2024年2月20日火曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(14) 〔665〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(14)


寶龜六(西暦775年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六年春正月乙未朔。宴五位巳上於内裏。賜祿有差。丁酉。勅。三春初啓。萬物惟新。天地行仁。動植霑惠。古之明主。應此良辰。必布恩徳。廣施慈命。朕雖虚薄。何不思齊。宜可大赦天下。自寳龜六年正月三日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸赦除之。其八虐。故殺人。強盜竊盜。私鑄錢。常赦所不免者。不在赦限。但入死者皆減一等。普告遐邇。知朕意焉。戊戌。授无位粟田朝臣廣刀自從五位下。辛丑。宴五位已上賜衾。己酉。授正四位下大伴宿祢古慈斐從三位。庚戌。從五位下參河王。伊刀王。田上王並授從五位上。從四位上藤原朝臣家依。大伴宿祢伯麻呂並正四位下。正五位下多治比眞人木人正五位上。從五位下高向朝臣家主。藤原朝臣鷲取。中臣習宜朝臣山守。佐伯宿祢國守並從五位上。外從五位上坂上忌寸老人。外從五位下淨岡連廣嶋。正六位上百濟王玄鏡。坂本朝臣繩麻呂。小治田朝臣諸成。田中朝臣難波麻呂。大伴宿祢上足並從五位下。正六位上高市連屋守。越智直入立並外從五位下。」事畢宴於五位已上。賜祿有差。庚寅。復无位津嶋朝臣小松本位從五位下。授正六位上伊蘇志臣総麻呂外從五位下。
辛酉。授正六位上陽疑造豊成女外從五位下。

正月一日に五位以上の者と内裏で宴会し、それぞれに禄を賜っている。三日に次のように勅されている・・・春の三ヶ月が初めて啓け、万物は一新した。天地は仁を行ない、動植物もその恵みを受けている。古の立派な君主は、このよい時に応じて、必ず恩や德を世に敷き、広く恵み深い命令を世に施して来た。朕は徳も薄いものであるが、どうして同じように思わないでおられようか。天下に大赦を行うべきであると思う。寶龜六年正月三日の夜明け以前の罪は死罪以下、罪の軽重を問うことなく、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、既に罪名の定まったもの、まだ罪名の定まっていないもの、捕らわれて現に囚人となっているもの、全て赦免せよ。しかし、八虐、故意の殺人、強盗・窃盗、贋金造りや通常の赦では免されないものは、赦免の範囲には入れない。但し、死罪になる者は、みな罪一等を減らせ。このことを遠近にもれなく告げて、朕の意向を知らせるようにせよ・・・。

四日に粟田朝臣廣刀自(鷹守に併記)に従五位下を授けている。七日に五位以上の者と宴を催し、夜具を賜っている。十五日に大伴宿祢古慈斐(祜信備)に従三位を授けている。十六日、參河王(三川王・三河王)伊刀王(道守王に併記)田上王に從五位上、藤原朝臣家依大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)に正四位下、多治比眞人木人に正五位上、高向朝臣家主藤原朝臣鷲取()・中臣習宜朝臣山守佐伯宿祢國守(眞守に併記)に從五位上、坂上忌寸老人(犬養に併記)淨岡連廣嶋百濟王玄鏡(①-:敬福の子)・「坂本朝臣繩麻呂・小治田朝臣諸成」・田中朝臣難波麻呂(廣根に併記)・大伴宿祢上足に從五位下、高市連屋守(豊足に併記)・「越智直入立」に外從五位下を授けている。また、授位が終わって、五位以上の者と宴を催し、それぞれに禄を賜っている。

二十六日(庚申)に津嶋朝臣小松を本位の従五位下に復している。「伊蘇志臣総麻呂」に外従五位下を授けている。二十七日に「陽疑造豊成女」に外従五位下を授けている。

<坂本朝臣繩麻呂-大足>
● 坂本朝臣繩麻呂

「坂本朝臣」一族は、古事記の木角宿祢が祖となった坂本臣の後裔と知られている。書紀の『壬申の乱』の功臣である坂本臣財が具体的な人物名である。

續紀に入って文武天皇紀にその子の「坂本朝臣鹿田」、更に子の「阿曾麻呂・宇豆麻佐」が登場していた(こちら参照)。

その後、淳仁天皇紀になって、男足が従五位下を叙爵されて登場し、後に隠岐守に任じられている。勿論、「財」一家の近隣が出自場所であるが、系譜は定かではないようである。

繩麻呂の「繩」の地形を、容易に見出せる。「宇豆麻佐」の南側の山稜の端が出自と推定されるが、この人物も系譜不詳のようである。また、この後續紀に登場されることはないようである。

後(桓武天皇紀)に坂本朝臣大足が従五位下を叙爵されて登場する。大足=平らな頂の山稜の麓が[足]の形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後、官奴正に任じられているが、以後の消息は不明である。

<小治田朝臣諸成>
● 小治田朝臣諸成

「小治田朝臣」一族は、古事記の蘇賀石河宿祢が祖となった小治田臣の後裔と知られてる。既に多くの人物名が記載されて来ている。

續紀では文武天皇紀に「當麻」が登場し、その後引き続いて「小治田」(書紀では小墾田)の地を出自とする一族の叙位の記述が見られる(こちら参照)。

直近では淳仁天皇紀に水内の任官記事があった。引き続いていてはいるが、高位の官職に就く人物は登場せずの状態のようである。主役は、「石川朝臣」に移ったように伺える。

名前の既出の文字列である諸成=耕地が交差するような地が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。後に越中介に任じられているが、その後の消息は不明である。

<越智直入立-靜養女>
● 越智直入立

「越智直」一族は、伊豫國越智郡を本拠し、既に幾人かの人物が叙爵されて登場している(こちら参照)。明經博士として褒賞されたり、私稲を献上したりとその地の民意の高さを伺わせる記述がなされている。

名前の入立は既出の文字列であるが、やや解釈するとなると、言葉足らずの感がするようである。読み下してい見ると、入立=隙間に入るような谷間が並んでいるところとなろう。

尚、「入」を「人」とする写本もあるようで、人立=谷間が並んでいるところと解釈され、地形象形表記として問題のないものであろう。但し、これでは一に特定が叶わないことから「入」を用いて、谷間の入口が狭まっている様子を表したのではなかろうか。

この人物も、この後續紀に登場されることはないようである。因みに、古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子、根鳥命の場所を示している。実に久方ぶりの再会であった。

後に越智直靜養女が窮民を救ったことで位二階を賜ったと記載されている。名前に用いられた「靜」は初見と思われる。「靜」=「靑+爪+ノ+又」と分解される。頻出の「淨」の「氵」を「靑」で置き換えた組合せになり、地形象形的には「靜」=「両腕のような山稜が四角い地を取り囲んでいる様」と解釈される。

纏めると靜養=両腕のような山稜が取り囲んでいる四角い地がなだらかに広がっているところと読み解ける。図に示したように現在の二島小学校辺りが出自と推定される。稔り豊かな土地に開拓していたのであろう。

<伊蘇志臣総麻呂>
● 伊蘇志臣総麻呂

「伊蘇志臣」の氏姓は、孝謙天皇紀に楢原造東人が賜ったと記載され、その後東人以外の人物の登場は見られなかった。「伊蘇志」は「勤」の訓読み表記でもある。

駿河守の任期中に黄金を採取して、一躍にして昇位と大学頭に任じられていた。ゴールドラッシュに沸いたような様相でもなく、その後の仔細は不詳である。

今回登場の総麻呂は、勿論「東人」一族の子孫であったと思われるが、系譜は定かではないようである。いずれにしても、現地名の北九州市小倉南区葛原高松辺り、急勾配の山麓の地を出自とする人物と思われる。

総(總)=糸+悤=山稜が束ねられて延びている様と解釈される。上/下総國に用いられている。その地形を図に示した場所に見出せる。残念ながら国土地理院航空写真を参照しても「麻呂」の地形を確認することができず、出自場所は些か曖昧となっている。

後(桓武天皇紀)に伊蘇志臣眞成が外従五位下を叙爵されて登場する。眞成=平らに整えられた地が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に一度だけ登場するが、主船生の任官が記載されている。

<陽疑造豊成女>
● 陽疑造豊成女

「陽疑造」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見である。調べると「八木」とも表記され、一説によると和泉國を出自とする一族だったようである。

「陽疑造」に含まれる「陽」の文字が表す地形から、その場所を極めて容易に求められることが分かった。既出の文字である陽=山稜が太陽のような形をしている様と解釈した。

その地形を、現在の行橋市入覚にある観音山の山容に見出すことができる。既出の文字である疑=𠤕+子+止=両足を広げて立ち止まったような様であり、その地形を観音山の東麓に確認できる。

名前の豊成女の豊成=段差のある高台の麓で平らに整えられているところと解釈される。地形変形が大きく詳細を見定めることは難しいようであるが、おそらく図に示した辺りが出自と思われる。「八木」の文字列も含めて、續紀に登場されるのはこの後に見られないようである。

二月辛未。地震。」先是。天平寳字八年。以弓削宿祢爲御清朝臣。連爲宿祢。至是皆復本姓。甲戌。讃岐國飢。賑給之。丙子。遣使於伊勢。繕修渡會郡堰溝。且令行視多氣渡會二郡宜耕種地。乙酉。授无位薭田親王四品。 

二月八日に地震が起こっている。また、これより先、天平字八(764)年に、弓削宿祢を弓削御清朝臣とし、弓削連を弓削宿祢としたが、ここに至って、みな本の姓に復している。十一日に讃岐國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。十三日に使を伊勢に遣わして、渡會郡の堰と溝を修繕し、また多氣渡會二郡の農耕によい地を視察させている。二十二日に薭田親王(光仁天皇第三皇子)に四品を授けている。

三月乙未。始置伊勢少目二員。參河大少目員。遠江少目二員。駿河大少目員。武藏下総少目二員。常陸少掾二員。少目二員。美濃少目二員。下野大少目員。陸奥越前少目二員。越中。但馬。因幡。伯耆大少目員。播磨少目二員。美作。備中。阿波。伊豫。土左大少目員。肥後少目二員。豊前大少目員。」以外從五位下上総宿祢建麻呂爲隼人正。從五位下佐伯宿祢藤麻呂爲左衛士員外佐。從五位下大中臣朝臣繼麻呂爲右衛士員外佐。辛亥。授正四位下藤原朝臣濱成正四位上。丙辰。陸奥蝦賊騷動。自夏渉秋。民皆保塞。田疇荒廢。詔復當年課役田租。己未。置酒田村舊宮。群臣奉觴上壽。極日盡歡。賜祿有差。

三月二日に初めて伊勢に少目二名、參河に大・少目各一人、遠江に少目二名、駿河に大・少目各一名、武藏・下総に少目二名、常陸に少掾二名と少目二名、美濃に少目二名、下野に大・少目各一名、陸奥・越前に少目二名、越中・但馬・因幡・伯耆に大・少目各一名、播磨に少目二名、美作・備中・阿波・伊豫・土左に大・少目各一名、肥後に少目二名、豊前に大・少目各一名を置いている。

また、上総宿祢建麻呂(桧前舍人直。丈部大麻呂に併記)を隼人正、佐伯宿祢藤麻呂(伊多治に併記)を左衛士員外佐、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を右衛士員外佐に任じている。

十八日に藤原朝臣濱成(濱足)に正四位上を授けている。二十三日に陸奥の蝦夷の賊が騒動し、夏より秋にわたり、人民は皆塞に立て籠っていたので、田畑が荒廃してしまった、詔されて、この年の課役と田租を免除している。二十六日に田村旧宮(田村第)で酒宴を行っている。群臣は盃を奉って天皇の長寿を祝い、日が暮れるまで歓を尽くしている。それぞれに禄を賜っている。

夏四月戊辰。正七位上飯高公若舍人等十一人賜姓宿祢。己巳。河内。攝津兩國有鼠食五穀及草木。」遣使奉幣於諸國群神。庚午。外從五位下大隅忌寸三行爲隼人正。辛未。授正五位下佐伯宿祢助從四位下。壬申。授川部酒麻呂外從五位下。酒麻呂肥前國松浦郡人也。勝寳四年。爲入唐使第四船柁師。歸日海中順風盛扇。忽於船尾失火。其炎覆艫而飛。人皆惶遽不知爲計。時酒麻呂廻柁。火乃傍出。手雖燒爛。把柁不動。因遂撲滅。以存人物。以功授十階。補當郡員外主帳。至是授五位。乙亥。近江國獻白龜赤眼。丁丑。山背國獻白雉。丁亥。以從五位下藤原朝臣長繼爲内兵庫正。己丑。井上内親王。他戸王並卒。

四月六日に飯高公若舍人(家繼に併記)等十一人に宿祢姓を賜っている。七日に河内・攝津の両國に鼠が増えて、五穀や草木を食べている。使を遣わして諸國の群神に奉幣させている。八日に大隅忌寸三行(大住忌寸)を隼人正に任じている。九日に佐伯宿祢助に従四位下を授けている。

十日に「川部酒麻呂」に外従五位下を授けている。「酒麻呂」は肥前國松浦郡の人である。天平勝寶四(752)年に遣唐使の第四船の舵取りとなった。帰途、海上は順風が盛んに吹いていたが、突然、船尾で失火した。その炎は艫を覆って飛び、燃え広がろうとした。人は皆恐れ慌てて、どうしてよいか分からなかった。その時、「酒麻呂」は舵を回し、船首を風上に向けた。火がすぐそばから出ており、手は焼け爛れたけれども、舵を取り持って動かなかった。そのためとうとう打ち消されて、人や物は焼けずに済んだ。この功績で、位を十階上げ、当郡の員外主帳に任ぜられた。ここに至って五位を授けている。

十三日に近江國が「白龜赤眼」を献じている。十五日に山背國が「白雉」を献じている。二十五日に藤原朝臣長繼(長道に併記)を兵庫正に任じている。二十七日に井上内親王他戸王()が共に亡くなっている。

<川部酒麻呂>
● 川部酒麻呂

孝謙天皇紀に詳細が記載された遣唐使の船団のうち、真面に帰朝したのは第二船のみで、その他は悪戦苦闘、第一船は遂に帰って来なかったと述べている(こちら参照)。

その時点においても第四戦については、漂流してルートを大きく外れて薩摩國石籬浦に停泊し、その後帰朝した経緯であった。

通説が、現在の済州島近海を通過するルート以外があったと主張する根拠の記述である(Wikipedia)。遣唐使船の悪戦苦闘の場所は、現在の博多湾なのである。決して、五島列島やら東シナ海東端に並ぶ群島の近海ではない。

さて、川部酒麻呂の出自場所を求めてみよう。酒=氵+酉=水辺で山稜が酒樽のような形をしている様であり、肥前國松浦郡(現地名宗像市朝町辺り)でその地形を見出すことができる。川部は三つの川が合流する近隣の場所を表しているのであろう。

前記した時には、事件後およそ二十年後に褒賞か?…と述べたが、詳細に読むと、ちゃんと十階の昇進と員外主帳を任じられていたようである。晴れて外従五位下という高位を授けられている。余談だが、「松浦郡」は、魏志倭人伝の「末慮國」に関わる場所ではない。

<近江國:白龜赤眼>
近江國:白龜赤眼

近江國の瑞祥献上物語は、文武天皇紀に三件、白鼈白樊石嘉禾が記載され、元明天皇紀には木連理十二株が登場している。その後は暫く途絶えている様子であった。

勿論、近江國がこれらの天皇紀に盛んに開拓されたことを示しているのである。古事記の近淡海國に由来する地であり、その名の通り、淡海に面する険しい土地が徐々に開発されて来たと推測される。

今回は白龜赤眼と記載されている。同じ名称が称徳天皇紀に肥後國葦北郡が献上した記事に見られる(こちら参照)。赤眼=(龜の)眼にあたる地で平らな頂の山稜が火のように延びているところと解釈したが、同様の地形を近江國で探すと、図に示した場所が見出せる。

現在の行橋市にある二先山の東西麓に、二匹の亀の頭部、そして白龜は南麓に当たる場所と推定される。おそらく百濟系帰化人達が開拓した地なのであろう。開拓された土地は急峻な地形ではあるが、肥後國と比べて標高差があり、地形の確認が容易であった。

<山背國:白雉>
山背國:白雉

「山背國」からの献上は、聖武天皇紀に白燕、光仁天皇紀に木連理(但し、言上と記載されて献上されたか否かは不明)の二件のみであった。

古から繁栄した地域、多くの渡来系の人々が住まっていた故に、既に開拓が進捗していたことを示唆しているのであろう。

「白雉」の地形を山背國における未開拓地で探索するのであるが、少々難儀させられてしまったようである。結果的には、図に示した、馬ヶ岳南麓の地にそれらしき場所を確認することができたが、現在の地図上からは決定的なものではないかもしれない。

山背國宇治郡の山奥に当たるが、周辺では称徳天皇紀に登場した笠臣(朝臣賜姓)一族の他は、書紀に記載された人々に囲まれた場所になる。空白の場所であることには違いないであろう。

五月癸巳朔。伊勢國多氣郡人外正五位下敢礒部忍國等五人賜姓敢臣。丙申。地震。癸夘。備前國飢。賑給之。乙巳。有野狐。居于大納言藤原朝臣魚名朝座。丙午。白虹竟天。己酉。從四位上陰陽頭兼安藝守大津連大浦卒。大浦者世習陰陽。仲満甚信之。問以事之吉凶。大浦知其指意渉於逆謀。恐禍及己。密告其事。居未幾。仲満果反。其年授從四位上。賜姓宿祢。拜兵部大輔兼美作守。神護元年。以黨和氣王。除宿祢姓。左遷日向守。尋解見任。即留彼國。寳龜初。原罪入京。任陰陽頭。俄兼安藝守。卒於官。己未。以京庫綿一万屯。甲斐。相摸兩國綿五千屯。造襖於陸奥國。

五月一日に伊勢國多氣郡の人である敢礒部忍國等五人に敢臣の氏姓を賜っている。四日に地震が起こっている。十一日に備前國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。十三日に野狐が出て来て、大納言の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)の朝堂院内の座席に居座っている。十四日に「白虹」(霧やぬか雨などのとき見られる”白色の虹”。もしくは”二つ並んだ虹”?)が天に架かっている。

十七日に陰陽頭兼安藝守の大津連大浦が亡くなっている。「大浦」は代々陰陽を習得した家の出である。「仲満(仲麻呂)」は甚だ信用して、事の吉凶を問うていた。その意向が反逆の謀計に関わっているのを知り、災いが自分に及ぶことを恐れて、その事を密告した。ほどなくして果たして「仲満(仲麻呂)」は反乱を起こした。その年(天平字八[764]年)に、従四位上の位を授けられ、宿祢姓を賜り、兵部大輔兼美作守に任じられた。天平神護元(765)年、和氣王の仲間であるとして、宿祢姓を除かれて、日向守に左遷された。ついで官職を解かれ、そのまま日向國に留められた。寶龜の初め、罪を赦されて入京し、陰陽頭に任じられ、俄かに安藝守を兼ね、在職のまま亡くなっている。

二十七日に京庫の真綿一万屯と甲斐・相模両國の真綿五千屯で、陸奥國に襖(鎧の下に着る綿入れ)を造らせている。

六月癸亥朔。解却畿内員外史生已上。丙子。授无位藤原朝臣勤子從五位下。辛巳。以正四位下佐伯宿祢今毛人爲遣唐大使。正五位上大伴宿祢益立。從五位下藤原朝臣鷹取爲副。判官録事各四人。造使船四隻於安藝國。甲申。遣使祭疫神於畿内諸國。丁亥。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。其畿内諸國界。有神社能興雲雨者。亦遣使奉幣。庚寅。授正六位下大原眞人美氣從五位下。

六月一日に畿内の定員外の史生以上を解任して退去させている。十四日に「藤原朝臣勤子」に従五位下を授けている。十九日に佐伯宿祢今毛人を遣唐大使、大伴宿祢益立藤原朝臣鷹取()を副使、判官・録事をそれぞれ四人任じている。使の乗る船四隻は安藝國で造らせている。

二十二日に使を遣わして、畿内の五ヶ國で「疫神」(疫病神)を祭らせている。二十五日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。日照りのためである。畿内諸國のうちで、よく雲や雨を起こす神社があれば、それらにも使を遣わして奉幣させるようにしている。二十八日に「大原眞人美氣」に従五位下を授けている。

<藤原朝臣勤子-祖子-園人-家刀自>
● 藤原朝臣勤子

系譜不詳の藤原朝臣氏姓であるが、不比等の後裔には違いない。但し、四家系列から外れていたのであろう。同じような人物には乙刀自がいたが、その近辺を中心に出自場所を求めてみよう。

名前の勤子に含まれる「勤」は、既出の文字列である。聖武天皇紀に登場した楢原造東人が賜った「勤臣」に用いられていた。これには別表記があって「伊蘇志臣」と記載されていた。訓読みを示したものであろう。

ここであらためて「勤」=「革+火+土+力」と分解して、地形象形表記として読み解いてみよう。すると、勤=山稜の端が牛の頭部のように二つに岐れて火のように長く延びている様と解釈される。子=生え出ている様であり、出自の場所を「乙刀自」の西隣に見出せる。この後に幾度か女官として登場され、尚膳・従三位で亡くなられたとのことである。

少し後に藤原朝臣祖子が従五位下を叙爵されて登場する。祖(祖)子=段々に積み重なった高台から生え出たところと解釈すると、図に示した、「勤子」の西側に当たる場所が出自と推定される。その後に従五位上を賜ったと記載されている。

更に後に藤原朝臣園人が従五位下を叙爵されて登場する。調べると楓麻呂の子と知られているようである。園人=谷間で丸く取り囲まれたところと解釈すると、図に示した場所を表していると思われる。少々地形の確認が難しいが辛うじて認知できそうである。なかなかに優秀な人物であり、後に従二位・右大臣となったようである。

後の桓武天皇紀に藤原朝臣家刀自が従五位下を叙爵されて登場する。相変わらずの系譜不詳であり、家刀自=豚の口のような山稜の端が[刀]の形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後の消息は不明のようである。

<大原眞人美氣-黒麻呂>
● 大原眞人美氣

臣籍降下後の「大原眞人」の氏姓の人物も、紆余曲折しながらも連綿と登場している。調べると今回登場の人物は「今木(城)」の子、「高安」の孫と知られているようである(こちら参照)。

と言うことで、「今木」の周辺で出自場所を求めることになる。既出の文字列である美氣=ゆらゆらと延びる山稜の前で谷間が大きく広がっているところと解釈される。

図に示した辺りが、その地形を表していると思われる。標高差が、やや少なくなった地であり、特定するには不向きであるが、出自の場所を求められたと思われる。「櫻井」の北側に位置する場所となる。後に地方官などを任じられ、最終従四位下・大膳大夫であったようである。

少し後に大原眞人黒麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。この人物の系譜は伝わっていないようである。名前に含まれる頻出の黒=谷間に[炎]ような山稜が延び出ている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後の消息も不明のようである。