今皇帝:桓武天皇(21)
延暦八年(西暦789年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
八月庚午朔。造宮官人已下。雜工已上。隨勞叙位。并賜物有差。辛巳。以從五位下角朝臣筑紫麻呂爲中衛將監。從五位上紀朝臣木津魚爲右兵衛督。從五位下文室眞人眞屋麻呂爲主馬頭。庚寅。先是。參議正三位佐伯宿祢今毛人致仕。而罷其參議封戸。減半賜之。下知民部以爲永例矣。己亥。勅。陸奧國入軍人等。今年田租。宜皆免之。兼給復二年。其牡鹿。小田。新田。長岡。志太。玉造。富田。色麻。賀美。黒川等一十箇郡。与賊接居。不可同等。故特延復年。
八月一日に長岡宮を造る官人以下、雑工以上に功労に従って位階を授け、地位に応じて物を賜っている。十二日に角朝臣筑紫麻呂(道守に併記)を中衛将監、紀朝臣木津魚(馬借に併記)を右兵衛督、文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)を主馬頭に任じている。二十一日、これより以前、参議の佐伯宿祢今毛人が職を辞した。そこで参議の封戸は停止したが、その半分を与えた、民部省に命令して、参議で辞職した者については、以後これを恒例とさせている。
三十日に次のように勅されている・・・陸奥國の人民で官軍に従軍した人々の今年の田租はみな免除し、併せて二年間租税負担を免除する。牡鹿・小田・新田(柵)・長岡(信夫郡)・志太(信太)・玉造(柵)・富田(桃生郡)・色麻(柵)・賀美・黒川などの十一郡は、賊地と近接する場所にあり、他の人民と負担を同等とするわけにはいかない。そのため特に免除の年限を延ばすことにする・・・。
九月丁未。持節征東大將軍紀朝臣古佐美。至自陸奧。進節刀。 辛亥。以從五位上藤原朝臣黒麻呂爲治部大輔。從五位下紀朝臣伯爲玄蕃助。從五位下布勢朝臣大海爲主税頭。從五位上上毛野朝臣稻人爲刑部大輔。左少弁從五位上安倍朝臣弟當爲兼下野守。戊午。勅遣大納言從二位藤原朝臣繼繩。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。從三位紀朝臣船守。左兵衛佐從五位上津連眞道。大外記外從五位下秋篠宿祢安人等於太政官曹司。勘問征東將軍等逗留敗軍之状。大將軍正四位下紀朝臣古佐美。副將軍外從五位下入間宿祢廣成。鎭守副將軍從五位下池田朝臣眞枚。外從五位下安倍猿嶋臣墨繩等。各申其由。並皆承伏。於是。詔曰。陸奧國荒〈備流〉蝦夷等〈乎〉討治〈尓〉任賜〈志〉大將軍正四位下紀古佐美朝臣等〈伊〉。任賜〈之〉元謀〈尓波〉不合順進入〈倍支〉奧地〈毛〉不究盡〈之弖〉敗軍費粮〈弖〉還參來。是〈乎〉任法〈尓〉問賜〈比〉支多米賜〈倍久〉在〈止母〉承前〈尓〉仕奉〈祁留〉事〈乎〉所念行〈弖奈母〉不勘賜免賜〈布〉。又鎭守副將軍從五位下池田朝臣眞枚。外從五位下安倍猿嶋臣墨繩等。愚頑畏拙〈之弖〉進退失度軍期〈乎毛〉闕怠〈利〉。今法〈乎〉兼〈尓〉墨繩者斬刑〈尓〉當〈里〉。眞枚者解官取冠〈倍久〉在。然墨繩者久歴邊戍〈弖〉仕奉〈留〉勞在〈尓〉縁〈弖奈母〉斬刑〈乎波〉免賜〈弖〉官冠〈乎乃未〉取賜〈比〉。眞枚者日上〈乃〉湊〈之弖〉溺軍〈乎〉扶拯〈閇留〉勞〈尓〉縁〈弖奈母〉取冠罪〈波〉免賜〈弖〉官〈乎乃未〉解賜〈比〉。又有小功人〈乎波〉隨其重輕〈弖〉治賜〈比〉。有小罪人〈乎波〉不勘賜免賜〈久止〉宣御命〈乎〉衆聞食〈止〉宣。是日。右大臣從二位兼中衛大將藤原朝臣是公薨。詔贈從一位。是公贈太政大臣正一位武智麻呂之孫。參議兵部卿從三位乙麻呂之第一子也。爲人長大。兼有威容。寳字中。授從五位下。補神祇大副。歴山背播磨守左衛士督。神護二年。授從四位下。歴内竪式部大輔春宮大夫。寳龜末。至參議左大弁從三位。天應元年。加正三位。遷中衛大將兼式部卿。俄拜中納言。中衛大將式部卿如故。轉大納言。延暦二年。拜右大臣。中衛大將如元。是公曉習時務。剖斷無滯。薨時年六十三。
九月八日に持節征東大将軍の紀朝臣古佐美は、陸奥から到着し、節刀を進上している。十二日に藤原朝臣黒麻呂(❶)を治部大輔、紀朝臣伯(須惠女に併記)を玄蕃助、布勢朝臣大海を主税頭、上毛野朝臣稻人(馬長に併記)を刑部大輔、左少弁の安倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)を兼務で下野守に任じている。
十九日に勅されて、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)、中納言の藤原朝臣小黒麻呂、紀朝臣船守、左兵衛佐の津連眞道(眞麻呂に併記)、大外記の秋篠宿祢安人(土師宿祢)等を太政官の庁舎に遣わし、征東将軍等が前進せず、戦いに敗北した状況を取調べさせている。大将軍の紀朝臣古佐美、副将軍の入間宿祢廣成(物部直廣成)、鎮守副将軍の池田朝臣眞枚(足繼に併記)、安倍猿嶋臣墨繩等は、それぞれの理由を述べ、全員敗戦の責任があることを了承している。
ここに於いて、次のように詔されている(以下宣命体)・・・陸奥國の荒々しい蝦夷どもを征討し始めるために任命した大将軍の紀朝臣古佐美等は、任ぜられた本来の計画に従わず、進み入らねばならない奥地を究め尽くさないで、戦いに敗れ、兵糧を費やし還って来た。これは法に照らして罪を問い、罰すべきものであるが、以前から仕えていることを思い起こして、罪を問わずに許す。---≪続≫---
また、鎮守副将軍である池田朝臣眞枚と安倍猿嶋臣墨繩等は、愚かで心が素直でなく臆病で拙劣であって、軍を進退させるのに節度がなく、戦いの時機をぐずぐずして逸してしまった。今、これを法に照らし合わせると、「墨繩」は斬刑に相当し、「眞枚」は官職を解き、位階を剥奪すべきである。しかし、「墨繩」は長らく辺境の守りに従事して来た功労があるので斬刑を許し、官職と位階だけを剥奪することにする。---≪続≫---
「眞枚」は、日上湊で溺れていた兵士を救けた功労により、位階を剥奪する罪を許し、官職だけを解任する。また、少しでも功績のある者には、その程度に応じて優遇し、小さな罪を犯した者は、それを問わず許すことにする、と仰せになる御言葉を皆承れと申し渡す・・・。
この日、右大臣で中衛大将を兼任する「藤原朝臣是公」が薨じている。詔されて従一位を贈っている。「是公」は、太政大臣を贈られた「武智麻呂」の孫で、参議・兵部卿の「乙麻呂」の第一子であった(こちら参照)。体つきは背が高くて大きく、その上威厳があった。天平寶字年中(757~764年)に從五位下を授けられ、神祇大副に任じられた。
その後山背・播磨の守、左兵衛督を歴て天平神護二(766)年に従四位下を授けられ、内竪・式部省の大輔、春宮大夫を歴て寶龜末年には参議・左大弁・従三位に至った。天應元(781)年には正三位に昇り、転任して中衛大将となり式部卿を兼ねたが、にわかに中納言を任じられ、更に中衛大将・式部卿のまま大納言に転じた。
延暦二(783)年には右大臣に任じられ、中衛大将はもとのままであった。「是公」は、日常の政務に通暁しており、適切に処理して滞ることがなかった。薨じた時、六十三歳であった。
冬十月戊寅。以大納言從二位藤原朝臣繼繩爲兼中衛大將。乙酉。散位從三位高倉朝臣福信薨。福信武藏國高麗郡人也。本姓背奈。其祖福徳属唐將李勣拔平壤城。來歸國家。居武藏焉。福信即福徳之孫也。小年隨伯父背奈行文入都。時与同輩。晩頭往石上衢。遊戯相撲。巧用其力。能勝其敵。遂聞内裏。召令侍内竪所。自是著名。初任右衛士大志。稍遷。天平中授外從五位下。任春宮亮。聖武皇帝甚加恩幸。勝寳初。至從四位紫微少弼。改本姓賜高麗朝臣。遷信部大輔。神護元年。授從三位。拜造宮卿。兼歴武藏近江守。寳龜十年上書言。臣自投聖化。年歳已深。但雖新姓之榮朝臣過分。而舊俗之号高麗未除。伏乞。改高麗以爲高倉。詔許之。天鷹元年。遷彈正尹兼武藏守。延暦四年。上表乞身。以散位歸第焉。薨時八十一。己丑。授正六位上巨勢朝臣野足從五位下。辛夘。以從五位下巨勢朝臣野足爲陸奧鎭守副將軍。丁酉。命婦從四位下大原眞人室子卒。
十月十日に大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を兼務で中衛大将に任じている。
十七日に散位の「高倉朝臣福信」が薨じている。「福信」は武藏國高麗郡の人である。本姓は「背奈」という。その祖父「福徳」は、唐の将軍李勣が平壌城を攻め落とした時、渡来して帰化し、武藏國に居住した。その孫であった(こちら参照)。少年の時、伯父の背奈行文に随って都に入った。その頃、同じ年頃の仲間と一緒に夕方「石上衢」(石上神宮の麓辺り)に出かけ、遊び戯れて相撲を取ったが、巧みに自分の力を使って敵に勝った。その評判が遂に内裏にまで聞こえて、召されて内豎所に仕えた。
これ以降名が広く知られた。最初は右衛士大志に任じられ、暫くして天平年中に外従五位下を授けられ、春宮亮に任じられた。聖武皇帝は大変寵愛した。天平勝寶の初め、従四位紫微少弼に至った。その後本姓を改めて「高麗朝臣」の氏姓を賜り、信部(中務)大輔に転任した。天平神護元(765)年には従三位を授けられ造宮卿に任じられて、武藏・近江の守を兼ねた。
寶龜十(779)年、書を奉って[私が偉大な天皇のもとにお仕えしてから、年月がかなり経った。ただ、新しく賜った栄えある朝臣の姓は、分に過ぎたものであるが、古くからの習わしとして使っている「高麗」の号は、まだ除かれないままである。「高麗」を「高倉」に改められるよう謹んでお願いする]と述べた。詔してこれを許した。天應元(781)年に弾正尹に遷り武藏守を兼任したが、延暦四(785)年には上表して辞職を願い出、散位となって家に帰った。薨じた時、八十一歳であった。
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<巨勢朝臣野足> |
● 巨勢朝臣野足
直近では馬主・廣山・総成・道成等が登場していた。彼等の出自は、徳太大臣の山稜の北麓に並んでいたと推定した。「巨勢朝臣」も途切れることなく人材を輩出して来た一族であった。
調べると、祖父が「堺麻呂」、父親が「苗麻呂」と知られていることが分った(こちら参照)。この一族の嫡流を出自とする人物だったようである。
野足=[足]のような山稜の前で野が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後に活躍されて最終中納言・従三位・勲三等であったと伝えられている。
十一月丁未。授造宮大工正六位上物部建麻呂外從五位下。壬子。停止攝津職勘過公私之使。
十一月九日に造宮大工の物部建麻呂(坂麻呂に併記)に外従五位下を授けている。十四日に攝津職が公私の使者を調べて難波を通過させることを停止している。
十二月乙亥。播磨國美嚢郡大領正六位下韓鍜首廣富獻稻六万束於水兒船瀬。授外從五位下。己丑。參議兵部卿從三位多治比眞人長野薨。長野大納言從二位池守之孫。散位從四位下家主之子也。庚寅。勅曰。朕有所思。宜停來年賀正之礼。又勅。頃者中宮不豫。稍經旬日。雖勤醫療。未有應驗。思歸至道。令復安穩。宜令畿内七道諸寺。一七箇日讀誦大般若經焉。乙未。皇太后崩。丙申。以大納言從二位藤原朝臣繼繩。參議彈正尹正四位上神王。備前守正五位上當麻王。散位從五位上氣多王。内礼正從五位下廣上王。參議左大弁正四位下紀朝臣古佐美。宮内卿從四位下石上朝臣家成。右京大夫從四位下藤原朝臣菅繼。右中弁正五位下文室眞人与企。治部大輔從五位上藤原朝臣黒麻呂。散位從五位上桑原公足床。出雲守從五位下紀朝臣兄原。雅樂助外從五位下息長眞人淨繼。大炊助外從五位中臣栗原連子公。六位已下官九人爲御葬司。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。參議治部卿正四位下壹志濃王。阿波守從五位上小倉王。散位從五位下大庭王。正五位下藤原朝臣眞友。因幡守從五位上文室眞人忍坂麻呂。但馬介從五位上文室眞人久賀麻呂。左少弁從五位上阿倍朝臣弟當。彈正弼從五位下文室眞人八嶋。六位已下官十四人爲山作司。信濃介從五位下多治比眞人賀智。安藝介外從五位下林連浦海。六位已下官八人爲養民司。」左衛士佐從五位下巨勢朝臣嶋人。丹波介從五位下丹比宿祢眞淨。六位已下官三人爲作路司。」差發左右京。五畿内。近江。丹波等國役夫。」天皇服錫紵。避正殿御西廂。率皇太子及群臣擧哀。百官及畿内。以卅日爲服期。諸國三日。並率所部百姓擧哀。但神郷者不在此限。」勅曰。中宮七七御齋。當來年二月十六日。宜令天下諸國國分二寺見僧尼奉爲誦經焉。又毎七日。遣使諸寺誦經以追福焉。
十二月八日に播磨國美嚢郡大領の「韓鍜首廣富」が稲六万束を「水兒船瀬」に献上したので外從五位下を授けている。二十二日に参議・兵部卿の「多治比眞人長野」が薨じている。「長野」は大納言の「池守」の孫、散位の「家主」の子であった(こちら参照)。
二十三日に[朕は思うところがあって、来年の新年を祝う儀式はやめることにする]と勅されている。また、[最近、中宮(高野新笠)が病気になり、もう十日も経っている。医療に勤めているが、まだその効果は表れていない。もっと優れた道に帰依して、安らかな穏やかな状態に戻してあげたい。畿内と七道諸國の諸寺に七日間『大般若経』を読誦させよ]と勅されている。二十八日に皇太后が崩じている。
二十九日に大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)、參議・彈正尹の神王(❸)、備前守の當麻王(❻)、散位の氣多王、内礼正の廣上王、參議・左大弁の紀朝臣古佐美、宮内卿の石上朝臣家成(宅嗣に併記)、右京大夫の藤原朝臣菅繼、右中弁の文室眞人与企(与伎)、治部大輔の藤原朝臣黒麻呂(❶)、散位の桑原公足床(桑原連足床)、出雲守の紀朝臣兄原(眞子に併記)、雅樂助の息長眞人淨繼(廣庭に併記)、大炊助の中臣栗原連子公(栗原勝)、及び六位以下の官人九人を御葬司に任じている。
中納言の藤原朝臣小黒麻呂、參議・治部卿の壹志濃王(❷)、阿波守の小倉王(❼)、散位の大庭王、藤原朝臣眞友(❶)、因幡守の文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)、但馬介の文室眞人久賀麻呂、左少弁の阿倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)、彈正弼の文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)、及び六位以下の官人十四人を山作司に任じている。
信濃介の多治比眞人賀智(伊止に併記)、安藝介の林連浦海(雑物に併記)、及び六位以下の官人八人を養民司、左衛士佐の巨勢朝臣嶋人、丹波介の丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)、及び六位以下の官人三人を作路司に任じている。左右京・五畿内・近江・丹波等の國から役夫を徴発している。
天皇は錫紵を着けて、正殿を避け、西の廂に出御され、皇太子及び群臣を率いて哀悼の意を表している。百官及び畿内の官人は、三十日を服喪期間とし、諸國の官人は三日として、それぞれ管下の人民を率いて哀悼の意を表させている。但し、神郷は除外した。
そして、次のように勅されている・・・中宮の七七日の御齋会は、来年の二月十六日にあたる。そこで天下諸國の國分寺・國分尼寺に現にいる僧尼等に、中宮のために経を読ませよ。また、七日ごとに使を諸寺に遣わし、経を読ませ、中宮の冥福を祈らせよ・・・。
● 韓鍜首廣富
播磨國の郡割については、既に求めて「美嚢郡」は「明石郡・賀古郡」と「餝磨郡」とに挟まれた地域と推定した(こちら参照)。現地名は築上郡築上町日奈古・奈古・水原に跨る地域である。
大領を任じられていて、多分、この地を出自とする人物であったと推測される。韓鍜の「鍜」=「金+叚」と分解される。地形象形的には鍜=三角に尖った山稜が覆い被さるように延びている様と解釈される。
また、「鍜」=「しころ。兜の後方に垂らして頸筋を守る防具」を表すと解説されている。図に示したように、丸く小高い地から端が尖った山稜が延び出ている地形を見出せる。
纏めると韓鍜=周囲を取り囲まれた[鍜]のような山稜が延びているところと読み解ける。名前の廣富=谷間の山稜が酒樽のようになって広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
水兒船瀬 少し前に播磨國人の佐伯直諸成が造船瀬所に稲を寄進して外従五位下を叙爵されたと記載されていた。彼の出自は「揖保郡」と推定した。類似の背景による叙位であろう。水兒=[水]のように三本の山稜が延びる先が僅かに窪んでいるところと解釈すると、「船瀬」の場所と求めることができる。当時はこの辺りが海岸線だったように思われる。
少し後に播磨國人の出雲臣人麻呂が「水兒船瀬」に私稲を献上して外従五位下を叙爵されたと記載されている。地形象形表記の出雲=雲のような山稜が延び出ているところ、人麻呂の人=[人]の形のしている様と解釈すると図に示した場所が出自と推定される。