2024年12月22日日曜日

今皇帝:桓武天皇(24) 〔707〕

今皇帝:桓武天皇(24)


延暦九(西暦790年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

冬十月甲午。復置鑄錢司。乙未。散位正三位佐伯宿祢今毛人薨。右衛士督從五位下人足之子也。天平十六年。聖武皇帝。發願始建東大寺。徴發百姓。方事營作。今毛人爲領催検。頗以方便勸使役民。聖武皇帝。録其幹勇。殊任使之。勝寳初。除大和介。俄授從五位下。累遷。寳字中至從四位下攝津大夫。歴播磨守大宰大貳左大弁皇后宮大夫。延暦初授從三位。尋拜參議。加正三位。遷民部卿。皇后宮大夫如故。五年出爲大宰帥。居之三年。年及七十。上表乞骸骨。詔許之。薨時年七十二。丙午。高年人道守臣東人於内裏引見。時年一百廿二歳。其髮尚多。聰如少年。矜其衰邁。賜之衣服。己酉。從五位下多治比眞人乙安爲鑄錢長官。辛亥。征蝦夷有功者四千八百卌餘人。隨勞輕重。授勳進階。並依天應元年例行之。癸丑。太政官奏言。蝦夷干紀久逋王誅。大軍奮撃。餘孽未絶。當今坂東之國。久疲戎場。強壯者以筋力供軍。貧弱者以轉餉赴役。而富饒之輩。頗免此苦。前後之戰。未見其勞。又諸國百姓。元離軍役。徴發之時。一無所預。計其勞逸。不可同日。普天之下。同曰皇民。至於擧事。何無倶勞。請仰左右京。五畿内。七道諸國司等。不論土人浪人及王臣佃使。検録財堪造甲者。副其所蓄物數及郷里姓名。限今年内。令以申訖。又應造之數。各令親申。臣等職參樞要。不能默尓。敢陳愚管。以煩天聽。奏可之。丁巳。授女孺從七位上物部海連飯主外從五位下。

十月二日に再び鑄錢司を設置している。

三日、散位・正三位の「佐伯宿祢今毛人」が薨じている。右衛士督・従五位下の「人足」の子であった(こちら参照)。天平十五(743)年、聖武皇帝が願を立てて初めて東大寺を建てようとし、人民を動員して造営工事にとりかかった。その時、「今毛人」は工事の催促・検閲を担当し、はなはだ巧みな手段により労役に召し出された人民を使役した。

聖武皇帝は、彼が事務に堪能で決断に優れていることを記録させ、特に信任して仕事をさせた。天平勝寶初(749)年、大和介に任じられ、まもなく従五位下を授けられた。しきりに転任して、天平寶字年中(757~764年)に從四位下・攝津大夫に任じられ、播磨守・大宰大貳・左大弁・皇后宮大夫を歴任した。

延暦初(782)年に従三位を授けられ、ついで参議に任じられ、正三位を授けられ、民部卿に移り皇后宮大夫は元のままとされた。五(786)年、大宰帥に赴任し三年を経た時、年齢が七十歳になったので、上表文を提出して引退を申請した。詔してこれを許可した。薨じた時、七十二歳であった。

十四日に高齢の「道守臣東人」を内裏に召して会見している。時に彼は百二十二歳であったが、頭髪はまだふさふさとしており、耳聡いことは若者のようであった。彼の年老いているのを憐れんで衣服を賜っている。

十七日に多治比眞人乙安を鑄錢長官に任じている。十九日に蝦夷征服に功績のあった者四千八百四十人余りに、功労の多少に従い、勲位を授け位階を進めている。いずれも天應元(781)年の例に基づいて行っている。

二十一日に太政官が以下のように奏している・・・蝦夷等は規律を乱し、長らく誅罰を免れている。派遣した大軍が奮戦して攻撃しても、なお余勢が残っている。今坂東の國々は、長年の戦役に疲弊している。身体の強い者は体力を軍に捧げ、弱い者は兵糧輸送の任で従軍している。ところが裕福な人々は、不公平にもこの苦労を免れ、前後の戦役にも苦労を経験していない。---≪続≫---

また坂東以外の人民は、元々軍役とは関係がなく、兵士を徴発する時も全く関係がない。その苦労と安楽を比べると、とても同日に論じることはできない。天下にいて、同じく皇民というからには、事を行う時に、どうして共に苦労をしなくてよいであろうか。---≪続≫---

そこで、左右京・畿内五ヶ國・七道の諸國の國司等に命じ、土着の人・浮浪の人・「王臣佃使」(こちら参照)の区別なく、甲を製作できる経済力のある者を検査・記録し、その財産の種類・数量及び郷里名・姓名などを添えて、今年中に報告させたく思う。---≪続≫---

また製作すべき数量は、各人自身に申告させる。以上私達は政治の要職にあって、この不平等を黙認するわけにはいかないので、お耳を煩わせることになるが、敢えて愚かな意見を申し上げる・・・。奏上を許可している。

二十五日に女孺の「物部海連飯主」に外従五位下を授けている。

<道守臣東人>
● 道守臣東人

「道守臣」の氏姓は、元正天皇紀に「但馬國人寺人小君等五人。改賜道守臣姓」と記載されていた。また、淳仁天皇紀に「道守臣多祁留」が外従五位下を叙爵されて登場していた(こちら参照)。

古事記の応神天皇紀に新羅の王子、天之日矛の子孫が蔓延った経緯に登場する多遲摩之俣尾の場所と推定した。いずれにせよ、古くから開かれた地域であったと思われる。

尋常ではない長寿の人物がいたようで、天皇もその生き様にあやかりたいところだったのかもしれない。頻出の名前である東人=谷間を突き通すようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。登場した三名の名前が表す地形を”俣尾”の地に存在していることが解る。

<物部海連飯主>
●物部海連飯主

「物部海連」は、記紀・續紀を通じて初見の氏姓である。物部系の複姓表記の一族としては、物部朴井連(榎井朝臣)・物部韓國連などがあった。『壬申の乱』の功臣であった「朴井連」からは多くの人材が登用されて来ている。

おそらく今回登場の「物部海連」も物部派生氏族と推測されることから、「物部」の近隣周辺の地を居処としていたのであろう。

物部海連に含まれる頻出の海=氵+每=水辺で母が子を両腕で抱くように延びた山稜で囲まれている様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。「榎井朝臣」の北隣となる。

名前の飯主=真っ直ぐな山稜の前がなだらかに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後に登場されることもなく、関連する情報も皆無のようであり、消息は全く不明である。

十一月乙丑。勅曰。公廨之設。本爲填補欠負未納。隨國大小。既立擧式。而今聞。諸國司等。雖有欠物。猶得公廨。理須依法科罪沒爲官物。但以國司等久有仕官之勞。曾無還家之資。今故立法制。宜自今以後。有舊年未納欠負者。大國三万束。上國二万束。中國一万束。下國五千束已上。毎年徴填。附帳申上。若不據此制。有未納者。返却税帳。隨事科罪。其當年未納者。一依去天平十七年式填之。壬申。外從五位下韓國連源等言。源等是物部大連等之苗裔也。夫物部連等。各因居地行事。別爲百八十氏。是以。源等先祖塩兒。以父祖奉使國名。故改物部連。爲韓國連。然則大連苗裔。是日本舊民。今號韓國。還似三韓之新來。至於唱噵。毎驚人聽。因地賜姓。古今通典。伏望。改韓國二字。蒙賜高原。依請許之。丁丑。辰時地震。巳時又震。戊寅。勅曰。中宮周忌。當來月廿八日。礼制乍畢。新歳須及。而忌景俄臨。弥切罔極之痛。元正肇啓。何受惟新之歡。興言永悲。不能忍。賀正之礼。宜從停止焉。己夘。是日。當新甞。而爲諒闇未終。於神祇官行其事矣。辛巳。授无位全野女王。正五位下八上女王並從四位下。丁亥。陸奥國黒川郡石神山精社並爲官社。己丑。授无位藤原朝臣家刀自從五位下。坂東諸國。頻属軍役。因以疫旱。詔免今年田租。

十一月三日に次のように勅されている・・・國ごとに公廨稲を設置したのは、元々正税出挙の不足と未納の分を補填するためであった。その数量は國の大小により、既に細目を決めた式に定められている。ところが今聞くところによると、諸國の國司等は、不足があっても、なお公廨稲の一部を給与として受け取っているという。---≪続≫---

道理としては、法によって罰を課し、受け取った分は没収し官物とするべきである。しかし、國司等は長らく國に仕えた功績があり、帰郷する費用が全く支給されないので、今そのために新たな制度を作ることにする。---≪続≫---

今後は旧年度の未納・不足があった場合、大國は三万束、上國は二万束、中國は一万束、下國は五千束以上を毎年取り立てて補填し、その事情を正税帳に記載して中央に申し上げよ。もしこの制度に従わず尚未納のままであるならば、正税帳を返却し、事情に応じて罰せよ。ただし、その年度についての不足分は、天平十七年の式により補填せよ・・・。

十日に「韓國連源」等が以下のように言上している・・・「源」等は物部大連等の子孫にあたる。いったい物部連等は、それぞれ居住地と職務により多くの氏に分れた。そこで「源」等の先祖である鹽兒は、父祖が使者として派遣された國の名に基づき、「物部連」を改めて「韓國連」を名乗った。ですからつまり、「大連」の子孫は古くからの人民である。---≪続≫---

それなのに今、「韓國」と名乗るのは、返って三韓から新しく来たようで、名乗る度に人の耳を驚かす始末である。居住地に基づき氏名を賜うのが、古今を通じての決まりである。そこで、「韓國」の二字を改めて「高原」を賜りるように伏してお願いする(こちら参照)・・・。申請のままに許可している。

十五日、辰の時(午前八時前後)に地震があり、巳の時(午前十時前後)にも震動している。

十六日に次のように勅されている・・・亡き中宮(高野新笠)の一周忌は来月二十八日に当たっている。礼に服する期間が忽ち終わり、新年が始まるが、命日を間近にしていよいよ極まりなく心が痛むので、元旦を迎えても、どうして新年の慶賀を受かられようか。悲しみはいつまでも続き、堪え忍ぶことができないので、賀正の儀礼は中止することにする・・・。

十七日、この日は新嘗祭に当たっていたが、天皇の服喪が終わっていないので、不出御のまま神祇官で祭りを行っている。十九日に全野女王(八千代女王に併記)・八上女王(八上王)に従四位下を授けている。

二十五日に陸奥國黒川郡にある石神山精社(遠田公押人に併記)を官社としている。二十七日に藤原朝臣家刀自(勤子に併記)に従五位下を授けている。また、坂東諸國はしきりに軍役を課せられ、加えて疫病と日照りの害を受けたので、詔して今年度分の田租を免除させている。

十二月壬辰朔。詔曰。春秋之義。祖以子貴。此則礼經之垂典。帝王之恒範。朕君臨宇内。十年於茲。追尊之道。猶有闕如。興言念之。深以懼焉。宜朕外祖父高野朝臣。外祖母土師宿祢。並追贈正一位。其改土師氏爲大枝朝臣。夫先秩九族。事彰常典。自近及遠。義存曩籍。亦宜菅原眞仲。土師菅麻呂等同爲大枝朝臣矣。癸巳。從五位上紀朝臣田長爲長門守。甲辰。地震。庚戌。授常陸國信太郡大領外從五位下物部志太連大成外從五位上。新治郡大領外正六位上新治直大直外從五位下。播磨國明石郡大領外正八位上葛江我孫馬養。下総國猿嶋郡主張正八位上孔王部山麻呂並外正六位上。是四人。或居官不怠。頗著効績。或以私物。賑恤所部。貧乏之徒。因而得濟。故有此授焉。己未。是日。當中宮周忌。於大安寺設齋焉。辛酉。勅外從五位下菅原宿祢道長。秋篠宿祢安人等。並賜姓朝臣。又正六位上土師宿祢諸士等賜姓大枝朝臣。其土師氏惣有四腹。中宮母家者是毛受腹也。故毛受腹者賜大枝朝臣。自餘三腹者。或從秋篠朝臣。或属菅原朝臣矣。是年秋冬。京畿男女年卅已下者。悉發豌豆瘡。〈俗云裳瘡。〉臥疾者多。其甚者死。天下諸國往往而在。

十二月一日に次のように詔されている・・・『春秋』には、祖は子により貴くなるという意味のことがある。このことは礼法を記した古典に示された法則であり、帝王の常に守るべき規範である。朕は、天下に君臨して今年で十年になるが、亡くなった父祖を尊ぶことでは、まだ欠けるところがある。ここにそのことを思うと、深く恐縮するところである。---≪続≫---

そこで朕の母方の祖父である高野朝臣(乙繼)と祖母である土師宿祢(眞妹)に対し、それぞれ正一位を追贈することにする。また、土師氏を改め大枝朝臣とする。いったい、九族(外戚)を序列することは昔から変わらない古典に明記され、近親者から遠縁の者に及ぼすべきことは、先人の書いた古典に載っている。そこで菅原眞仲(古人に併記)・土師菅麻呂(公足に併記)等も、同じく「大枝朝臣」とする・・・。

二日に紀朝臣田長(船守に併記)を長門守に任じている。十三日に地震が起こっている。十九日に常陸國信太郡大領の物部志太連大成に外從五位上、新治郡大領の「新治直大直」に外從五位下、播磨國明石郡大領の「葛江我孫馬養」、下総國猿嶋郡主張の孔王部山麻呂(美努久咩に併記)に外正六位上を授けている。

この四人は、ある者は職務に精勤し極めて功績があり、またある者は私有財産を費やして管轄下の人民に物を施し、そのために貧しい人々を救って、この授位が行われている。

二十八日、この日は中宮の一周忌に当たるので、大安寺で法会を行い僧尼等に食事を供している。三十日に菅原宿祢道長(土師宿祢。古人に併記)・秋篠宿祢安人(土師宿祢)等に勅して、それぞれ朝臣姓を賜い、また土師宿祢諸士(公足に併記)等に「大枝朝臣」の氏姓を賜っている。

土師氏には全部で四つの系統があり、中宮(高野新笠)の母親の家は毛受の系統に属していた。そこで「毛受」の系統の者等に「大枝朝臣」の氏姓を賜い、それ以外の三系統の者等は、「秋篠朝臣」や「菅原朝臣」の氏姓を名乗らせている。

この年の秋と冬に、京・畿内に住む三十歳以下の男女は、殆どが豌豆瘡(天然痘ウイルスによる感染症である疱瘡)に罹り、病臥した者が多かった。病気が重い場合は死亡している。天下の諸國でも、しばしば発生している。

<新治直大直>
● 新治直大直

「新治直」に関しては、称徳天皇紀の神護景雲元(767)年三月に「常陸國新治郡大領外從六位上新治直子公獻錢二千貫。商布一千段。授外正五位下」と記載されていた。

一気に”外正五位下”に三階の昇進であり、貢献度の大きさが伺えるが、その後に官吏に登用されることはなかったようである。急斜面で決して広くはない土地を巧みに開拓したのであろうか。

今回登場の大直=平らな頂の山稜が真っ直ぐに延びているところと解釈される。図に示した、「子公」の南側に位置する場所が出自と推定される。配置からすると、親子関係のように思われるが、定かではない。

おそらく、「以私物。賑恤所部。貧乏之徒」が褒賞理由と思われる。新治郡では、伝統的な善行が引き続いていたのであろう。「子公」と同じく官吏に登用されることはなかったようである。

<葛江我孫馬養>
● 葛江我孫馬養

播磨國明石郡の住人については、称徳天皇紀に海直溝長等に大和赤石連の氏姓を賜ったと記載された以外には触られることはなく、ここに至っている(こちら参照)。

漸くにして大領を任じられた人物の登場であるが、爵位も低く、無姓の名称のようである。関連する情報もなく、渡来系か否かも判別し辛いところである。

文字列を区切りながら読み解くことにして、葛江=山稜に閉じ込められたような水辺で窪んだところ我孫=ギザギザとした山稜が連なって延び出ているところと解釈される。

その地形を「明石郡」の最南部の谷間に見出せる。頻出の名前である馬養=馬の形の山稜の麓でなだらかな谷間が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この人物も「以私物。賑恤所部。貧乏之徒」が褒賞理由であったのであろう。