今皇帝:桓武天皇(22)
延暦九年(西暦790年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
明年正月十四日辛亥。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂率誄人奉誄。上謚曰天高知日之子姫尊。壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙繼之女也。母贈正一位大枝朝臣眞妹。后先出自百濟武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著聲譽。天宗高紹天皇龍潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。寳龜年中。改姓爲高野朝臣。今上即位。尊爲皇太夫人。九年追上尊號。曰皇太后。其百濟遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉謚焉。九年春正月癸亥。以從二位藤原朝臣繼繩。正三位藤原朝臣小黒麻呂。正四位上神王。正四位下紀朝臣古佐美。從四位上和氣朝臣清麻呂。正五位下文室眞人与企。從五位上藤原朝臣黒麻呂。百濟王仁貞。三嶋眞人名繼。從五位下文室眞人八嶋。爲周忌御齋曾司。六位已下官九人。丁夘。百官釋服從吉。是日大祓。
正月十四日に中納言の藤原朝臣小黒麻呂は、誄人を率いて誄を奉り、天高知日之子姫尊と諡を奉っている。
十五日に皇太后を大枝山陵(赤雀に併記)に埋葬している。皇太后の姓は「和」氏、諱は「新笠」といい、正一位を贈られた「乙繼」の娘で、母は正一位を贈られた「大枝朝臣眞妹」であった(こちら参照)。后の祖先は、百濟の武寧王の子である純 太子から出ている。
皇后は容姿も德も優れて麗しく、若い頃から評判が高かった。天宗高紹天皇(光仁)がまだ即位しない時に娶って妻とし、今上(桓武天皇。山部王)・早良親王(❺)・能登内親王(❷)が生まれた。寶龜年中に氏姓を高野朝臣と改めた。
今上天皇が即位すると、皇太夫人と尊称され、延暦九(790)年には遡って皇太后の尊号が奉られた。百濟の遠祖である都慕王は、河伯の娘が太陽の精に感応して生んだ子という。皇太后はその後裔であった。これにより諱を奉っている(以上延暦八年十二月附載)。
二十六日に藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)、藤原朝臣小黒麻呂、神王(❸)、紀朝臣古佐美、和氣朝臣清麻呂、文室眞人与企(与伎)、藤原朝臣黒麻呂(❶)、百濟王仁貞(①-⓰)、三嶋眞人名繼、文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)、及び六位以下の官人九人を一周忌の御齋曾司に任じている。三十日に全官人は喪服を脱ぎ、吉礼の朝服を着用している。この日、大祓をしている。
二月乙酉。大宰員外帥從三位藤原朝臣濱成薨。濱成贈太政大臣正一位不比等之孫。兵部卿從三位麻呂之子也。略渉群書。頗習術數。以宰輔之胤。歴職内外。所在無績。吏民患之。寳龜中。至參議從三位。歴彈正尹刑部卿。天應元年。坐事左遷。至是薨於任所。時年六十七。壬辰。民部省加置大丞一人。主計寮少允少属各一人。越前。肥後二國各掾一人。癸巳。授從五位上紀朝臣木津魚正五位下。外從五位上池原公綱主。外從五位下入間宿祢廣成。正六位上吉備朝臣与智麻呂並從五位下。甲午。詔以大納言從二位藤原朝臣繼繩爲右大臣。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂爲大納言。從四位上大伴宿祢潔足。從四位下石川朝臣眞守。大中臣朝臣諸魚。藤原朝臣雄友並爲參議。」授從三位紀朝臣船守正三位。正五位上當麻王從四位下。无位謂奈王從五位下。正四位下紀朝臣古佐美正四位上。從四位上和氣朝臣清麻呂正四位下。正五位上文室眞人高嶋。百濟王玄鏡並從四位下。從五位上百濟王仁貞正五位上。從五位上羽栗臣翼正五位下。從五位下藤原朝臣末茂從五位上。正六位上百濟王鏡仁從五位下。是日。詔曰。百濟王等者朕之外戚也。今所以擢一兩人。加授爵位也。
二月十八日に大宰員外帥の「藤原朝臣濱成」が薨じている。「濱成」は太政大臣を贈られた「不比等」の孫、兵部卿の「麻呂」の子であった(濱足。こちら参照)。多くの書籍にほぼ通じ、國を治める方策に習熟していた。
天子を補佐する宰相の子孫であるため、中央官や地方官を歴任したが、どの職にあってもこれといった治績がなく、配下の官人や人民は苦しんだ。寶龜年中(770~780年)に参議・従三位に至り、その後弾正尹・刑部卿を歴任したが、天應元(781)年にある事のため罰せられて大宰員外帥に左遷された。この日に任地で薨じた。時に六十七歳であった。
二十五日に民部省に大丞一人、主計寮に少允・少属各一人、越前・肥後の二國には、それぞれ掾一人を増員している。二十六日に紀朝臣木津魚(馬借に併記)に正五位下、池原公綱主(繩主)、入間宿祢廣成(物部直廣成)、「吉備朝臣与智麻呂」に従五位下を授けている。
二十七日に詔されて、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を右大臣、中納言の藤原朝臣小黒麻呂を大納言、大伴宿祢潔足(池主に併記)・石川朝臣眞守・大中臣朝臣諸魚(子老に併記)・藤原朝臣雄友(❷)を參議に任じている。また、紀朝臣船守に正三位、當麻王(❻)に從四位下、「謂奈王」に從五位下、紀朝臣古佐美に正四位上、和氣朝臣清麻呂に正四位下、文室眞人高嶋(高嶋王)・百濟王玄鏡(①-⓯)に從四位下、百濟王仁貞(①-⓰)に正五位上、羽栗臣翼に正五位下、藤原朝臣末茂(❸)に從五位上、百濟王鏡仁(教徳の子。②-⓮)に從五位下を授けている。
この日、[百濟王氏は朕の外戚である。今、それ故に一、二人を選び出し、位階を加え授ける]と詔されている。
「吉備朝臣」は、「下道朝臣眞備」が賜った氏姓であり、泉・枚雄が既に登場していた(こちら参照)。「泉(和泉)」は「眞備」の子であるが、「枚雄」については些か確からしさに欠けるようである。
既に述べたように出自場所の配置からして、間違いなく子であったと思われる。今回登場の人物も子とされているが、やはり不確かであり、出自場所を求めて親子関係かどうかを確かめてみよう。
与智麻呂の「与(與)」=「与+舁」=「両手のような山稜が噛み合うように延びている様」と解釈される。幾度か登場した文字である。頻出の「智」=「矢+口+日」=「[鏃]のような山稜の麓が[炎]のようになっている様」と解釈した。
纏めると與智=麓が[炎]のようになっている[鏃]のような山稜が噛み合うように延びているところと解釈される。その地形を「眞備」の谷奥に見出せる。ほぼ間違いなく親子の関係であったと思われる。後にもう一度地方官に任じられたと記載されている。他にも幾人かの兄弟がいたようだが、消息は定かではない。
● 謂奈王 光仁・桓武天皇関係の人物とするには、名前が表す地形を見出すことができないようである。別名表記としてみると、光仁天皇紀に守部王(舎人親王の子)の子に爲奈王(⓬)がいた。『仲麻呂の乱』に連座して配流され、後に赦されているが、無位となっていたのであろう。
謂奈=平らな高台が耕地にされた胃袋のような形をしているところと解釈される。正に舎人親王の山陵を”胃袋”と見做した表記と思われる。續紀中、以後に登場されることはないようである。
三月己亥。正六位上秦造子嶋。從六位下大田首豊繩並授外從五位下。庚子。停節宴。以凶服雖除忌序未周也。」日向權介正五位上勳四等百濟王俊哲免其罪令入京。丙午。以從五位下巨勢朝臣嶋人爲山背守。左衛士佐如故。從五位下藤原朝臣今川爲伊勢介。從五位下大原眞人美氣爲尾張守。雅樂頭正五位下文室眞人波多麻呂爲兼參河介。鼓吹正外從五位下奈良忌寸長野爲兼遠江介。從五位上藤原朝臣黒麻呂爲駿河守。木工助外從五位下高篠連廣浪爲兼介。從五位下都努朝臣筑紫麻呂爲武藏介。從五位下大野朝臣仲男爲安房守。參議彈正尹正四位上神王爲兼下総守。從五位下入間宿祢廣成爲常陸介。大藏大輔正五位下藤原朝臣乙叡爲兼信濃守。侍從如故。從五位下平群朝臣清麻呂爲介。從五位上多治比眞人濱成爲陸奥按察使兼守。近衛少將從五位下坂上大宿祢田村麻呂爲兼越後守。内匠助如故。從五位下大宅朝臣廣江爲丹後守。從五位下藤原朝臣仲成爲出雲介。從五位上藤原朝臣末茂爲美作守。正五位下中臣朝臣常爲紀伊守。圖書頭從五位上津連眞道爲兼伊豫守。東宮學士左兵衛佐如故。從五位下高橋朝臣祖麻呂爲介。正五位下文室眞人那保企〈本名与企〉爲大宰大貳。正五位下粟田朝臣鷹守爲肥後守。從五位下百濟王鏡仁爲豊後介。辛亥。伯耆。紀伊。淡路。參河。飛騨。美作等六國飢。賑給之。壬戌。以正五位上百濟王仁貞爲左中弁。正五位下多治比眞人宇美爲右中弁。從五位下藤原朝臣眞鷲爲右少弁。從五位下藤原朝臣弟友爲侍從。從五位下物部多藝宿祢國足爲圖書助。常陸大掾如故。從四位下藤原朝臣内麻呂爲内藏頭。右衛士督越前守如故。左京大夫從四位下藤原朝臣菅嗣爲兼陰陽頭。正五位下紀朝臣木津魚爲内匠頭。從五位下百濟王元信爲治部少輔。外從五位下上毛野公薩摩爲主税助。從四位上大伴宿祢潔足爲兵部卿。正五位下藤原朝臣乙叡爲大輔。侍從信濃守如故。從五位下甘南備眞人淨野爲少輔。從五位下藤原朝臣岡繼爲大判事。從五位下和朝臣國守爲大藏少輔。外從五位下錦部連家守爲織部正。從五位上紀朝臣難波麻呂爲宮内大輔。從五位下藤原朝臣弟友爲少輔。侍從如故。左中弁正五位上百濟王仁貞爲兼木工頭。從五位下大神朝臣人成爲大膳亮。從五位下紀朝臣登麻理爲彈正弼。從五位下巨勢朝臣人公爲左京亮。從五位下安倍朝臣人成爲春宮大進。從五位下百濟王忠信爲中衛少將。正五位下紀朝臣木津魚爲衛門督。内匠頭如故。從五位下佐伯宿祢繼成爲佐。外從五位下大田首豊繼爲左衛士大尉。從五位上伊勢朝臣水通爲右衛士佐。兵部大輔正五位下藤原朝臣乙叡爲兼右兵衛督。大外記從五位下秋篠宿祢安人爲兼佐。皇后宮亮正五位下大伴宿祢弟麻呂爲兼河内守。外從五位下麻田連眞淨爲伊勢介。外從五位下息長眞人淨繼爲尾張介。從五位下田中朝臣清人爲下総介。從五位下文室眞人八嶋爲伯耆守。從五位下多治比眞人繼兄爲大宰少貳。丙寅。參河。美作二國飢。賑給之。
三月三日に秦造子嶋(金城史山守に併記)・「大田首豊繩」に外従五位下を授けている。四日、節句の宴を停止している。喪服は解除したといえ、喪に服する期間がまだ終わっていなかったためである。また、日向権介・勲四等の百濟王俊哲(②-❶)が、その罪を許されて入京している。
十日に巨勢朝臣嶋人を左衛士佐のままで山背守、藤原朝臣今川(今河。❾)を伊勢介、大原眞人美氣を尾張守、雅樂頭の文室眞人波多麻呂を兼務で參河介、鼓吹正の奈良忌寸長野(秦忌寸)を兼務で遠江介、藤原朝臣黒麻呂(❶)を駿河守、木工助の高篠連廣浪(衣枳首)を兼務で介、都努朝臣筑紫麻呂(角朝臣。道守に併記)を武藏介、大野朝臣仲男(下毛野朝臣年繼に併記)を安房守、參議・彈正尹の神王(❸)を兼務で下総守、入間宿祢廣成(物部直廣成)を常陸介、大藏大輔の藤原朝臣乙叡(❻)を侍從のまま兼務で信濃守、平群朝臣清麻呂(久度神に併記)を介、多治比眞人濱成を陸奥按察使兼守、近衛少將の坂上大宿祢田村麻呂を内匠助のまま兼務で越後守、大宅朝臣廣江(吉成に併記)を丹後守、藤原朝臣仲成(藥子に併記)を出雲介、藤原朝臣末茂(❸)を美作守、中臣朝臣常(宅守に併記)を紀伊守、圖書頭の津連眞道(眞麻呂に併記)を東宮學士・左兵衛佐のまま兼務で伊豫守、高橋朝臣祖麻呂を介、文室眞人那保企(本名与企)を大宰大貳、粟田朝臣鷹守を肥後守、百濟王鏡仁(②-⓮)を豊後介に任じている。
十四日に伯耆・紀伊・淡路・参河・飛騨・美作などの六國が飢饉になったので、物を恵み与えている。
二十六日に百濟王仁貞(①-⓰)を左中弁、多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を右中弁、藤原朝臣眞鷲(❹)を右少弁、藤原朝臣弟友(❸)を侍從、物部多藝宿祢國足を常陸大掾のままで圖書助、藤原朝臣内麻呂(❻)を右衛士督・越前守のままで内藏頭、左京大夫の藤原朝臣菅嗣(菅繼)を兼務で陰陽頭、紀朝臣木津魚(馬借に併記)を内匠頭、百濟王元信(元眞。②-⓫)を治部少輔、上毛野公薩摩(大川に併記)を主税助、大伴宿祢潔足(池主に併記)を兵部卿、藤原朝臣乙叡(❻)を侍從・信濃守のままで大輔、甘南備眞人淨野(清野)を少輔、藤原朝臣岡繼(⓫)を大判事、和朝臣國守(和史。和連諸乙に併記)を大藏少輔、錦部連家守(針魚女に併記)を織部正、紀朝臣難波麻呂を宮内大輔、藤原朝臣弟友(❸)を侍從のままで少輔、左中弁の百濟王仁貞(①-⓰)を兼務で木工頭、大神朝臣人成(末足に併記)を大膳亮、紀朝臣登麻理(登萬理。須惠女に併記)を彈正弼、巨勢朝臣人公(宮人に併記)を左京亮、安倍朝臣人成(眞黒麻呂に併記)を春宮大進、百濟王忠信(①-⓴)を中衛少將、紀朝臣木津魚(馬借に併記)を内匠頭のままで衛門督、佐伯宿祢繼成(古比奈に併記)を佐、「大田首豊繼(繩)」を左衛士大尉、伊勢朝臣水通(諸人に併記)を右衛士佐、兵部大輔の藤原朝臣乙叡(❻)を兼務で右兵衛督、大外記の秋篠宿祢安人(土師宿祢)を兼務で佐、皇后宮亮の大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を兼務で河内守、麻田連眞淨(金生に併記)を伊勢介、息長眞人淨繼(廣庭に併記)を尾張介、田中朝臣清人(淨人。廣根に併記)を下総介、文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)を伯耆守、多治比眞人繼兄を大宰少貳に任じている。
三十日に参河・美作二國が飢饉になったので、物を恵み与えている。
希少な氏名であり、おそらく関連する地域を出自とする人物だったかと思われる。現地名は行橋市上稗田辺りである。
名前の豐繩=段差がある高台が縄のように延びているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。「首」は姓であるが、元来のように地形に基づく名称であろう。現在の行政区分では京都郡みやこ町勝山上田との端境となっている。直後に「豊繼」の別名表記で任官が記載されているが、その後の消息は不詳のようである。
いずれにせよ、通説では「大田」の場所については、定かではないようである。尚、「豊繩」と同じく叙位された秦造子嶋は、初見で既に外従五位下を授かっていた。重複か、もしくは復位なのか、不明である。
閏三月丁夘朔。從四位上清橋女王卒。庚午。勅爲征蝦夷。仰下諸國令造革甲二千領。東海道駿河以東。東山道信濃以東。國別有數。限三箇年並令造訖。丙子。有勅。度二百人出家。又左右京五畿内高年鰥寡孤獨篤疾。不能自存者。普加賑恤。並爲皇后不豫也。是日皇后崩。丁丑。天皇移御近衛府。以從二位藤原朝臣繼繩。正四位上神王。從四位下當麻王。從五位上氣多王。從五位下廣上王。正四位上紀朝臣古佐美。從四位下石上朝臣家成。藤原朝臣雄友。藤原朝臣内麻呂。正五位下文室眞人那保企。從五位上藤原朝臣黒麻呂。桑原公足床。阿倍朝臣廣津麻呂。外從五位下高篠連廣浪。中臣栗原連子公爲御葬司。六位已下官八人。正三位藤原朝臣小黒麻呂。正四位下壹志濃王。從五位下大庭王。從四位下藤原朝臣菅繼。文室眞人高嶋。正五位下文室眞人八多麻呂。藤原朝臣眞友。從五位下文室眞人八嶋。藤原朝臣眞鷲爲山作司。六位已下官十二人。從五位下多治比眞人賀智。外從五位下林連浦海爲養民司。六位已下官五人。從五位下巨勢朝臣嶋人。丹比宿祢眞淨爲作路司。六位已下官三人。差發左右京。五畿内。近江。丹波等國役夫。令京畿七道自今月十八日始素服擧哀。以晦日爲限焉。壬午。詔曰。朕以寡徳臨馭寰區。國哀相尋。災變未息。轉禍爲福。徳政居先。思布仁恩。用致安穩。宜可大赦天下。自延暦九年閏三月十六日昧爽以前大辟已下。罪無輕重。已發露。未發露。已結正。未結正。繋囚見徒。私鑄錢。八虐。強竊二盜。常赦所不免者。咸皆赦除。其延暦三年以往天下百姓所負正税未納言上。及調庸未進者。咸免除之。縱未言上無由徴納者亦免之。神寺之稻宜准此例焉。甲午。參議左大弁正四位上紀朝臣古佐美率誄人奉誄謚曰天之高藤廣宗照姫之尊。是日。葬於長岡山陵。皇后。姓藤原氏。諱乙牟漏。内大臣贈從一位良繼之女也。母尚侍贈從一位阿倍朝臣古美奈。后姓柔婉美姿。儀閑於女則。有母儀之徳焉。今上之在儲宮也。納以爲妃。生皇太子。賀美能親王。高志内親王。及於即位立爲皇后。薨時春秋卅有一。乙未。勅東海相摸以東。東山上野以東諸國。乾備軍粮糒十四万斛。爲征蝦夷也。丙申。百官釋服大秡。
閏三月一日に清橋女王(淨橋女王)が亡くなっている。四日に勅されて、蝦夷を征討するため、諸國に命じ甲二千領を造らせている。対象の國は、東海道は駿河より東、東山道は信濃より東で、國毎に割り当て数があり、三年以内に造り終わらせるようにしている。
十日に勅されて、二百人を得度して出家させている。また、左右京、畿内五ヶ國の高齢者・鰥・寡・孤・獨・篤疾や自活できない者に対し、もれなく物を恵み与えている。皇后(藤原朝臣乙牟漏)の病気のためである。この日、皇后が崩じている。
十一日に天皇は内裏から近衛府に移っている。藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)・神王(❸)・當麻王(❻)・氣多王・廣上王・紀朝臣古佐美・石上朝臣家成(宅嗣に併記)・藤原朝臣雄友(❷)・藤原朝臣内麻呂(❻)・文室眞人那保企(本名与企)・藤原朝臣黒麻呂(❶)・桑原公足床(桑原連足床)・阿倍朝臣廣津麻呂・高篠連廣浪(衣枳首)・中臣栗原連子公(栗原勝)、及び六位以下の官八人を御葬司、藤原朝臣小黒麻呂・壹志濃王(❷)・大庭王・藤原朝臣菅繼・文室眞人高嶋(高嶋王)・文室眞人八多麻呂(波多麻呂)・藤原朝臣眞友(❶)・文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)・藤原朝臣眞鷲(❹)、及び六位以下の官十二人を山作司、多治比眞人賀智(伊止に併記)・林連浦海(雑物に併記)、及び六位以下の官五人を養民司、巨勢朝臣嶋人・丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)、及び六位以下の官三人を作路司に任じている。
左右京、畿内五ヶ國、近江・丹波などの國から労役の人夫を徴発している。京と畿内及び七道の諸國に、今月十八日から白い喪服を着させ、哀悼の意を表させている。期間は今月末日を限りとしている。
十六日に次のように詔されている・・・朕は徳が薄いのに天下を治めていたが、悲しみごとが相次いで起こり、また、天災地変は収まろうとはしない。禍を福に転じるには、德のある政治が先決である。情深い恵みを施し、それによって平安にしようと思う。---≪続≫---
天下に大赦を行うことにする。延暦九(790)年閏三月十六日の夜明け以前の死罪は、罪の軽重に関係なく、既に発覚した罪も、まだ発覚していない罪も、既に罪名の定まった者も、まだ罪名の定まっていない者も、獄に繋がれて現に服役している罪人も、贋金造りや八虐を犯した者、強盗・窃盗など、常の赦では免されない者も、全てみな免す。---≪続≫---
また延暦三(784)年より以前に天下の人民が負っている正税の未納分で報告されたもの、及び調・庸の未進分は全て免除する。たとえまだ報告されていなくても、徴納の見込みのないものは、免除する。神社・寺院の出挙稲もこれに准じよ・・・。
二十八日に参議・左大弁の紀朝臣古佐美は、誄人を率いて誄を奉り、天之高藤廣宗照姫之尊と諡している。この日、長岡山陵(赤雀に併記)に埋葬している。皇后は、姓は「藤原」氏、諱を「乙牟漏」といった。内大臣で従一位を贈られた「良繼」の娘で、母は尚侍で従一位を贈られた「阿倍朝臣古美奈」であった(こちら参照)。
后は生まれつき優しく素直で美しい容姿をしていた。行儀は女性としての規範に叶っており、母の手本となる德が備わっていた。今上天皇が皇太子の時、娶って妃とし、皇太子(安殿親王。後の平城天皇)・「賀美能親王」(出自は乳母の賀美能宿祢濱刀自女の場所。後の嵯峨天皇)・「高志内親王」(藤原朝臣乙牟漏近隣。後の淳和天皇妃)を生んだ。即位するに及んで皇后となった。薨じた時、三十一歳であった。
二十九日に勅されて、東海道は相摸國以東、東山道は上野國以東の國々に、兵糧の糒十四万石を乾して準備させている。蝦夷征討のためである。三十日に百官の人々は喪服を脱ぎ大祓を行っている。
夏四月庚子。授正五位下文室眞人那保企正五位上。辛丑。仰大宰府令造鐵冑二千九百餘枚。」備前。阿波二國飢。賑給之。癸丑。以從六位下出雲臣人長爲出雲國造。乙丑。和泉。參河。遠江。近江。美濃。上野。丹後。伯耆。播磨。美作。備前。備中。紀伊。淡路等十四國飢。賑給之。
四月四日に文室眞人那保企(与伎)に正五位上を授けている。五日、大宰府に命じて、鐵の冑二千九百個余りを造らせている。また、備前・阿波二國が飢饉になったので、物を恵み与えている。十七日に出雲臣人長(嶋成に併記)を出雲國造に任じている。
二十九日に和泉・参河・遠江・近江・美濃・上野・丹後・伯耆・播磨・美作・備前・備中・紀伊・淡路などの十四國が飢饉になったので、物を恵み与えている。