祇官の庁舎において神今食(Wikipedia)の行事を行っている。これ以前、しばしば悲しみがあり、天皇の服喪期間がまだ終わっていない。そのため内裏を避けて外に設けている。二十六日に内厩頭の三嶋眞人名繼に美作守を兼任させている。

秋七月辛巳。左中弁正五位上兼木工頭百濟王仁貞。治部少輔從五位下百濟王元信。中衛少將從五位下百濟王忠信。圖書頭從五位上兼東宮學士左兵衛佐伊豫守津連眞道等上表言。眞道等本系出自百濟國貴須王。貴須王者百濟始興第十六世王也。夫百濟太祖都慕大王者。日神降靈。奄扶餘而開國。天帝授籙。惣諸韓而稱王。降及近肖古王。遥慕聖化。始聘貴國。是則神功皇后攝政之年也。其後輕嶋豊明朝御宇應神天皇。命上毛野氏遠祖荒田別。使於百濟搜聘有識者。國主貴須王恭奉使旨。擇採宗族。遣其孫辰孫王〈一名智宗王〉隨使入朝。天皇嘉焉。特加寵命。以爲皇太子之師矣。於是。始傳書籍。大闡儒風。文教之興。誠在於此。難波高津朝御宇仁徳天皇。以辰孫王長子太阿郎王爲近侍。太阿郎王子亥陽君。亥陽君子午定君。午定君生三男。長子味沙。仲子辰尓。季子麻呂。從此而別始爲三姓。各因所職以命氏焉。葛井。船。津連等即是也。逮于他田朝御宇敏達天皇御世。高麗國遣使上鳥羽之表。群臣諸史莫之能讀。而辰尓進取其表。能讀巧寫。詳奏表文。天皇嘉其篤學。深加賞歎。詔曰。勤乎懿哉。汝若不愛學。誰能解讀。宜從今始近侍殿中。既而又詔東西諸史曰。汝等雖衆。不及辰尓。斯並國史家牒。詳載其事矣。伏惟。皇朝則天布化。稽古垂風。弘澤浹乎群方。叡政覃於品彙。故能修廢繼絶。萬姓仰而頼慶。正名辨物。四海歸而得宜。凡有懷生。莫不抃躍。眞道等先祖。委質聖朝。年代深遠。家傳文雅之業。族掌西庠之職。眞道等生逢昌運。預沐天恩。伏望。改換連姓。蒙賜朝臣。於是。勅因居賜姓菅野朝臣。乙酉。正五位上坂上大宿祢又子卒。故左京大夫從三位苅田麻呂之女也。天皇之在儲宮也。以選入。生高津内親王。戊子。從五位下紀朝臣呰麻呂爲少納言。從四位下石川朝臣眞守爲右大弁。從五位上調使王爲左大舍人頭。從五位上藤原朝臣刷雄爲右大舍人頭。近衛少將從五位下藤原朝臣繩主爲兼式部少輔。備前介如故。從五位上阿保朝臣人上爲大學頭。從五位上藤原朝臣是人爲治部大輔。從五位下文室眞人大原爲少輔。從五位上藤原朝臣眞作爲大藏大輔。從四位下紀朝臣犬養爲大膳大夫。從五位上葛井連根主爲亮。從五位下大春日朝臣清足爲官奴正。正五位下葛井連道依爲春宮亮。從五位下大伴宿祢蓑麻呂爲中衛少將。從五位下藤原朝臣今川爲伊勢守。從五位上宗形王爲讃岐守。從五位下百濟王元信爲肥後介。

七月十七日に左中弁・木工頭の百濟王仁貞(①-)、治部少輔の百濟王元信(元眞。②-)、中衛少將の百濟王忠信(①-)、圖書頭・東宮學士・左兵衛佐・伊豫守の津連眞道(眞麻呂に併記)等が上表して以下のように述べている・・・「眞道」等の系統は、百濟國の貴須王から出ている。貴須王は、百濟が建國してから数えて第十六代の王である。百濟の始祖である都慕大王は、太陽神が霊を下し扶余地方を支配させて國を開き、天帝が予言の書を授けて、韓の諸地域を支配して王と称した。---≪続≫---

その後近肖古王(古事記では照古王)の世になり、遥かに天皇の治世を慕い、初めて貴國と交通した。これは神功皇后が政治をとった年のことであった。その後輕嶋豊明朝廷で天下を統治した応神天皇は、上毛野氏の先祖である「荒田別」に命じて百濟國に使いさせ、学者を招請させた。---≪続≫---

國主の貴須王は、恭しく使者の申し出に従い、一族の中から人を選び、孫の辰孫王(分注。一名を智宗王)を派遣して使者と共に入朝させた。天皇は喜び、特に恵み深い命令を下して、皇太子の師匠に任じた。こうして初めて典籍を伝え、おおいに儒教を広めた。文教興隆の始めは正にこの時であった。---≪続≫---

難波高津朝廷で天下を統治した仁徳天皇は、辰孫王の長男である太阿郎王を近習にした。太阿郎王の子が亥陽君、亥陽君の子が午定君であり、「午定君」は三人の男子を生んだ。長男は「味沙」、次男は「辰爾」、末弟は「麻呂」といった。この三人から子孫が別れて三姓になった。それぞれの職務により氏の名を付けた。葛井連・船連・津連等がこれである。---≪続≫---

他田朝廷で天下を統治した敏達天皇の世になり、高麗國が使者を派遣し、烏の羽に記した上表文を奉った。群臣も史達も解読できないでいたところ、「辰爾」が進み出てその上表文を取り上げ、よく解読し巧みに書き写し、詳細に上表文を奏した。---≪続≫---

天皇は彼が学問に熱心なことを喜び、大層賞賛し、[学問によく勤めたことよ、立派なことよ。おまえがもし学問を愛さない人であったなら、誰が解読したであろうか。今後は殿中にいて近侍せよ]と、また、[おまえたちは大勢いるのに「辰爾」に及ばない。この度のことは、それぞれ國史や家に伝わる記録に詳しく記載せよ]と詔された。---≪続≫---

つつしんで考えるに、朝廷は天に則って民を導き、古えの道を考えて教化を広め、広大な恩恵は諸方に遍く及び、立派な政治は民に及んでいる。このため廃れた道を元通りに直し、廃絶した道を継承することができて、万民が仰いで、めでたい治世に頼り、大義名分を正し、物事を弁別することができて、四方の民はみなつき従って、便宜を得ている。全て生命を備えるもので躍り上がって喜ばぬものはない。---≪続≫---

「眞道」等の先祖が、礼物を捧げて聖朝に仕えたのは、遥かに古い時代のことである。以来家門は文雄の業を継承し、一族は学校で教授する職を掌ってきた。「眞道」等はこの盛な時代に生まれて来て、天皇の恩みに浴している。どうか連姓を改め換えて朝臣姓を賜るようお願いする・・・。勅して、居住地の名に因み「菅野朝臣」の氏姓を賜っている(こちら参照)。

二十一日に「坂上大宿祢又子」が亡くなっている。故左京太夫の「苅田麻呂」の娘であった(こちら参照)。天皇が皇太子の時、選ばれて後宮に入り、「高津内親王」を生んだ。

二十四日に紀朝臣呰麻呂(難波麻呂に併記)を少納言、石川朝臣眞守を右大弁、調使王()を左大舍人頭、藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を右大舍人頭、近衛少將の藤原朝臣繩主()を備前介のまま兼務で式部少輔、阿保朝臣人上(健部朝臣)を大學頭、藤原朝臣是人を治部大輔、文室眞人大原(与伎に併記)を少輔、藤原朝臣眞作()を大藏大輔、紀朝臣犬養(馬主に併記)を大膳大夫、葛井連根主(惠文に併記)を亮、大春日朝臣清足(五百世に併記)を官奴正、葛井連道依(立足に併記)を春宮亮、大伴宿祢蓑麻呂(眞綱に併記)を中衛少將、藤原朝臣今川(今河。)を伊勢守、宗形王を讃岐守、百濟王元信(元眞。②-)を肥後介に任じている。

<荒田別・巫別>
● 荒田別・巫別

古事記では、簡略に「「豐木入日子命者、上毛野君、下毛野君等之祖也」と記載されている。後に朝臣姓を賜ることになるのだが、その間に「荒田別・巫別」がいたと述べている。

書紀の応神天皇紀に「時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也」と記載され、それをそのまま引用したのが上記本文である。

豐木入日子命(書紀では豐城入彦命)の出自は、現在の築上郡上毛町東上の東友枝川と有田川の合流地点付近と推定した。時を経て、その子孫等が下流域へと広がって行ったのであろう。

荒田別荒田=水辺で山稜が途切れている地に田が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。友枝川と東友枝川の合流地点付近である。所謂”輕”の地形である。巫別巫=[巫]の文字形のように谷間が並んでいる様と読み解くと、図に示した場所にその地形を見出せる。

二人の関係は、親子なのか兄弟なのか不確かのようであるが、親密な関係であったのであろう。「豐城入彦」の他の後裔達は、それぞれの居処に基づく名称に変更しているが、彼等は同じ上毛野君(朝臣)を名乗っている。

<味沙-辰爾-麻呂:午定君>
● 味沙・辰爾・麻呂:午定君

淳仁天皇紀に津史秋主(馬人に併記)等が「外從五位下津史秋主等卅四人言。船。葛井。津。本是一祖。別爲三氏。其二氏者蒙連姓訖。唯秋主等未霑改姓。請改史字。於是賜姓津連」と言上して、漸く連姓を賜ったと記載されている。

確かに「船連」一族からは高僧輩出等、多くの有能な人材を登用、早くに改姓されていた。また、「葛井連」一族は、吉備國に移って、同様に多くの人物が登場して来たが(こちらなど参照)、「津史」からは極めて限られていた。

止むを得ないところではあるが、今回は更に改姓要望を行っている。時代の風潮からすると、「連」も低位の様相であり、「宿祢・朝臣」姓が軒並みに増加しているように思われる。遠祖では繋がる百濟王一族を引き連れての言上を策略したのであろう。

午定君午定=杵を突くように延びる山稜に足を揃えて止まるような形をした地があるところ
味沙(葛井連)味沙=山稜を横切る谷間の口の水辺で三角に尖った山稜が延びているところ
辰爾(船連)辰爾=二枚貝が出す舌のような地が広がっているところ
麻呂(津連)麻呂=[萬(蠍)]の頭部のような山稜に挟まれたところ

図に示した場所が各々の出自の場所と推定される。各氏の系統として、申し分のない配置となっていることが解る。賜った菅原朝臣については、既に眞麻呂・眞道の出自場所と共に示した。

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ところで、文武天皇紀に「道昭和尚」の追悼文で、父親が「船史惠釋」であったと記載されていた(こちら参照)。書紀の皇極天皇紀に、その「惠釋」が『乙巳の変』のどさくさ時に蘇我臣蝦夷等が天皇記・國記などを焼き払うのを未然に防ぎ、中大兄皇子に献上していた。

学問に対する意識の高さを表しているのであるが、上記の「辰爾」の後裔として納得の人物であったことが分る。それに繋がる「道昭和尚」であった。唐に渡り玄奘三蔵に師事し、行基を弟子とした。僧侶が日本の発展に果たした役割は、多大であった時代である。

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<高津内親王>
● 高津内親王

何とも天皇の周辺での不幸が連続している様相である。また、延暦五(786)年には、軍事に関して最も信頼を置いていた坂上大宿祢苅田麻呂が薨じ、息子の田村麻呂が、その前年に従五位下に叙爵されたばかりであった。

蝦夷討伐の大失態を補うには、「田村麻呂」の成長を待つしかなかったのであろう。正に堪え忍ぶ時期を迎えていたのである。そんな背景の中で、「苅田麻呂」の娘である又(全)子が亡くなったと、記載している。

高津内親王は、おそらく、「又子」の許で養育されたと推測される。高津=皺が寄ったような山稜が水辺で[筆]のように延びているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と思われる。地形変形が進捗していて、些か判別し辛いが・・・。

後に波乱に富んだ人生を送られたようで、嵯峨天皇の妃となるが、その後廃されたりしている。その真相は闇の中の出来事だったと伝えられている。

八月乙未朔。大宰府言。所部飢民八万八千餘人。請加賑恤。許之。

八月一日に大宰府が以下のように言上している・・・管轄下に飢えた人民が八万八千人余りいる。物を恵み与えることを申請する・・・。これを許可している。

九月丙寅。於京下七寺誦經。爲皇太子寢膳乖適也。己巳。授從五位下川村王從五位上。辛未。詔以善謝法師。等定法師。並爲律師。甲戌。奉伊勢太神宮相甞幣帛。常年天皇御大極殿遥拜而奉。而縁在諒闇。不行常儀。故以幣帛直付使者矣。丙子。詔曰。朕以寡昧忝馭寰區。旰食宵衣。情存撫育。而至和靡屆。炎旱爲災。田疇不修。農畝多廢。雖豊儉有時。而責深在予。今聞京畿失稔。甚於外國。兼苦疾疫飢饉者衆。宜免左右京及五畿内今年田租以息窮弊。神寺之租亦宜准此焉。己夘。攝津職貢白鼠赤眼。 

九月三日に京内の七ヶ寺に於いて読経させている。皇太子(安殿親王)の健康状態が良くないからである。六日に川村王()に従五位上を授けている。八日、詔されて、「善謝法師」・等定法師を律師に任じている。十一日に伊勢大神宮の相嘗祭のために幣帛を奉っている。普段の年は、天皇が大極殿に出御して遥拝して奉るが、服喪中なので普段の儀礼を行わず、そのため幣帛を直接使者に託している。

十三日に次のように詔されている・・・朕は徳性が低く愚かであるにも拘らず、恐れ多くも天下に君臨し、早朝から夜まで政治に精勤して、常に民を慈しみ育むことを思っている。けれども最高の調和は来ることなく、炎暑と日照りの災いが起こり、田畑は荒れ果て農地は多く荒廃している。---≪続≫---

豊作と不作は巡り合わせがあるというが、責任は予にある。今聞くところによると、京と畿内の不作は畿外より酷く、その上病気と飢饉に苦しむ者が多いという。そこで左右京と畿内五ヶ國の今年の租を免除して、窮状を和らげようと思う。社寺の田租もこれに准ぜよ・・・。

十六日に攝津職が「白鼠赤眼」を貢進している。

<善謝法師>
● 善謝法師

律師に任じられた二名の法師の中で、前者の「善謝法師」を調べると、美濃國不破郡の出身で、俗姓は「不破」であったことが分った。郡名の由来に関わる場所を表している。

既出の僧侶と同様に、出身地や俗姓が知られていると、出自場所を求めることができる。名前は、立派な地形象形表記である。

善謝の「善」=「羊+言+言」=「谷間に耕地が並んで延び広がっている様」、「謝」=「言+身+寸」=山稜の端が弓なり広がった地が耕地になっている様」と解釈される。

纏めると、善謝=谷間に耕地が並んで延びている麓の耕地が弓なりに広がっているところと解釈される。その地形を「不破」の場所に見出せる。川が蛇行して流れる淵のようになった場所であろう。俗名「不破勝」からすると、「謝」の西側の山稜が盛り上がっている麓を表しているかもしれない。

<攝津國:白鼠赤眼>
攝津國:白鼠赤眼

「白鼠」ブームは、未だ続いているようである。攝津國は、光仁天皇紀に白鼠を献上していたが、今回は「赤眼」の「白鼠」のようである。

ところで白鼠赤眼は、同紀に大宰府が献上したと記載されていた。ハツカネズミの容姿で、瑞祥なのか?・・・何の疑問も挟まない歴史学である。

前記と全く同様に解釈して、鼠=穴蟲赤眼=谷間が細かく岐れて[火]のような形に成っているところと解釈すると、図に示した場所を表していることが解る。現在は、当時と比べて広大な溜池になっているが、その周辺が開拓されたのであろう。

図に示した通り、既に「白鼠赤眼」の周辺を多くの氏族が取り囲んでいる様相である。その端境の地を献上したことになる。まだまだ、未開の地が残っているのであり、”瑞祥”と訳しては、勿体ない話である。